ドイツ帝国

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ドイツ帝国
Deutsches Reich




1871年 - 1918年
国旗 国章
国旗 国章
国の標語 : Gott mit Uns
ドイツ語 : 神は我らと共に
国歌 : 皇帝陛下万歳 (非公式)
ドイツの位置
第一次世界大戦前の1914年のドイツ帝国の領域
公用語 ドイツ語
首都 ベルリン
皇帝
1871年1月18日 - 1888年3月9日 ヴィルヘルム1世
1888年3月9日 - 1888年6月15日 フリードリヒ3世
1888年6月15日 - 1918年11月9日 ヴィルヘルム2世
帝国宰相
1871年3月21日 - 1890年3月20日 オットー・フォン・ビスマルク(初代)
1918年11月8日 - 1918年11月9日 フリードリヒ・エーベルト(最後)
面積
1910年 540,857.54km²
人口
1871年 41,058,792人
1890年 49,428,470人
1910年 64,925,993人
変遷
ドイツ統一 1871年1月18日
共和国宣言 1918年11月9日
正式に消滅 1918年11月28日
通貨 ゲルトマルク(1914年以前)
パピエルマルク(1914年以降)
先代 次代
北ドイツ連邦
バイエルン王国
ヴュルテンベルク王国
バーデン大公国
ヘッセン大公国
ヴァイマル共和国
アルザス=ロレーヌ共和国
自由都市ダンツィヒ
ポーランド共和国
リトアニア共和国
ザール盆地地域
チェコスロバキア共和国
デンマーク王国

ドイツ帝国Deutsches Kaiserreich ドイチェス・カイザーライヒ)は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。帝国そのものは法律上君主国ではなかったが、皇帝が絶大な権限を有し、現在のドイツ連邦共和国の領域の他、フランスポーランドの一部、アフリカのナミビア他海外植民地を統治していた。

この国は普仏戦争勝利の勢いのままに、1871年パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で行われたプロイセンヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式に始まった。そして、第一次世界大戦の敗北とドイツ革命の勃発による、1918年11月の第3代皇帝ヴィルヘルム2世のオランダ亡命によって終わった。

正式な国名は、ドイツ語ではドイツ革命などの国家体制の変遷によるReich(ライヒ)の邦訳の変遷に関らず一貫して「ドイツ国 」(Deutsches Reich) である。これは「ドイツ共和国」とも邦訳されるヴァイマル共和国1918年 - 1933年)、「ナチス・ドイツ」(1933年 - 1945年)の時代を通じて変わらなかった。そのため、この時代だけを区別する場合は皇帝を意味するKaiserをつけてDeutsches Kaiserreichと呼ぶ。

目次

[編集] 歴史

[編集] 成立以前

1871年 - 1918年のドイツ

ドイツの統一までの経緯については「ドイツ統一」を参照

1862年オットー・フォン・ビスマルクプロイセン王国の首相となった。そして、オーストリア帝国と同盟し、デンマークと戦争を行った(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)結果、デンマーク統治下にあったシュレスーヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をオーストリアとの共同管理とした。

その後1866年普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、オーストリアをドイツ人国家の枠組みから追放した。1870年には普仏戦争ナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここに帝政ドイツが成立した。

またこの際に、長年フランスとの間で帰属が変遷していたエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を獲得した。

[編集] 複雑な同盟関係の完成

ビスマルクは、普仏戦争に敗れたフランスの対独復讐を封じるために、列強と複雑な同盟関係を築き上げてフランスを孤立化させる外交政策を取った。これをビスマルク体制と呼ぶ。

当時イギリス帝国とは特に対立も無く、充分に国力があったイギリスは同盟には加わらなかった(栄光ある孤立)。一方、フランスは孤立化してしまう。

海外植民地として南西アフリカ(現ナミビア)、東アフリカ(現タンザニアルワンダブルンジ)、カメルーントーゴ南洋諸島ニューギニア北東部および付近の島嶼(ビスマーク諸島)、サモア中国山東半島などを獲得した(ドイツ植民地帝国)。

[編集] 世界政策

ドイツ帝国の海外植民地

1888年に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクと対立、1890年にビスマルクを引退させる。親政を開始したヴィルヘルム2世は積極的に帝国主義政策を実行し、モロッコ事件を引き起こすなど列強間の対立をいたずらにあおった。

そのため、イギリス帝国との対立、ロシア帝国との対立、ロシア帝国のフランス接近、などの問題を生み、最終的にビスマルク体制が破綻したまま第一次世界大戦に突入することになる。

[編集] 帝政の崩壊

1914年当時のヨーロッパ

1914年第一次世界大戦が勃発すると、ヴィルヘルム2世の考えのもと、ドイツはオーストリアとの同盟を履行し、フランスに宣戦布告した。同時にシュリーフェン・プランの構想に基づいてベルギーオランダに侵入した。しかし、これによりイギリスの対独参戦を招いた。その後、ヴィルヘルム2世の指導力は軍部に削られていく。

1918年、第一次世界大戦の敗戦とともにドイツ革命が起きて帝政は倒れ、ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命し、後に「ヴァイマル共和国」と呼ばれる共和制へと移行した。

[編集] ドイツ皇帝一覧

ヴェルサイユ宮殿、鏡の間にて戴冠するヴィルヘルム1世。中央の白い服の人物はビスマルク

ホーエンツォレルン家の3代のドイツ皇帝はプロイセン王を兼ねていた。しかし、初代ヴィルヘルム1世以外はプロイセン王を名乗ることがほとんどなかった。

  • ヴィルヘルム1世(在位:1871年 - 1888年) - 剛直な武断派で、自由主義者を弾圧して「榴弾王子」と呼ばれたが、即位後はビスマルクを宰相とし、穏健な保守派と協力して「上からの」ドイツ統一を達成した。しかし、実際にはドイツ統一後のプロイセン王国の衰退を恐れていたため、ドイツ統一に対してはあまり積極的ではなかった。
  • フリードリヒ3世(在位:1888年) - 自由主義者で国民には「我らがフリッツ」と呼ばれて親しまれたが、父ヴィルヘルム1世とビスマルクには疎んじられ、政治的影響力を持つことはなかった。在位わずか3ヶ月で崩御したため「百日皇帝」ともあだ名される。
  • ヴィルヘルム2世(在位:1888年 - 1918年) - 「カイゼル髭」で著名。帝国主義的な膨張政策を展開したが、拙劣な外交で列強との対立を招き、ドイツを第一次世界大戦へと導いた。ドイツ革命によって廃位。


[編集] 構成国

ドイツ帝国はプロイセン王国を中心とした連邦国家であった。以下は構成国 (Bundesstaat) のリストである。このうち、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ大公国は、1903年以降、公文書上「ザクセン大公国」(Großherzogtum Sachsen) と表記されるようになった。

表中の「議席」とは連邦参議院における各構成国の議席数(1918年時点)を指す。なお、フランスから割譲された帝国直轄州エルザス=ロートリンゲンは1911年まで議席が割り当てられなかった。

構成国 首都 面積 (km²) 議席
王国 (Königreich)
プロイセン
バイエルン
ヴュルテンベルク
ザクセン
ベルリン
ミュンヘン
シュトゥットガルト
ドレスデン
348.702
75.870
19.511
14.992
17
6
4
4
大公国 (Großherzogtum)
バーデン
メクレンブルク=シュヴェリン
ヘッセン
オルデンブルク
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナッハ
メクレンブルク=シュトレリッツ
カールスルーエ
シュヴェリン
ダルムシュタット
オルデンブルク
ヴァイマル
ノイシュトレリッツ
15.067
13.126
7.688
6.428
3.611
2.929
3
2
3
1
1
1
公国 (Herzogtum)
ブラウンシュヴァイク
ザクセン=マイニンゲン
アンハルト
ザクセン=コーブルク=ウント=ゴータ
ザクセン=アルテンブルク
ブラウンシュヴァイク
マイニンゲン
デッサウ
ゴータ
アルテンブルク
3.672
2.468
2.299
1.977
1.323
2
1
1
1
1
侯国 (Fürstentum)
リッペ
ヴァルデック
シュワルツブルク=ルードルシュタット
シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン
ロイス(弟系)
シャウムブルク=リッペ
ロイス(兄系)
デトモルト
バート・アロルゼン
ルードルシュタット
ゾンデルスハウゼン
ゲーラ
ビュッケブルク
グライツ
1.215
1.121
940
862
826
340
316
1
1
1
1
1
1
1
直轄州(Reichsland)
エルザス=ロートリンゲン シュトラースブルク 14.517 3
自由都市 (Freie Stadt)
ハンブルク
リューベック
ブレーメン
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413
297
256
1
1
1
合計 540.766 61


[編集] 関連項目