ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
- ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
- Українська Радянська Соціалістична Республіка
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1937年 - 1991年
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(国旗) (国章) - 国の標語: 万国の労働者よ、団結せよ!
- 国歌: ウクライナ・ソビエト社会主義共和国国歌

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公用語 ウクライナ語、ロシア語 首都 キエフ - 中央委員会第一書記
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1934年 - 1938年 スタニスラフ・コシオール 1938年 - 1947年 ニキータ・フルシチョフ(1期) 1947年3月3日 - 12月26日 ラーザリ・カガノーヴィチ 1957年 - 1963年 ニコライ・ポドゴルヌイ 1989年 - 1990年 ウラジーミル・イワシコ - 首相
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1990年7月10日 - 10月23日 ヴィターリー・マソル 1990年 - 1992年 ヴィトリド・フォーキン(最後) - 面積
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1989年 603,700km² - 人口
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1989年 51,706,746人 - 変遷
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社会主義ソビエト共和国より改称 1937年 ソビエト連邦より独立 1991年8月24日
通貨 ソビエト連邦ルーブル
(ウクライナ語: рубль)時間帯 UTC +2 - 註1 : 首相の肩書は1946年までは人民委員会議議長、それ以降は閣僚評議会議長である。
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ウクライナ・ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこく)は、かつてウクライナに存在した国家である。ソビエト社会主義共和国連邦構成共和国のひとつであった。1917年12月25日にハルキウに成立したウクライナ人民共和国がその祖となっており、その後、いくつかのソビエト共和国を併合し、また国号を変更するなどして1991年8月24日まで存続した。
国名 [編集]
ウクライナ語でУкраїнська Радянська Соціалістична Республіка(ウクライィーンスィカ・ラヂャーンスィカ・ソツィアリストィーチュナ・レスプーブリカ)、略称はУРСР(ウーエールエースエール;URSR)、ロシア語でУкраинская Советская Социалистическая Республика(ウクライーンスカヤ・サヴィェーツカヤ・サツィアリスチーチェスカヤ・リスプーブリカ)、略称は'УССР(ウーエースエースエール;USSR)またはУкрССР(UkrSSR)である。
名称の「Радянська」は「ソビエトの」と訳されるが、「ラーダの」と同じ単語である。通常、歴史・政治分野などに関する日本語文献では、ウクライナ中央ラーダや現代のヴェルホーヴナ・ラーダのようなウクライナ独立派の組織は「ラーダ」、ソビエト側のものは原語は同じでも「ソビエト」と訳し分けることになっている。「ウクライナ・ラーダ社会主義共和国」とは、通常訳さない。
なお、1919年から1937年までの間はウクライナ社会主義ソビエト共和国(Українська Соціалістична Радянська Республіка、略称:УСРР;Украинская Социалистическая Советская Республика、略称:УССРまたはУкрССР)と称していた。
概要 [編集]
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の前身となるウクライナ・ソビエト共和国(ウクライナ人民共和国)は、1917年12月25日に建設された。1919年には国名をウクライナ社会主義ソビエト共和国に改称。ここでは、対ウクライナ人懐柔政策として、それまでのロシア人優位の国家と異なりウクライナ人やウクライナ文化に対する優遇策がとられた。
1922年には、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト社会主義共和国連邦を結成した。
戦間期において、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国では東ウクライナ、特にドンバスを中心に重工業が発展した。また、ヨーロッパの中ではもっとも土地の豊かなウクライナはソ連の食糧生産の中心地ともなった。
それにもかかわらず、ウクライナでは2度もの大飢饉が発生した。急速な農業の集団化などのために生産能力が著しく低下し、またモスクワ政府の意向もあり海外からの援助はすべて断られた。特に、1930年から1931年の集団化は急激であり、そのため発生した飢饉によりウクライナ人農民を中心に300万から600万人程度が餓死した。この飢饉はヨシフ・スターリンによる計画的飢餓(ホロドモール)説もあり、ウクライナ人および農民を敵視していたスターリンおよびモスクワ政府にとっては、飢饉を助長させることは「農民問題」の解決にあたり都合のよいことであった。
1937年に、国号がウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ改められた。
1939年のナチス・ドイツのポーランド侵攻によりポーランドへ侵攻した赤軍は、リヴィウの戦いに勝利するなどしてリガ条約で失ったウクライナの領土の内ポーランド領となっていた部分をすべて取り返した。これらは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ組み込まれた。
大祖国戦争の期間には、ウクライナはもっとも激しい戦闘地のひとつとなり、第二次世界大戦中もっとも多くが死亡した地域となった。一部のウクライナ人は反ソ連組織を作りパルチザン活動を行ったが、それに対しソ連政府はウクライナの南方戦線を「ウクライナ戦線」と改名しウクライナ人を前線へ投入した。多くの町がソ連軍やドイツ軍によって破壊された。
1949年には、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国国歌が制定された。
戦後、ウクライナは目覚しい復興を果たし、かつての繁栄を取り戻した。天然資源関係以外のほぼすべての産業がウクライナで発展し、ウクライナは再びロシアの繁栄に欠くべからざるものとなっていった。なおウクライナは国連創設に携わり、ソ連とは別のソビエト連邦構成共和国として、国連総会に議席を持っていた。このような措置はソ連構成国では、他に白ロシアSSRがあるのみだった。
1954年には、ロシアとウクライナが対ポーランド協力を取り決めたペレヤスラフ協定締結の300周年記念として、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からクリミア半島がウクライナ・ソビエト社会主義共和国へ譲渡された。
1991年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が主権宣言を行うと、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国は8月24日、国家の独立を宣言した。これに伴い、ウクライナ共産党は解散し国号も「ウクライナ」に改められた。
関連項目 [編集]
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