シャルル・ド・ゴール
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| シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle ste phane ruegg |
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| 任期: | 1959年1月8日 – 1969年4月28日 |
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| 任期: | 1958年6月1日 – 1959年1月8日 |
| 元首: | ルネ・コティ大統領 |
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| 出生: | 1890年11月22日 リール |
| 死去: | 1970年11月9日(満79歳没) コロンベ・レ・ドゥ・セグリーズ |
| 政党: | フランス国民連合(RPF) |
| 配偶: | イヴォンヌ・ヴァンドルー |
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール (Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle、1890年11月22日 - 1970年11月9日) は、フランスの陸軍軍人、政治家。フランス第五共和政初代大統領。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1890年11月22日に、イエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの元、フランス北部の工業都市リールに生まれた。
ド・ゴールの家系は、下級貴族である。「ド・ゴール」と言う場合のゴールの前につく「ド」(ドイツ人の「フォン」と同じ)がそれを示しているが、ド・ゴール家の場合は名字の一部とみなされている。
ド・ゴールの曽祖父は、ルイ16世の法律顧問をしており、フランス革命時に投獄されている。父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号をもつ碩学、熱心なカトリック教徒であったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者であったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味をおぼえ、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、長身痩躯という立派な体格であった事から軍人の道を選んだ。
[編集] 軍歴
[編集] 陸軍士官学校時代
先に述べた祖父・父親のもとで愛国的かつ厳格な教育を受け地元の中学校を卒業後、1909年にサン・シール陸軍士官学校に入学した。ド・ゴールは、陸軍士官学校内では、「雄鶏」(フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。無論、全て体格に由来している。実際、ドゴールの身長は約2mあったという。
[編集] 陸軍士官時代
卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。
第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。
なお、戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。中隊長をつとめ、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……ペタン」という個人的な感謝状を作成したという。
また、捕虜生活も経験し、それは第1次世界大戦終結まで続いた。ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、最も厳重な捕虜収容所であるインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」にて捕虜生活を経験した。ちなみにその牢獄には、後にロシア(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。
[編集] ポーランド軍事顧問時代
第1次世界大戦終結後ド・ゴールは、ポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時、ポーランドは、革命ロシア赤軍の攻撃を受けており、同国首都ワルシャワに迫っていた。その時の赤軍司令官は、誰あろう、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーであった。ド・ゴールは、この戦で活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド国から勲章も授与された。
[編集] 陸軍大学校時代
ポーランドから帰国後、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めたあと、1922年、フランス陸軍大学校に入学した。同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への昇進に10年もかかってしまった。しかし、この間も後に敵となるペタンは、ド・ゴールをかわいがっていたという。
その後、ド・ゴールは、中東に1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。また、ペタンの計らいもあり、ド・ゴールは、陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。この講演を文書に纏めたものが『剣の刃』である。ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『我が闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『我が闘争』から)とも評されている。
[編集] 電撃作戦の推進
第一次世界大戦のヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。
この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にも同様の発想をしていたグデーリアンのいたドイツ軍が積極的に採用している(国家指導者がヒトラーであったことも大きいと思われる)。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発、まやかし戦争と呼ばれるにらみ合いの後、1940年5月にドイツ軍のフランス侵攻が始まると、ドイツ軍は防衛方針を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を機動力のある装甲部隊で迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により敗北を喫した。
開戦直後の5月15日、ド・ゴール大佐は新編の第4機甲師団長に任命された。すでに手遅れの時期になり、しかも小規模ではあったが、ここでようやくド・ゴールは長年主張してきた機械化戦術を実地に試す機会を得た。他の第1から第3の3個機甲師団が特に見るべき活躍もなく終わったのに対し、ド・ゴール率いる第4師団は師団長の直接の指揮下のもとに戦車の集中運用を行い、一時的にではあれ、ドイツ軍部隊に脅威を与えることに成功した。特にソンム県アブヴィル近辺の反撃では、適切な航空支援が得られなかったために完璧な成功を収めるまでには行かなかったが、ソンム川南岸の敵橋頭堡3つのうち2つまでを取り返す活躍を見せた。しかしその後間もなく、ド・ゴールは陸軍次官に任命され、部隊の指揮を離れることになる。
[編集] 「自由フランス」時代
ド・ゴールは、第二次世界大戦における緒戦の戦功により、フランス軍史上最年少の将軍となる。1940年6月には、同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、ナチス・ドイツのフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛んだ。
しかし同年6月15日に首都のパリが陥落すると、そのままイギリスへ亡命することを決断、亡命後直ちにロンドンに「自由フランス国民委員会」を結成し、ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的な「ヴィシー政権」への抵抗をフランス国民に呼びかけた。イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリスのウィンストン・チャーチル首相の指示によって放送は強行された。
翌1941年10月25日には、ジャン・ムーランと会見。ひとつの大きな組織、「レジスタンス国民会議」を作るためムーランを極秘裏にフランス本土に派遣する。また自ら「自由フランス」軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、仏領インドシナやマダガスカルをはじめとする植民地やフランス本国のフランス軍の多くは中立を維持するかヴィシー政権に帰属し、ノルマンディー上陸までにド・ゴールの元に集まったフランス軍勢力はほんの一握りであった。
また、その独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領のフランクリン・D・ルーズヴェルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはド・ゴールのことを「形式にこだわる旧世界的人物」、「選挙で選ばれたわけではないのに指導者として君臨しようとしている」としてあからさまに嫌っていたという。
その後1944年6月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って自由フランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合軍とともに戦い、同年8月25日にパリが解放された。ド・ゴールは翌26日に、自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門(いわゆる、「凱旋門」の正式名称である)からノートルダム大聖堂まで、ドイツ軍の残党が放つ銃弾を気にすることなく凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ大通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。
[編集] 臨時政府首相
[編集] 強権的指導者
フランス解放後、フランス国民議会は満場一致でド・ゴールを「フランス共和国臨時政府」の首相に選出した。ド・ゴールは首相になると、民衆の声望を背景に、他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党・共産党から独裁的との批判を受けた。
1946年1月に、ド・ゴールは政策上の一致が困難であるとの理由で、突如首相を辞任した。この辞任の真意は、政党政治と議会主義に対する不満にあったといわれている。ド・ゴールは次第に、優れた指導者が国民の支持を背景に強力な政治を行うことが、政争に明け暮れる政党政治(フランスの共和制の下では多党乱立の状況になることが多かった)よりも国民のためになるという信念を持ち始めていた。彼は、この信念から1947年、「フランス国民連合」(略称RPF)を結成したが、この団体もまた1952年の一部分裂などの政争が発生。それを嫌ったド・ゴールはRPFを解体し、1955年には「公的生活から引退する」と宣言した。
[編集] 国営化推進
また、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの基幹企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。この政策は後にド・ゴールが大統領になってからも継続された。
[編集] 第5共和制大統領
[編集] アルジェリア独立承認
1958年5月、アルジェリアのフランス植民者(コロン)が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、アルジェリア駐留軍と結託して本国政府に反旗を翻し、現地駐屯の落下傘連隊がコルシカ島を占領し、鎮圧に向かった共和国保安隊も到着後反乱軍に同調し、フランス本土に脅威を与え始めた。この緊急事態に、政府は軍部を抑えることのできる人物として隠居を宣言して執筆活動にいそしんでいたド・ゴールに出馬を要請し、ド・ゴールを首相に任命した。ジャック・マシュ将軍やラウル・サラン将軍など駐留軍首脳部はこれを支持した。(詳細は5月13日事件を参照)
ド・ゴールは、これを念願実現の好機として、直ちに、大統領に強権を与え議会の力を抑制する新憲法を立案し、これを国民投票に付した。同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法が制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールはその初代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。
この11年間において初めてフランスの政局は安定し、その巧みな経済政策によってフランスは高度経済成長を遂げ、外交の面でもフランスの地位は急速に高まった。しかしアルジェリアに対してはド・ゴールは担ぎ出した人々の思惑とは逆に、アルジェリアの独立は必至と判断していた。ド・ゴール自身が後年の回想録でインドシナ戦争の背景にある民族自決の動きを理解していたこと、また当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索した(実際に国民にも提案している)ことを明かしている。これが原因で将軍達の反乱が勃発、結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼組織「OAS」のテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した。ド・ゴールはこの間、度々OASのテロや暗殺の標的となった(詳細は「ジャッカルの日」を参照)。
[編集] 独自路線
東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別に、ヨーロッパ諸国による「第三の極」を作るべきだという意識を持ち、これをフランスを中心として図っていこうとしていたことを遺作となった回想録の中でも述べている。彼自身はヨーロッパ各国が歴史や文化的背景を無視して統合することは無理だと考えていたが、各国が共同して事に当たる連合にはむしろ積極的だった。
そこで西ドイツとは和解・協力を進める反面、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合には批判的な態度を取り、NATO本部をフランスから撤退させた上にNATOそのものからも脱退してしまう。それと並行して国連分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否も表明した。この時期には東ヨーロッパ諸国も歴訪している。
また、「フランスの安全保障が、アメリカの核の傘に依存せずに済む」との信念で、通常兵力削減の代わりにフランス独自の核兵器の開発を推進し、1960年2月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功しアメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国を承認した(なお、イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に、中華人民共和国をその建国直後に承認していた)。
[編集] 5月革命
世界的な学生運動の高まりと共に、左派的な発想から現代社会を「管理社会」として告発する機運が高まる。その中女子寮への侵入を禁止された男子大学生の抗議から1968年、5月革命が勃発。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ドゴールは危機に陥る。しかし彼はジョルジュ・ポンピドゥー首相などの勧めもあり、議会を解散し国民の意思を問うことを表明。それに呼応したドゴール支持の大規模なデモが行われ、「五月革命」は急速に力を失い、ドゴールは議会選挙でも圧勝し危機を乗り越える。
しかし翌1969年には、彼が国民投票に付した上院及び地方行政制度の改革案が否決され、あえてその必要がなかったにもかかわらずドゴールは辞任した。この改革案自体は議会を通過させることは不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールが側近達の反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。
[編集] 引退後
辞任後は地方の山村コロンベ・レ・ドゥ・セグリーズに住居を移し執筆活動に専念し、翌1970年11月に解離性大動脈瘤破裂により79歳で没した。そして『希望の回想』と題された回想録が未完で残された。
遺言書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベで、家族の手により簡素に行うように」と記されていたが、フランス政府の希望もあり、結局国葬が執り行われた。墓地は希望通りコロンベ・レ・ドゥ・セグリーズにある。
[編集] 没後
没後、フランスでは、彼の栄誉を讃え、ド・ゴールの名前を施設などに命名している。次に掲げるのは、その例である。
- 「シャルル・ド・ゴール国際空港」:パリ郊外にある国際空港の名称。
- 「シャルル・ド・ゴール」:フランス海軍の原子力空母の艦名。
- 「シャルル・ド・ゴール」:薔薇の品種名。
- 「シャルル・ド・ゴール広場」:フランスのパリの名所であるエトワール凱旋門(いわゆる、「凱旋門」である)のある広場の名称。シャンゼリゼ通りの入口でもある。かつては、「エトワール広場」といわれていた。
- 「シャルル・ド・ゴール橋」 : セーヌ川の橋。
この他フランス国内にはド・ゴールの名を冠した道路や広場が無数にある。またフランス国外でも、カンボジア・プノンペンのシャルル・ド・ゴール通りなど、フランス語圏を中心にド・ゴール由来の名を持つ施設がある。
また、その政治姿勢を評価する政治家・評論家も多く、彼らはゴーリスト(ド・ゴール主義者)と呼ばれる。
[編集] 家族
私人としては派手な社交を嫌い、簡素な私生活を送っていた。また保守的な、よき夫・よき父親でもあった。
1921年4月7日にイヴォンヌ・ヴァンドルーと結婚し、長男のフィリップと長女のエリザベス、次女のアンヌの3人の子をもうけた。長男のフィリップの名は、当時の上官で後に宿敵となったフィリップ・ペタンが名付け親となり、彼自身から譲り受けた名前である。次女のアンヌは生まれつき知的障害を持っていたが、ド・ゴールはアンヌが20歳で亡くなるまで、惜しみなく愛を注いで育てたと伝えられており、家族に対してすら内気であったド・ゴールが、唯一心を開けていた相手がアンヌであったと親戚が揃って証言している。また、妻のイヴォンヌはアンヌの死をきっかけとして「アンヌ・ド・ゴール基金」を設立し、恵まれない子どもたちへの援助を行った。
[編集] エピソード
- 暗殺未遂
ド・ゴールは「わが道を行く」という姿勢をあらゆる局面で強固に貫いたこともあり、遭遇した暗殺未遂事件は31件に及ぶ。暗殺での有名なエピソードとして、車での移動中に4人組の暗殺者に機関銃を乱射されたが運転手と同乗していた婦人ともに無事であった。その後、車から降りて側近に怪我はないかと聞かれると「4人がかりで人1人殺せないとは銃の扱いが下手くそなやつらだ」と語ったとされる。1962年8月22日に暗殺未遂事件に遭遇した際は、車内に銃弾を打ち込まれながらも助かった。後にド・ゴールが語ったところでは、常に持ち歩いていた次女アンヌの遺影の額縁が被弾し、銃弾はそこで止まっていたという。
- 食生活
好物はシチュー、野菜と肉の煮込み、ロールキャベツなどで、アルコールはワインを少々飲んだ。食欲はきわめて旺盛だったという。また、糖尿病を患っていたものの、規則正しい生活や食餌療法によって血糖をうまくコントロールしていたという。
- 核兵器について
フランスの核武装を推進したが、個人としては広島と長崎の原爆投下のニュースを聞いた際、「人類を破滅させることを人間に可能とするだろう手段」の登場に絶望感に襲われたことを回想録の中で語っている。
- ビアフラ戦争
ビアフラ戦争でフランスはビアフラの分離独立を支援。これはビアフラにある石油利権を狙ったものであり、時の大統領ド・ゴールも腹心を通じて巧みに工作員を使い、ビアフラ分離独立運動を先導させ、資金、戦事物資をふんだんに送ったと後に証言があがっている。結局アメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けたナイジェリア連邦軍が優勢でビアフラは飢餓状態に瀕し敗戦、独立はならなかった。世界大戦時の英雄として名高いド・ゴールであるが、ことビアフラに関しては自国フランスの利益のためとして一部から批判がある。
[編集] 語録
- 「希望は消えねばならぬのか。われわれは最終的には敗けるのか。否だ。フランスはひとりぼっちではない」
- 「偉大なことは、偉大な人間がいなければ決して達成されない。 そして、人間は偉大になろうと決意して初めて偉大になれるのだ」
- 「人はなろうとした人物しかなれない。だからといって必ずしも良い条件に恵まれるわけではない。だが、なろうという意志がなければその人物には決してなれないのだ」
- 「どんなことがあっても、レジスタンス(抵抗)の灯は消えてはならないし、消えないであろう」
- 「私、ド・ゴール将軍、今ロンドンにいる……」
- 「この戦争は不幸な我が国土だけに限られてはいない」
- 「この戦争の結末は、フランスの戦いによって決められたのではない。これはひとつの世界大戦である」
- 「フランスは戦闘には負けたが、戦争に負けた訳ではない!」
- 「なんですって?おしまいですって?では世界は?植民地は?」
- 「私はこの師団の師団長だったことを名誉に思う。フランスの最後の勝利を信じる」
[編集] 著書
ド・ゴールは歴史や文学に通じた一級の教養人であり、その文章は多くの批評家から評価されている。邦訳のみ記す。
- 『剣の刃』(Le Fil de l'Epee)葦書房 1984, 1993
- 『戦争回想録』(Memoires de Guerre)全3巻など。 みすず書房全6巻 1966,1999
- 『職業軍の建設を!』(Vers l'armee de metier) 不知火書房, 1997
- 『希望の回想』 第1部 朝日新聞社, 1971/第2部執筆中に急逝
[編集] 関連項目
- ド・ゴール主義
- 自由フランス
- レジスタンス運動
- ウィンストン・チャーチル
- ジャック・マシュ
- アンリ・ジロー
- フィリップ・ペタン
- ポール・レノー
- マキシム・ウェイガン
- 第一次インドシナ戦争
- アルジェリア戦争
- ベトナム戦争
- フランソワ・ミッテラン
- ジャック・シラク(ゴーリストとの評がある)
- シャルル・ド・ゴール国際空港
- 『ジャッカルの日』 - The Day Of The Jackal ド・ゴール暗殺計画を描いたフレデリック・フォーサイスの小説、角川文庫。
[編集] 外部リンク
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