平成

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日本の歴史

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平成(へいせい)は、日本の元号の一つ。昭和の後。西暦でいう1989年1月8日から2009年現在に至るまでの期間を指す。平成13年(2001年)には21世紀世紀の転換もあった。今年(西暦2009年)は平成21年である。

目次

[編集] 改元

今上天皇

今上天皇の即位の為、元号法に基づき平成元年(1989年)1月8日に改元。元号法によって改元された最初の元号である。

「平成」は、改元時の内閣総理大臣竹下登ら政府首脳も決定前から執心していたという(渡部恒三[1]。また、閣僚などを通じ、「平成」や「修文」などの候補が外部に漏れ、幾ばくかの国民の間では予想する事も可能であった。しかし、佐野眞一は『文藝春秋』に載せた記事の中で、的場順三内閣内政審議官(当時)が「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」[2]と発言している。一方、宇野精一目加田誠山本達郎が新元号提案の委嘱があったことといわれ、目加田が「修文」を宇野が「正化」を提案したことを認めている。山本だけが「ノーコメント」を貫いたため佐野は山本が「平成」の提案者ではないかと「断定してよさそうである」と書いている[3]

政府は、昭和天皇崩御を受け、その当日(昭和64年(1989年1月7日)の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と両院正副議長に「平成」「修文」「正化」3つの候補を示し、意見を聴いた。その際、委員の間から「修文(しゅうぶん)」、「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出て、全員一致で「平成」に決まったと伝えられる。このことから、「修文」、「正化」ははじめからダミーの案であったと考えられている。

同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を正式に決定し、14時36分、内閣官房長官小渕恵三が記者会見で発表。

只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。新しい元号は、平成であります

と言いながら新年号を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた。

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。

尚、大正昭和の際と異なり、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサをはじめとするOA化に伴うプログラム等の変更を行うためと報道された。

[編集] 「平成」の出典

「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨の「地(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。元号に「成」が付くのは初めてであるが、「大成」「成化」など外国の年号や13代成務天皇の諡号にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。

江戸時代最末期、「慶應」と改元された際の別案に「平成」が有り、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている。

但し典拠・故実に由来する反対意見に以下のようなものがある。

  • 典拠として史記書経よりも重視するのはおかしい。書経のみを以て典拠とするべきである。
  • 書経の当該部分は、清代中国における研究によって偽書偽古文尚書)である事が確定したものであり、典拠として書経を挙げるべきではない。
  • 平治以来「平」で始まる元号がないのは、平治が戦役によって混乱した時代であったためであり、「平」で始まる元号はこれを避けるのが故実である。また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」に通じる。

なお最終案である「平成」「修文」「正化」の他に、「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したとされる。

[編集] 時代の流れ

[編集] 政治史

内閣総理大臣
昭和57年(1982年) - 昭和62年(1987年)の中曾根康弘内閣を最後に、平成に改元された当時の竹下登内閣以降、短命な内閣が続き、平成13年(2001年)までの12年間に首相が10人、平均の在任期間が1年強という混迷の時代が続いた。この中には日本政治史上記録的な2つの短命内閣も含まれている(宇野宗佑内閣(69日)、羽田孜内閣(64日))。小泉純一郎内閣(平成13年(2001年)4月~平成18年(2006年)9月)が平成初の長期政権で、小泉の首相在任期間は戦後3位(1980日)である。派閥領袖ではない人物が多く首相に就任している。平成21年(2009年)現在、12人の首相のうち、派閥領袖として首相に就任した人物は竹下登宮沢喜一小渕恵三森喜朗麻生太郎の5人のみである。官僚出身者・東京大学出身者は宮澤喜一のみでそれ以外は私大出身者である。また首相就任時の年齢が低下傾向にあるといわれ、平成期では約半数が50歳代で首相に就任しており、海部俊樹細川護熙羽田孜橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三が、50歳代で首相に就任している。ただし、宇野宗佑麻生太郎は60歳代後半で、宮澤喜一村山富市福田康夫の3人は70歳代という高齢で総理就任しており、一慨に総理就任年齢が低下したとは言いがたい。橋本龍太郎、小沢一郎、小泉純一郎、福田康夫といった世襲政治家が多く活躍した。平成6年(1994年)の村山政権以来の首相は全員、世襲政治家が占めている。
政党
平成期は日本新党新党さきがけ新生党新党みらいスポーツ平和党真理党自由連合新進党新社会党太陽党フロムファイブ国民の声民政党新党友愛新党平和民主党自由党保守党保守新党国民新党新党日本新党大地改革クラブ幸福実現党など新党結成・政党合併が相次いだ。平成元年(1989年)、竹下内閣による消費税導入と、リクルート事件による自民党金権汚職への国民世論の反発・農産物の輸入自由化による農民の自民党離れの現象、宇野宗佑首相の女性スキャンダルによる女性有権者の反発などの理由から7月の第15回参議院議員通常選挙で自民党は過半数割れの大敗。社会党が一人勝ちをして参議院は与野党逆転した。土井たか子委員長の女性政策によってマドンナ旋風がおき女性議員が倍増。以後平成期は国会でも地方でも女性議員が増加している。社会党は平成2年(1990年)の第39回衆議院議員総選挙でも勝利したが、自民党も安定多数で勝利した事で政権獲得に失敗する。小沢一郎幹事長のもと自民党政権が竹下派経世会支配で安定する。自民党最大派閥竹下派は平成4年(1992年)に小渕派羽田派・小沢派に分裂。小沢一郎は衆議院議員選挙制度小選挙区への変更で派閥解消・2大政党制選挙・金がかからない選挙・政党本位選挙を目指す政治改革論議を提起した。宮澤内閣不信任決議に賛成して嘘つき解散に追い込んだ小沢一郎は自民党を離党して新生党を旗揚げ、別の政治改革グループが新党さきがけを旗揚げ、日本新党新生党新党さきがけが躍進して新党ブームがおきた。平成5年(1993年)、日本社会党新党さきがけ新生党民主改革連合公明党民社党社会民主連合日本新党が連立した細川内閣が成立。非自民連立政権の成立により、自民党は一時野党に転落して55年体制は崩壊するも、平成6年(1994年)には自民党は社会党との村山連立政権で早くも政権に復帰し、その後は公明党と連立で政権を維持した。政権与党は自民党単独、→非自民・非共産連立政権新生党公明党日本社会党民社党新党さきがけ日本新党社会民主連合民主改革連合)、→(自由民主党日本社会党新党さきがけ自社さ連立政権、 →自由民主党自由党公明党連立、→自由民主党公明党保守党その後保守新党連立、 →(自由民主党公明党自公連立と移り変わり、自民党を中心にした連立政権の時代となった。~平成5年(1993年)の政治体制は、自民党対日本社会党の保守・革新による二大政党制・55年体制。平成5年(1993年)~平成6年(1994年)の政治体制は、多党制による連立政権対野党自民党。平成6年(1994年)~平成9年(1997年)の政治体制は、日本社会党が自民党との連立政権で政策転換、その後衰退・社会民主党に党名変更。自民党対新進党の二大政党制が成立。第三極民主党成立後に新進党が解体する。平成10年(1998年)~自民党対民主党の二大政党制が成立する。小泉内閣郵政解散による選挙で勝利して絶対多数の議席を獲得したが、後継の安倍内閣第21回参議院議員通常選挙で大敗・参議院は再び与野党逆転をしてねじれ国会の構図が成立した。
政治思想・法制度改革
平成期はさまざまな政治改革・法制度改革が行われた。選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制の導入)、政治改革(政治資金規正法政党助成金制度)、行政改革(省庁再編公務員改革)、司法制度改革として新司法試験制度、法科大学院の設置、裁判員制度の導入・少年法の改正が行われた。 有事法制の整備や自衛隊の海外派遣、国旗国歌法の法制化、教育基本法の改正など、保守色の強い政策への抵抗感が弱まり、日本社会党日本共産党など革新勢力は弱体化した。相次ぐ政界再編、政治家のスキャンダルもあり国民の政治不信を呼んだ。そのため、特定の支持政党を持たない「無党派層」が既存政党への支持者を大きく上回っている。政治不信対策・政党政治の復活のため平成15年2003年第43回衆議院議員総選挙から公職選挙法が改正されて、民主党が先駆けてマニフェスト選挙を行った。小泉内閣構造改革の結果、格差社会によって貧富が拡大して、若者を中心に蟹工船ブームがおきて社会主義共産主義思想が再評価されている。
政治家
平成12年(2000年)の中央省庁再編により、官邸主導が強まった。平成13年(2001年)から平成18年(2006年)にかけての小泉政権下では社会保険庁問題・無駄使い・天下り批判がされ脱官僚の声が強まり、政権主導の改革を推進した。しかし、安倍内閣・福田内閣と後継政権の迷走が続き、小泉政権の時のような官邸のリーダーシップが発揮できなくなっている。「竹下派七奉行」「清和会四天王」と呼ばれた戦前・戦中生まれの政治家らが1990年代の政界を主導したが、2000年代に入るとこれらの政治家の多くが死去・引退した。2000年代に入り、戦後生まれの世代(概ね団塊の世代とその下のしらけ世代)が主導権を握りつつある。与野党で戦後世代の党首が誕生している。小選挙区比例代表並立制に選挙制度が変わり自民党民主党の二大政党はサラリーマン化した議員を輩出して、中選挙区制時代のような地主型政治家・労組出身者は激減した。
地方政治
地方では、ユニークな「改革派首長」が登場し、財政再建や過疎対策などに辣腕を振るうようになった。平成11年(1999年)~平成18年(2006年)頃、総務省の政策で平成の大合併による市町村合併が行われて地方自治体は大幅に削減されて多くの市町村が消滅。東京一極集中が再び加速して地方経済の衰退が顕著になった。これに伴い財政再建団体に転落した自治体や医療崩壊に至った地域が現れ問題になっている。

[編集] 経済史

バブル経済の崩壊により経済は停滞期に入った。平成5年(1993年)頃から大学生・高校生の就職難がささやかれるようになり、「就職氷河期」が10年以上にわたって続く。これに伴いフリーターニートの増加が社会問題になった。中高年にもリストラにより解雇された失業者が目立つようになり、経済的理由からの自殺の増加が顕著になった。

平成9年(1997年)の橋本内閣で行われた消費税増税は、バブル崩壊の痛手から立ち直りかけていた日本経済に打撃を与え、企業の倒産・合併・再編が増加した。さらに、この頃から金融機関の含み損が再び表面化して、多額の不良債権を抱えた企業の経営破綻が相次いだ。この反省から小渕内閣では積極財政・景気対策路線がとられ、財政赤字が増大した。

平成13年(2001年)に首相に就任した小泉純一郎によって推し進められた「聖域なき構造改革」以降、銀行の不良債権処理が進み金融機関は健全化して、長く緩やかな景気回復(2002年2月以降)が続き、平成不況からは脱した。この景気拡大はもっぱら外需主導であり、公共投資の縮小及び企業の人件費抑制に伴う労働分配率低下により、内需・個人消費は冷え込んだままである。新興国の経済発展に伴い重厚長大産業を含む製造業の復権が起こった一方、新しい産業としてはIT産業・高齢者介護サービス事業人材派遣業が成長したが、これらはいずれも劣悪な労働条件が問題になっている。

2000年代後半に入ると、六本木ヒルズ族と呼ばれる富裕層が話題を振り撒く一方、非正規雇用の増大(10代後半は約7割が非正規雇用)や、フルタイムで働いても貧困から脱却できないワーキングプアの存在が表面化し、「格差社会」の到来が叫ばれるようになった(新自由主義政策)。平成20年(2008年)に入ると、景気は再び後退し始め、資源価格上昇の中で景気後退が続くスタグフレーションの進行が憂慮された。2000年代は輸出産業である製造業が好調だったが、人手不足は外国人労働者を含む派遣社員を中心に非正規雇用でまかなわれた。そのため、海外市場の減速が製造業を直撃した平成20年(2008年)秋頃から、派遣労働者の解雇・雇い止めをする派遣切りが増加。職を失った派遣社員が大量に寮を追い出されホームレスと化して日比谷公園など全国各地に年越し派遣村が創設された。「100年に一度の不況」とも形容される2008年(平成20年)末からの世界同時不況は、製造業以外の業種にも深刻な打撃を与えており、主に非正規雇用の労働者が解雇・雇い止めの対象となっていて、平成21年(2009年)3月末までに19万人が失職した。

[編集] 教育史

偏差値重視の現行教育制度の改革が進められており、臨時教育審議会の提言で文部科学省はゆとり教育を掲げ授業時間数の削減、教育内容の減少を推進して総合学習の時間を設けた。教育改革として、総合制高校・単位制高校・国際高校・中高一貫高校を新設して、地理歴史科生活科学校設定教科の新設・世界史の必修化・家庭科の男子必修化・社会奉仕体験活動・飛び入学を導入した。学力低下を招いた事から、再び授業数を増やす方針に転換されて、その一環として全国学力・学習状況調査テストを平成19年度から実施した。

教員の資質向上のための教育改革として、教職大学院の創設と検討されたのは教員免許更新制である。これに伴って日本の教育問題として、経済格差地域格差を背景とした能力格差の拡大が表面化している。この原因は公教育機能が低下しているためと言われ、公教育への不信感が増大している。それを補うため、東京都を中心に公立学校選択制の導入や公立学校以外の学習塾私立学校へ進学希望者が増加している。

東京大学学閥が没落した。財界大企業の社長数1位が慶應義塾大学に抜かれて・財界トップの大学から転落して、政界でも宮澤喜一首相以降、東京大学出身の総理大臣は長らく誕生せず、東大卒官僚の不祥事への批判も集まった。

夜間・通信制高校大学大学院社会人高齢者を対象に生涯学習社会になり、情報化社会・知識社会の到来で子ども・青年期以外の全ての世代が教育対象になる。

いじめによる自殺が繰り返し報じられ、問題となる。不登校問題やフリースクールの試みが行われた。団塊ジュニアポスト団塊ジュニア世代については、学校を卒業しても社会に参加しないニート引きこもりといった若者の存在が、メディアで盛んに報道され、問題視されるようになった。これは経済的には1990年代以来の不景気を背景にしているが、学校と実社会の間にギャップがあるという日本独特の問題が潜んでいるとされる。余りに学校社会に慣れた子供は、卒業しても社会に適応することが困難になると言われる。現在引きこもりは団塊ジュニア世代の人々が最も多く(後の世代では引きこもりは減少傾向)、引きこもりの長期化・高齢化が深刻になっている。

少子化の進展で平成17年(2005年)には大学全入時代を迎えて、ブランド大学以外の地方大学、私立大学は定員割れで経営危機に立たされている。親の収入・学歴の高低が子供の学歴の高低に直結する「格差の遺伝」とも言われる現象が広く知られるようになった。一方で、逆に高い学歴を持ちながら生活に苦しむ学歴難民と呼ばれる層も発生している。

1990年代後半(ポスト団塊ジュニアの高校生時代)から、学校に携帯電話が普及。平成生まれ世代に至ると小中学生まで携帯電話を使うようになった。彼らは携帯電話を使ってネットによる情報発信能力を身につけたにもかかわらず、情報リテラシーやマナー教育が追いつかなかったため、ネットいじめが社会問題になった。

またサカキバラ世代(昭和57年度生まれ)の犯罪やポスト団塊ジュニア特に松坂世代から、新成人の成人式の騒ぎで精神的未熟さが問題となった。

平成期は和田秀樹氏の学歴社会受験競争偏差値教育全盛期の新人類世代が受けた戦後教育を肯定して、高学力は子供の発達・将来にとってよいものだとする学力重視思想と、寺脇研氏の脱偏差値・脱学歴社会を目指し個性重視のためゆとり教育を実施すべしとする2つの教育思想対立がある。和田秀樹に対する批判としては、一流大学・高学歴者しか認めないので低学歴者の人間性否定と、経済的階層の固定化がすすむというものがある。寺脇研に対する批判としては、日本人の韓国人化した大学生政策で、日本人の科学技術・経済発展の知識を低下させて、格差社会のなかで世襲・高学歴・高収入の家庭以外の子供を勉強させず負け組にする格差固定政策であるから反対であるというものがある。

小渕内閣教育改革国民会議安倍内閣教育再生会議が設置されて、学校教育法地方教育行政の組織及び運営に関する法律社会教育法の教育改革3法案が成立した。新保守主義による国旗国歌法などの愛国心を謳った教育が主張された。

[編集] 国際関係史

昭和天皇の崩御とベルリンの壁崩壊が同じ1989年(昭和64年)に起こったので、世界史的には、平成は「ポスト冷戦時代」とも言える。

平成3年(1991年)にソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国の全てが独立し、解体された。イデオロギーの退潮に伴って、各地で民族・宗教紛争が顕在化した。平成13年(2001年)のアメリカ同時多発テロ事件以降は、テロリズムの脅威が叫ばれている。一方でソビエト連邦解体後は、旧東側諸国が西側経済に統合され、世界経済の一体化が起こった。アメリカという超大国を軸に、欧州連合(EU)中国ロシア、日本などの中大国がそれに協力したり、地域的な覇権を争って対立もしながらも、ゆるやかな世界統合がなされている。その中で日本は冷戦時と同様に日米関係を外交の基軸とし、湾岸戦争イラク戦争に協力するようになった。

海外ではアジア諸国、中国・インドタイマレーシアなどに急速な経済発展が見られ、それに伴って日本との経済関係も、これまで以上に緊密になった。

このうち、北京オリンピックを行い、上海万博を控え、「四つの近代化」を進めてきた中国は急速に経済的存在感を強め、日本との関係はかつてないほど緊密化した(日本の最大の貿易相手国は中国である)。それとともに、ガス田開発、領土問題などで日本との摩擦が表面化している。また、中国は安全保障上の脅威が無いにも関わらず、1989年(平成元年)から年々軍備増強を強力に推し進めており、日本にとって脅威になっていると言われている(中国脅威論)。

IMFの支援により通貨危機を脱した韓国は左派新自由主義を標榜する盧武鉉政権が登場。折からの2002 FIFAワールドカップ共催、マスコミ主導の韓流ブームと相まって、文化面では友好ムードが表面的には高まった。しかし、政治面では竹島の領有権問題の表面化、首相の靖国神社参拝で冷却化した。しかし、2008年(平成20年)に保守の李明博政権が発足すると、関係改善の動きが見られる。

また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で日本人拉致問題核開発問題が深刻化している。日本政府は拉致問題を解決するために、経済制裁を可能とする法整備を進め、ミサイル発射訓練を機に制裁を発令した。

この他の東南アジア諸国でも自国の経済発展や華僑の人口増加、中国の経済発展に伴って、日本を先頭とした雁行型経済に代表されてきた伝統的な対日依存を見直し、新たな経済大国として浮上した中国や、EUなど他地域との関係を強化する事で、経済の多極化を図る動きがある。

なお、東南アジア地域においては東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成され、東南アジア諸国は共同体形成を模索している。

そのため、東アジア共同体(AU)、およびアジア共同体構想が浮上している。これはEUのアジア版であり、ASEANや日中韓などの各国が共同して立ち上げた大戦略だが、ASEANや日中韓といった地域には人種、宗教、言語、文化、経済力といった地域統合を促す要素に共通性が希薄で、また共同体の主導権を巡って日中が激しく争う向きがあるものの、アジア諸国が日中の二者択一を望んでいないといった理由などで、構想自体が空中瓦解するだろうという見方も少なくない。

この他、国連創設60周年に当たる2005年(平成17年)には、敵国条項の削除と国連安全保障理事会常任理事国入りを目指し、グループ4(日本、ドイツインドブラジル)を結成したが、中国、韓国、さらにはアメリカなどの反対にあって挫折した。

[編集] 文化史

バブル景気全盛期~崩壊期 (平成元年(1989年)~平成5年(1993年)頃)
この時期の風俗は昭和60年代(1985年以降)からの継続という面が強い。バブル世代の若者の間で、ハイレグ水着や、真っ赤な口紅にソバージュやトサカヘアー、太ボディコンという押しの強いファッションが流行した。イタリア料理エスニック料理が定着し、消費の多様化とブランド志向の高消費文化を築いた。また、トレンディドラマ全盛期でもあり(『東京ラブストーリー』、『101回目のプロポーズ』など)、当時の人気俳優を起用したドラマは軒並み高視聴率を叩き出した。宮沢りえをはじめとする女優のヘアヌードが解禁される。ちなみに、バブル期の風俗の代名詞として知られる「ジュリアナ東京」が開店していたのはバブル崩壊期にあたる1991年から1994年で、当時既に時代の最先端から半歩遅れていたディスコだった。情報化社会の到来も叫ばれ、パソコン通信ポケットベルが最も普及したのもこの頃である(1990年代後半にインターネットと携帯電話に置き換えられる)。
平成不況期 (平成6年(1994年)~平成12年(2000年)頃)
バブル崩壊により「右肩上がりの時代」は完全に終焉を迎え、デフレ時代が到来、日本の風俗は大きな転機を迎えた。ファッションの多様化が起こり、アムラー裏原宿系・B系などのファッションが流行した。バブル期の流行から一転して細眉が流行し、1970年代ブーム、茶髪が定着した。中高生が一気にファッションの中心の一部として認知され、コギャルが風俗として注目された。PHSを含む携帯電話パソコンが一般にも普及してゆく。平成6年(1994年)末には少年ジャンプが653万部の歴代最高部数を達成し、平成7年(1995年)頃漫画の売り上げがピークに達した。ビーイング系、小室系ヴィジュアル系流行の最盛期で、平成10年(1998年)頃CDセールスがピークとなる。
21世紀初頭・いざなみ景気期(平成13年(2001年)頃~平成19年(2007年)頃)
緩やかな景気回復期にあったが、一部の富裕層やビジネスマンを除きその実感はなく、格差社会の到来が叫ばれた。行政による福祉サービスの縮小に伴い、漫画喫茶インターネットカフェが低所得者向けビジネスとしての役割を果たすようになった。パソコン・携帯電話などは2000年代に入るとほとんどの国民に普及し、インターネットの利用が一般化した。ブログSNS動画投稿サイトなど、個人が発信者となるネットサービスが新たな媒体として普及していった。これによりCDや漫画を始めとする出版物の発行部数が減少(出版不況)した。一部ではテレビ離れもささやかれ始め、メディア業界の不振が目立つようになった。一方映画ではテレビ局制作作品を始めとした邦画洋画を上回る興行成績を上げるようになり、日本映画の復活が注目を集めた。若年層では、秋葉系おたく文化の浸透が進み、メイド喫茶フィギュアに代表される、「萌え」をめぐる社会現象が盛んに取り上げられた。また、中高年層の間では高度経済成長期や、その前後の時代を懐古する風潮も広がっている。若者のファッションは著しく多様化し、世代全体に広がるようなファッションの流行はもはや見られなくなった。
世界同時不況期 (平成20年(2008年)頃~)
米国発の恐慌が日本を直撃し、少子高齢化・貧困層の増大が進む日本の風俗にも深い影を落としている。インターネット配信・ウェブアプリケーションによる、従来の様々な媒体やサービスの置き換えが進んだ。雑誌の休廃刊が相次ぎ、新聞・広告業界は深刻な不振に陥った。若者のテレビ離れも進み、レジャー産業・メディア産業の縮小が著しい。一方で携帯電話を対象にした各種サービスの成長は著しく、携帯電話からのインターネット利用がパソコンを上回った。

[編集] 女性史

[編集] 歴史学的類似時代

大正時代類似説
憲法制定後初の即位した2代目天皇の時代。明治時代昭和時代の長期時代大革命後の短期改革時代。大正時代は関東大震災・平成は阪神大震災、また大正デモクラシーと平成政治改革、また米騒動や大正文化と秋葉原文化との共通点。
平成享保論
昭和時代を昭和元禄、平成時代を平成享保とする。昭和時代・元禄を高度経済成長時代で平成・享保を経済停滞・政治改革期とする。
これらを江戸の3大改革(享保・寛政・天保)と比較して平成の3大改革とする。
平成維新論
自民党を旧幕府勢力、15代総裁宮澤喜一を15代将軍徳川慶喜として細川連立政権や民主党を平成維新勢力とする。
昭和戦前恐慌と平成不況は恐慌・戦争再現論
60年周期の歴史と世代再現論である。明治時代前期(明治維新期)生まれ世代と昭和時代戦中(軍国教育少年)生まれ世代が近代化後・戦後民主化第1世代で不況時の景気対策を行った共通点。東條英機首相を中心とする明治時代中期生まれ(大日本帝国憲法成立期・日露戦争出陣)世代と・小泉純一郎首相を中心とする戦後占領下世代・団塊世代の軍国主義と格差社会で暴走して軍事・経済敗戦を主導した共通点。明治時代後期(高度経済成長期主導)生まれ世代と新人類世代の教育レベルが向上した共通点。悲劇の世代として共通する、大正世代団塊ジュニア世代の犠牲となった若者世代。 軍国教育の影響を受けた戦中生まれと、ゆとり教育に影響された平成世代と、戦争または不況と形を変化させて昭和時代戦前と平成は共通・再現されている。
人類史 第3革命論
  1. 第1革命 稲作開始、農業革命(弥生時代
  2. 第2革命 工業化産業革命明治時代
  3. 第3革命 IT革命、情報革命脱工業化社会 知価革命
アルビン・トフラー堺屋太一
平成を第3人類革命とする。
出典
  • 平成維新 学説提唱者 大前研一
  • 知価革命・時代が変わった  学説提唱者 堺屋太一 
  • 脱工業化論、アルビン・トフラー
  • 平成享保  学説提唱者 古田隆彦
  • 大正時代を訪ねてみた 大正時代類似論 皿木喜久 現代日本平成のルーツ
  • 世代歴史再現論 長期停滞 金子勝
  • 世代歴史再現論 堺屋太一 著書 団塊の世代 平成30年 世代論
  • 平成の3大改革 政治ブログ

[編集] 年表

[編集] 西暦との対照表

平成 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年
干支 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅
平成 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2008年
干支 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子
平成 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年
干支 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌

[編集] 平成を冠するもの

[編集] 企業・団体

[編集] 文化・芸能・番組名

[編集] 鉄道

[編集] 地名

なお、岐阜県関市(改元当時は武儀町)の地名のみは改元以前の1988年以前も存在していた小字名である。

[編集] 道の駅

  • 道の駅平成 - 上記岐阜県関市の平成(へなり)地区に建てられている。ただし駅名としての読み方は「へいせい」。

[編集] 教育

[編集] 小学校

[編集] 中学校・高等学校

[編集] 大学

[編集] 博物館

[編集] 病院

[編集] 橋梁・トンネル

[編集] その他

平成に改元した直後の平成元年1989年1月には、平 成(たいら しげる)という名前の個人を見つけ出してインタビューする番組も見られた。

[編集] 逸話

  • 小渕恵三内閣官房長官(当時)が記者会見で使用した台紙に平成と文字を墨書きしたのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。記者発表の20分ほど前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され、新元号名を知る。その後、河東自らが用意した4枚の奉書紙にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボール風呂敷で梱包したものが小渕内閣官房長官の元へと運ばれた。河東本人談として、初めて平成と知った時、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうである。また、4枚目を選んだのは上手い下手に関係なく、初めから4枚目を提出するつもりだったとも語っている。新元号を墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められていた。入室した際の同室では数人が別の作業を行っていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書き上げた。作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったそうである(TBSラジオ伊集院光日曜日の秘密基地」より)。河東純一は、平成17年(2005年12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令及び表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した。
    • その『平成』の奉書紙は、平成改元時の内閣総理大臣であった竹下登に贈呈され、現在も竹下元首相私邸に飾られているとのことである。
  • 竹下登首相・小渕恵三官房長官の所属派閥の名前が「経世会(けいせいかい)」であり、「派閥の名前と一文字しか違わない」と陰口がささやかれた。竹下が経世会旗揚げ前に田中派内で結成した集団の名前も「創政会(そうせいかい)」であり、「○○せい」というのが竹下の好みであったのは確かなようである。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 昭和元禄から平成享保 著者 古田隆彦
  • 著者 堺屋太一 知価革命・時代は変わった
  • 平成政治20年史 著者 平野貞夫
  • 平成経済20年史 著者 紺谷典子
  • 平成文化20年史
  • 平成宗教20年史 著者 島田裕巳
  • 学研 漫画 日本の歴史 平成時代
  • きんさんぎんさん百年の物語
  • 日本女性史大事典

[編集] 注釈

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  1. ^ 佐野眞一『ドキュメント昭和が終わった日2 元号「平成」の決定の瞬間』(『文藝春秋』2009年3月号掲載)
  2. ^ 的場は新元号考案の委嘱を受けた人物には諸橋轍次貝塚茂樹坂本太郎の名をあげているが昭和天皇崩御前に物故したため彼らの提案はすべて廃案になったとしている。佐野(同掲文)
  3. ^ 佐野(同掲文)

[編集] 外部リンク

ウィキソース ウィキソース元号を改める政令の原文があります。


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