ルール地方

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ルール地方の位置

ルール地方(ルールちほう、ドイツ語:Ruhrgebiet)は、ルール川下流域に広がる、面積4,435平方キロ、人口約500万人の、ドイツ屈指の大都市圏である。かつては重工業地帯として、ドイツの産業を牽引した地方である。

目次

[編集] 地理

ルール地方の地図

ノルトライン=ヴェストファーレン州の中心に位置する、南にルール川、西にライン川、北にリッペ川が境となっている地域である。

ルール地方というのは、公的な呼称ではなく、その境界は解釈によって異なることもあるが、一般的に、1920年に成立したルール石炭地区連合がルール地方の範囲とされている。これは、現在、ルール地域連合(RVR)として受け継がれている。そこには、独立市(郡に属さない主要都市)として、エッセンオーバーハウゼンゲルゼンキルヒェンデュイスブルクドルトムントハーゲンハムヘルネボーフムボトロップミュルハイム・アン・デア・ルール(五十音順)と、ドイツを代表した11の工業都市が含まれている。これに、ウンナ、ヴェーゼル、エネペ=ルール、レックリングハウゼンの4郡を含んだ範囲が、ルール地域連合になる。州の行政管区では、デュッセルドルフ行政管区ミュンスター行政管区アルンスベルク行政管区と、三つの行政管区 (Regierungsbezirk) にまたがっている。

ルール地方の南には、ライン川に沿ってデュッセルドルフケルンレバークーゼンボンなどの都市が並んでいる。これらも同じノルトライン=ヴェストファーレン州に属しており、ルール地方と合わせてライン・ルール大都市圏(面積約7,000平方キロ、人口約1千万人)と呼ばれる。

[編集] 歴史

[編集] 第一次世界大戦まで

この地方は、もともと農業を主体とした地域であった。工業化の核となったのは、18世紀後半に、オーバーハウゼンエッセン製鉄が開始されたことである。当時の製鉄では、鉱石から鉄を取り出す燃料として、木炭が用いられていた。

ルール地方の地下には炭層があり、13世紀頃から細々と石炭が採掘されていた。19世紀に入ると、ルール地方各地で石炭が掘られるようになり、1850年頃には炭坑の数が300に達している。石炭は主にコークスに加工され、そのコークスを利用して高炉で製鉄が行われ、さらに鋼や各種鉄製品に加工される。こうして、ルール地方各地で、炭坑、コークス工場、製鉄所、さらには鉄を加工する工場が発展し、ドイツ屈指の重工業地域が形成された。この結果、ルール地方の人口が爆発的に増加することとなる。

1870年に、プロイセン王国を盟主とするドイツ連合軍が普仏戦争でフランスに勝利し、鉄鉱石産出地のアルザス=ロレーヌ地方を領土とするドイツ帝国が生まれたことは、このようなルール地方の発展を推し進めることとなった。ドイツ帝国によってドイツは広大な統一経済圏を得、豊富な石炭を産するルール工業地帯を中心に、工業力は急速に高度の水準に達し、一流の帝国主義国家へと発展していく。その過程で行われた兵器の生産は、ルール工業地帯をさらに発展させていった。

[編集] 戦間期

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の性急な拡張政策は第一次世界大戦の一因となった。長期化した戦争は革命を招いて帝政は崩壊、ドイツは敗戦国となった。大幅に領土を削られ、巨額の戦争賠償金の支払いを義務付けられ、鉄鉱石産出地のアルザスロレーヌ地方も失ったが、戦争そのものはドイツ国境外で行われたため、ルール地方の産業基盤は無傷だった。

しかし、革命の余波はルール地方も吹き荒れ、ルール地方の中心都市エッセンでも、労働者や兵士がストライキを行い、石炭生産をコントロールしようとした。その後、革命派は次第に鎮圧され、ヴァイマル共和政が成立する。

ヴァイマル共和国の重大な問題が戦争賠償金の支払い、多額の賠償金支払いを迫るフランスは、石炭や鉄による現物支払いを求め、1923年にルール地方を占領した(ルール占領)、ドイツは工場に全面停止を呼びかけストライキで抵抗した。その結果ドイツ経済は破綻状態になり、ハイパーインフレーションに陥った。

ようやく1924年になり通貨は安定し、国際連盟への加入も認められ、ドーズ案により戦争賠償金も軽減され、主に米国向けの輸出と米国からの投資を中心に経済も安定期に入った。ルール地方も徐々に活況を呈していく。が、1929年米国を襲った経済恐慌は、米国への輸出頼みの世界各国を直撃し、世界恐慌に拡大してしまう。重工業地帯のルール地方は、真っ先に世界恐慌の直撃を受けた。全国平均の失業率は30%を超え、失業者の群れであふれかえった。

このような連立政権下におけるワイマール共和国への幻滅から、ナチスが国会で第一党を獲得する。1933年にヒトラー内閣が成立し、ドイツ国会議事堂放火事件を経て、全権委任法でヒトラー政権が全権を掌握した。ヒトラーは、有名な全国でのアウトバーン建設などとは別に、外国製品の輸入禁止や、ルール工業地帯への国家投資も盛んに行った。1935年のドイツ再軍備宣言後は、抑制されてきた軍需産業も急速に復興していき、1936年には失業問題は解決した。

しかし同年に、ルール地方も含む非武装地帯とされたラインラントへの軍事進駐(ラインラント進駐)が行われる。

[編集] 第二次世界大戦後

ヒトラーの野望は、1939年に第二次世界大戦を招き、結局ドイツはまたも敗戦国となった。第一次世界大戦と異なり、ルール工業地帯は英米軍による戦略爆撃の重点的な攻撃目標になり、生産財も労働者も無傷では済まなかった。都市だけでなく、背後の輸送機関も重要な攻撃対象となり、工業機能は完全に麻痺した。

モーゲンソー・プランなど「侵略を防ぐため、ドイツ工業は徹底的に解体すべきだ」との過激な主張を抑えたのは、東西冷戦の開始だった。

ソ連は、既に東欧の占領地で共産党以外の政党を全て排除しており、ドイツでも1946年ドイツ社会主義統一党による独裁体制を建設した。1949年、ドイツは西側占領地区はドイツ連邦共和国、ソ連占領地区はドイツ民主共和国として、民族分断の時代に入り、東西対立の最前線となった。

ベルリンライプツィヒドレスデンといった東側の工業都市を失った西側では、ルール工業地帯の重要性が相対的に増大した。西ヨーロッパの重工業の中心として、復興が急速に進んだ。ルール工業地帯をはじめ、西ヨーロッパの鉄鋼業発展のため、さらに地下資源の争奪のための紛争を防ぐため、1952年にフランス・ベネルクス三国と西ドイツが参加して欧州石炭鉄鋼共同体 (ECSC) が結成された。これはお互いの石炭と鉄鉱石を融通するのみならず、生産・価格・労働条件などの共同管理をも行うものである。

しかし、1957年に始まった石炭危機により、ルール地方の成長は鈍化し、現在まで継続する石炭産業の衰退が開始する。当初期のピークであった1963年には、閉山により、約1万人の炭鉱労働者が職を失っている。その後もデモや炭坑ストライキが行われ、ルール地方各地で多数の炭坑が閉鎖され、同時に、多数のコークス工場や製鉄所も閉鎖されている。残る炭坑の数は、1998年には11、2007年には6箇所となっている。

[編集] 構造変化への取り組み

石炭産業が斜陽となって以降、ルール地方では「構造変化」が合言葉となり、電気・電子や情報産業の発展に取り組んでいる。しかしこれらのハイテク工業の中心はミュンヘンシュツットガルトなどドイツ南部にあり、南部地域では人口も増加傾向にある。一方ルール地方は失業率が高く、人口が減少している都市が多く、高齢化も進行している。各都市がこれらの問題に対し様々な方法で対応を進めているのがルール地方の現状である。

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