オットー・フォン・ビスマルク
| オットー・フォン・ビスマルク
Otto von Bismarck
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| 生年月日 | 1815年4月1日 |
| 出生地 | ブランデンブルク県 シェーンハウゼン |
| 没年月日 | 1898年7月30日(満83歳没) |
| 死没地 | シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県 フリードリヒスルー |
| 出身校 | ゲッティンゲン大学 ベルリン大学 |
| 称号 | 侯爵(Fürst) |
| 親族 | ヘルベルト・フォン・ビスマルク(長男・外相) |
| 配偶者 | ヨハンナ・フォン・ビスマルク(旧姓フォン・プットカマー) |
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| 任期 | 1862年9月23日 - 1872年12月21日[1] 1873年11月9日 - 1890年3月18日[1] |
| 国王 | ヴィルヘルム1世 フリードリヒ3世 ヴィルヘルム2世 |
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| 任期 | 1862年10月8日 - 1890年3月20日[2] |
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| 任期 | 1867年7月14日[3] - 1871年3月 |
| 連邦主席 | ヴィルヘルム1世 |
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| 任期 | 1871年3月21日 - 1890年3月20日[4] |
| 皇帝 | ヴィルヘルム1世 フリードリヒ3世 ヴィルヘルム2世 |
オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(独: Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、プロイセン及びドイツの政治家、貴族。プロイセン王国宰相(在職1862年-1890年)、北ドイツ連邦宰相(在職1867年-1871年)、ドイツ帝国宰相(在職1871年-1890年)を歴任した。ドイツ統一の立役者として知られ、「鉄血宰相(独: Eiserne Kanzler)」の異名を取る。
プロイセン東部の地主貴族ユンカー階級の出身。1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からプロイセン宰相に任命され、軍制改革を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。プロイセン宰相に加えてドイツ帝国宰相も兼務し、1890年に失脚するまで強力にドイツを指導した。文化闘争や社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。
概要[編集]
1815年にプロイセン王国東部のシェーンハウゼンにユンカーの息子として生まれる。文官を目指し、 ゲッティンゲン大学やベルリン大学で法学を学ぶ。1835年に大学を卒業し、官吏試補となるも職務になじめず、1839年からユンカーとして地主の仕事をするようになる。
1847年にユンカーの身分によって身分制議会のプロイセン連合州議会の代議士となり、政界入りする。1849年に新設されたプロイセン下院の代議士にも当選した。代議士時代には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の寵愛を受ける侍従武官長ルートヴィヒ・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゲルラッハ率いる強硬保守グループ「カマリア」の一員として行動した。正統主義に固執し、1848年革命で高まりを見せていた自由主義やナショナリズム運動、国民主権の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。
1851年にゲルラッハの推挙で国王からドイツ連邦議会プロイセン全権公使に任じられ、外交官に転じる。ドイツ連邦最大の大国オーストリア帝国との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した小ドイツ主義(プロイセン中心のドイツ)統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する神聖同盟などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、小ドイツ統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力とも手を組む道を模索するようになった。
1858年に王弟ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム1世)が摂政となり、自由主義的保守派貴族による「新時代」内閣が発足すると強硬保守派と看做されていたビスマルクは駐ロシア大使に左遷された。
しかし1861年に国王に即位したヴィルヘルム1世と陸軍大臣アルブレヒト・フォン・ローン中将は軍制改革(正規軍の徴兵数増加、正規軍の徴兵期間引き伸ばし、自由主義的なラントヴェーアの縮小)をめぐり、その予算を「軍隊に対する王権強化」と看做して通そうとしない下院の自由主義派議員と対立を深めていった。1862年、議会の承認を経た予算無しでの統治(無予算統治)を決意したヴィルヘルム1世は、その覚悟がある者としてローン陸相が推薦するビスマルクをプロイセン宰相に任命した。
宰相に就任するや下院予算委員会で鉄血演説を行って小ドイツ主義統一のため軍拡する必要性を訴え、プロイセン自由主義派の小ドイツ・ナショナリズムを煽って軍制改革を支持させようとしたが、露骨過ぎて逆に警戒されただけに終わる。この演説で「鉄血宰相」の異名を取るようになった。自由主義派の支持が得られそうにないと見るや無予算統治で軍制改革を断行した。これによって無予算統治を違憲とする自由主義派との間に憲法闘争が巻き起こったが、ビスマルク政府は空隙説という強引な憲法解釈を盾に無予算統治を正当化した。この国内的亀裂は、三度の小ドイツ主義統一に関する戦争に勝利して自由主義派の支持を獲得していくことで解決に向かう。
その最初の戦争はシュレースヴィヒ公国やホルシュタイン公国の帰属をめぐって1864年にオーストリアとともに起こした対デンマーク戦争だった。イギリスの干渉を抑えてこの戦争に勝利したことで両公国からデンマークの支配権を排除し、シュレースヴィヒをプロイセンが、ホルシュタインをオーストリアがそれぞれ統治した。
ついでホルシュタインの支配権をめぐってオーストリアと対立を深めていった。フランス皇帝ナポレオン3世から中立を確保したうえで1867年に普墺戦争を開始、参謀総長モルトケ中将の指揮のもとにプロイセン軍はケーニヒグレーツの戦いで決定的な勝利をおさめたが、フランスに付け入れられないよう、また来る対仏戦争を睨んで将来に渡るまでオーストリアを敵としないよう、オーストリアに寛大な休戦協定を締結して戦争を早期終結させた。代わりにオーストリアには今後ドイツ問題に関わらないことを承諾させ、オーストリアをドイツから排除した。こうしてプロイセン一国覇権の北ドイツ連邦を樹立したが、この時点ではフランスの圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸国は参加しなかった。
つづいて、フランスとの対立を煽ることで南ドイツ諸国のドイツ・ナショナリズムを高めることを目指した。1870年、スペイン王位継承問題を巧みに利用し、フランスが理不尽な要求を突き付けて一方的にプロイセンに宣戦布告してきたかのように見える状況を作り上げることで、全ドイツ諸国の反仏感情を爆発させ、プロイセン軍のもとに一致団結させ、また他国の中立の立場も確保して普仏戦争に持ち込んだ。プロイセン参謀総長モルトケ大将が指揮する全ドイツ諸国軍は緒戦から連勝し、セダンの戦いでは皇帝ナポレオン3世を捕虜にする戦果をあげた。これによって第二帝政から第三共和政に移行したフランスだったが、ビスマルクが要求したアルザス・ロレーヌ地方の割譲を拒否したため、戦争は続行された。パリ包囲戦中の1871年1月にドイツ軍の大本営がおかれていたヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉にあたり、ドイツ統一国家ドイツ帝国を樹立する合意を取り付け、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させた。戦争の方も2月にはパリの困窮に耐えきれなくなったフランス政府がビスマルクの要求に応じたことで終結した。
プロイセン宰相に加えてドイツ帝国宰相となったビスマルクは、国民自由党など自由主義勢力と協力して様々な近代化改革を行った。その一環でカトリックを弾圧する文化闘争を行い、ローマ教皇ピウス9世や中央党と対立を深めた。しかし社会主義勢力の台頭や国民自由党内でエドゥアルト・ラスカーら自由主義左派が反ビスマルク的姿勢をとるようになったことで中央党との関係改善を志向するようになり、文化闘争を終了させた。ついで社会主義者鎮圧法制定や保護貿易への転換などで国民自由党に揺さぶりをかけ、自由主義左派が国民自由党から離党して自由思想家党を結成するよう追い込み、保守党、帝国党、国民自由党の三党に「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を結ばせ、これを自らの与党勢力とした。さらにドイツ社会主義労働者党や自由思想家党に「帝国の敵」というレッテルを貼って攻撃した。労働者が社会主義労働者党に流れるのを防止すべく、1883年には疾病保険法、1884年には労災保険法、1888年に障害・老齢保険法を成立させ、世界で初めて全国民強制加入の社会保険制度を創出した。
外交では対独復讐に燃えるフランスを孤立させることに腐心し、はじめ君主国の連帯でオーストリアやロシアとともに三帝同盟を結んだが、露土戦争でロシアがオスマン=トルコ帝国に勝利し、バルカン半島の支配権を確立するとイギリスやオーストリアが強く反発し、列強間の大戦に発展する気配が漂った。三帝同盟崩壊を恐れるビスマルクは「公正な仲介人」としてベルリン会議を主催してロシアを妥協させて戦争を回避したが、今度はロシアの不満が高まり、三帝同盟は事実上崩壊した。ビスマルクは新たなフランス封じ込め体制の構築を狙い、1882年にはオーストリアやイタリアと三国同盟を結び、1887年にはイギリスとイタリアの間に地中海協定を締結させ、ついでオーストリアもこれに参加させた。他方ロシアとの関係もできる限り維持すべく、1887年に独露再保障条約を締結した。
一方アフリカやアジアで過熱するヨーロッパ諸国による植民地獲得競争においては、イギリスとフランスの植民地獲得を支援し、両国が植民地の利権をめぐって対立するよう離間を策動し続けた。1884年にコンゴの領有権をめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まるとベルリン・コンゴ会議を主催し、植民地獲得の原則を定め、同国をベルギー王レオポルド2世の私領と決定した。ドイツ自身の植民地獲得には慎重だったが、1884年から1885年にかけてはアフリカや太平洋上のドイツ人入植地をドイツ領に組み込んでいる。
こうしたビスマルクの一連の巧みな外交のおかげで普仏戦争後の19世紀後半のヨーロッパではヨーロッパ諸国間の戦争は発生しなかった。この第一次世界大戦までの小康状態は「ビスマルク体制」と呼ばれる。
しかしヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に宰相を辞することとなった。
生涯[編集]
生誕とその時代背景[編集]
ビスマルクは1815年4月1日、プロイセン王国ブランデンブルク県に属するビスマルク家所有の土地シェーンハウゼンにおいて生まれた[5][6][7][8][9]。
父はフェルディナント・フォン・ビスマルク[10][11]。母はヴィルヘルミーネ・フォン・ビスマルク(旧姓メンケン)[12][11]。
ビスマルク家は14世紀に貴族に列した由緒あるユンカーの家系であり、16世紀にシェーンハウゼンに領地を移された[6]。父はビスマルク家の末子の生まれだが、長兄がユングリンゲンに領主屋敷を構え、他の兄二人は農場を相続せずに職業軍人の道を選んだので父がシェーンハウゼンの土地を継いでいた[13]。
母ヴィルヘルミーネの実家メンケン家は貴族ではないが、オルデンブルクの名門の商家の家柄であり、学者、詩人、歴史家なども多数輩出した[14][15]。ヴィルヘルミーネの父アナスタージウス・ルートヴィヒ・メンケンはフリードリヒ大王によって取り立てられ、プロイセン王国内閣秘書官(Kgl. preuß. Kabinettssekretär)を務めた[12][11][16]。しかし早死にしたこともあり特筆されるほどの業績は残していない[12]。
父と母は1806年に結婚した[12][17][18][6]。夫妻は6人の子供を儲け[18]、そのうちの第四子として生まれたのがビスマルクであった[17]。
ビスマルクが生まれた1815年という年はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが敗退し、正統主義[注釈 1]と勢力均衡を基調とした保守体制「ウィーン体制」が構築された年だった[20][21]。
ウィーン体制下のドイツ地方[注釈 2]にはオーストリア帝国やプロイセン王国、バイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、ザクセン王国など39か国が独立して存在し、これらの国はドイツ連邦という緩やかな国家連合を形成していた[25][20]。連邦内の最大の大国であるオーストリアが連邦議会議長国であり、それに次ぐプロイセンがドイツの覇権を狙う挑戦者であった。またウィーン体制下ではロシア帝国の主導の下、オーストリアやプロイセンも参加して「神聖同盟」という正統主義と王権神授説の君主国家の国際協力体制が築かれていた[26][19]。
これらウィーン体制はナポレオン戦争の落とし子ともいうべき思想、すなわち立憲政治の確立を目指そうとする自由主義や民主主義[注釈 3]、民族国家(国民国家)を作ろうとするナショナリズムを抑圧して王権を守るための共同体制であった[26][28]。しかしウィーン体制側の抑圧にもかかわらず、これらの思想は強まっていくばかりであり、対立は先鋭化していった[29]。
幼少・少年期[編集]
1816年にビスマルク一家はポンメルン地方に新たに得たクニープホフの農場へ引っ越した[30]。ビスマルクはここの牧歌的世界の中で幼少期を送った後、1822年に家族の下を離れて王都ベルリンのプラーマン学校に入学し、1827年秋まで在学した[31][32][33][34]。ビスマルク家はベルリンのベーレン通りにも住居を所有しており、冬はそこで過ごしたのでビスマルクにとってベルリンは見知らぬ土地ではなかった[35]。
プラーマン学校はヨハン・エルンスト・プラーマンが創始した全寮制の学校でペスタロッチの教育理念に根差した学校だった[31][36][37][18]。しかしビスマルクはプラーマン学校にいい思い出をもっていない。後年ビスマルクはプラーマン学校について「不自然なスパルタ教育」「まるで監獄だった」「この学校時代の事は面白くないことばかりだ」などと酷評した[31][38][39][40]。ビスマルクはこの学校でやらされる器械体操が嫌いだった[41]。またプラーマン学校は「万人平等」の理念を掲げていたのでビスマルクの姓に付いた貴族の称号「フォン」が煙たがられて仲間外れにされたとビスマルクは回顧している[42][43]。
プラーマン学校で6年間学んだあと、1827年から1830年までベルリンのフリードリヒシュトラーセにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに在学した[42][44][32][45][46]。ついで1830年から1832年まではクロスターシュトラーセにあるグラウエン・クロスター・ギムナジウムで学んだ[44][32][46]。両校ともヒューマニズムを理念としている名門校で多くの学者、官僚、医師を輩出していた[42]。ブルジョワの子弟が多い学校で貴族への敵意が強かったといい、ビスマルクはここで貴族意識を増大させたという[47]。
しかしビスマルクにとってギムナジウムはプラーマン学校と比べれば居心地が良かったようである。プラーマン学校の庶民的な器械体操から解放されて貴族的な乗馬に熱中することができた[48]。また両校は全寮制ではなかった。ビスマルクははじめベーレンシュトラーセのビスマルク家の自宅から登校したが、後にビスマルク家はこの自宅を手放したので以降は下宿先から登校するようになった[49]。17歳の時の成績表には「勤勉」の欄に「何事も継続せず。登校も精勤を欠く」と書かれている[48]。しかしビスマルクは歴史が得意であり[50][45]、また語学に才能を発揮した。ラテン語、フランス語、英語は特に得意であった[48]。国語(ドイツ語)も「表現力に優れる」という評価を受けている[51]。
しかしギムナジウムで親密になった友人はなく、父以外に手本としたいと思うような人物に会う事もなく、ニヒリズムに浸っていったという[47]。ビスマルクは後年の回顧録の冒頭においてギムナジウム教育を終えた時の自身の精神についてこう述べている。「私は1832年に中等教育を終えたとき、共和主義者とまではいかないまでも共和国を最も理想的な国家形態だと確信する汎神論者になっていた」、「しかし多様な影響も君主主義を旨とする生まれ持ったプロイセン的感情を消し去るほど強くは無かった。歴史において私の共感は常に権威の側にあった」[52][53][54]。
大学時代[編集]
ユンカーの息子は実家の農業に奉仕しないのであればプロイセン王室に軍人か文官として仕えるのが普通であり、ビスマルクもその道を選んだ[55]。しかしビスマルクは軍人にはなりたがらず、文官になる道を目指した[56][57]。当時のプロイセンにおいて文官になるためには大学で法律を学ぶ必要があった[58][59]。
1832年5月、当時イギリスと同君連合を結んでいたハノーファー王国ゲッティンゲンにあるゲッティンゲン大学に入学した[58][60][50][61][62]。ここに入学したのは同大学が当時中欧で最先端の大学と言われており、母親が入学を薦めたからであった[32]。
当時のドイツの大学では学生団体としてランツマンシャフトとブルシェンシャフトの二流があった[58]。ブルシェンシャフトは自由主義とナショナリズムの傾向があった[58]。代議士時代にビスマルクは自由主義・ナショナリズム思想と徹底的に戦う事になるが、ビスマルクの回顧録によると学生時代には彼は「ドイツ国民意識が強かった」といい、初めはブルシェンシャフトに近づいたという[注釈 4]。しかし所属する学生たちが決闘を拒否していることや礼儀作法に欠けていることからビスマルクの肌に合わなかったといい[58][64]、結局ビスマルクはランツマンシャフトに加入し、ゲッティンゲン大学在籍の1年半の間に25回も決闘をしている[65][66]。とりわけプロイセンを侮辱する者に対してはただちに決闘を申し込んだという[67]。
一方法律の学業はかなり疎かになっていたようである[68][69]。不良行為を理由に罰金を科されたり、大学の牢獄に投獄されたこともあった[70][71]。しかしビスマルクは後年「ゲッティンゲン時代はこの上なく幸せだった。私の黄金時代だった」と語っている[72]。
1833年9月にゲッティンゲンを離れてベルリンに戻り、1834年5月からベルリン大学に入学した[73][74][75][50][76]。この転校は借金が原因であったと思われる[77][73]。ベルリン大学でも勉学に熱心ではなく、ベルリンの貴族社交界で活動することに熱心だった[78]。ビスマルクの学業怠慢を心配した母ヴィルヘルミーネは文官ではなく軍人を目指してはどうかと勧めたが、ビスマルクには軍人になる気は全く無かった[79]。腕力には自信があったが、この頃の彼は軍隊的な規律が嫌いだった[80]。
ビスマルクは体系的な学問は続かなかったが、議論好きだったので教養を付けるのは好きだった[73]。世界観の問題、特に宗教の問題をよく討議した。この場合ビスマルクは常に不信仰の側に立ち、宗教に懐疑的だったという[81]。読書を好み、シェイクスピアやバイロンを読んで英語力を高めた[81]。
自堕落な官吏試補[編集]
1835年3月にベルリン大学を去り、5月に高等裁判所の司法試験に合格した[82]。司法官試補としてベルリンの裁判所に勤務した[83][84][85][86][50][87]。
1836年6月末までに司法官から行政官に転じる試験に合格[84][88]。アーヘンの県庁で行政官試補として勤務した[79][85][89][87]。
ビスマルクは更に外交官に転じたがっていたが、外務省からも県知事からも認められなかった[85]。またこの頃、アーヘンの社交界で知り合ったイギリス人女性たちと付き合う様になり、仕事への熱意がほとんどなくなった[85]。ビスマルクは社交界の交際費を稼ぐためルーレット賭博に手を出して借金を背負ってしまった[90][91]。英国国教主任牧師のイギリス地方貴族の娘との交際のためにビスマルクは勝手に休暇を取り、ヴィースバーデンへ移っている[92]。しかし結局経済的な問題から結婚することはできなかった[93]。
失恋に終わったビスマルクはいい加減な理由をでっちあげて更に休暇を伸ばそうとしたが、アーヘン県知事から却下された。しかし「社交界での活動が忙しいなら別の県庁に転勤するのは承認する」とされ、1837年9月からビスマルクはポツダムの県庁に転勤することになった[93][88]。
ポツダムで数か月勤務した後、1年の兵役を終わらせてしまうことに決め、嫌々ながら1838年3月末にポツダムの近衛狙撃部隊に入隊した[93][94]。ついでグライフスヴァルトのポメルン狙撃部隊に入営して兵役を終えた[95][96]。相変わらず将校になる意思は無かったので兵役を終えるとすぐに軍隊を離れた[97]。
ビスマルクは兵役後にも県庁の仕事に全く興味が持てず、ユンカーとして農業経営に携わる決意を固めた[94]。ポツダムの県庁に戻らず何カ月も休暇を取って欠勤し、1839年10月には正式に退官した[97][98][99]。
農場経営[編集]
1839年の復活祭にポンメルンのクニープホーフの農場に戻った[100][86]。兄ベルンハルトと共に農場の管理にあたった[101]。1841年に兄がナウガルト群長に選出されると兄弟間で仮の所有分割が行われ、クニープホーフとキュルツの農場をビスマルクが監督することとなった[99]。ナウガルト群長である兄の代理もしばしば務めた[100]。
1845年11月22日に父が死去すると、クニープホーフとキュルツの農場は兄に戻されたが、代わりにビスマルクはシェーンハウゼンの農場を相続した[102][103][104]。1846年2月にシェーンハウゼンに移住した[105]。
ビスマルクはポンメルンのユンカーの敬虔主義者サークルに出入りするようになり、友人であるモーリッツ・フォン・ブランケンブルクの婚約者マリー・フォン・タッデンと宗教論争を巡って親しくなっていた(マリーは信仰熱心だったが、ビスマルクは相変わらずキリスト教に懐疑的だった。マリーはビスマルクを説得することに熱中していた)[106][107][108]。そのマリーを通じてビスマルクの妻となるヨハンナ・フォン・プットカマーと知り合った[109]。ヨハンナはポンメルンの敬虔主義のユンカーの家の生まれであった[110]。1846年にマリーが催した仲間たちを集めてのハルツ山地旅行にビスマルクも参加し、ヨハンナと親密な関係になった[109][111]。そして1847年7月28日にビスマルクとヨハンナはラインフェルトで挙式した[112][113][114]。彼女との間に三子を儲ける[115]。宗教に懐疑的だったビスマルクもヨハンナの影響で信仰の道に戻り、熱心に祈祷を行うようになったという[116]。
代議士[編集]
連合州議会議員[編集]
1848年革命の前夜の1845年と1847年、ヨーロッパは不作と金融危機に襲われた。ベルリンはじめ各都市では市民暴動が多発するようになった(じゃがいも革命)[117]。折しもドイツでは自由主義者の活動が活発になっていたが、この経済危機の中でそれは増幅された[118]。こうした中、1847年2月に第6代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は勅令を出して第一回プロイセン連合州議会を召集することとなった[119][96][120]。これは各領邦の三身分会(騎士・都市・地方自治体の代表者)と領主会(王族、侯爵、伯爵の代表者)をベルリンへ集めた身分制議会であった[121][122]。
ビスマルクは5月に欠員が生じたマグデブルクの身分制議会の議員となったため、プロイセン連合州議会の議員となった[123]。ビスマルクがこの地位を得たのはシェーンハウゼン騎士領地主の身分によるものであり、ビスマルク個人の努力の要素はない[123]。しかしながらこれがビスマルクが政治の世界に飛び込むきっかけとなった[123]。ビスマルクはベルリンへ赴くと国王の寵臣であるレオポルト・フォン・ゲルラッハ少将とルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハの兄弟が率いる正統主義・敬虔主義の強硬保守宮廷グループ「カマリア」の一員として政治活動を開始した[124][125][126][127]。このゲルラッハ兄弟はあらゆる革命的政策を「悪魔の業」と看做していた[128]。
第一回連邦州議会においてビスマルクもただちに強硬保守主義者として活動した。「神の恩寵を受けた」プロイセン王権による君主主義を擁護し[129][130]、自由主義的憲法の導入を主張する反政府派の議員を罵った[131]。「キリスト教国家」を擁護し、ユダヤ人を罵った[132][133]。農民を苦しめていた地主貴族の狩猟権(野鳥獣に農作物が荒れる)を擁護し、農民の立場に立ってその撤廃を求める議員を「共産主義に導こうとしている」として批判した[134]。当時多くの貴族議員たちさえも時代錯誤として反対していたユンカーの領主裁判権をなおも擁護した[135]。
1848年革命をめぐって[編集]
1848年2月にフランス王国で民衆革命が発生しルイ・フィリップの王政が打倒され、共和政が樹立された。革命はドイツ連邦諸邦にも飛び火した[130][136]。プロイセン首都ベルリンでは連日のように民権拡大を求める自由主義者・民主主義者・ナショナリストたちの民衆集会が開かれたが、3月18日に国王軍が市民に向かって発砲したことで市民軍と国王軍が衝突した(3月革命)[137]。国王は王権の延命のために革命勢力と手を結ぶ道を選び、3月19日に市内から国王軍を撤収させて自ら市民軍の管理下に入り、宮殿中庭に安置された革命の死者の前で脱帽し、自由主義者による内閣を構成すると約束し、革命を示す黒赤金[注釈 5]の腕章をつけて市内を行進した[139][140]。
ビスマルクはこの革命が発生した時シェーンハウゼンの自邸にいた[130]。後のビスマルク自身の報告によると3月20日にタンゲルミュンデからの使者がシェーンハウゼンにやって来て黒赤金の革命旗を掲げるよう命じたという[141]。これに対してビスマルクはシェーンハウゼンの教会の旗にプロイセン王権を示す黒十字を掲げさせて返事とし、窮地の国王を革命勢力から救いださんと村民たちに村中の猟銃をかき集めさせ、ベルリン進軍の準備を開始させたという[141][142][143][144]。その後単身ポツダムやベルリンへ赴き、自らの勤王の志を伝えるとともに農民軍を率いて参じる用意がある事を政府に告げたが、すでに国王は軍隊を撤収させているとして政府から止められた[145][146][147]。ビスマルクは王弟カール王子の名前を使って王位継承権者である王弟ヴィルヘルム王子(後の第7代プロイセン王・初代ドイツ皇帝)の妃アウグスタと会見してヴィルヘルム王子の名で国王の決定を取り消す許可を得ようとしたが、アウグスタに拒否されたという[148]。このアウグスタは自由主義的な思想の持ち主で生涯を通してビスマルクに敵対した[149]。
ドイツ各邦国の自由主義ナショナリストたちはドイツ統一の道を模索するため、国民主権のドイツ憲法とそれを制定するためのドイツ国民議会の設置を要求した[150]。帝国自由都市フランクフルト・アム・マインに設置されているドイツ連邦議会も3月革命によって各邦国の代表の顔ぶれが変わったことでこれを認めた[150]。
プロイセンではルドルフ・カンプハウゼンを宰相とする自由主義政府が誕生したが[151]、カンプハウゼンはドイツ国民議会とは別にプロイセンにも独自のプロイセン国民議会を設置することを決め、その招集までの過渡期的議会として1848年4月2日から10日にかけて第二回プロイセン連合州議会を召集した[152][153]。
召集された連合州議会においてビスマルクは現在の自由主義内閣を「秩序を保った合法的状態を維持できる唯一の政府」と認めつつ[154][153]、「過去は葬り去られてしまった。国王自らが過去の棺に土をかけた今、過去を復古させることはもはや誰にもできまい。私はこの事を他のどの議員よりも悲しく思っている」と演説した[154][155]。しかしゲルラッハ兄弟はこのビスマルクの演説を「酷く無気力」「退却だ」と批判している[154][156]。
議員失職期[編集]
1848年5月はじめ、プロイセンでドイツ国民議会とプロイセン国民議会の選挙(普通選挙・間接選挙)が行われ、ビスマルクもその議員となることを希望していたが、当選の見込みがなく諦めた[157][158]。ビスマルクのような明確な反革命分子に投票する有権者はほとんどおらず、ビスマルクの居住地シェーンハウゼンの選挙区さえも彼を落選させた[159]。一時的に議員の地位を失ったビスマルクだったが、これは彼の政治キャリアの終了を意味する物ではなかった[160]。
1848年夏になると保守主義者が攻勢を強めるようになった[161]。ビスマルクはプロイセンの世論形成に大きな役割を果たした保守系新聞『新プロイセン新聞(Neue Preußische Zeitung)』(鉄十字章を紙面に使っていたことから『十字章新聞(Kreuzzeitung)』と呼ばれた)の発行に協力した[162][163][164][165]。第2回連邦州議会以来疎遠になっていたゲルラッハ兄弟との関係も修復し、ゲルラッハ兄弟を通じて国王やロシア大使、イギリス大使などと接触した[166]。
1848年5月18日からフランクフルトにおいてドイツ憲法制定のためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が開催されたが、ロシアやイギリスなどから反革命干渉を受け、さらにオーストリアも革命弾圧後にフランクフルト国民議会の使節を処刑するなどして反革命姿勢を露骨にした[167]。こうした情勢の中で国民議会は指導力を発揮できなかった。1848年11月にフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルクがプロイセン宰相に就任するとプロイセンでも革命の弾圧が本格的に開始された[168]。ベルリンは再び軍によって占領され、プロイセン国民議会は休会させられた[169][168]。
一方で国王は自由主義者の反発を抑えるためのガス抜きで1848年12月5日に自由主義的なプロイセン欽定憲法を制定した[170]。この憲法はフランクフルト国民議会が決議したドイツ憲法ほぼそのままであった。プロイセンに上下院の議会が創設されることとなり[165]、原則として下院選挙は普通選挙と間接選挙によって行われることとなった[171][172]。
プロイセン下院議員[編集]
1849年1月22日に行われたプロイセン議会下院議員選挙の中間選挙人選挙は保守派にとって有利な結果になったとは言えなかったが[173]、ビスマルクはブランデンブルク選挙区から下院議員選挙に出馬することにした[174][175]。2月5日の中間選挙人による選挙の結果、僅差ながらビスマルクが当選した。中間選挙人たちに個人的影響力があったためである[176]。
一方ドイツ国民議会もフランクフルトにいまだ存在していたが、オーストリア皇帝が自国の領土を単一不可分な物とする欽定憲法を採択し、ドイツ民族以外の他民族を大量に抱えているオーストリア帝国の現状を変える気がない事を示したことに失望していた。ドイツ国民議会としてはプロイセンにドイツ民族の指導を期待せざるを得なかった[177]。国民議会は1849年3月27日にドイツ帝国憲法(フランクフルト憲法)を決議した。同憲法は連邦制、軍事と外交は中央政府に委ねること、世襲皇帝制、立憲主義内閣、二院制議会(下院は普通・直接・秘密選挙で選出)などを定めていた。さらにその翌日ドイツ国民議会はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に選出した[178][179][180]。
1849年2月26日からプロイセン議会が招集された[181]。ビスマルクはドイツ国民議会が定めた憲法や帝冠に反対した[182][183]。国民主権を基礎とするドイツ帝国憲法は各邦国の君主から主権をだまし取っており、そのような憲法の下にドイツ統一すべきではなく、プロイセン人はプロイセン人に留まるべきであると述べた[184]。加えてこの憲法が普通選挙と議会の年次予算承認権を認めている点も批判した。ビスマルクによれば普通選挙は「各階級の政治的教養の低下と反比例して影響力を増大させる」ものであり、また議会の年次予算承認権は「普通選挙という博打で選ばれた多数派がいつでも国家機能を停止できてしまう」ものであるという[185][186]。帝冠に反対したのは王権は「神の恩寵」で与えられたものであり、国民や議会に与えられるものではないと考えていたためである[187][186]。
国王も国民主権を嫌って帝冠も憲法も拒否した[188]。しかしプロイセン下院においては左右両派がほぼ拮抗しており、右派の中にも中道立憲主義者がかなりいた[189]。そのため4月21日に下院はドイツ帝国憲法を合法とする決議を行った[181]。これに対抗して国王は同日中に下院を解散した[181]。この解散総選挙にあたって国王はプロイセン憲法の選挙制度の条項に重大な修正を加えた。普通選挙は廃され、納税額に応じた三等級選挙権制度が導入された[190][191][192]。これにより2月のプロイセン下院選挙では53議席だった保守派の議席は7月の選挙では約三分の一を占める114議席に躍進した[192]。ビスマルクも再選を果たした[175]。しかしビスマルクはかなり不人気な候補であり、この選挙制度の下であっても僅差での当選だった[193]。
国王にとって国民主権を基礎とした「下からのドイツ統一」は論外だったが、プロイセンを中心に君主主義を基礎とした「上からのドイツ統一」には捨てがたい思いがあり、5月26日にはザクセン王、ハノーファー王とともに三王同盟を結んで、小ドイツ主義(プロイセン中心のドイツ)の「ドイツ連合」と「ドイツ連合憲法」を創設することを取りきめた。しかしこの路線は既存のドイツ連邦の議長国であり、「七千万人帝国」構想を推進するオーストリア帝国との対立を深めることになった[194][195][196][197]。ドイツ連合憲法はかなりの部分がドイツ帝国憲法に沿っていたため、自由主義右派が支持していた[198][199]。
1849年8月に召集されたプロイセン下院において国王は各議員にドイツ連合やドイツ連合憲法に対する態度を表明することを求めた[200]。正統主義・神聖同盟の立場に立つ強硬保守はオーストリアとの関係を悪化させるドイツ連合には否定的だった[199]。ビスマルクも9月6日の下院演説で自由主義者がフランクフルトでの失敗に懲りずに再びドイツ憲法によって各領邦の君主から主権を奪おうとしているとして、将来ドイツ憲法を承認する際にはプロイセン議会はそれを審理する権利を留保すべきであると主張した[201]。またフリードリヒ大王だったならばオーストリアと反革命の保守的連携を組んで革命と戦ったであろうと述べた[202][203][204]。さらに演説の最後には「我々はプロイセン人であり、プロイセン人に留まりたいと思う」と締めくくり、ドイツ連合を拒否する態度を示した[205]。
1850年3月20日から4月29日にかけて三王同盟参加国によるエルフルト連合議会が召集され、ビスマルクもその議員となった[206]。ここでもビスマルクはナショナリズム派と自分の相違点を強調し、連合憲法の大幅な修正を求めた[207]。
プロイセン軍がドイツ諸邦国の憲法闘争を鎮圧した結果、各領邦は革命の不安から解放され、プロイセン中心のドイツ連合に参加せねばならない事情もなくなった。オーストリアはドイツ連邦規約に反するとしてプロイセン中心のドイツ連合の切り崩しを図り、三王同盟もやがて崩壊した[199][208]。ロシアの支持を取り付けたオーストリアの威圧を受けて1850年11月29日にプロイセンはオルミュッツ協定を結ばされ、プロイセン中心のドイツ連合建設の動きはとん挫した[209][210][211]。
プロイセンがオルミュッツ協定に反発しようとするならば再び国内の自由主義・民主主義・ナショナリズム運動を高揚させねばならなかった[212]。ビスマルクはこれを何より嫌ったため、1850年12月3日の下院においてプロイセンに屈辱的なオルミュッツ協定に賛成する演説を行った[213][214]。その中で「オルミュッツ協定はプロイセンの地位を貶めたり、その威光や名誉を失墜させるような性格のものではない」[215]、「プロイセンの名誉は、プロイセンが全ドイツの至る所で『憲法が危機に瀕している』と叫んでいる病的な花形たち(自由主義者)のためにドン・キホーテの役割を果たすことにあるのではない。」[204]、「私はオーストリアとの戦いを恐れているわけではないが、大国の唯一の健全な基礎 ―これによって大国は自らを小国と本質的に区分できる― は、国家的利己心であり、ロマン主義ではない。自国の利害に関係のないところで戦うのは大国にあるまじき行いである」[216]、「君主の助言役は敵(オーストリア・ロシア)よりも危険な同盟者(国内の自由主義者・民主主義者)から君主を守らねばならない。プロイセンがヨーロッパが追放した者の集合場所になってはならない。」[217]とする演説を行った。
外交官[編集]
連邦議会プロイセン公使[編集]
オルミュッツ協定で取りきめられた自由会議がドレスデンで開催されたが、オーストリアはドイツ連邦指導権をプロイセンに認めず、プロイセン側もオーストリア全領土をドイツへ加えることに反対した。話はまとまらず、1848年革命で停止されていたドイツ連邦議会をフランクフルトで再開することのみを決定して終わった[218][219]。
連邦議会に派遣するプロイセン全権公使にはプロイセンの利害をしっかりと主張しつつ、反革命を共通項にしてオーストリアと連携できる人物がよいと考えられた[220][221]。その中で国王は侍従武官長ゲルラッハの推挙でオルミュッツ協定の擁護者であり、熱狂的な君主主義者のビスマルクを連邦議会公使にすることを決めた。ビスマルクは1851年5月8日に国王に召集されてその旨を告げられ、さしあたって枢密参事官に任命された[218][222]。
この抜擢によりこれまであまり目立たない存在だったビスマルクに本格的にスポットライトがあたるようになった[223]。しかし反発も多く、王弟ヴィルヘルム王子は「ラントヴェーア少尉が連邦議会公使になるというのか」と不満の声を漏らしている[224][225]。宰相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルは国王の信任厚き侍従武官長の意に表だって逆らおうとは思わなかったが、行政試補の公務員経歴しかないビスマルクの重要な外交官ポストへの任用に疑問を感じていた[226]。
ビスマルクは5月11日に過渡期的な全権公使だったテオドール・フォン・ロッヒョウ中将に随行してフランクフルトへ着任した[227]。7月15日にはロッヒョウから受け継いで正式に連邦議会プロイセン全権公使となった[227][223][228]。しかしオーストリアと保守的連携を取ることは難しかった。オーストリアは革命以上にプロイセンのドイツ連邦破壊の傾向を危険視していた[229]。
ビスマルクは連邦議会議長を務めるオーストリア公使とドイツ艦隊の資金拠出問題、ドイツ連邦出版法制定問題、ドイツ関税同盟問題などをめぐって鋭く対立した[230][50]。特に関税同盟の問題は保護貿易を推進したいオーストリアと自由貿易を推進したいプロイセンで対立が深まり、バイエルン王国やザクセン王国が支持したオーストリアの関税連合案に対して、プロイセンはハノーファー王国やオルデンブルク大公国とともにドイツ関税同盟を結成して対抗する事態となった[231][232][注釈 6]。議論は白熱し、オーストリア公使ベルンハルト・フォン・レヒベルク伯爵(後のオーストリア宰相)とビスマルクの間で決闘が約束される騒ぎまで起こった(後にレヒベルクが非を認めたので行われなかったが)[233][234]。
連邦議会では議長国であるオーストリア公使は別格扱いであり、オーストリア公使と他のドイツ諸国の公使が会見する場合にはオーストリア公使は座ったまま、他国の公使は立ったまま応じるのが慣例だった。また連邦議会内で煙草を吸っていいのはオーストリア公使のみとされていた。だがビスマルクはこうしたオーストリア優位の慣習をまるで守ろうとしなかったという[235]。
フランクフルト時代を通じてビスマルクは神聖同盟など正統主義から離れ、プロイセン強化のためにはオーストリアと対決することも辞さない立場へ変更していった[144][236]。ビスマルクはかつてあれほど憎んだブルジョワ自由主義者の小ドイツ主義ナショナリズムや経済思想が反オーストリアやプロイセン大国化に役立つと評価するようにもなった。フランクフルトというヨーロッパ金融の一大拠点で生活するようになって自分のような土地貴族とブルジョワの間には共通する利害も多いと感じるようになったのである[237]。
クリミア戦争をめぐって[編集]
この時代、オスマン=トルコ帝国は「死にかけの病人」と呼ばれるほど衰退していた。かつての繁栄の残滓で中近東・北アフリカ・バルカン半島にまたがる広大な領土を領有していたものの、その内情はヨーロッパ列強の半植民地状態だった。とりわけバルカン半島と中近東への支配権拡大を狙うロシアは、通商上の特権を強要したり、バルカン半島諸国の独立や自治化を支援したりと様々な手段でトルコを浸食した[238]。
1852年2月にフランス皇帝ナポレオン3世がトルコ皇帝アブデュルメジト1世からエルサレムにおけるカトリック教徒の保護権を獲得したのに対抗し、ロシア皇帝ニコライ1世は、自分にもエルサレムのギリシャ正教徒保護権を認めるようトルコに要求したが、トルコはこれを拒否したため、露土関係が緊迫した[239]。
1853年7月にロシア軍は宣戦布告なしでドナウ川沿岸のトルコ領、モルダビア公国、ワラキア公国に進軍し、同地を占領した[240][239]。英仏普墺4国による仲裁は失敗におわり、10月16日にはトルコがロシアに、11月1日にはロシアがトルコに宣戦布告し、クリミア戦争が勃発した[241]。戦況はロシア優位に進み、ロシアのバルカン半島獲得と地中海進出を恐れた英仏は1854年3月にロシアにトルコからの撤退を求める最後通牒を送ったが、それが無視されるやロシアに宣戦布告した[242][243]。
このクリミア戦争についてプロイセンでは意見が分かれた。自由主義的保守派の貴族や官僚で構成された「週報党」[注釈 7]は親英仏政策を取るべきであり、その見返りに英仏からドイツ問題で支持を獲得し、オーストリアに対して優位に立とうと主張していた[245][246]。一方ビスマルクの政治的同志である強硬保守カマリアたちは神聖同盟擁護の立場から親露を主張した[246]。
ビスマルクの政治的立場からいって週報党を支持するわけにはいかなかったが、内心では週報党の考えに共感を寄せていたという[246]。とはいえ公的にはカマリアの一員として行動した。ゲルラッハの召集で一時的にフランクフルトからベルリンに呼び戻されたビスマルクは、英仏の最後通牒を支持すべきという週報党の意見を一蹴するのに貢献し、結果、週報党の面々は罷免され、プロイセンは中立の立場を取ることが決定された[245]。
一方オーストリアも中立を宣言していたが、彼らはこの戦争を利用してバルカン半島に影響力を拡大させようと狙っていた(とりわけオーストリアの資本家たちはバルカン半島に安定した市場を築くべくドナウ川の航行権を欲しがっていた)[242]。オーストリアはクリミア戦争参戦を睨んで、1854年4月にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に強要して普墺攻守同盟を締結させた[247]。ビスマルクはこの同盟を「我が国の美しく精強なフリゲート艦を虫食いだらけのオーストリアの軍船に繋ぎとめる物」として批判した[246]。この後オーストリアはいよいよバルカン半島への野心を露わにし、1854年6月にはロシアに対してワラキアとモルダビアからの撤退を要求し、ロシアがオーストリア参戦を防ぐために渋々応じると、9月に代わって同地を占領した。さらに12月に英仏と攻守同盟を結んだ[248]。
とはいえオーストリアは財政難の状態にあったため、単独での参戦は困難であり、ドイツ連邦軍の動員を狙っていた。1855年1月のドイツ連邦議会においてオーストリアは中小邦国を威圧してドイツ連邦軍の兵力の半分をクリミア戦争に動員することを求めたが、ビスマルクはこれを阻止すべく出兵の目的を「あらゆる方向から迫っている危険に対処するため」に変更することを提案した。この提案は対ロシア参戦したくない中小邦国から圧倒的な支持を受け、オーストリアも連邦議会内で明白な敗北を喫して議長国の威信が傷つくのを避けるためにこの提案を受け入れる羽目となった。これによってドイツ連邦軍を対ロシア戦争に引きずり込もうというオーストリアの野望は一蹴された[249][250]。
ビスマルクはクリミア戦争がいまだ終結していない1855年8月にパリ万国博覧会に出席し、そこでフランス皇帝ナポレオン3世と面会した[251][252][253]。正統主義者のゲルラッハはナポレオン3世を初代ナポレオンと同様にフランス革命の流れを汲む人物と看做して嫌っていたので、ビスマルクの訪仏を快く思わなかった[254]。ビスマルクはゲルラッハにナポレオン3世やボナパルティズムに共感など全く感じてない旨の申し開きをしている[255]。しかしビスマルクはこの1855年の時点で内心ではナポレオン3世が将来プロイセンの同盟者になりうると考えていたという[256]。
クリミア戦争はロシアの敗北に終わり、1856年2月3日のパリ講和会議の結果、ロシアは黒海に軍艦を置くことを禁じられ、またドナウ川自由航行を認めさせられた。これによりロシアは弱体化して影響力を弱め、逆にフランスが影響力を増大させた。またオーストリアとロシアの対立が強まったことで神聖同盟も事実上崩壊した。かといって戦闘に参加していないオーストリアは英仏と関係強化できたわけでもなく、孤立を深めていった[257][258]。
パリ講和会議後にビスマルクは「フランスは今や自由に同盟国を選べる立場だが、ロシアと手を組む可能性が高い」「我が国とオーストリアは利害対立が多すぎて同盟関係の構築は不可能であり、対決は避けられない」「我が国がドイツ内で強化されるにはドイツ外の協力が必要であり、フランスとロシアの同盟の中に入るべきだ」という趣旨の主張を行った[259][260]。これに反発したゲルラッハとの間で1857年春から夏にかけて書簡の往復が行われた[261]。反ボナパルティズムにこだわるゲルラッハとの意見統一は見ず、二人の距離感は広がった[262][263]。
駐ロシア大使[編集]
1858年10月7日、精神疾患の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わって政務を執るため王弟ヴィルヘルム王子が摂政に就任した[264][265]。ヴィルヘルム王子は1848年革命の憲法闘争の鎮圧軍の指揮をとった人物で自由主義・民主主義者たちから「反動の首領」と看做されていたが、后のアウグスタの影響でその後自由主義に理解を示すようになりマントイフェル宰相の親露外交や官僚政治を批判するようになっていた[266]。ヴィルヘルムの摂政就任後マントイフェル内閣は更迭され、プロイセン王家ホーエンツォレルン家の分家であるジグマリンゲン家のカール・アントン侯を宰相、ルドルフ・フォン・アウアースヴァルトを副宰相とする穏健自由主義者の貴族による内閣が誕生した(この体制は「新時代)」と呼ばれた)[265][267]。強硬保守の侍従武官長レオポルト・フォン・ゲルラッハもこの際に更迭された[268]。
ビスマルクもベルリンの新政権に嫌われて1859年1月29日に駐ロシア全権大使に左遷されることとなった[269][270][271][272]。ドイツ連邦議会を去るにあたってビスマルクは「ドイツ問題は早晩、火と剣をもって解決せねばならなくなるだろう」と予言する報告書を政府に提出した[273]。
同年2月末にフランクフルトを出て3月にロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクに着任した。4月1日にロシア皇帝アレクサンドル2世に信任状を奉呈した[274]。左遷のストレスでビスマルクはペテルブルクでよく病になった[269][275]。しかしロシアで高まる反オーストリアの機運の中、ビスマルクは自分の反オーストリア的立場がロシア皇帝やロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフなどから歓迎されていると感じた[276]。特にゴルチャコフとは親しくなり、二人は毎日のように政治談議にふけった[277]。
またビスマルクはロシア人の粗野や大雑把さに深い印象を受けたという。ある時、ビスマルクを乗せた馬車が雪の中で壊れてしまい、ロシア人の御者が修理を始めたが、何時間たっても直らないのにイライラしたビスマルクはそのロシア人を叱った。するとロシア人は肩を震わせたかと思うと突然両手を広げて「ニチエヴォー!(どうでもいいや)」と叫び出した。どんな大事や困難を前にしても「ニチエヴォー」で済ませるロシアの国民性にビスマルクは恐怖し、ロシア人だけは敵に回してはならないと思うようになったという[278]。
イタリア統一戦争をめぐって[編集]
ビスマルクがロシアに着任したころにはすでにイタリア問題をめぐってフランス・サルデーニャ王国とオーストリア間の戦争が不可避になっていた[279]。当時、北イタリアはオーストリアのハプスブルク家がロンバルド=ヴェネト王国国王として支配していたが、これに対してサルデーニャ宰相カミッロ・カヴールとフランス皇帝ナポレオン3世は「異民族の支配からイタリア民族を解放する戦い」を起こして北イタリアからオーストリアを駆逐し、同地と教皇領エミリアをサルデーニャが併合し、代わりにフランスはニースとサヴォワの割譲を受けるというプロンビエールの密約を結んでいた[280]。サルデーニャからの最後通牒をオーストリアは拒否し、1859年4月29日から両国は開戦し、フランスもサルデーニャ側で参戦した[281]。
ドイツ・ナショナリストにとってこの問題は厄介だった。もしフランスが勝利すれば、ナポレオン3世は次なる狙いをラインラントに定めてくる恐れが高く、ドイツ統一に危険信号が点る。かといってオーストリア側で参戦するのは、彼らの民族自決の原則に反した[280]。ゲルラッハ派は相変わらずの保守思想で反ボナパルティズムとオーストリア支持を表明していたが、ビスマルクは来る対オーストリア戦争に備えてフランスから好意を得ておかねばらないと考え、親オーストリア路線に反対した[282][283]。ビスマルクはロシア外相ゴルチャコフと協力してロシアがフランス側で参戦するかもしれないという印象をベルリンに送ることで政府に反オーストリア的中立の立場をとらせることに尽力した[281]。
摂政ヴィルヘルムは自分にドイツ連邦軍の指揮権が認められる場合に限り、ドイツ連邦がオーストリア側で参戦することを支持すると宣言した[284]。ビスマルクはこれに不快を感じたが、要求に応じなかったオーストリアとプロイセンの対立が深まっていったので結局ビスマルクの思惑どおりになった[285]。ビスマルクは1859年5月12日の書簡の中で「私の見る限りドイツ連邦の現状がプロイセンの欠陥であり、早急に治療できなければ我々は遅かれ早かれ鉄と火によって治療せねばならなくなるだろう」と書いている[286][287][288]。隣国を弱体化した状態に置いておくためフランスはイタリアの完全な統一は望んでおらず、また連邦軍指揮権の要求など好戦的な姿勢を強めるプロイセンの動きを警戒して1859年7月11日にオーストリアとフランスはサルデーニャに独断で休戦協定を締結した[284][289]。
1859年9月15日にフランクフルトでドイツ国民協会が組織された[290]。この組織はサルデーニャ政府に協力してイタリア統一に尽力したイタリア国民協会に触発された各ドイツ諸邦の自由主義者や民主主義者によって結成された組織であり、自由主義ナショナリズム、小ドイツ主義統一を推進した[291]。ビスマルクはどの保守政治家よりもこのドイツ国民協会に接近した[292]。彼は1860年頃には自由主義者・民主主義者の「下からのナショナリズム」をマキャヴェリズム的に小ドイツ主義統一に利用することを本格的に計画するようになった[293][294]。
自由主義勢力の台頭[編集]
1861年1月2日に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、その弟である摂政ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新しいプロイセン王に即位した[295][292][296]。
プロイセン下院では1850年代半ばまで保守派が多数を占めていたが、「新時代」内閣発足後の総選挙で保守派は勢力を落としていた。さらに1861年12月の総選挙で壊滅的打撃をこうむることとなった[297]。この選挙では自由主義左派政党ドイツ進歩党が109議席、自由主義右派が95議席、カトリック派が54議席、自由主義中央左派が52議席を獲得したが、保守派はわずか15議席しか取れなかったのである[298][299][300]。
下院の最大勢力となった進歩党は小ドイツ主義統一、自由主義的法治国家の樹立、立憲政治の確立、軍事費を含めた予算の公表などを求めた[298][301]。国王は警戒を強め、1862年3月に議会を解散するとともに穏健自由主義内閣を更迭したが[298][129]、ビスマルクは進歩党の小ドイツ主義統一論に着目し、これを利用すれば味方に引き入れられると考えていた[301]。
次の宰相にビスマルクが候補に挙がったが、王妃アウグスタはビスマルクを「彼は何の原則もない男です。どんなことでもやりかねず、万人の恐怖の的になっています」と評して宰相に任命することに強く反対した[302][303]。アウグスタは宮廷内自由主義者の中心人物だったが、ビスマルクを激しく憎み、ビスマルクの敵になる者ならばどのような政治傾向の者でも支援した[304]。
結局は反自由主義者の貴族院議長アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲンが宰相に任命された(実質的な内閣の指導者は蔵相アウグスト・フォン・デア・ハイト男爵)[305][306]。しかし1862年4月28日と5月6日の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守派の議席は更に減って11議席になり、閣僚も全て落選した。政府に協力的な態度をとった自由主義右派とカトリック派も大きく議席を落とした。一方で進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した[307][308]。政府と議会の協調は一層難しくなった。プロイセン王権の支柱は陸軍のみとなり、陸相アルブレヒト・フォン・ローンが政府の中心となった[309]。
軍部の中には議会に対するクーデタを計画している者もいたが、ローンはクーデタには慎重であり、小ドイツ主義とプロイセン王権維持を同時に遂行できる者としてビスマルクを宰相にしたいと考えた[310]。ビスマルクは国王の召集を受けて1862年5月10日にベルリンに到着した。ヴィルヘルム1世から長時間に及ぶ引見を受け、この引見によりヴィルヘルム1世のビスマルクの宰相登用への不安はだいぶ解消された[302]。しかしさしあたって下院の自由主義者たちの出方を見る必要があり、また普仏通商条約が普墺協定に違反するとしてオーストリアと外交問題になっていた時期であったので現時点での宰相交代は時期尚早として、ひとまずビスマルクは駐フランス全権大使に任命され、パリで研鑽を積むこととなった[311][312]。
駐フランス大使[編集]
フランス皇帝ナポレオン3世は新たにやってきた大使が近いうちにプロイセン宰相になる可能性が高いと知っていたので、6月27日にビスマルクをフォンテーヌブローに召集して会見を行った[313]。ビスマルクはナポレオン3世との会談について国王や外相に報告書を送ったが、それを自らの意見表明に利用した。その中で彼は「フランス皇帝は小ドイツ主義、反オーストリア、親プロイセンの立場をとることに前向きである」という印象を書き送っている[314][315]。
1862年7月初めにはロンドン万国博覧会に出席するためロンドンに赴いた。英国首相パーマストン子爵と外相ラッセル伯爵と会談した。ビスマルクは報告書の中で「イギリスはわが国の現状をよく知らず、小ドイツ主義統一への協力も得られないだろう」という印象を書いた。このような報告書を送ったのは旧週報党やドイツ国民協会、バーデン大公フリードリヒ1世をはじめとする自由主義君主グループが以前から親英を主張していたのでこれを牽制する意味があったと思われる[316]。
またこのイギリス訪問中、駐英ロシア大使館の晩餐会の席上でビスマルクは野党保守党の庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリと会った。ビスマルクはディズレーリに「私が宰相となったら、まず軍制改革を行い、力を付けた後オーストリアをやっつけて今日のドイツ連邦を解体し、プロイセン支配下の新しい連邦を作るね」と語った[317]。こういう席上で率直な心情を吐露することで逆に疑いをはらすのがビスマルクの常とう手段だったが、ディズレーリには通じなかったらしく、ディズレーリは連れに「気をつけろ。あの男は言ったとおりのことを考えている男だ」と述べたという[318][319]。
ビスマルクが外遊報告書を提出した後、王妃アウグスタは再びビスマルクの宰相任命に反対する声明を出し、その中で「B氏は連邦議会で親プロイセン国に不信感を持たせ、反プロイセン国には『ドイツの中のプロイセン』ではなく『危険な大国プロイセン』の印象だけを残した人物である」と書いた[304]。とはいえビスマルクの宰相任用は今や王権の唯一の支柱である陸軍が希望することであり、彼女にできたことはせいぜいビスマルクのベルリン召集を一度延期させたことだけだった[320]。
プロイセン宰相[編集]
宰相任命[編集]
1862年9月11日から18日のプロイセン議会は国王が推し進めようとした軍制改革[注釈 8]を盛り込んだ予算案を拒否する態度をとり紛糾した。一部の反政府派議員が妥協案[注釈 9]を提出したが、ヴィルヘルム1世はこれを王の統帥権の干犯と看做して応じようとはせず、無予算統治で軍制改革を断行する決意を固めた[324][325]。この国王の非妥協的な態度に議会は憤慨して妥協案は否決された。政府内でも意見が分かれて分裂し、王弟カール王子や侍従武官長グスタフ・フォン・アルフェンスレーベン中将、軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェル中将らが議会に対するクーデタを主張し[326]、一方蔵相フォン・デア・ハイト男爵や外相アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ伯爵らは無予算統治を行おうとする政府には所属できないとして辞表を提出した[327][328]。議会と妥協する意思もクーデタの意思もなかった国王は退位を決意したが、王位継承権者の王太子フリードリヒ(後の第8代プロイセン王、第2代ドイツ皇帝)は父王の退位を諌止した[329][330]。
この混迷した事態にローンは自分には収拾不可能と判断し、9月18日、パリのビスマルクに対して「遅延は危険(Periculum in mora)。急がれよ(Dépêchez-vous)」という電報を送った[323][331][328]。
1862年9月22日にビスマルクはベルリンとポツダムの間にあるバーベルスベルク離宮においてヴィルヘルム1世の引見を受けた[332][333]。ヴィルヘルム1世は軍制改革を断行する勇気ある大臣が現れないなら退位するという意思を伝えたが、これに対してビスマルクは自分は王権を守ることに尽くす忠臣であり、また現状でも入閣する用意があり、議会の多数派に反してでも軍制改革を断行し、辞職者が出ても怯まないことを伝えた[334][335]。これを聞いたヴィルヘルム1世は「それならば貴下とともに闘う事が私の義務だ。私は退位しない。」と述べた[336][337]。
しかしてビスマルクはプロイセン王国宰相に任じられた。またベルンシュトルフ辞職後に外相を兼務した[338]。最後までビスマルクの宰相就任に反対した王妃アウグスタに対してヴィルヘルム1世は9月23日の手紙で「軍隊再編を取り消させようとする下院はもはや軍と国に破滅を命じているに等しい。こういう鉄面皮に対抗するために同じ鉄面皮を登用することを私は躊躇わないし、躊躇ってはならないのだ」と述べている[339][340]。
ビスマルクはヴィルヘルム1世に「主君であるブランデンブルク選帝侯の危機を目の当たりにした臣下と同じ気持ちです。私の成しうる限りを陛下にお捧げいたします」と述べ、「立憲大臣」としてではなく「王朝の大臣」として国王に仕える心情を示した[334][341][342]。このビスマルクの古い君主主義の心情は18歳年長の主君ヴィルヘルム1世の心情と合致し、二人の親密さは年を経るごとに強まっていくことになる[343]。国王はビスマルク以上に正統主義や国王の威厳に固執したのでビスマルクと衝突することも少なくはなかったが、ビスマルクの幾度もの辞職願いに対して「宰相は余人をもって代えがたい」と述べて慰留し続けた[344]。
ビスマルクは後年ヴィルヘルム1世について「御老体の腰をあげさせるのは難しいことだったが、一度彼から支持を得れば彼はそれを守り通した。誠実で正直で信頼のできる人物だった。」と語っている[343]。
鉄血演説[編集]
強硬保守派と目されていたビスマルクの宰相就任は自由主義派に衝撃を与えた。イギリス王室から嫁いできた皇太子妃ヴィクトリアは、ヴィルヘルム1世とビスマルクを17世紀イングランドで議会と対立して処刑された王党派のチャールズ1世とストラフォード伯爵に例えてため息をついたという[345]。
下院の自由主義派議員たちは大議席を背景に強気を崩さなかった。国王や貴族院が受け入れないことを承知の上で9月23日の下院で1862年度予算案から軍隊再編に必要な経費を全て排除することを採択した。プロイセン憲法では予算の成立は議会と国王の一致を必要としたので議会との交渉のために9月29日にビスマルクは1863年度予算案を撤回せざるをえなくなった[340][346]。下院は政府との交渉を予算委員会に委ねた[347]。
9月30日に下院予算委員会に立ったビスマルクは、軍制改革において重要なのは国内政治闘争の観点ではなく、急迫している対外問題への対処、すなわちドイツ問題でプロイセンが有利に立つためにプロイセンの軍事力を早急に増強させることであると訴え、委員たちのナショナリズムを煽ることで彼らに軍制改革を支持させようとした。それが鉄血演説であった[347][348]。
全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される[349][350][351]。
— 1862年9月30日プロイセン下院予算委員会での演説
確かに小ドイツ主義統一はプロイセン自由主義者のテーゼであり、下院の最大勢力である進歩党は綱領でそのために必要とあらば戦争も辞さない立場を表明していた[352]。しかしこの演説は反発を招いただけだった。予算委員の一人で進歩党スポークスマンであるベルリン大学病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョーは「内政問題の解決のために戦争を開始するつもりか」と批判的に述べた[353][352]。後にビスマルク崇拝者となるハインリッヒ・フォン・トライチケも「私はプロイセンを愛しているが、ビスマルクごとき浅薄なユンカーが『鉄と血』でドイツを征服するなどと大言壮語しているとただ滑稽なだけだ」と評した[354]。
ビスマルクの政治的同志たちからも軍制改革という目標を達するのに何の役にも立たない演説として不評だった。陸相ローンは「機知にとんだ無駄話」と評した[355][354]。ヴィルヘルム1世もビスマルクの演説のせいで政府と議会との対立が深まったと聞き及び、自分が断頭台に送られる事態になるのではと不安になったが、「神から与えられた王権を守るための闘いで死すことを恐れてはいけない」というビスマルクの説得が王権神授説の信奉者である王の心をとらえ、その信任を繋ぎとめることに成功した[356]。
一方自由主義メディアは「鉄と血」の順番を入れ換えて「血と鉄」とするなど悪意ある報道をしたため、世間一般には戦争を起こそうとしている政治家という悪印象が広まった。オーストリアやバイエルンなど反プロイセン的なドイツ諸国も警戒を強めた。ビスマルクは「血とは流血のことではなく、血税で兵士を集めることを意味している。つまり戦争ではなく軍拡を求めたものだ。」という弁明を行ったが、批判熱は収まらなかった[351]。
この演説でビスマルクは「鉄血宰相」と呼ばれるようになった[357][349][358]。
自由主義者との対立[編集]
下院との協議は失敗に終わり、10月13日に議会は停会した。ビスマルクはこの際に国王を通じて当面は議会の予算決議なしで政治を行うこと、しかし憲法を無視する意思はなく、場合によっては議会に事後承認を求めることを宣言した[359][360]。これにより1866年まで政府と自由主義者の間で憲法闘争が巻き起こった[361]。
1863年1月に再び議会が招集されるとビスマルクは「憲法には国王と議会が予算で妥協できなかった場合の規定がない。しかし国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかないのでその場合政府は議会から承認を受けた予算がなくても政治を行えるべき」という空隙説を説いて正当化を図った[359][362][363][364]。ウィルヒョーはこれを違憲であるとする非難動議を提出し、下院はこれを圧倒的多数で可決した[359][365]。
折しもロシア帝国支配下ポーランドでは1863年1月からロシアの支配に抵抗するポーランド人の蜂起が発生しており、ヨーロッパ中の自由主義者はこれを民族自決運動と看做して共感を寄せていた。しかしビスマルクはプロイセンのポーランド支配地域への波及阻止や露仏の接近阻止[注釈 10]という観点から国王副官アルフェンスレーベン将軍をペテルブルクへ派遣し、2月8日に普露両国が蜂起鎮圧の追撃にあたってお互い国境越境を許し合うというアルフェンスレーベン協定を締結させた[367][368]。この蜂起をめぐっては自由主義的なフランス皇帝ナポレオン3世やイギリス首相パーマストン子爵が介入してきて、国際会議を開くことでロシアからポーランド民族主義運動への一定の譲歩を引き出そうと狙ったが、ビスマルクとロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフがそろって国際会議に反対し、イギリスとフランスの足並みもそろわず、国際会議開催は阻止された[369]。だがこうしたポーランド民族主義運動への敵対的態度によってビスマルクは国内外の自由主義者から更に激しい反発を受けるようになった[370]。
ビスマルクは下院で自由主義議員と論争しつつ、下々の自由主義者の弾圧に乗り出した。「公務員の身分を政府の見解に反する政治運動に利用してはならない」として保守思想を持たない公務員の追放を開始した。群長一人一人の免職についてを閣議にあげる徹底ぶりだったという[371]。さらに自由主義・民主主義ジャーナリズムへの弾圧を行うべく、1863年6月1日には「新聞並びに雑誌の禁止に関する勅令」(Verordnung betreffend das Verbot von Zeitungen und Zeitschriften)を出した。しかしこの命令は憲法違反であるとして下院から承認を拒否され、王太子フリードリヒからも抗議の書簡を送られる事態となり、11月には命令が取り消されることとなった[372][373][374]。
1863年5月に下院がビスマルク内閣への協力を拒否する議決をしたのを機にビスマルクは国王に下院を解散させた。10月に行われた選挙の結果、保守派が38議席まで持ち直したものの、進歩党が143議席、中央左派が101議席を確保し、自由主義陣営の圧勝に終わった[375]。結局ビスマルクはこの後4年にわたって議会の承認した予算なしで軍制改革を強行した[362][361]。ビスマルクはそれによって生じた憲法闘争という国内の亀裂を三度の対外戦争によって修復することになる[376][377]。
ラッサールとの接触と労働者保護政策[編集]
進歩党などの自由主義議員たちは三等級選挙制度で選ばれたブルジョワであった。三等級選挙制度はもともと保守派貴族を有利にすべく制定されたが、実際には自由主義ブルジョワを利するばかりだった。プロイセンで多数を占める農業労働者は地主に強く従属していたので、むしろ普通選挙の方が保守派貴族に有利と考えられるようになった[378]。
そのため自由主義者との対立の流れの中でビスマルクは全ドイツ労働者同盟指導者で社会主義者のフェルディナント・ラッサールに注目した。彼は普通選挙論者であり、自由主義の革命遂行能力の欠如と夜警国家論を嫌って進歩党を攻撃していた。また彼が求める社会政策についてビスマルクは賃金労働者を親王室にする手段と考えて前向きだった[379]。ラッサールの方も社会政策は進歩党より、むしろ「反動専制分子」のビスマルクの方が熱心と見て、ビスマルクとの接近を躊躇わなかった[380]。
二人の会談は資料で確認できるだけでも1863年5月から1864年初めにかけて5回は行われており、進歩党を共通の敵とすることや社会的王政、普通選挙の欽定などについて話し合ったようである[381]。1863年9月にはゾーリンゲンで演説していたラッサールから「進歩党の市長が10名の憲兵を引き連れて現れ、小銃抜刀で脅し、私が組織した労働者集会を何の法的根拠もなく解散させた。合法的救済を求む。」という電報がビスマルクに送られ、ビスマルクは関係部局に取り計らってやった。この一件は二人の関係について世間の注目を集めた[380][382]。1864年3月にラッサールは反逆罪に問われた法廷において「ビスマルク氏はロバート・ピールの役割を果たし普通選挙を導入するだろう」と公然と演説している[383][384][注釈 11]。こうしたラッサールの親ビスマルクぶりは、進歩党にビスマルク政府と社会主義者に挟撃されるという危機感を与え、進歩党は社会主義者を「ビスマルクの公然たる雇われ人」と呼ぶようになった[386][379]。ラッサールは1864年8月に恋愛問題に絡む決闘で死亡したが、ビスマルクは同年ラッサールの同志でその遺稿管理人ローター・ブーハーを外務省に招き、以降側近として重用した[387]。
ビスマルクの政敵である進歩党議員レオノール・ライヒェンハイムが所有するヴェステギアースドルフの工場で労働者の不満の声が高まると、ビスマルクはその工場で働く織り工の代表者3名が1864年5月6日に国王ヴィルヘルム1世の引見を受けられるよう手はずを整えた。織り工たちは国王に「生存が不可能なレベルにまで賃金が切り下げられている」と訴え、それに対して国王は可能な限りの法的救済を講じることを約した[388]。5月9日にはビスマルク自身も織り工たちと会見し、彼らに金を渡す代わりに労働者の仲間内で進歩党やその指導者である工場主をもっと攻撃するよう仕向けたものと思われる[389]。
ライヒェンハイムは賃金値上げ要求や国王への直訴に関与した織り工ら13名を解雇した[390]。これに対してビスマルクは解雇された13名の織り工を保護し、彼らにヴェステギアースドルフ生産組合を結成させた。労働者の生産組合はラッサールがかねてから提唱していた制度であり、労働者の自由な同盟と国家の援助によって労働者階級を企業体(生産組合)にし、生産を掌握させ、労働者が賃金のみならず、営業収益ももらえるようにする制度だった[391][注釈 12]。ビスマルクにとってこれはいわば実験であったが、生産組合を監督していた群長と織り工たちの対立、商業的観点の無さなどにより失敗に終わった[393]。
生産組合を諦めたビスマルクはついで労働者の団結権の保護に乗り出した。1866年2月に団結権を禁じる規定の一部廃止を盛り込んだ法案を議会に出したが、下院の反発に遭い、普墺戦争の勃発による議会の審議中断で流産した。最終的にこの法案はビスマルクが議会を掌握した普墺戦争後の1869年に成立している[394]。
デンマーク戦争[編集]
開戦までの経緯[編集]
北ドイツのシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国とラウエンブルク公国の三公国はデンマーク王が同君連合で統治していたが、住民の大多数がドイツ系であったためデンマーク王国からの分離独立運動が発生していた(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題)[377][395]。
1848年革命の際、ドイツ・ナショナリズムの高まりの中でドイツ連邦と三公国のドイツ人はクリスチャン・アウグスト2世をアウグステンブルク公として大公に擁立して1851年までデンマーク軍と戦ったが、英仏露三国の軍事恫喝を受けて撤退した(第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争)[396][397]。この時に列強各国の間でロンドン議定書が締結され、次のデンマーク王が即位したらシュレースヴィヒとホルシュタインは統一して独立国家とし、デンマーク王がその君主と決められた[397][398]。
前述した1863年1月のポーランド蜂起はヨーロッパ中でナショナリズムを高揚させた。デンマークも同様でデンマーク国民の間ではシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題についてロンドン議定書よりもデンマーク側に有利な引き直しを図ろうという運動が盛り上がった。これに目を付けたビスマルクは1863年初夏にもオーストリアと連絡を取り合い、デンマークが強硬路線を取ったらドイツ連邦に武力行使を決議させて、普墺の連合軍でデンマークを倒し、シュレースヴィヒをプロイセン、ホルシュタインをオーストリアがそれぞれ支配しようと提案し、オーストリアもこの誘いに乗った。7月にはドイツ連邦軍がホルシュタイン占領の準備を開始した[399]。
ドイツ連邦軍とデンマーク軍の睨みあいが続いていた中の1863年11月にデンマーク王に即位したクリスチャン9世はデンマーク民族主義者の支持のもと、ロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国へのデンマーク憲法の適用を強行して同国を分離・併合した[400][401][402][403][404]。これに対抗して三公国のドイツ人たちはアウグステンブルク公フリードリヒを大公に擁立してデンマークに対して蜂起した[402][405][406][401]。
ドイツ連邦諸邦国で自由主義ナショナリズムが高まり、蜂起を支援すべしとする声が強まった。特に中小邦国の君主たちはこの地にアウグステンブルク公統治の自由主義・反プロイセン的な独立公国を作りたがっていた[405]。プロイセンでも国王や下院がナショナリズムからアウグステンブルク公の独立公国を支持したが、ビスマルクは「自由主義者のたまり場」がプロイセン北方に誕生することを嫌がっており、独立国ではなく三公国をプロイセンに併合することを企図していた[407][408]。しかし国内外の反発を避けるためその意図を隠してロンドン議定書を支持しそれをデンマークに守らせるという立場をとることで、ロンドン議定書の署名国である列強各国の中立を確保しつつ、またドイツ中小邦国の自由主義化を恐れていたオーストリア外相レヒベルク伯爵と連携を深めていった[409][410][411]。
前半戦[編集]
1863年12月7日に普墺の主導でドイツ連邦議会はロンドン議定書を守らせるためデンマークに対して実力行使を行うと決議し、ザクセン軍とハノーファー軍がホルシュタインに進駐した[412][413][404][414]。
武力制裁猶予期限が切れた1864年2月1日よりフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍とルートヴィヒ・カール・ヴィルヘルム・フォン・ガブレンツ騎兵大将率いるオーストリア軍の連合軍はシュレースヴィヒへ侵攻を開始し、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発した[415][416][417]。
参謀総長モルトケはデンマーク領のユトランドへ侵攻することを提案したが、ビスマルクは列強の介入とオーストリア離脱を恐れ、ロンドン議定書違反のユトランド侵攻には反対した。この頃の参謀本部の権威は微妙だったので、この時点ではユトランド侵攻は延期となった[417]。だがデンマーク軍はデュッペルの要塞に籠城してしまったため、1864年3月初めになって普墺両国は「デンマーク側はまるでロンドン議定書を守ろうとしないので、こちらもこれ以上ロンドン議定書を守る義務はない」と宣言し、ユトランド侵攻を開始した[418]。しかしデンマークは海軍力において優っていたので、デュッペル要塞で抵抗を続けた[419]。
1864年3月にデュッペル要塞を攻撃するか否かをめぐってプロイセン軍部に議論が起こった。参謀総長モルトケは犠牲が出過ぎるとしてデュッペル要塞攻撃に反対したが、ビスマルク、陸相ローン、軍事内局局長マントイフェルは要塞攻撃に賛成した。ビスマルクは国内の自由主義派の懐柔のために目に見えて分かりやすい戦果が必要だと考えていた[420]。結局1864年4月18日に同要塞への攻撃が敢行され、多くの犠牲を出しながらもその日のうちに同要塞を陥落させることに成功した[421][422][408]。
ロンドン会議決裂と後半戦[編集]
一方、イギリス首相パーマストン子爵と外相ラッセル伯爵はシーレーンの関係から親デンマーク的であり、ドイツを排除したがっていた[423]。両者は親独派のヴィクトリア女王の反対を抑えながら戦争の調停に乗り出し、ロシアとフランスからロンドンでの国際会議開催に同意を取り付けた後、2月20日にデンマーク、プロイセン、オーストリアの当事国三国に対して「希望するならロンドンで調停の会議を開いてもよい」と申し出た[424]。普墺は2月23日にもロンドン会議開催に同意の回答を出した。しばらく渋ったデンマークも3月16日には同意した[425]。
こうして4月25日からラッセル伯爵を議長とするロンドン会議が開催された。ビスマルクはこの会議のプロイセン代表として元外相の駐英大使ベルンシュトルフ伯を送っている。会議ではパーマストン子爵とラッセル伯が早々に親デンマーク・反ドイツ的態度を露わにした[426]。だがドイツ側はこれに反駁する余裕があった。そもそも外交交渉には軍事力の裏付けが必要だが、精強なイギリス海軍は世界に散らばっており、一方イギリス陸軍の脆弱ぶりはクリミア戦争で世界的によく知られるようになっていたからである(ビスマルクも「イギリス陸軍など上陸してきても地元警察に逮捕させればよい」と豪語していた)[427]。イギリスとしては会議を成功させるならフランスとロシアの協力が不可欠だったが、両国とも現状に不満があるため、イギリスと協力してウィーン体制を守ろうなどという意思はほとんどなくなっていた[428]。5月9日のヘルゴラント海戦でデンマーク海軍がオーストリア海軍に勝利したことでデンマークの態度が強硬になったことも影響し、会議は紛糾、6月25日に決裂した。その前日のパーマストン内閣の閣議でイギリス政府はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題から手を引くことが決定された[429]。
こうして戦争は再開され、後半戦ではモルトケがデンマーク侵攻軍の参謀長に就任して指揮を執ることになった[421]。彼の見事な作戦によりプロイセン軍は瞬く間に勝利をおさめ、7月12日にはデンマークは講和を申し出た[430][401][431]。普墺とデンマークは1864年8月1日に仮講和条約、10月30日にウィーン講和条約を結び、デンマークの三公国に関する権利はすべて放棄されることとなった[415][432][433][434]。三公国は普墺の共同統治下に置かれることとなったが[401][435]、普墺ともにアウグステンブルク公の統治は認めなかった[415]。
国内的立場の強化[編集]
デンマーク戦はビスマルクの国内的立場の強化にも資した。自由主義者たちはアウグステンブルク公統治の自由主義的な独立公国の誕生を望んでいたので、それが実現しないことに不満もあったが、それよりも両公国をデンマークから解放するという民族の悲願を達成したことへの評価の方が大きかった[436]。自由主義右派の新聞『ナツィオナールツァイトゥング』紙は「ビスマルクはプロイセンをピエモンテ(イタリア統一の中心となったサルデーニャ王国)たらしめた」と評価した[437]。ビスマルクが成功させつつあるドイツ問題の解決を憲法闘争より優先すべきという意見がプロイセン自由主義者の間で強まった[438]。
憲法闘争を軍事クーデタで解決すべしと主張していた政府内の強硬保守派の発言力も弱まり、政府内におけるビスマルクの地位は不動のものとなった[401]。軍事内局局長マントイフェル中将はなおも議会に対するクーデタにこだわり、また親墺の立場からビスマルクの反墺政策に反対する姿勢を示していたが、彼はビスマルクとローンの策動で1865年6月にシュレースヴィヒ総督に「栄転」させられて中央から追い出された[439][440]。反ビスマルク派の王妃の腹心である宮内相アレクサンダー・フォン・シュライニッツはこうした状況を「人々は成功を収めた暴力行為の前に屈服してしまった」と苦々しげに語った[438]。
プロイセン議会は1864年1月に閉会されてから憲法闘争を激化させまいとしたビスマルクの遅滞戦術によって丸々1年召集されなかったが、この戦勝の後ならば反政府派も政府と協調するだろうと考えてビスマルクは1865年1月にふたたび議会を招集した[441]。しかし期待に反してこの段階でも議会は憲法闘争における政府の屈服を求め、再び軍事予算の減額を要求して国王の統帥権を干犯しようとした[442]。ビスマルクが議会に提出した予算案や兵役法案は成立することなく6月に議会は閉会し、無予算統治が継続された[443][444]。この状況を打破すべくビスマルクはオーストリアを追い詰めることによって更なる小ドイツ主義統一を推し進めていく。
深まるオーストリアとの対立[編集]
シュレースヴィヒとホルシュタインはプロイセンにとっては近しい位置にあり、海権拡張の拠点となる要衝だったが、オーストリアにとっては遠隔地に過ぎなかった。そのため、オーストリアでは同地の統治権に魅力を感じる者は少なく、同地の統治権をプロイセンに渡す代わりに代償の土地をプロイセンからもらうべきという意見が強まったが、その代償地をめぐってオーストリア内部で意見が統一できず、ビスマルクもオーストリアとの戦争は不可避と考えていたので対立要因を消す意思がなく、この案は実現には至らなかった[445][408]。この案が立ち消えるとオーストリアはドイツ連邦中小邦国の間で人気のあるアウグステンブルク公統治の独立公国を目指さざるをえなくなった。両公国をただプロイセンに譲ることになってはオーストリアは「騙された国」になってしまい、ドイツ連邦議長国としての威信が傷付く恐れがあったからである[446]。
プロイセン国内でも皇太子フリードリヒをはじめ自由主義者を中心にアウグステンブルク公支持の声は根強かった。両公国の併合を目論むビスマルクとしてもこうした声をないがしろにするわけにはいかず、1865年2月には「2月宣言(Februarbedingungen)」を出した。これは形式的にアウグステンブルク公統治の独立公国の誕生を認めつつ、実質的にはプロイセンに併合されるも同然の軍事的支配下に置く内容だった。アウグステンブルク公はこれを拒絶し、オーストリアもアウグステンブルク公を煽ることでプロイセンの企図と影響力の拡大の阻止に努めた。これによりプロイセン国内では徐々にアウグステンブルク公擁立論が弱まっていき、アウグステンブルク公擁立に血道を上げるオーストリアとの対決路線が強まっていった[447]。
軍制改革の成果がデンマーク戦役で示され、プロイセン国内には「オーストリア恐れるに足らず」という軍事的自信が付いていた[448]。また経済的にもプロイセンが有利に立っていた。1864年頃からプロイセンを中心とした自由貿易主義の関税同盟がオーストリアを中心とした保護貿易主義の関税連合構想に対して勝利を収めようとしていた[注釈 13]。このこともプロイセン内外の自由主義ブルジョワジーの支持をプロイセンに引き付けるのに役立った[451]。
1865年5月29日の御前会議では両公国をプロイセンに併合することをプロイセンの目標と定め、場合によってはオーストリアと戦争する可能性も示唆された[452]。この席上ビスマルクは「普墺戦争勃発の場合、露仏は好意的中立の立場を取るだろう」との見通しを発表したものの、実際にはフランスとロシアの立場は不透明だった[注釈 14]。特にフランスはこの頃メキシコ出兵が失敗に終わるのが確実な情勢となっており、その後、名誉挽回のため中欧に野心の矛先を向けてくると考えられていたため厄介な相手だった[453]。また両公国の併合という人気のない目的で戦争を始めると他の列強も領土欲のままに中立の立場を取る代償を要求してくるだろうし、ドイツ諸国の自由主義者からも「兄弟戦争を起こす者」と不興を買ってドイツ内に反プロイセン連合が形成される恐れがあった。国内の自由主義者も徐々にビスマルクを評価するようになっていたとはいえ、アウグステンブルク公支持の感情はいまだ根強いものがあったので、国内的な分裂を招く恐れもあった[455]。
結局ビスマルクとしては普墺戦争の大義を獲得し、また対デンマーク戦争のように当事国以外参加しない状況が確保できるまでうかつに普墺戦争を開始することはできず、1865年の丸1年間、戦争の先延ばしを図らねばならなかった[453]。
ガシュタイン協定とビアリッツの密約[編集]
1865年7月、オーストリアで内相アントン・フォン・シュメルリンク率いる自由主義政権がハンガリー問題に躓いて退陣し、リヒャルト・ベルクレディ伯爵を首相とする保守政権が誕生した[456][457]。オーストリア外相に就任したグスタフ・フォン・ブローメ伯爵も強烈な保守主義者であり、自由主義やアウグステンブルク公を激しく憎んでおり、ビスマルクと保守的連隊を図ることを希望していた[458][459]。
ビスマルクはこれを利用して、オーストリア・ガシュタインにおいてブローメと会談し[456]、時間稼ぎの意味で8月14日にガシュタイン協定を普墺間で締結した[460][446][461][462]。この協定によりシューレスヴィヒをプロイセン、ホルシュタインをオーストリアが統治し、ラウエンブルクに関するオーストリアの権利はプロイセンに売却されることになった[463]。
アウグステンブルク公の独立公国を認めていないこの協定はドイツ連邦中小邦国や自由主義者の目の敵にされたが、その批判は一貫して独立公国を否定してきたプロイセンより、一度は独立公国を支持しながら手の裏を返す形となったオーストリアに集中した。自由主義者や中小邦国から「裏切り者」扱いされるようになったオーストリアの威信は大きく損なわれた[462][464][438]。
ガシュタイン協定を結んでもビスマルクのオーストリア打倒の決意は変わっておらず、早急にフランスから好意的中立を確保しようとした。フランスでは皇帝ナポレオン3世が比較的親普的であったが、皇后ウジェニーと外相エドゥアール・ドルアン・ド・リュイスは親墺的だった。ただナポレオン3世もガシュタイン協定のことは不快に思っていた。この協定はプロイセンが独立公国を認めずに民族主義を蹂躙していることの象徴であり、また普墺の対立から漁夫の利を得られなくなったと考えたためである[465]。普墺が親密な関係になることでその矛先がフランスに向いてくることも恐れていた[466]。
ビスマルクはナポレオン3世の警戒感を解こうと8月末に駐プロイセン・フランス代理公使ベエーヌ・ド・ルフェーヴルと会見し、ガシュタイン協定は暫定的なものに過ぎないことを強調した。その証拠に協定は意識的に曖昧な表現をしており、近いうちに必ずやプロイセンとオーストリアの間で対立が発生することを確約した。さらにプロイセンがドイツの覇権を握るという「最終的解決」が達成された際には「フランスが人種や言語を同じくする地域(恐らくベルギーのこと)に領土拡張を図ることに反対しない」とも言った[467]。
さらに10月には南フランスの保養地ビアリッツを訪問し、同地に滞在中のナポレオン3世の引見を受けた。この会談の詳細はよく分かっていないが[468]、ビスマルク本人の書状によればビスマルクはガシュタイン協定が一時的なものに過ぎないこと、またプロイセンが両公国を併合することはプロイセンが終始フランスとの交友関係を必要とするようになる点を強調してナポレオン3世のプロイセンへの不快感を取り除くことに努めたという[469]。またこの会談で来る普墺戦争のフランスの中立とライン川左岸のフランスへの割譲が口約されたともいわれる(ビアリッツの密約)[470][468][471]。またオーストリアに対して北イタリアのヴェネト州に関する何らの約束もしていないことを明言しつつ、イタリアとの同盟の承認を得たともいわれる[472]。ただしこの密約は成文としては存在していないため、正確なところは定かではない[470]。ナポレオン3世もビスマルクもマキャベリスト的鉄面皮で知られていたので何か重大な密約が結ばれたのだろうという推測を多く残している[473]。
オーストリアと決裂[編集]
シュレースヴィヒやホルシュタインのドイツ人はアウグステンブルク公統治の独立公国になることを望む人が多数派だったのでプロイセンやオーストリアの支配に対する抵抗運動は激しかった。これに対してプロイセンのシュレースヴィヒ総督マントイフェルは徹底的弾圧をもって臨んだが、オーストリアのホルシュタイン総督ガブレンツは温和な統治で臨んだ[462]。1866年1月23日にはガブレンツ総督の許可の下、アルトナでアウグステンブルク公派の集会が行われた[477][443]。ビスマルクはこれをガシュタイン協定違反として追及し、ホルシュタイン公国の引き渡しを求めたが、オーストリアはこれを拒否した[443]。
2月28日の枢密院会議はオーストリアとの開戦やむなしとの結論を下し、またイタリアとの軍事同盟を目指すことが確認された[471][478][479]。ビスマルクはこの席上で「プロイセンこそが旧ドイツ帝国の廃墟の中から生まれ出た唯一の生存能力を持った政治的創造物である。プロイセンがドイツの頂点に立つ権利を有しているのはそのためである。しかるにオーストリアはプロイセンに嫉妬し、プロイセンの努力を昔から妨害してきた。指導能力などないくせにドイツ指導権をプロイセンに渡すまいとしてきた」「ドイツ連邦はフランスからドイツ国土を防衛するために結成されたにすぎない存在だった。真に民族的な意味を持ったことなど一度もなかった。連邦をそうした方向へ向かわせようとするプロイセンの試みは全てオーストリアによって潰されてきた。1848年はプロイセンにとってチャンスの年であった。もし当時プロイセンが演説ではなく剣でもって運動を指導していたならば恐らくはもっと良い結果が達成できていただろう」と語り、改めてナショナリズム運動と手を組んでオーストリアを打倒する意思を示した[480]。
イタリアではイタリア統一戦争の結果、1861年にサルデーニャが母体となってイタリア統一国家イタリア王国が誕生していたが、いまだローマ周辺の教皇領とオーストリア領ヴェネトがイタリア統一の課題として残されていた。ヴェネト領有権を餌にイタリアを味方に引き入れ、1866年4月8日の普伊秘密協定でイタリア参戦の約束を取りつけた[481][482][483][484]。
またドイツ中の自由主義・民主主義・ナショナリズムの支持を得るべく、1866年4月9日にドイツ連邦議会に対して普通・直接・平等選挙によるドイツ国民議会を創設することを提案した[485][486]。ドイツ連邦を根本から改革する提案に等しく、オーストリアがこれに反対するのは分かりきっていたので、それによって「民族に背を向けるオーストリア」「民族のために戦うプロイセン」を自由主義者に印象付けようとした[487][488]。
財政上の困窮と保守大国との戦争で自らの君主政体にも危機が及ぶことを懸念してプロイセンとの開戦をためらっていたオーストリアも普伊両国の奇襲攻撃を恐れ、1866年4月末には戦争路線を決定した[489]。
5月7日にビスマルクは革命家カール・ブリントの養子でテューリンゲン大学学生フェルディナント・コーエン=ブリントに狙撃される暗殺未遂を受けた[490]。逮捕されたコーエン=ブリントは警察の取り調べ中に自殺したため、犯行の動機は不明だった[476]。プロイセンと敵対する南ドイツの新聞は暗殺未遂犯を好意的に報道した[491][476]。ビスマルクはこの暗殺未遂事件をもロシアの取り込みに利用し、自分は革命勢力から命を狙われるほどの熱心な君主主義者であることをロシア皇帝の耳に入るようにするよう駐ロシア大使ハインリヒ・フォン・レーデルン伯爵に命じている[492]。
一方ナポレオン3世は開戦直前の1866年6月12日にオーストリアとの間に墺仏秘密協定を締結していた。これはフランスが中立を守る条件としてオーストリア勝利後にヴェネト州の領有権をフランスを介してイタリアに渡すことを約定したものだった(フランスから条件を付けてイタリアに渡すことでイタリア統一をフランスがコントロールできる)[493][481]。またこの際にオーストリアは口頭でだが、バイエルンやヴュルテンベルクなどライン諸邦国がかつてのライン同盟に類似した新ドイツ連邦を作り、フランスと近しい関係になることに反対しないことを約した[493]。
ナポレオン3世は戦況はプロイセンに不利と見ており、プロイセンが危機に陥ったのを待ってプロイセンにもそれ以上の要求を行うつもりだった。フランスの企みを阻止するためにはフランスが介入してくる余地のない素早い軍事的成功が必要であった[494]。
普墺戦争[編集]
開戦[編集]
1866年6月1日にオーストリアがガスタイン条約を破棄してシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題の裁決を連邦議会に委ねたことで普墺両国は最終的に決裂した[495][496]。6月9日にプロイセン軍がオーストリア統治下のホルシュタインへ進駐した[496][497][498]。これに対抗してオーストリアは6月11日の連邦議会でプロイセン軍を除外したドイツ連邦軍を動員することを提案した。6月14日の採決でバイエルンの折衷案(オーストリアとプロイセンをともに除外したドイツ連邦軍の動員)が中小邦国の支持を集めて決議された[499][498]。オーストリアには「侵略国プロイセン」と同列に扱われていることに不満もあったが、これ以上の動員案を決議させるのは難しそうだったのでオーストリアもこの折衷案を支持した[500]。
これに対して連邦議会プロイセン公使はビスマルクの事前の指示通り、「この動議は宣戦布告に等しく、連邦規約違反である。したがってプロイセンは連邦条約はすでに効力が消滅しており、拘束力も失われているものと解する。プロイセンは自らが提案した改革に基づき、プロイセンに協力する意志のある他のドイツ諸邦とともに新しい連邦を立ち上げる用意がある」と宣言して連邦議会を去った[501]。
ビスマルクはドイツ諸邦を一国でも多くプロイセン陣営ないし中立の立場にすべく小ドイツ主義支持を求める外交工作を行っていたが、失敗した。バイエルン、ヴュルテンベルク、ザクセン、ハノーファーなど中邦国の多くは連邦議会議長国オーストリアに付き、プロイセン側についたのは北ドイツや中部ドイツの小邦国のみだった[490]。
6月15日にプロイセン軍がザクセン、ハノーファー、ヘッセン選帝侯国に侵攻を開始し[502]、16日に連邦議会がプロイセンに対する制裁を決議[496]、18日にオーストリアがプロイセンに宣戦布告して普墺戦争がはじまった[503]。
迅速な勝利[編集]
ビスマルクが政治的な戦争準備を進めていた間、参謀総長モルトケは軍事的な戦争準備を行っていた。モルトケは鉄道敷設に力を入れ、これは軍制改革で動員能力が上がっていたことと合わせてプロイセンの軍事的効率性を大いに高めていた[504][505]。
開戦直前の1866年6月2日に軍司令官への命令権が認められたモルトケは軍事に口を差し挟もうとするビスマルクを抑えながら指揮を執り、ハノーファー軍、ついでバイエルン軍を撃破し、連邦議会のあるフランクフルト・アム・マインを占領した[506]。そして7月3日のケーニヒグレーツの戦いにおいてオーストリア軍とザクセン軍の連合軍に対して決定的な勝利を収めた[507][508]。
ケーニヒグレーツの戦いの際にビスマルクは国王やモルトケとともに高地から戦況を観察した。緒戦の不利な戦況を見て心配になったビスマルクがモルトケに葉巻を勧めたが、モルトケは目の前に出された葉巻入れの中から一番高い葉巻を取ったため、ビスマルクはモルトケの冷静さを確信して安堵したという逸話がある[509]。皇太子フリードリヒ率いる援軍が到着し、ケーニヒグレーツの戦いはプロイセン軍の勝利に終わった。この際にビスマルクは国王の侍従武官から「閣下、閣下は今や偉大な人物になられました。もし皇太子殿下の軍の到着が遅すぎたら、閣下は最大の悪人になるところでした」という戦勝報告を受けた[510]。自由主義者である皇太子フリードリヒはこの戦争に反対していたが、一たび開戦した後は軍司令官の役割をしっかり果たした。ビスマルクも戦勝後に真っ先に皇太子と会見して彼を称えた。二人は生涯を通じて仲が悪かったが、この戦争中には稀に見る友好的な雰囲気だった[511]。
オーストリア軍は包囲を脱して撤退に成功したものの、すでに趨勢は決しており、オーストリア政府はプロイセンと講和に入るしかなかった[512]。一方プロイセン軍の方はウィーン進軍の機運が高まっていたものの、占領地域の拡大によりプロイセン軍も補給不足に陥っていた。プロイセン軍による現地調達が容赦なく行われ、ボヘミア、モラヴィア、シュレージエンなどではそれに反発する地元民の蜂起が発生していた。これらが拡大すればこの戦争がオーストリアの反プロイセン国民戦争と化す恐れがあった[513]。ビスマルクにとっての主目標(オーストリアのドイツからの排除とプロイセンの北ドイツの覇権確保)を達するための戦果はもう十分であり、ビスマルクは早急の講和を希望していた[514]。
講和をめぐって[編集]
オーストリアから打診を受けたのを機に7月5日からフランス皇帝ナポレオン3世が「調停者」になると申し出ていたので、ビスマルクは休戦協定にあたって彼と協議せねばならなかった[515][516]。7月14日までにプロイセンとフランスの間で休戦案が作成され、オーストリアに通知された。オーストリアは自国の独立と自国に最も忠実に戦ったザクセン王国の領土保全を条件としてこれを受け入れた。これにより7月22日から両国は休戦し、講和交渉がはじまった[517]。
ナポレオン3世としては出来る限りドイツを分裂状態のままにしておきたかった[516]。その感情に配慮してビスマルクは北ドイツ支配権のみ要求し、南ドイツ諸国は独立させたまま、場合によっては南ドイツ連邦を作ってもらっても構わない旨をナポレオン3世に伝えた[518]。ナポレオン3世もそれを承認したことで北ドイツ諸国がプロイセンに併合されることはほぼ確定的となった[519]。
またビスマルクはオーストリアに対しては領土割譲要求は一切せず、賠償金も最低限度という寛大な講和条約案を提示しようと考えていたが、これには主君であるヴィルヘルム1世から反対があった。ヴィルヘルム1世はオーストリア帝国とザクセン王国がこの戦争の主犯と考え、道義的罰としてこの二国から領土を奪い、また多額の賠償金を支払わせたがっていた[520][514]。しかしビスマルクは「オーストリアはドイツから締め出されてもヨーロッパというチェス盤の良質な駒であり続けます」「もしオーストリアに酷い損害を与えたらオーストリアはフランスと反プロイセン的な同盟を結ぶでしょう。プロイセンに復讐するためには犬猿の仲のロシアとさえ接近するかもしれません」と反論し、フランスやオーストリアからの要請に従ってこの二国の領土には手出しすべきではないと主張した[521]。代わりにフランスが小ドイツ主義統一を行うことを許可していた北ドイツ敵国(ザクセン以外)を併合すべきと述べた[521]。しかしヴィルヘルム1世は正統主義の立場から君主家の廃絶を嫌がり[522][523][515]、またオーストリアやザクセンのような「主犯格」が「無罪放免」にされて北ドイツ諸国だけが併合されることに納得しなかった[515]。これに対してビスマルクはオーストリアが納得できる条件でなければ第三国の介入なしには戦争を終結させられなくなると反論した[515]。この論争は皇太子フリードリヒがビスマルクを支持する介入をしたことで7月25日になってようやくヴィルヘルム1世が折れて終結した[524][525][526][527]。
こうして7月26日にニコルスブルク仮条約が締結され、さらに8月23日にはプラハ本条約が締結された[528][529]。これによりハノーファー王国、ナッサウ公国、ヘッセン選帝侯国、自由都市フランクフルト・アム・マインなどがプロイセンに併合された[528]。一方オーストリアに対してはわずかな額の賠償金だけで領土割譲は一切ない歴史上稀に見る寛大な休戦協定となった[530]。ただしこの条約によりオーストリアが議長国を務める既存のドイツ連邦は解体され、オーストリアは今後ドイツ統一に不干渉の立場をとることが決められた[531]。ドイツから追放されたオーストリアはこの後東方帝国の性格を強め、ハンガリー民族運動との妥協が図られ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国と改名することとなった[532]。南ドイツ諸邦国にも賠償金や領土割譲はなく、代わりにプロイセンと攻守同盟を結ぶことのみ要求された。南ドイツ諸邦国は胸を撫で下ろして要求に応じた[533]。
一方ナポレオン3世は国内右派の人気取りのためライン川左岸を欲していた[534]。しかしそれによってドイツ・ナショナリズムを憤慨させて反ボナパルトを共通項にしたドイツ統一運動が燃え広がらせないよう配慮しなければならなかった[535]。こうした立場からナポレオン3世は領土割譲要求を出したり、南北ドイツが連合しない補償を求めたかと思えば、突然譲歩するといった不明瞭な態度に終始することになった[535]。ナポレオン3世からの領土割譲要求に対してはビスマルクは「必要とあればドイツ・ナショナリズムを解き放ちフランスと対決する」と公然と脅迫して阻止している[519]。
ロシア外相ゴルチャコフもドイツ統一を妨げようと介入を図ってきたが、こちらはビスマルクがハンガリーに革命政権を作る(ビスマルクは戦争中オーストリア支配下のハンガリーの独立運動家と接触して支援していた)と脅迫することで阻止できた(ロシアは隣国に革命政権を作られて自国の農奴解放運動と結び付く事を恐れた)[536]。フランスも自国以外の介入は望んでいなかったのでロシアの介入阻止を図った[537]。
議会掌握[編集]
普墺戦争によってビスマルクのプロイセン国内における地位も大幅に強化された。ビスマルクの1866年の国家運営は自他ともに「上からの革命」と評された[538]。
ビスマルクは戦争中に総選挙を行えば有利な国内状況を作れると踏んで1866年5月9日にプロイセン議会を解散させていたが[490]、ケーニヒグレーツの戦いがあった日に行われた下院総選挙で進歩党など反政府派は議席を落とし、政府支持を訴える保守派が大躍進した[508][539][540][541]。政府支持派は中道諸派を合わせると過半数の議席を獲得した[542]。保守派の中でも正統主義に固執する強硬保守勢力は勢力を弱め、ビスマルクを支持する自由保守党(de)が最有力勢力となった[508]。この選挙結果を受けてビスマルクは1862年以来の無予算統治に事後承認を与える事後承認法(免責法とも訳される)(de)を議会に議決させ、憲法闘争を終結させた[508][543][544][541][545]。この事後承認法に賛成するか否かをめぐって進歩党は分裂し、賛成する議員たちは進歩党を出て国民自由党を結党した[508]。自由保守党と国民自由党は北ドイツ連邦国会でも多数派を占め、ビスマルクにとって重要な与党勢力となった[546]。
普墺戦争以降プロイセン自由主義者の主流派はビスマルク政府を支持して政治より経済の自由を追求する勢力になっていく[547]。
北ドイツ連邦樹立[編集]
1866年8月18日にプロイセンと北ドイツ諸邦の間で結ばれた協定によりプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が創設された[548]。フランスの要求通り、マイン川以南のバイエルン王国、ヴュルテンベルク王国、バーデン大公国の3国、およびヘッセン大公国のオーバーヘッセン以外の地域は北ドイツ連邦に参加しないこととなった[548]。前述したようにこれらの国々とは個別に秘密攻守条約を結び、有事の際にはプロイセン王の指揮下に軍隊を提供することを約定させた[535][532]。南ドイツは引き続き反プロイセン的な論調が支配的だったが、フランスに対する危機感はプロイセンと共有していたのである[549]。
解体されたドイツ連邦が独立国家の連合に過ぎなかったのに対して、北ドイツ連邦は盟主であるプロイセンの権力が圧倒的に強く連邦国家に近い物であった[550]。プロイセン国王が兼務する連邦主席(Bundespräsidium)がトップだが、連邦主席の国事行為には連邦主席に任じられた連邦宰相の副署が必要とされていたため[550]、連邦宰相となったビスマルクに強大な権限が与えられる政治体制であった[551]。立法府として帝国議会(Reichstag)と連邦参議院(Bundesrat)が置かれた。帝国議会は全ドイツ国民から普通選挙で選出された議員から構成され、その選挙方法は当時最も民主的だったと言えるが、帝国議会の力自体は極めて弱かった。議会に対して責任を負う内閣が存在せず、また議会は予算審議権も持っていなかったからである[552]。多くの立法が委任されはするが、加盟邦国の代表から成る連邦参議院の賛成がなければ法律は通らなかった[552]。
ビスマルクの次なる課題はプロイセン一国覇権の下に南ドイツ諸邦国を北ドイツ連邦と統一することであったが、それには南ドイツの反プロイセン感情とフランスのドイツ分断政策への対処が必要であった[553]。南ドイツの反プロイセン感情は彼らの主流の宗教たるカトリック(プロイセンはプロテスタントが主流)とプロイセンの権威主義的・官憲絶対的な体質に対する民主主義者の反発に根ざしていた[554]。1868年2月から3月に行われたドイツ関税議会選挙において南ドイツ諸邦国では独立派が圧勝し、小ドイツ主義統一を拒否する国民世論がはっきり示された[554]。ビスマルクとしてはこの南ドイツの空気を変えるためにフランスとの対立を煽ってドイツ・ナショナリズムを高める必要があった[554]。
ルクセンブルク問題[編集]
メキシコ出兵に失敗してフランス国内で批判を集めていたナポレオン3世は名誉挽回の領土拡張政策としてルクセンブルク大公国を同国の同君連合の君主オランダ国王ウィレム3世から買収することを考えた[555][556]。ルクセンブルクはウィーン会議によりオランダ国王の所有地となっていたが、オランダと国法上のつながりはなく、旧ドイツ連邦やドイツ関税同盟に加盟しており、その沿革でプロイセン軍が駐屯していた[557][558][559]。
ウィレム3世はナポレオン3世の提案に乗り気だったが、ドイツ・ナショナリズムの強い反発を招いた[555][560]。ビスマルクは南ドイツと北ドイツ連邦の関係改善のチャンスとみて駐ベルリン・フランス大使ヴァンサン・ベネデッティ(fr)との交渉に曖昧な態度を取ってこの問題を長引かせようとした[561]。南ドイツ諸邦との秘密攻守同盟の存在を公表し[562]、さらに直接にはフランス批判をせずに国民自由党党首ルドルフ・フォン・ベニヒゼン(de)に北ドイツ連邦議会においてフランス批判演説を行わせ[563][564][565]、この演説を大々的に報道させることでドイツ諸邦国で反フランス機運を高めさせた[566][567]。
もっともビスマルクは北ドイツ連邦憲法がいまだ制定されていなかったこの段階でフランスと戦争をする意思はなかった。憲法制定前に南ドイツとの統一に動いてしまうとドイツ・ナショナリズムに配慮して国民主権・民主主義的な憲法を制定する羽目になる恐れがあったからである[568]。
結局ルクセンブルク問題は列強が介入し、1867年5月7日から11日にかけてロンドン会議(en)が開催された結果、ルクセンブルクは永世中立国となり、プロイセン軍は同国から撤収することで決着した[569][570]。しかしこの問題で普仏関係は険悪となり、特にフランス国内には対プロイセン主戦派が形成されるようになった[571]。
スペイン王位継承問題[編集]
1868年9月にスペイン女王イザベル2世がフアン・プリム将軍らスペイン軍部のクーデタによりパリへ追われた[572][573][574]。プリム将軍は共和政より立憲君主制を志向し、1869年春頃にホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカール・アントン侯(「新時代」期のプロイセン宰相)の息子レオポルトが新スペイン王候補として浮上した[574][575][576][577]。
やがて他のスペイン王候補がダメになり、1870年2月にスペイン枢密顧問官エウセビオ・デ・サラザール(Eusebio de Salazar)がプロイセンを訪問し、レオポルトのスペイン王立候補を要請するプリムの書簡を秘密裏にヴィルヘルム1世とビスマルクに届けたことでレオポルトのスペイン王即位の話がいよいよ現実課題となった[578]。
ヴィルヘルム1世はフランスとの対立を恐れて乗り気でなかったが、フランスと対立したいビスマルクは乗り気であり[579]、名門王家が継いできたスペイン王冠を継げば(王家としては比較的歴史の浅い)ホーエンツォレルン家の名声が高まること、またスペインに共和政体を置く危険性を説いて国王の説得にあたった[580]。1870年6月半ばにレオポルトもヴィルヘルム1世もレオポルトがスペイン王位継承候補者となることを承諾した[581]。
ビスマルクとプリムの当初の計画ではフランスには既成事実だけ突き付けるためレオポルトの立候補から議会での国王選出までの期間を出来る限り短くする予定だったが、スペイン側の手違いでこの期間が長くなり、7月2日にはフランスの知るところとなった[582][583]。対プロイセン強硬派のフランス外相アジェノール・ド・グラモン(fr)伯爵はフランス下院でいかなる手段を持ってもこれを阻止することを宣言した[584]。フランスの強硬姿勢を危惧したヴィルヘルム1世はビスマルクに独断でカール・アントン侯に「息子はスペイン王位継承を断念した」旨を発表させた[585][586]。しかしフランス国内、特に右派政治家とジャーナリズムはそれだけでは収まらなかった[587]。
グラモン伯爵の命を受けたベネデッティ大使が7月13日にバート・エムスへ派遣され、同地に滞在中だったヴィルヘルム1世からフランス国民に対する弁明とホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない旨の確約を得ようとしたが、これについてはヴィルヘルム1世も拒否した。現時点の情報でベネデッティ個人に話す事はないとしてこれ以上の謁見を拒否した。そしてこの経緯を電報でビスマルクに伝え、公表を許した[588][589]。ビスマルクはフランス大使の要求をそのまま掲載しつつ「それに対して陛下はフランス大使に謁見されることを拒否され、これ以上話すことはないと通達された」と改竄して発表した。「話すことはない」の説明を省く事で「交渉の余地はない」という意味かのようにすり替えたのである[589][590]。ビスマルクの発表した電報をみたヴィルヘルム1世は「これでは戦争になるぞ」と叫んだという[590]。さらにビスマルクはフランスにいかなる平和的な逃げ道も与えぬようドイツ諸邦だけではなく諸外国にも電報をばらまいた。フランスがこの電報を入手したのもスイスのベルンを通じてだった[591]。
このエムス電報事件によりナポレオン3世は自らの国内的地位を守るためプロイセンに宣戦布告しないわけにはいかなくなった[592][593]。またこの電報でフランスの横暴な要求を知ったドイツ諸邦は南北問わずフランスに対する反感を爆発させ、プロイセンを支持する世論で埋め尽くされた[594][595]。
普仏戦争[編集]
フランス政府は7月14日に動員を決定し、7月19日にプロイセンに宣戦布告した[592][594]。プロイセン側も7月15日に御前会議で動員を決定[596]。南ドイツ諸邦国も一部の反プロイセン分邦主義者の反対に遭いながらも全体としては反仏で固まり、プロイセンとの攻守同盟に基づいて動員準備に入り、軍をプロイセン軍の指揮下に送った[597][598]。
国際情勢はドイツに有利に傾いていた[599]。エムス電報を読んだ国際世論はフランスの横暴な要求と宣戦布告がこの戦争の原因と分析した[600][601]。ロシアはドイツ側に好意的な中立をとり、特にオーストリアが動かないよう牽制してくれた[602]。フランスが敗れればロシアはクリミア戦争の敗戦で結ばされた講和条約の黒海での艦隊保有禁止条項を撤廃できるからである[599]。イギリスも植民地競争の相手であるフランスの弱体化を望んでおり、ナポレオン3世のために干渉する気はなかった[599]。フランスは比較的親仏のイタリアとオーストリアの二国と同盟関係を結ぼうと図ったが、オーストリアもドイツ語圏なのでフランスに怒りを感じる者も多く、またロシアに牽制されていた事もあって結局動かなかった。またフランスはローマ教皇庁と手を切ろうとしなかったため、イタリア統一をめぐって教皇領と対立していたイタリアの協力も得られなかった[599]。
戦闘は緒戦からドイツ軍優位に進み、9月1日から2日にかけてセダン郊外でフランス皇帝ナポレオン3世率いるフランス軍を下し、ナポレオン3世を捕虜にした(セダンの戦い)[598]。9月2日朝にビスマルクは失意のナポレオン3世と会談したが、皇太子ナポレオン4世の身を案じている様子だったのでビスマルクは「なるべく早くご家族に会えるよう取り計らいます」と応じたという[603]。
ナポレオン3世が捕虜になったことでパリでは第二帝政が崩壊してルイ・ジュール・トロシュ(fr)の臨時政府が誕生し、プロイセンに和平交渉を要求した。しかしビスマルクの反応は冷ややかであり妻ヨハンナへの手紙の中で「パリに共和政ができた。くだらないことだ。我々はそこへ向かって進軍する」と書いている[604]。ドイツ国内ではナショナリズムが高揚しきっており、この声にこたえるためビスマルクはアルザス=ロレーヌ地方のドイツへの割譲を要求し、フランス政府がそれを拒んだ結果セダンの戦いの後も戦闘は継続された[605][606]。1871年1月28日に開城されるまでドイツ軍はパリ包囲を続けた[607]。
ビスマルクは普仏戦争中ヴィルヘルム1世に随伴して戦地にあったが、彼の軍事介入は国王や将軍たちから疎まれた。国王は軍事は自分の管轄と考えていたし、モルトケ以下将軍たちも政治家の軍事への干渉を嫌った[608]。しかもビスマルクは軍人たちよりも苛烈な意見の持ち主だった[609]。たとえばパリ包囲でモルトケは兵糧攻めを主張したが、中立国の介入を恐れるビスマルクは早期終結のためとしてパリ砲撃を主張し、陸相ローンの支持を得てモルトケに譲歩させてパリ砲撃を強行した[610]。また気球でパリから脱出したフランス内相レオン・ガンベタが南フランスで組織したゲリラ部隊[611]に対してビスマルクは容赦ない取り扱いを主張し、「ゲリラ兵をただちに銃殺している」バイエルン軍を褒め称えた[612]。またフランス植民地アルジェリアの兵を「撃ち殺さねばならない害獣」と評した[612]。占領地の民間人にも冷酷であり、「戦争の苦しみが和平を促す」「恐怖を与えて屈服させる」と称して住民に「耐えがたい重圧」を与えることを主張した[612]。
1871年1月にフランスにアドルフ・ティエール首相の政府が誕生した。ティエール政府はアルザス=ロレーヌ地域の割譲と50億フランの賠償金支払いの条件を受諾して2月26日にヴェルサイユで仮講和条約、5月10日にフランクフルトで平和条約を締結した。これに反発したパリ市民がパリ・コミューン政府を樹立して抵抗するもドイツ軍とティエール政府によって鎮圧された[613]。
ドイツ統一[編集]
1870年10月から11月にかけてヴェルサイユにおいて南ドイツ4邦国と交渉を行い、11月に全ドイツ連邦創設のための条約の締結にこぎつけた[614][615]。ついで新たな国名は「連邦」ではなく「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」、またその盟主は「連邦主席(Bundespräsidium)」ではなく「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」とすることが決まった[614][616]。
出征軍統領選出制度[注釈 15]などの先例に倣って敵地のヴェルサイユにおいてプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位することとなったが、南ドイツ諸邦国、特にバイエルン王国にはドイツ帝国に加盟してもらう代償として他の邦国には認められていない厚い自治権を保証せねばならなかった[618]。また正統主義に固執するヴィルヘルム1世に配慮してバイエルン王ルートヴィヒ2世を推戴者にしたが、そのためのビスマルクとバイエルン主馬頭マクシミリアン・カール・テオドール・フォン・ホルンシュタイン(de)伯爵の交渉においてプロイセンはバイエルンに巨額の資金を支出せざるを得なかった[619][620][621]。ビスマルクは1870年12月12日の妻への手紙の中で「諸侯がそれぞれ勝手に動き、私を苦しめる。私の国王さえも細かい問題を持ち出して私を苦しめる」と愚痴をこぼしている[622]。
1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿鏡の間においてヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式が挙行された[623]。ビスマルクは純白の将官制服で出席し[624]、「(ヴィルヘルム1世は)連合したドイツ諸侯と自由都市の要請によってドイツの帝位につく」と宣言した[625]。
1871年4月16日にドイツ帝国憲法が発布されて新帝国の体制が最終的に定まった[626]。同憲法は北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦国の連合の形式をとる北ドイツ連邦憲法の延長であった[627]。
ドイツ帝国宰相[編集]
自由主義改革[編集]
1871年から1877年頃にかけてビスマルクは自由主義勢力と共同して様々な改革をおこなった[628]。ルドルフ・フォン・デルブリュック(de)を帝国宰相府長官に任じ、帝国議会多数派の指導者ルートヴィヒ・バンベルガー(de)との協力の上で自由主義改革の陣頭指揮をとらせた[629][630]。
貨幣の統一、様々な関税の引き下げ、中央銀行の創設、法律と裁判制度の統一化、郡条例(Kreisordnung)制定によるユンカーの領主裁判権・警察権の廃止、州条例(provinzialordnung)改正による地方自治の一定の実現など多くの自由主義化・民主主義化・近代化がこの時期に推し進められた[631][628][630]。後述する文化闘争もこの流れの一つであった[628]。
しかしビスマルクのこうした行動は1866年以来彼を支持していたプロイセン保守主義者たちの不満を招いた。特に郡条例に反対するプロイセン貴族院を押し切るために同法案に賛成する新議員を増やす「貴族院議員製造措置」をとった1872年にそれは最高潮に達した[632]。この強引な措置は陸相ローンさえも反対している[633][634]。
そのような時期の1872年12月20日にビスマルクは突然プロイセン宰相職をローンに譲るという行動に出て世間を騒がせた[635]。これは軍務経験しかない高齢者で宰相の職務に堪えないであろうローンをわざとプロイセン宰相に就任させることで自分が欠けたらいかに政治的空白が生じるかを示し、不服従な保守派や閣僚の支持を取り戻す意図だったと考えられている[635][634]。結局ローンは、鉄道協会設立の経費をめぐる疑惑を追及されて1873年11月に全ての役職を辞し[636]。、ビスマルクがプロイセン首相に復した[637]。
文化闘争[編集]
1871年3月30日に行われた初めての帝国議会選挙でカトリック政党の中央党が投票総数の5分の1の得票を得て国民自由党に次ぐ第二党になった[638]。カトリックは南ドイツに多いので反プロイセン分邦主義と結びつくことが多く、またカトリックの多いオーストリアやフランスと結び付く恐れもあり、ドイツ統一にとって脅威であった[639][640]。カトリックの長たるローマ教皇ピウス9世はイタリアとドイツの統一を「自由主義的」と見て嫌悪していたし[641]、また自由主義勢力の側もピウス9世の誤謬表や教皇不可謬説といった反近代的な宗教思想を嫌悪していた[642]。ビスマルクとしてはカトリックを弾圧すればいまだ彼を不信の目で見ている市民的自由主義運動の支持の獲得が期待できた[643]。
かくしてビスマルクは1871年からカトリック抑圧政策「文化闘争」を行った[644]。「文化闘争」という名称は、1873年に自由主義左派のプロイセン下院議員ウィルヒョーが「(ドイツ国民を反近代へ後退させようとするカトリック教会から)文化を守るための闘争」と定義したことに因む[644]。まず1871年6月に政府内でカトリックの代弁していた文部省カトリック局を解散させ[641][645][646]、つづいて11月には帝国法で刑法に「教壇条項」を追加し、聖職者が教壇から煽って公共の安寧を脅かす行為を禁止した[641][647]。1872年1月23日には反カトリックの自由主義右派のアダルベルト・ファルク(de)を文相に任命し、カトリックの教育への介入を排除した学校教育法を制定させた[641][648][649][650]。
1871年秋には新しい駐バチカン公使としてピウス9世の誤謬表と教皇不可謬説に反対する枢機卿グスタフ・アドルフ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストを任じ、ピウス9世を公然と挑発した[651][652]。1872年5月に教皇庁がこの人事を拒んだことに対して帝国議会の国民自由党議員たちがカトリック批判の声をあげる中、ビスマルクはこれに応える形で「今や中央党は国家に焦点を合わせた砲弾である。中央党の背後にいる教皇も糾弾せねばならない。我々はカノッサへは行かない。身体的な意味でも精神的な意味でもだ。」と演説しカトリックに対する自由主義者の憎悪を煽った[653][654][655]。
1872年7月にカトリックの中でも強力に布教を行うイエズス会を帝国法によって禁止処分にした[656][657][658][659]。さらに1873年から1875年にかけて毎年5月にカトリック抑圧のプロイセン法を制定していき(これらは「5月法(de)」と呼ばれた)[657][660]、これによってカトリック聖職者の育成・任命にプロイセン政府が介入できるようにし[658][661]、聖職者の居住地制限や国外追放も行えるようにし[658]、教会の懲戒裁判を禁止した[659][657]。また聖職者になるには国立大学で3年学ぶことを義務化[658][657]。病人看護以外の目的の修道院をすべて閉鎖させ[661][658]、カトリック教会への国家補助金も打ち切った[658][659]。そして教会から結婚に関する権限を取り上げてプロイセンに民事婚制度を創出した(これにはカトリックのみならずプロテスタントも反発し、ビスマルクはヴィルヘルム1世の同意を取りつけるのに苦労した)[662][657]。
こうした5月法に激怒した教皇ピウス9世はその無効を宣言してドイツ・カトリック教徒に対して入獄や殉教を恐れずにドイツ帝国政府に戦いを挑むことを求めた[663]。1874年7月13日にビスマルクはキッシンゲン(de)においてカトリックの桶屋職人エドゥアルト・クルマンから暗殺未遂を受けたが、この暗殺未遂犯を中央党に結び付けて批判を行った[664][665]。
1870年代半ばから政府と自由主義勢力の協調関係が終焉し中央党の協力が必要になってきたこと、また中央党より危険な社会主義勢力が台頭したことなどによりビスマルクはカトリック教会との和解を考えるようになるが、対独強硬派の教皇ピウス9世の在位中には不可能だった[666]。1878年2月9日にピウス9世が崩御し、ドイツと対話の意思があるレオ13世が新教皇に即位[667][668]。レオ13世は5月法の撤廃と文相ファルクの辞任のみ要求したため[669]、ビスマルクはこれに応じて1879年7月にファルクを辞職させ、ついで1880年から1887年にかけて順次5月法の撤廃を行い、文化闘争を終焉させた[670]。文化闘争の諸政策で維持されたのはイエズス会禁止、学校教育法の大部分、民事婚制度、教壇条項などのみであった[671]。
ビスマルクは聖職者の人事に国家が介入するのは誤った政策だったと語り、文化闘争の責任は自由主義者にあるとした。さらに「中央党はその分立主義によって帝国の行きすぎた中央集権主義に歯止めをかけてくれている」と評価さえするようになった[672]。
保守主義へ転換[編集]
1875年以降ビスマルク政府と自由主義勢力の協力関係は終焉を迎えた[673]。国民自由党はエドゥアルト・ラスカー(de)をはじめとして反ビスマルク派の自由主義左派を内在していたので常にビスマルクの与党になるわけではなく、彼の政策を阻害することも多かった[674][675]。皇帝も政府の自由主義への傾斜に不安を感じていた[676]。また自由主義勢力は1873年以降の不況の中で自由貿易維持か保護貿易に転じるかで分裂し始めていた[677][678]。そのためビスマルクは文化闘争を収束させて中央党と妥協する必要に迫られたのだが、その中央党も無条件でビスマルクを支持するわけではなかった[679]。結局国民自由党の分裂を促進してその多数派を政府派に引きこむのが良策と考えられた[680]。
ビスマルクは1875年終わり頃から保護貿易路線へ舵を切る事をほのめかし始めた[681]。1876年4月末には自由貿易を主張する帝国宰相府長官デルブリュックが辞職[682][683]。さらに同年7月には保護貿易を求める保守党の結成に携わった[684][685]。保護関税推進の超党派の帝国議会議員連盟「国民経済連合」が創設されて多数の議員が参加したのを好機として1879年2月に保護関税法案を帝国議会に提出して可決させた[686][687]。
これによって国民自由党は分裂し自由貿易を奉じてビスマルクとの連携を拒否した左派議員たちはドイツ進歩党と合流してドイツ自由思想家党を結成した[688]。1881年と1884年の帝国議会選挙ではこのドイツ自由思想家党が議席を大きく伸ばし、84年の選挙では国民自由党を追い抜いた[688]。社会主義労働者党も議席を伸ばし、ビスマルクにとって危機的な議会状況が発生した[689]。
これに対抗してビスマルクは当時不穏になっていた国際情勢を利用してポーランド系住民蜂起の可能性やフランス対独報復主義の危険性など対外脅威論を強調するようになり、それ以外の「取るに足らない」法律論議をしようとする者、軍や政府の要求を受け入れない者はすべて「帝国の敵」「非愛国」であるというレッテル貼りを強化し、自由主義左派勢力や社会主義勢力を追い詰めた[690][691]。また保守党、自由保守党(帝国党)、国民自由党の三党に選挙制度を利用した「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を作らせた。その結果、軍拡を争点に行った1887年の帝国議会選挙では自由思想家党や社会主義労働者党が惨敗する中、カルテル3党が絶対多数を確保するに至った[692][693]。
ポーランド住民蜂起を煽った結果、1885年冬にビスマルクはプロイセン宰相としてロシア国籍、オーストリア国籍のポーランド人をプロイセン領から追放する決定を下した。これによりおよそ3万人が追放処分を受けた[694]。ロシアについてビスマルクは単純にロシアもポーランド人蜂起に悩まされているので歓迎すると考えていたが、ロシアはむしろ自国臣民がこのような非情な扱いを受けたことに衝撃を受け、独露関係悪化の原因の一つとなった[695]。
官僚制度や軍隊の保守化も進めた。1881年にローベルト・フォン・プットカマーを内相に任命し、60年代70年代に活躍した自由主義官僚たちを放逐した[689]。貴族出身でない将校が増加して思想が多様化し始めていた軍隊に対しても「軍隊は君主制を守るために存在する」という保守思想の再徹底を図るとともに参謀総長は陸相の同席なしにプロイセン王に上奏できるようにして帝国議会の影響力から軍を遠ざけた[696]。
社会主義者鎮圧法[編集]
1875年5月にラッサール派と、マルクス系のアイゼナハ派(アウグスト・ベーベルやヴィルヘルム・リープクネヒトら)という社会主義者の二流が合同してドイツ社会主義労働者党(ドイツ社会民主党の前身)を結成し[697]、1877年の帝国議会総選挙で得票率9%を得て12議席を獲得した[698]。ただちに脅威になる議席ではなかったが、この政党は公然と「大崩壊」を口にするなど革命的なところがあり、革命嫌いのビスマルクは「帝国の敵」と看做して早期の弾圧に乗り出した[699][700]。またそれ以上に自由主義勢力との連携が崩れていく中、共通の敵である社会主義勢力を攻撃することで国民自由党の分裂を促して自由主義者を出来るだけ与党勢力に引きつけておきたいという意図があった[698]。
1878年5月11日と6月2日に二度にわたって皇帝ヴィルヘルム1世の暗殺未遂事件が発生した。どちらの犯人も社会主義勢力との関係は立証できなかったが、ビスマルクは無理やりにでも社会主義運動に結び付けた[701]。一度目の暗殺未遂事件の後、社会主義者の活動を禁止する法案を帝国議会に提出したが、原則として例外法に反対する国民自由党が反対票を投じたために否決された[702][703]。しかし社会主義者鎮圧法をめぐっては国民自由党内でも心情的賛成派が多数いた(党首ベニヒゼンの権威で押し切った形だった)[704]。
直後に二度目の暗殺未遂事件が発生した。その報告をうけたビスマルクは皇帝の身を心配するより先に「それならば帝国議会は解散だ」と叫んだという[705]。保守新聞や政府系新聞によって社会主義者への恐怖が煽られる中、ビスマルクは社会主義者鎮圧法の是非を問うて解散総選挙を行った[706]。
しかしこの解散総選挙の真の狙いは直接の攻撃対象である社会主義労働者党ではなく、国民自由党の分裂を促すことだった[707]。選挙戦中、政府系・保守系新聞は社会主義者鎮圧法に反対した国民自由党を「皇帝を守ることを拒否した」として徹敵的に批判した[708]。選挙戦中、国民自由党の候補者のほとんどは社会主義者鎮圧法に賛成することを公約した[709]。
選挙の結果はビスマルクの思惑通り保守党と帝国党の両保守政党が議席を伸ばし、国民自由党は議席を落とし、保守政党と国民自由党が拮抗する状態となった[710][706]。こうして10月19日に社会主義者鎮圧法案が「帝国の敵」のレッテルを貼られることを恐れた国民自由党の賛成も得て可決された[706][711]。しかしラスカーはじめ自由主義左派は、例外法への賛成によって「憲法で保障された国民の権利は放棄したり、縮小されたりしてはならない」とする国民自由党の結党以来の宣言は捻じ曲げられてしまったと考えて意気消沈した[712]。結局前述した保護貿易への転換問題をめぐって自由主義左派勢力は自由貿易を奉じて国民自由党から出ていくことになる。
一方当の社会主義者労働者党の党首ベーベルはビスマルクが御用新聞を使って暗殺事件を無理やり社会主義勢力に結び付けたことを批判したが、ビスマルクはそれに対しては何も答えず、代わりに「社会主義者鎮圧法が採択されなければドイツは殺し屋仲間の圧政に永遠に苦しむことになるであろう」と答弁した[713]。またベーベルはかつてビスマルクがラッサールと接触していた事を暴露し、社会主義者鎮圧法は社会主義者に対する忘恩として批判したが、ビスマルクはラッサール個人の人格を称えることで巧みにかわした[714]。
社会主義者鎮圧法により社会主義者の活動は帝国議会以外のすべての場で禁止された[715]。また社会主義者は警察によって居住地を追われて悲惨な生活を余儀なくされた[716]。しかし様々な偽装組織や集会が開かれ続け、社会主義労働者党の党勢が衰えることはなかった[715]。
社会政策[編集]
ビスマルクは労働者が社会主義運動に流れるのを防ぐため、社会政策立法を行った[717][718][719]。ビスマルクの社会主義者を弾圧しつつ社会政策を行う統治手法は「飴と鞭」と呼ばれた[720]。現在どこの先進国にもある強制加入の社会保険制度はビスマルクのドイツにおいて初めて創出された。現在でも社会保障の中心は社会保険であるから、ビスマルクは「社会保障の創始者」といって過言ではない[721]。
ビスマルクは1880年8月28日のプロイセン閣議において労災の労使の損害負担について規定している帝国責任法は訴訟を招きやすく労使ともに満足させることはできず、ただ労使関係を不安定にさせるだけであるとして労災保険制度の創出の必要性を訴えた[722]。1881年3月8日に帝国議会に提出した第一次労災保険法案は保険主体を帝国政府とし、保険料は事業主と労働者で負担し合うが、年収750マルク以下の労働者の場合は事業主と帝国政府で負担することとしていた[723]。低所得者の保険料を国が負担することで国に親近感を持たせることを目的とし、ビスマルクはこれを「国家社会主義」と呼んだ[724]。しかし帝国議会は1881年6月15日に政府提出法案を大幅に修正した法案を可決した。それは保険主体を各邦国政府とし、保険料は一律労使で負担し合うこととして国は支払わない内容だった[725]。これに対してビスマルクは「帝国議会が議決した法案では帝国政府の意図に反して貧しい者に大きな負担を課すことになる」という大義名分を掲げて連邦参議院で否決させ、帝国議会解散に打って出た[726]。しかしビスマルクの意図に反して1881年10月27日の選挙はビスマルクを支持する保守党や帝国党、国民自由党の敗北、国民自由党分離派や進歩党など自由主義勢力の躍進に終わった。低所得者労災保険金国庫負担が予想より人気がなく、むしろその財源とされた煙草専売化が煙草の値上げにつながると有権者に警戒されたのが原因だった[727]。
1882年4月に召集された新議会に対して第二次労災保険法案を提出し、同法案の待機期間13週間をカバーする保険として疾病保険法案も5月に提出した。この法案は労働者が疾病で就労不能となった場合の保険制度を定めており、保険料の三分の一を使用者が負担するとしていた。疾病保険法案については大きな反発はなく1883年5月31日に可決された[728]。一方後回しで審議された第二次労災保険法案の方は各党派の意見がそろわず、ビスマルクの根回しもむなしく廃案となった。ビスマルクは低所得者が無料で加入できる労災保険法案の方が政府の強化に資すると考えていたため、この結果に不満を感じたが、とりあえず疾病保険法案単独で連邦参議院を通過させて6月15日に疾病保険法を成立させた[729]。
1884年3月6日に第三次労災保険法案を帝国議会に提出。同法案は保険主体を産業分野別の事業者の集まりである職業協同組合としていた[730]。保守政党のほか、国民自由党も賛成に回り、国民自由党と政府の接近(文化闘争再開)を警戒した中央党も賛成にまわったことでようやく労災保険法が成立した[731]。保険主体を職業協同組合にしたのは各産業を国家が統制する職能団体にまとめあげ、現代版ギルドを作ろうという意図があったといわれる[732]。いずれ反抗的な帝国議会に代わる国民代表機関・立法機関とする構想もあったという[733]。
社会問題に関心を持つヴィルヘルム2世が即位した後の1888年11月22日に障害・老齢保険法案を帝国議会に提出した。70歳以上になったか、あるいは労災と無関係な疾病や事故にあって稼得不能になった場合に支給される年金について定めた法案であった[734]。ビスマルクは以前から「老後に年金をもらえる人は、そういう見込みのない人よりもはるかに満足しており、はるかに扱いやすい」と評していた[717]。しかしこの法案にビスマルクが冷淡という噂があったため、ビスマルクはこれを打ち消すべく帝国議会で演説を行い、特に保守党議員に支持を訴えた[735]。賛否に意見が分かれた政党が多く、所属議員全員が賛成票を投じた政党はなかったが、僅差で可決され、障害・老齢保険法(Invaliditäts und Altersversicherungsgesetz)が成立した[735]。
これらの保険法は内容に大きな変更が加えられながらも今日のドイツにも受け継がれている物である[720]。
しかし根本的な低賃金と保護関税による物価の高騰などで労働者の不満はこれだけでは収まらず、結局労働者は社会主義労働者党に流れていった。その一方で社会主義労働者党内部にビスマルクの社会政策に一定の評価を下す勢力も出現し、これによって同党に分裂状態を生み出すことに成功した[736]。ビスマルクの社会政策はあくまで政治効果を狙った物であったから1880年代後半にあまり効果がないと判断するようになるとビスマルクは社会政策に関心を持たなくなった[737]。ビスマルクの回顧録も社会政策立法の件について全く触れていない[738][739]。また後にヴィルヘルム2世の社会政策によって実現する日曜労働の禁止や婦人や子供の労働制限についてビスマルクは「労働者の労働の自由を奪っている」「農業には労働の制限などないのに都市にだけ労働の制限があるのはおかしい」として否定的だった[718]。
外交[編集]
ドイツ統一後の国際環境[編集]
ドイツ統一後、ヨーロッパ諸国は中欧に出現した新大国ドイツに警戒感を高めた[740]。
普仏戦争でアルザス=ロレーヌ地域を奪われたフランスはドイツへの遺恨を募らせ、「対独復讐」が国是となっていった[741][742]。普仏戦争以前にはドイツと敵対することはなかったイギリスとロシアもこれ以上のドイツの増強とフランスの弱体化を許すつもりはなかった[743]。また文化闘争の影響で周辺のカトリック諸国(オーストリア=ハンガリー、イタリア、フランスなど)でも反独意識が高まっていた[744]。特にオーストリアは旧ドイツ連邦加盟国であったため、自国もプロイセン=ドイツの傘下に置かれるのではないかという不安に駆られていた[745][741]。
こうした国際情勢の中、ビスマルクはこれまでとは一転して慎重な外交姿勢をとるようになった[740][746]。「ドイツは満ち足りた」をスローガンに掲げてこれ以上の領土的野心はないことを積極的にアピールした[747]。それは実際にビスマルクの本心であり、ドイツ統一後の彼は「ドイツ語圏は全てドイツ領」という汎ゲルマン主義を厳しく退け続けた[747][748]。
ビスマルクは1877年に「私の中にあるイメージとしては、どこかの領土を得るという事ではなく、フランス以外の全ての列強が我が国を必要とし、また列強相互間の関係ゆえに我が国に敵対する連合の形成が可能な限り阻止されるような全体的政治状況というイメージである。」と述べているが、これはビスマルクの1870年代80年代の外交を最も簡潔に表した物として頻繁に引用されている[749][746]。フランスが除外されているのはフランスの対独報復主義だけは抑えようがないと考えたためで、ビスマルクはとにかくフランスを孤立状態に置くことに腐心した[750][741]。
しかしロシアとオーストリアは地政学的に対仏に関心がなかった。そこで必要となるのは君主主義国の連帯を訴えてロシア・オーストリアに接近し、両国皇帝にフランスの共和政体にイデオロギー的嫌悪感を持たせることであった。ビスマルクはそのためにフランスの王政復古を全力で阻止し、フランスの共和制の維持を図ろうとさえしたほどである[751]。
三帝協定[編集]
ナポレオン3世失脚直後の段階でビスマルクは「フランスの支配権を握った共和政的・社会主義的要素に対抗するため、ヨーロッパの君主制・保守主義的要素の連携が一層重要になった」「共和制の連帯に対する最も確実な保証は、ロシア、オーストリア、ドイツのように君主制原理が今尚強固な国の結束である」と評していた[752]。ビスマルク当人は否定していたが、いわば神聖同盟の立場に戻ったのである[753]。ロシアとオーストリアはバルカン半島をめぐって仲が悪かったので、二国どちらもフランスに接近させずにドイツ側に取り込むにはこの路線を強調するしかなかったし、またヴィルヘルム1世の君主主義の矜持も満足させられるので皇帝の全面的バックアップを期待できた[754]。
ロシア・オーストリアに(彼らが懸念するバルト海沿岸地域やオーストリアに対する汎ゲルマン主義を行う意思がないことを確約しつつ)接近して、1873年10月22日に三君主の緩やかな盟約三帝協定を締結した[755]。この協定は第三国からの攻撃に対して共同で防衛することを約定しており、また共和主義や社会主義から君主政体を守ることを目的としていた[756]。しかしこの協定はイギリスから敵視されたうえ[757]、あまり結束力のある協定ではなかった[758]。
たとえば1875年2月にラドヴィッツをペテルブルクへ派遣し、ドイツの対仏政策を認めるならばロシアの東方政策を認めるという交渉を行ったが、ロシア側はこれを拒否している[744]。また『ポスト紙』事件[注釈 16]でもロシアはイギリスとともにフランスに味方してドイツに圧力をかけた[762]。また同じ頃にロシアとオーストリア間でバルカン半島をめぐって対立するような状態だった[764]。
かくのごとくロシアはあてにはできなかったのでイギリスと決定的に対立しないことは重要であった。英露は従来から近東において覇権争いをしていたが、1870年代から1880年代にかけて他のアジア地域にもそれを拡大させていた。そのためイギリスは露仏の接近を恐れていた。それがロシアとの友好が崩れない範囲でドイツがイギリスに接近する土壌となった[765]。英独関係が平穏であれば対露政策が有利に働き、独露関係が平穏であれば対英関係が有利に働く状態を作る事ができた[766]。
露土戦争をめぐって[編集]
普仏戦争でプロイセンに好意的中立の立場をとっていたロシアは、パリ条約の擁護者フランスが敗れたのを好機としてパリ条約で定められた黒海中立化の破棄を宣言した。これに反発したイギリスとオーストリア=ハンガリーの要求で1871年にロンドン会議が開催されるもドイツの支持を得るロシアの主張が認められる結果に終わった。こうしてロシアは再び黒海に艦隊を置けるようになったが、海峡については引き続きトルコに通行許可権が残され、ロシアの地中海進出は妨げられたままだった[767]。
しかし黒海に再び海軍力を置けるようになったことでロシアはバルカン半島への影響力を復活させた。バルカン半島のキリスト教徒スラブ人の間でもイスラム教国トルコの圧政から脱しようという機運が高まっていった。ロシアも汎スラブ主義を高め、こうした独立運動を支援するようになった[768][769]。1875年7月にはヘルツェゴビナで反トルコ蜂起が発生し、それはやがてボスニアにも波及した[770]。イギリス政府はロシアがこれに乗じて対トルコ戦争を起こし、バルカン半島を影響下において地中海に進出してくることを恐れていたため、親トルコ政策をとりたがっていたが[769]、1876年5月のブルガリアの蜂起に際してトルコは大量のキリスト教徒の虐殺を伴う鎮圧を行ったため、イギリスの国民世論が急速にトルコに対して硬化し、イギリス政府としても親トルコ政策を継続するのは難しい立場に立たされ、ロシアの立場は有利になっていった[771][772]。
同年7月にはトルコ宗主権下のキリスト教徒スラブ人の自治国セルビア公国がトルコに宣戦布告した[773]。しかしセルビアとトルコの戦争はトルコ優位で進んだため、ロシアは10月にもトルコに対して直ちにセルビアと停戦し、コンスタンティノープルで国際会議を開催せねば宣戦布告する旨の最後通牒を突きつけた。これにトルコが屈した形で、コンスタンティノープル会議が開催されるも、会議後にトルコはイギリスの支援と自国の国力を過信してキリスト教徒保護の合意を守る様子を見せなかった。これに対してロシアはオーストリア=ハンガリーにボスニアとヘルツェゴビナの領有権を認めて同国の中立を確保しつつ、1877年4月にトルコに宣戦布告した[774]。
この間ロシア外相ゴルチャコフはビスマルクに「(バルカン半島に)利害関係なき強国」として仲裁のリーダーシップを取るよう要請していたが、ビスマルクは慎重姿勢を崩さなかった。ドイツがその役割を担うと、せっかく良好の関係にある英露墺いずれからも「ドイツは自分たちを支援しようとしなかった」という遺恨を残す恐れがあったためである[775]。コンスタンティノープル会議でもビスマルクは派遣するドイツ全権公使に対して「自分たちには直接関係がないことを理由に極力表面に出ないように心がけ、墺露両国が合意に達するのを待って、この合意を支持すること。三帝同盟、イギリスとの友好関係、いずれも棄損することがないように。」との訓令を出していた[776]。
1877年4月にはじまった露土戦争は、1年ほどでロシアの勝利に終わり、サン・ステファノ条約によってエーゲ海にまで届く領土範囲でロシアの衛星国大ブルガリア公国が樹立されることになった[777][778][779]。しかしこのような条約はイギリスやオーストリアに認められるものではなく、1878年初頭には列強間の大戦の空気が漂い始めた[780]。
これまで仲裁役になることに慎重な姿勢をとってきたビスマルクだったが、列強間の大戦という極限状態になってロシアかオーストリア=ハンガリーかの二者択一を迫られる状況は是が非でも回避したかった(ロシアを選ぶとオーストリア=ハンガリーが滅亡する危険が高く、その逆を選ぶと露仏が接近する可能性が高かった)[781]。そこでここにきて「公正な仲介人」として登場し、1878年6月13日から7月13日にかけてベルリン会議を主催した[782][783][784]。
会議にはロシアからは外相アレクサンドル・ゴルチャコフ公爵と駐英大使ピョートル・シュヴァロフ伯爵、イギリスからは首相ビーコンズフィールド伯爵(ベンジャミン・ディズレーリ)と外相ソールズベリー侯爵、オーストリア=ハンガリーからは外相アンドラーシ・ジュラ伯爵、フランスからは外相ウィリアム・アンリ・ワディントン外相、イタリアからは外相ルイージ・コルティと錚々たる顔ぶれが出席した。トルコだけは中央の一級の人物を送らず、ギリシャ系のキリスト教徒アレクサンドロス・カラトドリ・パシャやドイツ出身のメフメト・アリ・パシャなどヨーロッパ受けのよさそうな者たちを代表として送った[785]。
とはいえ会議前の1878年4月から5月にかけて行われたイギリス外相ソールズベリー侯爵とロシア駐英大使シュヴァロフ伯爵の交渉において、すでに多くの合意に達しており、大ブルガリア公国は南北に分割してエーゲ海に面する南部は様々な条件付きでトルコに返還することが決まっていた。またトルコとイギリス間の事前交渉でキプロスがイギリスに割譲されることも約定されていた[786][787]。オーストリア=ハンガリーもトルコとの事前協議でボスニアの占領を認めさせていた[788]。
ベルリン会議ではこれらの事前合意に基づき、国境線の確定など懸案として残された問題が話し合われた。会議においてイギリス首相ディズレーリは会議から離脱することさえちらつかせる強気の態度で自国の要求のほぼ全て押しとおした[789]。オーストリア=ハンガリーのアンドラーシ・ジュラも、これといって目立った行動を取る事もなく、オーストリアの要求を全て押し通した[790]。一方ロシアは国境確定問題でビスマルクの支援を期待していたのでこの結果には失望した[791]。
国内の革命運動に悩まされていたロシア政府としては国民の不満を外部へ逸らさせる絶好の機会でもあり、この会議以降ロシアはドイツ批判・ビスマルク批判を強めていった[792][793]。1879年夏にはロシア外相ゴルチャコフがパリを訪問して後の露仏同盟の基礎を作っている[794]。
ビスマルクはロシアをドイツ側に引き戻すためにロシアを孤立させようとし、様々な手段を使ってロシアに圧力をかけた[795]。オーストリア=ハンガリーと同盟を結び[796][797]、実現はしなかったが英独同盟を提案し[798]、アジアにおける英仏の連携の仲介の労さえ取り、両国とロシアが対立するよう仕向けた[799]。さらにロシア製品に保護関税を導入し[800]、ペスト対策を理由にロシア国境を封鎖し[800]、ルーマニア独立の条件にロシアが嫌がるユダヤ人解放を要求した[801]。
一方ロシアは、ロシア皇帝暗殺を企てたナロードニキの引き渡しをフランスに求めていたが拒否されたため、フランスへの接近は難航した(しかもその間にロシア皇帝アレクサンドル2世が実際に暗殺された)[794]。こうしてクリミア戦争時にも比するロシアの孤立状態が現出した[799]。ロシア新皇帝アレクサンドル3世はゴルチャコフを退けてドイツに再接近を図り[802]、対立を内在させながらも1881年6月にドイツ皇帝、オーストリア=ハンガリー皇帝、ロシア皇帝は三帝協定を復活させた[803][804]。
植民地政策[編集]
ビスマルクは対外的野心がないことを強調したが、欧州外の植民地についても同様だった[805]。明治6年(1873年)に訪独した岩倉使節団に対してもそのことを語っている(詳しくは後述)。1881年の段階でも「私が宰相である間は植民地政策は行わない」と宣言していた[806]。
ビスマルクは英仏が植民地の利権ゆえに接近できない状態が望ましいと考えており、英仏の植民地獲得競争をできるだけ維持させようと図った[807]。そのためドイツ自身は植民地政策を行わずに英仏の植民地政策を積極的に支援した[808]。特にフランスへの支援にはアルザス=ロレーヌの埋め合わせ的な意味合いがあった[809][810]。ビスマルクは1884年に「フランス人がトンキンとマダガスカルで勝利を収めることを希望している。それは彼らの自尊心を満たし、ドイツへの復讐を忘れさせるだろう」と述べている[811]。
1884年に英仏がアフリカ植民地競争で対立を深めるとビスマルクは反英・親仏路線をとった。1884年6月28日に開催されたロンドン会議でエジプト権益をめぐって英仏が激しく対立する中、彼は駐ロンドン大使にフランスを支持するよう命じている[812]。さらに西アフリカに関する独仏協定を締結し、その協定に基づき1884年11月から1885年2月にかけてベルリン・コンゴ会議を主催した。この会議の結果、植民地は先占権者が実効支配するべきという原則が確認され、コンゴはベルギー王レオポルド2世の個人的所有地(コンゴ自由国)と認められ、イギリスのコンゴ進出の野望は砕け散った。またコンゴ盆地における通商自由化、奴隷貿易禁止、コンゴ川やニジェール川の渡航自由化が決められた。一方で自由貿易の範囲をめぐってはビスマルクはフランス領ガボンとポルトガル領アンゴラも含めるよう主張したイギリスの主張を支持してフランスに譲歩させた[813][814]。
列強の中でドイツのみ植民地がないことにドイツ国民の間で不満が高まり[815]、経済界からも要請が強まっていった[816]。1882年末には植民地獲得を目指すドイツ植民協会が創設されている[806]。こうした世論の中でビスマルクは1884年から1885年にかけて突然アフリカや太平洋のドイツ企業・ドイツ人入植地をドイツ領に組み込んだ(ドイツ領トーゴ)、ドイツ領カメルーン、ドイツ領東アフリカ、ドイツ領南西アフリカ、ドイツ領ニューギニア)[817][818]。これらの地域(特に南西アフリカ)は英国が権益を有していたので、これは英国を害する行動であった[817][807]。
ビスマルクがこれまでの方針を翻して突然自国の植民地政策を開始した理由については諸説ある。国民の不満を外部へ向けさせるため、不況対策、増加した余剰人口対策、アフリカ植民地が残り少ないことへの焦燥、1884年の選挙対策、フランスのための反英行動、次の皇帝になる皇太子フリードリヒが親英自由主義者であったため、英国の影響力が増さないように対英関係をわざと悪化させたなどの説がある[806][819][820]。
しかし英国と異なりドイツでは植民地は死活問題ではなく、ビスマルクも英国と決定的に対立しそうな植民地獲得は狙わなかった[816]。時のイギリス首相ウィリアム・グラッドストンは反英連合の形成を恐れ、またドイツが植民地政策を遂行すればイギリス人植民者たちが団結して本国との結びつきを強めると読んでいたのでドイツ植民地政策を基本的に支持しているような状況でさえあった[821]。
「ビスマルク体制」[編集]
1881年に復活した三帝協定だったが、露墺の対立は強まる一方で機能しなかった。そこでビスマルクは1882年5月に独墺伊の三国間で三国同盟を締結し[803][804]、ついで翌1883年にはオーストリア=ハンガリー、ルーマニアとの三国間にも同盟を締結し、「急場しのぎ」の体制を構築した[803]。
フランスでは1885年5月に植民地問題を通じて比較的親独的だったジュール・フェリー仏首相が辞職して「復讐陸相」と呼ばれたジョルジュ・ブーランジェ陸相が登場するなど再び「対独復讐」の機運が高まった[822][823]。ビスマルクも軍拡が争点になった1887年初頭の帝国議会選挙のためにフランスの脅威を煽ったため、いつ独仏戦争が発生してもおかしくない危機的状況が発生した[824][825]。かくして1887年初頭以降ビスマルクの外交目標は再びフランスの孤立化に向けられた[826]。
一方1885年9月に発生したブルガリアの動乱(en)でロシアとオーストリア=ハンガリーはブルガリア支配権をめぐって対立し、1887年7月に親墺的なザクセン=コーブルク=ゴータ家のフェルディナント1世がブルガリア公に即位すると両国関係は最悪のものとなった[822]。前述したようにビスマルクのポーランド人追放政策により独露関係も悪化していた[695]。三帝協定はビスマルクの仲介もむなしく再び崩壊した[822]。
三帝協定が終焉した以上フランス封じ込めはイギリスを味方に付けることでしかありえなかった。ちょうどイギリス首相ソールズベリー侯はロンドン会議以降イギリスが孤立していることに不安を抱いており、アフガニスタンをめぐってロシアと対立を深める中、ドイツとの関係を修復したがっていた[827]。ロシアとの完全な決裂を避けるため、ビスマルクはイギリスと直接手を結ぼうとはしなかったが、代わりにドイツ同盟国イタリアとの接近を強く勧め、1887年2月12日に英伊間に地中海協定を締結させた。さらに3月24日には対ロシアの後ろ盾をほしがるオーストリア=ハンガリーもこの協定に参加させ、地中海協定を事実上三国同盟を補完させる条約となした[828]。
地中海協定によりイタリアに対するドイツの負担は大きく軽減し、フランスは地中海における活動の中で反イタリア行動を取り難くなった[829]。1887年5月に期限が切れる独墺伊三国同盟の更新にあたってイタリアは新たな領土要求をドイツに突きつけたが、ビスマルクはイタリアをドイツ側に引き付けておくためにこれを呑んでいる[830][831]。
同じ頃スペインは目と鼻の先のモロッコ植民地化を押し進めるフランスに脅威を感じていた。そのためスペインも三国同盟加入を申し出ていたが、ビスマルクははじめ三国同盟が地中海偏重になること、スペイン内政の不安定などからスペインを同盟に加えることには消極的だった。しかしフランスとの緊張が高まるにつれて結局スペインも同盟体制に組み込む必要ありと判断した。イタリア、スペインに協商を成立させた後、ドイツとオーストリア=ハンガリーもこれに加盟した[832]。またこの協商の目的として「君主制の擁護」が盛り込まれ、フランスの地中海での活動を封じ込めるだけでなく、フランスの共和主義の影響が君主国に波及するのを阻止する条約にもなった[833]。
またビスマルクはロシアがブルガリア宗主国のオスマン=トルコと接近する可能性を危惧し、地中海協定の防衛対象にトルコを加えたがるようになった。1887年12月に「地中海協定締結国はヨーロッパの利益(海峡自由運航など)の擁護者たるトルコの領土を保全する。トルコはブルガリアの宗主権を他国に譲ってはならない。もしこれが侵された場合、締結国はトルコを支援して回復を図る。トルコ自身が犯そうとした場合あるいは犯されたのに回復しようとしない場合は締結国はトルコ占領を協議できる」という内容の新協定案を地中海協定三国に結ばせた[834]。
この交渉の際の1887年11月22日にビスマルクはイギリス首相ソールズベリー侯に書簡を送り、その中でイギリスとドイツとオーストリア=ハンガリーを現状維持を望む「飽和国家」、フランスとロシアを現状に不満がありヨーロッパの平和を破壊する恐れのある国家に位置付けている[835][836]。またドイツとしては露仏と二正面戦争になった場合に備えて同盟国が欲しいが、同盟国を確保できないならオーストリア=ハンガリーの独立が脅かされない限りロシアとの友好関係を維持せざるを得ないとしてイギリスが地中海協定から離れないようくぎを刺した[837]。
他方でビスマルクは露仏同盟という事態を出来る限り先まで阻止するため、ロシアもドイツの同盟体制に引き付けることを希望していた。そのため同盟諸国との協議において直接的に反露的な義務を負う事は避けることに努めた[838]。三帝協定が期限切れとなる1887年6月にロシアとの間に独露再保障条約を締結した(秘密議定書でロシアのバルカン半島進出を容認[839])。この条約は外務長官を務めていたビスマルクの息子ヘルベルトが「鎮痛剤」と評したように独露関係を改善できるような性質のものではなかったが、一時的にロシアがフランス側へ移るのを足止めする物ではあった[831]。
ドイツを中心とした同盟関係にイギリスを間接的に同盟に引き込み、ロシアも当面繋ぎとめておくという「ビスマルク体制」はひとまず完成をみた。しかし露墺関係はバルカン半島をめぐってますます悪化、独露関係も関税競争が発生して悪化の一途をたどった[840]。ロシアとの将来的な対決はビスマルク時代にはすでに不可避となっていた[804]。
二帝の崩御と即位[編集]
1888年3月9日、皇帝ヴィルヘルム1世が90歳で崩御した[841]。同日ビスマルクは帝国議会において涙ながらに皇帝崩御を発表した[842]。
新たにドイツ皇帝・プロイセン王に即位したフリードリヒ3世は思想的に自由主義左派の立場であり、政治的反対派を「帝国の敵」として抑圧するビスマルクのやり方を苦々しく思っており、また経済的にもビスマルクを自由経済に反する「国家社会主義者」と看做して嫌った[843]。ビスマルクの方もフリードリヒ3世に好感を持ったことはほとんどなかった[844]。ビスマルクにとっては幸いなことにフリードリヒ3世は即位時にすでに不治の病を患っており、99日しか在位できなかった。6月15日の崩御までの短い治世の間に彼が行ったことは内相プットカマーの罷免のみであった[845]。
29歳のヴィルヘルム皇太子がヴィルヘルム2世としてドイツ皇帝・プロイセン国王に即位した[846]。ビスマルクは自由主義的なフリードリヒ3世より権威主義的なヴィルヘルム2世に好感を持っており、彼を「ホーエンツォレルン家の真の継承者」と評していた[847][846]。ビスマルクは即位前からヴィルヘルム2世とその生母であるヴィクトリアの対立をあおり[848]、これを「真のドイツ継承者」と「イギリス女」の対立と位置づけて常にヴィルヘルム2世を支持してきた[849]。
ヴィルヘルム2世の方も基本的にビスマルクを尊敬していたが、同時に彼は「ビスマルクのような偉大な臣下がいたならフリードリヒ大王は大王とはなれなかったであろう。」といった側近の忠告に影響を受けていた[850][851]。ヴィルヘルム2世に強い影響力を持っていたフィリップ・ツー・オイレンブルクもヴィルヘルム1世とビスマルクの関係を「眠れる英雄皇帝と偉大な政治家」と皮肉っていた[852]。ヴィルヘルム2世は即位前の1887年12月に「もちろんビスマルク侯はまだ2、3年は必要な人間であるが、その後は彼の果たしている機能は分割されるだろうし、その大部分を君主自身が受け継がねばならない」と述べている[853]。
1888年9月末に『ドイツ評論』という雑誌が故皇帝フリードリヒ3世の普仏戦争時の日記(フリードリヒ3世がドイツを自由主義国家にすることを目指していた事を示唆する内容)を掲載した。ビスマルクはこの雑誌を国家反逆罪容疑で発禁処分にし[854]、日記の送付者であった枢密法律顧問官ハインリヒ・ゲフケンを逮捕させた[855]。「発表された日記は偽造された物」としてゲフケンを告発したが、裁判所は証拠不十分で裁判手続きを打ち切った[856]。ビスマルクはフリードリヒ3世が自由主義者として祭り上げられる事の危険性をヴィルヘルム2世に慎重にほのめかし、ヴィルヘルム2世の支持を取り付けていたが、世論がこの裁判を否定的にとらえたため、世論に敏感なヴィルヘルム2世は逆にビスマルクと距離をとるようになった[848]。
失脚[編集]
1889年5月にルール地方の鉱山で労働者のストライキが発生し、ドイツ各地の鉱山に拡大していった[857][858]。皇帝は労働者側に共感し、助言者たちを集めて労働者保護立法の準備を開始した[859]。一方ビスマルクは「自由主義ブルジョワに社会主義の恐ろしさを理解させるため」この件について国家の介入は避けるべきと主張した[857][858]。
ビスマルクは領地のフリードリヒスルーやヴァルツィーンで過ごすことを好み、この時も5月中旬に閣議が終わると息子ヘルベルトやプロイセン副宰相カール・ハインリヒ・フォン・ベティッヒャー(de)にベルリンを任せて自身はフリードリヒスルーへ帰り、以降翌年1月24日の御前会議までほとんどの期間をそこで過ごした[860][861]。この長期のベルリン不在でビスマルクの皇帝への影響力は低下し[862]、皇帝が親政志向を強めることとなった[863][861]。
1889年10月に期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案を帝国議会に提出させたが[862][864]、国民自由党は恒久法にするのであれば同法案の追放条項[注釈 17]は破棄するべきであると主張した[865]。
1890年1月24日の御前会議において皇帝は労働者保護勅令の計画を発表したが、ビスマルクは社会主義者鎮圧法を最優先にすべきであるとしてその件を先延ばしにした[866][867]。一方社会主義者鎮圧法案について皇帝は追放条項なき法案に賛成すると述べたが、それに対してビスマルクは「そのような弱腰は致命的な結果をもたらす。もしこの法案が政府の提案通りに採択されないなら、法律なしで(社会主義者に)対処せねばならず、波は高まるままになり、やがて正面衝突は避けられない」と反論した[868][867]。そしてこの件で譲歩するつもりはないとして辞職をちらつかせて皇帝を説得した[867][869]。
保守党が要求していた追放条項に固執しないとの政府宣言が出されなかったため、翌25日の帝国議会本会議で社会主義者鎮圧法案は広範な政党の反対によって否決された[870][871]。一方2月4日に労働者保護勅令の2月勅令が発せられたが、ビスマルクはこれについて副署を拒否している[872]。しかもビスマルクは2月勅令で定められていたベルリンでの労働者保護国際会議の開催の妨害工作を行った[873]。ヴィルヘルム2世はこれを耳にした時にビスマルクに対して決定的な嫌悪感を持ったという[874]。
2月20日に会期満了に伴う帝国議会選挙があったが、ビスマルクを支えるカルテル3党(保守党、帝国党、国民自由党)の敗北、ドイツ社会民主党(SPD)の躍進に終わった[875]。3月2日の閣議でビスマルクは新議会に対して労働者保護法案、軍制改革法案、社会主義者鎮圧法の3点を要求して議会と徹底的に対決する路線を決定した[876][877][878]。ビスマルクは議会に対する「クーデタ」を企んでいたといわれる[879][880]。またこの閣議でビスマルクは閣僚たちに1852年閣議命令の遵守を求めた[881][882]。これは大臣がプロイセン王に上奏する場合はまず宰相に報告せねばならず、また上奏にあたって宰相が立ちあうことを規定した命令であり、破棄されたわけではなかったが、この時点では忘れ去られてほぼ死文化していた[881]。このような昔の命令を引っ張り出してきて皇帝を宰相の管理下に置こうとしていると感じた皇帝は3月5日にブランデンブルク州議会での演説において「私の行く手を遮る者は粉砕する」と叫んで怒りを露わにした[881][882]。対ロシア強硬派のアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー将軍も「ビスマルクはロシアが戦争を企んでいる事実から目をそらした外交ばかりしている」として批判を強め、皇帝のビスマルク解任の意思に影響を及ぼした[883]。
3月7日に皇帝は労働者保護法の成立が危ぶまれるとして社会主義者鎮圧法を中止するようビスマルクに命じた[884][885]。皇帝はこれでビスマルクが辞表を提出すると考えたが、議会と対立さえすればいいビスマルクはあっさりこれを了解した[886]。つづいて3月15日に皇帝はビスマルクに政党の代表者との交渉を禁じ、また1852年閣議命令の廃止、さらに軍制改革法案も議会と相談して決めるべきであると通達することによって一層露骨に辞職を迫った。これを受けてビスマルクもついに諦め、1890年3月18日20時に皇帝に辞表を提出した[887]。辞表を待ち受けていた皇帝はただちに受理し、ビスマルクをラウエンブルク公爵に叙すると内諭したが、ビスマルクは辞退した[888][889]。
宰相退任後[編集]
3月29日にベルリンを離れてフリードリヒスルーへ移住した[890]。ビスマルクの失意は深く、1890年から91年にかけてたびたび自殺を考えたというが、個人的威厳を重んじる念と信仰心によって思い止まったという[891]。
退任後すぐに書店コッタから1巻10万マルクの印税の条件で回顧録の執筆を依頼された[892]。ビスマルクの側近ローター・ブーハーが速記して回顧録の執筆を行ったが、ブーハーはビスマルクが「事実を意図的にゆがめる。知れ渡った事実まで歪曲しようとする。失敗したことには自分は関係なかったことにしようとする。老皇帝とアルヴェンスレーベン将軍以外の誰も自分と対等の存在になる事を許さない」ことに憤慨している[893]。ブーハーが1892年10月12日に死去したため6巻の予定だった回顧録は3巻までで終わった[894]。
退任後もビスマルクの影響力は絶大であり、多くの人々が彼の周りに集った。『ハンブルガー・ナハリヒテン』紙を中心に独自のプロパガンダ網を整備し[895]、外国記者の取材にも積極的に応じた[896]。ヴィルヘルム2世の親政体制に批判的なユダヤ人ジャーナリストマクシミリアン・ハルデンと親しくするようになってから現体制への批判活動を本格化させ[896]、ヴィルヘルム2世や宰相レオ・フォン・カプリヴィを公然と馬鹿にした[897][898]。また職務上知り得た国家機密もべらべらとしゃべったという[899]。ヴィルヘルム2世はしばしば本気でビスマルクを大逆罪の容疑で逮捕することを検討したという[895]。
1891年3月には国民自由党の要請を受けてハノーファー=レーエ選挙区の帝国議会議員補欠選挙に出馬した。当選は果たしたものの低い投票率だったうえ、得票率もそれほど高くなく、ビスマルクもこの結果を見て帝国議会での政治活動という路線は諦めたようだった。結局彼は一度も帝国議会に出席せず、再度の出馬要請も拒否した[900]。それでも帝国議会が紛糾した時に突然ビスマルクが現れて帝国議会を操り始めるのではないかという印象はビスマルクを支持する者にも反対する者の間にも消えなかった[895]。
1892年にビスマルクが息子ヘルベルトとハンガリー貴族の伯爵令嬢マルグリート・オヨスの結婚式に出席するためウィーンを訪れた際、ヴィルヘルム2世はビスマルクがウィーンで盛大な歓待を受けることで自分の権威に傷が入る事を恐れ、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に「不服従な臣下が私に歩み寄って謝罪する前に貴方が彼に謁見を賜る事で私の国内的地位を危機に落としいれないでほしい」という書簡を送っている[901][902]。宰相カプリヴィもウィーンのドイツ大使館に対してヘルベルトの結婚式に出席しないよう訓令している[903][901][902]。このカプリヴィの訓令は公表され、ビスマルク派の新聞はこれを「ウリーア書簡」と名付けて批判した[904]。世論はビスマルクに同情し、皇帝とその政府に批判が集まった[904][901]。
しかし「ビスマルクに戻れ」の声もだんだん聞かれなくなっていく中、1894年初頭にヴィルヘルム2世とビスマルクは「和解」した[905]。ヴィルヘルム2世は「これからはウィーンやミュンヘンが彼のために奉迎門を建てても構わない。私の方が常に彼より抜きん出ているのだから」と語って安堵した[906][907]。その後もしばしば政治的動向を見せたが、皇帝側近の間で「ヘラクレスがまた棍棒を振るった」と皮肉られる程度の物となっていった[907]。
ビスマルクの失脚原因ともなった社会主義への敵意は退任後も一貫して強く持ち続け、1893年にはアメリカのジャーナリストの取材に対して「社会主義者はドイツ国内を徘徊するネズミであり、根絶やしにしなければならない」と述べ、1894年にハルデンに宛てた手紙の中では社会主義者を伝染病の病原菌に例えた[908]。死を間近にした1897年にも「社会問題はかつてなら警察問題で解決できたが、いまや軍隊を用いねばならない」と述べている[908]。
死去[編集]
1894年11月27日に妻ヨハンナに先立たれると生への倦怠感を強め、肉体的な衰えが激しくなった[909]。ビスマルクは妻の死に関して妹へ宛てた手紙の中で「私の残されていた物、それはヨハンナだった。(略)民が寄せてくれる過分な好意や称賛に対して私は恩知らずにも心を閉ざしてしまうようになった。私がこの4年間それを喜んでいたのは彼女もそれを喜んでいてくれたからだった。だが今ではそのような火種も徐々に私の中から消えようとしている」と書いている[910]。
ビスマルクはそれ以前から顔面神経痛や落馬による左足の炎症、血行障害に苦しんでいたが[911]、あまり身体を動かさなくなったことで片足が血行障害で徐々に壊死していき、しばしば激痛に悩まされるようになった[910]。1897年秋以降には車椅子生活になった[912]。
1898年7月30日23時前に息を引き取った[910]。主治医によると死因は肺の充血だったという[913]。最期の言葉は「私のヨハンナにもう一度会えますように」だったという[910]。ビスマルクの希望で彼の墓石に刻まれた言葉は「我が皇帝ヴィルヘルム1世に忠実なるドイツ帝国の臣」であった[914][915]。また『コロサイの信徒への手紙』第3章23節にある「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」という言葉が刻まれている。これはビスマルクが16歳の頃より愛していた言葉だった[916]。
ビスマルクの訃報に接してヴィルヘルム2世は10日間の廃朝を決定し、陸海軍も7日間喪に服して業務を停止した[917]。民家も次々と弔旗を掲げた[918]。
国葬に付すべきとの意見もあったが、生前ビスマルクが派手な葬儀を嫌がっていたことから遺族が断り、フリードリヒスルーの邸宅の後ろの小丘に葬られた[919][920]。
1890年11月末にビスマルクの回顧録の1巻と2巻が『Gedanken und Erinnerungen(思うこと、思い出すこと)』(ISBN 978-3-7766-5012-9)というタイトルで出版された。12月中旬までに30万部売り上げるベストセラーとなった[921]。ただし3巻はヴィルヘルム2世と宰相辞職をめぐる内容であったため、ビスマルクはヴィルヘルム2世の崩御まで出版しないよう遺言していた[922][923]。しかし結局ヴァイマル共和政時代の1921年になって公刊されている[921]。
1898年以降、ビスマルクの銅像・記念碑が次々と建立された。銅像の多くは軍服を着て剣を携えピッケルハウベを被るという「鉄血宰相」としてのビスマルクを描いた物であった[924]。東ドイツの社会主義政権によって破壊されて現存していない物もあるが、それ以前は11の都市にビスマルクの銅像が建てられていた[915]。とりわけベルリンの帝国議会の議事堂の広場に建てられた銅像とハンブルクに建てられた巨大ビスマルク像が著名である[916]。
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人物[編集]
健康状態[編集]
身長は約190cm[925]、体重は約123キロ(1879年時)あった[339]。
食べ物を手当たり次第に口に詰め込んで酒で流し込むという暴飲暴食の癖があり、宰相官邸を訪れた人々を驚かせたという[926]。イギリス首相ベンジャミン・ディズレーリの前でもそれを行い、彼を仰天させたという[339]。そのためどんどん太っていったが、1880年代になると医者から食事療法を言い渡されて控えるようになったという[926]。
「顔面神経痛」と称していたが、実際には虫歯だったという。歯医者を恐れていたので治療ができなかったのだという[927][928]。
寝床に入ると不愉快なことを次々と思いだしてしまい眠れなくなる不眠症であったという[929]。顔色が悪いことを指摘されて「私は一晩中憎んでいたのだ」「眠れずにいるうちに政界に入ってからのことが思い起こされて頭に血が上ってくる」と答えたことがあった[930][928]。
このような不健康な生活のためか、病気がちであった。それを理由にしてたびたびベルリンを離れて領地に帰り、また帝国議会でも立っているのが辛いと言って座って演説することがしばしばあった[927]。
嗜好[編集]
植物、とりわけマツの木を愛し、日本、南北アメリカ、レバントなどから輸入したマツを自邸の周囲に植えていた[931][932]。
食べ物では卵が好きで一度の食事で15個食べることもあったという[933]。魚介類ではコイ、サケ、マス、キャビア、牡蠣を好んで食した[934]。牡蠣を175個食ったことがあるというのがビスマルクの自慢話の一つだった[935]。
ビスマルクは酒豪であり、ビールでもワインでもシャンパンでも水のごとく飲んだ。ワインではドイツワインのシュタインベルガーを愛した[936]。一方でドイツ産シャンパンだけは好まなかったという。ビスマルクが皇帝ヴィルヘルム2世の陪食で宮殿のシャンパンを飲んだ際、あまりに味が酷いと感じたので「これはどこから仕入れられたのですか」と皇帝に聞いたところ、皇帝は「これは国産である。私は一つに経済、また一つに愛国心の観点からこれを好んで飲んでいる。我が将校たちにもシャンパンを飲むならこれを飲むことこそ愛国心と申しつけてある」と答えたが、それに対してビスマルクは「それは結構なことでございますが、臣たちにあっては、愛国心は胃袋の入り口近くで停まってしまいますな」と皮肉り、皇帝を不機嫌にさせたという[937]。
趣味[編集]
ビスマルクの趣味は狩猟、乗馬、読書、釣りであった[938]。
特に狩猟は青年時代から宰相時代まで熱中し続けた趣味であり、普仏戦争時にも敵地で狩猟をしていたという[938]。ロシア大使時代にはクマ狩りにはまり、大きなクマを仕留めてロシア人を驚かせたという[939]。
晩年には読書ばかりしていた。一番の愛読書は聖書であり、それを読むのが日課だった。特にヨブ記とイザヤ書が好きだった[940][941][942]。
質素[編集]
質朴恬淡な性格で質素な生活をしていたという。「私には椅子とテーブル、雨を防げる物があればそれでよい」と語ったことがある[943]。金銭に関心がなく、汚職は皆無だった[944][945]。70歳誕生日の時にドイツ国民から誕生日プレゼントとして120万マルクという巨額の募金を贈呈されたが、そのすべてを教育者育成事業の資金に充てたという[940]。
影響を受けた人物[編集]
ビスマルクの伝記作家エーリヒ・マルクスによれば、ビスマルクはスピノザの著作から強い影響を受けていたという。ビスマルクの汎神論的な宗教観念はスピノザの『エチカ』が一因であるという[946]。またスピノザは『国家論』で「権利とは力であり、自己保存の力とその範囲を同じくする。国権の達するところはその力の達する限りを越えない」と説くが、これはビスマルクに「ドイツ民族の当然の権利」であるドイツ統一を成し遂げるには「自己保存の力」鉄と血によるしかないという確信を強めさせたという[947]。
またエーリヒ・マルクスはヘーゲルもビスマルクに強い影響を与えたと主張する。ヘーゲルは「国家のみが人間の普遍的理念を認識し、それ自らの人格的自由を完全に享受できる」「各民族の理想とする国家は人格的自由の実現されうる秩序ある法律組織を持つ文化的国家である」と説き、ドイツ民族国家の中で最も「文化的国家」に近い国はプロイセン王国であると考えていた。そのためビスマルクはヘーゲルからもプロイセンを中心としたドイツ統一を正当化できた[948]。
歴史家ランケからも影響を受けたという。ランケはビスマルクとほぼ同時代の人であり、プロイセン首都ベルリンを活動の本拠にしていたため、ビスマルクと親交があり、彼の死に当たってビスマルクは「私は政治的信念の一致、また1845年以降40年に渡る個人的関係から常にランケとの交友は失わなかった」と書いている。ランケの王政的民族主義、保守的民族国家主義的な思想はビスマルクの目指す物と一致するところであった[949]。
ビスマルクはマキャベリを熱心に研究していた[950]。マキャベリは民族統一主義者であり、そのためには手段を問うべきではないと確信しており、「言論による者は敗れ、兵力による者は成功する」「国家の健全は平和ではなく、戦争によって表明される」「政略は道徳である。しかも政治家にとっては最高の道徳である。なぜならそれは国家にとって止むに止まれぬものだからだ。」「君主は約束を守ることによって害を受けるなら、その約束を守らないことが正しい」と説く。以上はビスマルクの発想そのものである。約束を遵守すべきか否かについてはスピノザは誓約論者だったのでこの点ではビスマルクはスピノザよりマキャベリの方を支持していたことになる。またマキャベリは「従来の王室を削減することによって新領土が獲得できる」と説いているが、これはビスマルクのアウグステンブルク公に対する扱いに影響したと思われる[951]。
ビスマルクはナポレオン・ボナパルトの研究もしていた[952]。ビスマルクにとってナポレオンは反面教師であり、ビスマルクのドイツ統一後の自制の外交はナポレオンの失敗を教訓にしたもののようである。宰相退任後の1890年にビスマルクはナポレオンについて「彼は勝利に酔って、政治家の第一の徳操である最大成功後の賢明な自制を他国の民族主義運動に対して行おうとしなかったので、戦争に次ぐ戦争に突入していくことになり、ついに自分の家も壊してしまった」と分析している[953]。
またビスマルクはゲーテの『ファウスト』を好んだが、この著作からも自制の精神を培ったという[954]。
ビスマルクがクラウゼヴィッツの『戦争論』を読んだかは定かでないが、ビスマルクはしばしば、政治家の軍事介入を嫌う参謀総長モルトケに対して「政治家が戦争目的を決する」「政治家は兵の運用にも関係できるべき」と横やりを入れたので「戦争は政治交渉の継続」とするクラウゼヴィッツに通じるところがあった[955]。
ユダヤ人について[編集]
ビスマルクは基本的に親ユダヤ主義者であり、私的人事にはユダヤ人学識者を重用した。難関を突破した被差別民こそ本当の実力があると考えていたのがその理由だった[956]。
特にユダヤ人銀行家ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダーを重用し、彼を自らの商務顧問官に任じて、ビスマルク個人の財産管理を彼に任せるのみならず、公式の書類には残したくない要件を外国の外交官に伝えるのに彼を使った。しかし保守主義者たちは帝国宰相がユダヤ人銀行家と仲良くしているのが気に食わず、ビスマルクが保守主義に好ましくない政策をとった時にはこのブライヒレーダーの陰謀だと思い込もうとした[957]。他にもビスマルクの主治医はユダヤ人医師しか採用されなかったし[956]、また息子二人にはユダヤ人法律家パウル・カイザーが家庭教師に付けられていた。彼はビスマルクに気に入られ、その後外務省に入省して植民地局長に任じられ、さらに裁判官へと転身している[958]。
そのビスマルクも一度反ユダヤ主義勢力に関与しかけたことがあった。ドイツ帝国にはキリスト教社会党(de)という後のナチスに酷似した反ユダヤ主義政党があったが、1881年の帝国議会選挙でビスマルクの次男ヴィルヘルム・フォン・ビスマルク伯爵が明らかに父の承認を得て、この党の指導者である反ユダヤ主義者の牧師アドルフ・シュテッカー(de)に接近したのである。ビスマルク本人もシュテッカーを「勇敢で役に立つ非凡な戦友」などと称える声明を出した。しかしこれはシュテッカーの選挙区に自由主義左派の進歩党議員が対立候補として出馬していたからであり、ビスマルクは選挙中から息子ヴィルヘルムに「シュテッカーや反ユダヤ主義者たちと一体に成り過ぎるな」と警告し続けていた。結局反ユダヤ主義は中間層の支持を得られず同党は惨敗し、進歩党が議席を保った[959]。
この件でビスマルクも完全に目を覚ました。そして選挙後の閣議で「反ユダヤ主義運動は不適当であり、目的から外れている」「私は進歩派のユダヤ人には反対であるが、保守派のユダヤ人には反対ではない」と明言した。また枢密商務顧問官フランツ・メンデルスゾーンとの会話の中で反ユダヤ主義者の嫌疑をかけられたことに激しく反発し、「私はユダヤ人と付き合うのが好きだ。私のフリードリヒスルーでの親密な友人はすべてユダヤ人だ」と反論している[960]。
ちなみに後世のナチス総統アドルフ・ヒトラーはビスマルクを称えながらも「ユダヤ人の危険性を認識しなかったことが彼の誤り」などと断じた[961]。
評価[編集]
ビスマルクの評価は評価する者の思想傾向によって著しく異なるため毀誉褒貶が激しい。保守的・伝統的な歴史解釈に立てばビスマルクは不世出の英雄とされ、一方ビスマルクと敵対した思想からは批判的に捉えられ、究極的にはアドルフ・ヒトラーにつながる存在とされることが多い[962][963]。
たとえばハンス・ウルリヒ・ヴェーラーはビスマルクの「帝国の敵」という発想は「民族の害虫」を排除する「民族共同体」思想の萌芽であり、「水晶の夜」の道に通じていると述べる[964]。またテオドール・モムゼンは「ビスマルク時代の影響は益よりも害の方が無限に大きい。力の面では得る物があったとしても、そんなものは次に訪れる世界史の嵐の中で失われてしまう物に過ぎない。だがドイツ人の人格・精神が奴隷化されてしまったこと、それはもはや取り返しのつかない災いだった」と述べている[965]。モムゼンは1903年に死去しているが、第一次世界大戦、ヴァイマル共和政の混乱、ナチス独裁政権、第二次世界大戦の流れを見越したかのような予言であった。一方でこうした批判についてハンス・ロートフェルスは「我々はビスマルクが多くの忌まわしい現代史へ道を用意したことについて立派な根拠をあげて批判する。しかしヒトラーはほとんど全ての点においてビスマルクが為すことを拒んだことを実行したという基本的事実を決して忘れてはならない」と反論している[966]。
また社会主義者のカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスはビスマルク悪罵の書簡を膨大に残してはいるが、その彼らといえどもドイツ統一やナポレオン3世打倒についてのビスマルクの意義を全く無視することはできなかったようである。「歴史の皮肉によってビスマルクがナポレオン3世を倒し、小ドイツ主義帝政だけでなくフランス共和国をも樹立した。しかし一般的な結果はヨーロッパにおいて大きな諸国民の独立と内的統一が一つの事実となったことである。1848年革命の墓掘り人がその遺言の執行者となった」というマルクスの言葉をエンゲルスが本のカバーに掲げている[967]。
ビスマルクの政治手法は「現実主義者」と評されることが多い。ビスマルクはもともと強硬保守ゲルラッハ兄弟に自分たちの信念を引き継ぐ者と期待されて政界に導かれたが、やがて強硬保守思想から離れていった。彼にはナショナリズムや民主主義とさえ妥協する用意があった[968]。ビスマルクは回顧録の中でゲルラッハは「非実際的な理論家」、自らは「行動的な実際家」だったと定義している。それに関してエーリヒ・アイクは「ビスマルクは自分の行動の動機を外部の人に説明するために政治理論を時には用いたが、その理論が実際の行動に重荷であると明らかになると苦もなくそれを捨てる」と評している[969]。
これに関連してビスマルクを「ボナパルティズム」に分類する向きもある。フリードリヒ・エンゲルスは「ボナパルティズムは近代ブルジョワの真の宗教である。しかしブルジョワ自身は直接に支配する力を持たない。したがってボナパルティズム的半独裁が正常な形態となる。この独裁はブルジョワの利害をブルジョワの意思に反してでも実現するが、支配権そのものについては一部分もブルジョワに渡そうとはしない。他面ではこの独裁もブルジョワの利害をしぶしぶ取り入れることを余儀なくされる。それが国民協会の綱領さえ採用するビスマルク氏である。」と述べる[970]。ヴェーラーは「ビスマルクのボナパルティズム的性格を隠していたのは、国王の下僕であり、皇帝の宰相であるという君主主義的・伝統的な衣装であった。だがそれこそ、ビスマルク以前の閣僚政治家たちとビスマルクを区別するものである。彼の政治的演技である『現代的要因』『際立った特徴』をなすのは、まさに『ボナパルティズム』的特性である。この特性は国内問題でも対外問題でも繰り返し行われた冒険政策、普通選挙による操作、扇動の巧妙さ、正当性軽視、保守的・革命的な両極性のうちにはっきりと示されている」と評価する[971]。セバスチャン・ハフナーは「ビスマルクは、ナポレオン・ボナパルトと異なり、王位簒奪者ではないが、権力を維持するために絶えず成功を求められているという点ではボナパルト家の面々に確かに似通っていた」「常にヴィルヘルム1世に必要不可欠な存在でなくてはならず、そのため常時危機にあること、常時成功を収めることを必要とした。それが危機を煽ったかと思えば、突然慎重になる理由である」と評価する[972]。
研究[編集]
第二次世界大戦中に二つの本格的なビスマルクの伝記が書かれた。一つはナチス支配を逃れてスイスに亡命していたエーリヒ・アイクがスイスで公刊した『Bismarck』(『ビスマルク伝』として全8巻で邦訳)であり、もう一つは空襲の影響で戦後になって出版されたアーノルト・オスカー・マイアーの『Bismarck』である。両者とも高い学術性があるが、二つの伝記は対照的で前者はビスマルクに批判的、後者はビスマルクに肯定的であった[963][973]。
この二つの伝記がきっかけとなり、1950年代に西ドイツでビスマルク論議が活発化したが、この時期にはビスマルクを肯定する伝統的歴史解釈の立場に立ってアイク批判を行う学者が多かった[963]。しかしビスマルクの本格的な伝記はその後しばらくドイツで登場しなかった。1960年代から伝統的歴史解釈に批判的な「社会史学派」が台頭し、伝記的研究を歴史学の中心にすることに反対したことがその原因として考えられる[974]。
1963年に公刊されたアメリカの歴史家オットー・プフランツェが著した『Bismarck and the Development of Germany』(ISBN 978-0691007656)、1976年に公刊されたイギリスの伝記作家アラン・パーマーが著した『Bismarck』(ISBN 978-0297770725)などむしろ国外で注目すべきビスマルク伝記が見られるようになった[975]。
西ドイツで再び登場した本格的なビスマルク伝記はロタール・ガルの『Bismarck. Der weiße Revolutionär』(ISBN 978-3548265155)(『ビスマルク 白色革命家』として邦訳)である。ガルはビスマルクを英雄視する者にも巨悪視する者にも共通してみられるビスマルク超人化を避け、かなり客観的に記述している[976]。
一方東ドイツでは長らくソ連の歴史家アルカディ・イェルサリムスキ(Arkadi Jerussalimski)の著作のドイツ語翻訳版である『Bismarck. Diplomatie und Militarismus』(ISBN 978-3760909356) がビスマルク伝記の中心だったが、同書はビスマルクを「暴力」と「軍国主義」の象徴として一方的に巨悪視する物であった[977]。東ドイツの歴史学会はマルクス主義の支配下に置かれており、日本のマルクス主義者と同様、自国の歴史を一方的に断罪する傾向が強かった[978]。しかし1985年に東ドイツで公刊されたエルンスト・エンゲルベルクの『Bismarck. Urpreuße und Reichsgründer』(『ビスマルク 生粋のプロイセン人・帝国創建の父』として邦訳)は客観性を持った伝記として注目されている。エンゲルベルクもマルクス主義者ではあるものの、それに関する議論は少なく、普通の伝記的叙述になっている[978]。同書はドイツ帝国建設までの1871年までしか取り扱っていなかったが、ドイツ再統一中に続編である『Bismarck. Das Reich in der Mitte Europas』(ISBN 978-3423303460)(未邦訳)が書かれた[979]。
家族[編集]
ビスマルクの妻ヨハンナ・フォン・プットカマーはポンメルン地方最東部ラインフェルトの農場を経営するユンカーの一人娘だった。敬虔主義の閉鎖的なユンカー家庭に育った彼女の精神は聖書と伝統にのみあって時代の潮流とは無縁だった[980]。ビスマルクとヨハンナは1844年10月初めにマリー・フォン・タッデンとモーリッツ・フォン・ブランケンブルクの結婚式で知り合った。その後もブランケンブルク家でしばしば出会いを重ね、マリー主催のハルツ山地旅行で親しい間柄となった[981]。ヨハンナはマリーほど活発ではなく慎ましく真面目で細やかな女性であった。マリーもヨハンナの方が自分よりも深くビスマルクを愛することができると考えて彼女とビスマルクを引き合わせたのだった[982]。ヨハンナと彼女の父はビスマルクの信仰心の薄さを気にしていたが、1846年10月末のマリーの危篤でビスマルクは心から神に祈るようになり信仰心を取り戻した。それを知ったヨハンナはビスマルクの求婚に応じ、二人は1847年7月28日にラインフェルトにおいて挙式した[113]。以降ヨハンナは約40年にわたってビスマルクを支えた。閉鎖的な世界で生きてきたヨハンナにとってビスマルクは全てであり、ビスマルクの敵は彼女の敵であった。そのため夫を苦しめる帝国議会をとりわけ嫌っていた[983]。それは皇帝に対しても同様であった。彼女はヴィルヘルム2世がビスマルクを切り捨てたことを忘恩として許さず、皇帝とその手先と看做した者を頻繁に罵った。彼女が不敬罪を償い終えるには一生監獄に入っても足りないとビスマルクが皮肉るほどだった[984]。
ビスマルクはヨハンナとの間に1848年8月21日に長女マリー・エリザベート・ヨハンナ[985]、1849年12月28日に長男ヘルベルト[986][175]、1852年8月1日に次男ヴィルヘルム[987]を儲けた。
長女マリーはあまり人を惹きつける女性ではなかったといい、27歳になって官吏試補ヴェント・ツー・オイレンブルク伯爵と婚約した。しかしこの婚約者が結婚前に死去したため、結局1878年に公使館付き書記官ランツァオ伯爵と結婚している[983]。ビスマルクは長男ヘルベルトより次男ヴィルヘルムの方が才能があると見ていたが、可愛がっていたのはヘルベルトの方であり、彼を外交官の道に進ませた[988]。彼は1886年4月にドイツ帝国外務長官(外相)に任じられた[989]。ヘルベルトにとって父ビスマルクは絶対の存在であり、1881年には恋慕していたエリーザベト・カーロラト侯爵夫人との結婚をビスマルクの反対により断念させられた。巨大な父の存在を意識して屈折するところが多く、父に従順である一方で父以外の者に対して横柄な態度を取る事が多かったという[990]。
ビスマルクには崇拝者はいても友人はほとんどいなかった。そのため「私は家族以外を愛することを許されていない」と述べ、家族を深く愛した。特にヘルベルトの上司や外国の大臣からヘルベルトを褒められる時がビスマルクが最も喜ぶときであったという[988]。
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財産[編集]
ビスマルクは1867年にポンメルン州ケスリーン郊外のヴァルツィーン(de)(22万モルゲンの土地と7つの村)を購入しており、また1871年には侯爵位とともにラウエンブルク公国内のザクセンヴァルト(de)の2万5000モルゲンの森林を恩賜褒賞として与えられた[991][992]。ザクセンヴァルトのフリードリヒスルー(de)のホテルを買収して住居としていた[992]。このフリードリヒスルーの邸宅は巨大ではあるが、あまり手を加えておらず質素な雰囲気であったという。一方ヴァルツィーンの邸宅はそれよりは貴族的な雰囲気であったという[993]。
ビスマルクは毎年体調を崩したとして長期休暇を取り、数カ月は領地に滞在した。議会の会期中であっても遠慮なく領地に帰るので留守を預かる者たちは頭を悩ませたという[994]。
ビスマルクは近隣の土地を次々と買い足し、領地の拡張に余念がなかったが、いい地主とはいえなかった。イギリス首相の初代ラッセル伯ジョン・ラッセルは「ビスマルクはヴァルツィーンで年貢を払わない小作農を追い出すことに忙しい」と辛辣に書いている。また管理人の選定が下手であり、金鉱を発掘すると主張した山師に管理人を任せて大損したことがあった。ビスマルクの農業経営は赤字であったという[995]。
それでも死去時にビスマルクは莫大な財産を子供たちに残している[945]。この巨額の財産はフランクフルトのロートシルト家(ロスチャイルド家)と前述のユダヤ人銀行家ブライヒレーダーが財産を巧みに運用してくれたこと、またプロイセン王国からたびたび賜った恩賜褒賞のおかげである[992]。
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キャリア[編集]
職歴[編集]
- プロイセン連合州議会議員(1847年5月-?)[996]
- プロイセン下院議員(1849年2月-1852年3月)[997]
- エルフルト連合議会議員(1850年1月-?)[998]
- プロイセン上院議員(1854年-?)[999]
- ドイツ連邦議会プロイセン全権公使(1851年7月-1859年1月)[999][1,000]
- 駐ロシア・プロイセン全権大使(1859年4月1日-1862年4月)[1,001][1,002]
- 駐フランス・プロイセン全権大使(1862年5月22日-1862年9月)[1,003][1,002]
- プロイセン宰相(1862年9月23日-1872年12月21日、1873年11月9日-1890年3月18日)[1]
- プロイセン外相(1862年10月8日-1890年3月20日)[2]
- 北ドイツ連邦宰相(1867年7月14日-1871年3月?)[3]
- ドイツ帝国宰相(1871年3月21日-1890年3月20日)[4]
- ドイツ帝国議会議員(1891年4月30日-?)[1,004]
爵位[編集]
- 1865年9月15日、伯爵(Graf)[1,005][1,006][1,007]。
- 1871年3月21日、侯爵(Fürst)[1,008]。
- 1890年3月20日、ザクセン=ラウエンブルク公爵(Herzog zu Sachsen-Lauenburg)の内諭を受けるも拒否[889][1,009]。
軍階級[編集]
- 1841年8月12日、少尉(Sekondleutnant)[1,010]。
- 1854年11月18日、中尉(Premierleutnant)[1,010]。
- 1859年10月28日、名誉階級騎兵大尉(Charakter als Rittmeister)[1,010]。
- 1861年10月18日、名誉階級少佐(Charakter als Major)[1,010]。
- 1866年9月10日、少将(Generalmajor)[1,010]。
- 1871年1月18日、中将(Generalleutnant)[1,010]。
- 1876年3月22日、騎兵大将(General der Kavallerie)[1,010]。
- 1890年3月20日、元帥位を有する騎兵上級大将(Generalobersten der Kavallerie mit dem Range eines Generalfeldmarschalls)[1,010]。
勲章[編集]
その他称号[編集]
- 1871年3月27日、ベルリン名誉市民[643]。
- 1876年7月21日、ハレ大学哲学博士号[1,013][1,014]。
- 1885年3月18日、ゲッティンゲン大学法学博士号[1,013][1,014]。
- 1885年4月1日、エルランゲン大学法学博士号[1,013][1,014]。
- 1885年4月1日、テュービンゲン大学政治学博士号[1,015][1,014]。
- 1888年11月、ギーセン大学神学博士号[1,015]。
- 1896年7月、イエナ大学医学博士号[1,014]
日本との関係[編集]
岩倉使節団との交流[編集]
明治6年(1873年)3月15日、ドイツを訪問中だった岩倉使節団がビスマルクから夕食会に招かれた[1,016][1,017]。
その席上ビスマルクは「貴国と我が国は同じ境遇にある。私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない。」[1,018]、「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう。」[1,016][1,019][1,020]、「英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。私は小国に生まれ、その実態を知り尽くしているのでその事情がよく分かる。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにあるのだ。いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である。」[1,019][1,021][1,022]、「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。」と語った[1,018]。
小国プロイセンを軍事力で大国ドイツに押し上げたビスマルクの率直な言葉は使節団に深い印象を残したようである[1,023][1,022][1,019]。欧州各国は不平等条約の改正に応じる条件として日本に万国公法に沿った法整備を行うよう外圧をかけていたが、ビスマルクだけがそれを否定する発言を使節団の前で公然と行ったからである[1,019][1,018]。とりわけ大久保利通はビスマルクに強い感銘を受け、「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クアルベシ。我、大イ二ウナズク」と書いている[1,024]。また西郷隆盛や西徳二郎などに宛てた手紙の中でもビスマルクのことを「大先生」と呼んでいる[1,025][1,026][1,027]。
明治日本の政治家の範[編集]
岩倉使節団で欧米諸国を歴訪した大久保利通は英米仏のような発展しつくした先進国より後進国のドイツとロシアに注目した[1,028]。ビスマルク・ドイツを模範として強力な政府の指導下に富国強兵・殖産興業を推し進めることが必要だと確信したという[1,028]。大久保は明治天皇と自分の関係はヴィルヘルム1世とビスマルクの関係であるべしと考え、常にビスマルクたらんと意識し続けたという[1,028]。
伊藤博文も日頃からビスマルクを尊敬し、ビスマルクを真似て葉巻をくゆらせていた[1,029]。伊藤は「日本のビスマルク」と呼ばれていた。伊藤は海外メディアのインタビューによく応じたので1880年代には西洋諸国にも「日本のビスマルク」の異名が広まっていたという[1,030]。伊藤は1882年(明治15年)に憲法研究のため欧州を訪問し、その中心地としてベルリンに腰を据えた。この時ビスマルクは伊藤に「我が国を貴国の憲法研究の拠点としたことは大いに賢明な決断である。出来る限りの協力をしたい」と述べ、ドイツ随一の法学者だったベルリン大学教授ルドルフ・フォン・グナイストを紹介している[1,031]。この頃のビスマルクは煙草専売化法案を通そうとしない議会と対立を深めていたが、伊藤はそのような光景を見ても議会制導入をためらう兆しは見せなかった[1,032]。後に第1回衆議院議員総選挙を前に立憲自由党や立憲改進党など民権派政党が固い地盤を確保して大議席を獲得することが予想される中、「いくら超然主義を主張しても現実的には衆議院や政党に対して超然としているのは不可能です。政府を支える確固たる政党を作るべきです」という金子堅太郎の提言に対して伊藤は「その心配はないだろう。現にビスマルクは確固たる与党無くして超然主義を貫いて政治を執行しているではないか」と反論したという[1,033]。
山県有朋もビスマルクに親近感をもち、「日本のビスマルク」をもって自認したという[1,034]。山県の椿山荘の居室の暖炉の上にはビスマルクとモルトケの銅像が飾られていた[1,035]。
その他日本との関係[編集]
- 戊辰戦争中、会津藩と庄内藩は武器の購入代金として蝦夷地(北海道)を植民地としてプロイセンに提供したいと駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラントに対して申し出ている。ブラント公使はこれを本国のビスマルクに取り次いでるが、この頃のビスマルクは植民地獲得に関心を持っておらず却下した[1,036]。
- ビスマルクと最も親しかった日本人は駐独公使・外務大臣の青木周蔵であった。青木はドイツ貴族ハッツフェルト侯爵家令嬢と結婚していたが、ビスマルクはこのハッツフェルト侯爵家と親しかったため、その縁で青木もビスマルクと懇意の間柄だった[1,037]。
- 海渡英祐の推理小説『伯林-一八八八年』ではドイツ留学中の若き日の森鴎外とビスマルクが殺人事件をめぐって知恵くらべをしているが、これはフィクションであり、ビスマルクと森鴎外に面識はなかった[1,038]。
- 「賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない」と語ったといわれており[1,039]、竹下登はその言葉を座右の銘にしていた[1,040]。
その他[編集]
ビスマルクの名を冠する物[編集]
- 半熟卵を乗せたイタリア料理を「ビスマルク風」(alla Bismarck)という。「ビスマルク風ビーフステーキ」(Bistecca alla Bismarck)[1,041]やピザの「ビスマルク」(Pizza alla Bismarck)[1,042]などが有名である。ビスマルクが卵好きだったことに因むといわれる[1,043]。
- 1939年のバレンタインデーに進水したドイツ海軍の戦艦ビスマルクは彼の名に因んでいる。ビスマルクの孫娘にあたるドロテア・フォン・レーヴェンフェルト(Dorothea von Löwenfeld)が命名のために進水式に出席している。また進水式でアドルフ・ヒトラーは「この巨艦に搭乗する乗組員たちがビスマルクのごとく鋼の精神力を持つことを期待する」と演説した[1,044]。
- アメリカ合衆国ノースダコタ州州都ビスマークは彼の名に因んでいる。ノーザン・パシフィック鉄道建設の際にドイツ資本を導入するためドイツ宰相の名を町の名前にしたのである[1,045]。
- パプアニューギニアのビスマルク諸島やビスマルク山脈、ビスマルク海は彼の名に因んでいる。同国がかつてドイツ植民地だった名残である。
エジソン蓄音器に残る肉声[編集]
新しい蓄音機の宣伝のため欧州を訪れたトーマス・エジソンの助手が1889年10月7日にビスマルクの自宅に立ち寄り、肉声を録音したいという求めに応じビスマルクはドイツ語や英語、フランス語による歌声、ラテン語による詩の朗読を披露している。これは遺されているビスマルク唯一の肉声であるとされ、長い間所在が不明であったが2012年にエジソンの研究所跡で蝋管が発見された[1,046][1,047]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ナポレオン戦争の成果を全面的に否定し、ナポレオンに奪われた各国の主権をナポレオン戦争以前の正統な主権者に戻すというウィーン体制の根本思想[19]。
- ^ ビスマルクのドイツ統一までドイツという名前の国家は存在せず、それはドイツ語を使用する人々が暮らす中欧の地方名であった[22]。三十年戦争で神聖ローマ帝国が衰退してドイツ地方は諸侯の領土が群立し、やがてオーストリア帝国(ハプスブルク家)とプロイセン王国(ホーエンツォレルン家)の抗争時代がはじまった[23]。神聖ローマ帝国はナポレオンによって滅ぼされ、1789あった帝国諸侯領土は併合・陪臣化・世俗化によって39か国にまとめられた。ナポレオンを否定するウィーン体制下になってもこの39カ国という状態は維持された[24]。
- ^ 民主主義とは自由主義の中でも極端な急進派のこと。大ブルジョワは保守派と妥協的な自由主義者が多かったが、小ブルジョワや下層民は急進的自由主義者になりやすく、彼らを民主派と呼んで一般の自由主義者と区別した[27]。
- ^ ただしこれはビスマルクが宰相就任後にドイツ統一事業の中で自由主義ナショナリズムと手を組むことになったから自分の行動に一貫性を持たせるために回顧録に若いころの心情としてこう書いただけでブルシェンシャフトに実際に近づいたか疑問視する声もある[63]。
- ^ 今日のドイツ国旗でもある黒赤金の旗はもともとブルシェンシャフトの旗でドイツ・ナショナリズム、ドイツ統一のシンボルである。ドイツ連邦の連邦議会はこの旗を危険視して長らく使用を禁止していたが、1848年革命で誕生したドイツ国民議会により国家色に定められた[138]。
- ^ プロイセンの工業力は急成長中で国際競争力があったが、オーストリアの工業は脆弱で保護貿易が必要だった[231]。結局この問題はオーストリアが屈する形で1853年2月に普墺間に通商条約が締結され、プロイセン工業にオーストリア市場を提供しつつ、英仏露に対しては関税障壁を作るということで一応収束するが、1857年の不況と1859年のイタリア統一戦争をめぐる財政破たんを経てオーストリアが保護貿易への渇望を強めていき、1850年代終わりから1860年代初頭にかけて関税問題が再燃することとなる[232]。
- ^ 彼らは1851年から『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれた[244]。
- ^ 軍制改革は兵役と予備役期間を延長することで兵の数を増やし、正規軍の新連隊を編成する一方、市民的なラントヴェーアの義務期間は縮小し、軍隊に対する王権の強化を図ろうという軍備拡張計画である。1850年代後半のオットー・テオドール・フォン・マントイフェル宰相時代に軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルが中心となって計画されたのに始まる。「新時代」には自由主義的な陸相グスタフ・フォン・ボーニンのもと、この計画は押し込められていたが、アルブレヒト・フォン・ローンが陸相となった後の1860年に蒸し返された。しかし下院の自由主義者たちは軍隊を国民代表者たる下院の統制下に置こうと考えていたので軍隊に対する王権強化の狙いがあるこの軍制改革案を拒否した[321]。
- ^ 妥協案は進歩党のカール・トヴェステン、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲンとハインリヒ・フォン・ジイベルの三者によりだされた。この三者はドイツ問題解決のため軍の強化自体は必要不可欠と考えており、また争議が激化してヴィルヘルム1世が強硬保守内閣を誕生させる恐れがあることから政府と妥協する必要があると考えていた。彼らは兵役2年と多少の軍事予算減額だけを条件とした妥協案を提出した[322][323][324]。
- ^ ロシア帝国外相アレクサンドル・ゴルチャコフは、当初ナポレオン3世のフランスとの連携を企図しており、ポーランドにある程度の自治を認めることでフランスに恩を売り、露仏同盟を結びたいと考えていた。対してロシア皇帝アレクサンドル2世ら保守派はポーランド独立運動へのいかなる譲歩にも反対していた。ビスマルクがロシアと結んだアルフェンスレーベン協定はロシア保守派と組んで露仏同盟の動きを封じ込める意図があった[366]。
- ^ ちなみにビスマルクは後にドイツ帝国議会において普通選挙を導入するが、プロイセン下院の三等級選挙権制度は維持し続けている[385]。
- ^ ただしラッサールの提唱する生産組合は大規模であること、また普通選挙の存在が前提となっていた。そのためラッサールはヴェステギアースドルフ生産組合について反対こそしなかったが、不満を述べて協力しなかった[392]。
- ^ ビスマルクは関税同盟の解消も辞さない脅迫的な態度をとって普仏通商条約への参加を拒否していたバイエルンやヴュルテンベルクなど反プロイセン的な中規模諸邦に参加を表明させたのであった[449][450]。
- ^ イギリスは対デンマーク戦争の介入失敗と1865年10月のパーマストン子爵の死で孤立主義に戻り、大陸諸国への介入を避けるようになっていた[453][454]。
- ^ 古代ゲルマン民族や中世ドイツでは共同して出征する場合に統領を選出していた[617]。
- ^ 普仏戦争後フランスが早期に復興を遂げて賠償金を支払い終えて軍備拡張を図る中の1875年4月8日にドイツ政府系新聞『ポスト』紙は「戦争が迫る?(Ist der Krieg in Sicht?)」という論説を載せ、それがきっかけでフランスに対する予防戦争を行うべしとのドイツ世論が強まった[759][760][761]。ビスマルクに予防戦争の意思はなかったが、「フランスは孤立しており復讐を企むのは無駄である」ことをフランスに思い知らせようと企図していた[762]。しかしフランス外相ルイ・ドゥカズの巧みな外交もあってイギリスとロシアはそろってドイツに対して「フランスが復讐や領土奪回をたくらんでいるとは思えない。フランスへの対決政策をやめなければ重大な結果を招くことになる」旨を警告し、逆にドイツの孤立が明らかになってしまった[763][762]。
- ^ 社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項[865]。
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