ドイツ民主共和国

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ドイツ民主共和国
Deutsche Demokratische Republik
連合軍軍政期 (ドイツ) 1949年 - 1990年 ドイツ
東ドイツの国旗 東ドイツの国章
国旗 国章
国歌: 廃墟からの復活
東ドイツの位置
公用語 ドイツ語
首都 東ベルリン[1]
元首[2]
1949年 - 1960年 ヴィルヘルム・ピーク(初代)
1990年 - 1990年 ザビーネ・ベルクマン=ポール(最後)
閣僚評議会議長
1949年 - 1964年 オットー・グローテヴォール(初代)
1990年 - 1990年 ロタール・デメジエール(最後)
面積
1990年 108,333km²
人口
1990年 16,111,000人
変遷
成立 1949年10月7日
ドイツ再統一 1990年10月3日
通貨 東ドイツマルク
時間帯 UTC +1(DST: +2)
ccTLD .dd
国際電話番号 37
  1. ^ 正式には「ベルリン、ドイツ民主共和国の首都 (Berlin, Hauptstadt der Deutschen Demokratischen Republik (DDR))」とされた。
  2. ^ 元首は長らく国家評議会議長が務めたが、東西ドイツ統一直前に憲法が改正され、人民議会議長が国家元首扱いとなった。最後の国家評議会議長は1989年から1990年まで在職したマンフレート・ゲルラッハである。

ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、: Deutsche Demokratische Republik; DDR: German Democratic Republic; GDR)、通称東ドイツ(ひがしドイツ、: Ostdeutschland)は、第二次世界大戦後の1949年に、ドイツソビエト連邦占領地域に建国された国家。ドイツ西部から南部にかけてのアメリカイギリスフランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した。

目次

[編集] 概要

ドイツ民主共和国は社会主義国[1]であった。政治体制は一党制ではなく反ファシズムを最大公約数とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) が寡頭政治政党として指導権を有していた[2]。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。ソビエト連邦軍が駐屯する冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソビエト連邦の衛星国であった。

また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた。

経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、中・東ヨーロッパ社会主義諸国でも最も発展し、一般家庭への電化製品の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の香港人一般庶民程度)を実現したと言われる。そんな事もあり「社会主義の優等生」「東欧の日本」とも呼ばれていた。また女性の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。

1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。1987年には死刑を廃止した。

1970年代以降は公共投資が進み、日本の企業も積極的に進出し、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった。もっとも、この間に即金で買うだけの貯金ができるということで、不満ばかりではなかったといわれる。

一方、経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。

なお、一定期間無職でいると、自分に合う、合わないといった職種選択権が無い、問答無用の強制労働が科せられていた。

[編集] 歴史

ドイツの歴史
Coat of arms featuring a large black eagle with wings spread and beak open. The eagle is black, with red talons and beak, and is over a gold background.
この記事はシリーズの一部です。
ゲルマン
ゲルマン人
民族移動時代
フランク王国
東フランク王国
神聖ローマ帝国
東方植民
ドイツの形成
チュートン騎士団
プロシア公領
ブランデンブルク=プロイセン
プロイセン王国
ドイツ統一
ライン同盟
ドイツ連邦関税同盟
1848年革命
北ドイツ連邦
ドイツ国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ザールダンツィヒズデーテン
ナチス・ドイツ
フレンスブルク政府
第二次世界大戦後
連合国軍政期 + 東部領土
ドイツ人追放
西ドイツザール東ドイツ
ドイツ再統一
再統一後のドイツ
関連項目
オーストリアの歴史

ドイツ ポータル
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第二次世界大戦を経て、ドイツは・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。

形式的には複数政党制が採られたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) の一党独裁体制であり、計画経済の下で1951年より第1次五カ年計画が開始された。計画実施のために中央集権化が図られ、連邦主義的な州は廃止されて14の県 (Bezirk) へと再編された。

1953年3月、ソ連のヨシフ・スターリンが死去したことは、東ドイツ指導部を動揺させた。また、抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こっており、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)が、ソ連軍の介入によって弾圧され、6,000人以上が逮捕された。

無謀な計画経済農業集団化は、東ドイツ経済を麻痺させていった。東ドイツの将来に絶望した人々は、唯一境界が開かれていたベルリンを経由して西ドイツへ逃亡していった。こうして、青年層、知識人、熟練労働者などの流出が深刻化したため、政府は1961年8月に西ベルリンとの境界を完全に封鎖、この境界にはやがてベルリンの壁と呼ばれる壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。こうして労働力の流出を強制的に防いだこともあって経済は発展し、1960年代から1970年代初頭にかけて「社会主義の優等生」と呼ばれるまでに成長、1972年には西ドイツと東西ドイツ基本条約を締結し、国交を樹立した。

しかし、1973年オイルショックなどによって東側諸国全体の経済が停滞する中、エーリッヒ・ホーネッカー政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の東欧革命により他の中東欧の共産主義国が次々と民主化すると、オーストリアとの国境を開放したハンガリーなどを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した(汎ヨーロッパ・ピクニック)。1989年10月9日、南部の都市ライプツィヒでの反政府運動「月曜デモ」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年11月9日ベルリンの壁の開放に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には通貨統合、そして10月3日にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。

[編集] 政治

人民議会がおかれた東ベルリンの共和国宮殿、1977年 (taken by István Csuhai, Hungary)
人民議会の議場
ヴィリー・シュトフ内閣(閣僚評議会)の閣僚達(1981年)

ドイツ民主共和国は、典型的なソ連型社会主義による一党独裁型の政治体制を採っていた。

国会にあたる人民議会 (Volkskammer) があり、そこから選出される国家評議会議長国家元首であった。また内閣に相当する機関として閣僚評議会が置かれ、閣僚評議会議長が首相に当たる。ただし、「民主共和国」の名とは裏腹に、議会はおよそ民主的とは言えない選挙方法で選ばれたものであり、また国政の実権は他の社会主義国と同様支配政党であるSEDの書記長が握っていた。

[編集] 政党と選挙

[編集] 政党

ドイツ民主共和国では、5つの政党が存在し、5つの政党で「国民戦線 (Nationale Front)」を形成していた。しかしドイツ社会主義統一党以外の政党は同党の指導を認めた上で存在する衛星政党であり、「複数政党制」という建前を維持するための飾り物的存在であった。ヘゲモニー政党制の典型例である。

東西ドイツ統一後、上記の政党のうちSEDは民主社会党(PDS, 現在は左翼党に)と改名して存続し、キリスト教民主同盟・民主農民党は西側のキリスト教民主同盟へ合流、ドイツ自由民主党 (LDPD)・国家民主党は西側の自由民主党 (FDP) へ合流している。

[編集] 選挙

人民議会の選挙は、予め決められた議席配分リストに対して賛成の場合はそのまま無記入で投票、反対の場合は「反対」の欄に印を書く、というものであった。無記名投票ではあったが、反対の時のみ書かなければいけなかったため、すぐに誰が反対したのか分かるようになっていた。選挙の投票率は常に99%に近く、そのうちの賛成率も99%以上であった。棄権率、反対率は大都市になるほど高くなった。都市では投票の相互監視が比較的薄いからである。1981年からは棄権率、反対率は東ベルリンが最高である(ベルリンは表向き4か国管理となっているために、相互の国会に直接議員を送ることができなかった。東ドイツは1981年よりその慣習を破って人民議会の直接選挙を行った)。

人民議会における議席配分は常に一定され、政党のほかに労働組合や職能団体などに配分されていた。当然社会主義統一党 (SED) が最大勢力になるように配分されている。また自由ドイツ青年団(FDJ)はSEDの下部組織であり、自由ドイツ労働総同盟などの諸団体もSEDの影響下にあった。

  • 社会主義統一党 127議席
  • キリスト教民主同盟 52議席
  • 自由民主党 52議席
  • 国家民主党 52議席
  • 民主農民党 52議席
  • 自由ドイツ労働総同盟 68議席
  • 自由ドイツ青年団 40議席
  • ドイツ民主婦人連盟 35議席
  • ドイツ文化連盟 22議席
  • 計 500議席

[編集] 民主化後の選挙

1989年秋に大規模な民主化運動が発生し、ホーネッカー体制が崩壊すると、社会主義統一党は国家に対する支配性を放棄して社会主義統一党/民主社会党 (SPD/PDS) と改称した。そして、1990年3月18日には東ドイツ国家史上初、かつ最後の自由選挙が実施された。この際、西ドイツからの政治家の応援演説や資金提供が容認されたため、社会主義体制下の衛星政党からの脱却に成功したドイツキリスト教民主同盟やドイツ自由民主党の保守・中道政党は西ドイツの同系統の政党から強い支援を受けた。また、1946年に社会主義統一党へと事実上強制吸収されたドイツ社会民主党も元党員も加わる形で再建され、1972年東西ドイツ基本条約を締結して東ドイツ国民から強く信頼されていたヴィリー・ブラント元首相などが西ドイツ側の社会民主党から支援に駆けつけた。また、民主化運動の中心勢力も独自のグループを結成し、社会主義統一党/民主社会党などとともに選挙に臨んだ。

選挙の事前予想では緩やかな国家統一を主張する社会民主党が優位だったが、首相でもある西ドイツのキリスト教民主同盟党首ヘルムート・コールは精力的に東ドイツ全土を遊説し、東ドイツマルクから西ドイツマルクへの交換レートなどで東ドイツ国民に配慮した公約を行った。これが成功してキリスト教民主同盟が社会民主党を抑えて第一党となり、西ドイツと同様に自由民主党の連立参加を受け、党首のロタール・デメジエールが首相に就任した。一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ(ドイツ民主共和国人民議会1990年選挙)。これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。

[編集] 主な政治家

[編集] 歴代国家元首

  1. ヴィルヘルム・ピーク(注1):1949年 - 1960年
  2. ヴァルター・ウルブリヒト(注2):1960年 - 1973年
  3. フリードリヒ・エーベルト(注3):1973年
  4. ヴィリー・シュトフ1973年 - 1976年
  5. エーリッヒ・ホーネッカー(注4):1976年 - 1989年
  6. エゴン・クレンツ1989年
  7. マンフレート・ゲルラッハ(注5):1989年 - 1990年
  8. ザビーネ・ベルクマン=ポール(注6):1990年
  • 注1:ヴィルヘルム・ピークは、「大統領 (Staatspräsident)」、それ以降は「国家評議会議長 (Staatsratsvorsitzender)」。
  • 注2:ヴァルター・ウルブリヒトは、社会主義統一党 (SED) 書記長兼任(1949年10月~71年4月)。
  • 注3:フリードリヒ・エーベルトは、国家評議会議長代理。
  • 注4:エーリッヒ・ホーネッカーは、SED書記長兼任(1971年4月~89年10月)。
  • 注5:マンフレート・ゲルラッハ(ドイツ自由民主党出身)の評議会議長在任は、1990年の自由選挙実施時まで。
  • 注6:ザビーネ・ベルクマン=ポールは、人民議会議長・暫定国家元首を自由選挙実施後から再統一時まで務めた。

[編集] その他

[編集] 外交・軍事政策

建国記念日の軍事パレード(1988年10月7日)

他の東ヨーロッパの社会主義国同様、ワルシャワ条約機構に属していた。軍隊である国家人民軍の人数は約9万人で、約26万人の在独ソ連軍の3分の1ほどに過ぎなかったが、「棍棒で鍛えられた」とも表現されるその錬度の高さはワルシャワ条約機構軍一と言われ、同軍の武器庫、弾薬庫の鍵は、叛乱を恐れ必ず在独ソ連軍の将校が管理したとも噂された。T-72その他の同軍の兵器はソ連仕様よりも武装装甲が大幅にスペックダウン(モンキーモデル化)されており、実際にソ連側にとっての叛乱防止の意図があったと見られている。

「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」「東ドイツは約26万人(東欧革命より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。

1973年、西ドイツと同時に国際連合に加盟。なお、ドイツ民主共和国はナチス・ドイツと戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストに対する責任を負う立場にないとしていた。

[編集] 西ドイツとの関係

東ドイツ政府は建国当初は全ドイツを統一するという目標を持っており、東西が分断されたのは西の責任であると主張していた(西ドイツ側もドイツの唯一の正統政府を自認し、ハルシュタイン原則に基づき、東ドイツと国交を結ぶ国とは国交を結ばない方針を取っていた)。そのために、国有鉄道の名称もあえて戦前のドイツ国有鉄道の名称を継承し、西に対抗する形で「ルフトハンザ航空」を設立したりしていた[3]。また、東西お互いに相手を非難するプロパガンダ放送(東側では「黒いチャンネル」、西側では「赤いレンズ」)を流し合っていた[4]

しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった[5]

このように政治的には西と対立し、分断国家の固定化を進めていたがその一方でホーネッカー政権は経済面では西との交易を進めた他、東ドイツ国民の消費生活を維持するために西ドイツから銀行保証付きの借款を受けていた。また西ドイツがローマ条約締結時に東ドイツとの貿易は「国内取引」であり無関税・無課税であると主張したため、実質的に欧州共同体(EC)の一員と同じ条件で貿易が出来るという他の東側諸国に比べて恵まれた立場を享受することが出来た。東ドイツが他の社会主義国よりも経済を発展させることが出来た(その代り西への債務も増大したが)のは、この側面も無視できない[6]

[編集] 日・東独関係

日本と東ドイツは1973年に正式な国交を結んだ[1]。東ドイツ駐日大使館は東京都港区赤坂7丁目にあった。

[編集] 地方制度

県区分図
1947年から1952年までの州(灰色線)と1990年からの州(赤線)

[編集] 東ベルリン以外

当初は5つの (Land) が置かれた連邦制で、旧西ドイツの連邦参議院にあたる参議院 (Landeskammer) も存在したが、1952年以降は14の (Bezirk) に再編されて参議院は廃止され、中央集権化が進められた。

統一を目前にした1990年7月23日に人民議会によって州の復活が決定し、以下の5州が復活した。この5州を新連邦州 (Neue Bundesländer)、新5州、東ドイツ5州という。名称は以前の州と同じだが、州界は微妙に異なる。

この5州は、ドイツ基本法(西ドイツ・現在のドイツの憲法に相当する法)23条に基づいてドイツ連邦共和国に加入した。

[編集] 東ベルリン

東ベルリンは、事実上の東ドイツ領だったが、国際法的には連合国軍4か国(米・ソ・仏・英)占領地ベルリンのソ連管理地域で、厳密には東ドイツ領ではなかった。そのため、県も州も置かれていなかった。

ドイツ統一に伴い、4か国はベルリンの統治を終了し、ベルリンをドイツに返還した。東ベルリンはドイツ基本法23条に基づいて、西ベルリンを事実上統治していたベルリン州に編入された。

[編集] 経済

上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツはルール工業地帯を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた[7]。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた[8]

ただし、「社会主義国の優等生」であった東ドイツには西ドイツより条件は劣るとはいえ他の東欧社会主義国より有利な面もあった。一つ目はドイツは第二次世界大戦前に既に工業化が進んでおり(他に工業化が戦前から進展していたのはチェコスロバキアボヘミア地方くらいであった)、他の東欧諸国のように農業国から工業国への転換から始める必要が無かったこと、二つ目は「西ドイツとの関係」でも述べているように西ドイツとの貿易では特殊な地位にあったために実質的にEC加盟国と同じ条件で西側と貿易できたこと、三つ目には西ドイツから多額の借款を受けることが出来たことである[9]

また、ホーネッカー政権下の経済成長と消費者の満足を追求した政策は、環境の破壊と西側からの上記の対外債務による財政の破綻という結果を招き、ひいては1980年代末の東ドイツの政治的破産を招く結果になった[10]

[編集] 地方経済

ここでは、東ドイツを5つの地域(北部・中部・東ベルリン・南部・南西部)に分けて論じる。

[編集] 北部

ロストックの港

ロストック県シュヴェリーン県ノイブランデンブルク県といった北部は農業地域であった。また、バルト海に面するロストック県では水産業も盛んだった。工業部門では、港湾都市ロストックで造船業がみられた。ロストックは、ソ連、東欧に輸出するための最も重要な貿易港でもあった。また、シュヴェリーンノイブランデンブルクで金属加工、軽工業が発展していた。

[編集] 中部

マクデブルク県ポツダム県フランクフルト・アン・デア・オーダー県コトブス県でも、農業が盛んであった。また、コトブス周辺は褐炭の最大生産地域であり、同県のエネルギー産業は東ドイツのエネルギー生産の約4割を支えていた。そのほか、西ドイツ経済に追いつくシンボル・モデル都市として地方都市としては異例なほどの資本投入とインフラ整備が行われたアイゼンヒュッテンシュタット(旧スターリンシュタット)の鉄鋼コンビナートや、マクデブルクの機械製造工業などが発展していた。

[編集] 東ベルリン

工業通信サービス業などが盛んであった。シーメンスAEGを受け継いで、電気・電子産業も発展した。

[編集] 南部

1983年型600ccトラバントP601L

ドレスデン県カール・マルクス・シュタット県ライプツィヒ県ハレ県といった南部は、東ドイツにおける工業地域であった。ハレ県では化学産業が盛んで、東ドイツにおける生産全体の4割程度を支えた。カール・マルクス・シュタット県では繊維産業が盛んで、東ドイツ全体の5割強を支えた。また、同県のツヴィッカウトラバント(東ドイツの大衆車)の生産で知られた。

[編集] 南西部

エアフルト県ゲーラ県ズール県も東ドイツにおける工業地域であった。エアフルトイエナにおける電子・光学産業や、アイゼナハ自動車産業が発展した。

[編集] 著名な企業

人民公社カール・ツァイス・イェーナ製プラネタリウム 兵庫県明石市 明石市立天文科学館 カールツァイスイエナ製MCフレクトゴン 2.4/35で撮影

[編集] 文化

音楽・演劇・スポーツなどでは、「西ドイツを大きくリードする目覚しい成果が挙げられた」とされている。しかし、東ドイツ出身の作曲家イェルク・ヘルヘットは、「何年に十二音技法が解禁、何年にはシュトックハウゼンが解禁などという謎のルールに縛られた奇妙な文化政策」であったことを告白している。また、ヴォルフ・ビアマンのように反体制的な人物は西ドイツへ国外追放された(他の東側諸国と違って西ドイツと言う同言語の国があり、西ドイツは東ドイツ国民には自動的に西ドイツ国籍を付与していたため、反体制派は追放してしまえばいいという政策がとれた[11])。

[編集] 文学

ナチス・ドイツに抵抗した文学者たちの中で、アンナ・ゼーガースアルノルト・ツヴァイクベルトルト・ブレヒトは東ドイツで活動を続けた。また、クリスタ・ヴォルフは「引き裂かれた空」で、ベルリンの壁のできる前後の時代の東ドイツの生活を描いた。

[編集] 音楽

音楽ではドレスデン国立歌劇場管弦楽団ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ベルリン国立歌劇場などの伝統あるオーケストラやオペラハウスが活動し、クルト・ザンデルリングオトマール・スウィトナーヘルベルト・ケーゲルクルト・マズアペーター・シュライアーといった指揮者や演奏家が活躍していた。国際化されない、比較的伝統的なドイツ風のサウンドが保存され、オーストリア人のスウィトナーのほか、同じくカール・ベーム、西ドイツ人のルドルフ・ケンペらもしばしば指揮台に立った。なお、クラウス・テンシュテットは東ドイツでの活動に疑問を感じ、1971年西側亡命している。

作曲家では、ナチス・ドイツ時代にアメリカに亡命していたハンス・アイスラーパウル・デッサウが戦後に帰国し、楽壇の中心的存在として活動した。

音楽のジャンルではロックは他の東欧各国と同様に「西側諸国の退廃の象徴」として原則禁止の政策が取られていた。しかしながら、ダンス音楽としての名目で軽音楽は認可されており、Karat、Stern Combo MeißenElectra などのロック・バンドが活動し、国営レーベル Amiga からレコードも出版されていた。ハンガリーの Omega などのロック・バンドも東ドイツでコンサートを開催し、東ドイツでもその名は知られていた。

[編集] 映画

[編集] マスコミ

東ドイツにおける第一ドイツテレビ(ARD)の視聴可能地域(灰色)、黒い部分が受信不能地域で「無知者の谷(Tal der Ahnungslosen)」と呼ばれた[12]。赤い四角は西ドイツ側の電波送信所

新聞は最有力紙である社会主義統一党機関紙『ノイエス・ドイチュラント(新しいドイツ)』をはじめ、いくつかの日刊紙が存在した。また、『ジビレ』などの女性ファッション誌なども発行されていた。『ジビレ』はハンガリーなどでも読まれる、社会主義諸国の最先端ファッション雑誌であった[13]

放送局としては東ドイツ国営放送(Fernsehen der DDR)が2つのチャンネルを使ってテレビ放送を行っていた。ラジオ放送はラジオDDR、DDRの声、ベルリン放送、ラジオ・ベルリン・インターナショナルの4つの放送局があった[14]

大半の地域では西ドイツのテレビ放送がスピルオーバーしていたため、多くの東ドイツ国民は当局の監視から隠れて(見つかった場合は罰則が科された)西側の放送を見ていた。ライプツィヒの中央青少年研究所によれば、1976年から88年までの間に毎日西ドイツのテレビだけを見る若者の数は14パーセントから56パーセントにまで増加している。ザクセン地方など一部では西ドイツの電波が届かなかったが、ドレスデン市民の中には西ドイツのテレビを見るために様々な団体の協力を受けて衛星放送の受信装置を設置した者までいた[15]


[編集] 著名な施設

ゲヴァントハウス

[編集] 祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Neujahr
3月8日 国際女性デー Tag der Frau
移動祝日 聖金曜日 Karfreitag
移動祝日 復活祭 Ostersonntag
移動祝日 Easter Monday Ostermontag
5月1日 メーデー Tag der Arbeit
移動祝日 父の日/主の昇天 Vatertag / Christi Himmelfahrt 復活祭後の第五日曜日後の木曜日
移動祝日 聖霊降臨 Pfingstmontag 復活祭から50日後
10月7日 共和国の日 Tag der Republik 建国記念日
12月25日 クリスマス 1. Weihnachtsfeiertag
12月26日 ボクシング・デー 2. Weihnachtsfeiertag

[編集] スポーツ

[編集] オリンピック

スポーツでは、他の社会主義国同様国家の威信をかけた強化策が取られ、いわゆる、「ステート・アマチュア」選手が量産され、陸上競技水泳競技などはオリンピックなどでも「輝かしい成績」を残した。特に1970年代後半から1980年代にかけてはアメリカを抑えて世界第2位の金メダル大国となった。

ただし、その陰には人権も人格も無視した選手育成と、ステロイドをその中心に用いた組織的なドーピングが存在し、シュタージによるスポーツ関係者の監視や協力要員化が行われた。統一後にこれらの問題が噴出し、競技水準の低下が起こった。

[編集] サッカー

[編集] シュタージのスポーツへの関与

[編集] 東ドイツを扱った作品

[編集] 参考文献

  • Hannes Bahrmann/Christoph Links: Chronik der Wende. Die Ereignisse in der DDR zwischen 7.Oktober 1989 und 18.März 1990, Berlin:Links, 1999, ISBN: 3-86153-187-9.
  • 山田徹『東ドイツ・体制崩壊の政治過程』日本評論社、1994年
  • 仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年
  • 伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』社会評論社、2009年
  • 伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』社会評論社、2009年
  • メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年
  • 永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』日本放送出版協会 1990年
  • サイマル出版会編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)

[編集] 脚注

  1. ^ 東ドイツ憲法第1条「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.)
  2. ^ 東ドイツ憲法第1条「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」(Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.)
  3. ^ 先に戦前の名称を継承して設立された西側のルフトハンザと対抗したものの結局敗れ、新たに設立されたインターフルークが国営航空会社としての役割を継承した。
  4. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P98
  5. ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P80-81
  6. ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』P155-P156、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78
  7. ^ ただし、ビールコーヒーなどの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代にはチコリの根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずにビール純粋令を遵守出来ないような物しか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。
  8. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159
  9. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78
  10. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P74-75
  11. ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P100-101
  12. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P97
  13. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51
  14. ^ サイマル出版会編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268
  15. ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P96-97

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

  • DDR Museum - ベルリンにある、ドイツ民主共和国に関する資料を展示している博物館(ドイツ語、英語)
先代:
ナチス・ドイツ
1933年-1945年
ドイツの歴史
分断時代のドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
西ドイツ
1945年-1990年
次代:
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1990年-現在

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