Wikipedia:井戸端

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
漓江と桂林市の景色 (中国)
相談と質問

井戸端
利用案内
調べもの案内
執筆・翻訳者の広場
For Non-Japanese Speakers

過去ログ
1階層あたり最大200件まで表示

Wikipedia:井戸端/過去ログ

このページ(井戸端)は、ウィキペディア日本語版について、運営や方針、新しいアイディアや作業の仕方、その他様々なことで質問や提案、議論、意見交換を行なう場所です。

質問を行う前に似た質問が井戸端にないかも事前にご確認ください。なお、井戸端でよくある質問に関してはFAQにも掲載されていることがありますのでそちらのページもあわせてご確認をお願いします。

ウィキペディア日本語版、もしくはウィキメディア・プロジェクトと関係のない話題を投稿するのはご遠慮ください。

This page is used to ask, propose and discuss the operations, policies and new ideas of Japanese Wikipedia. If you want to write in the languages other than Japanese, you can use Help for Non-Japanese Speakers too.


次のような内容には、このページ(井戸端)ではなく専用のページがあります。

ウィキペディア全体に関して
個々の専門分野に関して
個々のページに関して
個々の利用者(アカウント)に関して

井戸端以外に適切な議論の場所がある場合、投稿が該当のページへと移動される場合があります。あらかじめご了承ください。


過去ログ
井戸端の過去の議論をこちらから検索することができます。
最近の更新
井戸端ウォッチリスト - サブページを含めた井戸端の投稿状況が確認できます。
サブページ
運営方針
  • 投稿された全てのトピックは、サブページに移動します。
  • サブページは、Category:井戸端の話題にカテゴライズしています。
  • サブページは、最新の投稿から10日間経過するか、最初の投稿から30日が経過すると、井戸端への読み込みが解除されます。

解消済み仮リンク[編集]

皆さんにお聞きします。仮リンクは、本当に必要なものでしょうか。確かに、記事が無い場合にほかの言語版に行けるのは、便利かもしれません。しかし、1個記事ができるとCategory:解消済み仮リンクを含む記事に記事が追加され、Frozen-mikanさんなどが、積極的に作成済み仮リンクを削除してくださったりしています。見にくくなったり、重くなるといった実害はないのですが、あまり意味がある作業とも思えませんし、仮リンクで外国語版に飛び、それを読むような能力がある人ならば、最初から外国語版を読んでいると思います。後々解消済み仮リンクを削除する手間を考えると、いらないのではないでしょうか。--153.166.51.93 2014年4月3日 (木) 02:07 (UTC)

積極的に仮リンク化したりそれを手伝うツールを公開しているものです。私は翻訳記事などではあった方がよいと思っています。理由としては、Wikipedia:外来語表記法に基づき一旦カタカナ化してしまうと、英語版のどの記事に相当していたのか、分からなくなってしまうからです。仮リンクのテンプレートに気づく以前は、これを回避するために英語版への直リンクやスペルの併記を行っていましたが、前者は後々日本語版へ置き換える手間があり、後者は後者で情報が重複(スペルはリンク元ではなくリンク先に含まれるべき情報だと思うため)しているように感じます。いずれも日本語版の立項後は解消する手間があり、これは仮リンクの解消以上に面倒です。
一方、読者の立場から考えても、「ただの赤リンクは無価値」です。赤リンクに遭遇しても、記事が無い以上の情報は得られません。しかし仮リンクになっていれば、調べようと思えば他言語版で詳しい情報を調べることができます。ここは大きな違いです。特にテンプレートでは強くそう感じます(悪い例)。また直接英語版にリンクされるよりも、英語版である旨表示されている方が嬉しいです。
(なお、私は頑張れば英語版も読めますが、「最初から外国語版を読む」ほどの語学力はありません。日本語版で概要を掴んだうえで英語版なら読めます。そういうレベルの人も居ます。)--Honeplus会話) 2014年4月3日 (木) 03:06 (UTC)
重箱ですが、仮リンクを「積極的に」使うというのは、少々語弊があるのではないかと思います。リンクの存在の確認にはifexistという高度なパーサー関数を使うので、1ページあたりの使用回数が500回までというテンプレートの制限があります。たとえば英語版から翻訳した一覧記事なんかでは膨大なリンクが含まれていることがあり、全ての赤リンクを仮リンクにしようとしても出来ないことがあります。つまり「仮リンク」は、優先順位を決めて一部のリンクのみに使うためのテンプレートだと思います。
厄介なのがナビゲーションテンプレートのたぐいを英語版から導入した場合です。Template:ディスクイメージのように、ほとんどが仮リンクばかりのテンプレートができてしまい、こうしたテンプレートを1つの記事に複数載せてしまうと、記事本文で使用できる仮リンクの数が著しく制限されてしまいます。翻訳者の方々であれば、このような仮リンク・赤リンクばかりで作られたテンプレートというのも、翻訳作業の目安になるので便利なのは理解できます。しかし一般の方々にしてみれば「英語版、英語版、英語版・・・」という文字が延々と続く状態は見づらいという意見もあるようです。ナビゲーションテンプレートだったら折り畳んで隠しておけばいいと思っていらっしゃる方もおられるようですが、折り畳みギミックはJavascriptを使った機能なので、例えば業務用のセキュリティレベルの高い端末で閲覧すると常に開きっぱなしで表示されてしまいます。それが画面の狭いモバイル機器だったりすると、テンプレート部分で未翻訳の赤リンクやら仮リンクやらが数ページ延々と続くことになり、パケ代の損です。
このような仮リンクの使いすぎによる弊害を減らすためにも、仮リンクは優先順位を意識して少数厳選で使うべき存在と考えたほうが、筋が通ると思うのです。--Gwano会話) 2014年4月3日 (木) 13:11 (UTC)
1ページ500件という制限があるのですか。それは巨大な一覧記事ではちょっと注意が必要ですね…(個人的には、一覧記事こそ仮リンクになっていて欲しいのですが。赤リンクでは何も分からないので。)
ナビゲーションテンプレートについては、個人的には仮リンクが問題なのではなく、そもそも赤リンクが過半になるようなものがよろしくないのでは…?と思っています。例えば、ちょうど昨日作ったテンプレートでは、一度英語版から翻訳した上で赤リンクをごっそり消して立項済みの項目がメインになるようにしていますWikipedia:ナビゲーションテンプレート(私論となっていますが)でも、「赤リンクを含めるのは、記事が作られる見込みが高そうな場合以外は避けるべきです。」とありますし。(といっても、アジアの国のxxの一覧、のようなテンプレートの場合、未立項でも全ての項目を用意せざるえませんが…。)
ちなみに、折り畳みは表示上だけの話でHTML的には出力されているので、パケ代的には同じです。--Honeplus会話) 2014年4月4日 (金) 02:30 (UTC)
河川、都市、自治体、過去に存在した国家などの地理に関わりの深い分野への仮リンクは、地図・座標・写真・グラフによって、それらが存在する位置、領域の範囲、気候、人口の増減を手っ取り早く説明するのに便利。例えば、エチオピアのジジガ(en:Jijiga)という町の仮リンクを項目の中に設置すると、町の位置の情報を英語が苦手な読み手にも伝えることができ、かつ景観、気候をイメージさせることもできる。ただ、
  • サブスタブに仮リンクを貼る意味はあまり無い。リンクが貼られている事象への理解を深める助けには全くなっていない。
  • 「日本におけるマイナー言語」版のウィキペディアの記事のうち、その言語が読めない人間が情報を得られない項目に仮リンクを貼る意義は薄い。文章量が多いという理由でru:Basarab Laiotă cel Bătrânに仮リンクを貼付しても、日本語版ウィキペディアの主な利用者である日本語を母語とする人間の大多数がルーマニア語を読めない以上、その項目に仮リンクを貼る意味は???なんですね。
  • 命名の方針に合致しない項、日本語文献での使用例が無く原音とも離れたあんまりよくない項目名が仮リンクとして貼付された場合、記事の立項後に仮リンクを修正するのに手間がかかる(私がここで言っていることですね)。記事が「あんまりよくない項目名」で立項された後にはそれを修正するために、本来は使う必要のない労力を割いて改名作業を行うことになる。
  • 個人的には、Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないが担保されていない(どころか、ノートページで内容に疑義が出されている)記事に仮リンクを貼るのはあまり良くないと思う。他言語版のウィキペディアを盲信するのはダメ。ゼッタイ。
  • 個人的には、仮リンクが吐蕃[1])の読みにくさの一因になっていると思う。
という理由で、「乱用は避けるべきだが、場合によっては便利なもの」だと考えています。--オオミズナギドリ会話) 2014年4月3日 (木) 14:24 (UTC)
> 日本語文献での使用例が無く原音とも離れたあんまりよくない項目名が仮リンクとして貼付された場合、記事の立項後に仮リンクを修正するのに手間がかかる
ここだけちょっとコメントします。これ、仮リンクにすらなってないと割と地獄です(-- インド方面とか、カタカナだけだとそもそも同じ単語を指しているのかすら特定ができないケースが多々あります(例、スリランカのマータラマータラマッタラマタラ英語版。前者は県名、後の3つは別の県の空港のある地域の表記の揺れ)。仮リンクであれば、少なくとも表記の揺れであることは判ります。--Honeplus会話) 2014年4月4日 (金) 03:12 (UTC)

定義部分の出典について[編集]

利用者‐会話:MNGIG#「意匠分類カード」を用いた出典についてで意匠分類に基づく出典は適切ではないと指摘されてしまったのですが、その判断について第三者の方に委ねたいと思います。--MNGIG会話) 2014年4月4日 (金) 22:11 (UTC)

会話ページでのやり取りだけを見ての一般論としての感想ですが、出典が何も付けられていないよりは意匠分類カードを用いた出典が付けられている状態のほうがいい状態であることは間違いないと思いますし、各種方針に照らして容認できる範囲の問題ない出典だと思います。日用品などごく一般性のある物の定義というのは、当たり前すぎて逆にきちんとした定義が分からない、調べにくいということも非常に多くあるかと思いますし、その部分に出典がつけられることは歓迎されるべきことでしょう。ただ、定義部分の出典として最も適した出典なのかと考えれば新続頭痛さんのご意見にも一利ある部分もあると思いますし、将来的には更により良い出典を探し適宜差し替えて行くことを考える必要があることもまた確かなのだろうとも思います。その点はMNGIGさんの頭の隅に置いた上で編集作業を行っていただければ思います。--重陽会話) 2014年4月5日 (土) 04:23 (UTC)
結局ケースバイケースだと思いますね。一応、特許庁・経済産業省の見解ではあるのでしょうから、「現代日本」或は「現代の日本語」における定義であるという前提ならば、適切だと思います。しかし、新続頭痛氏も懸念されてるように、歴史的経緯や世界的観点を鑑みた場合、おかしくなることがあることもあるでしょう。例えば、意匠分類カードではベストを「袖無し」と定義してるようですが、17世紀のベストには袖がありました。要は扱い方次第だと思います。--uaa会話) 2014年4月5日 (土) 09:54 (UTC)
十分な出典だと思いますし、有用な情報源だと思います。その手があったかー。最善ではない、一般的な現代日本語としての情報源の一つであるということは、MNGIGさんもご理解いただいていると思います。--Ks aka 98会話) 2014年4月5日 (土) 10:41 (UTC)
必要十分かどうか。信頼性のある情報源かと言われると一応そうは言えるから、出典として使う必要条件は満たしている。だけれども、ものすごく限定された目的での分類だから、十分条件を満たすかと言われると100点満点ではない。定義は定義として必要だけれど、言葉の定義が示せればいい辞典とは違って、あるモノやコト、ヒトについていろいろな観点から広がりのある解説をするのが事典だから、出発点として使う分にはイイかも知れないけれど、その出発点に収まらないものを記事から切り捨てるように使ってしまったらダメ。「17世紀のベストには袖がありました」(uaa 2014年4月5日 (土) 09:54 (UTC))みたいな原則から外れる例外だけれどベストに違いないもの、みたいなものも事典だと説明できてほしいし、できていないと事典として用をなさない。
利用者:新続頭痛さんもそこらへんのことをちゃんと丁寧に説明しようと思えばできるはずなのだから、こうやってこじれさせる前に納得させるような、説明のしかたをすることが説明する側・される側、そしてその周囲の利益になるはずなのだから、そこは気をつけて欲しい。お互いに他山の石とするべきところだろうけれど。--ikedat76会話) 2014年4月5日 (土) 12:52 (UTC)
私は積極利用はあまり関心しません。具体例でいくと自動販売機は一見良さそうですが、このカードに従えば「情報自動販売機」は自動販売機に分類されていないということになりますし、例えばPR目的で子供を喜ばすような仕掛けで即販するようなタイプは、省力化が目的でないから自動販売機ではないから本文から削除せよと言いだす人が出るかも知れない。なんて変なことになりそうです。--Gyulfox会話) 2014年4月6日 (日) 22:35 (UTC)
出典ナシとアリのあいだは0か1かですが、それ以外の出典の性質は0か1かには必ずしもなりません。ここでは0か1かではないけれど、それ以外のところで議論の余地が無いわけではないもの(「情報自動販売機」を包含できないかもしれない定義)について問題になっているものと理解します。
さて、関連する井戸端のトピックとしてWikipedia:井戸端/subj/定義不詳と思われる記事の処遇について(相談)というのがあります。そこでのKs aka 98さんの説明を追ってみていただくのがよろしいでしょうが、「(略)「確たる定義」のある主題というのは限定的です。(略)数学や、専門用語などでは宣言的に確たる定義が与えられますが、ウィキペディアが扱う対象は、それに限りません」(Ks aka 98さん、2014年2月18日 (火) 18:24 (UTC))。定義があったとしても、それはウィキペディアが辞典ではなく事典である以上、原則に対する例外やバリエーションというものも含んだ、敢えて言えば「あいまいさを含んだ」広がりを説明することになります。それでも説明の出発点として定義なしというわけには行きませんし、その定義に対し出典アリとナシで言えば、アリの方が比較不可能なくらい良いに決まっています。いま出典として付けられているものが絶対なのではないから、それで不十分だと考えるなら自分で探せばいいし、文句をいうだけでは記事が良くなるわけではありません。「本文から削除せよと言いだす人」がいるなら、ノートで合意形成をすれば良いし、第3者の意見を求めても良いし、(自分に理があって)相手に理がないと自分が思うのに、なおも編集を強行したり・意見の異なる利用者を攻撃したりということであれば、投稿ブロックも考えられるでしょう。
家庭用品の定義となるとなかなか難しいでしょうが、学問の対象となっているものでもそう簡単に「これで絶対!」という定義は得られる訳ではありません。「鎌倉幕府の創始の年は?」という問いはトリヴィアや物知りクイズのタネではなく、鎌倉幕府とは一体どのような政権であったのかという歴史上の位置づけと密接に関連し、有力な説も相対的に非力な説もありますが、100%全ての歴史学者(念のため、査読誌に掲載された論文があり、学位を持っている人に限る)が一致するわけではありません。では、鎌倉幕府は実在しないのでしょうか?そんなことを真剣に考えるのはトンデモのネタとして以外、真剣に取り上げるに値しないでしょう。鎌倉幕府と呼ぶべき何かがある、という確信を歴史学者たちは(定義についていかに論争したとしても)疑ってなどいないはずです。
定義は必要ですが、それをまるで数学の語のように厳密で少しのブレもなく決められると思うのは、キツい言い方をすれば現実の複雑さと多面性とを忘れた無知であって、そうしたものに居直る傲慢で粗雑な態度である場合があります。今回のトピックの発端は台所用品だったようです。まして、日常生活の中でいつから使われていたかも分からないような道具となっては、むしろそうした定義や定義の出典となるものを安易に求められると思うほうがむしろ間違っているでしょう。
現実は複雑です。それに適切な定義を与えられる出典をそうやたらと容易に求められると考えるべきではない場合があります。それでも出発点として定義は決めないわけにはいかないし、その場合に出典アリの方が圧倒的にいい。ウィキペディアへの参加は記事を書くこと(新規作成であれ加筆であれ)です。問題があるなら文句をただ言うだけではなく、改善することを考えるのがウィキペディアンのすることです。{{要出典}}を使ってもよいけれど、それは自分の力や知識の及ばなさを自覚することとともに使うべきでしょう。「出典出せや、ゴルァ!」みたいな傲慢な思い上がりで使ってはダメです。--ikedat76会話) 2014年4月7日 (月) 11:47 (UTC)typo.--ikedat76会話) 2014年4月10日 (木) 16:19 (UTC)
何だかなあ。「出典がないよりあったほうがいい」ってみんな強調して言い過ぎじゃないの。別にいますぐ定義に出典つけないと記事が崩壊してくわけじゃないですよ。
たとえば学術用語とか流行語とかなら優先的に定義文に出典をつけて欲しいしそれは比較的難しくない作業だと思いますが、道具とか家具とか日用品とかいうのはある程度常識が通用する領域です。厳密に定義しようとすることでかえって不備がおこる可能性があるし、特に定義をめぐってノートで議論が起こってるとかいうことでないなら、不備がある可能性がある出典をむりくりつけるくらいなら最適な出典がつくまで無出典で放っておく選択肢だってあるでしょう。不備となりうるケースが具体的に指摘されているところで「出典アリとナシで言えば、アリの方が比較不可能なくらい良いに決まっています」「それで不十分だと考えるなら自分で探せばいい」とか断言するのはWikipedia的倒錯だと思いますよ。
会話ページのほうに書いたようにその意匠分類カードというのは特許庁が「意匠審査における迅速・的確なサーチ、外部における先行意匠調査や意匠権調査を効率よく検索するため」に設けたというものです。特定の目的のために設けられたものであり、だからといって常識や実際から逸れた定義分類をすることはないでしょうが、日用品や工業製品の分類定義それ自体を目的としたものではありません。出典としては補足的に用いるくらいが適当でしょう。道具類の記事の定義文やヴァリエーションの説明文を一個一個逐次的にこれに従ったものにしていくとしたら(いくら後でより適切な出典に変えることを前提としているにしても)さすがにそれはおかしいと思いますね。--新続頭痛会話) 2014年4月7日 (月) 14:50 (UTC)
完璧な状態に出来ないなら手を付けるなというような考え方はWikipedia:編集方針#完璧でなくてもよいのです。編集を楽しんでください。に真っ向から反しているのではないですかね。編集方針には「ウィキペディアの方針とガイドラインに反しないものであるならば、不完全な記事を投稿することも歓迎されるべきです。」とあります。記事が理想の状態に仕上がるまでの過渡的な状態において、今現在の記事が不完全な状態であったとしてもWikipediaはそれを許容しています。当然、新続頭痛さんが方針やガイドライン等で求められる以上の高いレベルにハードルを設けて編集活動をされることは新続頭痛さんの自由です。ですが、それを方針の枠内で活動されている他の編集者にまで求める権限は誰にもありませんよ。その点のご理解をお願いいたします。--重陽会話) 2014年4月9日 (水) 13:33 (UTC)
なんだか極端な伝わり方しちゃったみたいですね。「出典がついてないという不備」と「不完全な出典がつくことによって生じる何らかの不備」とがあったとして、Wikipedia:出典の明記があるからといって前者に対して後者を過分に擁護する必要はないじゃないのってだけの話なんですが。その出典をつけたほうがよいかどうかは不備の度合いによるでしょう。私が気にしているのは完璧じゃないとかそんなことよりも、特許庁が作った意匠分類カードという特定の分類に沿った記述に特定のジャンルの記事群を網羅的に書き換えられていったらそれは百科事典として片寄った在りかただなあという、どちらかといえばバランス感覚的なことです。--新続頭痛会話) 2014年4月9日 (水) 20:49 (UTC)
「完璧でない」ということなら私が多少気を入れて書いた記事だって次善次々善の出典ばかりですよ。--新続頭痛会話) 2014年4月9日 (水) 22:16 (UTC)
後者を擁護するような考え方は少なくともWikipedia:出典を明記するWikipedia:編集方針などの各文書類で許容されている考え方の範囲ですが、前者に対して後者を過分に擁護する必要はないという考え方は何かの方針ガイドライン等の裏づけがあるわけではない新続頭痛さん独自のお考えですよね。バランス感覚的な話であるという点は了解しましたが、そのような感覚的なものは人によって閾値が異なるのが当然のものでしょうし、なおさら方針の枠内で活動されている他の編集者にご自身のバランス感覚と近い感覚で編集を行うことを求めるのは難しいことであるように思えます。ルールすべてを無視しなさいという文書が5本の柱に挙げられているようなウィキペディアにおいて過度に杓子定規に方針が文書がという気は毛頭ありませんし、不具合の度合いによるというのは正にその通りであるとは思います。記事を書く上での私自身の方法論はむしろ新続頭痛さんの考えにより近い部分も多いのではないかとも感じます。ですが、そのようなウィキペディアで広く支持されているわけではなく方針ガイドライン等の文書に裏付けられているわけではないような一個人の独自の考え方に基いた、文書類が求める要求レベル以上のレベルの要求を他の利用者に対して働きかけるのであれば、もう少し話の持って生き方を上手くやっていただけないと中々相手に受け入れてはもらえないのではないかとも感じました。少なくとも利用者‐会話:MNGIG#「意匠分類カード」を用いた出典についてのやり取りとその後の流れを見る限り、MNGIGさんは新続頭痛さんの書き込みをウィキペディアのルールに反する編集への注意警告の類であると解しているように思えますし、そのように受け取られても仕方のないような書き方になってしまっていたようにも思えます。そのような場合は相手の考え方を否定するのは控えて相手の肯定容認から話題に入り、もっとより良い方法がありますよとお願いや助言の形で提言するのがいいのではないかと思います。また、MNGIGさん自身があくまでも記事を充実させるための「第一歩」として編集しているのだとおっしゃっているように、意匠分類を出典として付ければそれで十分だと考えられているわけではなく更なる充実が必要であることはきちんと認識されているはずです。であるならば、下でuaaさんやikedat76さんがされているようなやり方で上手く話を持っていけば容易にご理解ご納得いただけた話ではなかったかなとも感じました。--重陽会話) 2014年4月10日 (木) 16:03 (UTC)
そのような丁寧なやり方が苦手だとわかっているので第三者の意見を募るようにと早めに促したつもりです。方針に書かれていないから即「独自の考え」であるというのは違うと思いますよ。共用されている認識というものはあるものですし、それがなければ方針の妥当な解釈や運用といったものがそもそもできません。この場の議論を見る限り、結局のところそうした感覚が我々の間で割りあい共用されていることが確認できたように思います。--新続頭痛会話) 2014年4月10日 (木) 21:37 (UTC)
丁寧なやり取りが苦手だとご自覚されているのであれば、他者への働きかけを極力控えていただくという選択肢もあることは頭に置いておいていただければと思います。本格的に活動するようになってからまだ日が浅い履歴の方に対する働きかけには特に慎重さが必要ですし、トラブルになりがちです。それでも何とかしなければならない場合は、会話ページで人に働きかけて人の問題としてしまうのではなく記事のノートで個別具体的な問題点を取り上げて記事の問題に落とし込んでしまうという方法もありますし、相手に第三者の意見を募るように促す前に先にご自身で第三者の意見を募るという方法もあるでしょう。後は下でikedat76さんが上手くまとめて下さっているので、私から付け加えることは特にありません。--重陽会話) 2014年4月12日 (土) 16:20 (UTC)
第三者の意見を募る、は向こうから打診があったのでそのようにしてくれと言いました。なにか会話ページへの書き込みの印象が余程悪かったみたいですね。今回の件は比較的うまく開けた議論への誘導ができたなあと思ってたんですけど。--新続頭痛会話) 2014年4月12日 (土) 21:47 (UTC)
Ikedat76さんへ。おっしゃることは尤もで、だから出典として使えないとは言いませんよ。 だけど別の比喩でいえばですね、「霊」っていう一般用語があるとするでしょ。でもキリスト教神学でも「霊」っていう専門用語があるんだけど、定義文でキリスト神学の査読済みの論文を出典として、「霊」とはこれこれしかじかであると定義されたとする。まあそれも良いだろう。 でもそれはあくまでも1宗教の定義であって、「霊」という一般用語の話ではないわけであってその問題を是正しようという判断で、より一般的解釈が示されている書籍を調べて(岩波の国語辞典しか見つからず)、やむなくそれを出典とした一般的記述も定義も含めたいという情況があったとする。でこれは信頼できる3次情報源であっても、査読済み論文よりは確かに力関係が弱いわけで、相手が同程度の高い信頼性を要求して辞典からの定義を拒絶したとなったら、Ikedat76さんは、どのような理由でどっち側につくよ?という設問とほぼ同じ理由で、私はこの件について一種の懸念を表明しているわけです。ユーザーの殆どのみなさんが、「中立の観点」や「ニセの権威に注意せよ」というルールを熟知しているなら、私の懸念は杞憂なのですが、Ikedat76さんはおそらく大丈夫と思いますがコメント依頼で、バランス感覚が欠けたユーザーが来て「どっちもどっち」だの「3次情報源はやめた方がいい」だのとコメントを書かれた日には参ってしまうのです。(ちなみにこれは比喩であって「霊」のページでそのような論争は勃発してませんのでご安心ください)。--Gyulfox会話) 2014年4月7日 (月) 20:29 (UTC)
「査読済み論文よりは確かに力関係が弱い」というのが間違いで、一方は学術的な信頼性は高くとも特定の観点からの記述であり、他方は十分な信頼性を持つ包括的な観点からの記述なのですから、とりわけ定義部分に関しては、後者のほうが力関係からは強い、です。「どっちもどっち」だの「3次情報源はやめた方がいい」だのとコメントを書かれた日には、中立的な観点を案内し、説明する。バランス感覚が欠けたユーザー、無知なユーザーを前提にしていては、まともなことは何もかけませんよ。--Ks aka 98会話) 2014年4月8日 (火) 04:04 (UTC)

すでに言っている通り、不適当な出典であると考えるなら付け替えればいいと言っていますし、記事を書くこと(新規・加筆を問わず)がいわばウィキペディアンの本分である(口だけ文句を出して何もしない、代案も示さない、ではなく)ならそうすれば良いだけです。それを止めたりは別にしていません。

コトやモノの定義というのは、定義すべき対象が中空に浮かんでいて定義できるというものはほとんどあり得なくて、「霊」ならキリスト教の、イスラームの、…等々で使われている術語のネットワークの中で始めて定義が決まります。他も大抵そう。そういう、前提となる文脈を確定していないで何かを定義するというのは、そもそもにおいて難しい。「十分な信頼性を持つ包括的な観点からの記述」と「一方は学術的な信頼性は高くとも特定の観点からの記述」とKs aka 98さんは表現しているけれど、これらの「力関係」だってどういう文脈にあるかで変わってきてしまう。

そうした文脈が多様にあるとき、いずれかの文脈だけに偏るな(あるいは、偏るにしても《どのように》偏っているのかを明示せよ)というのがWP:NPOVの考え方でしょう。その意味で、定義の部分でそうしたWP:NPOVが確保できないのなら、抽象的で動議反復にも近いような曖昧な定義であってもかまわないのでは。何も「完璧な定義(但書:文句の付け所のない出典つき)」を書くことではなく、記事を書くことを求められているのだから、そういう定義の難しさを持つ題材なら記事の本文をしっかり書くことによってしか、何ともしようがないのであって、「完璧な定義(但書:文句の付け所のない出典つき)」とかそれに類することは求められていないと思います。

自分自身の書いてきた記事を省みてみるときに100本前後ありますが、意識していたわけではありませんが、よほど事情がない限り定義文に出典を付けたことはありません。前段落のWP:NPOVを確保するのが難しい場合に限らず、記事に何を書くかと言えば、つまりは巡りめぐって定義について書いているわけです。そういう意味で言えば、定義に出典は要らないと考えることも出来ます(極論でしょうが一面では正鵠を射ているはず、多分)。ところで、このトピックの前提は、《定義に出典を付ける》ということであったはずですが、違うのでしょうか。そういう前提の範囲で私は話をしていたつもりだけれども、前提を守らなくて良いのであれば、こういう風にちゃぶ台を返して別な考え方も出来る。ただ、付けないといけないという前提に立つ限り、そこには色々と無理が出てくる場合があるし、「完璧な定義、文句の付け所のない出典つき」を書こうとして悩んだりモメたりするのであれば、別の対応の仕方というものが自ずとあるというものでしょう。

あと、Gyulfoxさんの言う、ヘンな奴が(大意)という話はKs aka 98さんが書いているとおりなので、特に付け加えることはありません。強いて言えば、じゃあこんどは「オレ、小学生(幼稚園児…etc.etc.)だけど、難しくてワカンネーから分かるように直せよ」と言ってきても対応しますか。書くにしても読むにしてもある程度の前提はあって、それを過度に下回ったり切り下げたり、歪めたりするのであれば、それははっきり言うけれど相手をする必要はないと思う。それこそ英語版の提案中の文書だけれどen:Wikipedia:Use common senseであって、ヘンな奴(大意)にはそれなりに対応(究極はブロック)すればいいとは既に私も書いた通りです。--ikedat76会話) 2014年4月8日 (火) 13:49 (UTC)

やや脱線。比較xx学(歴史、宗教、民族、政治…etc.etc.がxxに入る)という研究の仕方がありますが、これらも別に特定の文脈に依存しないコトやモノの本質的定義(イデア?)を取り出すことを求めてはいません。比較(ただし有意な)を通じて比較対照したコトやモノのそれぞれの理解をいっそう深めることを目的としていて、共通する点・相違する点が研究の過程で多数あぶり出されてきます。それらを「包括する」必要はないし、WP:NPOVはしょせんウィキペディアのローカルルールに過ぎないけれど、そうした多様性がちゃんと説明されていた方が、百科事典としての学習効果は高いと思いますが。--ikedat76会話) 2014年4月8日 (火) 13:57 (UTC)

この問題の発端は、記事の定義を片っ端から「意匠分類カード」の定義に書き換えられていることに対して、新続頭痛氏がMNGIG氏の会話ページで懸念を示されたことですね。MNGIG氏の履歴で私の目に付いた、そのことによって定義がおかしくなっている実例として、下着この編集が挙げられます。「意匠分類カード」では、和服の下着(じゅばん等)は「下着」から除外され、「和服」に分類されいます。そして、「直接肌に身に付け、保温、汗とり、体形を整える等の目的で使用されるもの」とJISや服飾辞典より狭く定義されいます。「直接肌に身に付け」という要件があると、「肌じゅばん」以外の「じゅばん」は「下着」では無いということになりますし、和服以外のものについても矛盾を生じますね。これこそ、社会一般の認識とは異なる、「意匠審査における迅速・的確なサーチ、外部における先行意匠調査や意匠権調査を効率よく検索するために設けた」都合上の定義ですよね。ちなみに、JISでも「じゅばん」は「和服」に分類されていますが、「下着」の定義が広くなっており、「(和服の)下に着る下着」と定義されています。
あと、物干しは記事名の適否を出典資料からは判断できないという問題もあるんですが、「物干しざお、洗濯ロープ、物干しロープ、物干し器などがある」という定義にJPOVの問題があるように思えますね。「物干しざお」って日本以外じゃ見かけないですよね。日本ローカルのものを同列に扱っていることに違和感を感じます。
一方、草履下駄の定義は改善されたと思います。
以上のように、乱用すると弊害を生じますが、かといって一律排除されるものではないでしょうし、出典がないよりはあった方がよいというのも一理あると思います。結局、個別に適否を判断するべきことではないでしょうか?但し、一度に大量の記事へ加筆するというのは、検証が追いつかないので控えてほしいと思います。--uaa会話) 2014年4月10日 (木) 08:28 (UTC)

僭越な言い方ながら、uaaさんの2014年4月10日 (木) 08:28 (UTC)のコメントがまとめとして適切であるように思えます。「出典ナシとアリのあいだは0か1」と2014年4月7日 (月) 11:47 (UTC)と書きました。でも今回のように、「ナシとアリ」を脱した、そこから先の領域で考えるのであれば、uaaさんのような流儀でものを考えるのがいいのだと思います。いちおう、今回トピックとなった情報源はそれ自体は信頼できると考えてよいもので、後は個々のの記事ごとの文脈によって適否を考えるしかない。「学術的な信頼性は高くとも特定の観点からの記述」と「十分な信頼性を持つ包括的な観点からの記述」であっても、その適否はどういう記述に対する出典として使われようとしているかによるとしか言えないもので、uaaさんは具体的な記事に即して「コレはOK、コレはNG」という判断をしようということですよね。十把一絡げに「特定の観点だからことごとく不適、ダメ」という判断ではなくて。そこまで見て、ようやく話の始まりで、いろいろ話は出ているけれど、ダメならもっといい出典に差し替えるなり、除去して記事本文で何とかするなり方法はいろいろある。

もちろん、そもそもゴシップ雑誌みたいにどうしょうもない情報源だったら、どんな所に付けたって…ということになるかも知れないけれど、少なくとも今回の一件はそうじゃなかった。方針やガイドラインに沿った情報源を挙げるのは最低限あるいは必要条件ではあって十分条件ではないので、方針やガイドラインに沿っているからいいんだ、というのもいい説明ではないですが、十把一絡げにクソミソという話をしたら、そういう雑な話にしかならないし、益するところがないでしょう。--ikedat76会話) 2014年4月10日 (木) 13:54 (UTC)下線部追記。--ikedat76会話) 2014年4月10日 (木) 16:19 (UTC)

中立的観点がいびつになる場合のみ文頭に日本の特許庁・経済産業省の扱いは・・・と入れておけば良いのかも知れません。専門書の場合でもあまりにも中立からかけ離れる場合はそうやっておけば、懸念は消えます。読者は特許庁・経済産業省の扱いではそうなんだと理解する。ゴシップ誌のような信頼性の薄い情報源でもないのに変な感じは残りますけどね。定義部分で軒を貸して母屋をとられるようなことにもならないし。--Gyulfox会話) 2014年4月11日 (金) 12:43 (UTC)

WP:NPOVに従わなければならないのは論を俟ちません。WP:NPOV記事を書くための方針であって記事の定義だけに係る方針ではありません。定義は確かに重要ですが、それはあくまで記事の一部に過ぎず、記事を書くすなわち文章でモノやコトを説明することを通じて実現するべき事柄のひとつとしてWP:NPOVが挙げられているわけです。「定義部分で軒を貸して母屋をとられるよう」ようなのであれば、それはもう記事の構成から見直したほうがよくて、そういうことはすでに言ったとおりです。記事を書くことが求められているわけであって、記事の定義を完璧にすることが求められているわけではありません。定義がきちんとしているに越したことは無いけれど、そこだけいくら良くても文章でモノやコトを説明することのせいぜいスタートにしかたっていないんです。

便宜上この位置で続けるけれど、共用(共有かな?)というのもよく分からない。明文化されていないものは即「独自の考え」というのはあたっていない、それはその通りだけれど、その点が問題になっていたわけではないはずです。今回の件、WP:VなりWP:CITEなりに則して・それ以上でもなくそれ以下でもなく編集をすることと、それ以上の水準をもとめる編集とで意見が割れたことが発端といえます。重陽さんが既にお書きの通り、WP:VなりWP:CITEの求めるところに単に従うという以上の水準を自らに課している利用者というのは要るし、どちらかと言えば自分自身もそちらよりではある。とはいえ、その水準で他者にも行動するよう求めるのは、お願いや説得の結果としてはともかく、強制することは出来ない。相手が方針とガイドラインに則しているのであれば、なおのこと。ウィキペディアンにはそれぞれベストを尽くして欲しくはあるけれど、完璧であることを義務付けられている訳ではないし、ダメな記事だと思えば大胆に直しても構わない(配慮が必要になる場面が無いではないけれど)。このトピックで共有されていると確認できたことがあるのだとしたら、それは明文化されている範囲内のことがらでしょう。--ikedat76会話) 2014年4月12日 (土) 01:27 (UTC)

共用→共有ですね。何か変だと思った。
妙に抽象化されてるなと思ってこちらのほうの議論はちゃんと追ってませんでした。議論の抽象レベルを上げること自体は別に否定しませんが、私は今回の件で「意匠分類カード」というものの具体的性質を離れて議論してもあまり意味がないと思っています。「強制」という言葉が何度が出ていますが、一般利用者が一般利用者に対して会話ページの会話で厳密な意味で「強制」を行うことはできません。君が使ってる出典なんか変じゃないの、とツッコミがあって、言われた当人がホントに変か?と思って第三者の意見が集まる場所に意見を投下した、それで第三者の意見が集まった、流れとしては通常の流れです。
「強制」と言っている人はなんだかMNGIGさんが「意匠分類カード」のみを出典として編集せざるを得ない特殊な状況下にあると判断されているみたいに見えます。他者からの強制力があるという意味ではどんなに控え目にされたアドヴァイスも大なり小なり「強制」です。あとは「強制」と極力相手に取られないようにするテクニックがあるのに頭痛の奴はそれができていなかった、というそれだけのことでしょう。--新続頭痛会話) 2014年4月12日 (土) 21:47 (UTC)

具体的。ごく限定的な目的のための分類法であるというのは否定しないし、そのようにも言っていないつもり。ここでやり取りしている人たちはたぶん異論がないところだろうけれど、意匠分類カードはひとまずWP:RSのうちに入ります。WP:RSだとしても、どう文脈を補完しても適切になりようがない情報源というのも考えられるけれど、今回のはそうではない(微妙、ではあるかも知れない)。その限りで、情報源の性質だけを理由として不適切とみなすことはすでに出来ません。

となるとあとは、そうした出典を付けることで記事がどれくらい改善したか、その度合いなり効果なりでもって考えるしかない。自分自身でも一度は気付いている通り(「もし使われる箇所が適切でなければ不適切な出典ということになります」、2014年4月4日 (金) 21:20)、不適切になるのは「使われる箇所が適切でな」い時で、逆に言えば適切であれば適切になります。

となれば、具体的であるこというのは、「この記事は改善された」「この記事はちょっと変」といったuaaさんのような仕方でしょうし、uaaさんのやり方はむしろ誰よりも抽象度を下げて考えているといえる。しかしながら、MNGIGさんの会話ページでのやり取り(そしてそれ以外はMNGIGさんにも第3者にも見えません)では、そうした効果測定はほとんどなしに〈特定の目的による分類法だから〉という形での異論という以上にも以下にも、MNGIGさんにも第3者にも見えません。そうしたやり方が具体的と言い得るのか、それとも十把一絡の雑な話と見なすべきものなのか。仕方のあるもの・ないものが混在というときに、「ないもの」があるからといって全てを捨てさせようとするのは、具体的ではなく、どれほど有益なのかよく分からない。uaaさんの言うように救えるものや有益なものもあるのに、それを見つけ出す方向性になっているとは言えない(卵ゆで器なら〈他の情報源の方がマシ〉)。

単に説得の技術の問題に切り下げるとしても、MNGIGさんが「意匠分類カード」をしか使えないというのは短期的にはまさにその通りでしょう。学生か研究職でもない限り、勤め人がやたら図書館で文献を探す時間は無い。そこで、全称命題で「お前のやっていることはダメだ」(口調のいかんに関わらず趣旨として)とやるのは、まがりなりにも方針とガイドラインに沿って適切に行動しようとする相手に対し、その努力を踏みつけにすると受け取られても仕方ない。他山の石として自戒しつつ言うけれど、よほど気をつけて言わないとこじれる。方針とガイドラインは大事です。でも文書が記事を書いてくれるわけではなくて、オンラインの向こう側にいる感情の動物が記事を書いている。そういう顧慮を欠くようであれば、重陽さんの示唆に耳を傾けた方がいいでしょう。できていなかっただけ、は自分の問題でも良いかもしれない。でもそれで、意欲を持った新規参加者が去ってしまえば、それは自分ひとりの問題じゃありません。--ikedat76会話) 2014年4月12日 (土) 22:55 (UTC)

あー、長文を費やしていただいて申し訳ないんですが、重陽さんが書かれたことを引き伸ばしただけですよ。私が行った会話ページへの書きこみが具体的な議論であった、というような話は全然していません。そういう点も含めて丁寧に応対できないから意見を募るよう促した、と書きました。「短期的には」特定の出典しか使えない、などというのは言葉遊びにしか見えないです(誰だってそうだ)。「定義部分の出典について」という議題のもとでそうした点を巡って議論を続けるつもりはありません。--新続頭痛会話) 2014年4月13日 (日) 00:22 (UTC)

スペイン語版における「日墨学院」相当記事の削除審議に関連して[編集]

日本語版の「日墨学院」と言語間リンクで結ばれているスペイン語版の記事「es:Liceo Mexicano Japonés」で削除依頼の審議が行なわれていることに関連し、利用者‐会話:WhisperToMeさん(非日本語話者)が日本語版の「Wikipedia:Help_for_Non-Japanese_Speakers#The_Spanish_Wikipedia_is_requesting_Japanese_speakers_to_evaluate_Japanese-language_sources_for_an_.22Articles_for_Deletion.22_debate」に記された内容について、「ノート:日墨学院」に日本語によるコメントを記載しました。他言語版の記事とはいえ、日本語版記事との関連も深い記事ですので、ご一読いただければ幸いです。--山田晴通会話) 2014年4月6日 (日) 04:15 (UTC)

ノートに掲示された画像のサイズ変更[編集]

ノート:ナタリア・ポクロンスカヤ での議論において、他のユーザーの方が、ノートに画像を掲示なさりました [2]。必要以上にサイズが大きいと思ったため、サイズをギャラリーのデフォルト(より僅かに大きめ)まで縮小しました。それに伴い表中の表記も改行 [3]。そうしたところ、画像を掲示なさったユーザーの方から、「他人の発言を改ざんする行為」と見なされるとのご注意を受けました (利用者‐会話:123.218.255.100)。

画像サイズの変更が、他者の発言の改竄に当たるのか、ご指導よろしくお願いいたします。--123.218.255.100 2014年4月7日 (月) 12:41 (UTC)

記事の画像をこのくらいにしてはどうかという提案なら、改竄。そうでないなら、ならない。--Ks aka 98会話) 2014年4月7日 (月) 12:55 (UTC)
あ、縮小したことは、要約欄でなく、ノートに書いたほうがいいです。--Ks aka 98会話) 2014年4月7日 (月) 12:57 (UTC)


質問 横から失礼いたします。Ks aka 98さん、私からも質問なのですが、それはつまり他人の投稿したものを「事前の説明も、合意も無く変更することは問題無い。改竄にはならない。」という事でしょうか?であれば、

A. 発言の改竄は荒らしと破壊行為に分類されています

Wikipedia:荒らしには、他者の署名付き発言を改竄する行為は荒らしであるとあります。利用者ページに限らず、何かを改竄するような投稿は、荒らし行為です。(中略)破壊行為として投稿ブロックの理由になります。 ウィキペディア利用者は、自分の利用者ページと言えども、ページを所有しているわけではありません(中略)編集が充分に理に適ったものであれば、例え他者の利用者ページであっても、自由な編集を妨げられる理由はありません。

(引用) Wikipedia:投稿ブロックの方針/改定案/FAQより

この「何か」に(但し、画像のサイズ変更は除く。事前の合意は必要無い。)という記述を、書き加えた方が分かりやすいのではないかと思います。「何か」、「理にかなったもの」では、人によって解釈が別れてしまうでしょうし。
この方針の記述の変更の提案する場合、Wikipedia‐ノート:投稿ブロックの方針/改定案にて行えば良いのでしょうか?--鈴木会話) 2014年4月7日 (月) 13:27 (UTC)
画像の大きさについて議論しているのではなく、「画像の出典がWikiでは無い。この条件を満たしている画像。それを一部、紹介させて頂きます。」として鈴木さんが例示された画像[4]について、他者が必要以上にサイズが大きいと思った場合に、その大きさを小さめにするという行為は、「編集が充分に理に適ったもの」として、理解される。まあついでにいえば大きさに関しての「発言」ではないわけです。ですから、引用されているFAQにある記述を修正する必要はないでしょう。--Ks aka 98会話) 2014年4月7日 (月) 14:16 (UTC)

単純に考えて、「〇〇のサイズでどうですか」として画像を提示しているものに対し、その提示された画像のサイズを変更してしまっては、提案者の提案とそれに対応する貴方の提案の「比較」ができません。ですから、貴方が「新たに同じ画像をコピーし、なおかつ提案したい画像サイズに数字を入れ替える」とするならば問題ないのではないでしょうか。質問の主旨をこのように理解して回答しましたが、どう思われますか。--Megevand (会話) 2014年4月7日 (月) 13:34 (UTC)

他人の発言を修正することは、多くの場合問題を抱えます。句点の位置ひとつで意味は変わりますし、表記ひとつが差別意識や歴史認識に結びつくこともあります。
「画像の出典がWikiでは無い。この条件を満たしている画像。それを一部、紹介させて頂きます。」として例示された画像の大きさを変えることに、そうした問題が生じる余地がありますか?--Ks aka 98会話) 2014年4月7日 (月) 13:38 (UTC)
私のコメントの主旨は発言の改竄というよりも「画像サイズ」を検討している話合いのなかで、「サイズAに対しサイズBについてどう思いますか」といいつつ、サイズAをサイズBに差し替えてしまっては、比較しにくいのではないでしょうか、ということです。ですから、「差し替え」するのではなくて、同じ画像の写真をサイズAとBと並べて配置すれば問題ないのではないですか、ということです。--Megevand (会話) 2014年4月7日 (月) 13:43 (UTC)
前前のコメントで「質問の主旨をこのように理解して回答しましたが」と断りをうったのは、果たしてこの話合いが「画像サイズ」の話合いをしているのか、はたまた「画像サイズではなく画像そのもの」の話合いをしているのかが分からなかったからです。前者ならば「比較」という意味で改竄というよりも議論の便宜をはかり勝手にサイズを書き換えるべきではないでしょう。後者であれば、Ks aka 98さんの仰ることに全く反対はなく、「発言改竄にはあたらない」と思います。--Megevand (会話) 2014年4月7日 (月) 13:50 (UTC)
状況が違えば、改竄にも、そうでないものにもなるのですし、リンクは示されているのですから、ちゃんと質問の意図を確認しましょうよ。
「画像の出典がWikiでは無い。この条件を満たしている画像。それを一部、紹介させて頂きます。」として鈴木さんが例示された画像[5]について、必要以上にサイズが大きいと思ったため、その大きさを123.218.255.100さんが小さめにした。これに対して鈴木さんは「他人の発言を改ざんする行為」だとみなした。ノート:ナタリア・ポクロンスカヤ#方針・ガイドラインに基づく暫定版以下で、大きさの話は出ていません。ですから「後者」であり、改竄にはあたらない。
方針の理解をめぐって対立があるなかで、意見を求められている場合は、特に井戸端では、意見を正しく受け取られないことまで含めて、考えるよう心がけてくださいな。ノートを見に行かないなら、あらかじめ、サイズの話題ならこう、そうでないならこう、と条件分けしておくとか。
「画像サイズ」を検討している話合いのなかで、「サイズAに対しサイズBについてどう思いますか」といいつつ、サイズAをサイズBに差し替えてしまっては、比較しにくいですよ。そうした画像サイズの書き換えは投稿者の意見を書き換えるものですから、意図的ならば「改竄」です。
というわけで、ぼくとMegevandさんは同じ意見ということになりそうです。--Ks aka 98会話) 2014年4月7日 (月) 14:00 (UTC)
  • はい。これから「ちゃんと」質問の意図を正確に把握した上で回答するようにします。すみませんでした。Ks aka 98さんと意見が同じということで、123.218.255.100さん、鈴木さん、ご理解頂けたでしょうか。一瞬の間でしたが、ややこしくしてすみませんでした。--Megevand (会話) 2014年4月7日 (月) 14:09 (UTC)
コメント 色々ご意見を有難うございました。変更点をノートに記さなかったのは、結構重要な落ち度だった気がします。ノートでの編集は慎重にするよう心がけます。--123.218.255.100 2014年4月7日 (月) 14:31 (UTC)
返信 (Ks aka 98さん宛) 返信 (Megevandさん宛) 確かに、説明はしておくべきでした。アドバイス、ありがとうございます。それでは、ここまでに至った流れを、説明してさせて頂きます。

提案者は、画像を巡って議論が起きている状態で、他の方の事前の合意を得ること無く、画像の枚数及び画像の選定、画像のサイズを変更をしました(=大きな変更)。

つまり、提案者は、議論で合意された版を変更した後、ノートで事後承諾を求めたのです。ノートでは、この版で大筋合意に至っている流れでしたが。

それではご助言に従い、サイズについての言及を加えた上で、元に画像を元に戻したいと思います。何かあれば返信を下さい。本日は、ご迷惑をおかけしました。--鈴木会話) 2014年4月7日 (月) 15:02 (UTC)-(訂正線の追加--鈴木会話) 2014年4月7日 (月) 15:05 (UTC))-(修正--鈴木会話) 2014年4月7日 (月) 15:20 (UTC))-(脱字の補足--鈴木会話) 2014年4月7日 (月) 16:00 (UTC))
提案者は、03-30T15:01:48と03-31T23:56:00の版はギャラリーデフォルトの120pixであったものを、04-01T04:28:25 123.218.255.100の版で数を一つ減らし、130pix指定にしています。報告では[6]、掲載作品を「もっと減らすか、増やすか」、「記事を分割するか」の議論を続けようという態度です。画像の大きさについては10pix大きくなってはいますが、並びに合わせての微調整の範囲です。本文の編集手順としては、Wikipedia:合意形成から外れるものではありません。
鈴木直紀さんは、これまで大きさについては特に議論が生じていなかったが、ウィキテーブルを使い、これまでより大きく上回る220px(サムネイルデフォルト)で表示させようという提案を提起している、ということでしょうか?--Ks aka 98会話) 2014年4月7日 (月) 17:48 (UTC)
コメント 220px(サムネイルデフォルト)の画像が1つ、事前の合意を経ること無く、提案者によって、削除130pix指定にされております(実質2枚の画像を削除)。お手数かと思いますが、2014年3月31日 (月) 23:56版において存在し、2014年4月1日 (火) 04:28 において存在していない220pxの画像。これの確認を、改めてお願い致します。--鈴木会話) 2014年4月7日 (月) 18:34 (UTC)(追記--鈴木会話) 2014年4月11日 (金) 20:20 (UTC))
2014年3月31日 (月) 23:56版において存在し、2014年4月1日 (火) 04:28 において存在していない220pxの画像は、ギャラリー形式ではなく、特に例示されているものです。特に一枚を別の場所で掲載する上で、どの写真を選ぶか、どの大きさを選ぶかについて、議論を起こし、1枚の大きさについて例示をするということなら、勝手に縮小するべきではないでしょう。しかし、鈴木さんの提示はウィキテーブルを用いてギャラリーにしたものであり、ギャラリー形式で掲載するに当たって220pixで表示すべきだという意見であるならば妥当ですが、そうでないなら、例示された画像の大きさを保持する必要は感じられません。--Ks aka 98会話) 2014年4月8日 (火) 04:09 (UTC)


返信 (Ks aka 98さん宛) 220pxの画像(例示された物)の選定(復帰)も兼ねた。画像の掲載形式は、改めて行きたいと考えております。--鈴木会話) 2014年4月8日 (火) 07:09 (UTC)(追記--鈴木会話) 2014年4月11日 (金) 20:20 (UTC))


コメント 結論から言うと「ノートでの発言に付随した添付画像のサイズは敢えて変えないほうが利口だ」というのが私の見解です。標準名前空間(記事)の場合は可読性の面からもライセンス上も自由に編集できるのは当然です。ノート名前空間でもライセンスは同じであり、画像サイズを変更すると同時にその箇所に変更内容と署名をしておけば(ノートは記事と違い要約欄への記載は主従で言えば従)手続き上の問題はなく、かつ、第一義的な意味内容は変えていないのですから、発言の改竄として即「荒らし」行為の解説文に当て嵌めるのも全く馬鹿げた話だと私は考えます。しかし、発言者が添付した画像の大きさには意識的または無意識的な意図があり、それが余人にとって可読性を損なう見苦しいものであったとしても、発言者の画像に対する重要性の認識の大きさ、編集のセンスやウィキ文法の習熟度、ノートページにおける議論に対する態度等がそこに顕れると考えてよろしいかと存じます。発言者の発言内容に同意であるなら、当該ノートか発言者の利用者‐会話ページで、「画像サイズを縮小しておとなしくした方が合意が得やすいかと」など、進言する手立てもあろうかと存じます。不同意なら、わざわざ親切に縮小してあげる必要など一切なく、淡々と、画像サイズではなく発言内容について、記事向上のための議論をすればいい。同意でも不同意もない立場またはその話題に関心が無いなら、お節介は不要。更に言えば、合意形成において画像サイズから受ける印象が影響を与えないとも言い切れません。むしろ、少しは影響すると考えた方が正解だと思います。記事向上に資さないトラブルは極力避けるよう努め、ノートの可読性については、本題の結論が出てから縮小の提言をしたり、過去ログ化すれは済むことのように思います。私だったら敢えて放置して「ウィキペディアを画像集か何かと勘違いしているようにも感じられる様相」を晒し者にしているところです。--ジャコウネズミ会話 | 投稿記録) 2014年4月7日 (月) 19:30 (UTC)

ジャコウネズミさんの意見について、まあ多少なら放置でいいと思うんですが、一番左は縦に一行で表示されるし、ぼくの環境では画面内が表で埋まり、横スクロールも迫られるんですね(17インチで他のウィンドウも開いてるけど、このブラウザが最大)。わざわざ親切に縮小してあげるのではなく、議論を行ううえで明らかに邪魔な大きさだから縮小する、です。点数や画像の選択のためではなく、大きさを論点とするならそれも必要ですが、そうではない。明らかに議論のために縮小したほうがよいと考えられるなら、自分のため、議論参加者のために縮小したほうがよく、馬鹿をさらし続けることよりも、議論の進行のしやすさのほうが優先されます。--Ks aka 98会話) 2014年4月8日 (火) 04:09 (UTC)

コメント この井戸端のトピックでは鈴木直紀さんがノートページに画像を紹介(編集1)し、それに対して123.218.255.100さんが表示サイズ縮小やキャプションの改行の編集を行なった行為(編集2)が他人の発言の改ざんにあたるかどうかが問われました。編集1においては「画像の出典がWikiでは無い。この条件を満たしている画像。それを一部、紹介させて頂きます。」としか書かれていませんので、これを読んで画像サイズにも言外の意図があった汲み取れる人がいるとは到底思えません。そして、編集1から編集2にかけて画像の表示サイズに関する言及は皆無です。であるならば、表示サイズには特に意図はないと受け取り、可読性を高めるためにサイズ縮小等を行なったとしても、それはいわばインデント修正と同等の整形レベルであり、充分理に適ったものであったと思います。少なくとも、Wikipedia:投稿ブロックの方針を持ち出して改ざん行為であると会話ページに書き入れるべきではありませんでした。鈴木直紀さんはこの上で記事ページの編集の経緯の説明をされ、2014年4月7日 (月) 15:11 (UTC)の編集3で編集2の修正を戻し、「画像のサイズについての言及の意図がある」旨を主張されていますが、私にはどういう意図なのかが全く理解できません。もしかして、意地になっているのではないでしょうか?思うに、今回の件はルールの問題ではなくコミュニケーションの問題だったと思うんです。123.218.255.100さんも相手の感情を害する可能性も考慮していじるべきではなかったし、整形するなら修正意図の但し書きするくらいの配慮は欲しかった。そして、鈴木直紀さんは言葉にしていない意図が相手に伝わると思うべきではなく、相手が自分の意に反した行動をとったとしても、善意に基づいたものだと仮定して穏やかに対処するべきだったと思います。--Wolf359borg会話) 2014年4月7日 (月) 22:46 (UTC)


コメント ご助言、ありがとうございます。今後は、投稿する際に細かい説明を加えるなど、意図を明らかにする様に心掛けます。会話ページについては、Wikipedia:投稿ブロックの方針/改定案/FAQの「 A. 発言の改竄は荒らしと破壊行為に分類されています」の項目の


  • 「何かを改竄する」=「他人の投稿を、事前・事後の説明も無く変更する。但し、個人攻撃する様な言葉の除去などは除く。」


と誤解してしまうくらいの知識しか持ち合わせていなかったこと。これが原因であったと思います。しかし、画像サイズの変更は、「画像サイズについて議論を提起する旨。これが記載されていない場合は、他者に事前の説明が無くとも、変更が認められる。(インデント修正)」という不文律(慣習的なルール)も、あったのですね。勉強になります。もし、これが不文律では無く、記載されている文があれば、教えて頂けると幸いです。--鈴木会話) 2014年4月8日 (火) 07:09 (UTC)
結局、今回の件は「改竄」ではないけれども、画像を出してきた提案者に事後でも事前でも一言ことわっておけばよかったっていうことでしょう。ということは、今回画像サイズをいじられたIPユーザーさんが一番分かっていらっしゃる。そのあたりは「常識的な感覚」で行動すれば良いのではないでしょうか。「不文律」ではなく「常識的な感覚」を大事にすれば良いと思います。常識的に、あるいはWikipedia的にも間違っていればその都度注意がくる。で、次回以降から気をつければいい。「不文律」と捉えると、これ以降「不文律だからことわりなしに勝手にいじってやれ」って思う人が表れるかもしれませんよ。--Megevand (会話) 2014年4月8日 (火) 07:21 (UTC)
不文律であれ明文律であれ、そのように個々の事例をいちいちルール化するという考えは破綻を招きます。ウィキペディアは規則主義ではありませんをお読みいただくとよろしいでしょう。また、方針関連文書の一部のみ拾い読みして全体の理解が疎かになっていないでしょうか。例えば今回の例ですと、Wikipedia:投稿ブロックの方針/改定案/FAQ#A. 発言の改竄は荒らしと破壊行為に分類されていますを引用され、また文面の改訂の提案をされていましたが、この文章の意図をきちんと理解されましたでしょうか?Wikipedia:投稿ブロックの方針/改定案において「他者の発言の改竄」の項目が消えていることについて説明しているものです。ここで書かれているのは、充分に理に適った編集であればそれを妨げる理由はなく、理に適っていない編集に対しては従来の不十分な理由を突きつけるのではなくてきちんと理由を説明してください、ということです。そして発言の改竄に関してはWikipedia:荒らし#コメントの改竄で、「その意味を変えるように編集すること」とあります。画像の表示サイズを縮小したりキャプションを改行してページ幅を調節することで、鈴木直紀さんが伝えたかったことの意味が変わってしまったでしょうか?画像のサイズについての言及の意図があったと主張されていらっしゃいますけれども、依然としてどのような必要性があったのかは不明なままです。いずれにしましても、ごく当たり前の整形に過ぎないものを荒らし扱いするのはWikipedia:荒らしに「その一方で、百科事典を改良するためになされた誠実な努力が感じられるような編集は、見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えません。」とありますように不適当でしょう。--Wolf359borg会話) 2014年4月8日 (火) 11:54 (UTC)
コメント 間が離れましたが、ジャコウネズミさん・Wolf359borgさんのご意見へ。ノートに変更点と署名、および変更意図を記さなかったのは不注意でした。改竄と見られた一因にもなったと思います。この点は、相手の方に失礼をしたと思います。--123.218.255.100 2014年4月8日 (火) 13:54 (UTC)

便乗質問させてください。ノートページ、会話ページにおいて、他人の発言の前後にコメントアウト (<!-- -->) を加えて非表示とした場合でも、他人の発言を改ざんする行為に該当しますか? コメントアウトの不適切な利用法ですか?--220.100.20.218 2014年4月9日 (水) 06:16 (UTC)

通常は不適切な使用法です。議論から明らかに外れたものや関係のないもの、暴言や個人攻撃などの場合は、認められるものもあるでしょう。--Ks aka 98会話) 2014年4月9日 (水) 07:28 (UTC)
返信 (MegevandBesanconさん宛)  仰る通りです。断りを入れて頂ければ、問題視することは無かったと思います。勿論、3日間、相手の方を待つことも。中には、個人攻撃を除去する場合であっても、改竄とみなす方もいらっしゃいますから、事前の説明の方が好ましいとは思いますが。--鈴木会話) 2014年4月9日 (水) 11:52 (UTC)
返信 (Wolf359borgさん宛)  教えて頂きありがとうございます。お手数おかけしました。それは、つまり、以下の条文は、記事本文(百科事典)だけでは無く、ノートにおいての他者の投稿も、適用対象となる。

百科事典を改良するためになされた誠実な努力が感じられるような編集は、見当違いや不適切なものでも、荒らしとは捉えません。一見すると不誠実に見える編集であっても、議論の余地なく明白に不誠実であると見なされない限り、Wikipediaでは荒らしとは判断しません。   (引用) Wikipedia:荒らし 

場合によっては、会話ページやコメント依頼などにおいても。もし、以上の解釈が適切でなかった場合は、具体的に指摘して頂けると助かります。Wikiの利用法について、正しく理解したいと考えておりますので。--鈴木会話) 2014年4月9日 (水) 11:52 (UTC)-(追記--鈴木会話) 2014年4月9日 (水) 11:56 (UTC))
もしかして鈴木直紀さんは一部の文の字句にこだわり、全体で言わんとしていることを見失う傾向があるのではないでしょうか。Wikipedia:荒らしを頭から全て通読されましたら、そのような疑問が出てくるとは思えないです。また、たびたび方針文書の一部をまるで法律の条文を引用するように示しておられますが、ウィキペディアは規則主義ではありませんウィキペディアの基本原則ウィキメディアの基本原則に立ち返って理解するように努めてください。--Wolf359borg会話) 2014年4月9日 (水) 12:40 (UTC)
  • 「個人攻撃を除去する場合であっても、改竄とみなす方もいらっしゃいますから」というのはケースバイケースだと思います。本当に個人攻撃なのか、自分に対する注意・警告なのかで判断が変わってきますから。まぁ、今回の場合は明らかに「画像のサイズ」についての議論ではないのですから、サイズを変えることを「荒らし」と捉えるのは大げさだったと思います。断り書きは、まぁちょっとした潤滑油みたいなもので有るのと無いのとでは印象がグッと変わりますから、あった方が良いということだと自分では思っていますが。Wolf359borgさんも仰っておられるように、あまりルール一辺倒になるとお互い疲れますよ(ルールは軽く考えていいという訳ではないですよ)。--MEGEVAND (会話) 2014年4月9日 (水) 14:09 (UTC)
コメント 気が回らなくて申し訳ありません。個人的に伺いたいことは、まだまだ、ございますが、これで終わりにしたいと思います。長らくお付き合い頂き、ありがとうございました。自身が抱く疑問については、分からない点を、明確化してから、出直してきます。また、今回の失敗を生かし、言葉の伝達の仕方や不十分な点、これらの改善に努めることに致します。--鈴木会話) 2014年4月11日 (金) 20:20 (UTC)

小説における著作物名の表記の『』と「」の区別の仕方について[編集]

現在、表記ガイドの著作物のところに以下のような指針がありますが、このガイドの解釈について、多くの方に広くご意見をお伺いしたいと思います。

比較的長大な作品あるいは作品群(書名・雑誌名・交響曲などの曲名・組曲などの名称・CDなどのアルバム名・映画名・戯曲名・テレビの番組名・イベント名・大会名など)は、和文では『 』で囲み、欧文では(入力を''……''として)イタリック体にします。
例: 『海辺のカフカ』・『動物の謝肉祭』・Yesterday ... and Today・『ローマの休日』・『報道ステーション』

比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品(論文名・書中の章名・短詩の名・交響曲などの楽章名・組曲中の曲名・CDなどのシングル名・シングルやアルバム中の曲名・テレビの企画名・話名など)は、和文では「 」、欧文では、英文における “...” または各言語においてそれに相当する括弧で囲みます。
例: Nature “Molecular Structure of Nucleic Acids”・『展覧会の絵』「プロムナード」・Yesterday ... and Today “Yesterday”・『古畑任三郎』「ラストダンス」

書名、雑誌名、CDアルバム名、映画名、テレビ番組名、コンピューターゲーム名では、日本語のタイトルは『』で囲みます。欧文のタイトルは''弱い強調)で囲みます。(例:夏目漱石『坊っちゃん』(岩波文庫))

上記以外の作品のタイトル(雑誌等所収の記事・論文名、短編集や全集等に収録の小説・詩・エッセイ等の題名、CDシングル名、シリーズ名など)では、日本語のタイトルは「」で囲みます。(例:夏目漱石「坊っちゃん」(春陽堂刊『鶉籠』収録))

以上の表記ガイドによりますと、長編小説『坊ちゃん』でも、全集や作品集に収録されている場合の説明内においては「坊ちゃん」となり、その意味では、長編小説だろうが短編小説だろうが、全集や作品集の収録が示される説明内において同格になります。これは「長編小説と短編小説の関係性が、楽曲におけるアルバムとシングルの関係性と同じでない」ということが明らかに示されており、現に長編だろうが短編だろうが、作者がその都度、単独で個別に独立発表する一個の作品です。そして、短編小説といっても小説ですから、ある程度の分量があり、その中には(一)(二)などの「章」も存在しており、「章名」が付いている場合も結構あります。また、単独で単行本になっている短編小説もあります。

短編小説は、『伊豆の踊子』『火垂るの墓』などをはじめ、映画の原作になっているものも無数にあります。ちなみに、上記のガイドによれば、戯曲名や映画名は『』で表記されることになってますが、日本の戯曲は長編小説のような長さのものは少なく、短編小説くらいの長さが多いです。そして、そのような長さの戯曲や、短編映画が「」で表記されるというガイドにもなっていないようです(オムニバス映画の個々の作品が「」で示されるのは別として)。なので、短編小説であろうが、長編と同じように独立発表されている同格の単独作品ですので、それを単独で説明記述する際には、『』で表記するのが当然だと私は思っています。

しかし、利用者:新続頭痛さん(利用者:頭痛さんと同一人物)は、私とは違った「表記ガイド」の捉え方をし、短編小説はあくまでも「」で表記しなければいけないという主張をなさり、ノート:坂口安吾坂口安吾においても、長編小説は『』で表記するが、短編小説は絶対にどんな時でも「」で表記しなくてならないという姿勢を崩さず、それに固執しています。私は、坂口安吾の記事本文において出てくる、「カストリを飲む会」「堕ちきること」「推理を楽しむ小説」「パズルを解くゲーム」などの文言と、著作物(作品名)の「」と『』が入り混じった表記の版が、予備知識のない人が読んだ際に非常に解りにくく混同されやすくなっていたので、著作物名をいったん『』に統一して修正しましたが、新続頭痛さんはそれを有無を言わさずに全て巻き戻して、表記の基準がまばらで、ごちゃごちゃに混在していた版に巻き戻してしまいました。その後、頭痛さんはそこに修正を加えましたが、書き下ろしの中編小説(ほぼ長編に近い小説)まで「」表記にしており、何の一貫性もない表記にしています。

それから、例えば坂口安吾の代表作の列記する際も、

「風博士」(1931年)
「堕落論」(1946年、評論)
「白痴」(1946年)
「桜の森の満開の下」(1947年)
『不連続殺人事件』(1947年)

というふうに、同じように単独で発表された文学作品にもかかわらず、ただ単に作品の「長さ」(表面的な長編・中編・短編の便宜的なジャンル分け)だけで、長編は『』、それ以外は「」というような、機械的なおかしな表記を押しつけています。文学作品は、長編小説でも書籍化されていない作品もあったり、短編小説でも単独で書籍になっていたりと様々です。また、短編だろうが中編だろうが長編だろうが全部、作者がその都度、個別に単独発表していく作品ですので、短編小説や中編小説は、歌手がアルバムを制作する際の、収録楽曲やシングルカット曲のような関係性のものではありえません。同じ作家の代表作品なのに、それを説明する記述において、長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけないなどという基準はとてもおかしいと思うので、上記の「著作物の表記ガイド」が、本当に利用者:新続頭痛さんの主張なさっているような性質のものなのか、広く皆さんにご意見、ご感想を募りたいと思います。--みしまるもも会話) 2014年4月10日 (木) 02:56 (UTC)

Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)では、「単行本は二重かぎ括弧(『 』)で囲む。」「雑誌論文名は一重かぎ括弧(「 」)で囲む。」「論文が所収されている雑誌や書籍は、二重かぎ括弧(『 』)とする。」となっていますので、私も「長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけないなどという基準はとてもおかしい」と思います。--free spirit会話) 2014年4月10日 (木) 11:51 (UTC)

コメント 小説のタイトルを単独で表記する場合については、ガイドラインに明記されてないようですね。そもそも、「長編小説は『』、短編小説は「」で表記しなければいけない」なんて現実的に無理でしょう。「長編小説」と「短編小説」ってどこで線引きするんですかね?ガイドラインの記述にそう解釈できる余地があるのなら、文面を改正すべきだと思います。--uaa会話) 2014年4月10日 (木) 12:20 (UTC)

日本の慣習として、作品は新聞や雑誌に最初に発表され、その後単行本になるのが普通です。ですから、長編小説でも新聞や雑誌に掲載された作品名としては「」でくくり、単行本が初出(書下ろし)のときは『』でくくるというのが、ガイドラインの趣旨だと理解していましたが。いかがでしょう。 --ねこぱんだ会話) 2014年4月10日 (木) 15:04 (UTC)
  • free spiritさんのご説明と、利用者:新続頭痛さんの解釈を総合して考えると、複数の短編小説がまとまって例えば『芥川龍之介短編集』みたいになっていたら、論文が複数所収されている書籍同様、タイトル(芥川龍之介短編集)は『』で収蔵作品が「」(「羅生門」「あばばばば」ほか)ということではないでしょうか。しかし、短編小説であっても収蔵作品としてではなくそれ自体単独で出されていたならば『』で表記するのが正しいと思います。ですから、単独作品か収蔵作品かという区別が必要なんではないでしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年4月10日 (木) 15:28 (UTC) (加筆 --MEGEVAND (会話) 2014年4月10日 (木) 15:37 (UTC))
  • 上記コメントが中途半端になりました。で、説明・文脈のなかで「収蔵作品」かどうかが分かれば「」で、収蔵する作品が『』となっていたらいいのではないでしょうか?例えば、、、、雑誌『文体』12月号に『閑山』、翌年2月に『紫大納言』、、、というのはみしまるももさんのスタイルですが、これは文脈として2作品が雑誌『文体』の中の収蔵作品であることが明らかなので、、、、雑誌『文体』12月号に「閑山」、翌年2月に「紫大納言」という頭痛さんのスタイルで問題ないと思います。その他のものは全部見ていませんが、だいたいこういう考え方で良いのではないかと思いますが、如何でしょうか。--MEGEVAND (会話) 2014年4月10日 (木) 15:52 (UTC)

ねこぱんださんがご紹介くださったように、雑誌や新聞のような定期刊行物の一部に含まれる著作物のタイトルに「」を、本という形で出版された著作物のタイトルを『』を使う、というのはひとまずその通りですが、そうした物理的な出版形態とは相対的に独立して存在している作品を指すときにどうするのか、という今回のトピックにとっては必ずしも回答にならないように見受けられます。その点、Megevandさんが言っておられる事情もほぼ同じ。

一方で、定期刊行物や共著のように複数の著作者が関わった著作物の中の一編のタイトルを指すために「」を使うという慣行は確かにあって、例えば日本社会学会の学会誌向けスタイルガイド「社会学評論スタイルガイド」があります。同スタイルガイドの「4.4 邦文の文献」の「(4) 編書論文など」などはその事例でしょう。

ただ、文学作品について言えば、定期刊行物の連載から始まって単行本化され、文庫になり、作品集や全集に収録され…等々と多様な・物理的な出版形態で刊行されるというのは、ある意味で文学作品特有の事情とも言えるように思います。そうした事情がある以上、それを出版物一般に拡大してガイドラインを左右するというのが適当かどうか。物理的な出版形態とは独立に作品を指す表記法について考えていくのが方向としては適切でしょう。

どこにあるのか思い出せないのですが、約物の使い方については文部科学省?国語審議会?文化庁?どこかそのあたりの答申だかガイドラインだかがあったようななかったような。個々人の感覚ではどのみち埒が明かないでしょうから、そういう規準を決めたものを探すという方向に進んだ方がよいように思えます。

蛇足。またこの組み合わせか、と思ったんですが、ガイドラインは気に入らない者どうしで角逐するためのネタじゃないです。喧嘩したいなら、よそでやって下さい。迷惑ですよ。--ikedat76会話) 2014年4月10日 (木) 16:01 (UTC)


ああもう、めんどくさいな。
文学分野での(収録作品/収録書籍を示すとき以外の)作品名・雑誌名に対する「」『』の厳密な使い分けの決まりとか支配的な慣行みたいなものはないはずです。媒体や執筆者でばらばら。ただし何かに入っているか否かに関わらず短編小説は「」、長編小説は『』でくくる方法を取る人もたしかに一定数あって、大学でも今適当に検索したところでは青山学院の英文科では論文指導でそのように教えているようです(このPDFの3頁)。私は独文科を出ましたが、論文指導の際には「作品名は『』」と教わり主題の短編名も『』を使いました。ばらばらであることを知ったうえで「執筆者によってばらばらでは困るから表記ガイドに従え」ということを言ったのです。
で、スタイルマニュアルでは「詳細は「Wikipedia:表記ガイド#著作物名」を参照」となっていますから表記ガイドのほうがメインです。こちらの説明ではここで最初に引用されているように
  • 比較的長大な作品あるいは作品群(例示・・・)→『』
  • 比較的短小な作品や作品群に含まれる単一の作品(例示・・・)→「」
となっています。「比較的短小な作品」や「作品群に含まれる単一の作品」と書いているのですから、「何かに収録されている」という関係の中になくても、そのような限定なしに「比較的短小な作品」が「」の使用対象に含まれるのだということが自然に理解できるはずです(「比較的短小な作品や作品群/に含まれる」では明らかにない)。「短編小説」が「比較的長大な作品あるいは作品群」ではなく「比較的短小な作品」であることは誰だってわかります。これは明らかにわからないという者のほうがおかしい。
長編と短編との間の線引き、または中編小説の扱いはどうするのか、などというのは上とはまた別の問題です。厳密な線引きが可能であるだのという話は私も一言も述べていません。私は「単独で刊行されることのほうが多いかどうか」である程度蓋然的な判断ができると思っていますが、別の判断を行う人もいるでしょう。その程度の項目間の表記ゆれは大した問題じゃないです。その項目内で矛盾しないようにさえすればいい。そもそも厳密な線引きが可能な事柄ではないです。中間的な形態のものなどといのはどんなジャンルにだってあり、それがあるからといって上のガイドラインを丸ごと否定する理由になどなりません。Wikipedia‐ノート:表記ガイドなどで話し合えばある程度の範囲で詰めることはできると思いますが、ノート:坂口安吾はそのように論点を整理して話し合えるような状態では明らかにありませんでした。
free spiritさんが示されているのは「出典の書きかた」ですので今の議題に対する直接の論拠にはなりません。表記ガイドのほうを参照してください。
ikedat76さんは一言多いです。あなたが今そのような皮肉を言ったところでご自分の自尊心をくすぐること以外の何の役にも立たないのだということくらいそろそろ気づいてもいいのではないでしょうか。--新続頭痛会話) 2014年4月10日 (木) 21:22 (UTC)
プロジェクト:漫画#記事作成の指針には「Wikipedia:スタイルマニュアル#著作物名に従い、書籍化された作品名や雑誌名は『 』で囲んでください。文脈として明らかに「雑誌掲載作品」としてのみ述べている場合や、短編集に収録された作品名などは「 」で囲んでください。」とありますね。これに忠実に従っている桂正和では文脈上掲載・収録に関係のないところでは短編は「」、長編は『』と使い分けられています。類似ジャンルですから参考にはなるでしょう。
私は文中では掲載物か刊本かに関係なく長い作品の名は『』でくくりますが、表記ガイドで「比較的長大な作品」と言っている以上これもおかしな解釈ではないはずです。どちらかに統一したいのであればガイドラインのノートでの議論が必要でしょう。--新続頭痛会話) 2014年4月11日 (金) 00:18 (UTC)
◆「作品が長いか短いか」という点に着目したことが実はなかったので、ちょっと適切な意見ではないかも知れないですが。
個人的には文脈によって、「作品があるものに属している場合、親を『』、作品を「」で囲む」というルールで、使い分けます。『雑誌名』「作品名」、『作品名』「サブタイトル」、『作品を単に表す』といった具合ですね。
例:『野性時代』45号収録「遠まわりする雛」・『遠まわりする雛』収録「遠まわりする雛」「やるべきことなら手短に」・アニメ『氷菓』第1話「伝統ある古典部の再生」(原作『やるべきことなら手短に』)
単純に、作品と収録誌・書籍との関係(上下関係)にのみ着目してました。上下関係にのみ着目して記述する、っていうのは他ジャンルでも適用できるルールですし。というか、「作品の長短」は主観に左右されますし(「比較的」っていうことは閾値はひとそれぞれってことでしょう)、であるならば「○○は長編小説である」とか「○○は短編小説である」とか書かれている出典が必要になってくるとか考え始めなきゃいけないんじゃないかとか思ってしまいます。
現状のスタイルマニュアルからはどうも外れているっぽいので今後気を付けます(といってもそう大きく捉えた記事を書くことはあんまりなかったんですが)が、内容そのものではなく単なる作品の表記程度で「作品の長短」まで調べて(少なくとも、ちゃんと考えて)書かないといけないっていうのは個人的には煩わしいと感じるので、その意味ではikedat76さんの「個々人の感覚ではどのみち埒が明かないでしょうから、そういう規準を決めたものを探すという方向に進んだ方がよいように思えます。」に賛意を示しておきます。 --いすか (/) 2014年4月11日 (金) 01:54 (UTC)
(新続頭痛さんへ) あなたが例示した「青山学院の英文科」の例は、主に海外文学の話でしょう。海外文学では短編は独立で一個で発表されることがほとんどなく、最初からあくまで短編集の中の一作品としてだけ扱われることが多いので、そういう考え方もされてくるのでしょうが、日本文学では、短編小説も独自に個々に発表される一つの作品、一つの「小説」として扱われています。
私はこれまでいろいろと、日本文学の文芸評論、作家論を読んでますが、その作家の作品を語る際に、長編小説は『』、短編小説は「」という理由の元に「表記を区別」しているものなど見たことがないです。ある作品を主体的に語る際に、書籍化されていないような作品や注目度の低い作品名を目立たなくさせる意味で、『』と「」を区別している場合もあることはありますが、その場合は、短編だからという理由にはなってません。長い作品でも「」になってます。でも、だいたいの文芸評論は、作品名は同じ鍵括弧で統一されているものの方が多いです。
それから、このウィキペディアの「表記ガイド」の「比較的短小」「比較的長大」というのは、例えば、「比較的短小」な作品は、ある作品内の「章」や、それ一個単体として独立して発表されにくいような「短詩」のようなものを指すのであって、「短編の小説」のように一個の独立した文章構成を持ち、一つの作品単体として発表されるものは、長編の小説と同格同等のものですから、この「短小」という文言に惑わされて、そちらの方に入れること自体がナンセンスな話です。それなら短いテレビドラマや短い時間の番組名は「」で表記されるんですか?
短編小説だろうが、長編と同じようにその中には、「章」がありますし、ある一定の長さを持つ一つの構成をもった「小説」ですので、それを「章」などと同じ方向の表記にするということ自体が明らかに変です。短編だろうが、映画や戯曲の原作にもなっている一つの作品ですし、芥川賞やその他の章の対象作品になっている立派な一つの小説です。短編と同じくらいの長さの台本の戯曲の方は『』の表記になるのに、短編小説だけが「」になるなんて、どう考えてもナンセンスです。
何か全集や作品集やアンソロジーや雑誌の中に収録されている個別作品として説明される際は、長編だろうが短編だろうが、「」となるのは分かりますが、それ以外の、単体でその文学作品が同等に語られて記述される時に、長編小説が『』で、短編小説が「」などと表記するなどという変な基準は、日本文学や日本の作家を語る際においてはまったく合わない基準ですし、とてもちぐはぐです。--みしまるもも会話) 2014年4月11日 (金) 02:51 (UTC) 誤字修正--みしまるもも会話) 2014年4月11日 (金) 02:54 (UTC)
コメント 作品名が単独で登場するような文脈ではなく、多数の作品が列挙される場面でカッコを使い分けるということは、カッコの違いによって、その内容について何かしらの質的な違いがあることを(少なくとも)暗示することになります。「短篇集の1作品」と「単体で発表された作品」を区別するならまだ意味はあるのですが、単体作品の中で「比較的長いもの」と「比較的短いもの」について違いを示さなければならないほど、両者に質的な違いがあるのかは疑問に感じます。--Jkr2255 2014年4月11日 (金) 03:24 (UTC)

文化庁の答申というのはここにおかれているこれのことでいいんでしょうか。「フタヘカギを用いることもある」みたいな感じで全然使い分けの指針はないようですね。
「規準を決めたもの」というのはやっぱりないんじゃないかなと思いますよ。夜長姫と耳男を書いたときに使った論文コピーが残っていたのでざっと確認してみましたがやっぱり使い分けはまちまちです。おおむね学者先生が書いているものですから、どこかに指針があるならいくらなんでももうちょっと統制が取れてるはずかと。非常に大雑把な傾向として短編は「」、収録書名は『』という使い分けがされやすいかなという感じなのですが、これは論文の書式のアナロジーで自然にこうなるのかなと思います。
いすかさんのコメントですが、「短編かどうか」ってそこまでややこしいですかね。中編か短編かという領域の曖昧さというのはもちろんありますが、「短編集」に入ってれば普通は全部短編ですよね。たまたまよく知らない作家の記事を書いてるときなんかでは面倒になることもあるかもしれませんが、表記ガイドにあるようにややこしければ適当につけておけばいいだけだと思います。
Jkr2255さんが言われている「多数の作品が列挙される場面」というのは具体的にどういうものを指しているのかよくわからないのですが、リスト的なもののことでしょうか。短編作品のタイトルは収録短編集のタイトルにもなったりしますから、単純な列挙であれば「短編作品」であるか「それを収録した作品集・連作」であるかを区別する役には立ちますよ。そういう使い分けであれば普通に慣行として見られるもので、例えば三島由紀夫賞のサイトの選考委員の経歴部分を見てみてください。川上弘美の「蛇を踏む」も辻原登の「村の名前」も町田康の「くっすん大黒」も中編のタイトルですが、別の作品1~2編を併録した同じ名前の書籍があるので区別のために一重鉤になっています。「作品集」が受賞対象になることもあるので必要な使い分けです。「単体作品」(というのもなにを指しているのかちょっとわかりにくいですが)といっても大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』とか中上健次の『重力の都』とかのようにひとまとまりの連作のなかに同名の一編があったりというようなケースもありますからそういったものの区別に役に立つということもあると思います。長いか短いかというだけの話ではないでしょう。必然性があるか、ということならそれよりも同じ記事内でセクションごとに括弧の規則をいちいち変更する必然性があるか、という論点もあるでしょう。また作品リスト節内では鉤括弧類はつけなくてもいいという指針もあったと思います。
  >海外文学では短編は独立で一個で発表されることがほとんどなく
この発言は単純にただの嘘です。ポーでもマンでもアシモフでもチェーホフでもカーヴァーでも誰でもいいから短編で有名な人の経歴を調べてみてください。--新続頭痛会話) 2014年4月11日 (金) 04:46 (UTC)
あと「短詩」も独立で雑誌・新聞に発表されます。「一個の独立した文章構成を持ち、一つの作品単体として発表される」短詩や論文は違うのですか?--新続頭痛会話) 2014年4月11日 (金) 05:39 (UTC)

コメント アシモフだと短編の単独記事が日本語版には無いようですが、小松左京だと短編単独記事もいくつかありまして……適当にチェックしてみましたが、バラバラですね。ヴォミーサは短編タイトルも掲載誌も「」、御先祖様万歳は短編タイトル『』で掲載誌「」、地には平和をはどちらも『』、模型の時代も規則性があるような使い方はされていないようでした。統一性、規則性があったほうが良さそうだとは思いますが。--KoZ会話) 2014年4月11日 (金) 05:17 (UTC)
上に書いたようなことですので短編は「」雑誌は『』で統一して大丈夫だと思います。アシモフも英語版の記事は雑誌・長編は斜体、短編はダブルクォーテーションと綺麗に統一されているようです。というか、そのあたりの表記の区別にそれなりに気をつけて書いたエドガー・アラン・ポーをGAにしてもらってるんですけど、あまり参考にはされていないみたいですね。--新続頭痛会話) 2014年4月12日 (土) 03:54 (UTC)


新続頭痛さんが示したサイトの選考委員の経歴を見ましたが、そこでは、雑誌掲載時に受賞したものは「」となっていて、短編集や書籍化したのは『』とされているようで、短編だからという理由が元で「」というわけではないでしょう。雑誌掲載時の作品受賞か、書籍化後の書籍受賞かという、そういう意味での受賞作の区別するという場面においては有効かもしれませんが、平野啓一郎のところでは、
文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により
というふうになっていたりもしますから、何かそのサイトも一貫してないですね。そのサイトの規準でいけば、『日蝕』はその局面において、「日蝕」にするべきでしょうに。
ポーのついては、いわゆるロマン(長編小説)を主に書く小説家とは違いますから、ポーのような作家や詩人に近い作家の代表作が、短編小説になるのは当然のことです。そしてポーの短編小説は、日本の作家の短編小説と近い性質のものですから、海外長編作家における短編集の中の一作品というような位置づけの「短編や小品」ではないでしょう。マンの代表作の一つの『ヴェニスに死す』なども、短編(Short story)ではなくて中編小説ですから、日本の文学者の短編小説と同じような、ある一定の長さのある「小説」です。
それから、「短詩」も独立で雑誌・新聞に発表されるならば、その「短詩」の「題名」も、単独でその作品について語られる場合は『』で表記されていいんじゃないですか。「詩」も立派な一つの文学作品ですから、短さや長さは関係ないでしょう。なので、ウィキペディアの「表記ガイド」の説明を変えて、その『作品』と「章」の関係『書籍』と「収録作品」の関係『全集や作品集』と「収録作品」の関係『戯曲作品』と「幕」の関係、での区別の意味の「表記ガイド」の指針にして、ただ単に長編だから『』、短編だから「」などというナンセンスな基準と受け取られて誤解されるような説明は変えた方がいいと思います。--みしまるもも会話) 2014年4月11日 (金) 07:48 (UTC)
  • コメント よくわからない議論になっていますが、カギカッコの話ですよね。カギカッコは、地の文と区別するために使います。カギカッコでさらに区別する必要があるときに、二重カギカッコを使います。作品タイトルをカギカッコにするか二重カギカッコにするかは、文献によってまちまちで、統一した基準はなさそうですが、ウィキペディアでは基本二重カギカッコを使っています。その上で、あえて二重でないカギカッコを使う必要性というのは、例えば大作に対する小品であるとか、短編のタイトルが短篇集のタイトルと同じ場合など、作品の重みや形態に違いがあって、それを示したいときでしょう。つまり、カギカッコには二重カギカッコと同列・並列でないという含意がある、ということです。これらの使い分けは文脈や出典に多く依存しますが、他方で同じページ内の一貫性や分野内の整合性などにも配慮が必要です。
それで、新続頭痛さんがいわれているのは、「変だから」といった個人的な感覚に頼るよりも表記ガイドに従ってはどうか、従えないならガイドラインのノートで問題提起したらどうか、ということでしょう。それ以上のことを主張しているわけではないと思いますが違いますか? とにかく脱線が多すぎます。
坂口安吾」についていえば、同じ記事中で「生涯」・「作品」節と「年譜」節で異なるスタイルのカッコ書きを採る、ということならその旨の注意書きが必要でしょう。でないと、どういう意図なのかとか同名の別作品かといった疑問や混乱の原因になり、この方が「変」です。--みっち会話) 2014年4月12日 (土) 01:05 (UTC)
ありがとう、その通りです。
「創作作品名は長短・収録の区別なく全部『』でくくることにしよう」というようなことであれば単に提案としてなら全然ありえるものだと思いますよ。現にそのような表記で文章を書いている人がいくらでもいるのだし、見たところドイツ語版やフランス語版は創作作品はどんなものもすべて斜体で統一しているようです。日本では芥川賞が強い権威を持っていますけど、芥川賞をとった同じくらいの長さの作品でも出版社や時期によって一作品単独で刊行されたり他の中短編と抱き合わせで刊行されたりしているので、いちいちそうした区別の判断をするのが煩わしいという人も少なくないでしょう。先に連作の中に同じタイトルの短編が入っていたりといったケースに触れましたが、別に区別の方法が鉤括弧に限られているわけでもありません。
ただ私は掲載誌・短編集・連作集/収録作品などの区別をつけるのに便利なこと、Wikipediaで広く使われている出典・参考文献の書式と親和性が高いことなどから総合的に判断して、多少の曖昧さはあるにしても現状の方が優れていると考えているのでもし上のような提案をされても反対することになると思いますが。現状のガイドラインの文言が収録関係に限らないことはすでに説明したとおりです。またこのガイドラインをどう読んでも「区別に曖昧なところがあるからどんなに短いものでも全部『』でくくる」というような編集を支持するような内容は導き出せません。
みしまるももさんは、よく知らないことを無理に理屈をつけて説明しようとするべきではないです。海外の作家は短編を独立して発表することが少ないだとか、ポーの短編の性質が云々といった一連の言動は、この議論の参加者の少なくとも一部の人には、文学の基礎的な領域に対して非常に混乱した知識をもたれている方だという強い印象を与えたと思います。Wikipediaには無知な人も参加していますが、無知な人ばかりというわけでもありません。適当なことを書けばわかる人にはわかります。--新続頭痛会話) 2014年4月12日 (土) 03:54 (UTC)
(新続頭痛さんへ) ポーが短編小説を得意としていた作家であるのも、マンの『ヴェニスに死す』も短編(Short story)ではなくて中編小説だというのも事実です。そして、海外の長編作家と、日本の作家の短編小説に対する考えの違いのことはデタラメなことではありません。海外長編作家の短編に対する考え方に比べて、日本では短編小説も長編小説もほとんど区別していないことは、作家である三島由紀夫が評論でちゃんと論じていることです。
(みっちさんへ) 私がこの井戸端でご意見を皆さんに伺っている主旨は、新続頭痛さんの言う「表記ガイドに従ったらどうか」という、その新続頭痛さんが解釈しているところの、長編小説は『』、短編小説はどんな時でも「」でくくらなければならないという主張が、本当にこの「表記ガイド」で示されている指針なのかということです。まずはそこのところを、第三者のより多くの人たちのご意見を聞いて知りたかったんです。これまでに寄せられたご意見によると、新続頭痛さんのように、短編小説はどんな時でも「」でくくらなければならないと考えている方は、新続頭痛さん以外には見受けられないようなので(みっちさんもそうかもしれませんが)、皆さんの考えや意見を整理してから「表記ガイド」のノートの方で、説明文の書き方をどうしたらいいかを進めていきたいなと思っています。--みしまるもも会話) 2014年4月12日 (土) 09:22 (UTC)

「多く意見を募る」ということで、とりあえずここの井戸端は収穫があったのではないでしょうか。これを元に今後表記ガイドの整理を進めていかればと思います。頭痛さんとみしまるももさんのことに関しては、あまり良く分かりませんが、お互いの考え方の癖や傾向などを色々ご存知ということで、どうしても「中立的」に議論するのが難しいようですので、「〜さんはああだこうだ」という提案するのではなく、「〜のような意見もありますが、皆さんどうお考えですか」とされれば良かったのかなと思います。その後のコメントもしかりです。これはちょっとしたことですが、そのちょっとした注意で回避できる争いもあると思います。私も自分自身で反省するところです。--MEGEVAND (会話) 2014年4月12日 (土) 09:42 (UTC)


コメントみっちさんからももう指摘が出ているから一回書ききりにしますが、前回「蛇足」を書いたとき頭痛さんだけ・みしまるももさんだけを名指ししていません。ご両人に対して書いています。ウィキペディアは共同作業ということになっている。その過程では意見が合わないこともありますが、そういうときに求められているのはWikipedia:議論が白熱しても冷静にのはずです。さて、ご両人の

  • 「思い込み」「押しつけないで」「決めつけている」(みしまるももさん、2014年4月9日 (水) 12:15 (UTC))
  • 「論理が飛んでいてちょっと相手にしていられません」「牽強付会」(頭痛さん、2014年4月9日 (水) 12:37 (UTC))
  • 「この発言は単純にただの嘘です」(頭痛さん、2014年4月9日 (水) 12:37 (UTC))
  • 「どう考えてもナンセンス」(みしまるももさん、2014年4月11日 (金) 02:51 (UTC))

こういう発言がWP:CALMWP:CIVILで、対話を通じての問題の解決や合意形成に寄与するものなのでしょうか。私に切り返す前にご両人ともまず、そこから考えてみたらいかがですか。まして以前からの前歴があるわけで、慎重に振舞う配慮を双方ともしていいはずです。頭痛さんはベテランならベテランにふさわしいふるまいをして欲しいものですし、みしまるももさんもベテランでなくてもそういった点で建設的な結果を生むのに障害になるような行動や言動を慎まれた方がよろしいでしょう。何か言いたいことがあるのならノートでどうぞ。どのみち蛇足ですし、お答えしようと思いません。--ikedat76会話) 2014年4月12日 (土) 01:56 (UTC)

いまこのタイミングでそのようにわざわざ対立的な文言を抜き出して列挙することが感情的な対立を煽ることにしかならない、ということがなぜわからないんでしょうか。みっちさんのように具体的な論点を絞って議論自体の解決を促すのが正解です。
あなたが抜き出したその4行のシリーズの下に
  • 「またこの組み合わせか」「ガイドラインは気に入らない者どうしで角逐するためのネタじゃないです」「喧嘩したいなら、よそでやって下さい」(Ikedat76さん、2014年4月10日 (木) 16:01 (UTC))
を加えてもなんら違和感のないことくらいはわかりますよね? あなたに仲裁の才覚はないです。頼むから黙っててください。--新続頭痛会話) 2014年4月12日 (土) 03:54 (UTC)

お知らせ[編集]

これまでの寄せられたご意見を参考にして、「表記ガイド」のノートで、説明文の改訂を含めた提案をしましたので、ご連絡いたします。

Wikipedia‐ノート:表記ガイド#著作物名の表記について

--みしまるもも会話) 2014年4月14日 (月) 04:26 (UTC)

記事改名の合意形成[編集]

プロジェクト‐ノート:オリンピック/オリンピック関連記事の記事名についてでオリンピック関連記事の記事名の議論をしていました。2020年東京五輪が決まり東京オリンピック関連の改名は必須です。方針も改定されて括弧を使わないように書き換えた記事名を採用して下さいとあり、ロンドンオリンピック (2012年) におけるテニス競技のように真ん中に曖昧さ回避の括弧をいれた記事名は望ましくなく、なんとか改名したいのです。提案からかなりの時間がたっており意見も出つくし最終的な決定をしたいのですが、どうするべきでしょうか。合意形成出来ないのなら投票をして決めたいのですが、反対されています。--Rain night 2014年4月16日 (水) 07:38 (UTC)

エラーメッセージについての質問[編集]

あまりに初歩的な質問でお恥ずかしい限りですが、先ほど、「チャート・レコード」という記事を作り、一度更新をしたところ、「Error 404 - File not found」というメッセージが表示されるようになってしまいました。

変更履歴編集ページはちゃんと見えますし、自分の投稿記録にも、編集が反映された形跡はありますが、「チャート・レコード」はエラーになってしまいます。

これは、自分のシステムの側に問題があるのでしょうか? 皆さんから見てきちんと見えているでしょうか?

もし何らかのアドバイスをいただければ幸いです。--山田晴通会話) 2014年4月18日 (金) 15:26 (UTC)

先ほど、再度読み込みをした所、正常に表示されました。お騒がせして申し訳ありませんでした。--山田晴通会話) 2014年4月18日 (金) 15:39 (UTC)
テンプレート荒らしさんがいらっしゃったようです[7]Help:キャッシュ破棄で直りました。Template:Asbox、 Template:Color、 Template:Coord、 Template:Mainで行われていたので多数のページで偽の404が出てしまいそうです。--にょきにょき会話) 2014年4月18日 (金) 15:42 (UTC)

作者のページに転送するのは?[編集]

記事のないライトノベル作品のページがあります。その記事ページから、作者のページに転送するようにしても、大丈夫でしょうか? 「売上ランキング」の上位の作品40作品ほど、記事がない状態なのですが、ひとまず転送して「記事タイトル名」だけ確定させたいのです。自分のサイトからのリンクを貼りたいのが理由なのですが…。

最終的には、すべての記事に手を入れたいとは思いますが、すべての作品を読んで編集するとなると、一人では相当に困難です。そこでとりあえず「記事タイトル名」だけでも確定したいのです。このような場合に、適切な対応を教えていただければ幸いです。--218.216.145.132 2014年4月18日 (金) 19:52 (UTC)

動機のほどはさておき、「(記事を作るべきでない、あまり世間で言及または重要視されていない)作品のタイトル」→「作者のページ」へのリダイレクトの作成自体は適切でしょう。ただし、それがユニークなタイトルである場合は有益ですが、あまりにありふれたタイトル(例えば「日本」とか)である場合には、一考を要します。必ず一意であるかどうかは検討して下さい。リダイレクトで閲覧者・編集者を混乱させる事のないように気を付けてください。Wikipedia:リダイレクト、およびそれを逆から見たWikipedia:リダイレクト削除の方針も参考にしてください(この文書では作品名から作者へのリダイレクトが可とはなっていませんが、特に問題は無いと思います)。また、記事のタイトルにつきましてはWikipedia:記事名の付け方をご参照頂くとよろしいですが、ジャンルによってローカルルールなどもありますので、万全を期するならちょっとでも不安でしたらWikipedia:利用案内で質問して下さい。
まあ、よほどぐちゃぐちゃにしない限りは大丈夫ですし、ぐちゃぐちゃにしてしまったのであれば、リダイレクトの削除依頼が提出され、適切な状態に戻されます。ただし、誰かから「それは不適切だ」とストップが入ったら、取り敢えず手を休めて、ノートなり必要ならこの場なりで対話を行って下さい。アカウントを作成されると「会話ページ」が利用できて便利ですよ。何よりIPが隠れますし、また、ウォッチリスト、wikiの挙動の詳細設定などが行える様になります。--Hman会話) 2014年4月19日 (土) 11:53 (UTC)
お返事、ありがとうございます。ひとまず、作品の記事はないけど、作者の記事があるものについては、リダイレクトをさせて頂きました。一応「このライトノベルがすごい!」で入賞しているものなので、それなりに評価はされるべき作品と思われます。少女向けノベルもありますので、すべての作品は難しいですが、できるだけ編集にかかわりたいと思っています。
ユニークタイトルでないかもしれない「夢の上」などについては判断に苦しみましたが、グーグル検索したところ他に適当なものがなかったので、リダイレクトしました。その他、なにか問題がありましたら、教えていただければ幸いです。--218.216.145.132 2014年4月20日 (日) 05:48 (UTC)
取り敢えず、この目立つ「井戸端」で、現在までものいいがついていないので、大丈夫だと思いますよ。ただ将来何かで誰かが「ものいい」を付けたい時、アカウントが無い=事実上会話ページを持たない218.216.145.132氏に連絡を付けるのは、とても大変です(ノートに書いて見てくれるのを気長に待つしかありません。連絡が付かないなら、やむを得ず記事のロックや投稿ブロックを行うしかなくなるケースもありえますので、連絡が付かない状態と言うものは、あまり好ましくありません)。この点だけにご留意頂ければ、有用と考えるリダイレクトの作成については何ら問題は無いでしょう。Wikipedia:ページの編集は大胆にと言う文書もあります。また、仮に誤ろうとも、人なんぞ(特に初心の内は)誰しも誤るものですから、すいませんでしたと言って次から気を付ければよいだけのこと。大胆に、かつ慎重さも忘れず、今後ともご活躍頂ければと思います。--Hman会話) 2014年4月21日 (月) 17:58 (UTC)

ゲームソフト関係のページ下部にある売上ランキングの項目ですけど[編集]

特定メディアの売名行為、宣伝目的の側面が余りに強すぎると思いますがどうなんでしょう? 元々なかった物ですし一斉に作られた感じもあり不自然です。 そもそも外部集計機関のランキングは個々のゲームソフトと一切関係がない内容です

集計方法も各機関で様々ですし家電量販店やツタヤ、他雑誌のランキングもある訳です。 この中でファミ通、メディアクリエイトだけをゲーム関係のページで特定の集計を公開しているのは ウィキの中立性の面からも疑問を感じます

議論や削除関係などの扱い方が分からないのでここに書きますが 同じように疑問を感じて議論なりをするべきだと思った方がいたら そう言ったページで削除するのかを検討してください——以上の署名の無いコメントは、Tetumaノート履歴)さんが 2014年4月19日 (土) 11:28 (UTC) に投稿したものです。

コメント どのページを指して言ってることなのかその分野でその記事を見ている利用者しかわからないのでこの場ではお答えできかねるかと思います。少なくとも私は分かりません。単に「販売本数」で言っているのであれば、ファミ通などで発表しているという本文内での言及は問題ないと思いますけれど。--アルトクール(/) 2014年4月19日 (土) 21:53 (UTC)
コメント コンピュータゲーム分野にはプロジェクトがありますので、そちらのノートで問題があるとお思いの記事名を挙げてご相談になってはいかがでしょうか。ちなみに同プロジェクトのフォーマットとしては、評価を示す一つとしてランキングも含まれています。--おきた会話) 2014年4月20日 (日) 03:07 (UTC)
ファミ通の「クロスレビュー」でしょうか? クロスレビューが「外部集計機関のランキング」で駄目ということになると、「アカデミー賞」「このライトノベルがすごい!」「このマンガがすごい!」や、各種のマンガ大賞なども売上などに伴わない、審査員による主観となってしまいますよね。ファミ通のクロスレビューは、一定以上の社会的評価・認知度があると思われますので、プラチナランクなどの上位作品については、記述をするべき事項だと思われます。--218.216.145.132 2014年4月20日 (日) 04:23 (UTC)

ページ下部にある売上ランキングですから、これのことでないかと。売上順位は相対評価なので、1位だけを売上本数も書かずに並べることに意味があるのかという疑問はあります。 --Yhiroyuki会話) 2014年4月20日 (日) 07:42 (UTC)

なるほど……。私も、一位だけを並べることに意味があるのか、まったく同じ感想でした。ただ、それだけを持って、即削除というのもどうかと思いますが…。いづれにしても、問題を感じられることは確かですね。--218.216.145.132 2014年4月20日 (日) 09:06 (UTC)
コメントご質問者さんの仰っているのがYhiroyukiさんご指摘のテンプレートならば、問題があると私も思います。218.216.145.132さんの仰るファミ通クロスレビューのプラチナ殿堂入りや、あるいはメディアクリエイト発行の『ゲーム産業白書』のように年間データを基にまとめた情報なら「第三者による有意な言及」と言えると思いますが、変動の大きい週間ランキングをそのまま記載しても評価を的確に反映しているか疑問ですから。削除依頼は一週間議論を行ってから削除の可否を決めますから、これで間違いないのであれば一度議論する意味でも削除依頼に提出なさるのも良いかもしれません。--おきた会話) 2014年4月21日 (月) 01:32 (UTC)
年間ランキングの上位5作品とかなら、OKな気がします。ぎりぎり月間ランキングでしょうかね? 単純に「削除」を決めるよりは、そういった妥協点を探るほうがよろしいかと思われます。--218.216.145.132 2014年4月21日 (月) 07:54 (UTC)

コメント ええっと、「1位だけを売上本数も書かずに並べることに意味があるのかという疑問」を出してしまうと、Category:オリコンシングルチャートのテンプレートにある「週間シングルチャート第1位」「週間演歌・歌謡シングルチャート第1位」も不要、もしくは売り上げ枚数を書けということになってしまいます。とはいえ、オリコン1位というのは新聞などでも取りあげられる話ですから、テンプレートがあっても問題はないというのが現状でしょう。ここでの問題点は、ゲームソフトは集計方法が異なる複数のランキングがあるのに、『ファミ通』と『メディアクリエイト』のみのテンプレートを作っているということじゃないのですか。--Floter会話) 2014年4月21日 (月) 11:22 (UTC)

音楽業界は順位が特別なステータスになる世界なので、ここの議論の結果がどうなろうと影響しないでしょう。 --Yhiroyuki会話) 2014年4月21日 (月) 13:02 (UTC)
こんなテンプレートがあったんですか・・・。確かにファミ通誌上でランキングって結構ゲームをしている方々から見れば参考になる数値としてみれると思います。が、週間ランキングは事典としてテンプレートとして表示させとく意味合いがあるのか・・・ちょっと疑問です。プロジェクト:コンピュータゲームあたりに告知して他の意見も募集したほうがいいかもしれないですね。--アルトクール(/) 2014年4月21日 (月) 13:17 (UTC)
私が前半で言いたかったのは、音楽業界でテンプレートがあるのなら、ゲーム業界だってあってもいいんじゃないの、という話が出てくるという意味です。少なくとも需要があるから、週間ランキングが続いているわけであるし。個人的にはどっちでもいいんですが、「1位だけを売上本数も書かずに並べることに意味があるのかという疑問」を理由に挙げるのは違和感がありました。まあ、他の方は疑問だと思っているのですから、それ以上議論する気はありませんが。--Floter会話) 2014年4月21日 (月) 13:41 (UTC)

NHK連続テレビ小説「花子とアン」と小説『赤毛のアン』の関連性の記述に関して[編集]

件名にもありますように、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン‎」と、小説『赤毛のアン』の関連性の記述についてお尋ねします。

制作者側の意図が確認できる出典なしに、ドラマの内容と小説の類似点を書かれた方がおられます。こちらの差分中、最後列の「はなが奉公することになっていた材木問屋が〜」の箇所です。これを、私が「独自研究」として除去しましたところ[8]、相手ユーザーさんから「あなたの個人的見解でしょう」と言われ、更に小説からの出典を付けているので「独自研究」ではないと仰られました。

確かに制作者側は今回のドラマを、小説『赤毛のアン』のシーンがちりばめられたストーリーとしていますが[1]、他にもドラマの原案としている作品もありますし、制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述することは「独自研究」にあたると思いますが、皆様はどうお考えでしょうか。

第三者の方々のご意見も伺ってみたいと思い、質問をさせて頂きました。どうぞよろしくお願いします。--MEGEVAND (会話) 2014年4月21日 (月) 00:52 (UTC)

  1. ^ NHKドラマスタッフブログより
  • コメントまずは、ウィキペディア日本語版の重要な方針である「Wikipedia:Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」を案内しましょう。そのような方針が存在していること、独自研究というのは、この方針で説明されている意味において、用いられているのだということを説明してあげてください。
制作者側が意図的にドラマと小説を関連付けた部分であることを確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述することは、「発表済みの情報の合成」ではありますが、「制作者側は今回のドラマを、小説『赤毛のアン』のシーンがちりばめられたストーリーとしています」ということなら、それは「特定の観点を推進する」わけではありません。小説は検証可能ですし、ドラマのストーリーも多少は検証できるでしょうから、それらから常識的に類似している部分であれば、それを類似性を示すものとして例示することまでは否定されないと思いますが、せいぜい一つか二つであり、列挙したり、類似性の分析をする場所ではないと考えます。可能なら、製作者側から、例示がなされているエピソードを使うのがよいでしょう。--Ks aka 98会話) 2014年4月21日 (月) 02:25 (UTC)
  • まずはコメントありがとうございます。小説を読んで検証可能だと仰っておられますが、まだ疑問を感じます。今回の記述は、「野良仕事の働き手は女の子ではなく男の子」という小説の設定と、ドラマ内で女の子の主人公ではなく兄が奉公にいくシーンが結びつけられています。関連性や類似性はあると感じられるが、ドラマの設定が「たまたま小説と似てしまった」のかもしれませんし、制作者が意図してそのようにしたのかもしれません。その答えを知っているのは、制作者だけです。はっきりとした制作者側の「赤毛のアンの〇〇の具体的なシーンをちりばめよう」という意図が確認できないのであれば、このシーンに対して「特定の観点」、つまり制作者が関連性を持たせた、という考えを示すことになると思いますが、如何でしょうか。なお、制作側からのこうした関連性の発表は、Ks aka 98さんが数としてだされているように2つ3つ既にあります。--MEGEVAND (会話) 2014年4月21日 (月) 03:46 (UTC)
  • 「今回の記述」がどうなのか、どのエピソードが製作者の意図であるものとして公開されているかどうか、どれを例示するのが最善かどうかといった点については、ノートで対話されるのがよいと思います。
「様々な仕掛けがあって、『赤毛のアン』に登場するエピソードもドラマの中に散りばめられている」とスタッフのブログにあるのですから、制作者側の「赤毛のアンの〇〇の具体的なシーンをちりばめよう」という意図ははっきりと確認できています。
それぞれの背景について多少の知識を持ち、常識的な判断力を持つ人なら、小説とドラマを両方確認し、「赤毛のアンに登場するエピソード」と、「ドラマ中のエピソード」が十分類似しており、たまたま重なったありふれたエピソードではないものだと受け取ることが自然なものだと考えられるということが、複数の人によって確認されたならば、そのドラマのエピソードは「散りばめられたエピソード」なのだと推論できます。批判的な記述や、製作者ほかに偏ったイメージを与えかねないエピソードであれば別ですが、常識的な推論を排除するべきではありません。「特定のシーンについて制作者が関連性を持たせた」というのが、多くの人に受け入れられる合理的な推論であるなら、それは「特定の観点」ではありません。「そのシーンは関連性がない」という意見があるのに、関連性を持たせたとするなら、特定の観点を推進しています。
ただし、「私(=アン)がクラスメイトのギルバートに名前の事でからかわれて石板でぶつ場面」については、製作者の意図として、『赤毛のアン』に登場するエピソードをちりばめたものの一つである、ドラマ中のエピソードだということが、スタッフによって認められているということが確認できます。ここでは、常識的な推論すら必要なく、単に書かれていることの確認によって、エピソードの関連性を示すことができます。このため、こちらのほうが、より適切に情報源を使った記述と言えるでしょう。このようなエピソードがいくつかあるのなら、例示するエピソードとして、それ以外の、推論を必要とするエピソードを用いる必要は、通常はないと考えられるでしょう。--Ks aka 98会話) 2014年4月21日 (月) 13:18 (UTC)
  • スタッフの意図が認められるものがあれば、それが一番エピソードの関連性を示すのに適切であることは分かりました。ちなみに、現在の記述はそういう類のものだけになっております。
  • それでもやっぱり解せないのは、スタッフの意図が認められないものであっても、編集者だけの常識的な推論から、ドラマの特定の場面と小説の特定の場面を結びつけても良いというKs aka 98さんのコメントです(読み違いをしていたらすみません)。確かに設定として「小説のセピソードがちりばめられて」います。編集者間だけで、偶然ではない、ありきたりの場面ではないという結論がでたとしても、それはWikipediaの編集者がおこなった独自研究になるのではないかと思うのですが、、、。私の頭が堅いだけですか?
  • 話題になって誰かに書かれるのを待つ、という手もありますよね。小説とドラマの関連性が社会的に話題になるのであれば、メディアや公式本などでそういうことを書く文化人も出てくるでしょうから、そういうものを出典としていくつかを紹介するというのも良いと思います。現に、「石版でぶつ」の記述では、そうした二次資料も出典にしてあります。これでしたら、Wikipedia編集者の独自研究ではなくなります。--MEGEVAND (会話) 2014年4月22日 (火) 20:17 (UTC)

赤毛のアンでは、女の子ではなく男の子を希望していた(つまり望まれていない子だった)というのはこの物語の重要な点であって、花子とアンにもその共通のシーンがあり、かつ製作者側から元ネタが赤毛のアンですよと宣伝されているのなら、そんなに目くじらを立てる必要がないと思います。キッパリと独自研究というよりは、むしろ編集者の裁量の範囲(つまり多様性を)超えるものではないと思いますよ。--Gyulfox会話) 2014年4月23日 (水) 03:37 (UTC)

スタブリンクとして表示する閾値[編集]

ログインユーザーの個人設定 - 表示のところに表題の設定項目があります。だいぶ前に井戸端かどこかで見た話をもとに、この閾値を手入力で「1000000」に設定して、リダイレクトを簡単に判別していたのですが、最近はプルダウンから選択する方式に変わったようです。先日個人設定の通知の部分を一部変更して保存したところ、おそらく同時に閾値のプルダウンが「無効」にセットされ、リダイレクトの判別ができなくなってしまいました。ならば変更しなくてはと閾値の部分を見てみたところ、プルダウンの選択肢の最大値は「10000」であり、ひとまず「10000」にセットしましたが、、リンクの色は青と茶色が入り混じっていて、事実上リダイレクトの判別ができません。Wikipedia:スタブ#スタブを見つける方法にも「500K」(=「500000」)にすれば判別できると書いてありますが、現在は設定できない方法が説明されていることになります。なにか対策する方法はありませんか?--デニー・ウォーア会話) 2014年4月21日 (月) 15:28 (UTC)

情報 現在、リンク先がリダイレクトになっている場合には mw-redirect クラスが付いています(例: 薔薇展開結果)。これを用いて、カスタムCSSなどで、リダイレクト用のスタイルを指定する事ができます。--Frozen-mikan会話) 2014年4月21日 (月) 16:06 (UTC)
ありがとうございます。初見ではクラスとか展開結果とかカスタムCSSとか、なんのことやらという感じでしたが、読み進めて少しわかりました。カスタムCSSに「mw-redirect クラス」を条件としてなにか設定してやればよい、ということでしょうか。具体的にどのように設定すればよいのかまでは、まだわかっていませんが…。ちなみにカスタムCSSは赤リンクです…。--デニー・ウォーア会話) 2014年4月22日 (火) 14:47 (UTC)