バルト連合公国

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バルト連合公国
Vereinigtes Baltisches Herzogtum
クールラント・ゼムガレン公国 (1918)
ドイツ東部占領地域
1918年 - 1918年 ラトビア社会主義ソビエト共和国
ラトヴィア
バルト連合の国旗 バルト連合の国章
(国旗) (国章)
バルト連合の位置
1917年のロシア革命前のロシア帝国のクールラント行政区域、リヴォニア行政区域、エストニア行政区域。これらの地域に政府をしこうとした。
公用語 ドイツ語
首都 リガ
公爵
1918 - 1918 メクレンブルク=シュヴェリーン公爵アドルフ・フリードリヒ
変遷
建国 1918年
ブレストリトフスク条約 1918年3月3日
ドイツ革命 1918年11月9日
廃止 1918年
通貨 パピエルマルク

バルト連合公国:Vereinigtes Baltisches Herzogtum[1]は、バルト海沿岸諸国に構想された国家。大リヴォニア公国としても知られる[2]

ロシア帝国崩壊後、ドイツがクールラントを占領した際に、ロシア帝国のリヴォニアエストニアの行政区域のドイツ系バルト人の貴族階級[3]が構想した。

この構想は第一次世界大戦が終結する前にリヴォニア近郊を覆っていたドイツ帝国下のプロイセン王[4]と私的なつながりのあるクールラント公爵、エストニア公爵、リヴォニアが団結する構想を含んでいる。

なお、提案はあり、国家として独立したが、他国に認められることはなかった。実際に建国されていたらドイツの従属国か傀儡政権になっていたと考えられる。

歴史的背景[編集]

第一次世界大戦の間、1915年の秋、ドイツ陸軍はロシア帝国クールラント行政区域を占領した。独露戦線はリガデューナブルクバラーノヴィチ近郊にまで押し込まれていた。ロシアで二月革命が起きると、バルト地域で独立活動が活発化するようになった。

1917年4月12日にロシアのエストニア行政区域リヴォニア行政区域からエストニア自治政府が作られた。十月革命の後の1917年11月28日、選挙されたエストニア地域集会は自ら独立能力があることを言明した。そしてドイツ軍到着から一日置いて1918年2月24日にエストニアは独立宣言を発表した。連合国はエストニアの独立の事実を1918年5月に記録している。[5]

ラトビアの地域議会は1917年11月16日に公表された。1917年11月30日に議会は民族学上の国境に基づいて自治ラトビア地区を設定し、1918年1月15日には正式にラトビア共和国の独立を宣言していた。[5]

一方、ロシア革命の後、ドイツ軍は占領していたクールラントからロシアへ進軍を開始、1918年の2月の終わりにはドイツの軍事支配がリヴォニアと独立を宣言したエストニア自治政府を含むバルト地域を覆っていった。1918年の3月3日に行われたブレスト=リトフスク条約によって、ソビエト・ロシアはクールラント行政区域の失落を許可し、エストニアとリヴォニアの自治をドイツに与える合意が同年8月27日ベルリンで結ばれた。[5]これによってドイツ軍はラトヴィアに進軍した。

バルト連合公国の試案[編集]

ドイツ軍の占領下の政治運動と平行して、1917年の9月から1918年の3月までにバルト・ドイツ人は地方議会を作っていた。1918年の4月12日に、地域議会は35人のバルト・ドイツ人、13人のエストニア人、11人のラトビア人によって構成され、ドイツ皇帝がバルト海の地域を君主制国家であると認め、ドイツの保護国にするように求めた決議を可決した。[6]

1918年の3月8日と4月12日に、地域のバルト・ドイツ人が優位に立っていたクールラント地域委員会(Kurländische Landesrat)とリーフラント、エストラント、リガ、エーゼル、連合地域委員会(Livland, Estland, Riga, Ösel, Vereinigter Landesrat)は各々の国家であるクールラント公国Herzogtum Kurland)とバルト国家(Baltischer Staat[7]の独立を宣言した。両国はプロイセン王国と個々のつながりがあると公表したが、これについてはドイツ政府は承諾に応じなかった。

バルト地域は、ソビエト・ロシアがブレスト=リトフクス条約でバルト沿海諸州の権益を全て放棄した半年後に、名目上ヴィルヘルム2世に主権国家として承認されている。

1918年の11月5日にはアードルフ・ピラル・フォン・ピルヒャウAdolf Pilar von Pilchau)男爵に率いられる新国家の臨時摂政議会が2つの地域国家議会を基礎にして形成された。

新国家の首都はリガとされた。この国家はクールラントKurland)、リガ(Riga)、レトガレン(Lettgallen、ラトガリ)、南リーフラント(Südlivland、南リヴォニア)、北リーフラント(Nordlivland、北リヴォニア)、エーゼル(Öselサーレマー島)、エストラント(Estland、エストニア)7つの州(cantons)による連合国家とされた。このうちクールラント、リガ、レトガレン、南リーフラントが現在のラトビアにあたり、残りの北リーフラント、エーゼル、エストラントが現在のエストニアに一致する。

“Poland & The New Baltic States”(ポーランドと新しいバルト国家)の地図。1920年の英国の世界地図。ブレスト=リトフスク条約とリガ平和条約の後の国境の画定していない状況が現れている。バルト連合公国の構想は現在のラトヴィアとエストニアにまたがるオレンジ色の地域に考えられたものであり、中世のリヴォニア同盟であるテラ・マリアナの地域に建国しようと考えられた。

バルト連合公国の初代元首には君主としてメクレンブルク=シュヴェリーン公爵アドルフ・フリードリヒが選ばれた。しかし、主権のある君主ではなく、ドイツ皇帝の下位におかれており、他のドイツ帝国の大公や公爵のような扱いにされた。しかしアドルフ・フリードリヒはこの座につく事はなかった。4人のバルト・ドイツ人、3人のエストニア人、3人のラトヴィア人からなる摂政議会は1918年11月28日まで機能した。しかし、ドイツを除いて国際社会から認識されることはなかった。

1918年10月にはドイツ帝国宰相であったマクシミリアン・フォン・バーデンはバルト諸国に対する軍政を解き、市民に戻すべきと提案している。この新しい政策はドイツ外務省からバルト海軍政部に電報によって提示された。内容は以下のようなものである。

帝国政府はバルト諸国における政策の基本変化を満場一致で採択した。即ち、最初の政策例はバルト沿海諸民族と共に作るべきである。[5]

エストニア・ラトヴィア独立[編集]

1918年11月18日、ラトビアはドイツからの独立を宣言した。またエストニアでは、次の日にドイツ軍政部からエストニア自治政府首脳コンスタンティン・ペッツKonstantin Päts)に主権を移動した。ドイツは1918年12月7日に主権を正式にカールリス・ウルマニスKārlis Ulmanis)が代表するラトビア政府に譲渡した。[5]

しかし、この地域にいた軍政部はこれを認めなかった。軍政部のリューディガー・フォン・デア・ゴルツRüdiger von der Goltz)将軍はドイツ本国の命令には従わずに占領を続けた。

バルト連合公国が国家防衛軍として編成した軍はバルト防衛軍(Baltische Landeswehr)と呼ばれていた。バルト防衛軍の指揮をとっていたのは、バルト・ドイツ人地主の後援で男爵となっていた、アルフレート・フレッチャーAlfred Fletcher)少佐である。彼は元から住んでいたラトビア人要員の解散を始め、その後にバルト・ドイツ人とドイツ帝国軍を配置し始めた。司令官の位置は一斉にドイツ人に変えられていった。

Robert G.L. Waiteによって書かれた『ナチズムの前衛:戦後ドイツにおけるフライコーアの活動、1918-1923』には、アルフレート・フレッチャー少佐の事が記述されており、「1919年2月の半ばには、軍に加わっているラトビア人は軍全体の1/5より少なかった」と記している。ラトビア独立後、統治を続けるゴルツ将軍の軍による軍事的圧力から英軍が退却すると、ロシア白軍の軍部隊とドイツ義勇軍は東に進軍し、1919年5月22日にはリガを占領した。リガ占領後、ドイツ義勇軍はミタウ(現イェルガヴァ)近郊で300人、トゥクム(現トゥクムス)で200人、デューナミュンデ(現ダウガフリヴァ)で125人、リガで3000人以上のラトビア人を殺害したと告発されている。

リガの占領後の1919年6月、連合国の予測通りに、ゴルツ将軍は部隊に東進を行わないように命令し、北のエストニアに向かって軍を進め、占領するように命令を出した。6月19日には鉄師団と陸軍部隊はヴェンデン(現ツェーシス)近郊を攻撃占領するために動き始めた。バルト防衛軍はペトログラード攻撃の下準備として、エストニア海岸線に沿って攻撃を続けた。しかしながらバルト防衛軍はエルンスト・ポーデルErnst Põdder)率いる北ラトビア師団と第3エストニア人師団と遭遇し1919年の6月19日から23日にかけて行われたツェーシスの戦いで敗北した。

6月23日の朝、ドイツはほとんどの軍がリガに向けて退却を始めた。連合国は再度ドイツは軍をラトビアから撤退させるようにと求め、エストニアがリガへと進軍していたため、これに干渉してエストニアとドイツ義勇軍の停戦を課した。同時に、連合国はヒューバート・デ・ラ・ペル・ガフHubert de la Poer Gough)伯爵将軍の元にいた英軍の作戦をくみ上げ、この軍はバルト諸国に存在するドイツ軍を掃討しに向かった。また、バルト諸国のためにバルト諸国の住民による軍を編成した。

第一次大戦にドイツが敗北したのは1918年の11月であった。第3エストニア師団と北ラトビア旅団によってゴルツ大将のバルト防衛軍とドイツ義勇軍が敗北した結果、バルト連合公国の構想は最終的に放棄された。

その後[編集]

ラトビアの統制が戻り、安定すると、バルト地域のドイツ軍は英国の権力の下に置かれるようになった。1919年7月半ばにはバルト・ドイツ軍の統帥権を引き取り、ハロルド・アレクサンダー中佐はバルト・ドイツの軍を徐々に解体していった。

エストニアラトビアは独立し、共和国として生き残ることになった。その後この構想が再度提唱されることはなかった。

外部リンク[編集]

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関連項目[編集]