室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都室町幕府が置かれていた事に由来する。

範囲[編集]

広義では「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏1336年南朝延元元年/北朝建武3年)に建武式目を制定し、1338年征夷大将軍補任されてから幕府を開き、15代将軍義昭1573年元亀4年/天正元年)に織田信長によって京都から追放されるまでの237年間、もしくは235年間を指す。現在、2つの考えが存在するが、学校教育においては、1338年を室町時代の開始とし、1573年までの235年間としている。

狭義では建武新政を含む最初の約60年間を南北朝時代応仁の乱1467年)または明応の政変1493年)以後の時代を戦国時代と区分して、南北朝合一1392年)から応仁の乱勃発または明応の政変までの約75~100年間を室町時代と区分する場合もある。

特徴[編集]

3代将軍足利義満

1336年後醍醐天皇と対立した足利尊氏持明院統(北朝)の天皇を擁立し幕府を開いたが、1392年、3代将軍義満によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した(室町幕府-守護体制)。

義満が京都北小路室町花の御所を造営して以降、歴代将軍を室町殿(むろまちどの)と呼んだことから、その政権を室町幕府、時代を室町時代と呼ぶ(なお、将軍の政権・支配機構を指して「幕府」という言葉を用いるようになるのは後世のことである)。

義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱(1467-77年)ないし明応の政変(1492年)以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、それまでの幕府 - 守護体制荘園公領制が崩壊するとともに、各地に地域国家(戦国大名)が並立するようになる。

室町時代は、鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代でもある。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代として捉えることができる(→下克上)。戦乱が続く時代だったが、経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。初期には倭寇が朝鮮や中国の沿海部を襲った。

また、この時代において、ほんの些細ないざこざ(例えば、頭を下げる下げない、笑った笑わない、等)で民衆或いは武士をも巻き込む大騒動に発展することが日常茶飯事だった(「太平記絵巻」にその様子が描かれている。)といわれ、これには幕府も手を焼いた、という(1432年、金閣寺において、立小便を笑われた僧侶が逆上、大騒乱に発展した、という記録が残されている)。そのため、紛争を解決するために第三者が仲裁役(中人)を務める慣習があった。(中人制

概観[編集]

南北朝内乱期[編集]

1333年鎌倉幕府滅亡後に開始した後醍醐天皇建武の新政は、恩賞や所領をめぐる不満や混乱によりすぐに崩壊のきざしを見せ始めた。諸国の武士たちの衆望は、清和源氏の嫡流である足利尊氏に集まるようになり、後醍醐と尊氏の対立関係が深まっていく。1336年、尊氏は後醍醐を退位させ、北朝光明天皇を擁立し、幕府を開いた。2年後には征夷大将軍の宣下を受ける。後醍醐は京都を脱出して大和国吉野南朝を開き、内乱が長期にわたって繰り広げられる。

南朝方は楠木正成北畠顕家新田義貞ら武将があいついで敗死し、1339年には後醍醐が没する。その後、顕家の父北畠親房が南朝を背負って立つが、各地の武士の勧誘も不調で、その勢力は河内の楠木正行、九州の懐良親王などわずかなものとなった。1348年には正行が高師直率いる幕府軍に敗死。師直は吉野の行宮を焼き払い、南朝はさらに奥地の賀名生に逼塞する事態となる。

ここに内乱の帰趨は決したかに見えたが、幕府では翌1349年に政務を執ってきた尊氏の弟直義と軍功の著しい将軍執事高師直の対立が起こり、やがて守護や諸国の国人が尊氏・師直派と直義派の二派に分かれる全国規模の抗争に発展する(観応の擾乱)。師直は1351年に殺害、直義も1352年に殺害されるが、その後も争乱は続き、南軍は京都に侵攻して北朝の崇光天皇を廃立し、光厳光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致している。九州や中国地方では直義の養子直冬が勢力を拡大し、山陰の山名氏とともに京都に攻め上るなど、反幕府方の抵抗が続いた。

幕府安定期[編集]

1367年、2代将軍義詮が死去し、10歳の義満が3代将軍となった。このころまでに反幕府方の畠山国清大内弘世上杉憲顕山名時氏らが幕府に降っており、九州では後醍醐の皇子・征西将軍懐良親王が中国明朝より「日本国王」として冊封を受けてなお勢力を拡大していたものの、中央の南朝方は抵抗力をほとんど失っていた。管領細川頼之は幼い将軍を補佐し、1368年には南軍の将楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力排除のために今川貞世を派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行い、幕府権力の安定化を推し進めていった。1379年には康暦の政変で頼之が失脚し、後任には斯波義将が就任する。義満は奉公衆と呼ばれる軍事力を整え、有力守護大名の山名氏や大内氏を挑発してそれぞれ明徳の乱応永の乱で追討し、将軍権力を固めて、南北朝合一を行い天皇に迫る権力を確立する。

足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的なものに改める。これは貴族色が強まった義満晩年の政策に反感を抱く武士達の不満に応えたものであった。1423年に実子の足利義量に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。6代将軍は籤引きで選ばれる事とされ、義満の子で僧門に入っていた義円が還俗して将軍足利義教が将軍となる。

足利義満が南北朝合一を達成し幕府権力を絶大にしたものの、義満急死後は大名合議制に戻り相対的に将軍の権力も低下した。更に民衆による土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとってはかつてない事態に遭遇するようになった。そのような中で諸大名にとっても領国統治の必要上、将軍のこれ以上の権威の低下は避けたいとの思惑もあった。比叡山座主であった足利義教がくじ引きで将軍になると、土岐氏赤松氏大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。だが、余りにも強硬な政治姿勢が人々に「恐怖政治」との反発を抱かせ、やがて赤松満祐により義教が暗殺された(嘉吉の乱)をきっかけに将軍の力は衰えた。

その後は幼少の将軍が続いたため有力大名による合議で国が運営された。8代将軍・足利義政は芸術や建築に関しては優れた才覚の持ち主であったものの、政治的関心には乏しく、自然と政治は将軍の正室・日野富子や将軍側近、有力大名らによる権力抗争の場と化し、関東で鎌倉公方の復活を巡って生じた享徳の乱が発生しても、十分な対策を打とうとはしなかった。

義政は子供に恵まれなかったために弟の義視養子として後継者にする予定であったが、富子に息子・義尚が生まれると、後継者を巡って義視支持派と義尚支持派が対立した。前者は管領・細川勝元を後者は有力大名の山名持豊(宗全)を中心に擁して対立を深めた。更に管領を輩出する畠山氏斯波氏でも家督相続を巡る争いが発生して将軍後継者争いと連動を始めたことから問題は複雑化していった。

やがて、両者の対立は全国の大名の兵力(享徳の乱の最中の関東を除く)を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。だが、大規模な軍事衝突にも関わらず、参加諸大名の士気は低く、かと言って勝利の際の利益配分を期待しなかったわけではないため、結果的に首都で延々と11年間も決着が付かない軍事衝突を断続的に行う事になった。そのため、義政がこれ以上の政治参加にあぐねて義尚に突然将軍を譲って引退しても、また両軍の総大将である細川勝元・山名宗全が相次いで病死しても諸大名は兵を撤退させることは無かった。兵を撤退させる事になったのは、余りの長い戦争に耐え切れなくなった領国で不穏な動きが相次いだからである。

結果、応仁の乱は首都・京都を焦土としただけで何ら勝敗を決することなく終結したのである。だが、この乱をきっかけにした戦闘は応仁の乱終結後も地方へと拡大し、関東の享徳の乱も更に10年近く戦いが継続された。

この争いによって幕府の政治的・経済的基盤は崩壊して将軍の権威は名目のみと化した。だが、新将軍・義尚は若くして病死し、引退した父・義政も銀閣をはじめとする東山山荘の造営に余生を費やして、芸術の世界にのみ生きた(とはいえ、義政の芸術保護が後の東山文化発展の基礎となり、後々の日本文化に大きな影響を与えた事は否定できない)。

また、皮肉にもこれまで将軍の権威をないがしろにしてきた諸大名も将軍の権威が本当に失われてしまった事でそこに由来していた守護としての統治権そのものの権威までが失われてしまい、配下であった守護代国人衆による下克上、更には加賀一向一揆山城国一揆に代表される民衆の一揆からもその領国支配を脅かされるようになっていくのである。

戦国期[編集]

応仁の乱で将軍の権威は完全に失墜し幕府の権力は衰退したが、将軍の軍事的な実権はある程度保たれていた。乱のあと、将軍の権威に変わる形で管領細川政元が絶大的な権力者として台頭するようになった。義尚の死後、将軍の座は義視の子・足利義材が継承していたが、義材と対立した政元は、義材と結ぶ元管領畠山政長を討つと、明応の政変を引き起こして義材を追放して足利義澄を新将軍に擁立した。戦国時代の始まりは長らく応仁の乱がきっかけとされてきたが、今日では明応の政変をきっかけにして戦国時代が始まったとする説が有力になっている。

家臣である管領が将軍を廃したこの事件によって政元は細川京兆家による管領職の世襲化と独占状態を確立し、さらに将軍の廃立権をも手中に収めたのだが、その天下も長くは続かなかった。自らの後継者を巡る家中の内紛で殺害されたのである。以後、政元の養子である細川澄元細川高国が後継管領を巡って争いを始めた。これを知った前将軍義稙(義材改め)は、大内義興とともに中国地方の長門から上洛、細川高国の出迎えを受けて将軍位に復した。だが、大内義興が本国情勢によって帰国すると、高国は亡命先で没した義澄の遺児足利義晴を新将軍に擁立して義稙と澄元連合軍を破った。

最終的に澄元の子・細川晴元が高国を倒し、義晴を新将軍と認めその管領になる事で20年以上にわたる内紛に終止符を打った。結局、一連の内紛で幕府そのものが衰微し京都周辺を収めるだけの地方政府へと転落し、辛うじて守護に代わって全国に割拠した戦国大名への権威付け機関としての存在感を示すだけのものと化した。

だが、晴元が政権獲得の最終段階で功臣・三好元長を殺害した事が後年大きく裏目に出る。元長の子である三好長慶兄弟が晴元に対して挙兵、晴元を追放して将軍足利義輝を傀儡化した。長慶は晴元の後任に傀儡の管領を立ててその職権を奪い、相伴衆の一員として幕政の全権を掌握した。だが、その晩年には重臣の松永久秀に実権を奪われて病没した。

この状況を見た将軍・義輝は上杉謙信関東管領)をはじめとする親将軍家の戦国大名の支援を受けながら、将軍権威の再建に努めるが、その矢先松永一派のクーデター(永禄の変)によって暗殺された。

織豊期[編集]

義輝の弟・足利義昭は管領斯波氏の守護代の元家臣である有力武士織田信長の支援を受けて上洛して松永らを降伏させて将軍に就任する。だが、やがて「天下布武」を唱えて新秩序形成を目指す信長と旧来の将軍・幕府中心の秩序の再建を目指す義昭は敵対し、1573年に義昭は信長によって京都から中国地方の備後へ追われた。信長は義昭の子足利義尋を当初は擁立するものの、やがて僧籍に入れ排除した。また、管領・守護などの幕府組織も信長の築く政治機構の内に吸収されていった。

しかし織田家と対立する毛利領に移った義昭は、朝廷からは征夷大将軍職を解任されなかったので、備後から書状や重臣を派遣することにより各地の大名を動員し、信長征討活動を長期に渡って行った。今年までの日本史では、義昭の京都からの下向をもって室町幕府および室町時代の終期と看做されていたが昨今、備後幕府(鞆幕府)の地位が改めて見直され後室町幕府の存在が認められつつある。

信長が自らの重臣によって討たれ、その敵討ちをしたもう一人の重臣である豊臣秀吉が関白太政大臣となったころ、ようやく静かに足利時代は幕を閉じた。→地方情勢については戦国時代 (日本)を参照

経済と社会[編集]

農業[編集]

鎌倉時代から農業生産力が向上する。西日本から関東地方に波及した二毛作の技術や牛馬耕、水車などを利用した灌漑施設の整備や肥料の発達などは生産力を向上させ、さらに農業技術の進歩で集約的・多角的な農業を行い、自立農民の成長を促して郷村制の成立をもたらす。なお、稲に関しては室町時代に今日のベトナムから占城米(当時は中国からの流入であったため「大唐米」等と呼ばれていた)が伝来した点が特筆される。この品種はそれ以前のものより虫害や旱害に強く、結果的に収穫量が多くなった。

室町時代後期になると荘園領主や戦国大名が広域を支配することにより、中世を上回る政治権力と経済力による広範囲の灌漑工事や治水事業などが行われ、新開地の増大や低湿地帯の安定化などにより、生産力が飛躍的に向上したことも大きい。

また、この時期から手工業原料となる胡麻や桑、楮なども栽培される。それまでは輸入に頼るのみであった木綿の栽培も16世紀頃から三河地方において栽培されはじめる。この木綿の生産は帆布としての用途があり、海運事業の面でも多くの利益があった。このほか、枇杷・梨・柿・瓜などの果実類の流通が発展したため、産地名を冠して呼ばれるようになったのも室町時代からである。

手工業[編集]

農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた工人も解放されて自立し、手工業が一般的に行われ市場が成立する。日用品や農具、織物や紙など。今日各地方の特産物と呼ばれるものは室町時代が起源であるものも多く、京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられた。

そのほか、日明貿易の関係上、山口博多などの港湾都市近辺で高級織物が生産されるようになったほか、社寺の建立が地方にも拡大したため、製紙業が大きく発展した事と、製陶業が応仁の乱前後から地方にも広まった点が室町時代の特徴である。

また室町時代前期には大寺社の改修や建立により、後期には戦国大名の城郭・軍船などの建設の関係上、鎌倉時代よりも林業が発達、流通も行われた。天文初年の本願寺修築に土佐国にもとめているほか、天文年間の京の材木座には美濃や飛騨の材木が取り扱われている。

商業[編集]

農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市楽座によって廃止の方向へ向かう。

経済[編集]

標準貨幣は永楽通宝であったが、室町幕府は貨幣を鋳造せずに日明貿易で明銭を輸入して流通させていた。東日本に貨幣経済が浸透しつつあり通貨需要が増大したことで流通貨幣が不足した。勝山記によると1514年、1515年、1516年、1519年、1525年、1529年に銭飢渇という状態に陥ったと記録されている。(要因として10代将軍足利義稙派と11代将軍足利義澄派による政情不安と1523年寧波の乱による私貿易拒否や密貿易取締強化が考えられる。)代替通貨として私鋳銭など鐚銭が大量に流通したが、受取拒否により商取引決済に支障をきたすようになると有力守護大名や幕府は度々撰銭令で規定割合の悪銭の受取拒否を規制した。東日本では永楽銭が好んで流通されたが西日本では明銭は劣化して鐚銭となることから鐚銭同様に嫌われた。特に商人の間では数百年間の流通実績がある宋銭が最も信用され、宋銭を蓄えつつ支払いに明銭や鐚銭を利用して押し付けあうグレシャムの法則が見られた。

都市[編集]

市場の成立や交通の整備は都市の発展を促す。農業生産量の向上が余剰生産物が商品として市場に出回り、それに伴い農村にも商品経済と貨幣経済が浸透していくのが室町前期から中期の傾向である。また、この時代には伊勢詣や西国33ヵ所など寺社参りが流行し、人々の往来が活発になるにつれ宿(しゅく)を中心とした宿場町と言うべき都市が街道沿いに発生し始めた。これら交通の発展はそれに従事する交通業者の発達を促し、宿場町は徐々に大きくなっていく。さらに応仁の乱の戦火などは各種都市の発達をもたらした。

その後、守護大名は城下町を整備。同時に支城を地域支配の拠点とし、本拠地と支城を結ぶ街道を整備することにより、街道沿いの宿場も保護され拡大していくことになる。これらの宿場には通行税である関銭を徴収する一面もあったが、領国内の必要物資の中継・流通拠点ともなり、それに伴う人口の増加は分国経済の一部となったのである。同時に、鎌倉時代にはあいまいな部分もあった都市と農村が区分され、封建社会における身分制の発生の端緒となった。

大阪府堺市)や博多福岡県福岡市)などでは会合衆を中心に自治的な都市運営を行っており、応仁の乱以後は武装して防衛をしており自治的性格を持っていた。中世の代表的自治都市である堺は宣教師も「東洋のベニス」と評価する文書を残しており、織田信長に屈服するまで自治を行う。同じく自治的性格を持っていたのは、一向宗の寺院を中心に形成された寺内町である。代表的寺内町には摂津国石山(大阪府)や越前国吉崎福井県)、富田林(大阪府富田林市)などがある。同じく信長による一向一揆平定で解体する。

鉱山事業[編集]

室町時代、特に戦国時代に入るにつれ、鉱山開発が日本中で積極的に行われた。特に金山・銀山の開発が戦国大名により積極的に行われたほか、史料上初見となる天文二年(1533年)に博多の商人神谷寿禎が石見銀山で行った灰吹法による生産量の向上が特筆される。この灰吹法は、銀山でも有効であったが、それまでは砂金から取るのが普通であった金鉱山の開発にも大きく貢献した。

交通[編集]

貨幣経済の浸透や庶民の成長による地方都市の発達、遠隔地の商品流通や年貢輸送のために街道が整備され、地方文化の交流も活発になる。陸上交通では馬借車借などの陸上輸送業者、海上交通では廻船を用いて輸送や委託販売を行う中継業者の問丸が活躍する。これには鎌倉時代末期頃から行われていた貨幣経済が地方にも浸透して行ったことが大きい。港や街道の要所には幕府や寺社、地方領主らにより関所が設置され、関銭や津料を徴収していた。京都七関など。

対外関係[編集]

倭寇と西洋人来航[編集]

室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。

日明関係[編集]

勘合貿易で倭寇と区別 博多坊津鹿児島県南さつま市坊津町)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。 足利義持が一時停止するが、足利義教が再開。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。

日朝関係[編集]

朝鮮王朝との国交と貿易。足利義満は倭寇を取り締まり朝鮮との交易。

  • 朝鮮通信使・・・足利義満からの使者と国書に対する返礼で1375年に足利義満に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ごろまで続いた。
  • 応永の外寇・・・1419年(応永26年)におきた朝鮮による対馬襲撃
  • 三浦の乱・・・三浦(乃而浦(鎮海市)、富山浦(釜山市)、塩浦)に定住する日本人が反乱。

琉球[編集]

1429年に中山王尚氏が三山を統一して琉球王国を建国すると、明朝の冊封を受けた。国家の経済を貿易に頼る琉球王国は明のほか、朝鮮、マラッカ王国パタニ王国安南アユタヤー王朝などの東南アジアにも及ぶ広範囲で独自の中継貿易を行っていた。1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、室町時代には琉球が「日本」として認識されていた。

北方世界[編集]

鎌倉時代末期には蝦夷の反乱が鎌倉幕府を揺るがし、幕府滅亡後には蝦夷管領安東氏十三湊を本拠地に栄えるが、やがて南部氏の興隆により北州蝦夷地、北海道)に逃れる。北州においては和人大和民族)の居住勢力が広まり、土着のアイヌ民族との衝突が起こる。1457年にアイヌの酋長であるコシャマイン率いる部族が蜂起して、蠣崎氏武田信広らと戦う。

文化・芸術[編集]

北山文化・東山文化[編集]

室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。

室町時代後期、戦国時代になると城郭建築が発展する。初期のものは戦争のための軍事施設としての用途が主目的であったが、領国が広がるにつれ豪壮華麗になっていく。鎌倉時代には寺社のみで使用されていた瓦が城郭に使われるようになり、やがて町屋にも広がることとなった。同時に茶の湯能楽書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。

建築・庭園[編集]

建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、今日の和風建築の原型になっている。このほか、商工業の発展に伴い、洛中洛外図屏風などには庶民の邸宅にも二階建ての家屋が描かれるなど、富裕層の増加を見る事ができる。

連歌・茶の湯[編集]

上句と下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇二条良基宗長心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。この茶道の流行は同時に陶磁器の発展を促した。美濃焼や楽焼など、中世六古窯とは別の、新たな窯業を発生させた。

絵画・彫刻[編集]

絵画では足利将軍家の部下である同朋衆から能阿弥真阿弥らによる山水画や、東山時代に画僧である明兆如拙周文らを経て雪舟水墨画を完成させる。これには文化の担い手に宮廷や公家だけではなく、武家の台頭や武家との関係が強い禅宗寺院の存在が影響している。

狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。これらは仏絵などの宗教画と異なり、世俗的、あるいは芸術的な側面としての絵画の発生と言える。同時に、庶民階級の富裕化により、風俗屏風図や遊楽図など、風俗画というべき絵画も発生している。また、交易の発展による海外の絵画技術の影響が見られる。

彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。他方、鎌倉時代と比べると仏像彫刻が衰退した。旧仏教寺院と禅宗による新仏教寺院との思想の変化や、公家と異なり、武家政権では新たな寺社の建立数が減ったなど、複数の要因があると考えられているが、いずれにしてもこの時代の仏像は慶派のような流派ではなく、個人の仏師が手がけた作例のほうが著名であり、全体としては少ない。その一方、城郭や書院の発達に伴い、建築の装飾彫刻は発展期にあたり、後の桃山建築を特色付ける木彫装飾の原型が室町時代後期に発生した。

また漆工にも高蒔絵や肉合研出蒔絵、切金の技法を蒔絵に応用されるなど、伝統的な蒔絵技法のほかに新しい試みが行われた。蒔絵師の幸阿弥道長は土佐光信の下絵を使ったといわれており、絵画との融合も行われている。

また、武士階級の富裕化に伴い、刀剣の装飾などに使われる鍔の彫金など、金工業も独特の発展を遂げた。八代将軍足利義政に使えた後藤祐乗に始まる後藤家など、一般需要の町彫りとは別種の家彫りと呼ばれる流派の発生である。また、武具には七宝を用いた平田派などが知られるほか、冑の明珍派など、新たな一派が多く発生した。

能楽・狂言[編集]

足利義満の保護を受けた観阿弥世阿弥元清の親子が鎌倉時代から行われていた猿楽田楽能楽として大成させる。世阿弥は「風姿花伝」で芸道論を著す。対話劇である狂言も成立。

民衆文化[編集]

室町時代は惣村の成立や都市の発達により、農民とは別の都市部に住む庶民が文化の担い手になってくる時代でもあった。庶民の間では短編の読み物集である御伽草子が読まれ、狂言や小唄、幸若舞などの庶民芸能が流行する。食文化では、味噌醤油豆腐など日本料理の基本要素が出揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商工業発達によって普及した(醤油の普及はやや遅れ、関西では江戸時代初期、江戸では中期)。

学問と思想[編集]

学問[編集]

室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実和歌、古典の研究を行い、一条兼良東常縁三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。

また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。

宗教・思想[編集]

禅宗は武家層にも広く広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。

浄土真宗蓮如が再興した本願寺教団は、と呼ばれる信徒集団を形成し、応仁の乱の後には守護大名に取って代わった戦国大名に匹敵する勢力になり、一向宗とも呼ばれるようになり、信仰の下に団結して守護大名の勢力と対抗する。加賀国一揆山城国一揆等の一向一揆は守護大名を打倒し、織田信長などは徹底的に弾圧し、大坂の本願寺が落とされて以降は沈静する。信長は日蓮宗の僧と浄土宗の僧と論争をさせる(安土宗論)。

神道では、吉田兼倶吉田神道を創始する。

1549年にはヨーロッパからキリスト教フランシスコ・ザビエルなどによってもたらされている。

史書[編集]

増鏡」は四鏡の最後の史書で、後鳥羽天皇の即位から1333年に配流となっていた後醍醐天皇が京都に帰還するまでの宮廷社会の動向を記している。「太平記」は後醍醐天皇の即位から細川頼之が管領に就任するまでの南北朝時代を扱っており、軍記物語の性格が強く室町時代から江戸時代にかけて太平記よみと呼ばれる物語僧によって庶民にも語られていた。「梅松論」は足利尊氏の正当性を強調して書かれた史書であるが、成立は太平記よりも早く、資料性は高い。「神皇正統記」は、南北朝時代に南朝の北畠親房が関東で勢力を集めるために南朝の正統性を神代から記した所で、のちの皇国史観に繋がるイデオロギー的性格の強い史書であった。「難太平記」は今川貞世が著した史書で、太平記の誤りを訂正しつつ、今川氏の事績を中心に書かれている。「明徳記」は1391年の明徳の乱の経過が書かれている、「応永記」には1399年の応永の乱や南北朝合体の記述が、「永享記」には永享の乱を中心とした関東の情勢が、「応仁記」には足利義政の治世から応仁の乱の様子が記されている。また、江戸幕府幕末に編纂した史書として「後鑑」があり、1333年から1597年に至るまでの史実を編年体で記し、各項目に出典となった各種資料を直截採録する形式となっている。

関連項目[編集]