李承晩

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李承晩(イ・スンマン)
이승만
Rhee Syng-Man in 1956.jpg
1956年

任期: 1919年 4月10日1925年

任期: 1947年 3月3日1948年 8月15日

任期: 1948年7月20日1960年4月26日
副大統領: 李始栄1948年7月24日 - 1951年5月9日

金性洙1951年5月17日 - 1952年5月29日
咸台永1952年8月15日 - 1956年8月14日
張勉1956年8月15日 - 1960年4月23日


出生: 1875年3月26日
Flag of Korea 1882.svg 大朝鮮国黄海道
死去: 1965年7月19日(満90歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル
政党: 韓国民主党自由党
配偶者: フランチェスカ・ドナー
サイン: Syngman Rhee Signature.svg
李承晩
1909年
各種表記
ハングル 이승만
漢字 李承晩
発音: イ・スンマン
日本語読み: り・しょうばん
ローマ字 Syngman Rhee 別表記としてI Seung-man 等。
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李 承晩(イ・スンマン、り・しょうばん1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫全州李氏は「雩南」(ウナム、우남)。は「承龍」(スンニョン、승룡)。

日本ではかつて「り・しょうばん」と日本語式に読まれることが多かったが、1990年代以降は韓国語読みの「イ・スンマン」が一般的に用いられるようになった。北朝鮮では「・スンマン」と呼ばれるが、これは韓国では語頭子音の脱落が起こるためである(朝鮮語の南北間差異参照。)。韓国でも1950年代以前には「리승만・スンマン)」と綴られていた(英文での本人の署名も“Syngman Rhee”となっている)。

目次

生涯 [編集]

出自から独立運動 [編集]

李承晩は黄海道平山郡の没落両班の家に生まれた。全州李氏。族譜では太宗の長男で世宗の兄である譲寧大君の16代末裔である[1]

投獄中の李承晩(1899年、前列左端)

1896年に設立された独立協会にも参加したが、時の親露派政権が高宗皇帝に讒言したため、1898年11月には独立協会の解散、指導者の逮捕が命じられ、独立協会は同年12月、強制的に解散させられた。李承晩もこの時逮捕され、拷問を受けながら1904年まで獄中にいた。

同年の日露戦争の勃発後に日本が軍事的・外交的・経済的に大韓帝国に浸透するのに危機感をいだいた高宗などが、1882年朝米修好通商条約の第1条の「周旋条項」に基づいて、アメリカに韓国の独立維持のための援助を求めるため李承晩を釈放し、アメリカに派遣した。ハワイを経由して、アメリカに渡った李承晩は1905年8月、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出したが、ルーズベルトは、請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。それを受けて李承晩は駐米韓国公使館に赴いたが、公使館は既に日本が押さえており、請願書をルーズベルトや国務省に送付することを拒否されたため、李承晩のルーズベルトへの要請は失敗に終わった[2]

その後李承晩はアメリカに残り、ジョージ・ワシントン大学ハーバード大学を経てプリンストン大学博士号を取得した。なお、ジョージ・ワシントン大学における成績は、平均「C」と低い成績だった(Cの下はFで落第)が、上記のように修士課程を修了し博士号を取得した。大学院卒業後の1911年(明治44年)に帰国するが、当時の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件(韓国では「105人事件」と呼ばれている)の関与を疑われ、再び渡米した。アメリカに渡る途中に日本へ立ち寄り、下関京都東京に観光のため滞在し、鎌倉市で開催された韓人学生大会にも参加した。

渡米後の1913年(大正2年)に、ハワイのホノルルに居を構え、学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。

臨時政府の活動 [編集]

金奎植(右)とともに

そして、長年の功績が他の独立運動家たちによって評価され、上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に就任し、その後、臨時政府大統領となった。中国人の服を着て棺に入り、密航して上海に入境した。上海臨時政府は、短期的にではあれ、朝鮮独立のための統一戦線として左右両翼を糾合できたという点で独立運動における画期的な存在であった。その初代大統領であったということが有名だった李承晩を後々さらに有名にした。しかし、李承晩は、臨時政府発足後に左派の李東輝と対立するや早々と上海を去った。さらには1919年(大正8年)の三・一独立運動勃発の直前の同年2月、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領およびパリ講和会議のアメリカ代表団に宛てて設立が確定的だった国際連盟による朝鮮の委任統治を独断で請願していたことを理由に臨時政府内で弾劾されるにまで至った。以降はアメリカでのロビー活動に専念した。

大韓民国建国まで [編集]

ソ連軍政長官と。
左から李承晩・金九一人おいて安在鴻

1945年8月に第二次世界大戦において日本軍が連合国軍に降伏したことから、朝鮮半島は北はソ連に、南はアメリカによって管理下に置かれることとなった。その2ヵ月後の1945年10月に李承晩は帰国し、独立建国運動の中心人物となった。彼は当時すでに70歳であり他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府(以下「臨政」)の初代大統領であった[3]こと、朝鮮建国準備委員会(以下「建準[4])に名を連ねたことがある[5]こと、アメリカでのロビー活動によってとりわけ有名であったことから、当初から大統領に就任すべき正統性を備えているとみなされていた。しかし、李承晩は帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。朝鮮には強力な右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。

李承晩は名声を享受し続けていたものの、実際には外国に滞在していた要人に過ぎなかった。そのため地盤も基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが全羅道を本拠としていた金性洙率いる湖南財閥[6]と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党建準に対抗して臨政を支持していた。一方で、李承晩自身は連合国が決定した朝鮮の信託統治案に反対していた。

しかし、アメリカ軍政はおそらく当初の予定どおり李承晩を支持し、彼と韓民党を仲介した。臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する[7]。両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李承晩の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促、後の大韓独立促成国民会)を発足させた。このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という3つの政府組織(政府準備組織)が存在することになり、ソウルは大混乱に陥った。

李承晩と韓民党の連合は建準で勢力を誇っていた左派と、その他の臨時政府出身者に対抗し、解放直後のソウル政界で主導権を握った[8]

大韓民国政府樹立国民祝賀式

アメリカ軍政が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国連監視下での総選挙に臨んだ(初代総選挙)。この選挙は大反対の中で強行された。各地で反対派による武装闘争が展開された。選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が済州島四・三事件である。済州道では選挙を妨害する左派と政府軍との間で衝突が続き、内乱に近い状態に陥った結果、数万人の島民が犠牲になった。

総選挙によって李承晩と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。

1948年8月15日アメリカ合衆国の後押しで大韓民国が建国された。李承晩は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。政権は地主・資本家および大日本帝国統治下官僚[9]を勢力基盤としていた。

政治的対立 [編集]

李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立派は多くの場合、反体制派というよりもむしろ議会政治家たちであった。

最初の対立は大統領制を採り続けるか議院内閣制を採用するかを巡って起きた。李承晩を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李承晩により覆され、大統領中心制へと転換される[10]

初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。しかし、李承晩は続いて李範奭を国務総理に任命、110対84で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。

1949年には反李承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党(民国党)が生まれた。民国党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕趙炳玉らがリーダーとなった。民国党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。

朝鮮戦争 [編集]

金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー将軍を歓迎する李承晩。

1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国が韓国に圧倒的な戦力で攻撃を開始、朝鮮戦争が勃発した。北からの侵攻を予想だにしなかった韓国軍は瞬く間に総崩れになり、李承晩も開戦2日後の6月27日午前3時に特別列車でソウルを脱出。政府を水原に移すと共に、自らは大邱に避難するもソウル北方の防御戦で北朝鮮軍を食い止めているとの情報を受けて大田まで戻った。しかし7月1日に大邱や大田にも北朝鮮のゲリラが浸透しているとの情報を受け、ジープと列車で木浦まで向かった後、海軍警備艇に乗船。翌7月2日の昼前、釜山に到着した[11]。李承晩自身は大統領就任前から「北進統一」を主張していたが、いざ南北で軍事衝突が起こると漢江にかかる橋を爆破(漢江人道橋爆破事件)して少なからず軍民を置き去りにして自らが先に後方へ退避し[12]、また米軍や韓国軍上層部とも齟齬を来たすなどして寧ろ厄介者扱いされることになった。マッカーサーの「仁川上陸作戦」以降は朝鮮戦争も東西冷戦下の代理戦争の様相を呈し始め、李承晩の存在感は徐々に薄れていき「李承晩が朝鮮人民軍に捕まった」と言う噂までが流れる始末だった。

朝鮮戦争初期に韓国に侵入した北朝鮮兵は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李承晩が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の在日朝鮮人の義勇兵が混ざっていた。李承晩が朝鮮語で慰問の言葉をかけたところ、その在日韓国人義勇兵はとっさの事で、朝鮮語が思い浮かばず、日本語で返事をした。李承晩は思いもかけない言葉で返事が返ってきたので「日本が密かに兵を送っている」[13]として、日本に対して抗議する声明を出したというエピソードがある[要出典]。なお李承晩は1953年1月5日から7日までの間、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将の招きの形で非公式に訪日し[14]、1月6日にクラークの公邸で吉田茂首相と約1時間対談した。内容は未だに明らかではないが険悪なやり取りであったとされる[15]

李承晩がエキセントリックな再登場を果たすのは、1953年、国連主導による休戦提案が出始めてからである。「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」を口に最後まで休戦に反対し、北進統一論に基づいた朝鮮半島の民主主義による統一にこだわった。しかし、それを尻目に国連は粛々と休戦への道筋を作り、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。すると李承晩は、6月18日にアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから、国際世論の非難が高まった。そればかりか、李承晩は北朝鮮内の中国人義勇兵が完全に排除されることも望み、早期休戦を望む国連軍/アメリカと激しく対立した。7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。

ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。

神谷不二『朝鮮戦争』

しかし、あまりにも尊大で強引な李承晩は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。李承晩はやむなく休戦に同意し(署名はしていない)、7月27日に朝鮮戦争は休戦した。休戦後も李承晩はアメリカ議会に出向き、「北進統一」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。

朝鮮戦争期の政争 [編集]

湖南財閥から韓民党への資金供給を断つべく、湖南財閥の中核・京城紡織(京紡)の預金引き出しを停止する。このために京紡は李承晩派に資金供給先を変更し、韓民党は強力な経済的基盤を失うこととなる[16]


1952年になると再び議会との対立が激化した。政府は釜山に撤退していた。任期切れを控えていた李承晩は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を上程した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李承晩は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した。1952年7月4日、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。この頃までに李承晩派は自由党を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李承晩の排除を考え始めたと言われている。国民防衛軍事件居昌良民虐殺事件によって韓国陸軍本部では李承晩に対する反感が高まっていた[4]

独裁者・「貴いお方」 [編集]

1957年に発行された1000ファン紙幣

1954年当時の憲法では、大統領の任期は二期までで、三選は出来ない事になっていた。しかし、生涯大統領を望む李承晩及び与党自由党は「初代大統領に限って三選禁止規定を撤廃する」という改憲案を提出した。11月27日の国会投票では、議員203人中、賛成135票、反対60票、棄権7票、無効票1票という結果になった。可決には議会の3分の2に至る135.33票以上、136票が必要だった。わずか1票届かず、改憲案は否決されるはずだった。しかし、李承晩派の国会議長は、135.33票とは社会通念上の概念である四捨五入を用いれば135票であり、改憲に必要な3分の2を超えているとして改憲案の可決を宣言した(四捨五入改憲)。

1956年、李承晩が三選を狙った大統領選挙に際して、民国党を中心とする野党勢力は「もう生きられない、(政権を)変えてみよう」をスローガンに統一戦線を組み、「民主党」を結成した。一方、自由党は「替えたところで、変わらない」というスローガンで対抗した。

民主党は大統領候補に申翼煕、副大統領候補に張勉、自由党は大統領候補に李承晩、副大統領候補に李起鵬という布陣だった。

選挙直前の5月5日、民主党の大統領候補・申翼煕が遊説に向う途中の列車の中で脳溢血で倒れ、急死するというトラブルがあり、民主党は副大統領候補だけの選挙を余儀なくされた。官憲の介入もあり、選挙の結果、李承晩は大統領三選を果たしたが、副大統領の李起鵬は民主党の張勉に敗北。大統領が与党、副大統領が野党という一種のねじれ現象が起きた(1956年大韓民国大統領選挙を参照)。

高齢の李承晩に万一の事態が起これば、副大統領の民主党の張勉が繰り上げて大統領になるため、自由党は危機感を抱いた。同年9月28日には退役軍人による張勉副大統領暗殺未遂事件[17]を起こし、1959年4月30日には張勉系の野党紙「京郷新聞」を廃刊処分にするなど、李承晩は徹底的な政敵潰しを行った。同年7月には長年の政敵であった曺奉岩[18]を処刑している。

李承晩はフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石を養子に迎えた。李康石は1957年ソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし李承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし[19]、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。

1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。

この風潮に便乗する格好で、1957年8月末に姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の道知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、かねてからの李康石への無法への反感や政権への不満感から「貴いお方」という言い回しが流行語となった[20]

1958年、大統領選挙での自身の当選が不可能と判断すると有力な対立候補であった曺奉岩を逮捕し処刑する(進歩党事件[21]

1959年12月4日には、日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした。

失脚 [編集]

李承晩の独裁に対して蜂起する市民(1960年4月19日)

1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した(1960年大韓民国大統領選挙を参照)。

1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。4月11日、このデモを見物に行きそのまま行方不明になっていた高校生・金朱烈が、馬山の海岸で頭に催涙弾を打ち込まれた状態で遺体で発見された。市民・学生などは、当局に彼の死因を究明する要求を掲げ、再度デモを行ったが、当局は再び「デモは共産党主義者の扇動」とこれを鎮圧し、デモの主導者を逮捕した(馬山事件)。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み(帰宅途中に暴漢に襲われ、多数の負傷者が出た)、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。

4月20日ウォルター・P・マカナギー駐韓アメリカ大使英語版が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワーの訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。このとき、学生代表5名と会見した李承晩は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した。(金大中『私の自叙伝』)翌4月26日には、パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後の4月28日に、李康石が一家心中を図って李起鵬一家を射殺、自らも命を絶った。

亡命する李承晩(左から二人目)
左側に過渡政権首班・許政

李承晩は5月29日早朝に夫人を引き連れ、金浦国際空港からアメリカ・ハワイ亡命した。見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。1965年7月19日、その地で李承晩は90年の生涯に幕を閉じた。因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後、故郷であるオーストリアを経て、1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。

評価 [編集]

李承晩の政策は彼個人の反共を軸にした「反共に執心して全く見えていない」物で、まず南半部による単独政権を樹立してから、軍事力による北半部の併合を構想した(北進統一)。建国された朝鮮民主主義人民共和国を国家として認めず、反国家団体による不法占拠であるとしたうえで、大韓民国は朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとし、国連もこれに従った。

朝鮮戦争の前後から、反共政策・プロパガンダは激しさを増し、激しい戦禍を経験した韓国社会には共産主義者を敵視する強い反共意識が芽生え、これはほぼ国民的合意となった。

建国の父となるべき反共の大統領・李承晩は、生涯大統領を望み、次第に非民主的・権威主義的な性格を現し始めた[22]。大統領であり続けるために憲法改正の強行や選挙への不正介入を繰り返し、国会での政敵や選挙の民主化・不正の真実を求める民衆を「容共的」「北のスパイ」「平和統一論を唱えた」「パルゲンイ(共産主義者の蔑称)」等と斬り捨て激しく弾圧した。しかし、最終的に彼を大統領の座・建国の父の座から追い落とすことになったのは、4・19学生革命での民衆の力であった。

李承晩政権下の混乱を観察したグレゴリー・ヘンダーソン[23]は日本による大日本帝国統治の歴史は朝鮮の政治意識・構造を変えることがなかったと考え、李承晩政権は朝鮮の伝統的政治体質を引き継ぐものと指摘した。

独裁者李承晩は「本当に貴いお方」朝鮮国(李氏朝鮮)最後の王位継承者李垠とその夫人李方子の帰国を許さなかった。王政復古を疑っていたという側面もあるが、李承晩には朝鮮半島の2度の支配(日本による併合、米軍による軍政)から大韓民国という独立国家を立ち上げたプライドがあった。李氏朝鮮時代の残滓、特に従属国主義[24]などは真っ先に忌諱すべきもので、それを支えていた王家の人間などは自分が築き上げた独立国家に入国させるべきではないと考えていたが、当時の大韓民国には政治を運営する能力のある人間もいない上、日本が撤退してからは世界最低の最貧国のひとつに数えられるほど貧しい財政基盤ではアメリカの後ろ盾や援助なしには国の運営もままならない状態であった。そのためアメリカに見放された後、傀儡政権でしかなかった彼には国を運営できなくなり、亡命するに至った。李承晩には大清皇帝功徳碑を恥さらしだとして埋めたという逸話が残っている。

しかし李承晩とその他の政治家との対立を、かつての李氏朝鮮時代における王(君主)と両班(官僚-貴族層)との権力争いになぞらえる論者、『朝鮮王朝最後の君主』とする論者も多数存在する。事実、李承晩の政権は文治国家であった李氏朝鮮の系譜の延長線上にあり、その系譜が絶たれたのは次の独裁者朴正煕軍事政権でのことである。

現代の韓国において、李承晩は「建国の父である」という評価と、「民衆を恐怖に追い遣った独裁者である」というものに分かれている。これに共通して、朴正煕の評価も韓国では2つに分かれている。

経済政策 [編集]

大韓民国建国後、李承晩が真っ先に取り組むべき課題は経済政策のはずだった。しかし、李承晩は前述の通り、反共に明け暮れ、経済政策を疎かにした。日本からの多額の無償援助や借款による急速な経済発展を達成した朴正煕と比べて経済の停滞を解消できなかったとして韓国内での評価はきわめて低く、「漢江の奇跡」に象徴される躍進の1960年代とは対照的に、停滞の1950年代ととらえられることが多かった[25]

韓国併合時代に日本が建設した重化学工業施設の多くは、鉱物資源が比較的豊富な朝鮮半島北部に集中して位置し、朝鮮半島南部は工業施設と日本が建設した道路・橋・港湾施設の他はただただ農地と日本が積極的に植林をした元禿山のみだった。建国直後の大韓民国は、非常に困難なスタートを余儀なくされた。そこに追い討ちをかけたのが朝鮮戦争で、農地も敢え無く荒廃し、社会インフラ(港・道路・橋)なども破壊することとなった。李承晩は朝鮮戦争の休戦を同意(署名は最後まで拒否)する事を条件にアメリカに経済支援を迫った。

休戦直後、アメリカと大韓民国は米韓相互安全保障協定を締結し、アメリカからの多大な経済支援が行われた。資源が全く存在しない大韓民国は当面の間、それに依存した「非自立経済」の形を取らざるを得なかった。李承晩自身がアメリカの傀儡であり、アメリカの後ろ盾によって大統領の座に就いていたのは有名である。

李承晩政権時代の主要産業となったのは、アメリカの経済支援(原資)に依った「三白産業」(製粉精糖紡績)であった。原資は「実需要者制」に従い、割り当てられるはずだった。しかし、実需要者の中でも政治力のある業者団体が独占的にそれを受けることになり、その原資すら企業の中でも圧倒的な財力を誇る財閥系の企業が独占的に買い取る形になっていた。それをさらに後押しする形になったのが、公定為替レートと実勢レートの不均衡(ドルの過小評価、ウォンの過大評価)と李承晩政権の打ち出した低金利政策で、特定の財閥が肥えることになった。これらの手厚い保護を受けた財閥系の企業による「三白産業」は圧倒的な速度で工業化し、1957年には経済成長率は8.7%に達したが、李承晩政権の末期には、過剰設備投資が顕在化し、深刻な不況が起きた。この事から、1961年朴正煕政権成立まで、一人当たりのGNPも80ドル前後に止まる事となる。

農業政策はほぼ無策で、工業政策の踏み台に近かった。インフレ抑制の一環として、低米価政策が取られたが、これは「三白産業」の発展を利すものであり、農業従事者の賃金の低下・不安定化を招き、春窮農民が増大化することになった。李承晩政権の末期には、春窮農民が農業従事者の半数に達した[要出典]

このような経済状況を反映してか、当時の韓国では砂糖が大変な高級品とされており、外国人記者団との会談の最中にコーヒーと角砂糖が差し出され、外国人記者達が自国で行っている通りに、複数の角砂糖をコーヒーの中に入れている光景を目の当たりにして、「あなた方の国ではコーヒーの中に砂糖を入れるようだが、私どもの国では砂糖の中にコーヒーを入れる」といった自虐的とも取れるジョークを発言したことがある[26]

対日政策 [編集]

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。保導連盟事件済州島四・三事件国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすために激しい反日教育を行い、それが現在でも韓国社会に多大な影響を与えている。

1954年のサッカーワールドカップアジア予選では、「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー韓国代表の参加を許した。当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードがある[27]。出場を決めた際には歓迎式と祝賀パレードが行われた[28]

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月 - 1956年1月、1959年6月 - 1960年4月に日本と通商断交している。また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている[29]

李承晩政権は、おおむね大日本帝国統治下官僚であったエリート(現在では親日派とされる)により構成されていて、政治と癒着していた企業も、現在では親日派とされることが多い。今日の韓国の教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法を参照)。

日本に併合される前の李朝朝鮮がまるで「東洋の理想国家」であったかのように、アメリカで宣伝。ハースト系新聞が広めた日本=野蛮国論の一部となり、アメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。韓国内の朝鮮史賛美は、李承晩の捏造から来ている。韓民国成立直後は、日本の朝鮮統治時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、公の場で「日帝時代はよかった」「今の政府は駄目だ」等の批判をした者をすべて政治犯として、投獄・拷問・処刑を行った。 大韓民国成立後のたった2年で政治犯として、投獄された者の総数は日本統治時代の約30年間の投獄者数を超えた。今の韓国でも、親日論者として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しいのはそのためである。

北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し、半島南端の釜山にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい。負け戦の時は誰よりも早く逃げ出し、勝ち戦の時は誰よりも目立とうとして、先頭に立った。首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつあるときは、避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破させ、一方で自分は安全な場所に急ぐために米軍基地に逃げ込んでいた。仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつあるときは、連軍としての規律を無視して、韓国軍部隊を勝手にソウルに先行させた。韓国から北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、マッカーサー司令官の意図というよりは、李承晩の独断専行が大きい。

在任期間中に行われた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島の編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。権威主義政権として基盤の脆弱な李承晩が、このような自己正当化の論理に頼った面も強い。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。今日でも、これらの政策による弊害が大きく、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。

1957年1月から1961年3月まで駐日アメリカ大使を務めたダグラス・マッカーサー2世は李承晩失脚時の1960年4月27日国務省に向けて機密電文3470号を送信した[30]。その中で彼は、李承晩政権が力ずくで日本の漁民を拘束していることを非難し、人質となった漁民たちを「李承晩による残酷で野蛮な行為を受け苦しんだ」[31]と表現し、李承晩在任中の8年間日本人は李承晩の擁護できない占領主義的手法で苦しんできた[32]、と報告している。[33]

代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。豊富な水産資源の漁場の確保と韓国が自国領と主張する竹島(韓国名:獨島)を取り込むために一方的にとられた措置であった。李承晩ラインを越えて操業している日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり、韓国官憲による銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出している。李承晩ラインの設定は国連海洋法条約制定前であり、排他的経済水域が成立する以前である。またサンフランシスコ条約では竹島への直接言及は無いが、その交渉文書であるラスク書簡においては、竹島は日本領であることが謳われている。李承晩ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。

領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責を受けるほど、日本を占領したいと発言していた。

また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあって、今日では次第に改善されてきている。

李承晩は在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業を阻止するため工作員66人からなる工作隊を組織し、帰国事業を主導していた日本赤十字社の建物を破壊すること、帰国事業を担当していた日本側要員を暗殺すること、帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道線路を破壊することなどを命じ日本に密航させた[34]

年譜 [編集]

注釈 [編集]

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  1. ^ これは朝鮮王位(韓国皇帝位)継承権を持つ傍系王族の一人であることを意味する。
  2. ^ ルーズベルトは、駐米韓国公使館が日本に押さえられていることをすでに承知しており、またすでにアメリカのフィリピン支配と日本の韓国での優越を認め合った桂・タフト協定に承認を与えていたため、李承晩との面会時の回答は、自分への要請に対する暗黙の拒否に他ならなかった。
  3. ^ のちに弾劾されてアメリカに渡った。
  4. ^ 呂運亨の項目を参照。
  5. ^ 支持されていたわけではない。
  6. ^ 湖南財閥はこの時期の朝鮮では最大の朝鮮人資本であり、京城紡織を中心に戦前既に満州への進出を果している。東亜日報高麗大学校なども系列下。
  7. ^ 韓民党の臨政との決裂から李承晩への接近に至る過程は木村幹、『韓国における「権威主義的」体制の成立-李承晩政権の成立』 ミネルヴァ書房、2003、第2章第4節に詳しい。
  8. ^ 建国準備委員会のリーダー呂運亨は左右両翼による統一戦線の維持に腐心し、アメリカ軍政が左派・共産主義者の排除を意図していることを意識して、自らは中道派として振る舞い、建準の路線も中道へと切り替えようとした。
  9. ^ 大日本帝国統治下官僚は、いわゆる「親日派」に該当する。
  10. ^ 木村幹、前掲書、p.118。
  11. ^ 木村幹『韓国現代史 大統領達の栄光と蹉跌』(中公新書)47頁、64~66頁
  12. ^ このことを知ったダグラス・マッカーサー元帥が、「部下を捨てた奴を相手にするな」と激怒したと言われている。
  13. ^ 北朝鮮国内での中国人義勇兵が問題化していたこともそう判断した理由の一つかもしれないし、単に日本嫌いを軸に悪意あるすり替えをしただけなのかもしれない。
  14. ^ それ以前にも、1948年10月19日1950年2月16日の二度にわたって、非公式に日本を訪問している。
  15. ^ 著書『回想十年』等では、出ていないが、「世界で最も嫌いな人物が3人いる。スカルノ(インドネシア大統領)、河野一郎(ライバルの党人派政治家)、李承晩だ」と近くにいた人物に述べたとされる。
  16. ^ 木村幹、前掲書、第3章第5節。
  17. ^ 李政権崩壊後に政権上層部が関与を認めている
  18. ^ 進歩党の党首、1958年1月に国家保安法違反容疑で逮捕、後にスパイ容疑に切り換え
  19. ^ この後の大統領である朴正煕の息子もまた問題の多い人物だったが、朴自身は敢えて息子でも特別扱いすることはなかったばかりか親類を首都ソウルに住まわせることを禁じたくらいである。
  20. ^ 風刺4コマ漫画家の金星煥は連載中の『コバウ令監』で「景武台の住人が貴いお方だったら、糞尿を運ぶ人も貴いお方」と揶揄したことから、当局に4日間拘留され国家元首侮辱罪で罰金450ファンを払わされる事になった。
  21. ^ 関係者が暴露した「進歩党ねつ造事件」 民族時報 第893号
  22. ^ [1]우리 대통령(わが大統領)という李大統領を称賛する歌がある。
  23. ^ グレゴリー・ヘンダーソンは米占領軍の通訳としても働いた朝鮮政治研究の先駆者。日本語訳著書に『朝鮮の政治社会-渦巻型政治構造の分析』(鈴木沙雄・大塚喬重訳、サイマル出版会、1973年)がある。
  24. ^ 李氏朝鮮は小国主義を貫き、冊封体制を執った。
  25. ^ 1950年代と1960年代の断絶のみならず連続性の観点から、経済面での李承晩を再評価する機運が1990年代から徐々に高まってもいるが、それは李承晩が始めた反日政策を評価するものであって、それ以外の何者でもない。- 李鍾元『東アジア冷戦と韓米日関係』(東京大学出版会、1996年。金三洙『韓国資本主義国家の成立過程 1945-53年 政治体制・労働運動・労働政策』東京大学出版会、1993年。木村幹、前掲書。
  26. ^ 尹浩根『恨半島―ある外交官の生き方』
  27. ^ 日本テレビ系列ズームイン!!朝!』より。
  28. ^ [2]
  29. ^ 丁振聲「1950年代の韓日経済関係 ―韓日貿易を中心に―」[3]
  30. ^ テキサス親父日本事務局「ダグラス・マッカーサーからの電報」より
  31. ^ All Japanese fishermen hostage who have suffered so cruelly from Rhee's uncivilized and oppressive.
  32. ^ Japanese have suffered Rhee's occupation-minded approach for eight years and will be unwilling to accept such indefensible treatment from his successor.
  33. ^
  34. ^ 在日朝鮮人帰国事業の阻止に向け動いた工作隊(上)(下)朝鮮日報/朝鮮日報日本語版2011/04/30 13:55:23(2011年4月30日観閲)

参考文献 [編集]

※入門書、中公文庫で再刊。他の文献も参照。
  • 菊池正人 『板門店 統一への対話と対決』 中公新書、1987年
  • 池東旭 『韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落』 中公新書、2002年
  • 木村幹 『韓国現代史 大統領たちの栄光と蹉跌』 中公新書、2008年
  • 木村幹 『韓国における「権威主義的」体制の成立 李承晩政権の崩壊まで』 ミネルヴァ書房、2003年
  • 李昊宰、長沢裕子訳 『韓国外交政策の理想と現実 李承晩外交と米国の対韓政策に対する反省』 韓国の学術と文化・法政大学出版局 2008年
  • 金浩鎮、小針進・羅京洙訳 『韓国歴代大統領とリーダーシップ』 柘植書房新社、2007年
  • 長田彰文 『日本の朝鮮統治と国際関係―朝鮮独立運動とアメリカ 1910~1922』 平凡社、2005年
  • 金星煥植村隆『マンガ韓国現代史 コバウおじさんの50年』 角川ソフィア文庫、2003年
  • 渡辺利夫『韓国 ヴェンチャー・キャピタリズム』 講談社現代新書、1986年 
  • 李泳采・韓興鉄『なるほど!これが韓国か 名言・流行語・造語で知る現代史』 朝日選書朝日新聞出版、2006年
  • 長田彰文セオドア・ルーズベルトと韓国―韓国保護国化と米国』 未來社、1992年
  • 尹浩根『恨半島―ある外交官の生き方』 エネルギーフォーラム、2002年

関連項目 [編集]

先代:
-
韓国の旗 大韓民国の大統領
第1~3代:1948年 7月17日 - 1960年 4月25日
次代:
許政
(代理)
先代:
-
韓国の旗 大韓民国臨時政府の大統領
第1,2代:1919年 4月 - 1925年 3月
次代:
朴殷植
先代:
金九
韓国の旗 大韓民国臨時政府の國家主席
1947年 3月 - 1948年 7月22日
次代:
-
先代:
-
韓国の旗 大韓民国臨時政府の国務総理
第1代:1919年 4月 - 1919年 4月
次代:
李東輝
先代:
金奎植
韓国の旗 大韓民国臨時政府駐美代使
第2代,3代:1919年 9月 - 1941年 10月
1941年 10月 - 1945年 10月
次代:
林炳稷