ナポレオン・ボナパルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナポレオン1世
Napoléon Ier
フランス皇帝

ダヴィッド『アルプス越えのナポレオン』
(実際、絵のような馬(マレンゴ)では寒いアルプスを越えられないためロバに乗っていたといわれており、ポール・ドラロッシュ作の絵ではロバに乗ったナポレオンが描かれている)
在位 1804年3月20日 - 1814年4月6日
1815年3月1日 - 1815年6月22日
戴冠 1804年12月2日
別号 イタリア王
姓名 ナポレオン・ボナパルト
出生 1769年8月15日
コルシカ島アジャクシオ
死去 1821年5月5日(満51歳没)
セントヘレナ
埋葬 1952年2月15日
パリオテル・デ・ザンヴァリッド
皇太子 ナポレオン2世
配偶者 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
マリ・ルイーズ
子女 ナポレオン2世
王朝 ボナパルト朝
父親 シャルル・マリ・ボナパルト
母親 マリア・レティツィア・ボナパルト

ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparte, 1769年8月15日-1821年5月5日)は革命期フランス軍人政治家で、フランス第一帝政皇帝ナポレオン1世Napoleon Ier, 在位1804年-1814年1815年)。音訳漢字表記は拿破崙

革命後のフランスをまとめあげ、帝政を敷き、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争で全ヨーロッパを侵略し、席巻するも敗北し、その後ヨーロッパの秩序はウィーン体制に求められた。当時のイギリスの首相ウィリアム・ピットは、「革命騒ぎの宝くじを最後に引き当てた男」とナポレオンを評した。一方でゲーテは「徳を求めたもののこれを見出せず、権力を掴むに至った」と評している。

今でもフランスを代表する英雄として抜群の知名度を誇る(彼を独裁者とみる向きもあり、反ナポレオン派も少なくないという)。

目次

[編集] 生涯

[編集] 生い立ち

1769年コルシカ島アジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテ(仏語名シャルル・マリ・ボナパルト)と母マリア・レティツィアの間に、夭折した子供を除く8人の子供のうち2番目として生まれた。出生時の名前はナブリオーネ・ブオナパルテコルシカ語: Nabulione Buonaparte)といい、ナブリオーネが、姓をブオナパルテ(Buonaparte)からフランス風のボナパルト(Bonaparte)へと、名をナポレオンへと改称するのはフランスで出世し始めてからのことである。

ブオナパルテ家はイタリアロンバルディア州に起源を持つ古い地主であった。コルシカ島で判事をしていた父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争のコルシカ側指導者となるパスカル・パオリ副官を務めていたが、フランス側に転向し、この事によってフランス貴族と同じ権利を得た。そして身分とフランス本土への足がかりを得て、父カルロはナポレオンとナポレオンの兄ジュゼッペ(仏名ジョゼフ)を連れフランス本土に渡った。

ナポレオンは初め修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、すぐに国費で貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校1779年に入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。1784年パリ陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を使った戦術は後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11ヶ月で必要な課程を修了した事を考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11ヶ月での卒業は開校以来の最短記録であった。

この時期のエピソードとしてクラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話があり、このころから指揮官としての才能があったことが窺える。才覚の片鱗を見せる一方で、幼年時のナポレオンは、読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』に傾倒し、おとなしい性格だったという(コルシカ訛りを聞かれるのが嫌で無口になっていたともいわれる)。

[編集] 軍人ナポレオン

1785年砲兵士官として任官1789年フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていく。そうした中、ナポレオンは1792年に先のコルシカ独立戦争でコルシカ側が敗北したことによりフランス領となっていたコルシカ島に配属されアジャクシオの衛兵隊中佐となるが、英国に逃れているコルシカ側指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、ナポレオンと家族は追放に近い逃避行によってマルセイユに移住することとなった。

マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家のジュリー・クラリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレ・クラリーと恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ポーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエール等の知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。

1793年国民公会の議員の推薦を受け、ナポレオンはフランス軍大尉としてトゥーロンに赴任し、ただちに少佐に任命される。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側(+市民革命の波及を恐れる第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、港町トゥーロンにはイギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御陣を敷いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス革命政府側は、港への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言する。司令官のデュゴミエはこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ(トゥーロン攻囲戦)。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、当時24歳の彼は一挙に少将へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。また国民議会は政府の使節フーゴ・バスバイユが殺された事件をきっかけに教皇領に侵攻する決定を下すが、ナポレオンはこのとき司令官に任じられており戦いでも勝利をおさめた。

1794年に革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったことなどにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの、軍務もはずされ休職状態となってしまった。

しかし1795年パリにおいて王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)が起こり、これに手を焼いた国民公会軍司令官ポール・バラスによってナポレオンは軍に再び登用され、首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとり鎮圧に成功。これによってナポレオンは中将に昇進、国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。

[編集] 若き英雄

近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した
近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した

1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国をまきこんでいく中、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの軍を任されたのである。

ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝、[1]1797年4月にはウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。

オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた[2]

1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦ネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。これを知ったナポレオンは、自軍はエジプトに残したまま側近のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った[3]

フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜を持って迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立。自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこのクーデターが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪で銃殺刑を免れ得ないところであった。

[編集] 統領ナポレオン

ポール・ドラロッシュ『アルプス越えのナポレオン』(手を懐に入れているのは胃痛持ちであったためとされている)
ポール・ドラロッシュ『アルプス越えのナポレオン』(手を懐に入れているのは胃痛持ちであったためとされている)

統領政府の第一統領(第一執政)となり、政権の座に着いたナポレオンであるが内外に問題は山積していた。

第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。まずイタリアの再獲得を目指し、ナポレオンは当時の常識ならば軍は地中海側のルートをとるしかないと思われていたところにアルプス山脈を越えて北イタリアに入る奇策をとった。しかし兵の配置の失敗もありオーストリアの大軍の前に大敗寸前まで追い込まれたが、別働隊の到着で辛くも1800年6月のマレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利した。このときの別働隊の指揮官でありナポレオンの親友であったルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や国内の宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。

ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図った[4]1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった[5]。 教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している[6]。 また、交通網の整備を精力的に推進した。[7]

フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801年教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。

ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。ナポレオン陣営は、相次ぐ暗殺未遂への対抗からより独裁色を強め帝制への道を突き進んで行くことになる。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公の処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。

さらにフランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗し、1802年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和から早くも1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内・国外の情勢の中、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態をおしすすめることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。そして、1804年には、議会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせる皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。

一方、植民地では1801年7月7日に、トゥサン・ルーヴェルチュールサン=ドマングの支配権を確立し、スペイン領サント=ドミンゴに侵攻して全イスパニョーラ島を統一し、さらに自治憲法を制定して黒人奴隷の解放を行っていた。 ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟のルクレール将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦しながらもだまし討ちでトゥーサンを捕え、フランス本国に送り、トゥサンは獄死した。さらに1803年4月アメリカ合衆国ルイジアナ植民地を売却した(ルイジアナ買収)。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、1803年11月にフランス軍は大敗を喫した。

1804年1月1日、ジャン=ジャック・デサリーヌが指導するフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した(ハイチ革命)。

[編集] 皇帝ナポレオン

皇后となるジョゼフィーヌに自ら冠を授けるナポレオン
皇后となるジョゼフィーヌに自ら冠を授けるナポレオン

ナポレオンは、1804年12月2日に即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就いた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面に様々な衝撃を与えた。

その一例として、彼を人民の英雄と期待し「ボナパルト」と言う題名でナポレオンに献呈する予定で交響曲第3番を作曲していたベートーヴェンは、失望してナポレオンへのメッセージを破棄して、曲名も『英雄』に変更したという逸話が伝わっている(当然ながらナポレオンへの曲の献呈も取り止めた)。だが、この逸話が事実であるかどうかについては異説も多い[8]

この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでロシアをのぞく欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。政治の支配のもとに教会をおくという意志のあらわれであった[9]

ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家、官僚、学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。

[編集] 絶頂期

皇帝時代のナポレオン。近衛連隊長の制服を着用している
皇帝時代のナポレオン。近衛連隊長の制服を着用している

1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーヴァーをプロイセンに譲渡するとの約束をした。

1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。尤もナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解される事になったという。

海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲等が取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)は、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。

戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦いアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はポーランドへと逃亡する。こうしてロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは兄ジョゼフナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、西南ドイツ一帯をライン同盟をとしてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は事実上解体した。

並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出して、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落としフランスの市場を広げようと目論んだが、これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。

ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。

1807年2月アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛みわけのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまいさらに多額の賠償金をフランスに支払せることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ公国と、ヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟ジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる(このスウェーデン王家は現在までも続いている)。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。

ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。

[編集] 滅亡へ

1808年5月、ナポレオンはスペインブルボン朝の内紛に介入し、ナポリ王に就けていた兄ジョゼフを今度はスペイン王に就けた。しかしこれに対するスペインの反発は激しく、半島戦争1808年-1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦する(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。ナポレオンが「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語ったとおり、このスペインでの戦役は、ナポレオンの栄光のターニング・ポイントであった。スペインの背後には当然のことながらイギリスもついた。7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。

ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦いではナポレオンが勝利し、5月には2度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れた。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。

この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初ロシア皇女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。

ロシアからの撤退
ロシアからの撤退

大陸封鎖令を出した事でイギリスの物産を受け取れなくなった欧州諸国は経済的に困窮し、しかも世界の工場と呼ばれたイギリスの代わりを重農主義のフランスが務めるのは無理があったので、フランス産業も苦境に陥った。1810年にはロシアが大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。これに対しナポレオンは封鎖令の継続を求めたが、ロシアはこれを拒否。そして1812年、ナポレオンはロシア遠征を決行する(ロシア側では祖国戦争と呼ばれる)。

フランスは、同盟諸国から徴兵した60万という大軍でロシアに侵入したが、兵站を軽視したナポレオン軍は、ロシア軍の広大な国土を活用し徹底した焦土戦術によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落し、モスクワをも大火で焦土とされたことで、ナポレオン軍はとても留まっておられずに総退却となった。冬将軍もロシアに最大限に味方して、数十万のフランス兵がロシアの大地に散った。無事に帰還してこられたものはわずか5千であったという。それに加え、パリではクーデター未遂が起こされる始末であった(首謀者マレー将軍は後に銃殺)。ナポレオンはクーデターの報を聞き、撤退する軍よりも早く帰国する。この途上でナポレオンは、大陸軍の惨状を嘆き、百年前の大北方戦争を思い巡らせ、「余はスウェーデン王カール12世の様にはなりたくない」と洩らしたという。

この大敗を見た各国は一斉に反ナポレオンの行動を取る。初めに動いたのがプロイセンであり、諸国に呼びかけて第六次対仏大同盟を結成する。この同盟には元フランス陸軍将軍でありナポレオンの意向によってスウェーデン王太子に就いていたカール14世ヨハンのスウェーデンも参加していた。ロシア遠征で数十万の兵を失った後に強制的に徴兵された、新米で訓練不足のフランス若年兵たちは「マリー・ルイーズ兵」と陰口を叩かれた。1813年春、それでもナポレオンはプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデン等の同盟軍と、リュッツェンの戦いバウツェンの戦いに勝って休戦にもちこむ。メッテルニヒとの和平交渉が不調に終わった後、秋のライプツィヒの戦いではナポレオン軍は対仏同盟軍に包囲されて大敗し、フランスへ逃げ帰った。

1814年になるとフランスを取り巻く情勢はさらに悪化。フランスの北東にはカール・フィリップゲプハルト・フォン・ブリュッヒャーのオーストリア・プロイセン軍25万、北西にはカール14世のスウェーデン軍16万、南方ではウェリントン公アーサー・ウェルズリー将軍のイギリス軍10万の大軍がフランス国境を固め、大包囲網が完成しつつあった。一方ナポレオンはわずか7万の手勢しかなく絶望的な戦いを強いられた。3月31日にはフランスナポレオン帝国の首都パリが陥落する。ナポレオンは外交によって退位と終戦を目指したが、マルモン元帥らの裏切りによって無条件に退位させられ(4月4日、将軍連の反乱)、4月16日フォンテーヌブロー条約の締結の後、エルバ島の小領主として追放された。この一連の戦争は解放戦争と呼ばれる。

ナポレオンは、ローマ王だった実子ナポレオン2世を後継者としたかったが、同盟国側に認められず、また元フランス軍人であり次期スウェーデン王に推戴されていたカール14世ヨハンもフランス王位を望んだが、フランス側の反発で砕かれ、紆余曲折の末、ブルボン家が後継に選ばれた(王政復古)。

[編集] 百日天下とその後

ナポレオンの墓
ナポレオンの墓

ナポレオン失脚後、ウィーン会議が開かれて欧州をどのようにするかが話し合われていたが、「会議は踊る、されど進まず」の言葉が示すように各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。さらに、フランス王に即位したルイ18世の政治が民衆の不満を買っていた。

1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。ナポレオンは自由主義的な新憲法を発布し、自身に批判的な勢力との妥協を試みた。そして、連合国に講和を提案したが拒否され、結局戦争へと進んでいく。しかし、緒戦では勝利したもののイギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗してナポレオンの復位(百日天下)は幕を閉じることとなる(実際は95日間)。

ナポレオンは再び退位に追い込まれ、アメリカへの亡命も考えたが港の封鎖により断念、最終的にイギリスの軍艦に投降した。彼の処遇をめぐってイギリス政府はウェリントン公の提案を採用し、ナポレオンを大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉した。

ナポレオンはごく少数の随行者とともに島中央のロングウッドの屋敷で生活した。その屋敷の周囲には多くの歩哨が立ち、ナポレオンの行動を監視した。また、乗馬での散歩も制限され、実質的な監禁生活であった。その中でもナポレオンは随行者に口述筆記させた膨大な回想録を残した(ラス・カーズの『セント・ヘレナ覚書』など)。これらは彼の人生のみならず彼の世界観・歴史観・人生観まで網羅したものであり「ナポレオン伝説」の形成に大きく寄与した。

ナポレオンは特に島の総督ハドソン・ロウの無礼な振る舞いに苦しめられた。彼は誇り高いナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼び、腐ったブドウ酒を振舞うなどナポレオンを徹底して愚弄した。また、ナポレオンの体調が悪化していたにもかかわらず主治医を本国に帰国させた。ナポレオンは彼を呪い、「将来、彼の子孫はロウという苗字に赤面することになるだろう」と述べている。

そうした心労も重なってナポレオンの病状は進行し1821年に死去した。彼の遺体は遺言により解剖され、死因としては当時公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘されている(彼の死因をめぐる論議については次項で述べる)。その遺骸は1840年にフランスに返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド廃兵院)に葬られている。

[編集] 死因をめぐる論議

ヒ素中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返した時、その身体が死の直後と変わりなかった事(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)からうかがえる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに行った者がワインに混入した説以外にも、その当時の剥製にはヒ素が使われていて、ナポレオンの部屋にあった剥製のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだ、という説がある。後者については2002年にパリ警視庁・法医学研究所がナポレオンが皇帝時代に採取された彼の髪に対して放射光による調査を行ったところ、当時既にかなりのヒ素中毒であったことが判明している。また埋葬時に遺体に対してヒ素で保存処置を行った可能性もあり、彼の死因については依然として論議が続いている。

最近の研究では死の直後に公式に発表された胃癌、あるいは胃潰瘍の説が取り沙汰されている。ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者がいたし、ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に1817年以降の病気は悪化している。もっとも20年以上に渡り戦場を駆けめぐり、重圧と緊張が持続し続けた生活では、元々頑丈ではなかった心身に変調を来たさない訳はなかった。それでも若い頃は精神力でカバーできていたが、40歳を迎える頃には、精神障害・生理障害・感覚障害・形態障害などがナポレオンの体を蝕んでいた。その死は、ナポレオンが没落し、激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるといわれている。それは心身ともに打ちのめされた人間に起こりやすいといわれている。まさに英雄から敗北者・戦犯に貶められた、ナポレオンにこそ当てはまるのではないかと主張する医学者もいる。 また、ナポレオンには睡眠を平均3 - 4時間しか摂らなかったという逸話もある。それ以外は政務に励んだといわれ、前述の通り、40代以前の彼は精力的だった。しかし、40代以降のナポレオンは体力が落ちてしまい過度な睡眠不足も含めて、精神障害・生理障害・感覚障害・形態障害、さらに・脳梗塞・心筋梗塞を併発し、流されたセントヘレナ島でのストレスで、彼は過度の睡眠不足に悩んだという。その積み重ねが彼の体を蝕み、寿命が短くなる一因となったという見方もある。また、その睡眠不足、40代以降の肥満という症状から、近年注目されつつある睡眠時無呼吸症候群を主張するものまである。

しかし、総合的にはナポレオンの死の原因は、21世紀の現在に至っても決着していない。

[編集] ナポレオンの評価と影響

ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという結果に終わった。

一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。以後フランスの人口は伸び悩み、イギリス・ドイツなどに抜かれる事となった。1831年には、フランス軍の夥しい喪失からフランス人からの徴兵は止めて多国籍によるフランス外人部隊が創設される事になった。

ナポレオンの後に即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から、反ボナパルティズムを取り、数年に渡り白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにも繋がった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた、欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火して行くことになる。

1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。

[編集] ナポレオンの功績

ナポレオンが用い、広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。

  • ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。
  • 軍事的にもナポレオンが生み出した、国民軍の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携、輜重の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいてカール・フォン・クラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されることになる。
  • 政治思想史に於いてもフランス革命の理念(自由、平等、博愛)がナポレオン戦争によって各国に輸出されたという事も見逃してはならない。
  • 道路右側通行がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので左側通行のままとなっている)。
  • 「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募する事も行い、そこで発明されて採用されたのがニコラ・アペールが発明した「瓶詰」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及しにくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、後に「缶詰」(1810年イギリスにて発明)などの保存食の大発展へと繋がっていく。
  • ナポレオンの大陸封鎖令(対イギリス経済封鎖)によって砂糖価格が暴騰した結果、ビート(砂糖大根)からの製糖が一気に普及した。
  • 1790年3月に国民議会議員であるシャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールの提案によって、世界共通の新しい長さの単位を創設することが決議された。それを受けて1791年に、地球の北極点から赤道までの経線の距離の1000万分の1として定義される新たな長さの単位「メートル」が決定され、質量もこのメートルを基準として、1立方デシメートルの水の質量を1キログラムと定めた。ただフランス国内でさえ既に使われていた単位系があったため使用には反対が多くすぐには普及しなかったが、ナポレオンの進軍により一定の普及の効果はあったかもしれない。
  • 短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は、急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立した。そして、フランスと同様の民法が移植されていった。長くフランスの支配をうけた地域では工業化がはじまり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていくのである。また、ヨーロッパの諸民族は、他民族からの解放や民族の統一をまなび、列強の君主たちはナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前にもどそうとしたが、そのときには既に社会のしくみは変化しており新しい政治勢力が生まれていたのである。

[編集] その他

[編集] ナポレオンの言葉

ウィキクォート
ウィキクォートナポレオン・ボナパルトに関する引用句集があります。

詳細はウィキクォートを参照。

Impossible, n'est pas francais.「不可能という言葉はフランス的ではない」
ナポレオンが日常よく口にした言葉とされ、一般には「余の辞書に不可能の文字はない」として知られている。元は「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という言葉だったという説もある。また、他にも「フランス人は不可能という言葉を語ってはならない」という説もある。実際にナポレオンが口にしたかどうかは定かでなく後世の創作ともいわれる。

[編集] ナポレオンに関する逸話

後世の創作といわれているものが大半であるが、人々の心を捉えるナポレオン像が如何なるものかを知る手がかりとして挙げておく。

  • 一日三時間しか寝なかった話が有名だが、彼は昼寝をしっかりと取っていた。
    王であり軍神という偶像化された自分の立場の重い責務でストレスを溜め、夜遅くまで酒を飲み、脂っこい飯を食べ、昼にグーグー寝るというのが死期を早めたと思われる。これは雍正帝とも共通している。一方、同じく多忙な英雄のチャーチルも国会議事堂にベッドを置くほどの昼寝好きだったが、こちらは91歳の長寿を全うした。
  • ジャック=ルイ・ダヴィッドによるアルプス越えの絵画でナポレオンが乗っているのは白馬だが、実際に乗っていたのはロバだった(その際隣に案内人もいた)。
  • ブレザーなどの袖についているボタンは、ナポレオンがロシア遠征の際に、兵士達が袖で鼻水を拭えないようにするために付けたのがはじまり。
  • ナポレオンは、痔に悩まされていた。
  • エルバ島から脱出しパリに戻る道中で好んで食べていたのは目玉焼き。
  • 友人に宛てて書いた手紙があまりの悪筆で、戦場の地図と間違えられたことがある。
  • ナポレオンは2回自殺未遂をしたことがあった。
  • ナポレオンはシャンパンを入れた風呂に入っていた。
  • ナポレオンは妻のジョゼフィーヌに、毎晩本を読んでもらうのが日課だった。
  • ナポレオンは読書好きで有名だったが飽きっぽい性格の為読破した本は殆ど無かった。ただしゲーテの「若きウェルテルの悩み」だけは例外で生涯に7度も読んでいる。
  • ナポレオンは臭いフェチだった。例として戦場から恋人に、「今から帰るから、風呂にだけは入るな」という手紙を書いたこともあった。ちなみに、ナポレオンが寝ているところにブルーチーズを持って行ったところ、ナポレオンは「おお、ジョゼフィーヌか」と起床したという。
  • ナポレオンは音痴だった。
  • ナポレオンは当時としては珍しいギター弾きであった。
  • ナポレオンは暗殺されるのを恐れ、自分で髭を剃っていた。
  • ナポレオンは一定時間その場所にいられなかったほど落ち着きが無かった。
  • ナポレオンは胃下垂だった。
  • ナポレオンは疥癬に罹っていた。若い頃に最前線で部下の兵士にうつされたらしい。
  • ナポレオンは、左手にコインを持って、右手のフライパンで焼けたクレープをうまくひっくり返せたら1年がうまくいくというクレープ占いにハマっていた。そして、1812年2月2日、クレープ占いに挑戦し、5枚目に失敗。その年、彼はモスクワ遠征に失敗し、退却する際「余の5枚目のクレープだ」と呟いたそうである。
  • 数学好きとして知られるナポレオンは、側近に数学者を置いて数学の勉強を続けた(フーリエなど。また、ルジャンドルやラグランジュとも親交があった)。ナポレオンが発見したとされる(諸説あり、真相は定かではない)、ナポレオンの定理という物がある。
  • ナポレオンは背が低いとされ、バーゼル大病院のリュグリの研究によると身長167㎝と推定されている。それはしばしば文学や演劇のネタにされてきたが、当時のフランス人の平均身長は兵役検査の資料から160cm以下とされるので、実は低くないと言うことになる。
  • ナポレオンの帽子は戦闘中に打抜かれたことがある。背がもう少し高ければ、戦死していたかも知れない。
  • ナポレオンは鶏肉を好み、特に若鶏のマレンゴ風が好物だった。これはマレンゴ会戦の勝利後、シェフが現地にて即席で創作した料理である。
  • ナポレオンは妻ジョセフィーヌの愛犬フォーチュン(パグ)にジョセフィーヌのベットに入った時にかまれたことがある。
  • エジプトに遠征した折、ピラミッドの下で「兵士諸君、ピラミッドの頂から、四千年の歴史が諸君を見つめている」と言って兵士達を鼓舞したという。

[編集] 脚注

  1. ^ 当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は市民から解放軍として歓迎を受けたといわれる。
  2. ^ この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もあり、対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを古代ギリシャの英雄アレクサンドロス大王になぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉をはじめたりしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、考古学者を165人も同行させていた。このときにロゼッタ・ストーンが発見されたことはよく知られている。
  3. ^ 補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年ちかく抗戦したのちにオスマン・イギリス軍に降伏することとなる。
  4. ^ 1803年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純銀で約4.5グラムであった(この、いわゆるジェルミナール・フランは以後第1次世界大戦後まで採用されていた)。
  5. ^ 1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど整備を逐次おこない、1810年ごろまでには法体系を確立した。
  6. ^ 全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校をおき、さらに小学校を多数設置した。そして、教員の不足を補うために、政治的妥協をはかって聖職者の教育活動への従事を許した。
  7. ^ 道路網、運河、港湾の改善は、商工業の発展だけでなく軍事活動にもかかわるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察活動もあり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木をうごかして信号をおくるシグナルが数キロおきに立てられ、暗号文が伝達された。
  8. ^ ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬しており、第2楽章が英雄の死と葬送をテーマにしているため、これではナポレオンに対して失礼であるとして、あえて曲名を変更し、献呈を取りやめたのだとする逸話もある。
  9. ^ 1808年にはナポレオン軍は再び教皇領に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県をおいた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から破門とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。

[編集] ナポレオンの関係者たち

[編集] ナポレオン一族・妻・愛人

ナポレオンの存命中に生存もしくは誕生していた人物に限定する。一族全員についてはCategory:ボナパルト家を参照。

両親とその兄弟
兄弟
妻と嫡子・養子
愛人と庶子
愛馬
  • マレンゴ - 芦毛のアラブ馬でナポレオンはこの馬によく乗っていた。上の絵画『アルプス越えのナポレオン』にも描かれている。

[編集] ナポレオン麾下の元帥