参勤交代

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参勤交代(さんきんこうたい)とは、各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令のことである。参勤交替参覲交代参覲交替などとも書く。

概要[編集]

鎌倉時代にみられた御家人鎌倉への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。

この制度では諸大名は一年おきに江戸と自領を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はなかった。国元から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした、と言われているが、これはあくまで副次的なものにすぎず太平の世にある江戸時代に将軍と大名との主従関係を示すための軍事儀礼であった。さらに『御触書寛保集成』によると「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。」とあり、むしろ大名の参勤交代の際の支出を節減するように求めていた。これにより260年余りにも及ぶ長期政権・江戸時代を築く礎にもなった。

名称[編集]

参勤は一定期間主君のもとに出仕し、任期が満了すると暇を与えられて領地に帰り政務を執ることを意味する。「参っ」て「覲(まみ)える(=目上の人に会う)」ことであるから正しくは「参交代」と表記するが、役人が「参勤交代」と誤って記録に記述してしまって以来、このように書くのが一般的になった。

参勤交代を規定した『武家諸法度』の条文には

大名小名在江戸交替所相定也毎歳夏四月中可致参勤従者之員数……

とあり、交代は「交替」とも書かれる[† 1]

内容[編集]

原文[編集]

参勤交代を制度化したのは徳川家光であり、武家諸法度の寛永令にあたる条文より読み取ることができる。

一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。

現代語に翻訳すると『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。』という意味になる。

目的[編集]

この制度の目的は、諸大名に出費を強いて其の勢力を削ぐことにより謀反などを抑制する効果、あるいは大名の後継ぎは制度上全員が江戸育ちとなることから、精神的に領地と結びつきにくくする効果があったともいわれる[1]が、これらは結果論でしかなく、当初幕府にその意図はなかったという説が現在では有力である[2]

そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒であることから、「大名行列は身分相応に行うべき」と通達を行なっていることが当時の幕府の文書から読み取れる。

対象[編集]

徳川御三家を含む全ての藩に於ける1万石以上の諸大名である。当初は譜代大名には参勤交代の義務はなく、寛永19年(1642年)の改正によって全ての大名が参勤交代を行うようになった[3]。ただし、老中や大阪城代などの要職を務める譜代大名は、在任中は参勤交代が免除された。

最も江戸から遠い藩である薩摩藩は参勤交代に二か月弱、最も近い藩である下妻藩でも数日間を要した。

参勤交代には例外があり、水戸徳川家などの一部の親藩・譜代大名、そして殆どの旗本は、領地が江戸に近いことや領地が小さいことなどから、参勤交代を行なわずに江戸に常駐し、定府と呼ばれた。更に居城の火災、領地の天災飢饉、藩主の病気、代替わりなどの理由で参勤交代が免除されることもあり、これを“用捨”と言った。外様大名でも、内分分知新田分知によって誕生した小大名は免除されることがあった。

大名に限らず、交代寄合と呼ばれる格式高い旗本もまた参勤交代を行った[4]

期日と期間[編集]

参勤交代を行う大名は偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられた。隣国同士の大名は意図的に異なるグループに分けられたが、これは在国中あるいは江戸において談合などが出来ないようにしたものだと考えられる。各大名は4月、6月、8月、12月など国元を出発する月、および2月、8月など江戸を出発する月が定められていた。基本的にはおよそ一年あまりを江戸で過ごすよう定められた大名が多かったが、関東の多くの大名は半年ごとに国元、江戸を往復するよう定められていた。また長崎警護の任を与えられた福岡藩および佐賀藩は2年のうち約100日を、交代で江戸で過ごすよう定められていた。遠国の対馬藩は3年に4か月、松前藩は5年に4か月のみ江戸で過ごすことになっていた。多くの大名が同時期に参勤交代をしたため、街道および宿場はしばしば混雑した。当初西国には出来るだけ長い海路で大阪まで旅をする大名が多かったが、天候による日程の遅延を避けるために、次第に陸路を増やす傾向があった[5]

沿革[編集]

制度前[編集]

戦国時代には戦国大名の一部は自身の居城の城下町に服属した武士を集めるようになり、豊臣秀吉大坂城聚楽第伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった[6]。鎌倉時代には御家人が鎌倉に参集する制度があり、足利時代にも西国の守護は京都に、東国の守護は鎌倉に参集する制度が見られた。

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦い徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与え、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが次第に制度として定着していき、寛永12年(1635年)に徳川家3代目将軍徳川家光が『武家諸法度』を改定したことによって諸大名の義務となっていった[7]

当初は家老など有力な家臣も人質として江戸に住む制度があったが、徳川家康の50周忌をもって廃止された。

制定後[編集]

制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城江戸藩邸の両方の維持費などにより大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、徳川家が支配する長く戦争のない江戸時代が確立されていくのである。

この制度は江戸時代を通じて堅持されたが、享保7年(1722年)に上米の制と呼ばれる石高1万石に対し100石の米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり、結局享保15年(1730年)まで続けられた。

制度廃止[編集]

嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、その圧倒的な武力を背景に欧米列強が日本に対して開国を迫ることになる。200年以上も鎖国を続けていた徳川幕府はその体制を守るために、文久2年(1862年)8月に参勤交代の頻度を3年に1回(100日)とする文久の改革と呼ばれる条件緩和を行なった。これは日本全体としての軍備増強と全国の海岸警備を目的としていたが、同時に人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を認めたことで、結果として徳川幕府の力を弱める結果となってしまった。

この幕府の発言力低下を背景に元治元年(1864年)8月、京都禁門の変と呼ばれる長州藩と江戸幕府・薩摩藩との武力衝突が起きる。これを期に翌月の9月に制度を元に戻そうとしたが、すでに幕府の威信は大きく損なわれており、従わない藩も多く存在したため、幕府の決定的求心力低下が露見することとなった。こうして慶応3年(1867年)、大政奉還と共にこの制度は姿を消した。

参勤交代の流れ[編集]

準備[編集]

参勤交代に関する資料は多数存在するが、特に加賀藩家老である横山政寛が書き残した『御道中日記』には、その詳しい日付だけでなく、掛かった日数や費用、苦労話などが事細かに記載されている。

それによると参勤交代は毎年四月に行なわれるが、その準備は半年以上も前から行なわれ、予算の調達に始まり、他大名との間に宿場の重複がないか偵察の者を出すことから始まる。徳川御三家や幕府の役人や勅使、他の大名行列などに気を遣い、なるべくすれ違わないように旅行程の調整だけでなく宿代の交渉等々、その準備作業は多岐にわたる。「金沢板橋間駅々里程表」という資料では、石川県金沢市東京都板橋間に宿泊の可能性がある全ての宿場までの距離がダイヤグラムのように記されており、そのような状況下でいかに少ない予算と労力で江戸にたどり着けるかといと知恵を絞りぬいた苦労が見て取れる。

そもそも予め幕府へ届出を出した期日までに江戸に到着しなければならなかっただけでなく、遅延が一日発生するだけで現代の貨幣価値にして数千万円から数億円相当の損失に繋がるため、いかなる理由があろうとも決められた日付までに江戸に到着しなければならない事情があった。橋や道路が道路の整備がままならない場所もあり、そのような場合はあらかじめ橋や道路を建設した。それでも通行が難しい場合は近隣住民を大量に雇い、人が盾となって川や海の流れを鎮めたという。加賀藩が親不知を超える際、波を鎮める為に近隣から住民を700人雇ったと記録されており、紀州藩の場合は藩士が数箇月も前から下準備のために来宿したともあり、準備には入念に入念を重ねて行われたものと推測できる。

出発[編集]

軍役である以上、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れただけでなく、道中に大名が暇を覚えたり、江戸での暮らしに不自由しないようにかかりつけの医師茶の湯の家元や鷹匠までもが同行しただけなく、大名専用の風呂釜などを含む多数の手回り品までも持ち運んだ[8]とされ、「大名行列」という大掛かりな行進が行なわれた。天保12年(1841年)に行なわれた紀州徳川家の参勤交代では、武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁したという記録も残されており、御三家紀州侯の大名行列などは多くの農民が見物に訪れるほど格式と威光が感じられる大行列であったといわれている。

移動時間ならびに移動速度は各大名によりまちまちであるが、自国城下町などを除き、費用節約のために急ぎ足での移動が行われることも多々見られた。一日平均で6〜9時間を掛けて約30〜40km移動したが、旅行程に遅れが生じた場合は移動距離が50km近くに伸びることもあった。

園部藩参勤交代行列図(1) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図(2) (南丹市文化博物館蔵)
園部藩参勤交代行列図(3) (南丹市文化博物館蔵)

自国領内[編集]

自国の民衆に威厳を見せつけるために立派な服装を身に纏い、人を大量に雇った上で実際に必要な人数より多く見せることがよくみられた。これは城下町を離れるまで続けられ、町はずれに出ると雇われた人々の任務は完了となり、人数は約半数程度に減る。それ以外の従者たちは旅行に適した服装に着替え[9]、宿泊予定のある宿場町を目指すこととなる。

移動手段は陸路が殆どであるが、島津藩のように船と陸路を併用して行う場合もあった。陸路の場合、庶民は行列が進んでくると、道を譲り土下座をしなければならず、馬に乗っていた場合は必ず下馬しなければならなかった。飛脚や出産の取上げに向かっている産婆を除いて、行列の前を横切ったり、列を乱したりする行為は特に無礼な行為とされ、当時の国内法である公事方御定書(71条追加条)によってその場で「切捨御免」も認められていた。このため、大声で行列の到来を知らせるために徳川御三家の場合は、土下座という意味の「下に、下に」と叫び、それ以外の諸藩は「片寄れー、片寄れー」、又は「よけろー、よけろー」という掛け声を用いて道を譲らせた。

自国領外[編集]

参勤交代の行列は他家の領地を通過することになるが、通られる側の大名は使者を遣わして贈り物などを供し、場合によっては道の清掃・整備や渡し舟の貸出なども行なっていた。また通る方も遣わされた使者に対してら返礼の品を送るなどしており、両者とも互いに気を遣い合っていた。

他家との行列と鉢合わせにならないように各藩それぞれ入念な準備をしていたが、それでも鉢合わせる事態が発生した場合は各々の大名が籠から降り、相互に頭を下げて非礼を詫び合うこともあったという。

民衆は自国領外に大名に対しても下馬の義務や道を譲る義務を課されていたが、徳川御三家の行列以外には土下座する必要はなかった。

西国の大名の多くは整備の進んだ東海道を通ったが、橋がなくしばしば川止めとなる大きな河川が複数あり、しばしば日程の変更および経費の増大に見舞われた。そのため、幕府の許可を得て、整備は進んでいないが川止めの可能性がない中山道に変更する大名もみられた。

宿泊[編集]

本陣の例(東海道 草津宿)

本陣と呼ばれる大名と関係者専用の宿泊施設に宿泊する。大名は宿泊中に命を狙われる可能性が最も高いので、護衛の者が常に付いており就寝時も武器は手放さなかった。本陣は敵に攻められても対応しやすいような構造をしており、就寝中も小姓が一晩中枕元で本を朗読し、襲撃者に寝込みを襲われないよう用心した。

宿主にとっては大名一行の宿泊は大口の収入源であったが、大名側が旅の途中にトラブルに巻き込まれ、宿泊を急遽キャンセルしなければならないこともあり、宿泊準備費用を巡ってトラブルが絶えなかったという[10]

関所から江戸領内[編集]

下屋敷の例(佐土原藩

幕府に対する謀反の意思がないと証明するため、関所を通過する際には大名の籠の窓を開けた上で関所の役人に顔を見せて通過した。その際、役人達は行列の人数や槍・弓などの装備をチェックし、その内容を幕府に報告をした。

江戸領内の庶民にも同じように自国の威厳を見せつけるため、下屋敷に到着すると立派な服装に着替え、予め雇っておいた人足と合流し、華美な行列を再び仕立て直した。江戸城に到着すると大名は将軍に拝謁し、参勤交代はここで無事に終えることになる。

日数と費用[編集]

『御道中日記』のように、移動日数や費用について記録が多数残されている。

各地方の主な藩の江戸までのおおよその道程・日数・大名行列の諸表[11]
現在の地方 石高 藩庁 道程 日数 行列規模 経費
東北地方 伊達家仙台藩 063万石 仙台城地図 0920368km 08-9日 2000-3000人 03000-5000
北陸地方 前田家加賀藩 103万石 金沢城地図 119里(0480km) 13日 2000-4000人 05333両
山陰地方 池田家鳥取藩 033万石 鳥取城地図 180里(0720km) 22日 0700人 05500両
四国地方 伊達家・宇和島藩 010万石 宇和島城地図 255里(1020km) 30日 0300-500人 00986両
九州地方 島津家薩摩藩 077万石 鹿児島城地図 440里(1700km) 40-60日 1880人 17000両
  • 石高は表高で、千の位で四捨五入
  • 行列規模や経費は代表的な数値を記載した。江戸時代を通じて記載された数値が一定して続いていたわけではない。

江戸からの距離によって異なるが、参勤交代の費用は藩収入の5%から20%、江戸藩邸の費用を含めれば50%から75%があてられた。

影響[編集]

経済[編集]

交通手段が発達していない時代に道路や橋が整備されていない中、台風洪水などの不可抗力下においても決められた期日までに国元から江戸にまで到着しなければならなかったことから、加賀藩が黒部川にかけた愛本橋明治時代半ばに消滅)などに代表される参勤交代用の橋や道路が建設されたり、宿場町の発展をもたらしたりするなど後世や残る都市や交通を大いに発達させる事となる[2][12]

これらの街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の居城江戸藩邸の両方の維持費などにより、その経済効果は非常に大きいものであった。

風俗[編集]

大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まる効果を果たすことにもなった[13]

参勤交代のシステムは、江戸時代を通して社会秩序の安定と文化の繁栄に繋がることになった。また参勤交代する事で江戸に単身赴任する各藩の家臣はかなりの数に上り、この結果、江戸の人口の約半数が武士が占めると共に遊郭が繁栄することとなった。江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは参勤交代の影響である。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の文書は当然手書きであり、「参」の字は康煕字典体の「ムムム人彡)」ではなく、異体字「(ムニニ人水)」となっている。

出典[編集]

  1. ^ 『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた』著・八幡和郎、臼井喜法
  2. ^ a b 参勤交代のねらいは>:「参勤交代」の授業における留意点 早川明夫、教育研究所紀要、16 pp.111 - 119、2007-12、文教大学。
  3. ^ 鎌倉公方足利氏)の末裔である喜連川氏喜連川藩)だけは参勤交代の義務が無く、妻子も喜連川に居住していた。藩主は年始の際に、自主的に参府していた(山下昌也『日本一小さな大大名 たった五千石で、徳川将軍家と肩を並べた喜連川藩の江戸時代』(グラフ社、2008年) ISBN 978-4-7662-1182-5)。
  4. ^ [1]
  5. ^ (コンスタンチン・ヴァポリス『日本人と参勤交代』(柏書房、2014年) ISBN: 978-4760138210)
  6. ^ 山本博文『参勤交代』第一章 参勤交代の歴史 1 参勤交代の源流 丸山雍成説より p28〜29。
  7. ^ 吉村豊雄「参勤交代の制度化についての一考察:寛永武家諸法度と細川氏」 熊本大学『文学部論叢』Vol.29、1989年3月 ISSN 0388-7073 p28〜49。
  8. ^ 『加賀藩大名行列図屏風』加賀藩の大名行列を記した屏風より。
  9. ^ 石川県の金沢市にある大樋松門跡の立札には『通行旅行ノ武士ハ(中略)松門ヲ出レバ行装ヲ崩ス慣例ナリキ』(引用)とある。
  10. ^ 御道中日記
  11. ^ 宇和島伊達家の参勤交代 (PDF) (第19回 宇和島市民歴史文化講座「そこ・どこや」 2011年1月16日)。
  12. ^ 参勤交代と日本の文化 コンスタンティン・ノミコス・ヴァポリス(メリーランド大学準教授)日文研フォーラム、第169回 pp.1 - 29、2004-10、国際日本文化研究センター。
  13. ^ 渡邊容子「参勤交代について華頂短期大学『華頂博物館学研究』Vol.5、1998年12月 ISSN 0919-7702 p27〜44。

参考文献[編集]

関連項目[編集]