孝明天皇
| 孝明天皇 | |
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| 第121代天皇 | |
孝明天皇
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| 元号 | 弘化 嘉永 安政 万延 文久 元治 慶応 |
| 先代 | 仁孝天皇 |
| 次代 | 明治天皇 |
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| 誕生 | 1831年7月11日 平安京(京都) |
| 崩御 | 1867年1月30日(満35歳没) 京都御所常御殿 |
| 陵所 | 後月輪東山陵 |
| 御名 | 統仁 |
| 称号 | 煕宮 |
| 父親 | 仁孝天皇 |
| 母親 | 藤原雅子 |
| 女御 | 英照皇太后 |
| 子女 | 順子内親王 富貴宮 妙香華院 明治天皇 寿万宮 理宮 |
| 皇居 | 京都御所 |
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月11日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日)。幼称は煕宮(ひろのみや)。諱は統仁(おさひと)。明治天皇の父に当たる。一世一元の制制定前の最後の天皇である。
目次 |
系譜[編集]
仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣・鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。
系図[編集]
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| 114 中御門天皇 |
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閑院宮直仁親王 |
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| 115 桜町天皇 |
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典仁親王 (慶光天皇) |
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鷹司輔平 |
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| 117 後桜町天皇 |
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116 桃園天皇 |
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美仁親王 |
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119 光格天皇 |
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118 後桃園天皇 |
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120 仁孝天皇 |
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桂宮淑子内親王 |
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121 孝明天皇 |
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和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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122 明治天皇 |
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略歴[編集]
幼名は煕宮。天保11年3月14日(1840年4月16日)に立太子。弘化3年(1846年)に父・仁孝天皇の崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設した。
嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、政治への積極的な関与を強め、安政5年(1858年)7月27日には40年にわたって朝政を主導してきた太閤・鷹司政通の内覧職権を停止して落飾に追い込み、更に2ヶ月後の9月4日には関白・九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任、10月19日停止解除)して朝廷における自身の主導権確保を図っている。
また、幕政に発言力を持ち、大老・井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。孝明天皇は攘夷の意思が強く、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸している(もっとも行幸が孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在することは後述する)。京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。その一方で、尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計った事などもあり、長州藩には嫌悪の念を示し続けた。この嫌悪感については『孝明天皇記』に記録された書簡に明記されている。それらの態度は、第二次長州征伐の原因の一つともなった。
しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった[1]。もっとも、遺品として時計[2]が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない。
幕末期において、天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まっていき、天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。ところが、実際には幕府・一会桑・薩摩藩・長州藩などの諸藩・公家・志士たちの権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。文久3年(1863年)4月22日付の中川宮宛の書簡では、4月10日の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と脅迫されたと告白[3]し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている[4]。 このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出するようになる。
第2次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通は西郷隆盛に対する書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言[5]し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行うことで朝廷の求心力を回復せよと記している[6]。 こうした中で慶応2年(1866年)8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房が天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている[7]。
慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして崩御。宝算36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されたが、他殺説も存在し議論となっている(下記参照)。
在位中の元号[編集]
諡号・追号[編集]
孝明天皇と漢風諡号が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
霊廟・陵墓[編集]
孝明天皇の埋葬にあたっては、文久の修陵事業で活躍した山陵奉行・戸田忠至(ただゆき)の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれた。ただし、葬儀そのものは泉涌寺において仏式で営まれた。
平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮へ、平安京最後の天皇として昭和15年(1940年、皇紀2600年)に合祀された。
仮御所[編集]
嘉永7年(1855年、途中で安政に改元)に内裏が焼失した際は、翌年の再建までの間に聖護院や桂宮邸を仮御所としていた時期もある。
崩御にまつわる疑惑と論争[編集]
崩御に至るまでの経緯[編集]
慶応2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱する。天皇の持病である痔を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した12日、執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日以降、伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。
12月16日(1月21日)、高階経由らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかったため、経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。
孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』によれば、医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。
しかし、前述の伊良子光順の日記における12月25日の条には、天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。
中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などという娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、崩御の事実は秘され、実際には命日となった25日にも、「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。
毒殺説[編集]
孝明天皇は前述の通り悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後明治維新を過ぎて、世の中に皇国史観が形成されてゆくと、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずる事は長く封印された。しかし明治42年(1909年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇毒殺をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また、昭和15年(1940年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[8]。
そして、日本が第二次世界大戦で敗北し、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、『孝明天皇は病死か毒殺か』『孝明天皇と中川宮』などの論文を発表したねずまさしである。ねずは、医師たちが発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。
また、昭和50年(1975年)から同52年(1977年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、ねずと同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[9]。
これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説ともいうべき勢力を保っていた。
毒殺説に対する反論[編集]
しかし、平成元年(1989年)から同2年(1990年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が、これを真っ向から覆す2つの論文を発表する。
『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、
- 12月19日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと
- 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること
- 中山慶子の12月23日付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する医師たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること
などから、医師たちによる「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた[10]。
また原口は別に記した『孝明天皇と岩倉具視』という論文の中で、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったこと、孝明天皇の崩御が岩倉の中央政界復帰に結びついていないことなどを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。
原口説登場後の学界[編集]
原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反論したことにより、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく決着には至らなかった。
しかし原口説の登場以降、毒殺説支持から病死説支持に転向する研究者が相次ぎ、多数説が後者へと逆転する大きなきっかけになった。実はかく言う原口も、かつてはねず説を支持する毒殺論者であった。ともあれ、現在のところ原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証もほとんど試みられていないことから、原口説はほぼ通説としての地位を獲得している。
ただ、前述の通り毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を出ることはできず、物理的に証明するものが存在しないのも事実である。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち土葬された孝明天皇の遺骸を法医学的に鑑定することを意味するが、宮内庁による管理のもと、天皇陵に対する学術調査が極端に制限されている現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。
その他諸説[編集]
毒殺以外の謀殺説では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたとするものもみられ、「ある親王家の侍医が深夜に呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。しかし、原因不明の難病ならばまだしも、刺された事が明らかな状況でわざわざ典薬寮医師以外の医者を呼ぶなど、毒殺説と比較して不自然かつ荒唐無稽な内容が多く、裏付けとなる一次史料も皆無であることから、いずれも学界では珍説の類として扱われている。
参考文献[編集]
- 宮内省図書寮編『孝明天皇実録』1~2巻(ゆまに書房、2006年) ISBN 4843320404
- 平安神宮編『孝明天皇紀』(吉川弘文館、1981年) 1906年(明治39年)の復刻
- 下橋敬長・述/羽倉敬尚・注 『幕末の宮廷』(平凡社東洋文庫、1979年)ISBN 4582803539
- 藤田覚 『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994年) ISBN 4062580268
- 佐々木克 『幕末の天皇・明治の天皇』(講談社学術文庫、2005年) ISBN 4061597345
- 家近良樹 『幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白』(中公叢書、2007年) ISBN 4120038839
- 家近良樹 『孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点』(文春新書、2002年)ISBN 4166602216
- 阪本健一 『天皇と明治維新』(暁書房、1983年/復刻版皇學館大學出版部、2000年)
- 高橋秀直 『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、2007年)
- 原口清『王政復古への道 原口清著作集2』(岩田書院、2007年) ISBN 4872944778
- 李元雨『幕末の公家社会』(吉川弘文館、2005年) ISBN 4642034021
- 蜷川新 『天皇—誰が日本民族の主人であるか』(光文社 1952年)ISBN 4860950445
- 伊良子光孝『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』(「医譚」復刊第47・48号、1976年)
- 京都府医師会 編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)
- 徳富蘇峰・平泉澄校訂 『近世日本国民史』(時事通信社、1966年)
- ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』(平凡社選書、2011年)
脚注[編集]
- ^ 慶応元年12月17日、典薬寮高階経由・経徳らの建言による(『孝明天皇紀』巻五P706-707)。もっとも、天皇没後の戊辰戦争を受けて慶応4年(1868年)3月8日に同じ高階親子の建言で撤回された(『明治天皇紀』巻一P643)。
- ^ アメリカ合衆国大統領のジェームズ・ブキャナンより贈られたウォルサム社製。
- ^ 『孝明天皇紀』巻四P592
- ^ 『孝明天皇紀』巻四P845-846
- ^ 慶応元年9月23日付書簡『大久保利通文書』巻一P311
- ^ 『岩倉具視文書』巻一P264
- ^ 『孝明天皇紀』巻四P893
- ^ 京都府医師会 編『京都の医学史』(思文閣出版、1980年)1301頁
- ^ 伊良子光孝が医学史雑誌『医譚』の第47・48号(1976年)に天脈拝診日記を再発表した際に記述したところによると、拝診日記の最初の発表以降、孝明天皇毒殺の証拠を探ろうとして光孝のもとへ歴史研究者や作家の類がかなり押しかけてきたという。これに閉口したのか、光孝は天皇の死因について「真実は医師である自分にも判らない」として私見の開陳を避け、「討幕派が天皇毒殺をするなど考えられず、また考えたくもない」といった旨のことも述べている。
- ^ ただし原口説には、天皇の痘瘡感染経路についての言及が見られないなど検証不十分な点も存在する。
関連項目[編集]
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