ドイツ国防軍

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ドイツ国防軍
Balkenkreuz.svg
国防軍の紋章である鉄十字
創設 1935年
国籍 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
忠誠 アドルフ・ヒトラー
規模 318万人(1939年)
命名 アドルフ・ヒトラー
主な戦歴 第二次世界大戦
指揮
著名な司令官 アドルフ・ヒトラーゲルト・フォン・ルントシュテットヴィルヘルム・カイテル
ヘルメットデカールされていた紋章
1941年、国防軍の陸軍歩兵下士官

ドイツ国防軍(ドイツこくぼうぐん、ドイツ語: Wehrmacht)は、1935年から1945年にかけて存在したドイツの武力組織である陸軍海軍空軍の三軍の総体を指す。国家唯一の武装者(独:Waffenträger der Nation)と定義される存在であったが、当時のドイツには武装親衛隊など管轄外の武装組織も存在していた。

1935年の再軍備宣言後は徴兵制が復活し総兵力が50万人になり、ポーランド侵攻直前の兵力は318万人と世界でも屈指の規模であった[1]

経緯[編集]

第一次世界大戦に敗北した後ヴェルサイユ条約の軍備制限条項によりドイツの軍隊は陸軍兵力を10万人に限定され、参謀本部陸軍大学校陸軍士官学校戦車部隊、重火器は禁止された。海軍兵力は1万5000人、戦艦6隻、巡洋艦6隻および駆逐艦12隻の保有のみが認められた。また、航空戦力の保持は禁止された。義務兵役制度も廃止された。軍を離れねばならなかった旧軍人は巷に溢れ、社会的に不安定な要素となった。

存続した陸海軍は、皇帝ではなく、国家と憲法に忠誠を誓う Reichswehr と改名。あえて訳せば「国家防衛軍」である。日本語ではドイツ語の「Reichswehr」と「Wehrmacht」のニュアンスの違いを表現できないことから、ヴァイマル共和国時代の軍隊である点を強調して「ヴァイマル共和国軍」と訳し分けることもある。1920年に陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任したハンス・フォン・ゼークトは軍の政治的中立に重点を置き、軍の充実を図った。

しかし、連合国から課せられた膨大な賠償金や一方的な軍備制限、ポーランドへの領土の割譲等のヴェルサイユ条約への軍上層部の反発は大きく、参謀本部機能を「兵務局」の名称に隠して存続させ、将来の拡充を見越して、下士官将校レベルの教育を行い、赤軍の協力を得てソ連国内で秘密裏に航空機戦車化学戦等の訓練施設を設け、将来の再軍備への準備を怠らなかった。事実、ヒトラーヴェルサイユ条約軍備制限条項を破棄し再軍備を宣言した時、短期間のうちに50万人から成る36個師団の陸軍ならびに空軍を保有することができた。

一般的にはヒトラーの首相就任後急激に再軍備を開始したという見方が強いが、安全保障を損なうことは出来ないと考えたヴァイマル政府は戦闘機を旅客機、戦車を農業用トラクターと称し、郵便配達人の自衛用との名目で小銃を開発するなど、あの手この手で軍備を整え技術を高めていった。この結果世界初のジェット戦闘機メッサーシュミットMe262、アサルトライフルの始祖StG44 (突撃銃)、初のミサイル兵器V2ロケットなど当時としては画期的な兵器が数多く生み出されることとなる。

国防軍の発足[編集]

1935年3月16日にヴェルサイユ条約軍備制限条項の破棄(再軍備)が宣言されると、軍はReichswehr(ライヒスヴェア)からWehrmacht(ヴェアマハト)と改名される。陸軍、海軍の名称も下記のように改名された。

  • 陸軍 Reichsheer(ライヒスヘーア)から Heer(へーア)
  • 海軍 Reichsmarine(ライヒスマリーネ)から Kriegsmarine(クリークスマリーネ)
  • 空軍 Reichsluftwaffe(ライヒスルフトヴァッフェ)(一般には短縮されて Luftwaffe(ルフトヴァッフェ))

三軍の最高機関としては陸軍総司令部(OKH)、海軍総司令部(OKM)、空軍総司令部(OKL)が設置され、それぞれに総司令官が置かれた。また陸軍の参謀本部も兵務局から改称して復活した。さらに5月21日には所轄官庁である国軍省ドイツ語版は戦争省(Reichskriegsministerium)と改称されている。

国防軍再編成[編集]

1935年5月21日に全38条からなる兵役法が施行される[2]

  • 第一条
    • 一、兵役はドイツ民族に対する名誉ある勤務である。
    • 二、すべてのドイツ男子は、兵役の義務を負う。
    • 三、戦時においては、兵役の義務を超越して、すべてのドイツ男子と、すべてのドイツ女子は、祖国のための勤務について義務を負う。
  • 第二条
    • 国防軍は武器を執って防衛するものであると共に、ドイツ民族に向かって、軍隊的な教育を施すべき学校である。国防軍は、陸軍、海軍および空軍より成る。
  • 第三条
    • 一、国防軍の最高指揮者は指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)である。
    • 二、国防大臣はその下にあって、国防軍の高級指揮者として、国防軍に向かって指揮権を発動する。

忠誠宣誓[編集]

ドイツ軍の伝統には、忠誠対象を明らかにする忠誠宣誓が存在した。ヴァイマル時代には国家と憲法に対して忠誠を誓うものであった。しかしヒトラーが首相となると民族と祖国に忠誠を誓うものとなり、国防軍の成立直前にはドイツ国と民族の指導者であり、同時に国防軍最高司令官であるアドルフ・ヒトラー(Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, der Oberbefehlshaber der Wehrmacht)個人に忠誠を誓うように変更された。

主権紋章[編集]

1935年5月1日国防軍は軍帽軍服右胸ポケットの上に主権紋章を表示する事が決められる。軍帽の正章はドイツの国旗色である「赤、白、黒」(現在のものとは異なり、帝政当時の彩色)を円形に象っている。ドイツ陸軍ドイツ海軍ではその周りをそれぞれ銀と金のオークの葉で囲んでおり、ドイツ空軍は周りを羽で象っている。

正章の上につくハーケンクロイツを掴む「」の意匠は、陸軍、海軍、武装親衛隊、空軍それぞれ若干異なっている。羽を広げた鷲の紋章ローマ帝国以来、神聖ローマ帝国、現在のドイツに至るまで国章でもある。

国防軍最高指揮権[編集]

ヴァイマル共和国時代から軍隊の最高指揮権は国家元首大統領に所在し、国防大臣に権限を委託する形式であった。ヒンデンブルク大統領が死去した後、ヒトラーはその権限を受け継いだ。1938年、ヒトラーの戦争政策に反対する戦争大臣ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将にスキャンダルをでっちあげ、失脚させた(ブロンベルク罷免事件)。ヒトラーは後継の戦争大臣を指名せず、新たにヴィルヘルム・カイテルを総長とする国防軍最高司令部を設け、自らはその最高司令官に就任することで国防軍三軍を直接指揮する仕組みを作った。その後の国防軍の多くはヒトラーの政策に表立って反対することはなく、1939年のポーランド侵攻までの外交政策はおおむね国防軍も同意していた。

第二次世界大戦[編集]

開戦から1941年頃までは優れた戦術と戦略で連合国を圧倒したが、1941年6月の独ソ戦開始以降、厳しい気候と赤軍の粘り強い抵抗によって次第に消耗していった。1941年の冬に陸軍参謀本部と司令部は後退を求めるようになり、退却を許さないヒトラーと対立した。この時にはヒトラーの判断が功を奏して戦線崩壊を免れたが、ヒトラーに反対した陸軍総司令官や参謀総長、多くの将軍が更迭された。ヒトラーは自ら陸軍総司令官を兼任し、独ソ戦の指揮に強く介入するようになった。1942年のブラウ作戦はヒトラーが自ら大綱を書き上げたものであったが、攻勢は不十分に終わり、スターリングラード攻防戦では大きな損害を出した。

陸軍元参謀総長ルートヴィヒ・ベック将軍らは戦前から反ヒトラーグループを形成しており、何度もヒトラー暗殺を計画していた。1944年7月20日、総統大本営においてヒトラー暗殺計画とそれにともなうクーデターを実行しようとした。しかしヒトラー暗殺には失敗し、ベックらのクーデターの呼びかけに多くの国防軍軍人は従わなかった。しかし事件後には親衛隊の追求が国防軍上層部にもおよび、エルヴィン・ロンメル元帥らといった国防軍軍人が粛清された。その後連合国の反攻によっていよいよ損害を重ね、1945年5月8日、国防軍最高司令部総長カイテルが降伏文書に署名した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦))。

ニュルンベルク裁判ではナチ党指導部、親衛隊等とは異なり、犯罪組織としての認定は行われなかった。1946年8月20日、連合国管理理事会英語版が発出した連合国管理理事会命令ドイツ語版34号によって国防軍は正式に解体された。

国防軍無罪論[編集]

国防軍無罪論とはドイツにおける、いわゆる「国防軍神話」の一角を成しており「ドイツ国防軍は国家元首であるヒトラーの命令に従っただけで、戦争に関する責任は無い」とするものである。 これはモスクワの戦いまで陸軍最高司令官を務めていたヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥が他の四名の将軍と連名で、降伏後にニュルンベルク裁判に提出した国防軍の役割を示した覚書にその源がある。 そこではドイツ国防軍は非政治的なヒトラーの道具に過ぎず、あくまでも国家元首に服従しただけであり、またユダヤ人やスラブ人に対する残虐行為はあくまでもナチ親衛隊によって行われたもので、ドイツ国防軍は通常の戦争を行ったに過ぎないとして、ナチズム体制と国防軍を明確に分離していた。

その後、50年代に同様の認識を示すエーリヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グデーリアンの回想がドイツで出版される事でこのイメージは補強され、海外でもベイジル・リデル=ハートが「(国防軍は)ゲシュタポや親衛隊の犯罪行為とは無縁であった」という見方を著している。また東西ドイツにおける再軍備による旧国防軍将校のドイツ連邦軍(西ドイツ軍)および国家人民軍(東ドイツ軍)への復権がそれに輪をかける事となった。これはハリウッドの戦争映画で描かれた国防軍人のイメージも影響しているとの見方もある。この種の映画では国防軍は清廉な軍人もしくは内心でヒトラー・ナチスに反感を持つ人物として描かれる一方、ナチや親衛隊は狂信的で冷酷な人物・集団とされる。

実際には国防軍も親衛隊ほどではないがにホロコーストに関わり、戦争犯罪も犯している。近年のドイツでは国防軍の犯罪にも目が向けられつつある一方で、退役軍人を中心にこうした動きに反対する意見もある。しかしながら国防軍にはブロンベルクによる「ナチ化」を経た後も、ヒトラーへの忠誠から距離を置こうとする純粋な軍人が少なからずいたことは確かである。

文献[編集]

  • 濱田常二良(著)、『独逸軍部論』、昭和刊行会、1943年
  • アラン・ブロー(著)、『鷲の紋章学』、村松 剛訳、平凡社、1994年、ISBN 4-582-48210-4

脚注[編集]

  1. ^ 【歴史群像】欧州戦史シリーズvol.ポーランド電撃戦
  2. ^ ドイツ兵役法(ドイツ語原文)documentarchiv.de

関連項目[編集]

外部リンク[編集]