自由民主党 (日本)

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 日本の政党
自由民主党
Liberal Democratic Party of Japan
自由民主党本部
自由民主党本部
総裁 安倍晋三
副総裁 高村正彦
幹事長 石破茂
参議院議員総会長 溝手顕正
成立年月日 1955年昭和30年)11月15日
本部所在地
〒100-8910
東京都千代田区永田町一丁目11番23号
北緯35度40分42.6秒 東経139度44分29.1秒 / 北緯35.678500度 東経139.741417度 / 35.678500; 139.741417
衆議院議席数
(61%)
294 / 480
(2014年7月9日現在)
参議院議席数
(47%)
114 / 242
(2014年7月28日現在)
党員・党友数
789,348人[1]
2012年8月30日現在)
政治的思想・立場 保守
自由主義
反共主義
中道右派
機関紙 自由民主
政党交付金
101億5,400万 円
公式サイト 自由民主党
シンボル 太陽を仰ぐ二人の子ども
陰十四菊
LibDems
党歌「われら」
国際組織 未加盟
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自由民主党(じゆうみんしゅとう、英語: Liberal Democratic Party of Japan)は、日本の政党。略称は自民党自民LDP

1955年昭和30年)の結党から2009年平成21年)まで、および2012年(平成24年)以降は衆議院第1党で、細川羽田両内閣、および鳩山野田の各民主党内閣の時代を除き政権与党である。2012年の総選挙で衆議院第1党に復帰し、2013年の参議院選挙で参議院第1党にも復帰した。

概要[編集]

1955年昭和30年)に自由党日本民主党の「保守合同」により結成された保守政党第二次世界大戦前の二大政党立憲政友会立憲民政党、また敗戦直後に結成された日本自由党日本進歩党日本協同党の流れを汲んでいる。

党の運営体制としては選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制のもとでは、党本部の統制が弱く、政治家個人の後援会派閥が選挙の中心になった。過半数確保のために派閥が競って候補を立てることで、党全体としてはプラスに働くことが多かった。反面、同じ党といえども選挙区のライバルとして激しい対立を伴う選挙となったり(上州戦争森奥戦争など)、互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。選挙制度小選挙区比例代表並立制となった後は党本部の統制力が強まっている。

菅直人鳩山由紀夫が結党した旧民主党小沢一郎の作った自由党が登場した後は、党の正式名称である「自由民主党」を使うと混同される恐れがあるため、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えている。機関紙も、それまでの『自由新報』から『自由民主』に改題した。なお、野党となった2009年(平成21年)9月、党の政権構想会議で「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」との理由で党名変更論が出た[2]。「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため結果として改名はされなかった[3][4]

広報宣伝用として「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」と名づけたシンボルマークを用いているが、正式な党章は地に白線で描いた「中央に『自民』のモノグラムを置いた十四弁陰菊花紋章」である。また、かつては緑色の象をシンボルマークにしていたこともある。

自民党は多数の政治家を輩出し、非自民連立政権における総理大臣では細川護熙羽田孜鳩山由紀夫民国連立政権での実力者では小沢一郎亀井静香岡田克也なども自民党出身である。

党史[編集]

結党と55年体制成立[編集]

1955年自由党日本民主党保守合同による自由民主党結成大会。

1950年代当時、革新政党である日本社会党社会党左派社会党右派に分裂していたが、1955年(昭和30年)になって再統一で合意したことから、保守勢力にも統一した保守政党が急務という声が高まり、保守合同が実現した。自由党日本民主党は、両党の公認だけで当時の定数(467)を上回る534人が立候補しており、両党の共倒れを避けることも目的の一つだった。

政治学者北岡伸一によると、政党発足当初は吉田派・反吉田派、党人派官僚派、戦前派・戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、保守合同の立役者となった三木武吉は「10年も一党体制を維持できればマシな方だろう」という程度の認識だったという[5]自由民主党の派閥は、結党時は8派閥が存在し、「八個師団」と称された。

結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた[注 1]。こうして自民優位の二大政党制(社会党は自民党の半分程度であることから「一と二分の一政党制」とも呼ばれた)である、55年体制が成立した。

なお、結成直前の1954年(昭和29年)から1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていた[6][7]

高度経済成長と党安定期[編集]

1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与野党の対立が深刻化したが、岸内閣が退陣した後、自民党は「経済のことはこの池田にお任せください」と言う池田勇人総裁のもとで、経済政策を重視する路線転換を行った。また、安保闘争から間もない1960年の第29回総選挙では、社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げていくようになり、外交をめぐる政治運動は退潮していくようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。

1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない」[8]オフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した[9]

1964年、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出して、自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤」[10]と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中で、日韓基本条約の成立、 公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して、1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。

結党から1960年代の終わりまでの時期は、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったが、全体として安定期であった。また、地方の建設業界に対して一定の公共事業を発注するなど特定利権は生じるものの、いわゆる「均衡ある国土発展」と呼ばれる、富の再分配政策を行って地方の経済を回していくことを重視し、「一億総中流」を唱えるなど平等を重視する保守本流派が主流となって、農山漁村や地方小都市など地方を支持基盤としてきた。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、社会党や共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は民主社会党の離反や公明党、共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。

保革伯仲と党内抗争[編集]

佐藤長期政権後に行われた1972年自由民主党総裁選挙では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。田中内閣は成立早々の1972年(昭和47年)9月には日中共同声明を発表した。この動きに対して、1973年(昭和48年)7月には派閥横断でタカ派の政策集団である青嵐会が結成され、青嵐会は日中国交正常化反対の立場を取って活動した。

田中内閣は日本列島改造論を基礎とした、高速道路建設や新幹線整備など公共事業費を増額した1973年度予算を編成した。しかし、同年10月にはオイルショック(第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価と呼ばれたインフレーションが発生して日本経済は混乱状態に陥った。田中は同年11月にはライバルで均衡財政志向であった、福田を蔵相に任命して対応に当たらせた。福田は予算の圧縮、金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった。1974年(昭和49年)には、日本は戦後初めて経済成長率がマイナスとなった[11]1975年(昭和50年)には経済成長率はプラスとなったものの、この頃を境に、日本は高度経済成長時代から安定成長時代に移行していくようになった。

1974年7月の第10回参院選では過半数の議席を維持したものの、与野党の議席数の差がわずかとなり、保革伯仲と呼ばれる時代となった[12]。同年12月には田中は金脈問題を追及されて総理総裁を辞任した。田中の後継総裁選挙は行われず、自由民主党副総裁椎名悦三郎による指名(いわゆる椎名裁定)と両院議員総会の承認により三木武夫が総理総裁に就任した。三木は党の近代化や政治浄化、不況の克服を掲げた。

1976年(昭和51年)2月にはロッキード事件が発覚した。同年6月には党所属の六人の国会議員が離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブを結成した。同年7月には東京地検特捜部が田中角栄を逮捕し、田中は自民党を離党した。総理大臣経験者の逮捕は党内外に衝撃を与えた。同年8月には田中は受託収賄罪外為法違反容疑で起訴された。三木や法務大臣の稲葉修はロッキード事件解明に積極的な立場を取ったが、党内は反発し、三木おろしの動きが強まった。党内の動きに対して三木は対抗し、反発する閣僚を罷免して衆議院を解散する構えを見せたが、結局、任期満了まで解散しなかった。同年12月に行われた第34回総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れ(後に無所属議員の追加公認で過半数は確保した)となった。三木は選挙の責任を取り、総理総裁を辞任した。

1976年12月に福田赳夫が執行部による推挙と両院議員総会の承認により総理総裁に就任した。この際には福田が先に総理総裁を一期だけ務めた後、大平に交代することを示唆した大福密約があったとされる[13]福田内閣は当初、内閣支持率は低かった[13]が、景気回復や外交で成果を上げていくようになった。また、伯仲国会という状況下ではあったが執行部が野党の一部に対して部分連合を呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党は1977年(昭和52年)に党員、党友参加による総裁選の導入を決めた。また、党友組織の自由国民会議も結成した。さらに派閥解消が唱えられ、各派閥は形だけではあるが解散した[14]1978年(昭和53年)の自民党総裁予備選挙に福田は大福密約を無視して立候補するも、田中派の支持に支えられた大平が勝利し、福田は本選進出を辞退し、大平が総理総裁に就任した。

大平は、1979年(昭和54年)10月の第35回総選挙一般消費税の導入を公約として掲げたが、自民党は前回の衆議院議員総選挙に続いて過半数割れとなった。党内で大平の責任が追及されたが、大平は辞任要求には応じず、選挙後の特別国会での首班指名選挙で大平と福田の2人に自民党の票が割れ、事実上の党内分裂状況に陥った。投票の結果は僅差であったが大平が勝利した。同年11月の第2次大平内閣の発足で一旦、抗争は収まったがこの抗争は後に四十日抗争と呼ばれた。

1980年(昭和55年)5月16日、社会党が、衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。自民党内で反主流派となっていた三木派福田派などの議員69人は本会議を欠席して不信任決議案は可決され、史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測に反したハプニング的な解散であることからハプニング解散と呼ばれた。総選挙が公示された5月30日に大平は心筋梗塞の発作を起こして入院し、選挙期間中の6月12日に急死した。6月22日に行われた衆参同日選挙の結果は大平が死去したものの自民党の勝利となり、衆参ともに過半数の議席を確保し安定多数を得た。大平の後継の総理総裁には大平派鈴木善幸が就任し、「和の政治」を掲げて党内融和に尽力し、行財政改革に取り組んだ。

二重権力構造と保守回帰[編集]

1980年代に入ると、革新自治体も減少し、都市部を中心に自民党への回帰現象が起こった。

1982年(昭和57年)11月の党総裁選挙に鈴木善幸は立候補せず、4人が立候補した。党員党友参加による予備選挙で中曽根康弘が過半数を超える票を獲得したため、2位以下の候補は本選挙を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根派は小派閥であり、党内基盤が弱く、党総裁選挙では党内最大派閥である田中派の力を借りる形になった結果、田中派の議員は党と内閣人事で主要ポストを占めて優遇されたため、第1次中曽根内閣は田中角栄の影響力の強さをマスコミや野党から指摘され、「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれた[10]

中曽根はスローガンとして「戦後政治の総決算」を掲げた。具体的には行政改革公社民営化規制緩和、民間活力の活用などの新保守主義的な政策を打ち出した。また、教育改革国防の見直し、靖国神社公式参拝問題などの点で保守的な言動を行った。外交面では1983年(昭和58年)1月の訪米の際でのロナルド・レーガン大統領との会談で「日米両国は太平洋を挟む運命共同体」と発言するなど日米関係強化に努め、冷戦下での西側諸国の一員としての立場を明確に表明した。

1983年(昭和58年)10月12日、東京地裁はロッキード事件に関して田中角栄に有罪判決を下した。野党は田中に対して議員辞職を求めたが田中は議員辞職を拒否し、国会は紛糾した。野党は国民の審判を求めて衆議院解散を要求した。田中も有罪判決後早期の選挙による決着を図った。結局、衆参両院議長のあっせんもあり、中曽根は衆議院を解散した(田中判決解散)。同年の第37回総選挙で公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)と、中曽根は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する。政治倫理を高揚し、党体質の抜本的刷新に取り組み、清潔な党風を確立する」との総裁声明を発表した。12月27日、自民党は新自由クラブと連立政権(第2次中曽根内閣)を組んで安定多数を確保した。

1985年(昭和60年)2月に田中派内で竹下を支持する勢力が田中に反旗を翻す形で、派中派である創政会(のちの経世会)を結成した。田中は竹下に対して「同心円でいこう」[15]と融和的発言を行ったが、同月、脳梗塞で入院した。田中は障害が残って政治活動は出来なくなり、「闇将軍」とまで言われた政治力を失った。

中曽根主導の下、1986年(昭和61年)6月に国会は解散(死んだふり解散)され、7月の衆参同日選挙第38回総選挙第14回参院選)で自民党は追加公認込みで衆参それぞれ304議席(衆議院)、74議席(参議院)を獲得した。選挙後、特例で中曽根の党総裁任期一年延長が決まった。また、8月に新自由クラブは解党し、多くの党員は自民党に合流した。

1987年(昭和62年)10月の党総裁選挙ではニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎竹下登宮澤喜一のいわゆる安竹宮3人が立候補したものの、かつてのような激しい抗争を嫌った3人は話し合いをした結果、候補者一本化を中曽根に委ねた。結果として竹下を総裁にするという中曽根裁定が下った。なお、このとき皇民党事件が同時に進行していた。こうして中曽根内閣は日本電信電話公社日本専売公社の民営化、国鉄分割民営化、1987年度予算で防衛費1%枠撤廃するなどの政策を実現して4年11か月の長期政権を終えた。

1988年(昭和63年)7月の臨時国会竹下内閣消費税法案を含む税制改革関連六法案を提出した。同じ頃、リクルート関連会社であるリクルートコスモス社の値上がり確実な未公開株政界官界財界の多数の有力者や有力者の秘書、家族らに譲渡されていたとするリクルート問題が発覚した。野党は税制改革関連六法案の審議よりもリクルート問題の解明を優先すべきだと主張して、審議拒否や関係者の証人喚問等を要求し、国会はたびたび空転した。野党は法案採決の際に牛歩戦術などで抵抗し、12月9日には副総理兼蔵相であった宮澤がリクルート問題で辞任したが、12月24日に税制改革関連六法案は成立した。

1989年(昭和64年)1月7日には昭和天皇が崩御し、元号昭和から平成となった。

同年4月1日には消費税が導入されたが、同月に竹下は総理辞任の意思を表明した。5月22日に東京地検特捜部は中曽根派の藤波孝生をリクルート事件に関与した疑いで受託収賄罪在宅起訴し、藤波は自民党を離党した。5月25日に衆議院予算委員会は中曽根を証人喚問し、その後、中曽根は自民党を離党した。竹下の後継総裁には様々な候補が取りざたされたが最終的には後継総裁指名を一任されていた竹下と党四役はリクルート事件に関係がなく、外務大臣を務めていた中曽根派の幹部である宇野宗佑を推薦し、宇野も受諾した。6月2日、宇野は党両院議員総会の「起立多数」により総裁に就任し、6月3日には竹下内閣は総辞職した。

同年6月に宇野が総理総裁に就任するやいなや、宇野の女性スキャンダルが発覚した。宇野は女性スキャンダルに対して明確に否定することはなかった。7月の第15回参院選ではリクルート事件、消費税問題、農産物自由化問題のいわゆる三点セットが争点となり、自民党は逆風にあって当選者はわずか36議席にとどまり、敗北した。一方、社会党は女性候補者を多数擁立してマドンナ旋風を巻き起こして改選議席の2倍を越す46議席を獲得して躍進した。選挙後、参議院では与野党勢力が逆転した。選挙の翌日に宇野は総理総裁辞任の意思を表明した。

宇野内閣の退陣表明後に行われた8月の党総裁選挙には3人が立候補し、竹下派、旧中曽根派の支持に支えられた海部俊樹が過半数の票を獲得して総理総裁に就任した。海部内閣は少派閥である河本派の海部を党内最大派閥である竹下派会長の金丸信、派閥オーナーの竹下、党幹事長の小沢一郎のいわゆる金竹小3人が背後から操るという構造であり、「二重権力」と指摘された[16]

1991年(平成3年)9月、海部内閣は重要な政治テーマとなっていた政治改革について決着を図るべく、臨時国会にて衆議院の選挙制度に小選挙区制を導入する政治改革法案を提出した。しかし、9月30日、衆議院政治改革特別委員会理事会にて政治改革法案の廃案が決まった。この廃案決定に対して海部は「重大な決意で臨む」と発言して[10]衆議院を解散する構えを見せたが、党内の反発と、海部を支持していた竹下派の解散反対もあり、解散を断念した。海部は10月の党総裁選への立候補も辞退して退陣した。

55年体制崩壊と連立時代の到来[編集]

1992年(平成4年)の東京佐川急便事件により国民の政治不信が増大し、自民党単独の長期連続政権による金権体質が度々指摘されるようになった。また、金丸信が失脚したことにより竹下派後継争いに敗れた小沢一郎と羽田孜らは竹下派後継の小渕派と袂を分かち、改革フォーラム21(羽田派)を結成した。

政治改革が必要との流れを受けて、宮沢内閣は政治改革関連法案の成立を目指したが廃案となった。折から三塚派若手の武村正義や、羽田派など、これに反発した自民党議員が大量に離党した。内閣不信任案が可決されて国会が解散となっての1993年(平成5年)の第40回衆院選では、自民党は解散時勢力を維持したものの過半数にはとうてい届かず、保守3新党(日本新党新生党新党さきがけ)が大勝した。また、55年体制の片割れである社会党は惨敗した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民の連立政権が成立し、結党以来の自民党単独の長期連続政権に終止符が打たれた。自民党が野党に転落すると、連立政権に移籍を図る議員が目立つようになった。その一方、細川内閣小選挙区比例代表並立制を柱とした政治改革関連法案の成立を目指し、1994年(平成6年)1月29日、自民党の要求を容れる形で修正案を可決した。

連立政権は細川、新生党の羽田孜と続いたが、いずれも長続きせず、連立政権内で新生党・日本新党・公明党と、社会党・さきがけの不協和音が大きくなっていた。そこで自民党は、社会党の村山富市委員長を首相に推す奇策で、1994年(平成6年)6月30日、社会党・さきがけとの連立政権として与党に復帰した。

1996年(平成8年)1月11日、自民党の橋本龍太郎首班となり、同年の第41回総選挙では、過半数にこそ満たなかったが239議席と復調。1996年(平成8年)に改革を訴える民主党の結成によって政権維持のために行政改革を迫られた橋本内閣では、大きな政府路線を志向する平成研究会(旧経世会)系議員と、小さな政府路線を志向する清和政策研究会系議員との間で不協和音が生まれるようになる。

旧非自民連立政権側は、主に新進党に集約されていたが、この情勢を見て、今度は新進党などから自民に移籍する議員が現れ、自民党側も積極的に引き抜いた。その結果、1997年(平成9年)には総選挙を経ることなく過半数を回復。1998年(平成10年)には社会・さきがけとの連立を解消し単独政権に戻った。

橋本政権下の経済政策の失敗により同年の第18回参院選で大敗し、参議院での過半数確保に失敗したことから、橋本内閣を継いだ小渕内閣は政権を安定させるため、1999年(平成11年)、自由党の政策を呑む形で自自連立を組み、その後10月に公明党との自自公連立政権を新たに組み、2000年(平成12年)には自由党の離脱で、自由党から分裂した保守党(後に保守新党)との自公保連立政権に変わった。この時期から公明党との本格的な選挙協力関係が始まった。小渕が病に倒れると森内閣が後を継いだが、支持率は低迷し加藤の乱が勃発。その後、YKK小泉内閣の樹立を達成した。

構造改革とねじれ国会[編集]

経済面では、1991年(平成3年)にバブル景気が終焉を迎える。冷戦が終結しグローバル化が急速に進展したことにより、従来型の官僚主導による利益分配的な政治手法が機能しなくなっていたが、経済政策を劇的に転換する事が出来ず、経済成長効果が小さかったとされる公共事業を軸とした膨大な財政出動により国と地方も莫大な財政赤字を抱えるようになり、経済政策の転換を迫られることになった。そうした時代的要請から、2001年(平成13年)に小泉内閣が発足すると、公共事業の削減などにより政府の財政出動を抑制し、中央政府の権限を民間企業地方自治体に委譲すべきとする聖域なき構造改革を主張し、旧来の地方への利益分配により政党の支持基盤を磐石なものとしてきた大きな政府路線から小さな政府路線に政策を転換した。

2003年(平成15年)に保守新党を吸収してからは、自公連立政権となった。

2005年(平成17年)8月、第162回通常国会における郵政民営化法案参議院否決後に行われた第44回衆院選では、小泉劇場と言われるポピュリズム的政治手法をとり、歴史的圧勝をおさめた。その一方で「守旧派」「抵抗勢力」とされた議員が郵政民営化法案に反対票を投じたため党を除名されたり、落選したことで、党内保守派および保守系の議連が大きな打撃を受けた結果、「自民党が保守政党でなくなっていく」可能性が指摘された[注 2]

小泉内閣以降の政権は、小さな政府路線を目指した構造改革の負の部分に苦しむことになる。本来結党以来の地盤であった地方は、小さな政府路線への反発から自民党離れが進み、年金記録問題閣僚のスキャンダルもあって、安倍政権下の第21回参院選では民主党に惨敗、結党以来初めて参議院第1党から転落した。衆議院参議院で多数派が異なる構図になった(ねじれ国会)ことで与野党の対立が激化、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁が安倍晋三福田康夫麻生太郎と毎年のように変わった。

2009年(平成21年)1月、内閣府特命担当大臣を務めた渡辺喜美が離党した(数か月後にみんなの党を結成)。

2度目の野党転落へ[編集]

第45回衆議院議員総選挙[編集]

2009年(平成21年)8月30日の第45回衆院選では、運動期間中に、“民主党政権になれば労働組合侵略を許すことになる。日教組により教育がめちゃくちゃにされる” “民主党は国旗を軽んじている”[注 3]など、保守色を全面に打ち出したパンフレット公式ウェブサイトで公開し、ネガティブ・キャンペーンを実施。ボランティアを募って頒布させるなど、政権交代を野心に先走る民主党に対する批判を展開した[17][18]。また、インターネット上のCMとして、民主党代表鳩山由紀夫を始め、その他民主党幹部に似せた人物を批判するアニメを流した[19][20][21]。しかし、低迷する景気による閉塞感や、首相の指導力低下など、国民の不満は過去にないほど高まり、自民党は首相経験者や派閥領袖を含む大物議員が次々と落選する大敗を喫した。獲得議席数は119議席に止まり、2度目の野党転落となった。前回下野した時は野党とはいえ衆議院での比較第1党であったため、自民党が衆議院で第1党を失ったのは、結党以来初めてのことであった。

やはり保守思想をスタンスとしている『産経新聞』は麻生太郎が2009年8月15日の太平洋戦争大東亜戦争終戦の日靖国神社へ参拝しなかったことに対する保守層の「失望」は大きかったと主張した[22]。また、自民党支持者の3割が民主党に投票した(出口調査結果)ことを挙げて、「無党派層だけでなく自民党の常連まで愛想を尽かした形となった」と報じた。

衆議院選挙後[編集]

2009年9月11日、参議院で改革クラブ(新)統一会派「自由民主党・改革クラブ」を結成した[23]

2009年末から大臣経験者を含む現職国会議員の離党が相次ぎ、2010年(平成22年)6月時点で第45回総選挙以降の現職国会議員の離党者が15人に上り党勢の低迷に歯止めは掛からなかった[24]。自民党離脱者は、与謝野馨らがたちあがれ日本(4月10日)、舛添要一らが新党改革(4月23日、改革クラブを改称)として相次いで新党を結成し、また新党改革結成後も、引き続き旧改革クラブの大江康弘中村喜四郎と統一会派を組んでいたが、大江は5月11日に幸福実現党へ入党したため、参議院では自民党単独会派に戻った(衆議院会派は「自由民主党・無所属の会」としている)。

また元自民党国会議員や地方議会でも離党者が相次ぎ、みんなの党やたちあがれ日本へ鞍替えした者もいる[25][26]

第22回参議院議員通常選挙[編集]

鳩山由紀夫政権の迷走にも助けられ、野党として臨んだ初の大型国政選挙である2010年7月の第22回参院選では51議席を獲得。民主党の44議席を上回り、改選第1党となり与党を参院過半数割れに追い込んだ。特に1人区では21議席と民主党を圧倒した。一方で比例区では12議席と民主党の16議席を下回り、また都市部を中心にみんなの党に民主批判票を奪われ躍進を許すなど、国政の場で与党時代の勢いを取り戻したとは言い難い状況にあった。

第17回統一地方選挙[編集]

2011年(平成23年)の第17回統一地方選挙では、 菅政権の不人気もあり知事選は全勝し、都道府県議会選は1000議席以上を獲得し、東日本大震災で県議選を見送られた福島・宮城・岩手以外のほとんどの県議会選挙で議会第1党を堅持したほか、滋賀県などでは議会過半数を奪還し、地域によっては党勢復調の兆しがみられた。一方で、大阪自民府議らの大阪維新の会への参加に伴う大量離党が選挙直前に発生した大阪府では、議会第1党どころか公明党に次ぐ第3党にまで転落し、過半数を大阪維新の会に奪われるなど停滞した。

安倍体制へ[編集]

菅政権の退陣により2011年9月に野田政権が発足したものの、早々に閣僚の不祥事が続き、加えて党内の政策不一致から離党者が続出、民主党はもはや分裂の様相を見せていた。しかし、谷垣禎一総裁は攻め手を欠き、解散総選挙に追い込むことができないまま、2012年(平成24年)9月に総裁選挙を迎えた。谷垣総裁は再選出馬の意向を見せたものの、総裁を支えるはずの石原伸晃幹事長が出馬したことで、執行部内での候補者一本化に失敗し、出馬を断念した。総裁選挙では石破茂前政調会長が党員の支持を得て第1回投票で1位になったものの、国会議員票を取り込んだ安倍晋三元首相が決選投票を制し、総裁に就任。辞任経験のある総裁の再登板は結党以来初めてである。

11月14日の党首討論で野田佳彦が、来年通常国会での議員定数削減成立・議員歳費削減の確約を得れれば「16日にも解散していい」と発言し、その言葉通り11月16日に衆議院は解散され、第46回衆院選について12月4日公示・16日投開票の日程で行うことが決定された。

3年ぶりの政権復帰[編集]

2012年12月16日の第46回総選挙で、自民党は絶対安定多数を超える294議席を獲得した[27](その後鳩山邦夫が復党し295人)。選挙協力した公明党は31議席を獲得し両党合わせ325議席となり、衆議院で再議決が可能となる3分の2の320議席を上回った。対する民主党は57議席で連立与党を組んでいた国民新党と合わせても58議席となり[28]、自民党は前回の総選挙から3年3か月で再び与党となり、政権復帰を果たした。議席数上は大勝する結果となったが、前回総選挙と比べて比例の獲得票自体は減少した。そのため自民党の勝利には乱立した第三極政党の共倒れの結果という指摘もある。2013年(平成25年)6月23日の2013年東京都議会議員選挙にて4年ぶりに第1党の座に返り咲いた上に、自民党候補者全員が当選した。その後7月21日の第23回参院選でも65議席を獲得して大勝し、参議院で公明党と合わせて過半数を占めねじれ国会を解消した。さらに青森・秋田・群馬・富山・石川・福井・鳥取・島根・山口・徳島・宮崎は衆参両議員を独占することになりまた岩手と大阪以外の都道府県では選挙区・比例および衆参の議員数の合計が野党を上回っている。

略史[編集]

結党時[編集]

1980年代[編集]

1990年代[編集]

2000年代[編集]

近年[編集]

  • 2012年平成24年)
    • 4月27日 - 日本国との平和条約締結60年に当たり、新しい改憲試案を発表(2005年試案をさらに改定)。自衛隊を“国防軍である”と明言し、国歌を「君が代」、国旗を「日章旗」と定めまたこれらの尊重義務を定める内容。
    • 6月4日 - 老朽化した社会資本の更新による防災・減災対策と、建設業・関連製造業・技術業などの第二次産業方面からのデフレ対策として、10年間で200兆円の公共投資を盛り込んだ「国土強靭化基本法案」を衆議院に提出した[34]
    • 6月20日 - 民自公の三党合意によって、消費税増税などの社会保障財源徴収について委員会・有識者会議での議論・政策調整を根拠付ける「社会保障制度改⾰推進法案」を衆議院に共同提出。景気条項の附則によって、低所得者対策、デフレ対策の進捗と消費税の引き上げ時期の議論・調整ついては本法案を以て行われるものされた。
    • 6月26日 - 政府提出の著作権法改正案の審議に際し、違法ダウンロードへの刑事罰導入の追記を自民・公明両党が推したことや、同法案に民主党と賛成したこと(政府・民主党はリッピング禁止を盛り込んだ著作権法改正案成立を提出しており、自公両党は違法ダウンロード刑事罰化の付記を要望し、事実上のバーターとして民主党が同意。消費税に関する法案採決を控えた与野党協調の状況も相俟って、参議院送付後は極めて短期間のうちに民自公みんな等の賛成多数で可決し、同法案は成立した。)[35]などへの抗議として、国際的ハッカー集団「アノニマス」によるハッカー攻撃を公式HPに受け、一時閲覧が困難な状況となった。(同6月26日、民主党のHPもアノニマスの攻撃を受け、サイトが負荷超過となった模様。)[36]
    • 6月28日 - 日本の政党史上初となる、インターネット上の動画サイト・ニコニコ動画において、党本部をロケ地とした12時間の生放送を行った。谷垣総裁、石原幹事長、茂木政調会長、大島副総裁など党執行部役員の出演番組をはじめ、安倍晋三、麻生太郎など首相経験者やベテラン議員から中堅若手の衆参議員にとどまらず、文化人や言論人、築地の魚介卸売業者も交えた番組を数々行った[37]
    • 9月14日 - 2012年自由民主党総裁選挙が告示された。投開票日は9月26日
    • 9月26日 - 予定通り投開票が行われ、最終的に決選投票を制した安倍晋三元首相が二度目の総裁就任を果たした。
    • 12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙で294議席を獲得し、衆議院第1党に返り咲く。
    • 12月26日 - 安倍総裁が第96代内閣総理大臣に選出し、第2次安倍内閣発足。公明党とともに3年ぶりに政権復帰。
  • 2013年(平成25年)

政策[編集]

1955年結党時[編集]

1955年の結党時には、「立党宣言」、「綱領」、「党の性格」、「党の使命」、「党の政綱」の5文書を作成した。

立党宣言[編集]

1955年の「立党宣言」で政治の使命は民生の安定、公共福祉の増進、自主独立、平和の確立とし、立党の政治理念は議会民主政治と、個人の自由と人格の尊厳とした[38]

1955年綱領[編集]

1955年の「綱領」で以下を記載した[39]

  1. 民主主義、文化的民主国家。
  2. 平和と自由、自主独立。
  3. 公共の福祉、個人の創意と企業の自由、経済の総合計画、民生安定と福祉国家。

党の性格[編集]

1955年の「党の性格」で以下を記載した[40]

  1. 国民政党として階級政党に反対。
  2. 平和主義政党として国際連合憲章の精神に則り世界平和に努力。
  3. 真の民主主義政党として基本的人権を尊重し、階級独裁共産主義に反対。
  4. 議会主義政党として、極左極右全体主義に反対。
  5. 進歩的政党として、闘争や破壊は排し伝統秩序を保持しつつ現状改革
  6. 福祉国家の実現をはかる政党として、社会主義経済独占資本主義を廃し、自由企業を基本に計画性を付与し生産増強、社会保障完全雇用、福祉国家を実現。

党の使命[編集]

1955年の「党の使命」では社会主義共産主義など反米勢力を批判し、日本国憲法戦後民主主義を“日本の弱体化の一因”と指摘。“正しい民主主義と自由こそが必要であり、わが党は憲法改正で国民の負託に応える”と述べた[41]

党の政綱[編集]

1955年の「党の政綱」で以下を記載した[42]

  1. 国民道義の確立と教育の改革 - 正しい民主主義と祖国愛の高揚、国民情操の純化向上
  2. 政官界の刷新 - 選挙制度や公務員制度の改正、中央と地方の責任行政体制、行財政の効率化
  3. 経済自立の達成 - 年次計画による経済政策、農林漁業の安定、中小企業の振興、労使協力体制の確立、原子力の平和利用
  4. 福祉社会の建設 - 社会保障施策の整備、生活環境の改善、社会正義に立脚した福祉社会
  5. 平和外交の積極的展開 - 自由民主主義諸国との協力、国際連合への加入、原水爆の禁止
  6. 独立体制の整備 - 現行憲法の自主的改正自衛軍備

2005年綱領[編集]

2005年11月22日の党大会で理念と「新綱領」を発表した[43]

2010年綱領[編集]

2010年(平成22年)1月24日、第77回定期党大会にて「平成22年綱領」[44]を決定した。

  • 「現状認識」として、天皇の下に[45]、また日米同盟を基軸とする外交政策で平和な日本を作り上げたとした。立党目的のうち「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」は達成されたが、独自の伝統・文化の喪失、経済成長の鈍化、財政悪化、少子化などの現実があり、もう1つの立党目的である「日本らしい日本の確立」が重要とした。平成21年総選挙の敗北を反省し、護り続けてきた自由(自由主義)は市場原理主義でも無原則な政府介入主義でも無いとして、自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由とした。
  • 我が党は常に進歩を目指す保守政党である - 自由主義、民主制、秩序の中の進歩、真実を語る、多様な組織との対話
  • 我が党の政策の基本的考え - 新憲法の制定、自主防衛、自助自立する個人の尊重、市場経済、地域社会と家族の絆、公正な政策、財政の効率化と税制改正
  • 我が党は誇りと活力ある日本像を目指す - 家族・地域社会・国への帰属意識、合意形成を怠らぬ民主制、努力するものが報われる社会、国債残高の減額、世界平和への義務

その他[編集]

自由民主党が公式に発表した主な政策や公式声明には以下がある。

組織[編集]

党員[編集]

自由民主党の目的に賛同する満18歳以上の日本国籍保持者で、党則の定める義務を履行する者。

入党には党員1名からの紹介がされることが必要である。2012年平成24年)8月30日における党員数は78万9348人[1]。一般党員、家族党員、特別党員の3種類に分かれており、一般党員の党費は年間4,000円。家族党員は年額2,000円だが、同一生計内に一般党員1名がいないといけない。特別党員は年間20,000円以上であれば、政治資金規正法の範囲内で出す金額を自由に決められる。なお一般党員であっても自由国民会議会員と両立することができ、政治資金の面でより強力かつ効果的な支援をすることができる。

20歳以上(もしくはその年に20歳になる者)で直近2年間連続して党費の滞納がないことを条件に、総裁選挙の投票権が与えられる[56]

他党から自民党への移籍を希望するときは、国会議員の場合は総裁または幹事長、都道府県議や自治体議員は県連会長に直接会って了承されなければならない[注 13]

党員数は1991年(平成3年)には約547万人を記録していたが、参院選比例代表の非拘束名簿式が導入された2001年(平成13年)には200万人を割り、野党転落した2009年(平成21年)末には所属国会議員の激減や支持団体が離反が相次いだこともあり、2012年平成24年)8月30日の党員・党友数の集計によると78万9348人[1](2008年より15万人以上にまで減退)となり、結党以来初めて100万人を割った[57]

名義貸し党員[編集]

自民党の党員はピーク時の1991年(平成3年)には547万人いたが、積極的に活動したのは半数にも満たなかった。これは、特に職域支部において明らかに党活動に参加する意思のない者が支部を通じて入党したかのように見せかける「名義貸し」が行われていたことが原因である。

当時は総裁選挙における党員・党友票の扱いが現在と異なり、有効投票1万票を議員票1票に換算して基礎票としていたため、たとえ1票の重みが議員票の1万分の1であったとしても、1人でも多くの個人党員を獲得することが議員の所属する派閥が推す候補者を総裁選で勝たせるのに必要であったという事情がある。

また1983年(昭和58年)に導入された参議院比例代表選挙で、自民党の名簿上位に登載されるには立候補予定者が自らの傘下の党員を多く獲得しその名簿を提出する必要があったため、立候補予定者が所属または関係していた利益団体が党費を立て替えて支持者、宗教団体であれば信者を多数自民党に入党させることもあり、それが弊害化していった。

名義を貸しただけの党員の党費は支部自体や、支部を構成する圧力団体が行う政治献金によって払われたものとして処理されていた。党員証も支部預かりとなって本人には渡されず、当時の機関紙だった「自由新報」も各個人まで届かなかった。総裁選挙の投票権も本人の知らないところで処理され、支部長の支持する国会議員が所属していた派閥の候補者にまとめて投票されるなど事実上の組織票として取り扱われることすらあった。このように計上された党員数は国政選挙の有無にあわせて乱高下を繰り返していた。

1990年代に党員数が急減したのは、政治資金規正法の改正によって名義貸しが罰則付きで禁止され、急速に解消されていったことにも一因がある。

本部[編集]

国会議事堂の北西すぐに党本部がある。財団法人自由民主会館が所有する9階建てのビルで、「自由民主会館」という。その土地(国有地)を年間約7000万円で借りているものである。これは、かつての本部が東京オリンピック開催に伴う国道246号の拡幅工事で立ち退きが必要になったため、国が代替地を提供したことによる。延べ床面積は約1万5600平方メートルで大規模な本部ビル[注 14]ではあるが、約1万6000平方メートルある日本共産党本部の方が大きく、日本最大ではない[58]

2012年12月に老朽化による取り壊しと敷地返納が決定された社民党本部ビルは、同施設と同時期同理由により建設されたものであるが、社民党本部ビルと異なり、同施設においては2000年代初頭に実施された耐震補強工事を含む適切なメンテナンスにより東日本大震災でも被害らしい被害は発生していない。2009年の国会において鳩山由紀夫民主党幹事長(当時)により、麻生太郎首相に対して「自民党本部の土地は国有地。国民に返すことを提案する」[59]などと要求される一方で、「社民党に言ったわけではない」(鳩山由紀夫民主党幹事長)とされるなど、同施設と社民党本部ビルとは、同時期同理由により建設された公党の本部ビルという共通項の多い施設でありながら、扱われ方が大きく異なっている。

地方組織[編集]

自民党は選挙区あるいは市区町村ごとに支部を擁しており、都道府県ごとに支部の連合会を設置している。この連合会のことを県連(けんれん)と略しており、正式には「自由民主党○○県支部連合会」という。東京都大阪府京都府北海道においてはそれぞれ都連(とれん)、府連(ふれん)、道連(どうれん)になる。県連会長は現職国会議員でなければならない。県連幹事長は地元の都道府県議会から出すのが通例である。県連総務会長、政調会長は都道府県議会だけでなく、同一県内にある政令指定都市の市議会から出すこともあるが、東京都連のように幹事長以外がすべて国会議員という例もある。

比例代表選出議員は都道府県ごとに置かれる「比例区支部」に所属しその支部長となる。参議院比例代表であっても出身都道府県ごとに「参議院比例区支部」が設けられ現職議員および立候補予定者はその支部長になる。

また、党員ではあるが選挙区に空きがない有力候補予定者のために都道府県に「衆議院選挙区第二支部」を置く事がある[注 15]

参議院自由民主党[編集]

参議院自由民主党は各種業界・団体代表者の割合が高い。1989年(平成元年)の第15回参議院議員通常選挙で大敗、過半数割れした結果、歴代の自民党政権・執行部は参院対策に重点を置いてきた。参院自民党の執行部人事は総裁の専権事項ではなく、また閣僚人事も派閥領袖より参院議員会長・参院幹事長の意向が優先される参議院枠が存在する、派閥に対する帰属意識が衆院に比べて弱い。

離党と賞罰[編集]

現職国会議員が離党する場合、幹事長宛に離党届を提出し、党紀委員会において処分の対象にならないことを確認した上で了承を得る必要がある。地方議員は都道府県支部連合会会長宛てで同様の手続きを踏む。党紀委員会または県連会合で了承されないときは処分の対象となり、その場合多くは除名となる。除名処分を受けると原則として二度と復党できず[注 16]、同時に所属していた自民党会派も退会となる[注 17][注 18]

その他、党紀委員会の処分としては重い順に、除名、離党勧告、党員資格停止、公認取り消し、国会・政府での役職停止、党内役職停止、幹事長厳重戒告、党則遵守勧告がある[60]

このうち、離党勧告は期限を付けることができる。期限付きとなった場合、その期限までに離党届が提出されたときは党紀委員会でこれを了承しなければならず、将来の復党の可能性も与えられる(郵政造反組復党問題を参照)。提出されない場合は除名処分に切り替わる[注 19]

一度離党した議員が復党を希望するときは、入党申込書を県連ではなく幹事長、場合によっては総裁宛に提出し、最低でも党紀委員会の審査を受けて了承されなければならない。

役職[編集]

歴代総裁(党首)[編集]

自由民主党シャドウ・キャビネット[編集]

歴代執行部役員[編集]

党役員[編集]

  • 2014年8月2日現在
総裁 安倍晋三  
副総裁 高村正彦  
幹事長 石破茂  
幹事長代行 細田博之  
幹事長代理 浜田靖一 山本順三
選挙対策委員長 河村建夫  
広報本部長 小池百合子  
国会対策委員長 佐藤勉  
総務会長 野田聖子  
両院議員総会長 尾辻秀久  
政務調査会長 高市早苗  
参議院議員総会長 溝手顕正  
参議院幹事長 脇雅史  
参議院政策審議会長 山谷えり子  
参議院国会対策委員長 伊達忠一  
  • 総裁は派閥を正式に退会、党四役以上は形式的に派閥を離脱。
  • かつては首相・衆参両院議長・副総裁の経験者からなる最高顧問が存在したが1990年代中期に廃止された。

派閥[編集]

以下は2014年(平成25年)4月時点の派閥構成人数。

町村派 額賀派 岸田派 麻生派 二階派 石原派 大島派 無派閥
衆議院 59 33 33 29 25 12 9 95 295
参議院 33 19 8 5 6 1 4 39 115
92 52 41 34 31 13 13 134 410

衆議院議長で会派離脱中の伊吹文明(二階派)、参議院議長で会派離脱中の山崎正昭(町村派)を含む。二階派客員会員である中村喜四郎長崎幸太郎山口壮は無所属のため除外。

支持組織[編集]

党友組織[編集]

党員が加入することも可能。日本国籍を有する者に限られる。「自民党にモノ言う応援団」を標榜している。1977年(昭和52年)創設時の初代代表は保守派の論客として知られた作曲家黛敏郎

政治資金団体[編集]

1976年(昭和51年)1月1日指定。法人用の党友組織でもある。自由国民会議同様に日本国籍を有する個人でも入会可能。しかし個人会員は日本国籍を有する者に限られ、外資系企業が法人会員になることや在日外国人が個人会員になることは不可能。

同和団体[編集]

1986年(昭和61年)結成。自民党幹事長経験者で国会議員引退しさらに離党した野中広務が現在も京都府本部最高顧問を務め、人権擁護法案成立に向けて尽力している。

友好団体[編集]

事実上の支援団体[編集]

  • 現在は「中立」としている団体を含む。
カテゴリー 団体
財界団体
業界団体
宗教団体
組合系
  • 農業協同組合(JA)、漁業協同組合:JAは2009年の政権交代以後は「中立である」としているが、現在でも組織内候補を擁立するなどある程度の関係はある。ただし、JAはTPP反対を最優先しているため、TPPへの対応次第では関係が変化する可能性がある[64]
  • 全日本教職員連盟:保守系の教職員組合。民主党の支持母体である日本教職員組合とは対極の政治立場である。
政治思想系

一般支持者[編集]

前述されたように自民党は財界や保守層からの支持が根強い。小泉純一郎政権時は、マスコミ報道を効果的に利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・従来政治に関心が無かった層からも幅広い支持を集めた。第44回衆議院議員総選挙では党広報担当の世耕弘成民間企業広告代理店と協力して自らのイメージを高め反対勢力のイメージを落とそうとするメディア戦略を行った(B層)。

近年の動向[編集]

自民党は都市部と過疎地の経済的格差の是正を重視する保守本流政策を田中角栄内閣以来踏襲し、農山漁村や地方小都市からの支持が根強かったが、近年は自由競争による経済効率を重視する政策への転換を図り、公共事業の削減を進めたため、公共事業に大きく依存する農山漁村や地方小都市からの支持を失いつつある。したがって地方組織は弱体化しつつあり、党員数も減少傾向にある。また以前は大都市での支持が比較的高かった民主党が地方で議席を伸ばしたり健闘することが多くなってきている。

2010年(平成22年)6月9日には、主に若年層・特にインターネット上で活発に活動する層の取り込みを狙い、新たに公認ボランティア組織として『自民党ネットサポーターズクラブ』(J-NSC)を設立した(従来存在した「チーム世耕」の公然化)。J-NSCでは入会資格を「18歳以上で日本国籍保持者」として会費を無料とし、従来の党員・党友よりも幅広い層の取り込み、並びにいわゆる『ネット選挙』の本格的解禁に備えることを狙っている。

対外関係[編集]

アメリカ合衆国[編集]

アメリカの共和党日米安全保障条約、また韓国や太平洋諸国との同種の二国間軍事同盟(これが為、アジア太平洋地域に集団安全保障体制は存在しない)に基づく東アジア外交を重視し、さらには#党史にも述べられているように結党に深く関与しているため、およそ50年間にわたり政権を執ってきた自民党もその条約体制を概ね支持する意味から共和党政権との外交関係を重視してきた。発足以来、アメリカにおいて共和党の対立政党である民主党による政権はケネディジョンソンカータークリントンおよびオバマの各政権があるが、概ね共和党の外交政策を踏襲したケネディ政権を除いては民主党は東アジアにおける安全保障政策および東アジア外交を重視しない方針を取ってきたため、自民党とアメリカ民主党との外交関係は薄いのが現状である。

共和党政権ではとりわけ、日中国交回復の実現で協力した田中政権とニクソン政権、新自由主義に基づく経済戦略と国際戦略で協調路線を取った中曽根政権とレーガン政権・小泉政権とブッシュ政権がそれぞれ深い外交関係を持つものであった。アメリカの財政改善を重視したクリントン政権(1993年2001年)以降、日本とアメリカの外交関係は疎遠なものとなり、2009年(平成21年)発足した日本の民主党政権においても対アメリカ外交に関する基本的方針は確立されていない。

中華人民共和国[編集]

日中友好議員連盟には多数の議員が所属し、高村正彦が会長、町村信孝が副会長を務める。また、北京オリンピックを支援する議員の会河野洋平会長など100人以上の議員が参加している。なお日中緑化推進議員連盟には二階俊博らが所属している。

2007年(平成19年)夏の参院選後に、森喜朗古賀誠二階俊博らが新たな日中友好議員連盟の結成を予定していると報じられた。2007年(平成19年)7月4日には、中華人民共和国王毅大使と中国大使公邸で懇談し、協力を求めた。日中国交正常化35周年に合わせて日本と中国が進める「2万人交流」プロジェクトが今秋にも達成されるのに合わせ、双方で記念式典を開催することで一致したとされる[65]

なお、自民党内には伝統的に岸信介など親台湾派の議員も数多く存在する。

大韓民国[編集]

日韓議員連盟に自民党議員177名が参加している。2012年12月に発足した第2次安倍内閣は、日韓関係修復のため第46回衆議院議員総選挙の総合政策集に明記していた政府主催による「竹島の日」記念式典の見送りを決定[66]した他、自民党の額賀福志郎を首相特使として派遣し朴槿恵次期大統領との首脳会談を要請した[67]

朝鮮民主主義人民共和国[編集]

南北分断固定以後は韓国同様にその存在を認めていないが、1990年(平成2年)には金丸信日本社会党と共同で訪朝団を結成し(金丸訪朝団)、国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党・社会党・朝鮮労働党の3党で交している。

また超党派の北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟日朝国交正常化推進議員連盟に参加している議員もいる。

政党交付金[編集]

  • 2009年(平成21年) - 139億8032万円
  • 2010年(平成22年) - 102億6381万円
  • 2011年(平成23年) - 101億1468万円
  • 2012年(平成24年) - 101億5400万円

党勢の推移[編集]

衆議院[編集]

選挙 当選/候補者 定数 備考
(結党時) 299/- 467 党のあゆみ」による
第28回総選挙 ○287/413 467 追加公認+11
第29回総選挙 ○296/399 467 追加公認+4
第30回総選挙 ○283/359 467 追加公認+11
第31回総選挙 ○277/342 486 追加公認+3
第32回総選挙 ○288/328 486 追加公認+12
第33回総選挙 ●271/339 491 追加公認+13
第34回総選挙 ●249/320 511 追加公認+12、死去-1
第35回総選挙 ●248/322 511 追加公認+10
第36回総選挙 ○284/310 511 追加公認+3
第37回総選挙 ●250/339 511 追加公認+9
第38回総選挙 ○300/322 512 追加公認+4、新自由クラブより合流+5
第39回総選挙 ○275/338 512 追加公認+11
第40回総選挙 ●223/285 511 追加公認+8、離党-3
第41回総選挙 ○239/355 500
第42回総選挙 ●233/337 480 (連立政権では過半数維持)
第43回総選挙 ●237/336 480 追加公認+4、保守新党より合流+4
第44回総選挙 ○296/346 480 翌年の復党合流+11
第45回総選挙 ●119/326 480 離党-4、繰上当選+2、補選当選+1
第46回総選挙 ○294/337 480 復党+1

参議院[編集]

選挙 当選/候補者 非改選 定数 備考
(結党時) 118/- - 250 党のあゆみ」による
第4回通常選挙 ○61/118 61 250 追加公認+2、死去-2、非改選入党+2
第5回通常選挙 ○71/101 62 250 追加公認+2
第6回通常選挙 ○69/100 73 250 追加公認+1
第7回通常選挙 ○71/95 69 250
第8回通常選挙 ○69/93 68 250
第9回通常選挙 ●63/94 72 252 追加公認+1、繰上当選+1
第10回通常選挙 ●62/95 64 252 追加公認+1
第11回通常選挙 ○63/77 61 252 追加公認+3、離党-2
第12回通常選挙 ○69/77 66 252 追加公認+1、非改選入党+1
第13回通常選挙 ○68/90 69 252
第14回通常選挙 ○72/83 71 252 追加公認+2
第15回通常選挙 ●36/78 73 252 追加公認+2
第16回通常選挙 ○69/82 39 252 追加公認+1
第17回通常選挙 ●46/66 65 252 (連立政権では過半数維持)
第18回通常選挙 ●44/87 59 252 追加公認+2
第19回通常選挙 ○64/76 47 247 保守党5と統一会派)
第20回通常選挙 ●49/83 66 242 (連立政権では過半数維持)
第21回通常選挙 ●37/84 46 242 入党+1、離党-12、議員辞職-1
第22回通常選挙 ○51/84 33 242 離党-1
第23回通常選挙 ○65/78 49 242

(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店岩波新書ISBN 4-00-430904-2

所属国会議員[編集]

地方政治[編集]

  • 地方議員:3048人
    • 都道府県議会:1271人
    • 市議会:1301人
    • 特別区議会:286人
    • 町村議会:69人
  • 政党支部数:7,252(2014年現在)

政党収入額[編集]

2010年(平成22年) - 439億1,820万円

得票総数[編集]

  • 第21回通常選挙 - 選挙区18,606,193票・比例代表16,544,671票
  • 第45回総選挙 - 小選挙区27,301,982票・比例代表18,810,217票
  • 第22回通常選挙 - 選挙区19,496,083票・比例代表14,071,671票
  • 第46回総選挙 - 小選挙区25,643,309票・比例代表16,624,457票
  • 第23回通常選挙 - 選挙区22,681,192票・比例代表18,460,404票

連立政党[編集]

これまでに自由民主党が連立政権を組んだ政党を列記する。

その他、閣外協力では自由連合村山改造内閣に、改革クラブが小渕第2次改造内閣と第1次森内閣に政務次官を輩出している。副大臣大臣政務官を一切輩出しない閣外協力では麻生内閣における(新党改革の前身で08年夏結成)改革クラブがある。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ さらに、残った無所属の小沢貞孝も後に社会党入りしたため、二大政党以外は共産党の1人だけだった。
  2. ^ 「教科書・拉致・靖国…メンバー相次ぐ落選 自民「保守派」思わぬピンチ」(『産経新聞』 2005年9月14日)
  3. ^ 鹿児島4区で立候補した皆吉稲生候補の陣営が、国旗を切り貼りしたものを党旗の代用とした事件などを指す。
  4. ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党したのは・西岡武夫(1980年)、河野洋平(1986年)、山口敏夫(同)。新自クを離党したのは小林正巳(1980年)と、参議院議員の有田一寿(1979年8月)
  5. ^ 離党した10名のうち後に自民党に復党したのは、三原朝彦(1996年に落選、翌年自民復党、2003年当選)、渡海紀三朗(1998年)、園田博之(1998年離党、1999年自民復党)、岩屋毅(1993年落選、新進党を経て2000年自民復党、当選)、さきがけを離党したのは佐藤謙一郎(1995年離党、1996年民主党結成に参加)
  6. ^ 離党した44名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、[[高橋一郎 (衆議院議員)|]](1996年)、井奥貞雄(1996年)、杉山憲夫(1996年)、北村直人(1997年)、愛知和男(1997年)、船田元(1997年)、増田敏男(1997年)、仲村正治(1997年)、村井仁(1998年)、左藤恵(1998年)、古賀正浩(1998年)、山本幸三(1990年は自民公認で落選、1993年新生公認で当選、1998年自民復党)、松田岩夫(1996年に無所属で落選、1998年参議院選挙は無所属で当選、民主党との統一会派を経て2000年自民復党、2010年除名)、魚住汎英(1993年落選、2000年参院議員当選、2001年自民復党)、星野行男(1996年落選、2002年自民復党)、井上喜一(2003年)、二階俊博(2003年)。参議院議員は、河本英典(1996年)、泉信也(2003年)。なお、同時期には鳩山邦夫(2000年自民復党)、山口敏夫も離党している。
  7. ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、吹田愰(1996年山口県知事選に落選、2000年自民復党、衆院選落選)
  8. ^ 1993年12月、衆議院議員の西岡武夫石破茂笹川尭大石正光ら4名、1994年1月、参議院議員の木暮山人、星野朋市、石井一二ら3名、1994年2月、参議院議員の野末陳平、1994年4月、衆議院議員の小坂憲次、参議院議員の扇千景ら2名が離党。このうち自民党に復党したのは、石破(1997年)、笹川(1997年)、小坂(1998年)、扇(2003年)。
  9. ^ 離党した5名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、坂本剛二(1998年)、佐藤敬夫(2003年落選し、2005年自民復党、同年落選)。
  10. ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、柿沢弘治(1995年)、太田誠一(1995年)、佐藤静雄(1995年)、新井将敬(1997年)、米田建三(1997年)、山本拓(2000年)ら全員である。
  11. ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、津島雄二(1995年)、保岡興治(1995年)、今津寛(1996年)、野田毅(2002年)、海部俊樹(2003年)。
  12. ^ ちなみに単独過半数を回復した251人目は北村直人である。
  13. ^ この例を適用されたのが改革クラブから移籍した松下新平で、総裁の谷垣に直接面会して了承されている。
  14. ^ もっともかつて”世界一の金持ち政党”といわれた中国国民党本部(野党転落を期に現在は売却)やフランス共産党本部(世界的建築家オスカー・ニーマイヤー設計)など、大規模な党本部施設をもつ政党は少なくない。
  15. ^ 森田健作は「東京都衆議院選挙区第二支部長」であった
  16. ^ この例外として上川陽子がいる。
  17. ^ そのために復党が議題に上らなかった例として郵政解散のときの野呂田芳成がいる。
  18. ^ また党分裂に積極的に関与したという理由で新党の最高幹部が除名される例もあり、最近では国民新党現代表の亀井静香や前代表の綿貫民輔たちあがれ日本共同代表の与謝野馨、新党改革代表の舛添要一がいるが、彼らも自民党には二度と戻れない
  19. ^ 直近の例としては郵政解散の時の亀井郁夫がいる。亀井はその後、国民新党へ移籍した。

出典[編集]

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関連項目[編集]

外部リンク[編集]