冷戦
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冷戦(れいせん、冷たい戦争=Cold War)は、第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義(自由主義)陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義(社会主義)陣営との対立構造。
1945年から1989年まで続き、直接武力衝突する戦争を伴わなかったため、武力衝突を意味する「熱い」戦争に対して、このように呼ばれた(アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年出版の著書のタイトルに使ったことから一般に流布したとされる)。各陣営とも一枚板ではなく動的には反目するなど、イデオロギーを概念とした包括的な大同団結である。
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[編集] 概要
冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を中心とした共産主義の陣営(共産圏)は、東欧に集まっていたことから東側、対するアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営は西側と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。また、対立構造の中で西欧は統合が進み、欧州共同体、欧州連合の結成へ向かった。
主に欧州における対立構造であるが、欧州以外にも、アジア、中東、南米などで、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、当時の英国首相ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテンがおろされている」と表現した。
このどちらにも属さない後進国(開発途上国)は、「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営拡大の思惑のなか翻弄されたといわれる。しかしこうした両陣営の思惑を逆手に取り両者を天秤にかけることで多額の援助を引き出す援助外交も活発に行なわれた。またこの二つの対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。
ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったためヤルタからマルタへということも言われる。
[編集] 冷戦の展開
[編集] 起源(1945年-)
冷戦の起源は、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリン、イギリス・ウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
枢軸の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。
[編集] ポーランド問題
ヤルタ会談の焦点のひとつがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチスのポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。
またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国を解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、英米にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢をとった。
ルーズヴェルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる。(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)
[編集] ベルリン問題
ドイツの首都ベルリンは、その国土同様に4国分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへつながる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗する為、西側連合国は物資の空輸を行なって、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
[編集] 冷戦のグローバル化(1949年-)
冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。ヤルタ会談によって、日本が統治していた朝鮮半島は、北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、それぞれに傀儡政権を作り、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中国軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。一方、国民党は台湾島に逃れ、アメリカの支援のもと大陸への反攻をねらった。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって英米仏等が承認した。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、西側は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。
これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約(ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
この様に冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。
1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。
[編集] 雪どけ(1955年-1958年)
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動についで、国民の人気が高かったゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。
一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機や部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。
主な出来事
- スエズ戦争(1956年)
- ハンガリー事件(1956年)
- スプートニク打ち上げ成功(1957年) →スプートニク・ショック
- ミサイル・ギャップ論争
[編集] 危機の時代(1958年-1962年)
互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に所持するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットやU-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。
しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年のキューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。
その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルやボリビア、ウルグアイなどで親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による国家の私物化と汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。
[編集] ベルリン危機(1958年-1961年)
1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機であった。
当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が、後に壁が築かれた(ベルリンの壁)。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
主な出来事
[編集] 冷戦の変容(1963年-1968年)
キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。
軍備拡張が進む中、ソ連もアメリカも財政赤字に苦しみ、消耗していく。アメリカはアメリカ病と呼ばれる経済不振、モラルの低下、犯罪の増加に悩まされ、財政難による軍事拡張の限界と、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。また、1950年代の経済成長と一人勝ちに対し、1960年代には成長が鈍り、日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、相対的に弱体化していた。このため世界通貨ドルの価値が低下し、西側経済は「ドル危機」と呼ばれる状況となった。
ソ連は中央指令型の計画経済の失敗、軍事費の負担から経済が破綻し、共産圏の箍(たが)が緩み始める。チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した(ユーロコミュニズム)。こうして今にいたる共産主義の多極化が起こった。
主な出来事
[編集] デタントの時代(1969年-1979年)
1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉(SALT)を開始、1972年と1979年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。一方、ソ連を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、リチャード・ニクソンが1971年に中華人民共和国を電撃訪問し、東アジアにおける冷戦の機軸であった米中関係が改善、1972年には日本が中華人民共和国と国交正常化した。また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシナ半島は完全に赤化された。
ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立につながった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力(INF)を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
一方アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争がおこっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼となった。
また、ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア、ラオス、エチオピアの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、南イエメンでは共産主義勢力に加担して紛争に介入した。ほかにビルマ、アルジェリア、コンゴ、イラクといった、アメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
[編集] 新冷戦(1979年-1985年)
1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソ連がアフガニスタンを侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。またアメリカはアフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助したため、ソ連はアフガニスタンを完全に制圧することができなかった。侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
ところで、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別に、もうひとつの勢力があることに気がつき始めた。それはイスラム原理主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠されるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。
このイラン革命によって中東は動揺し、1981年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソはイスラム革命が世界に広がることを恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は8年の長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになるとは誰も予想しなかった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1988年に泥沼のアフガンから撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
[編集] 終結過程(1985年-1991年)
1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、国内体制の改善と大胆な軍縮提案を行い、西側との関係改善に乗り出す。1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約(INF)を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。
ソ連は東欧諸国に対しても改革を促し、1989年にポーランドでポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代、ハンガリー、チェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ住民が西ドイツへ大量脱出した。このため11月には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでは革命に抵抗したチャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が崩壊した(東欧革命)。12月、地中海のマルタ島でゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した[1]。
一方、ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニアが主権宣言、1989年7月にリトアニア共産党がソビエト共産党からの独立を宣言した。1990年3月から6月にかけてに東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、最高会議は独立宣言を採択した。これを受け、ロシアも6月に主権宣言を出し、連邦からの離脱を表明した。ソ連政府はバルト3国に対して軍事行動を起こし、流血の事態となった。
冷戦の要因のひとつであったドイツ問題は、ヨーロッパピクニック事件をきっかけにベルリンの壁が崩れたことにより、統一へ向けた動きが加速化した。1990年3月の選挙で早期統合を目指す諸党派が勝利、ソ連は統一ドイツがNATOに属することに難色を示したが、最終的にNATO帰属を認め、10月に東西ドイツは統一した。また、米ソは1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START)に調印し、ここに名実共に冷戦が終結した。
アメリカは1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。
ソ連は1991年3月、バルト3国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。しかし新連邦条約調印直前の8月、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。クーデターは、ロシアのボリス・エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。しかし、その結果バルト三国は独立を達成、各構成共和国でも独立にむけた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチ最高会議議長がベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は死滅した。その後十年間で、東欧・旧ソ連の国々は相次いで資本主義国家となった。
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結すると、反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事独裁政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終結しアメリカとの対決の必然性がなくなったロシアにとって戦略的価値を失い、援助はストップし経済危機に陥ることとなった。
[編集] 冷戦終結後の経過
米蘇冷戦が終結した当初の1990年代初期においては、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で述べたことを受けて、希望と幸福が訪れると見る向きもあった。しかし、冷戦終結直後の1991年12月に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となってアメリカ的システムが絶対化されるアメリカナイゼーションが世界を席巻した。政治のアメリカナイゼーションは「民主化」の名で、経済のアメリカナイゼーションは「グローバリゼーション」の名で推進された。同時に冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。
東ヨーロッパを見ると、1992年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を付けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。又、このテロにはイスラム原理主義過激派の関与が疑われている。
西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの国交正常化の外は、中華人民共和国と中華民国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。特に、中華人民共和国は1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(日本や台湾や韓国)にとって脅威となっていると言われるようになった(中国脅威論、米中冷戦)。中華人民共和国は、民主主義国家ではなく、一党独裁国家であり、また2000年代に入って暴動が多発するなど国内が不安定化している。フランシス・フクヤマの論に従えば、一党独裁国家である中国は、政府が倒れる時が必ずやってくるということになる。
ロシアは、ソ連が死滅すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、牽制の動きを見せるようになった。現在のロシアも独裁体制に近く、これもまた、フクヤマの論に従えば、政権が倒れる時が必ずやってくるということになる。
つまり、将来において中国、ロシアの現政府が倒れ、民主化したとき、大国同士の冷戦や世界大戦の危険性は消え、全世界において民主主義体制が半永久的に続き、歴史が終わるとされる。民主主義の枠内であれば、政権交代により社会問題や他国との国際問題を解決できるとされる。しかし、現段階では民主主義体制・資本主義体制が民に必ずしも豊かさと幸福をもたらしていないことが、アメリカ発の世界同時不況により立証された。現段階では、資本主義・民主主義は経済格差や不況、資本家による労働者の使い捨てなどによってもたらされる社会の悲惨さを解決できていない。しかし、時間はかかるが民主主義体制の枠内なら問題は解決可能という見方もある。また、フクヤマの論は、アメリカによる民主化(時には武力を伴う)を是とするものだという誤った解釈がなされ、「自由」があることをいわば「売り」とするアメリカニゼーションが世界中で急速に進んでいる。ただ、実態がアメリカの国益追及であるにせよ、結果的に第二次世界大戦以降、アメリカの同盟国・友好国・アメリカにより民主化された国(イラクなど)の民が自由を手に入れたのは事実である。冷戦中は反共主義という理由でアメリカの支援を受けていた独裁国家も冷戦終結以降はサウジアラビアなどを除いて次々と民主化されている。
アメリカは「冷戦の勝戦国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した。又、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くイスラム原理主義過激派は、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。
核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中蘇対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。
2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。
経済と雇用の悪化は冷戦時代よりも烈しく、実際に訪れた現象は希望と幸福ではなく、絶望と災難であった。現実は甘くはなかったのである。社会主義政権の消滅により、「無規制」「解雇自由」「大資本家のみの繁盛」を特徴とするアメリカ型経済システム(新自由主義)が「グローバリゼーション」の名で世界中に広まり[2]、多国籍企業は地球規模でパイを奪い合う「大競争時代」を作り上げた。この結果、日本を初め世界中が「日銭の世界」と化して、世界中で不安定雇用労働者(プレカリアート)が爆発的に増大した。国際通貨はドルが世界で唯一の基軸となり、ヘッジファンドと呼ばれる投機家が世界中で投機熱を惹き起こし、その最中の1997年にはアジア通貨危機が勃発した。その後も1998年8月にはロシア財政危機が起き、1999年1月にはブラジル通貨危機が起き、2001年12月にはアルゼンチン経済危機(デフォルト宣言)が起きた。韓国を初め経済危機に襲われた国々では、雇用情勢が急激に悪化し、プレカリアートが急増した。この経緯から、日本では、ソ連死滅当時10代や小学生だった世代は、「貧乏くじ世代」と呼ばれる事も多い。
そして、2008年にはサブプライムローンを引き金とする世界同時不況が発生し、世界は「100年に1度」と呼ばれる程の経済危機に直面している。皮肉にも、「グローバリゼーション」を推進したアメリカが、世界同時不況の引き金を引く結果となってしまった。
[編集] 東西陣営の主な国
[編集] 資本主義陣営(西側)
- アメリカ大陸
アメリカ合衆国
カナダ
メキシコ
ブラジル
アルゼンチン
チリ
パラグアイ
コロンビア
ベネズエラ
ボリビア
ウルグアイ
ガイアナ
コスタリカ
ホンジュラス- ヨーロッパ
イギリス
フランス
西ドイツ
イタリア
スペイン
ポルトガル
オランダ
ベルギー
ギリシャ
デンマーク
ノルウェー- アジア
日本
中華民国
大韓民国
南ベトナム
フィリピン
インドネシア
タイ
マレーシア
シンガポール
トルコ(NATOに加盟し欧州の冷戦に関与)- オセアニア
パプアニューギニア
オーストラリア
ニュージーランド- 中東
イスラエル
サウジアラビア
カタール
バーレーン
アラブ首長国連邦
オマーン
北イエメン- アフリカ
セネガル
リベリア
モロッコ
ケニア
ザイール(現在はコンゴ民主共和国)
ナミビア
ボツワナ
南アフリカ
[編集] 共産主義陣営(東側)
- ヨーロッパ
ソビエト社会主義共和国連邦
ルーマニア社会主義共和国
ドイツ民主共和国
ハンガリー人民共和国
ブルガリア人民共和国
ポーランド人民共和国
チェコスロバキア社会主義共和国- アメリカ大陸
キューバ共和国
ニカラグア共和国- アジア
モンゴル人民共和国
中華人民共和国
朝鮮民主主義人民共和国
ベトナム社会主義共和国
カンボジア人民共和国(民主カンプチア)
アフガニスタン民主共和国- 中東
イラク共和国
アラブ連合共和国(シリアとエジプトによる連合国家)
アラブ共和国連邦(アラブ連合共和国の失敗を踏まえ、新たにシリア、エジプト、リビアの3カ国によって結成された連邦国家)
イエメン人民民主共和国- アフリカ
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(社会主義人民リビア・アラブ国)
コンゴ人民共和国
エチオピア人民民主共和国
アンゴラ人民共和国
モザンビーク人民共和国
ベナン人民共和国
ソマリア民主共和国
[編集] 非同盟・中立
- スイス(永世中立国)、
オーストリア、
スウェーデン(以上西側寄り)、
フィンランド(ソ連寄り)、
ユーゴスラビア、
アルバニア(以上共産主義圏)
- フィンランドはソ連寄りではあったが政治・経済面では自由主義・資本主義国であった。この特殊な状況は、西欧において「フィンランド化」と言う呼称を持って扱われている。この当時の北欧の動向を「ノルディックバランス」と言う。
ミャンマー(鎖国下で民族社会主義政権を樹立。独特の自立体制を模索した)
[編集] 資本主義陣営→共産主義陣営
[編集] 共産主義陣営→資本主義陣営
[編集] 資本主義陣営→イスラム原理主義陣営
[編集] 欧州の対立構造
- 経済的対立
- 西側=対共産圏輸出統制委員会(COCOM)、欧州共同体(EC)、欧州自由貿易協定(EFTA)、欧州通貨協定(EME)、経済協力開発機構(OECD)
- 東側=経済相互援助会議(COMECON)
[編集] 冷戦史研究
冷戦史については、戦後国際政治の多くを規定したということから様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行なわれた論争について説明する[5]。
[編集] 冷戦起源論をめぐる論争
冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦がなぜ生じたのか」という冷戦の起源をめぐる論争だった。この論争は、西側陣営の当事者国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。
冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源をめぐる学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の発端を論じるものであったため、ベトナム戦争など、研究が発表された当時の時代状況や問題関心を強く反映したものになった。第二に、それが米国の学界を中心に展開されたことや、資料的制約から、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている。
伝統学派/正統学派(Traditionalist/Orthodox)は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた[6]。 伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。
以上のような解釈はノーマン・グレーブナー(Norman A. Graebner)のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー(Louis J. Halle)の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970)などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている[7]。
続いて1960年代より登場した修正主義学派(Revisionist)は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生は米国側の行動に大きな原因があったとする解釈を提示した。 修正主義学派の特徴は経済要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。 ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと論じた。そして、冷戦は、米国が門戸解放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったと論じ、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーのAmerica, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーのArchitects of Illusion (1970)などよってより精緻に検討されることとなる[8]。
また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ(Joyce Kolko)は、The Limits of Power (1972)において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった[9]。 これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、過去の米国外交に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。一方で、これらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の有する実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国への分析の偏重などが批判されることとなった[10]。
伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派(Post-Revisionist)は、先行する学派の議論の問題点を克服し、さらに公開が始まった西側政府の公文書を活用することで、実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスのThe United States and the Origins of the Cold War (1972)である。ギャディスは一次資料を活用しながら、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因の両者を取り入れつつ、さらに国内政治、政策決定プロセス(官僚政治)、国際政治構造などを盛り込んだ分析を提示した[11]。
ギャディスは、地域各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパに米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、その緊張下で米ソ双方が様々な要因から相手に対する誤解を重ねたことが両者とも望みもしない冷戦が生まれたのだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める、過去の議論を排する主張を展開した[12]。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム(Bruce Kuniholm)のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマン(William Taubman)のStalin's American Policy (1982)などにも継承され、ポスト修正主義学派として広く受け入れられることとなった[13]。 また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国(Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した[14]。
[編集] ソ連崩壊後の冷戦起源論争
冷戦終結とソ連邦の崩壊により、西側で過去に閲覧することが不可能だった東側文書の開示が行なわれた。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源をめぐる論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開が生じることとなった。 開示された東側の資料群をもとに発表されたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(1996年)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ(Constantine Pleshakov)によるInside the Kremlin's Cold War (1996)は、ソ連の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した[15]。これらに加えてドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリンの伝記研究も発表され、スターリンのパラノイア的性質についても実証的な議論が深められることとなった[16]。
このような資料開示の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスはこのような研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリン個人が冷戦の発生により多くの責任があったとする解釈へと転じた[17]。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の動きの実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった後に記されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった[18]。
[編集] 米ソ冷戦史の相対化
冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスのドナルド・キャメロン・ワットは公開書簡で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究の深化させる必要を訴えた[19]。 このような提言を反映して、イギリスではヴィクター・ロスウェル(Victor Rothwell)のBritain and the Cold War (1982)、アン・デイトン(Anne Deighton)のThe Impposible Peace (1990)など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識していたイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした[20]。
イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年よりノースカロライナ大学出版局(University of North Carolina Press)が刊行している冷戦史研究のシリーズであるThe New Cold War Historyでは、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている[21]
[編集] 研究領域の拡大
冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。 一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであったベノナの関係資料開示による諜報戦の実体解明があげられる。ジョン・ハインズ(John E. Haynes)とハーヴェイ・クレア(Harvey Klehr)のVenona (2000)は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド(Kenneth Osgood)はTotal Cold War (2006)において、USIA・CIAなどの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった[22]。
[編集] コーポラティズム
[編集] デタント史研究の進展
[編集] 冷戦終結をめぐる議論
[編集] 新しい冷戦史
[編集] 研究者
- ブルース・カミングス(Bruce Cumings)
- ジョン・ルイス・ギャディス(John Lewis Gaddis)
- レイモンド・ガーソフ(Raymond L. Garthoff)
- マイケル・ホーガン(Michael J. Hogan)
- ウォルター・ラフィーバー(Walter LaFeber)
- メルヴィン・レフラー(Melvyn P. Leffler)
- ゲイル・ルンデスタッド(Geir Lundestad)
- ヴォイチェフ・マストニー(Vojtech Mastny)
- トーマス・J・マコーミック(Thomas J. McCormick)
- ロバート・マクマホン(Robert J. McMahon)
- マーク・トラクテンバーグ(Marc Trachtenberg)
- オッド・アルネ・ウェスタッド(Odd Arne Westad)
- ウィリアム・A・ウィリアムズ(William Appleman Williams)
- ヴラディスラヴ・ズボク(Vladislav M. Zubok)
[編集] 学術誌
- Cold War History, (Frank Cass, 2000-).
- Journal of Cold War Studies, (Harvard Project on Cold War Studies / MIT Press, 1999-).
[編集] 研究プロジェクト
- Cold War International History Project (CWIHP)
- Cold War History Research Center
- Harvard Project on Cold War Studies
- National Security Archive
- The Parallel History Project on NATO and the Warsaw Pact
[編集] 補足
- ^ Malta summit ends Cold War, BBC News, 3 December 1989. Retrieved on 11 June 2008.
- ^ 冷戦時代には、アウグスト・ピノチェト政権のチリがアメリカ型経済システムを敷いていた事から、冷戦終結後には、世界各国がピノチェト政権のチリと同じ状態になったとも言える。
- ^ スハルト政権以降も軍の装備などの面でソビエトの支援を受けた。
- ^ 中華人民共和国や北朝鮮が物質的な支援を行ない、ソビエト自体は傍観の姿勢を取った。
- ^ 以下の記述、例示する文献の選定については、Robert J. McMahon, The Cold War: A Very Short Introduction. (Oxford University Press, 2003); Michael Kort, The Colubia Guide to the Cold War. (Columbia University Press, 1998); 麻田貞雄「冷戦の起源と修正主義研究――アメリカの場合」『国際問題』第170号(1974年); 福田茂夫「アメリカにおける冷戦論争の収束」『国際政治』53号(1975年)などを参照している。
- ^ なお、ソ連の行動の動機が、イデオロギー的なものに由来するのか、地政学的・安全保障的なものに由来するかについては解釈が分かれていた。ファイスは前者、グレーブナーは後者に属する
- ^ Norman A. Graebner, Cold War Diplomacy: American Foreign Policy, 1945-1960. (Van Nostrand, 1962); Herbert Feis, From Trust to Terror: The Onset of the Cold War, 1945-1950. (W W Norton, 1970);Louis J. Halle, The Cold War as History, (Harper & Row, 1967)(太田博訳『歴史としての冷戦――超大国時代の史的構造』(サイマル出版会, 1970年); Dean G. Acheson, Present at the Creation: My Years in the State Department.(Norton, 1969). (吉沢清次郎訳『アチソン回顧録(1・2)』恒文社, 1979年)
- ^ William A. Williams, The Tragedy of American Diplomacy, (The World Publishing Company, 1958).(高橋章・松田武・有賀貞訳『アメリカ外交の悲劇』御茶の水書房, 1986年); Walter LaFeber, America, Russia, and the Cold War, 1945-1966. (Wiley, 1967); Lloyd C. Gardner, Architects of Illusion: Men and Ideas in American Foreign Policy, 1941-1949. (Quadrangle Books, 1970).
- ^ Gabriel Kolko and Joyce Kolko, The Limits of Power: the World and United States Foreign Policy, 1945-1954.(Harper & Row, 1972).
- ^ 一例として、Robert J. Maddox, The New Left and the Origins of the Cold War. (Princeton University Press, 1973).
- ^ John Lewis Gaddis “The Emerging Post-Revisionist Synthesis on the Origins of the Cold War”, Diplomatic History, 7:3 (1983).
- ^ John Lewis Gaddis, The United States and the Origins of the Cold War, 1941-1947.(Columbia University Press, 1972).
- ^ Bruce R. Kuniholm, The Origins of the Cold War in the Near East: Great Power Conflict and Diplomacy in Iran, Turkey, and Greece. (Princeton University Press, 1980);William Taubman, Stalin's American Policy: from Entente to Detente to Cold War. (Norton, 1982).
- ^ Geir Lundestad, “Empire by Invitation? The United States and Western Europe, 1945-1952”, Journal of Peace Research, 23:3, (1986)。しばしばルンデスタッド自身、ポスト修正主義学派に分類されている。
- ^ Vojtěch Mastný, The Cold War and Soviet Insecurity: the Stalin Years. (Oxford University Press, 1996). (秋野豊・広瀬佳一訳『冷戦とは何だったのか――戦後政治史とスターリン』柏書房, 2000年);Vladislav Zubok, Constantine Pleshakov, Inside the Kremlin's Cold War: from Stalin to Khrushchev.(Harvard University Press, 1996).
- ^ Dmitrii A. Volkogonov, Триумф и трагедия: политический портрет И.В. Сталина. (2. vols, Изд-во Агентства печати Новости , 1989)(生田真司訳『勝利と悲劇――スターリンの政治的肖像(上・下)』(朝日新聞社, 1992年)
- ^ John Lewis Gaddis, We Now Know: Rethinking Cold War History, (Oxford University Press, 1997). (赤木完爾・斉藤祐介訳『歴史としての冷戦――力と平和の追求』慶應義塾大学出版会, 2004年)。ルンデスタッドは現在のギャディスを「新しい伝統学派」に属すると位置づけている。Geir Lundestad, “The Cold War Acoording to John Gaddis”. Cold War History 6:4 (2006).
- ^ Anders Stephanson, “Rethinking Cold War History.”Review of International Studies, 24:1 (1998);藤原帰一「冷戦の終わりかた―合意による平和から力の平和へ」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(6)機能と変容』(東京大学出版会、1998年)。
- ^ Donald Cameron Watt, “Rethinking the Cold War: a Letter to the British Historian”. The Political Quarterly 49:4 (1978)
- ^ Victor Rothwell, Britain and the Cold War, 1941-1947.(Cape, 1982);Anne Deighton, The Impossible Peace: Britain, the Division of Germany and the Origins of the Cold War. (Clarendon Press, 1990).
- ^ UNC Press - The New Cold War History
- ^ John E. Haynes and Harvey Klehr, Venona: Decoding Soviet Espionage in America.(Yale University Press, 2000);Kenneth Osgood, Total Cold War: Eisenhower's Secret Propaganda Battle at Home and Abroad. (University of Kansas, 2006).
[編集] 関連項目
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