独ソ戦

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独ソ戦
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戦争第二次世界大戦/大祖国戦争
年月日:1941年6月22日から1945年5月8日
場所ウクライナロシア西部、ポーランド、ドイツ東部他
結果:ソ連軍の勝利
交戦勢力

イタリア王国の旗 イタリア王国 (~1943)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 (~1944)
フィンランドの旗 フィンランド (~1944)
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国[1]
独立スロバキアの旗 独立スロバキア
Flag of Independent State of Croatia.svg クロアチア独立国
ブルガリアの旗 ブルガリア王国[2] (~1944)
スペインの旗 スペイン(義勇軍を派遣)
Französiche Legion Mod1 .svg フランス義勇兵
Naval Ensign of Russia.svg ロシア解放軍


ポーランドの旗 ポーランド
Flaga PPP.svg ポーランド秘密国家
Flag of the Kingdom of Yugoslavia.svg ユーゴスラビア王国
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア (1943~)
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国 (1944~)
ブルガリアの旗 ブルガリア王国 (1944~)
チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア
Flag of Free France 1940-1944.svg 自由フランス(遠征軍[3] を派遣)
イギリスの旗 イギリス(遠征軍[4] を派遣)

指揮官
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー
ナチス・ドイツの旗 エルンスト・ブッシュ
ナチス・ドイツの旗 ハインツ・グデーリアン
ナチス・ドイツの旗 エヴァルト・フォン・クライスト
ナチス・ドイツの旗 ギュンター・フォン・クルーゲ
ナチス・ドイツの旗 ゲオルク・フォン・キュヒラー
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・フォン・レープ
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・リスト
ナチス・ドイツの旗 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
ナチス・ドイツの旗 ヴァルター・モーデル
ナチス・ドイツの旗 フリードリヒ・パウルス
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ナチス・ドイツの旗 フェルディナント・シェルナー
ナチス・ドイツの旗 エアハルト・ラウス
ナチス・ドイツの旗 ヴァルター・フォン・ライヒェナウ
イタリア王国の旗 ベニート・ムッソリーニ
イタリア王国の旗 ジョヴァンニ・メッセ
イタリア王国の旗 イータロ・ガリボルディ
ルーマニア王国の旗 イオン・アントネスク
フィンランドの旗 リスト・リュティ
フィンランドの旗 レンナルト・オシュ
フィンランドの旗 カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
ハンガリーの旗 ホルティ・ミクローシュ
ハンガリーの旗 サーラシ・フェレンツ
スロバキア独立国の旗 ヨゼフ・ティソ
クロアチア独立国の旗 アンテ・パヴェリッチ
ブルガリアの旗 ドブリ・ボジロフ
ソビエト連邦の旗 ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦の旗 アレクセイ・アントーノフ
ソビエト連邦の旗 イワン・コーネフ
ソビエト連邦の旗 ロディオン・マリノフスキー
ソビエト連邦の旗 イワン・バグラミャン
ソビエト連邦の旗 レオニード・ゴヴォロフ
ソビエト連邦の旗 ミハイル・キルポノス
ソビエト連邦の旗 キリル・メレツコフ
ソビエト連邦の旗 イワン・ペトロフ
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ロジムツェフ
ソビエト連邦の旗 コンスタンチン・ロコソフスキー
ソビエト連邦の旗 パーヴェル・ロトミストロフ
ソビエト連邦の旗 ワシーリー・ソコロフスキー
ソビエト連邦の旗 セミョーン・チモシェンコ
ソビエト連邦の旗 フョードル・トルブーヒン
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー
ソビエト連邦の旗 ニコライ・ヴァトゥーチン
ソビエト連邦の旗 クリメント・ヴォロシーロフ
ソビエト連邦の旗 アンドレイ・エレメンコ
ソビエト連邦の旗 マトヴェイ・ザハロフ
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・ジューコフ
ポーランドの旗 エドヴァルト・オスプカ=モラフスキ
ポーランドの旗 ズィグムント・ベルリンク
Flaga PPP.svg タデウシュ・コモロフスキ
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ヨシップ・ブロズ・チトー
ルーマニア王国の旗 コンスタンチン・サナテスク (1944)
ルーマニア王国の旗 ペトレ・ドゥミトレスク
チェコスロバキアの旗 ルドヴィーク・スヴォボダ
ブルガリアの旗 キモン・ゲオルギエフ (1944)
戦力
不明 不明
損害
死者 400~600万人
(諸説あり)
死者 1500~2000万人
(諸説あり)
独ソ戦
ドイツ軍とともにソビエトに進撃したフランス義勇兵(1941年)
史上最大の戦車戦となったクルスクの戦い

独ソ戦(どくソせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国ソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。

大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線der Ostfeldzug)と表現される。

目次

概説 [編集]

1939年8月23日に締結したモロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス党政権下のドイツは反共の急先鋒であったからである。欧州を巡る混乱の中、反共という包囲網による孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエトは、イギリスフランスとの同盟を望んでいたが両国は条約につながるような同意に至らず、その煮え切らない態度に対してドイツと手を握ることにした。

ドイツが領土問題を抱えるポーランドとの戦争に踏み切ると、ソ連はモロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づき緩衝地帯の分割を進め、このポーランド分割によって、ドイツとソ連という根本的な部分で相反する列強は国境を接することとなり、もとより、信頼しあうわけでもない両列強の開戦は時間の問題となっていった。

アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争は時間の問題でありヨシフ・スターリンがドイツに対する戦争準備をしていると考えていた。石油資源を欲したドイツにおいては、ルーマニアのモレニ油田をソ連の手から防衛するためという理由もあった。また、当時イギリスはソ連とアメリカの参戦をあてにしていたため、ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。

フィンランド侵略軍であるはずのソ連を国際連盟からの除名といった形で放置して反ドイツ包囲網をつくりあげようとしていたイギリス・アメリカ連合軍側、ドイツ、そしてソ連という列強の複雑な思惑の中、ついに各陣営は戦火を交えることとなる。

1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。イギリス・フランスとの戦争は対ポーランド戦における同盟関係から第一次世界大戦の開戦のごとく結果的に始まったものであるが、対ソビエトの戦争は「ドイツの生存圏の拡大」という思想上、避けられないものであった。

フランスからは反共主義者が志願兵としてドイツ軍に加わった。ロシア人の反共主義者はロシア国民解放軍ロシア解放軍として共産主義者と戦った。

開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、過酷な共産党の政策からウクライナの住民は、規律が正しく教育も高いドイツ陸軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。

この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1128万人、ドイツ兵が500万人である。民間人の犠牲者をいれるとソ連は2000~3000万人が死亡し、ドイツは約600~1000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いと言われている。初期のソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している。戦争終了後のドイツ兵の捕虜300万人うちシベリア抑留などで死亡したのが100万人である。

緩衝地帯の国家が枢軸・連合のどちらかに鞍替えするといった状況の中、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの支配領域となることにより戦争は終結する。

経過 [編集]

1941年 [編集]

6月22日、バルバロッサ作戦の発動によりドイツ・ソ連国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始された。当初は5月の侵攻を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変により作戦の開始が一ヶ月以上延ばされることになった。

開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でミンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜となった。また、開戦早々ソ連赤軍の航空部隊はドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある(バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因の項を参照)。

その為、8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、キエフハリコフなどが陥落した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す。

クレムリンまであと十数キロのところまで迫ったがドイツ軍の攻勢は頓挫し、モスクワ攻略は失敗した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。

その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、アメリカのルーズベルト大統領がソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワ市が陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。[5]

冬季戦に長けたこれらの部隊は各地でドイツ軍を食い止めることに成功、12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ正面から後退させる事に成功したが、ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。

ソ連側は焦土作戦によりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、更にドイツが占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を絶つことに成功した。また、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届かない内陸部にまで疎開させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。

1942年 [編集]

ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、1942年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍及びその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にも回復していなかった。春先に総攻撃が頓挫すると、前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」とスターリンは思い込み、モスクワ西部及び南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した(第二次ハリコフ攻防戦)。しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のスターリングラード方向を目指すものだった。

前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が建てられ、南部戦線にて、ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的としたブラウ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続くが、赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。

ヴォルガ川の要衝の地におけるスターリングラード攻防戦において、ドイツ軍は、市街戦での消耗戦に陥る。また、コーカサスを目指した軍集団は、嶮しい山岳地帯とソ連軍の抵抗により、こちらの進撃も行きづまってしまった。冬季が訪れると11月には、再びソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった。

ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、1943年1月後半に総司令官のパウルス元帥以下約10万人の枢軸軍が投降し捕虜となる。

1943年 [編集]

ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。なによりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。 「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。我々もドイツ軍を破りうるのだ。この確信を持てたことが決定的に重要であった。スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」 遂にドイツに勝てた根本の原因は、勝利の信念が確立されたことであるとジューコフ元帥は言う。[6]

1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された(クルスクの戦い)。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。

時を同じくしてシチリアへの連合軍上陸の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。

1944年 [編集]

開戦から3年を経た日に、赤軍は一大攻勢であるバグラチオン作戦を発動した。ドイツ軍は当初、赤軍の攻勢は南部戦線と予測しており、ソ連軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。赤軍は、かつてのドイツ軍が取り柄としていた陸空一体の電撃戦を展開。物量作戦でドイツ軍を圧倒し、ドイツ中央軍集団は事実上壊滅した。

この作戦の結果、ドイツ軍は白ロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。

南部ではヤッシー=キシニョフ攻勢の影響によりルーマニアでクーデターが発生し枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。9月には、ブルガリアフィンランドも枢軸側より離脱した。一方ハンガリーでは、ドイツ軍主導のパンツァーファウスト作戦の工作により枢軸側に留まった。

1945年 [編集]

2月14日、ハンガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。

4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。

5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)[7]。しかし、独ソ戦すべての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する5月11日のことだった。

開戦までの両国の関係 [編集]

第一次世界大戦後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、ラパッロ条約により国交を回復させた。当時のドイツはヴェルサイユ条約により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、シベリア出兵など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と場所が皆無だった。ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。

1933年にヒトラーが政権を握った。ヒトラーは反共主義者であり、両国の政権政党はイデオロギー上で対立していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、トゥハチェフスキーの粛清の一因に、SD(ナチス党情報機関)長官ハイドリヒの謀略があったともされる。その後、一方のスターリンは、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ連包囲網を結んでいるのではないかとの被害妄想から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避けることを目論んで、相互に独ソ不可侵条約を結ぶこととなる。

この間にソ連は、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。

なお、戦争間際まで資源がソ連からドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。

一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に、「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している[8]

バルバロッサ作戦の準備を告げる情報は、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンを始めとするソ連軍は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。このスターリンやソ連軍の判断は今なお歴史家の間で疑問とされている。

戦場としてのソビエト・東部戦線 [編集]

ソビエトと戦うためドイツ陣営に加わるコサック(1942年)

ドイツ軍がそれまでに行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、目的地までの距離は比較的短かった。このことは、ドイツ軍が編み出した電撃戦という戦術を行うことにおいて有利に働いた。進軍・補給ともに計画もしくはそれ以上の結果を残したため電撃戦の効果を十二分に発揮できたのだ。電撃戦によって自軍の損害を小規模にとどめ、短期間に他国を蹂躙・占領し戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。戦争前からの経過を見ればわかることであるが、ドイツは他の方面の防衛は最小限とし攻勢の前面にほぼ全力を投入する戦闘を続けており、電撃戦の失敗による長期持久戦化はドイツにとって危険な二正面作戦を生み出すことになるはずである。

独ソ戦の開戦時、機甲師団の能力・電撃戦の限界については未知数だったといってよい。なぜならば対ソビエトの戦闘においての進撃すべき距離は、これまでの戦闘とは比較にならない距離だったからである。 これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点については意見が分かれるところであった。電撃戦に必要なのものは一にも二にも速度であり、これは補給と飛行場の確保が不可欠である。だが、ソビエトの地は電撃戦をしかけるにはあまりに広大であった。そして、ここは冬季には厳寒な土地であり、攻撃する側にとっては非常に危険な大地だった。

広大な土地に対しての情報は不足し、道路の情報はほぼ間違いであるといって過言ではなかった。ほとんどの道路は未舗装であり、そのことが後に進軍を阻む泥濘と化すことを知らなかったのではないかといえるほど、ドイツ軍の準備はなされていなかったといえる。

これまでにも機甲師団の進軍においての故障率は対オーストリアへの進駐の段階ですら看過できない状態であり、戦闘期間が長引けばそれは機甲師団を軸に戦争の計画を立てている者にとっては恐るべき結果が待っていたといっても過言ではない。部隊の数を増やすことなどままならず、維持することすら多くの努力をもってなされていた状態であった。

ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど過酷な大地であった。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。だがソ連の大地は苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。必要な部品は届けられず、他の兵器を活用するために部品を抜かれる兵器も多かった。

ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツと同等もしくは劣勢であると考えられる国々であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していた。すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白であった。

このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト・赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにソビエト・赤軍の対フィンランド戦での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。だが、赤軍の予備兵力はドイツ軍が想定するよりもはるかに膨大であった。もし勝利を得られることがあるとすれば、圧倒的な電撃戦による勝利か、開戦1年目のような捕虜・軍事物資の放棄が常に続くような状況でない限り勝利は遠かったのだ。

このようなドイツに対して、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗した。

陸・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦において、ソ連赤軍には革新的ともいえるT-34という戦車の存在があったことは特筆すべきであろう。敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔には敵戦車に対しては必要十分な砲を持つという、戦車の歴史を変えるほどの戦車であった。ただし、その実態は様々な部分において洗練されておらず、無骨で運用面での様々な特性・利便を無視した設計でありドイツからみた戦車戦術からするとまだまだ問題の多い戦車であったといえるであろう。だが、戦術という面ではなく戦車単独でみる限りにおいてその性能はずばぬけており、なおかつ量産性に優れ、ロシアの大地に最適な戦車であり大量生産しうる体制を確立した。その性能はさまざまな部分において欠陥が指摘されているが、独ソ戦という状況、かつロシアの平原においては既存のドイツ戦車を駆逐しうるほどの性能と生産性と整備性を維持している驚異的な戦闘車両であった。ドイツから指摘しうる欠陥は砲塔、砲など着実に変更・修正され、やがて三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積むことによって中戦車としてはその量産性をもってしてドイツ軍を圧倒することになるのである。それに及ばず、ソ連空軍は襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機(シュトゥルモヴィーク)を量産し対抗した。

赤軍はその膨大な予備兵力によって、圧倒的な敗北から敗北を理解し、攻勢の失敗から攻勢のなんたるかを理解した。そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して最大の大攻勢を行うのである。

交通事情 [編集]

1943年、ハリコフでの第1SS装甲師団

ドイツとはゲージ(2本の線路間の幅)が異なることにより、鉄道によりドイツから直接乗り入れることができない現実、満足に整備されておらず充分な情報もない上に、満足に舗装もされていない道が多い道路網(南北方向の道路網は比較的整備されていたが、ドイツ軍の進撃には役に立たなかった)。なにより軍備増強を急いだために、自動車化が完全ではなく移動・補給の多くに軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。

 また、同時期に戦場となっていた北アフリカは、広大な戦域(地図上でみても、西端から東端までの距離は、ベルリンからモスクワよりも遠い)にも関わらず港湾付近以外では自動車以外の補給手段がない為にその作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。確かに北アフリカ戦線は自動車以外の補給の方法は無かった。だが、要求する数量はあきらかに作戦が生み出すものからすれば桁はずれな数量であった。

それに対して、赤軍にはレンドリースによってアメリカから送りこまれた大量の軍用車両が配備されていた。カチューシャの台として用いられた物を含めたこれらの車両がなければバグラチオンのような電撃戦は無理であろうといわれている。

土壌と気候・焦土作戦 [編集]

ソビエトの大地は春と秋には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・秋の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが要塞であり、毎年早くに訪れる冬将軍も侵略者を苦境に陥らせるのである。そしてさらに攻略する軍を苦しめるために行われるのが焦土作戦である。

以上のことから、夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。

冬戦争におけるフィンランド国防軍との戦闘では醜態を晒した赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。

かつて焦土作戦を展開し大北方戦争スウェーデンを、祖国戦争ナポレオン率いる大陸軍を撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。 もっともこの作戦は、ロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。

攻勢に転じドイツ軍が防戦に回ると、同じようにソ連領土内を焦土としていった。このことにより多くの都市は廃墟となった。

パルチザン [編集]

同盟国 [編集]

戦況の変化により各国は同盟する陣営を変えた。枢軸国側は一枚岩ではなく、長年問題を抱える隣国同士(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)が枢軸側として同盟していたこともあり敵側にまわることにより戦争状態に入ることに対して問題を感じることなく対応することもあった。

東部戦線の立場と援助 [編集]

ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を考えると侵略国であった。それはポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国に対しての行動から見ても考えるまでもない。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいうランドパワーとしての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。 反共で知られるイギリスの首相チャーチルは、ナチス・ドイツの敵であるがゆえに「敵の敵は味方」として共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下したのである。この理屈がこの戦争の列強の利害関係を明確にするのであり、後に東欧諸国を衛星国化することをチャーチル自らが認めるなどを含め冷戦状態を生み出すことになるのである。

独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資はペルシア回廊を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。

航空機戦車などの正面装備トラックジープ機関車無線機野戦電話電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰ブーツのような一般工業製品からアルミニウムといった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。

スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。

エマニュエル・トッドはその著書『帝国以後』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。一九四四年六月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。」と述べている。[9]

影響 [編集]

ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領がドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。 「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていた。歴史学者ミハエル・シュチュルマー教授の言をかりれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士のエルベ河畔での邂逅は、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである。」[10] また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時をしのびあった。

対敵協力者 [編集]

ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、ヴラソフ将軍が組織したロシア解放軍ヒヴィなど、対独協力者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。

戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、コルィマ鉱山等のシベリア各地への追放を受けた。

また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥やフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加した者も存在した。

民族問題 [編集]

ナチス・ドイツが民族国家の確立のために戦争を始めたこの戦いは、多民族国家であるソビエト連邦に与えた影響は軽視出来るものではなかった。開戦当初のナチス・ドイツへの協力とパルチザン化にはじまり、コサック問題、ブラウ作戦時のコーカサス地方など、ソ連の多民族国家としての問題・矛盾をあぶり出す戦争であった。

文献 [編集]

ソ連側から
  • 『第二次世界大戦史―ソ独戦と対日戦』、国民文庫社、1954年
  • スターリン 『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』、国民文庫社、1953年
  • N.チーホノフ 『レーニングラード』、創元社、1952年 - レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説
  • Harrison E. Solisbury 『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年 - 米人記者がソ連側から見た独ソ戦
  • Theodor Plievier 『モスクワ』 金森誠也訳、フジ出版社、1986年、ISBN 4-89226-069-X - ソ連側から描かれた独ソ戦の小説
  • David M.Glantz / Jonathan M.House 『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』 守屋純訳、学習研究社、2005年、ISBN 4-05-901173-8 - ソ連側から見た独ソ戦
  • スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ 『ボタン穴から見た戦争』 三浦みどり訳、群像社、2000年。 - 原題は『最後の生き証人』。当時子供だった人々へのインタビュー集
ドイツ側から
  • 井上鍾編 『モスクワへ、独逸宣伝戦闘隊写真報告第一報』、番町書房、1942年 - 、昭和17年に出版された写真集
  • パウル・カレル 『バルバロッサ作戦』 松谷健二訳、フジ出版社、1971年
  • パウル・カレル 『焦土作戦:ソ連の大反攻とヒトラーの敗走』 松谷健二訳、フジ出版社、1972年
  • Jürgen Thorwald 『幻影、ヒトラーの側で戦った赤軍兵士たちの物語』 松谷健二訳、フジ出版社、1979年 - ソ連人対独協力者の運命
  • パウル・カレル Unternehmen Barbarossa im Bild: Der Rußlandkrieg fotografiert von Soldaten, Ullstein, 1985, ISBN 3-550-08509-5 - ドイツ兵士の撮った写真に見る独ソ戦
  • Richard Muller 『東部戦線の独空軍』 手島尚訳、朝日ソノラマ、1995年、ISBN 4-257-17295-9
  • Werner Maser 『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』 守屋純訳、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400983-2 - スターリンの戦争準備
  • クルト・マイヤー 『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』 松谷健二訳、学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400984-0 - 武装親衛隊指揮官の回顧録 - フジ出版社版の復刻

参考文献 [編集]

ボードゲーム [編集]

外部リンク [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ 1944年10月18日以降は矢十字党政権のハンガリー国en
  2. ^ 正式な対ソ宣戦布告は行わなかった
  3. ^ ノルマンディ・ニーメン
  4. ^ en:No. 151 Wing RAF
  5. ^ 歴史群像シリーズ43 アドルフ・ヒトラー 戦略編 P.93
  6. ^ 大東亜戦争ここに甦る P.88
  7. ^ 井上(2006:242)
  8. ^ 「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」児島襄文藝春秋社)ISBN 978-4167141387
  9. ^ 帝国以後 P.121-122
  10. ^ 荒れ野の40年

関連項目 [編集]