キンメリア人

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キンメリア人(キンメリアじん、英語: Cimmerians, Kimmerians, 古代ギリシア語: Κιμμέριοι)は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。ギリシア語ではキンメリオイと呼ばれる。そのため、彼らの住む地域(南ウクライナ)はキンメリアと呼ばれた。

歴史[編集]

キンメリア[編集]

キンメリア人の住地すなわち「キンメリア」は現在の南ウクライナにあたる。それを思わせる記述がヘロドトスの『歴史』、ストラボンの『地理誌英語版』に記されている。

スキュティア人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河(ヴォルガ川)を渡りキンメリア地方に移ったという。今日スキュティア人の居住する地域(南ウクライナ)は、古くはキンメリア人の所属であったといわれるからである。

ヘロドトス 第4巻11

[1]

キンメリコンは、以前は市で半島の上に位置し、堀割と堤防で地峡を封鎖していた。ボスポロス地方ではかつてキンメリア族が大きな兵力を保有し、この地方に「キンメリア」の異名が付いたのもこのためだった。そして、黒海右岸からイオニア地方にかけての内陸諸地域の住民を追出した。それから、スキュタイ族が後者をこれらの地域から追払い、そのスキュタイ族をギリシア人が追払ってパンティカパイオンをはじめとするボスポロス地方諸都市を建設した。

ストラボン 第11巻第2章5

[2]

ストラボンの時代、現在のケルチ海峡はキンメリオス・ボスポロス海峡と呼ばれていた。その様子と名の由来をヘロドトスとストラボンは以下のように記している。

いまもスキュティア地方には、「キンメリア砦」とか「キンメリア渡し」[3]とかがあり、キンメリアの名で呼ばれる地方もあれば「キンメリア・ボスポロス」と呼ばれる海峡もあるのである。

ヘロドトス 第4巻12

その(ポセイドニオスの)推測によると、キンブリ族は盗賊と放浪を常とする部族なのでマイオティス湖(現在のアゾフ海)周辺まで遠征を行った結果、この部族の名からキンメリオス・ボスポロス海峡という呼び名ができた。ギリシア人がキンブリ族をキンメリオイという名にしたので、キンブリコスというべきところをキンメリオスと呼んだ。

ストラボン 第7巻第2章2

山ではもうひとつキンメリオン山もおなじ山岳地帯にあり、山名はキンメリオイ族がかつてボスポロス地方に勢力を張っていたことから来ている。マイオティス湖口につづく海峡を総称してキンメリオス・ボスポロスと呼ぶのもこの歴史に基づく。

ストラボン 第7巻第4章3

スキタイの西進によるキンメリア人の南下[編集]

スキタイは初めアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ(一説ではイッセドネス人)に攻められた結果、アラクセス(ヴォルガ)川を渡ってキンメリア地方(黒海北岸)に移り、そこにいたキンメリア人を追い払って代わりに住みついた。この時、キンメリア人はスキタイ襲来に先立ち、王族側の徹底抗戦派と民衆側の逃走派に分かれていたが、王族側が国土をすてて逃走するより祖国で死んだ方がいいということで、全員殺し合って死亡した。残った民衆側は王族たちの遺骸を埋葬すると、海岸沿いに逃げてアジアに入り、シノペ(現在のシノプ)のある半島に落ち着いた。スキタイはキンメリア人を追ってカフカス山脈を右手にしつつ南下したが、道を誤ってメディアの地に侵入した。

[4]

アナトリア侵入後[編集]

また、キンメリオイ族はその名をトレレス族ともいい、あるいは後者が前者の一部族だともいうが、この部族はしばしば黒海右岸域や自分たちの地方に隣接する諸地域へ侵入し、時にはパフラゴニア英語版 地方へ入り、さらにプリュギアの諸地方へも入った。後者への侵入はミダスが雄牛の血を飲んで死の運命に身を任せたという話のある時の出来ごとだった。リュグダミスは自分の部族を率いてリュディア、イオニア両地方にまで進み、サルデイス市を陥れたが、キリキア地方で落命した。キンメリオイ、トレレス両族ともしばしばこのような侵略を行ったが、話によるとコボスの率いるトレレス族は最後にはスキュタイ族の王マデュスの手でその地方を追われた。

ストラボン 第1巻第3章21

ストラボンのこの記述によれば、キンメリア人は紀元前695年アナトリア中西部のフリュギア王国のミダス王を自殺に追い込み、紀元前670年紀元前660年代初めにはアナトリア西部のリュディア王国の都サルディスを一時占拠した。[5]

アッシリア史料における「ギミッラーヤ」[編集]

キンメリア人の進路(ピンク)と周辺国(水色がコルキス王国、黄色がウラルトゥ王国、紫が新アッシリア王国)。 715-713 BC

前8世紀末~前7世紀のものとされる新アッシリア時代の楔形文字碑文および粘土板に、「ギミッラーヤ」(もしくはガメラーヤ)と呼ばれる集団が記されている。音声上の類似からこれをキンメリア人に比定されている。

紀元前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめるが、征服には至らなかった。紀元前705年、ギミッラーヤがアナトリアに侵入したため、サルゴン2世は再び遠征を行ったが、その途中で陣没してしまう。紀元前679年紀元前676年頃、サルゴン2世の孫にあたるエサルハドンはキリキア地方でギミッラーヤの首長テウシュパとその軍勢を撃ち破り、祖父の仇を討った。

紀元前650年紀元前645年頃、リュディアの王ググ(ヘロドトスのいう「ギュゲス」)がギミッラーヤに攻められ、アッシリアに援軍を求めたが、間もなく殺され、その墓も略奪された。この頃のギミッラーヤの王はアッシリア史料で「ドゥグダッメ」と記されているが、これはストラボンが上記で記す「リュグダミス」のことと考えられている。この後ドゥグダッメがアッシリアのアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)と同盟を結んだ可能性もあるが、紀元前640年頃にキンメリア軍はアッシリア軍に敗れ、ドゥグダッメもキリキア地方で死んだとストラボンは記す(上記)。

[6]

キンメリア人の終焉[編集]

紀元前7世紀の終わり頃、キンメリア軍はリュディアの王アリュアッテス(在位:前610年頃 - 前560年頃)に敗れ、その姿をほぼ消した。[7]

考古学におけるキンメリア人[編集]

スキタイ時代が始まる前、南ロシア草原には地下横穴墓(カタコンブナヤ)文化と、木槨墓(スルブナヤ)文化という2つの大きな文化の流れがあった。両文化の年代について諸説あるが、A.M.レスコフの説によると、地下横穴墓文化は前2000年頃に黒海北岸で成立し、前1500年頃になってヴォルガ川流域で発生した木槨墓文化にとって代わったという。ある研究者は地下横穴墓文化をキンメリア人、木槨墓文化をスキタイの文化とみなすが、地下横穴墓文化が木槨墓文化に代わる前1500年とキンメリア人が小アジア(アナトリア)に現れる前8世紀とでは年代の開きがあるため確実とは言えなかった。そんな中、木槨墓文化とスキタイ文化の間に期間が短いものの、木槨墓文化より騎馬民族的な先スキタイ時代と呼ばれる文化が発見された。この先スキタイ時代は年代が諸説あるものの、チェルノゴロフカ期(前8世紀中ごろ~前7世紀初め/前900年~前750年)とノヴォチェルカッスク期(前8世紀末~前7世紀末/前750年~650年)の2つに細分される。ある研究者は先スキタイ時代をキンメリア人とスキタイのものであるとし、両民族は名前が違うが同じ民族であるとした。A.M.レスコフはチェルノゴロフカ期をキンメリア人、ノヴォチェルカッスク期をスキタイの文化とした。A.I.テレノシュキンはチェルノゴロフカ期、ノヴォチェルカッスク期ともキンメリア人の文化であるとし、先スキタイ時代をキンメリア時代と呼んだ。A.I.テレノシュキンはここで先スキタイ時代とスキタイ時代には埋めがたい溝があり、両民族はまったくの別民族であると主張した。 [8]

実際、北カフカスや黒海北岸で出土した先スキタイ時代の武器や馬具とそっくりなものが、アナトリア中部と東部の遺跡で発見されており、中でもイミルレル遺跡はキンメリア人が移住したとされるシノプから南へわずか120キロほどの距離にある。[9]

「キンメリア」に関する作品[編集]

おれの健康はおびやかされた。恐怖がおとずれた。何日もつづく眠りに落ちた。眠りから覚めても、最も悲しい夢を見つづけた。おれには死の時が熟していた。危険な道を通って、おれの衰弱がこの世と、影と竜巻の祖国、キンメリアの境へと、おれを連れていった。

「錯乱II」より

脚注[編集]

  1. ^ ここのスキュティア人移動の記述では、カスピ海の北方と南方で別々に起こった移動を混同している形跡がある。本来北方で起こったと考えるべきで、そうすればアラクセス河は、普通その名で呼ばれる、アルメニアに発しカスピ海に注ぐ河ではなく、むしろヴォルガ下流を指すことになる。《松平 1988,p180》
  2. ^ この部分に関連して、キンメリア人の南方と西方への発展はスキタイ人の進出よりはるか以前より始まっていて、その遠征により手薄になった黒海沿岸の中心地にスキタイ人が侵入し、キンメリアのボスポロス部分は分断され、徐々に弱められて滅亡に至った、という仮説が歴史家ロストフツェフによって提出されている。
  3. ^ ケルチ海峡の一部であるイェニカレ海峡のことか。《松平 1988,p180》
  4. ^ 護・岡田 1900,p30、林 2007,p88-89
  5. ^ 林 2007,p90
  6. ^ 林 2007,p90-91
  7. ^ 林 2007,p92
  8. ^ 護・岡田 1990,p31-34
  9. ^ 林 2007,p97

参考資料[編集]

関連項目[編集]