対馬

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対馬
座標 北端:北緯34度42分
南端:北緯34度5分
東端:東経129度30分
西端:東経129度10分
面積 696.10(属島を含まない)[1]
708.5(属島を含む)[2]km²
海岸線長 915(属島を含む)[3]km
最高標高 648.5m
所在海域 対馬海峡朝鮮海峡
所属国・地域 長崎県

対馬(つしま: 旧字体や古文書では對馬)は、日本九州の北方、玄界灘にある長崎県に属するである。長崎県では最大の島であり、全国においても、本州北海道四国九州の主要4島と北方領土を除いて、第6位である[4]。対馬の大半を占める主島の対馬島(つしまじま)のほか、その周囲には百以上の属島が存在する。一般的にはこの対馬島と属島をまとめて対馬と呼ばれることが多い。古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また日本書紀において対馬島(ただし、三文字引き合わせて「つしま」と読むのが書紀古訓における伝統的な読み方である)と記述されていた。

位置的に朝鮮半島に近いため、古くから大陸と日本とを繋ぐ、文化経済の窓口の役割を果たしてきた。

対馬の位置
対馬の位置

目次

地理

対馬島は、九州本土より玄界灘対馬海峡の東水道をはさんで約132km、朝鮮半島へは対馬海峡の西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5kmである。南北に82km、東西に18km、面積は約700km2

南北に細長く延びる形をした主島 対馬島と、百を超える小島から形成されている。主島の面積は696.29km2であり、すべての島を合わせた面積は、708.61km2である。有人島は、主島・泊島・赤島・沖ノ島・島山島・海栗島の6島である。このうち海栗島を除く5島は橋梁または埋め立てにより結ばれている。

海岸線は、東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域でリアス式海岸が発達しており、海岸線の総延長は915kmに及ぶ。特に中央部と北端部は複雑に入り組んだ海岸線になっている。主島の中央部には、西に大きな浅茅湾(あそうわん)が位置し、東にも三浦湾(みうらわん)などが位置する。特に浅茅湾はリアス式海岸で有名であり、天然の良港となっている。また、風光明媚なため、重要な観光地となっている。海岸には断崖絶壁もまま見られ、高さが100mに及ぶものもある。

主島はかつて一つの島だったが、1672年大船越瀬戸が、1900年万関瀬戸がいずれも人工的に建設され、細長い主島を南北に3つに分離している。過去には南部を上島、北部を下島と呼んだこともあったようだが、現在は、万関瀬戸より北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)と呼ぶ。

主島は山がちで険しく、耕作に適した平地は少ない。また、陸上交通も不便である。対馬島のこのような地形は、人々の生活や歴史に大きな影響を与えてきた。

全体に山がちだが、特に下島の方に標高の高い山が多い。下島の内山盆地(うちやまぼんち)の北には島最高峰の標高648.5mの矢立山(やたてやま)、内山盆地の南部に標高558.5mの龍良山(たてらやま)、下島中央部に標高558.2mの有明山(ありあけやま)、標高515.3mの白嶽(しらたけ)、上島北部には標高457.8mの御嶽(みたけ)が位置する。

地質は、大部分が新生代古第三期に形成された堆積層で、対州層と呼ばれる。また、上島の北部の御岳周辺には玄武岩が、下島の東部には石英斑岩が、下島中央部の内山盆地周辺には花崗岩が分布している。

自然環境

気候

対馬の周りには暖流である対馬海流が流れているため、その影響で比較的平年を通して暖かく、雨が多いという典型的な海洋性の気候を有している。

は日本の西のアジア大陸から吹いてくる季節風が原因で、ゴビ砂漠などの黄砂の影響を多大に受ける。は30℃を超える日は滅多になく、比較的涼しく過ごしやすい。は比較的雨が少なく、は大陸から吹く季節風の影響で寒さが厳しくなる。

植生

島の面積の89%を山林が占めており、島の原始林や杉・大ソテツなどが国や県によって天然記念物に指定されるほど自然が豊かである。また、植物は大陸から渡ってきた植物、対馬のみ生息する植物、日本本土に生息する植物と多種多様に存在し、対馬島の自然の豊かさを演出している。

本来の植生は広葉樹林だが、林業による針葉樹林も多い。

サンゴ礁

対馬の沿岸部には、所々に小規模なサンゴ礁が分布している。2007年には、対馬のサンゴ礁でも白化現象が確認されている[5]

自然公園等

対馬島は、壱岐島とともに壱岐対馬国定公園に指定されている。

龍良山原始林、洲藻白岳原始林、御岳鳥類繁殖地、鰐浦ヒトツバタゴ自生地は、国指定天然記念物である。

主な対馬固有の動植物

ツシマヤマネコ

ツシマヤマネコとは、対馬島にのみ生息する、ベンガルヤマネコの亜種と言われる野生のの一種である。近年は交通事故等の原因により頭数が激減していたため、その保護活動が盛んである。環境省によると、西表島イリオモテヤマネコよりも絶滅のおそれが高いと位置づけている。1949年には非狩猟鳥獣指定、1966年に長崎県指定天然記念物、1971年に国指定天然記念物に指定されている。

詳細はツシマヤマネコを参照。

日本では対馬だけに生息する主な大陸系動植物

環境問題

対馬島の沿岸には、対馬海流によって外国から運ばれたゴミが漂着し、大きな問題となっている。中国や台湾からのものもあるが、その大半は韓国のゴミである。漂着ゴミは、プラスチック製の各種容器・生活廃棄物・漁具類が多いが、テレビや冷蔵庫等の大型ゴミもある。

また、2000年以降は毎年、韓国の養殖業で使用されたと見られる薬品用ポリタンクが大量に漂着している。これらのポリタンクには、塩酸過酸化水素等がハングルで表記されていた。また、実際に薬品が残っていた例もあった。

このような状況を改善する為、韓国から毎年、ゴミ拾いをする為のボランティアが訪問している(後述)。

歴史

対馬市#歴史厳原町#歴史美津島町#歴史豊玉町#歴史峰町#歴史上県町#歴史、および 上対馬町#歴史も参照。

古代

建国神話である『古事記』では、最初に生まれた島々の1つとして「津島」と記されている。また『日本書紀』には「対馬洲」「対馬島」と記されている(国生み)。

対馬島は古くから大陸との交流があり、歴史的に朝鮮半島に近い地理的関係から両国の中継地として日本と大陸との接点となった。

魏志倭人伝(正式には三国志・魏書・東夷伝・倭人条)にはの一国として倭国の北岸の「狗邪韓国」の次に「対馬国」として登場する。対馬国は邪馬台国に属しており、他の倭の国にも見られる卑狗(ヒコ)という大官と、卑奴母離(ヒナモリ)という副官が置かれ統治していた。そこには千余戸が有り、人々は海産物を採集し、南北に交易を行って生活したと記されている。

古墳時代初期に築かれた出居塚古墳前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃管玉鉄剣部分等が出土。前方後円墳は大和地方で発達した古墳の形態で、出土した有茎柳葉式銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品であり、この時代にすでに対馬は大和朝廷の強い影響下にあったことを示している。島の首長について『先代旧事本紀』の「国造本紀」に津島県とある。古墳時代は大和朝廷が度々朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代といえる。こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載により知る事ができる。中でも特に対馬の地名が具体的に登場するのは、日本側の記録としては『日本書紀』に、対馬北端の和珥津(わにのつ 現在の鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させた上、屯倉を設置したと書かれてある。また、朝鮮半島側の記録としては、『三国史記』に、第十八代・新羅王・実聖尼師今・治世七年(408年)、倭人が新羅を襲撃するために、対馬に軍営を設置し軍備を整えていた事が書かれている。このように対馬は大和朝廷による朝鮮半島出兵の中継地として重要な役割を担っていた。

663年白村江の戦い以後、倭国は、新羅の侵攻に備え、664年、対馬に防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8ヶ所設置される。防人は東国から徴発された。667年には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞となる。このため国府や、多くの神社などがおかれていた。674年 厳原(いづはら)に国府を置く。674年 対馬国司忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出したを朝廷に献上。これが日本で初めての銀の産出となる。 701年対馬で産出したと称するを朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって日本最初の元号大宝」が建てられた。741年聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬国分寺建立。

平安時代には、894年新羅の賊船大小100、約2,500人が佐須浦(さすうら)に攻めてくるが撃退する。1019年正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、刀伊の入寇と呼ばれるようになる。

中世

12世紀には宗氏の始祖・惟宗(これむね)氏が対馬に入国する。惟宗氏は、元々太宰府の官人であったが、筑前宗像郡から対馬に来た。1196年宗家の始祖・惟宗氏の名前が、対馬の在庁官人の中に初めて見られる。対馬守護地頭少弐氏の代官として次第に島での実権を握り、武士化する。それまで対馬では阿比留(あびる)氏が勢力を持っていた。阿比留氏は当時国交がなかった高麗と交易を行っていた。太宰府は咎めたが、従わなかったため、1246年大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知(けち、美津島町)を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討し対馬の支配を確立する。

鎌倉時代には、2度に渡るモンゴル帝国)とその属国高麗による日本への侵略(元寇)を受ける。対馬はその最初の攻撃目標となり、受難の時を迎える事となった。1274年蒙古兵25,000人、高麗兵8,000人及び水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦に殺到する。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃する。しかし兵力の差は如何ともし難く、勇戦及ばず玉砕した。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえ付たという。これが文永の役である。1281年に二度目の日本への侵略弘安の役が起こる。元・高麗軍の陣容は、東路軍(合浦→現在の馬山市より侵攻)蒙古兵15,000人、高麗兵10,000人、水夫等17,000人。江南軍(寧波より侵攻)旧南宋兵100,000人。弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、《其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。》と記されている。

元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の一つとなっていた。1366年高麗が倭寇と海寇の取締を要請すると、宗経茂はこれに答え高麗との通交が始まるが、1389年慶尚道元帥朴ウィに率いられた高麗軍が、激化していた倭寇討伐のために対馬に来襲。倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出した。

朝鮮半島で高麗に変わり李氏朝鮮が成立すると、宗氏は引き続き李氏朝鮮と通交するが、1419年6月倭寇征伐を大義名分とした応永の外寇が起こる。李氏朝鮮は兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、続いて小船越を襲撃し、更には、仁位浦に進撃して如加岳(糠嶽 ぬかだけ)で対馬の兵と激戦となる。朝鮮軍は対馬側の待ち伏せなどの反撃により損害が大きくなり膠着状態に陥った為、対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。

1433年主家の少弐嘉頼周防大内氏に敗れ対馬に逃れ来て三根の中村に居を構える。これにより小弐氏・宗氏と共に筑前を失った。 1443年宗氏は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮の官職を受け、歳賜米200石を支給されて、朝鮮に来航する日本船に文引(許可証)を発行する役割を与えられた。

1510年、朝鮮在留日本人が朝鮮との居留人数に関する約定を破り、これに朝鮮側が貿易統制を加えたところ、在留日本人と宗氏が反乱を起こすが、対馬当主の子息宗盛弘を大将とする在留日本人と宗軍の合計約4,000~5,000名の軍勢は、朝鮮軍に大敗し、熊川宗盛弘は戦死した(三浦の乱)。

近世

1587年(天正15)豊臣秀吉九州征伐に際して宗氏は事前に豊臣秀吉への臣従を決定し本領を安堵された。1590年、従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後その官位が宗氏の慣例となる。

朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立ち1591年(天正19)厳原には金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれ中継基地となる。対馬からは宗義智が5,000人を動員。宗義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍の中でも最先鋒部隊である小西行長の一番隊に配属。1592年(文禄1)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し釜山漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略する。このように常に日本軍の先頭に立って李氏朝鮮やと戦い活躍した。また義智は戦闘だけでなく行長と共に日本側の外交を担当する役割も担い折衝に当たっている。義智は1600年の関ヶ原の戦いに際しては西軍に加わり伏見城攻撃に参加。大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を代理として参加させた。西軍敗北後徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなる。

宗義成の代に、大坂の陣に参加。柳川事件起こる。島原の乱に参加。佐須鉱山再掘。

江戸時代は宗氏が引き続き対馬を支配した。これを対馬府中藩(通称対馬藩)といい、参勤交代制度に基づき3年に一度江戸征夷大将軍の元に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて行き来した。外交面では鎖国体制の中、朝鮮通信使を迎える等の、日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝の中央権力から釜山で倭館貿易を許されていた。

以後、宗氏は改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、維新後伯爵となり華族に列した。

近代

江戸時代後期の1861年にはロシアの軍艦が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こり、5月には外国奉行小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックがロシア軍艦を退去させた(対馬事件)。

1871年、廃藩置県により厳原県となり、その後一時伊万里県へ編入された後すぐに長崎県へ編入された。

14世紀後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に忠誠を誓ってきたが、朝鮮から官職を与えられ、特殊な役割を果たして来たことも事実である。ある日本史研究者はこれを対馬の境界性と表現している。

対馬要塞

近代にはロシア、イギリスによる対馬への接近に脅威を感じた日本政府、軍は国境最前線である対馬島の要塞化を図った。豊、竜ノ崎、竹崎、海栗島などに砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体を防衛できるほど整備された。特に豊砲台には、軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40cm連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」の30cm連装砲塔が設置された。豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。

また、対馬および周辺海域を防衛する部隊として陸軍対馬警備隊海軍竹敷要港部が置かれた。戦後の自衛隊でも陸上自衛隊対馬警備隊海上自衛隊対馬防備隊航空自衛隊第19警戒隊が置かれている。

行政区画の変遷

1889年の市町村制度施行の際には上県郡に5村、下県郡に9村が発足した。その後合併や町制施行などを経て上県郡(峰町、上県町、上対馬町)と下県郡(厳原町、美津島町、豊玉町)の26町体制となっていたが、2004年3月1日に対馬のすべての町が合併して市制施行し、対馬市の1市体制となった。

詳細は対馬市#歴史を参照。

朝鮮半島との関係

一部韓国人の領有権主張

第二次世界大戦後日本を占領した連合軍総司令部 (GHQ) に対し、韓国李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても日本からの割譲を要求したが、GHQから「根拠がない」として一蹴された。

現在の韓国政府は李承晩政権時代のように対馬領有を主張しているわけではないが、現在でも韓国内には領有権を主張する人間が存在し、2005年3月18日慶尚南道馬山市(マサン)市議会は島根県議会の「竹島の日」に対抗すると称して「對馬島の日」(대마도의 날)条例を在籍議員30人のうち出席議員29人全員が賛成し可決した。条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定している[6]。 これに対して韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請している。対馬市議会の波田政和議長は2006年10月6日、馬山市議会に『対馬島の日』条例の廃止措置を打ち出す事を要請した。これに対して馬山市議会は、「対応する価値がない」と条例を廃止しないことを明確にした[7]

李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟が1471年に編纂した『海東諸国紀』は日本国対馬島の図を掲載し、本文では対馬島を日本国西海道に属すとして島内の事情を詳述している。ただ、16世紀に刊行された朝鮮の地理書『新増東国輿地勝覧』の「八道総図」には対馬が朝鮮領とする記述は存在しないが、地図には朝鮮に隣接する領土外地域も共に描かれており、北方国境である鴨緑江豆満江北側のの領土が地図内に描かれていると共に対馬も地図内に描かれている。これを「八道総図」で対馬が朝鮮領として描かれていると解釈する見方も朝鮮・韓国内には存在する。


韓国語版wikipediaの대마도의 날(対馬の日)及び대마도의 날 조례안(対馬の日条例 内容)も参照のこと

韓国での対馬の呼称

韓国では昔から対馬のことを漢字表記の「對馬島(對は対の旧字体)」をそのまま読んだ「대마도(テマド)」と呼んでいたが、現在では、韓国政府の公式に出版する資料には、日本の「つしま」の音読みをあてて、쓰시마(つしま)(島)と表記される。

交流

対馬は1990年代頃から、日韓交流の拠点となるべくイベント等さまざまな活動を行っており、中でも対馬アリラン祭が有名。他にも国境マラソンin対馬対馬ちんぐ音楽祭などがある。さらに島内の殆どの道路標識に朝鮮語を併記するなど観光客の誘致に力を入れている。また、対馬島内の複数の中学校が韓国内の中学校と姉妹校縁組を締結しておりホームステイなどの交流をおこなっている。対馬市は釜山広域市の影島区と姉妹都市提携を結んでおり、釜山市内に市の事務所を構えている。

1999年厳原港/比田勝港‐プサン港間の定期船航路が開設されてからは、多くの韓国人観光客が対馬を訪れるようになった。しかし、最近では外国人には禁止されている撒き餌漁を行う、騒々しい、公衆浴場における入浴マナーがなっていない、店の商品を支払いも済ませぬうちから開封し、あげく購入しない、飲食店にキムチを持ち込みなおかつ大して飲食せず居座るなど一部の韓国人観光客のマナーの悪さが島内のみならず本土でも問題となっており、報道番組で特集が組まれたことも複数回ある。壱岐対馬国定公園内に韓国の国花であるムクゲを無許可で植栽し逮捕者を出すなどの問題もおきた。一部では韓国人受け入れ拒否の声も挙がっている[8]

対馬に流れ着いた漂着ゴミを減らす為、毎年、日韓合同で対馬北部の海岸の清掃(ゴミ拾い)を実行している。

しま交流人口拡大特区

長崎県が対馬全域を「しま交流人口拡大特区」として構造改革特別区域提案・申請し、2003年11月28日に認定された[9]。この認定により、以下の事業が可能になった[2]

  • 韓国人団体旅行者などが短期滞在型査証の発給を受ける場合、その手続きが簡素化される。
  • 長崎県立対馬高等学校国際文化交流コースにおいて、学校設定単位として、韓国との関係を重視した教科・科目を25単位設置する。

韓国の侵略的言動

2007年7月、金成萬(キム・ソンマン)前韓国海軍司令官は、対馬軍事侵攻計画を立案すべきと韓国政府に求める内容の寄稿文を著した。[10]

交通

島内交通

道路は、比田勝(上島北東岸)~上島の西部~下島の北部東岸~厳原(下島東岸中部)に至る国道382号と、厳原から下島を時計回りにほぼ一周して鷄知(下島東岸中部)に至る長崎県道24号厳原豆酘美津島線、上島東岸沿いを走る長崎県道39号豊玉上対馬線が南北の軸となっている。主要地方道はこの2路線の他に4路線、一般県道は9路線がある。

公共交通機関は、バス対馬交通)、タクシー、浅茅湾内を運航する市営渡船がある。

島外への交通

航空

船舶

国内航路
国際航路

脚注

  1. ^ 離島振興対策地域一覧(平成18年3月31日現在)PDF5p
  2. ^ a b しま交流人口拡大特区構造区域特別区域計画PDF
  3. ^ 対馬市市勢要覧PDF3p 島のプロフィール
  4. ^ 国立天文台(編) 平成19年 理科年表 p.565 ISBN 4621077635
  5. ^ 水と緑のキャンペーン2007 | KBC九州朝日放送
  6. ^ 朝鮮日報 2005/03/18 19:34:42馬山市議会が「対馬島の日」条例を可決
  7. ^ NAVER/釜山日報 2006-11-02 12:42
  8. ^ [1]
  9. ^ 構造改革特区について(長崎県)
  10. ^ [2]

参考文献

  • 講談社『日本の歴史ー14、周縁から見た中世日本』第3部「海域世界の交流と境界人」第1章「境界としての対馬島と喜界ヶ島」(高橋公明、2001年)

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズ