クリミア半島

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クリミア半島(クリミアはんとう、ウクライナ語: Кримський півострівロシア語: Крымский полуостровクリミア・タタール語: Qırım yarımadası)は、黒海の北岸、ウクライナにある半島である。ロシア語・ウクライナ語からクリムクルイムとも。「クリミア」は英語名Crimea ([kraɪmiːa] or [krəmiːa]) より。古代にはタウリカ(Taurica)と呼ばれていた。

ウクライナ共和国とクリミア半島 赤色の部分がクリミア半島。西と南には黒海が、北東には黒海の付属海であるアゾフ海が広がる

目次

地理 [編集]

クリミア半島の衛星写真 浅海が黄緑色に写っているため、ペレコープ地峡が見分けにくい。左上内陸の水面はドニエプル川下流のダム湖カホフカ湖
Crimea republic map.png
ヤルタの町。1945年にヤルタ会談が開かれたクリミア半島最南部の保養地。

クリミア半島は、幅5-8kmのペレコープ地峡によって大陸とつながっている。位置は、北緯44度23分-44度23分(約322km)、東経32度30分-32度30分(約177km)で、面積は、約2万6100km2である。

海岸は浸食されて入り江になっている。ペレコープ地峡の東は、アゾフ海にかけて極めて浅い干潟のような腐海と呼ばれるが広がり、クリミア半島とウクライナ本土とを隔てている。「腐海」というのは日本語での俗称で、当地ではウクライナ語: Сиваш「スィヴァーシュ」、クリミア・タタール語: Sıvaş「スヴァシュ」、英語: Sivash, Syvash、シバス海など、どの言葉でも「腐った海」の意で呼ばれている。ペレコープ地峡の西側カーキニット湾にいくつか港がある。カラミタ湾のある南西の海岸には、イェウパトーリアセヴァストーポリバラクラーヴァの港があり、1854年クリミア戦争でイギリス・フランス連合軍が上陸している。ケルチ海峡の北側には、アラバト湾またはイエニカレ湾があり、同じく南側には、同じ名前の港を持ったカッファ湾またはフェオドシヤ湾がある。ケルチ海峡をはさんでタマン半島と向かい合っている。

南東の海岸は、ヤイラ (Yaila-Dagh) 山地にそって、すぐ8-12kmのところにある。内陸部にはもう一つアルピンメドゥーの山々が並んでいる。残りの地域の75%は、乾燥した草地で、南に向かってポンティック草原が続いている。草原は、ヤイラ山地から北西方向になだらかに傾斜している。これらの山々は、半島の南西の先端では、黒海の海底から標高600から750mまで、急勾配にそびえ立っている。そのフィオレンテ岬の頂上には、ギリシャ人の女司祭イピゲネイアが仕えたアルテミスの神殿があったと考えられている。大草原には、古代スキタイ人の墓や古墳が点在している。

ヤイラ山地の背面の風景はまた違ったものになっていて、細い海岸線や山地の斜面は、草木で覆われている。ロシアのリビエラと言われる場所が、サールィチ岬からフェオドシヤまでの南東の海岸である。そこには、アルプカヤルタグルスフアルシタスダク、テオドシアなど、夏の海水浴リゾート地が軒をつらねている。また、タタール人の村の遺跡や、モスク、カトリックの修道院も数多くある。ロシアの皇族や貴族たちがよく訪れた場所でもあり、古代ギリシアの趣ある遺跡や、中世に建てられた要塞なども見ることができる。

政治 [編集]

全土をウクライナが領有し、南西部のセバストーポリ特別市を除いた全土がクリミア自治共和国となっている。

住民 [編集]

ウクライナ領ではあるが、ロシア人が最多で過半を占める。続いて、ウクライナ人クリミア・タタール人

ロシア人とウクライナ人は1783年にロシア領となってからの移民で、中でも大半は第二次世界大戦後である。クリミアタタール人は、13世紀頃の移民である。

歴史 [編集]

最初の住人は、確かな痕跡によると、キンメリア人であったが、紀元前7世紀の間に、スキタイ人によって追い払われた。彼らは、山岳部に避難し、のちにタウリ人として知られるようになった。

ギリシア人の植民とボスポラス王国 [編集]

ギリシア人の植民地、セヴァストポリ

同じ頃、ギリシャによるテオドシアパンティカペイオン(ボスポラス)への植民も始まっていた。ヘラクレイアからのドーリア人ケルソネソスへ、ミレトスからイオニア人がテオドシアへというように植民者が定着した。紀元前438年ボスポラス王国の王はアテナイと密接な関係を持ち、小麦などの産物を供給していた。

3人いる内の最後の王ペリサデス5世は、紀元前114年、スキタイ人の脅威に直面して、ポントス王国の王ミトリダテス6世の保護下に入った。その息子パルナケスは、父親とは反対にローマ帝国側に協力し、その報いとしてボスポラス王国とともにポンペイウスによって統治権が認められている。

紀元前15年、再びポントス王に従ったが、その後はローマ帝国の属国として位置付けられた。

民族大移動、フン、ハザール、ビザンティン、キプチャク、モンゴル時代 [編集]

それから幾世紀にも渡り、クリミア半島は他民族の侵入と占領の場となっていた。250年ゴート族376年フン族8世紀ハザールキエフ大公国1050年キプチャク1237年モンゴル帝国である。

ただし、南部のケルソネソス(ケルソン)一帯はビザンティン帝国領として古代ローマ時代から11世紀頃まで維持され、帝国のテマ(軍管区)が置かれていた。

ジェノヴァ時代とタタール人 [編集]

13世紀になり、ジェノヴァ人は、クリミア半島の沿岸にある競争相手ヴェネツィアの植民地を破壊したり、占領したりしており、自らは、ユーパトリアチェンバロソルダイアスダク)、カッファテオドシア)などに植民地を建設し、活発な商業活動を行った。

一方、タタール人は、13世紀の初期に半島の北部と中央部に留まった。キプチャク・ハン国ティムール帝国によって滅亡させられた後、チンギス・ハーンの子孫であり、ガージー・ギライをハーンとするクリミア・ハン国が成立した。彼は最初クリミア一帯を統治していたが、15世紀初頭にはバフチサライも領土に含めた。しかし、立場はオスマン帝国の属国の王として、1478年から帝国の滅亡する1777年まで統治した。

ロシア時代 [編集]

オスマン帝国露土戦争1768年 - 1774年)にてロシア帝国に敗れると、クリミア・ハン国はロシアに従属するようになり、その後1783年、クリミア半島全域がロシア帝国に併合された。

クリミア戦争は、1853年から1856年にかけて行われた。

セバストポリ近郊の軍バラック クリミア戦争当時のセバストポリ、alaklava地区。1855年撮影

ソ連時代 [編集]

第二次世界大戦では、ソビエト連邦大祖国戦争における激戦の舞台となった。セヴァストーポリでは、1941年12月17日から1942年7月4日にかけて、侵攻して来たドイツ軍との間に攻防戦が起きた。

1944年、タタール族の人々(クリミア・タタール人)は対独協力を恐れたヨシフ・スターリン政権によって強制的に中央アジアに移住させられ、クリミア半島はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の一部として統治された。

ウクライナ時代・自治共和国 [編集]

1955年、大祖国防衛戦争勝利の10周年を機に、ウクライナ融和策の一環としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。

1991年ソ連の崩壊後、独立したウクライナの一部となった。ウクライナの現状に強い不満を持つ住民たちとクリミア半島を基地とする黒海艦隊との間に衝突の危機が心配されたが、ウクライナの選挙における急進的な民族主義政党の敗北によって、情勢はだんだんと和らぎつつある。1992年5月5日、クリミア半島は独立を宣言したが、のちにウクライナ内の自治区となることで同意、クリミア自治共和国が成立した。

クリミアが舞台となった主な歴史的事件 [編集]

主なコミュニティー [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]