南アフリカ共和国

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南アフリカ共和国
Republiek van Suid-Afrika
Republic of South Africa
IRiphabliki yaseNingizimu Afrika
南アフリカの国旗 南アフリカの国章
国旗 国章
国の標語:!ke e: ǀxarra ǁke
ǀXam語: 様々な人々が一致協力する)
国歌神よ、アフリカに祝福を/南アフリカの呼び声
南アフリカの位置
公用語 アフリカーンス語英語バントゥー諸語9言語[1]
首都 プレトリア行政
ケープタウン立法
ブルームフォンテーン司法
最大の都市 ヨハネスブルグ(2006年)[2]
政府
大統領 ジェイコブ・ズマ
首相 なし
面積
総計 1,219,912km224位
水面積率 極僅か
人口
総計(2009年 49,320,000人(25位
人口密度 41人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2009年 2兆2,837億[3]ランド
GDP(MER
合計(2008年 2,771億[3]ドル(29位
GDP(PPP
合計(2008年 4,926億[3]ドル(21位
1人あたり 10,119[3]ドル
独立
イギリスより 1910年5月31日
ウェストミンスター憲章 1931年12月11日
イギリス連邦脱退[4] 1961年5月31日
マンデラ政権樹立 1994年5月10日
通貨 ランドZAR
時間帯 UTC +2(DST:なし)
ISO 3166-1 ZA / ZAF
ccTLD .za
国際電話番号 27

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく)、通称南アフリカは、アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にスワジランドモザンビーク、北にジンバブエボツワナ、西にナミビアと国境を接し、レソトを四方から囲んでいる。南アフリカは首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから、国を代表する首都はプレトリアと認知されている。

目次

概要 [編集]

かつては有色人種に対する人種差別で知られ、それはアパルトヘイトと呼ばれる1994年までの合法的な政策によるものであった。ダイヤモンドの世界的産地であり、民主化後の経済発展も注目されている。アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一のG20参加国である。2010年GDPは3544億ドル(約30兆円)であり[5]神奈川県とほぼ同じ経済規模である[6]。従来のBRICsブラジル (Brazil) 、ロシア (Russia) 、インド (India) 、中国 (China) 、sは複数形)に加え、BRICSとしてSが南アフリカ (South Africa) を表す用法も定着しつつある。また、BRICsからロシアを除いて南アフリカを加えたIBSAC (India, Brazil, South Africa, China) という用語が、G7イギリスによって提唱されたこともある[7]。しかしエイズの蔓延、教育水準の低い非白人の貧困、治安の悪化など懸念材料も多い。

医学において、世界で初めて心臓移植を行った国である。1967年12月、黒人の女性ドナーより提供を受けて、心臓病の白人の男性に移植を行った。背景には南アフリカに横たわる黒人と白人の差別があった[8]

国名 [編集]

11の公用語を採用しており、公用語で正式名称も異なる。

独立後、イギリス連邦を脱退する1961年迄は「南アフリカ連邦」と呼ばれていた。

歴史 [編集]

紀元前数千年頃から、狩猟民族サン人(ブッシュマン)と、同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が居住するようになった。また、300 - 900年代に現在のカメルーンに相当する赤道付近に居住していたバントゥー系諸民族が南下し、現在の南アフリカに定住した。

ヨーロッパで大航海時代が始まった15世紀末の1488年に、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。

1652年オランダ東インド会社ヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。喜望峰は航海上の重要な拠点として注目されたからである。以後、オランダ人移民は増加し、ケープ植民地が成立した。この植民地にて形成されたボーア人(Boer アフリカーンス語読みでブール人とも呼ばれるが、以下ボーア人で統一)の勢力拡大と共に、コイ人サン人などの先住アフリカ人との争いも起きた。一方で、ボーア人と彼らや奴隷との混血も進んだ。

18世紀末にはダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年イギリスウィリアム・ベレスフォード英語版将軍がケープタウンを占領した。

イギリスの強制収容所でのボーア人の女性と子供。

ナポレオン戦争終結後、19世紀初頭にケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。イギリスの植民地になり英語公用語となり、同国の司法制度が持ち込まれるなどイギリスの影響が強まった。イギリス人の増加と共に英語を解さないボーア人は二等国民として差別され、自らをアフリカーナーと呼ぶようになった(以下ボーア人をアフリカーナーとする)。奴隷労働が廃止されると、奴隷制に頼っていたアフリカーナーの農業主は反発し、北東部の奥地へ大移動を開始した(グレート・トレック)。アフリカーナーはバントゥー系のズールー人スワジ人ツワナ人など先住アフリカ人諸民族と戦いながら内陸部へと進みトランスヴァール共和国オレンジ自由国ナタール共和国を建国した。しかし、セシル・ローズに代表されるように南アフリカ全土を領有することを求めたイギリスとの対立から2回にわたるボーア戦争に発展し、第一次ボーア戦争ではアフリカーナーの両国がイギリスを退けたが、第二次ボーア戦争では敗北し、それらも全てイギリスの手に落ちた。アフリカーナーのみならず、独立していた先住アフリカ人諸民族のアフリカーナーとイギリス人双方に対する抵抗も続いたが、1879年のズールー戦争のように抵抗した民族は全て敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。

1910年5月31日に、4州(ケープ、ナタール、トランスヴァール、オレンジ)からなる南アフリカ連邦として統合され、大英帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立する。翌1911年には、鉱山における白人黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。

1931年にはウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。1934年にはイギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決され、正式に主権国家として規定された。南アフリカ連邦は第二次世界大戦にも参戦した。

アパルトヘイト時代の人種隔離についての規定が表記されたビーチの看板。

1948年にアフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握ると、国民党はアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。国際連合の抗議やアフリカ人民評議会などの団体の抵抗にもかかわらず、国民党はアパルトヘイト政策をやめることはなかった[9]。国際関係としては、反共主義を押し出し、自由主義陣営として朝鮮戦争に軍を派遣した。

1958年ヘンドリック・フルウールトが首相に就任すると、南アフリカは1960年代から1980年代にかけて強固なアパルトヘイト政策を敷いた。国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議 (ANC) によるゲリラ戦が続いた。 1960年シャープビル虐殺事件をきっかけに、1961年にはイギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、英連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。一方で日本人は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱われる名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と深い繋がりを持つことになった。また、世界的に脱植民地化時代に突入していたのにも拘らず、このように露骨な人種主義政策を採り続けたために、域内のアフリカの新興独立国から国際的に孤立したため[10]、同様に域内で孤立していた白人国家ローデシアや、アフリカで植民地政策を続けるポルトガル、そして台湾中華民国)やイスラエルとの結び付きを深めた。1966年にフルウールトが暗殺され、バルタザール・フォルスターが次の首相に就任した。

ロベン島にある刑務所。刑務所は反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕された政治犯の強制収容所として使われ、ネルソン・マンデラウォルター・シスールロバート・ソブクウェ等が収監された。ロベン島は1999年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

一方、国外の近隣諸国では、占領していたナミビアでも独立を目指すSWAPOによるナミビア独立戦争英語版1966年-1990年)が始まった。さらに、1974年に植民地戦争によって疲弊したポルトガルでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制が崩壊して左派政権が誕生すると、近隣の旧ポルトガル植民地だったアンゴラモザンビークは社会主義国として新たなスタートを切り、南アフリカとローデシアの白人支配に対するブラックアフリカ諸国の最前線となった。南アフリカとローデシアは、強行に国内を引き締める一方、両国に対して直接、間接の軍事介入を行い、両国を苦しめた。南アフリカはソウェト蜂起などでのフォルスター首相の対応が国際的な批判を浴びることになった。1980年にローデシアはローデシア紛争の末に白人政権が崩壊し、新たに黒人国家ジンバブエが成立し、反共のための戦いから脱落した。一方、南アフリカ国防軍による直接介入が行われていたアンゴラでも、キューバやブラックアフリカ諸国に支援されたアンゴラ政府軍の抵抗が続き、戦争は泥沼の様相を呈していた。国内でも1980年代には反体制運動が激しくなり、さらにそれまでの反共的姿勢から南アフリカを優遇していた西側諸国からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。1988年にはクイト・クアナヴァレの戦い英語版でアンゴラ=キューバ連合軍にアンゴラ領内への侵攻を阻止され、この戦いをきっかけに南アフリカはキューバ軍のアンゴラからの撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。軍事的敗北により、アパルトヘイト体制は風前の灯火となっていた。

このような情勢の悪化もあり、デ・クラーク大統領は冷戦の終結した1990年代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。また、同時に1970年代から1980年代にかけて6発の核兵器を密かに製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前に全て破棄していたことを1993年に発表した。

1994年4月に、全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議 (ANC) が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。副大統領に、ANCのターボ・ムベキと国民党党首のデ・クラーク元大統領が就任。イギリス連邦と国連に復帰し、アフリカ統一機構に加盟した。新しい憲法を作るための制憲議会が始まった。1996年には新憲法が採択されたが、国民党は政権から離脱した。

アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても、依然として人種間失業率格差が解消されないでいた理由は、アパルトヘイトが教育水準格差をも生み出していたことが最も大きな要因と考えられる。アパルトヘイト撤廃によって、即日、雇用平等の権利を得たとしても、当時の労働人口の中心となる青年層は既に教育水準の差が確定してしまっており、アパルトヘイト時代に教育を受ける機会を得られなかった国民は、炭坑労働者など、雇用が不安定な業種にしか職を求めることができなかった。さらに鉱山は商品市況によって、炭鉱労働者の雇用または解雇を頻繁に行うこともあって、黒人の失業率は白人のそれと比べて非常に高い統計結果がでてしまうのである。しかし撤廃後12年以上が経過し、教育を受ける世代が一巡したことで、白人・黒人間の失業率格差は縮小しつつある。また政府は、単純労働者からIT技術者の育成など技術労働者へ教育プログラムなどを用意し、国民のスキルアップに努めている。今後、失業率の問題は、人種失業率格差から、数十あると言われる各部族間格差を縮小させるような政策が期待されているが、犯罪率も高く、多くの過激派組織も活動している点は否定できない。また、事実上パスポートなしで移民を受け入れる政策をとってからは、特に隣国の一つジンバブエからの移民が急増し、国内に住む黒人の失業率が増加する結果になり、大規模な移民排斥運動も起こり始めている[11]。さらに、黒人への優遇政策により、これまで要職に就いていた白人が押し出される格好になり、白人の失業率が上昇することになった[12]

政治 [編集]

アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家の1つである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成され、元首となる大統領は国民議会の議決により選出される。

複都制を採用しており、立法府はケープタウン市都市圏、行政府はツワネ都市圏(プレトリア)、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。

立法 [編集]

議会議事堂(ケープタウン)

アパルトヘイト撤廃後に3度の選挙が実施され、いずれもアパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)が7割近い得票で圧勝している。アフリカーナーやリベラル派に支持基盤を持つ民主同盟(DA)、クワズールー・ナタール州を地盤とするインカタ自由党(IFP)、かつての政権与党・国民党とANCの離党者で組織された統一民主運動(UDM)が続くが、全議席の7割以上をANCが占めている。

南アフリカ議会の会派構成
政党名 全国州評議会
(上院)
国民議会
(下院)
アフリカ民族会議 (ANC) 36 279
民主同盟 (UA) 10 50
インカタ自由党 (IFP) 3 28
統一民主運動 (UDM) 1 9
諸派 4 34
その他(特別議員) 36 -
90 400

行政 [編集]

ユニオンハウス - 行政府庁舎
(プレトリア)

行政の中心地はプレトリア(ツワネ市都市圏)である。大統領は行政府の首長を兼務し、内閣を組織する。

司法 [編集]

1994年に設置された憲法裁判所のほか、最高裁判所を筆頭とする三審制の司法制度である。司法府はブルームフォンテーンに置かれている。

軍事 [編集]

南アフリカ国防軍 (South African National Defence Force, SANDF) は陸軍海軍空軍の三軍と南アフリカ総合医療部隊から構成される。

冷戦時代の南アフリカ国防軍 (South African Defence Force, SADF) はアパルトヘイト体制維持のために国内のアフリカ民族会議 (ANC) や占領していたナミビア南西アフリカ人民機構 (SWAPO) のゲリラとの非正規戦、及びアンゴラ社会主義政権とアンゴラに介入したキューバ軍との戦いに従事していた。現在の南アフリカ国防軍はアパルトヘイト体制崩壊後の1994年に再編成されたものである。

国際関係 [編集]

冷戦中の南アフリカ共和国は人種主義に基づくアパルトヘイト体制維持を掲げたため、アフリカ諸国をはじめとする国際社会から孤立し、僅かにイスラエル中華民国台湾)などが友好国として存在するのみだった。しかし、南部アフリカにおける反共の砦と自らを規定していたため、実際は軍事面において西側諸国との友好関係も保っていた。このような反共政策を背景にしてアンゴラ内戦1974年-2002年)に直接介入したり、モザンビーク内戦英語版1977年-1992年)でのモザンビーク民族抵抗運動 (RENAMO) 支援を通して周辺の社会主義黒人政権に不安定工作を発動したが、世界的な反アパルトヘイトキャンペーンと東側諸国の勢力低下により強硬政策は頓挫した。そのため、アンゴラ、モザンビーク両国に干渉することをやめ、1990年にはアンゴラからのキューバ軍の撤退と引き換えに占領していたナミビアの独立を認めた。アパルトヘイト体制はフレデリック・ウィレム・デ・クラークが葬り、1994年にネルソン・マンデラを首班としたANC政権が成立すると同時に、アフリカ統一機構 (OAU) に加盟し南アフリカは国際社会に合流した。

日本との関係 [編集]

  • 在留日本人数 - 1,357人(2008年10月現在)
  • 在日南アフリカ人数 - 592人(2008年版在留外国人統計)

在留邦人数は1997年10月には3,517名いたが、現在では3分の1程度まで減少している。ヨハネスブルクには日本人学校もある。また、ごく少数だが、永住者日系人も存在する。

ケープ植民地入植者にはオランダ人ヤン・ファン・リーベックによって、長崎の出島から連れてこられたハポンと呼ばれる日本人家族が含まれていたという説もある[13]

地方行政区画 [編集]

地理 [編集]

南アフリカ共和国の地図
地形図

アフリカ大陸の最南端に位置し、ナミビアボツワナジンバブエモザンビークスワジランドと国境を接し、レソトを囲んでいる。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面するため2,500kmという長い海岸線を有する。海岸平野は狭く、国土の全体が高地になる。内陸はカルーと呼ばれる広大な平坦地で、人口は少ない。北西部はナミブ砂漠の延長部である。東部にはドラケンスバーグ山脈が連なる。国の最高地点はレソトとの国境にあるマハディ山(標高3450m)である。

気候 [編集]

夏期は10月から3月、冬期は5月から8月である。地域による差はあるのだが、一年を通じて気候は比較的温暖で日照時間が長い。

しかし、海岸部以外は高地なため同緯度の国に比べやや気温は低い。国全体の平均気温は、冬が0度から15度、夏が20から40度と差が大きい。内陸高地の冬の気温は0度以下になることもあり、ドラケンスバーグ山脈のような高い山の山頂では降雪もある。東部の海岸は高度も低く、暖流モザンビーク海流が流れているために暖かい。西部の海岸は寒流ベンゲラ海流の影響を受けて気温はそれほど上がらない。

雨季は11月から3月。東と西で雨の降り方が大きく違う。東部は季節風の影響で夏に雨が降るが、南西の海岸はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。降雨量は東側から西側に行くにしたがって少なくなる。

南半球なので北に行くほど暑くなりそうだが、内陸部は高原地帯であるためそれほど暑くはならない。

動植物 [編集]

南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されている。植物は多様な環境に適応したベンケイソウ科トウダイグサ科ハマミズナ科多肉植物やトランスヴァール地方に花畑を形成するガーベラユリオプスデージーなどキク科の植物、あるいはエリカクンシランなどは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。南アフリカの国土は、全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約24000種類の原産国となっている。また、脊椎動物の約7%、昆虫の約5.5%、海洋生物の約15%にとっての生息地ともなっている[14]


経済 [編集]

主要産業 [編集]

ヨハネスブルグはビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付けで世界52位、国内1位の都市と評価された[15]
ビクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロントはテーブル湾に面した港で、ショッピング・センター、レストラン、ホテルなどが集まるケープタウンの新しい観光スポットである。

農業は畜業、とうもろこし、柑橘類、その他の果物、小麦砂糖羊毛、皮革類。ワイン作りはケープタウン付近で特に盛んであり、多く輸出もされている。

鉱業はダイヤモンドプラチナウラン鉄鉱石石炭クロムマンガン石綿石油の産出は無い。

工業は食品製鉄化学繊維自動車等。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景にクルーガーランド金貨を発行していたが、現在は限定品としてのみ僅かに販売されている。

近年、ダイムラー・クライスラー社が、ダーバン市内に自動車製造工場を建設。メルセデス・ベンツ Cクラスの右ハンドル車の製造・出荷を開始した。これらの車両は主に、日本やイギリスに輸出している。またBMWフォルクスワーゲン日産自動車なども輸出拠点として同国に工場を置いている。なお、これらの拠点は東海岸のポートエリザベスに多く存在している

GDP成長率は2005年5.1%、06年5.0%[16]と堅調な成長が続いている。JSEは世界的な証券取引所である。一人あたりのGDPは、2008年の時点で、4,605ドル (MER) ・10,119ドル (PPP)である。

アパルトヘイト廃止後に電力需要が急増したにもかかわらず発電所の建設が10年以上行われなかったため、2007年ごろから電力不足が問題となっており、2008年1月には南アフリカ電力公社 (ESCOM) は計画停電を実施し、当時資源高により好調だったプラチナ鉱山の操業が制限される事態となり、金やプラチナの相場を高騰させた。これを解消するためESCOMは近隣諸国からの送電や発電所の増設を計画しているが、電力不足は2015年ごろまでは解消されない見込みである。

2010年8月、公務員ストが続いている。労組側(COSATU) は、公務員賃金の8.6%引き上げと住宅手当1000ランド(約12,000円)の新設を要求している。政府側の最終回答はそれぞれ7%、700ランドにとどまっている。

失業が大きな問題となっており、2011年の国勢調査では失業率は29.8%となっている[17]

交通 [編集]

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鉄道 [編集]

航空 [編集]

国民 [編集]

人口 [編集]

2009年の推計によると、人口は4932万人。エイズによる死者や白人層の国外流出が多いため、他のアフリカ諸国に比べると人口増加率は低く、2008年には人口が減少している。平均寿命も年々低下しており、かつて60歳代であった平均寿命は、現在では40歳代(2009年推計で48.98歳) にまで低下した。黒人層に限ればさらに低くなる。

民族 [編集]

人種構成
バントゥー系民族黒人
  
79.4%
白人
  
9.2%
カラード
  
8.8%
アジア系
  
2.6%

2009年の推計によると、人種の割合は黒人 (79.3%)、白人 (9.1%)、カラード混血)(9.0%)、インド系(印僑)(2.6%)[18]

黒人はズールー人コサ人ツワナ人ソト人英語版(南ソト人)、ペディ人英語版(北ソト人)、スワジ人ヴェンダ人英語版ンデベレ人英語版ツォンガ人バントゥー系民族で非常に多様であり、アパルトヘイト撤廃後は民族間の対立が深刻化している。

カラードは中央部から西部にかけての広い範囲に分布し、多くがアフリカーンス語を母語としている。他にコイサン人種の先住民であるサン人コイコイ人がいるが、多くは混血したため数は少ない。

白人の大半はイギリス系アフリカーナーであるが、その他ポルトガル系ユダヤ系フランス系ドイツ系など。白人は1940年頃には全人口の約20%を占めていたとされるが、1994年には13.6%、2009年には9.1%にまで低下した。アパルトヘイトの廃止以降、逆差別や失業、犯罪などから逃れるために、国外への流出が続いており、1995年以来、国外に移民した白人はおよそ80万人に及ぶ[19]。2009年、白人人口447万人の約10%にあたる約40万人[20]が貧困層となっており、プアホワイトと呼ばれる層が出現している。アフリカーナーが急減する一方、イギリス系は増加傾向にある。

アジア系南アフリカ人の大多数はインド系(印僑)で、100万人に達し、多くがクワズール・ナタール州に住む。近年は中国系南アフリカ人英語版(およそ10万人)が急増し、黒人との対立を引き起こしている。最近はジンバブエから300万人が流入するなど、周辺国から約500万人の不法移民が流入し、治安悪化の原因となっている。

言語 [編集]

母語話者(南アフリカ共和国)[21]
英語
  
8.2%
ズールー語
  
23.8%
コサ語
  
17.6%
アフリカーンス語
  
13.3%
北ソト語
  
9.4%
ツワナ語
  
8.2%
ソト語
  
7.9%
ツォンガ語
  
4.4%
その他
  
7.1%

公用語アフリカーンス語英語バントゥー諸語ズールー語コサ語北ソト語ソト語スワジ語南ンデベレ語ツォンガ語ツワナ語ヴェンダ語)の11言語。国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度に過ぎず、共通語として英語が用いられる。一方、英語以外の言語の公用語としての地位は形骸化しつつある。多言語主義を掲げているもののアフリカーンス語とバントゥー諸語への保護政策は十分ではなく、エリート層主体で英語一本化の傾向が強まっており、その結果、アフリカ諸語の保護育成を掲げたはずの多言語主義の理念とはかけ離れつつある[22]。多言語主義を推奨する機関である汎南アフリカ言語委員会(PANSALB)もほとんど機能不全に陥っている。黒人層の間でも貧困から抜け出すためには英語の習得が必要不可欠となり、その結果、黒人言語の衰退を招くと言う悪循環を招きつつあり、一向に黒人言語の地位は低いままで、状況は改善されていない。

英語 [編集]

英語は主にヨハネスブルクケープタウンダーバンなどの大都市を中心に、イギリス系を中心とした白人(1,687,659人)やインド系(1,045,846人)など全人口の8.2%の人の第一言語に過ぎない。しかし、イギリス植民地時代に普及した英語が共通語的役割を果たし国会や政府の公式言語として全土で使用されているが、貧困層を中心に十分に理解できない層も多く、ある程度の英語を理解できる層は全人口の半数程度に過ぎない[23]

アフリカーンス語 [編集]

オランダ語を元にマレー人奴隷の持ち込んだマレー語や英語、バントゥー諸語の影響を受けたゲルマン語派の言語である。以前はアフリカーンス語も英語と並ぶ共通語としての役割を担っており、事実上の二言語国家体制を敷いていたが、アパルトヘイト撤廃後は、ソウェト蜂起に代表されるようにアパルトヘイトという負のイメージの象徴としてのアフリカーンス語[24]への逆差別も発生しており、その地位は急速に低下している。アフリカーンス語の地名や通りの名は英語やバントゥー諸語の名に変えられ、以前は二言語併記であった政府の公式文書の他、南アフリカ航空南アフリカ旅客鉄道公社など企業名からも完全に排除された。テレビ放送や教育機関などにおいても、アフリカーンス語の割合は低下されつつあり、白人のアフリカーナー(2,536,906人)のみならず、カラード(3,173,971人)や一部の黒人(253,278人)などの白人以外の母語でもあり、それまで共通語としても機能していたアフリカーンス語の排除は、問題となっており、結果としてアフリカーンス語話者の英語化や海外への大量流出を引き起こしている。このままいくと、およそ国内に第一言語として約600万人、第二言語として約1,000万人もいる話者も将来的には国内から絶滅するとも危惧されている。

バントゥー諸語 [編集]

新言語憲法で公用語にバントゥー諸語ズールー語コサ語北ソト語ソト語スワジ語南ンデベレ語ツォンガ語ツワナ語ヴェンダ語の9言語が指定された。実際、ほとんどの黒人にとっての第一言語・日常言語となっている。鉱山労働者によって生み出されたファナガロ語英語版というズールー語を基盤に英語やアフリカーンス語を混ぜたバンツゥー系のピジン言語リングワ・フランカ)もあるが、近年は政府により英語が共通語として強化されているために衰退傾向にある。

南アフリカで使用される言語 2001年統計[25]

言語 話者人口 % 人種別内訳
ズールー語 10,677,000 23.8% 黒人99.8%、白人0.0%、カラード0.1%、インド・アジア系0.3%
コサ語 7,907,000 17.6% 黒人99.8%、白人0.1%、カラード0.2%、インド・アジア系0.0%
アフリカーンス語 5,983,000 13.3% 黒人4.2%、白人42.4%、カラード53.0%、インド・アジア系0.0%
北ソト語 4,209,000 9.4% 黒人99.9%、白人0.0%、カラード0.1%、インド・アジア系0.0%
ツワナ語 3,677,000 8.2% 黒人99.5%、白人0.1%、カラード0.4%、インド・アジア系0.0%
英語 3,673,000 8.2% 黒人5.0%、白人45.9%、カラード20.6%、インド・アジア系28.5%
ソト語 3,555,000 7.9% 黒人99.7%、白人0.1%、カラード0.2%、インド・アジア系0.0%
ツォンガ語 1,992,000 4.4% 黒人99.8%、白人0.1%、カラード0.1%、インド・アジア系0.0%
スワジ語 1,194,000 2.7% 黒人99.7%、白人0.1%、カラード0.2%、インド・アジア系0.0%
ヴェンダ語 1,022,000 2.3% 黒人99.8%、白人0.1%、カラード0.1%、インド・アジア系0.0%
南ンデベレ語 712,000 1.6% 黒人98.9%、白人0.4%、カラード0.3%、インド・アジア系0.5%
その他の言語 217,000 0.5% 黒人55.4%、白人22.2%、カラード2.9%、インド・アジア系19.5%
合計 44,820,000 100.0%

宗教 [編集]

宗教は8割の国民がキリスト教で、残りはヒンドゥー教イスラム教などである。ユダヤ教の信者や無宗教者も少数存在する。

教育 [編集]

アパルトヘイト時代には黒人は事実上義務教育の対象ではなく、今日まで続く深刻な貧困の原因となっている。アパルトヘイト撤廃後、膨大な国家予算を教育に充て、黒人への教育が強化され就学率は95%まで上昇した。しかしながら、成人の過半数はまともな教育を受けてこなかったために、深刻な失業率などをもたらす原因として大きな問題となっている。

教授言語は、初等教育は各民族語で受け、3年次より英語教育が開始される。中等教育や高等教育では教授言語は英語(少数はアフリカーンス語)となる。大学は全部で23あり、ケープタウン大学プレトリア大学ステレンボシュ大学ウィットウォータースランド大学などが著名である。ステレンボシュ大学、フリーステート大学、北西大学、プレトリア大学はアフリカーンス語でも授業が行われている。社会進出に必要な英語やアフリカーンス語を十分に理解する層は全人口の半数以下に過ぎず、アフリカ諸語しか話せない層への社会進出を阻んでいるなど、大きな問題となっている。

治安および感染症 [編集]

エイズの蔓延 [編集]

HIVの陽性率は非常に高く、15 - 49歳のHIV感染率が21.5% (2004 Report on the Global AIDS Epidemic (UNAIDS/WHO))、妊産婦HIV感染率が29.5% (2005 Report on the Global AIDS Epidemic (UNAIDS/WHO)) となっており、国民の約4 - 5人に1人の割合でHIVに感染している。エイズの蔓延によって、2010年までに国民全体の平均寿命は40歳以下に低下すると予想されている。感染経路として成人は性交渉による感染が多く(異常な犯罪率の為に強姦での感染も少なくない)、子供は母親から胎児の時にうつされていることが多い。

またHIV感染患者が爆発的に増加した80年代、「処女とコンドームを使わずに性交をすれば完治できる」といった悪質なデマ(「悪い病気は健康な他人に伝染せば病魔が身体から出て行く」というシャーマニズムから由来した呪術的迷信)が流布したため、非白色人種、特にまだ10代前半の黒人少女がHIV感染患者から強姦され感染するケースが多発した。また2004年以降の近年、同様に「童貞(あるいは貞淑な男性)とコンドームを使わず性交すればエイズや性病が治る」と言う呪術的迷信およびデマや、性病やエイズに罹ったために男性自体に無差別報復行為と見られる理由により、数人の娼婦が誘拐グループとしての手引き人(運転手や拘束役など)を雇い、一人の男性を拉致あるいは軟禁して輪姦(かわるがわる逆レイプメイル・レイプする)してから解放する事件も多発している。また、そのほかにも同様の行為を行うためのメイル・レイプ組織が散在する。(※→事例は逆レイプ#実際の事件の例、法律についてはメイル・レイプ#法律を参照)

犯罪問題 [編集]

アパルトヘイト廃止後に起きた失業問題により、南アフリカでは急速に治安が悪化した。現在、ヨハネスブルグをはじめとして南アフリカの都市では、殺人、強盗、強姦、強盗殺人、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。殺人に限っては未遂を含め111.30件/10万人と日本の約110倍となっている。凶悪犯罪においても、軒並み世界平均件数と比べて異常に高い犯罪率となっている。

南アフリカ犯罪統計(2007年7月3日南アフリカ警察当局発表)によると、2006年3月 - 2007年3月までで約1万9200件の殺人事件が発生した(前年統計に比べ2.4%増加)。1日に約53人が犯罪により殺害された計算で、1日の強盗発生数は約350件に上った。その中で7割以上で拳銃などの銃器が使用されたと発表されている。中には、全員が自動小銃で武装した強盗グループといった、現場の警察官では対応が困難なケースもある。さらに犯罪者は発砲を全く躊躇しないケースもあり、極めて危険である。強姦発生率についても123.85件/10万人(国連薬物犯罪オフィス (UNODC))となっており、世界最悪の発生率(日本の約123倍)である。

南アフリカの男性の4人に1人を上回る27%が、「過去に成人女性または少女をレイプしたことがある」と回答するという調査結果もある[26]。また、比較的安全と思われる高級ホテルの中ですら、従業員が鍵を開けて客室に侵入し女性旅行客をレイプするといった事件も発生している。2010年11月26日に発表された、ヨハネスブルグやハウテン州などで南アフリカ政府によって行われた調査によると、男性は3人に1人を上回る37.4%が過去に女性をレイプした経験があると回答(男性の7%が集団レイプの経験があると回答)、さらに女性は25.3%がレイプされた経験があると回答した[27]

警察当局では治安改善を図るため、警察官の大量採用や防犯カメラの設置などの対策を実施しているが、依然として治安の悪い状態が続いている。近年では、強姦件数はわずかに減少傾向にあり、2011年の強姦報告件数は6万件強で、2008年の7万件よりは減った[28]

過激派による組織犯罪・テロも懸念されている。

アザニア人民機構
極左過激派組織
パンアフリカニスト会議
極左過激派組織
インカタ自由党
ズールー人の政治組織。コサ人と対立し、武力抗争を続ける。
アフリカーナー抵抗運動 (AWB)
白人至上主義者組織。1995年4月にヤン・スマッツ国際空港(ヨハネスブルグ国際空港)で車爆弾を爆発させた。2010年4月3日、党首ユージン・テレブランシュ (Eugene Terre'blanche) が襲撃・殺害されている。
ボーア・アーンバルス部隊
アフリカーナー過激派組織。1997年1月、ルステンブルグのイスラム寺院を爆破した。
パガド
イスラム過激派組織。ケープタウンを本拠地とする。パガド (PAGAD) は「ギャングとドラッグに反対する市民」の意であり、1996年より麻薬業者、乱用者の処刑を始めた。Gフォースと呼ばれる処刑部隊を持つ。ハマスヒズボラとの関連が疑われている。

文化 [編集]

音楽 [編集]

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ポピュラー音楽においては、1930年代にアフリカ系アメリカ人の音楽の影響を受け、マロンボと呼ばれるダンス音楽が成立した。

現代ポピュラー音楽ミュージシャンとしては、男性のみによるゴスペルグループのレディスミス・ブラック・マンバーゾ、女性シンガーであり、「パタ・パタ」で知られるミリアム・マケバブレンダ・ファッシー (Brenda Fassie)、イヴォンヌ・チャカ・チャカ (Yvonne Chaka Chaka) などが世界的にもよく知られている。

シクスト・ロドリゲスen:Sixto Rodriguez)が人気である。

文学 [編集]

南アフリカはナイジェリアと同様に、ブラックアフリカでは例外的に出版業の生産、流通システムが確立しており、自国内に文学市場が存在する国である[29]

文字による南アフリカ文学は、南アフリカの強固なアパルトヘイトの影響により、白人文学と黒人文学に分離したものとして考えられている[30]。20世紀半ばごろから都市黒人によってアパルトヘイトを描いた文学が文字によって生み出されるようになり、1970年代の黒人意識運動スティーヴ・ビコ)以降もこの潮流は基本的には途絶えることはなかった。代表的な黒人作家としては『我が苦悩の二番通り』(1959) のエスキア・ムパシェーレ、『アマンドラ』(1980) でソウェト蜂起を描いた女性作家のミリアム・トラーディ、『愚者たち』(1983) のジャブロ・ンデベレマジシ・クネーネ、ANCの活動家であり、アパルトヘイト政権によって処刑された詩人のモロイセが、白人作家としては『ツォツィ』のアソル・フガード、女性作家のメナン・デュ・プレシスなどの名が挙げられる。また、ノーベル文学賞受賞作家として『保護管理人』(1974) のナディン・ゴーディマーと『マイケル・K』(1983) や『恥辱』(1999) のJ・M・クッツェーの名が挙げられる。

映画 [編集]

南アフリカ出身の特に著名な映像作家として『ツォツィ』(2005) のギャヴィン・フッドの名が挙げられる。また南アフリカを舞台にしたSF映画『第9地区』は2009年度のアカデミー賞の各部門にノミネートされた。

その他に国外の映像作家によって南アフリカを描いた映画として、

などが主に挙げられる。

世界遺産 [編集]

南アフリカ共和国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件、複合遺産が1件ある。詳細は、南アフリカ共和国の世界遺産を参照。

祝祭日 [編集]

祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 New Year's Day
3月21日 人権の日 Human Rights Day
移動祝日 聖金曜日 Good Friday
移動祝日 復活祭月曜日 Easter Monday
4月12日 家族の日 Family Day
4月27日 自由の日 Freedom Day
5月1日 メーデー Workers' Day
6月16日 青年の日 Youth Day
8月9日 女性の日 National Women's Day
9月24日 伝統文化継承の日 Heritage Day
12月16日 和解の日 Day of Reconciliation
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 親善の日 Day of Goodwill

スポーツ [編集]

イギリス統治時代にもたらされたラグビーサッカーに人気があり、ヨーロッパ系を中心にゴルフテニスクリケットの愛好者も多い。なかでもラグビーは1995年ラグビーワールドカップの開催国として開催国優勝を果たし、2007年フランス大会でも優勝するなど、世界トップクラスの実力を持つ。ラグビー代表はスプリングボクスという愛称がつけられている。

サッカーは特に黒人層に人気が高い。南アフリカのサッカー代表チームには「バファナ・バファナ」という愛称が付けられている。これはズールー語で「少年たち」を意味する。2010年にはアフリカ大陸初となるFIFAワールドカップが開催された。

かつてはF1南アフリカグランプリロードレース南アフリカグランプリが開催されていた。特にF1は1962年から長きに渡り開催されていたが、アパルトヘイト政策への抗議もあり1985年のレースを最後に共に中断。後に復活したが現在はどちらも開催されていない。1979年のF1ワールドチャンピオンジョディー・シェクターは南アフリカの出身であり1975年のレースを制している。また、カーデザイナーとしてF1で一時代を築いたロリー・バーンゴードン・マレーの両者も南アフリカの出身である。

2008年には、FIA(国際自動車連盟)公認のソーラーカーレースであるサウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジが開催された。プレトリアをスタートし、ケープタウン、ダーバンを経てプレトリアに戻るルートで、4,000km以上の一般公道を走行する。大会は2年に一度開催され、2010年に第2回大会が開催された。

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]

脚註 [編集]

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  1. ^ バントゥー諸語9言語とは、ズールー語コサ語スワジ語南ンデベレ語ソト語北ソト語ツォンガ語ツワナ語ヴェンダ語をさす。
  2. ^ CityPopulation参照。2000年以降の自治体再編によりそれまで最大都市であったダーバンの人口を超えたことから。
  3. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  4. ^ 1994年に再加盟。
  5. ^ IMF: World Economic Outlook Database
  6. ^ 国民経済計算
  7. ^ このほか、国際経済研究所による「The United States and the World Economy(2005年1月)」では、BRICsおよび南アフリカの5カ国にアルゼンチンインドネシア韓国メキシコサウジアラビアトルコを加えた計11カ国が、今後の世界経済に大きな影響を及ぼす「LEMs(Large Emerging-Market Economies)」として取り上げられた。また、BRICs経済研究所の門倉貴史はBRICsに続くグループ「VISTA」として、ベトナム (Vietnam) 、インドネシア (Indonesia) 、南アフリカ (South Africa) 、トルコ (Turkey) 、アルゼンチン (Argentina) の5カ国を、HSBCは同じく「CIVETS」として、コロンビア (Colombia) 、インドネシア (Indonesia) 、ベトナム (Vietnam) 、エジプト (Egypt) 、トルコ (Turkey) 、南アフリカ (South Africa) の6カ国を取り上げている。
  8. ^ 吉村昭著『神々の沈黙―心臓移植を追って』(文春文庫)、『消えた鼓動―心臓移植を追って』(ちくま文庫)
  9. ^ むしろ反発したこの背景には、ボーア戦争トラウマとも言うべき諸外国への根強い不信感が指摘されている。
  10. ^ 南アフリカはアフリカ統一機構 (OAU) への加盟を認められなかった。
  11. ^ 2010年6月6日放送 NHKスペシャル「アフリカンドリーム 第3回 移民パワーが未来を変える」より。
  12. ^ BS世界のドキュメンタリー 〈シリーズ 南アフリカ 第2週 変革の中で〉 プア ホワイト(2010年6月1日放送)より。
  13. ^ 悲劇の国 南アフリカ
  14. ^ 2010 国際生物多様性年-南アフリカにて環境関連イベント多数開催 ケープタウン新聞 2010年1月11日
  15. ^ 2012 Global Cities Index and Emerging Cities Outlook (2012年4月公表)
  16. ^ http://www.jetro.go.jp/biz/world/africa/za/stat_01/
  17. ^ “猛暑の採用テストで6人死亡 南ア、30度越えの中、4キロ走も”. 産経新聞. (2012年12月30日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/121230/mds12123020350005-n1.htm 
  18. ^ Midyear population estimates: 2009 Statistics South Africa 23 February 2010
  19. ^ White flight from South Africa | Between staying and going, The Economist, September 25, 2008
  20. ^ NHK BS 世界のドキュメンタリー
  21. ^ 南アフリカ共和国 センサス
  22. ^ 「多言語状況の比較研究」(平成 20 年度第 3 回研究会)東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
  23. ^ 南アフリカの言語政策――マルチリンガリズムへの道 京都精華大学 楠瀬佳子
  24. ^ これをきっかけに、人種差別の圧政言語の象徴としてのアフリカーンス語に対して白人層が使用していたに過ぎない植民地支配の象徴でもある英語がより自由な解放言語との印象を根付かせたことが現在の英語一本化へとつながっている。
  25. ^ 南アフリカの言語
  26. ^ 南ア男性の4人に1人がレイプ経験者!?研究機関調査 産経新聞 2009年6月19日
  27. ^ 3人に1人レイプ認める 南ア男性、性暴力が蔓延 産経新聞 2010年11月27日
  28. ^ “若者が少女を集団レイプ、携帯で映した動画出回る 南ア”. CNN. (2013年4月19日). http://www.cnn.co.jp/world/30006304.html 2013年5月1日閲覧。 
  29. ^ 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12
  30. ^ 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志:編 明石書店 2002/12

外部リンク [編集]