孝明天皇

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孝明天皇
第121代天皇
孝明天皇
元号 弘化
嘉永
安政
万延
文久
元治
慶応
先代 仁孝天皇
次代 明治天皇

誕生 1831年7月11日
平安京京都
崩御 1867年1月30日(満35歳没)
京都御所常御殿
陵所 後月輪東山陵
御名 統仁
称号 煕宮
父親 仁孝天皇
母親 藤原雅子
女御 英照皇太后
子女 順子内親王
富貴宮
妙香華院
明治天皇
寿万宮
理宮
皇居 京都御所
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孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日1831年7月11日) - 慶応2年12月25日1867年1月30日)は、江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は弘化3年2月13日1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日)。統仁(おさひと)。光格天皇の孫にあたり、明治天皇の父に当たる。

生涯[編集]

孝明天皇御胞衣埋納所、胞衣(えな)とは胎盤。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮内)
孝明天皇の冕冠

天保2年6月14日1831年7月11日)仁孝天皇の第四皇子として誕生した。幼称は煕宮(ひろのみや)。傳役(養育係)には近衛忠煕がついた。天保6年6月、儲君となった。天保6年9月18日、親王宣下が、天保11年3月14日(1840年4月16日)には立太子の儀が行われ皇太子となった。 弘化3年1月26日(1846年2月21日)、仁孝天皇が崩御した。2月13日、16歳の東宮統仁親王が践祚した。

弘化3年8月29日に幕府へ海防強化及び対外情勢の報告を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。翌年の4月25日、石清水臨時祭にあたり外夷をうちはらい四海静謐を祈った。嘉永3年(1850年)4月8日に「万民安楽、宝祚長久御祈り」を七社七寺へ命じた。嘉永6年(1853年)、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実万阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明された。嘉永7年3月3日、日米和親条約が締結された。安政2年9月18日、幕府より朝廷へ正式に報告された。

安政5年(1858年)1月14日、日米修好通商条約の調印勅許を得るために堀田正睦(以下、堀田老中)が上京するため、近衛忠煕、鷹司輔煕、三条実万の三大臣および議奏武家伝奏へ開国か鎖国か下問をした。1月25日には大納言以下蔵人頭以上に範囲を広げ下問をした。しかし、大勢は開国に賛成とも反対とも決められず公武一和にて決める「定見なし」であった

太閤内覧鷹司政通(以下、鷹司太閤)と関白・内覧九条尚忠(以下、九条関白)は傍にあって政務の補佐にあたっていた。鷹司太閤は朝廷における実力者であった。娘婿に久我建通、和歌の弟子に岩倉具視がいる。徳川斉昭より外交事情を知らされていた鷹司太閤は開国論の立場にあったが、孝明天皇は容れなかった。1月17日、九条関白へ下された宸翰には「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや、それに付いては、伊勢始めところは恐縮少なからず、先代の御方々に対し不孝、私一身置くところ無きに至り候あいだ、誠に心配仕り候」とある。同月25日の宸翰には堀田老中が上京して演説しようと開市開港はみとめないし、ましてや畿内近国ではいうまでもないと決意を述べている。しかし開国論を譲らない鷹司太閤が「天皇も自分と同意見」だとして事態を動かす点は危惧していた。前述の下問は朝廷内部の世論を喚起させて鷹司太閤へ対抗しようとした工作との見方がある。

2月22日、朝廷は勅許を奏請した堀田老中に対して改めて衆論一和の上で勅許を求めるように沙汰をした。堀田は幕府が保証するため勅許を貰いたいという奉答書を3月5日に提出した。この頃には開国反対の立場にあった九条関白は幕府方へ転向した。逆に内覧を辞していた鷹司太閤は開国論であったはずが開国反対へまわった。九条関白は勅答案を起草するが内容は幕府への白紙委任であった。勅答は朝議を経て3月14日に堀田老中へ下されることになったが、3月12日、88人の公卿が列参という事件を起こし条約勅許へ反対の意思を示したことで孝明天皇も再考を示唆した。『孝明天皇紀』では久我建通が3月11日に工作依頼の勅書を受け取って大原重徳岩倉具視とともに行動に移したとされる。3月20日、堀田老中は御三家及び大名の意見をとりまとめるようにとの沙汰を下された。

6月19日、幕府は日米修好通商条約に調印。6月21日付の宿継奉書は27日に京都へ着いた。御前会議が開かれたが、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと九条関白は日記に書いている(九条関白自身は会議へ出席しなかった)。翌28日、孝明天皇より出席を求められた九条関白も参内した。会議の出席者へ下された宸翰は譲位の意思を書き取っていた。驚愕した一同は関東より御三家大老井伊直弼を上京させ事態の顛末を説明をする段取りをつけるとして諌止した。7月6日に大老と親藩の上京を求めた勅書が江戸についた。幕府は7日に井伊大老は多忙のため、御三家の当主は処罰したため上京はできないので酒井忠義(以下、酒井所司代)と間部詮勝(以下、間部老中)を上京させるとした答書を作成し9日に京都へ送った。その一方で7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。7月22日、近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下された。

8月5日に孝明天皇が出された「御趣意書」を近衛忠煕(以下、近衛左府)、鷹司輔煕(以下、鷹司右府)、一条忠香(以下、一条内府)、三条実万(以下、三条前内府)は関東へ送るように命令された。このため九条関白へ交渉した。具体的には8月7日の朝議のため参内を求めた。内覧の権限を持つ九条関白が朝議にでなければ勅書は成立しない。九条関白は参内をしなかったため、近衛左府たちは朝議における内覧を経ないで幕府と水戸藩へ「御趣意書」を出すと決定、九条関白も事後承諾をしたが勅書へ勝手に添書を付けた。9月2日、幕府寄りの九条関白へ辞職をせよとの内勅が出された。9月2日に辞表を受け取り4日に内覧辞退の勅許を下した。幕府よりの答書を隠してきたこと、添書きの偽造が露見したことによる。9月17日に間部老中は上京した。水戸藩士の鵜飼吉左衛門鵜飼幸吉、鷹司家諸大夫の小林良典が逮捕された。10月19日、九条関白の辞表は取り下げられ、内覧に任じられた。10月25日、徳川家茂将軍宣下が行われた。

10月24日、間部老中が参内したが出御(しゅつぎょ。お出まし)はされなかった。九条関白らに対して間部老中は無断調印の弁疏(べんそ。言い訳)をした。調印は幕府の本意ではないこと、海岸の防備を固めて、国力がついたら和戦のどちらかを選ぶものと説明した。その他も弁疏の中身は詭弁を弄し、欺瞞に満ちていた。中山忠能は「天下既滅亡之時也。悲しむ可し、嘆く可し」と日記に記した。11月9日、九条関白へ出された宸翰には開国は日本国の瑕瑾であり承知はできないと意思を伝えた。間部老中は参内を繰り返し弁疏を続ける一方、宮や公卿の家臣を逮捕させつづけた。12月24日、孝明天皇は間部老中を参内させ鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下された。12月30日、参内した間部老中は帰府の暇を賜ったが、間部老中の東帰はすぐに実現しなかった。

安政6年1月10日、幕府及び九条関白は近衛左府、鷹司太閤と鷹司右府の親子、三条前内府に圧力をかけた。近衛左府と鷹司右府は辞官落飾、鷹司太閤と三条前内府は落飾を自ら孝明天皇へ奏請した。孝明天皇は九条関白へ幕府と掛け合って貰いたいと宸翰を出した。2月5日、酒井所司代を通じて幕府の内命が九条関白へ伝えられたが内容は四公の辞官落飾だけでなく、青蓮院門跡尊融法親王(青蓮院宮)、一条内府ら宮家、公卿への処分案であった。その後も2月17日、九条関白を通じて落飾回避を幕府へ要請したが拒絶され、それでも猶予を望むと酒井所司代は更に圧力を加え、3月28日に辞官は勅許を下したが落飾を決めずにいると酒井所司代は更に圧力を加えた。4月22日に落飾の勅許を出した。

8月12日、幕府は朝廷に対して金五千両を献じ、摂家以下の堂上へ金二万両を贈り、8月15日、九条関白には功労に報いて家禄(永禄)として千石を加増した。落飾した三条前内府は不忠不直の人が恩賞をうけるのは「実に嘆息に堪へざる事、時勢悲しむ可し、悲しむ可し」と日記に残し、その一か月後に幽居先の一乗寺村で没した。三条前内府を含めて天皇に奉仕した者への受難、殉難は続いたが、その結果として献身的な情熱は熱狂的になってきた。たとえ世間からは狂人、賊子と呼ばれ非難されようとも、天皇は自分たちの誠心を知っていて下さるという行動論理を持つたちが安政の大獄の反動として生まれた(『孝明天皇』福地重孝)。

10月16日、九条関白への宸翰には幕府が徳川斉昭へ陰謀の嫌疑の目を向けたことは間違いであり、戊午の密勅は天皇の意思であり外部からの工作は動機ではないとした。無断調印をした幕府は朝廷への説明に大老、御三家は来ない。担当した老中はクビになる。その中で頼りになる斉昭を選んだものだが、徳川家を嫌っているのではなく公武一和を願っている。将軍継嗣問題も年長英明の人でなくては収まらないと考えた上でのことである。現在の状況は「心得違い」に起因するとの説明に九条関白は、このくだり一切は酒井所司代には見せなかった。宸翰は更に続き、間部老中、酒井所司代による幕府の説明への不信を明らかとした。宸翰を見せられた酒井所司代は「公武一和」のために幕府に一任して頂ければ「七、八箇年もしくは十年」で満足してもらえると釈明した。

万延元年(1860年)4月12日、酒井所司代は九条関白へ和宮の将軍家降嫁を奏請した。

孝明天皇は皇祖を畏れ鎖国への復帰を求め、幕府は戦争回避のためなし崩し的に開国を進めていた。同時に孝明天皇は国体保持のため、幕府は政体保持のため公武一和を推進した。このため事態は膠着化、幕府と朝廷の不信は募り周囲へも波及した。自身も廃帝されるという噂につきまとわれる孝明天皇にとって必要なのは人心をまとめる「国論」であった。攘夷と開国が国威発揚により止揚される点で期待されたのが長井雅楽の「航海遠略策」であった。

文久元年(1861年)6月2日、毛利敬親(長井雅楽)は御製の和歌を賜った。

國の風吹起しても天津日を もとのひかりにかへすぞまつ

文久元年(1861年)11月、島津久光島津茂久近衛忠房を通じて家来の中山実善を送り上京のため勅命を求めてくると容れることは無かった。しかし、12月に御製の和歌を賜った[1]




文久3年(1863年)3月に家茂が上洛してきたときは、攘夷の勅命を下し、攘夷祈願のために賀茂神社石清水八幡宮に行幸している。

もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在する。孝明天皇は文久3年(1863年)4月22日付の中川宮宛の書簡で、4月10日の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白[2]し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている[3]

その後、幕府一会桑薩摩藩長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。

慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出すこととした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった[注 1]

このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出するようになる。第二次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通西郷隆盛に宛てた書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言[6]し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよと記している[7]。こうした中で慶応2年(1866年)8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている[8]

慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして崩御。宝算36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、他殺説も存在し議論となっている(下記参照)。

人物[編集]

  • 京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。
  • 遺品として時計[注 2]が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない。

系譜[編集]

仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子

系図[編集]


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
114 中御門天皇
 
 
 
 
 
閑院宮直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
115 桜町天皇
 
 
 
 
 
典仁親王 (慶光天皇)
 
倫子女王
 
鷹司輔平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
117 後桜町天皇
 
116 桃園天皇
 
美仁親王
 
119 光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118 後桃園天皇
 
 
 
 
 
120 仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桂宮淑子内親王
 
121 孝明天皇
 
和宮親子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

在位中の元号[編集]

一世一元の制制定前の最後の天皇である。

諡号・追号[編集]

孝明天皇と漢風諡号が贈られた。を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵事業で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した現陵が築かれた。ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに祀られている。また、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、平安京最後の天皇として昭和15年(1940年皇紀2600年)に合祀された。そのほか、愛知県武豊町玉鉾神社に祀られている。

仮御所[編集]

嘉永7年(1855年、途中で安政に改元)に内裏が焼失した際は、翌年の再建までの間に聖護院桂宮邸を仮御所としていた時期もある。

崩御にまつわる疑惑と論争[編集]

崩御に至るまでの経緯[編集]

慶応2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱する。天皇の持病であるを長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した12日、執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日以降、伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。

12月16日(1月21日)、高階経由らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏等へ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。

孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』によれば、医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。

しかし、前述の伊良子光順の日記における12月25日の条には、天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」等という娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、崩御の事実は秘され、実際には命日となった25日にも、「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。

毒殺説[編集]

孝明天皇は前述の通り悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことや、幼少の睦仁親王が即位しそれまで追放されていた親長州派の公卿らが続々と復権していった状況などから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。

その後、明治維新を経て、世の中に皇国史観が形成されてゆくと、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。しかし明治42年(1909年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また昭和15年(1940年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[9]

そして、日本が第二次世界大戦で敗北し、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」等の論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)[注 3]である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。

また昭和50年(1975年)から同52年(1977年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[注 4]

これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説ともいうべき勢力を保っていた。

毒殺説に対する反論[編集]

しかし、平成元年(1989年)から同2年(1990年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が、これを真っ向から覆す2つの論文を発表する。

『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、

  1. 12月19日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと
  2. 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
  3. 中山慶子の12月23日付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること

などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。ただし原口説には、天皇の痘瘡感染経路についての言及が見られないなど検証不十分な点も存在する。

また原口は別に記した『孝明天皇と岩倉具視』という論文の中で、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に直接結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。

原口説登場後の学界[編集]

原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反駁したことにより、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく決着には至らなかった。

しかし原口説の登場以降、毒殺説支持から病死説支持に転向する研究者が相次ぎ、多数説が後者へと逆転する大きなきっかけになった。実はかく言う原口も、かつては禰津説を支持する毒殺論者であり、その裏付けを取る意味で医学分野の専門家に助言をあおぎ、逆の結論を得たのである。

上述の通り、毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を出ることはできず、物理的に証明するものが存在しない。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち土葬された孝明天皇の遺骸を法医学的に鑑定することを意味するが、宮内庁による管理のもと、天皇陵に対する学術調査が極端に制限されている現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。

しかしながら、記録に残る天皇の崩御が、痘瘡によるものとして不審点がない以上は、それ以外の死因をあえて探る必然性もないことになる。現在のところ、原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証もほとんど試みられていないため、原口説はほぼ通説としての地位を獲得している。

学説以外[編集]

毒殺以外の謀殺説では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたとするものもみられ、「ある親王家の侍医が深夜に呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。だが、原因不明の難病ならばまだしも、刺されたことが明らかな状況でわざわざ典薬寮医師以外の医者を呼ぶなど、毒殺説と比較すれば不自然かつ荒唐無稽な内容である。

また近年、井沢元彦は著書『逆説の日本史』において、前述の原口説を支持しつつも、意図的に天皇を痘瘡に感染させた「細菌テロ」という説を唱えている。当時は種痘の普及がはじまっており、それを拒否していたのは頑迷な攘夷論者、外国嫌いである事から、宮中に痘瘡の病原菌保持者を出入りさせれば、孝明天皇はじめ攘夷論者のみ感染する。痘瘡の発症により死に至らなくても、政治の表舞台から遠ざかれば目的は達成できた、としている。

脚注[編集]

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  1. ^ 慶応元年(1865年)12月17日、典薬寮高階経由・経徳らの建言による[4]。天皇没後の戊辰戦争を受けて慶応4年(1868年)3月8日に同じ高階親子の建言で撤回された[5]
  2. ^ アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンより贈られたウォルサム社製。
  3. ^ 天皇史関係の書籍では著者名は主に「禰津正志」を使用。
  4. ^ 伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。

出典[編集]

  1. ^ 世をおもふ心のたちとしられけり さやくもりなき武士のたま
  2. ^ 『孝明天皇紀』巻四P592
  3. ^ 『孝明天皇紀』巻四P845-846
  4. ^ 『孝明天皇紀』巻五P706-707
  5. ^ 明治天皇紀』巻一P643
  6. ^ 慶応元年9月23日付書簡『大久保利通文書』巻一P311
  7. ^ 『岩倉具視文書』巻一P264
  8. ^ 『孝明天皇紀』巻四P893
  9. ^ 京都府医師会 編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)1301頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]