ドイツ革命

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ドイツ革命
種類 民主主義革命
目的 戦争終結、帝政打倒
対象 ドイツ帝国
結果 帝政崩壊、戦争終結、社会主義運動挫折、ヴァイマル共和政の成立
発生現場 ドイツの旗 ドイツ
期間 1918年11月3日 - 1919年8月11日
指導者 フリードリヒ・エーベルト
関連団体 社会民主党(SPD)独立社会民主党スパルタクス団
関連事象 第一次世界大戦
一月闘争
ロシア革命

ドイツ革命(ドイツかくめい、: Novemberrevolution, : German Revolution of 1918–19)は、第一次世界大戦末期に、1918年11月3日キール軍港の水兵の反乱に端を発した大衆的蜂起と、その帰結としてカイザーが廃位され、ドイツ帝国が打倒された革命である。ドイツでは11月革命とも言う。

これにより、第一次世界大戦は終結し、ドイツでは議会制民主主義を旨とするヴァイマル共和国が樹立された。

休戦交渉と皇帝退位問題[編集]

ドイツ参謀本部が戦争の短期終結を目指して立案したシュリーフェン・プランは、フランス軍との戦線全域に渡って泥沼の塹壕戦に陥ったことで挫折した。国内で独裁的地位を固めた軍部は、この膠着状態を破り、継戦能力を維持するために、あらゆる人員、物資を戦争遂行に動員する体制、エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の提唱した、いわゆる「総力戦」体制の確立に突き進んだ。これは一方では、戦争による経済活動の停滞と相まって、国民に多大な窮乏と辛苦を強いることとなり、戦局の悪化とともに軍部への反発や戦争に反対する気運の高まりを招き、平和とパンをもとめるデモや暴動が頻発した。1917年3月12日に勃発したロシア革命とその成功はドイツの労働者を刺激し、1918年1月には全国規模の大衆的なストライキが行われた。また一時ドイツと連合国の仲介役に当たっていたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の「十四か条の平和原則」に代表される公正な講和のアピールは[1]、政治家にも和平への道を選択させることとなった。

1918年3月からの西部戦線におけるドイツ軍の攻勢は失敗し、8月には連合国軍の反撃により逆に戦線を突破され始めた。ドイツの敗北が決定的となったことで、ベルギーのスパにおかれていた大本営は9月29日、ウィルソン大統領を仲介役とする講和交渉の開始を決定した。この決定を受けて首相ゲオルク・フォン・ヘルトリングは辞任し、議会多数派のドイツ社会民主党(SPD)の支持を受けた自由主義者のマックス・フォン・バーデン大公子内閣が成立した。マックス大公子はアメリカと連絡を取り、1918年10月にアメリカを介した連合国との講和交渉が開始された。アメリカ側は前述の十四カ条の平和原則に基づく講和の条件として、ドイツ帝国の専制色を解消することを求めた。これに反発したルーデンドルフが交渉継続に反対するという事態が起きたが、マックス大公子は皇帝ヴィルヘルム2世に迫ってルーデンドルフを解任、後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した[2]

その後憲法改正による議院内閣制や普通選挙などの導入が行われたが[3]、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事からもたらされた。ウィルソン自身は皇帝の退位を求めたことはなく、また想定もしていなかったが[4]、10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになった[5]。この情勢の動きを見てマックス大公子の政府も皇帝退位の方針を固めつつあったが、ヴィルヘルム2世とその周辺はあくまで退位に反対した。10月29日に皇帝はベルリンを離れて大本営のあるスパに向かい、後を追ってきたマックス大公子の退位要請も拒絶した。

レーテ蜂起[編集]

キールでの労働者の蜂起(1918年11月4日)

1918年10月29日ヴィルヘルムスハーフェン港にいたドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った。この出撃は自殺的な無謀な作戦であったとされるが[6]、実態には論評の余地があるとされる[7]。海軍司令部は作戦中止をもたらしたサボタージュの兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。

11月1日、キールに駐屯していた水兵たちが仲間の釈放を求めたが、司令部は拒絶した。11月3日には水兵・兵士、さらに労働者によるデモが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ(評議会、ソビエトとも訳される)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧した(キールの反乱英語版)。レーテは政府が派遣した社会民主党員グスタフ・ノスケを総督として認め、反乱は一応鎮静化した。しかしこの後キールから出た水兵や労働者によって事件はたちまち広まり、5日にはリューベックブルンスビュッテルコーク英語版、6日にはハンブルクブレーメンヴィルヘルムスハーフェン、7日にはハノーファーオルデンブルクケルン、8日には西部ドイツすべての都市がその地に蜂起したレーテの支配下となった[8]

11月7日から始まったバイエルン革命(後述 ミュンヘン革命とも)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、君主制廃止の先例となった。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。

人民委員評議会政府成立[編集]

共和政を宣言するシャイデマン

11月9日、首都ベルリンの街区は、平和と自由とパンを求める労働者・市民のデモで埋め尽くされた。これに対してマックス大公子は、革命の急進化を防ごうと独断で皇帝の退位を宣言し、政府を社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ねた。しかしベルリン各地では複数のレーテが結成され、事態は一向におさまる気配をみせなかった。この時、カール・リープクネヒトが「社会主義共和国」の宣言をしようとしていることが伝えられると、エーベルトとともにいた社会民主党員のフィリップ・シャイデマンは、議事堂の窓から身を乗り出して独断で共和政の樹立を宣言した(ドイツ共和国宣言ドイツ語版)。その日の内にヴィルヘルム2世オランダに亡命し、後日退位を表明した。


11月10日、社会民主党、独立社会民主党(USPD)、民主党からなる仮政府「人民委員評議会ドイツ語版」が樹立された。一方、ベルリンの労兵レーテは人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である革命的オプロイテドイツ語版が半数を占める大ベルリン労兵レーテ執行評議会ドイツ語版を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた[9]

同夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供することを約束した協定が結ばれた(エーベルト・グレーナー協定ドイツ語版)。また軍は旧来の将校組織を温存する保障を獲得し、人民委員評議会政府を支援することとなった。また旧来の官僚組織を温存し、社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした[10]。また一方で首都の治安を守るためにクックスハーフェンから呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「人民海兵団ドイツ語版」が結成された。しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。

模索期[編集]

11月11日、ドイツ代表のマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合国との休戦条約に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した。後にパウル・フォン・ヒンデンブルクが言明し、ナチ党などが流布したいわゆる匕首伝説、すなわち第一次世界大戦で、依然として戦争遂行の余力があったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「背後の一突き」を加えたことによりドイツを敗北へと導いたとするデマゴギーが生まれ、共和国を破滅に追い込むこととなる。

11月15日には、先の政治協定と似た形で、労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。(シュティンネス・レギーン協定ドイツ語版)労働組合や労働運動の急進化を防ぐために、団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。

12月16日、全国労兵レーテ大会で、多数派を占める社会民主党員の賛成により国民議会の召集とそのための選挙の実施が決定された。

12月23日ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した(人民海兵団事件ドイツ語版)。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。

革命の鎮圧[編集]

12月30日ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成された。

ベルリンで武装抵抗する革命派

1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官エミール・アイヒホルン(de)が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模なデモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、以降「一月闘争」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続いた。

1月9日、ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール(ドイツ義勇軍)がベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開した(スパルタクスの週)。1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが彼らにより殺害された。以降、各地に広がった労働者の武装蜂起は、ミュンヘンに成立していたレーテ共和国を筆頭に次々とフライコール(義勇軍)により鎮圧されるとともに労兵レーテも解体・消滅していった。散発的な蜂起やゼネストは続いたが、国防軍も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧された。

1月19日、国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。2月6日ヴァイマルの地で国民議会が召集された。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生した。また、大統領にエーベルト、首相にシャイデマンが選出され、社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされたヴァイマル憲法が制定された。

ドイツ革命により帝政が打倒され、共和国が樹立されたが、ドイツを世界大戦に導き、軍国主義を積極的に支えてきた帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。彼らの後援による極右勢力、右翼軍人らの共和国転覆の陰謀、クーデターの試みは右から共和国と政府を揺さぶり、一方、極左党派は左から社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を激しく攻撃した。これら左右からの攻撃がヴァイマル共和国の政治的不安定さの一因となった。

バイエルン革命[編集]

11月7日バイエルン王国の首都ミュンヘンで独立社会民主党のクルト・アイスナーが演説をし、アイスナーを首相とする共和政府が樹立された。革命が成立した要因には、戦局の悪化による厭戦感情と、オーストリアの降伏によりバイエルンが戦場となることへの危機感があった。また、ルートヴィヒ3世が権力に執着せず速やかに退位したことで、政権の移行も速やかに行われている。一連の革命において反王室の流れが生まれなかったことから、王室が追放されることはなかった。

アイスナーはレーテを国制の基礎に置こうとしたが、中産階級や農民をレーテに取り込もうとしたため共産主義者から批判された。また、社会民主党などからの議会の設置要求を拒否できず、1月12日に選挙を実施した。その結果、独立社会民主党は180議席中3議席に留まった。アイスナーは首相在任のまま2月21日に暗殺された。

共産主義者はこの混乱に乗じて共産主義政権の樹立を目論むが、4月6日に無政府主義者のグスタフ・ランダウアー、独立社会民主党員の劇作家のエルンスト・トラーらが革命を起こした。トラー政権には自由貨幣の提唱者であるシルビオ・ゲゼルが金融担当大臣として入閣していた。文学青年の集まりであった新政権は体制を維持できず、一週間後にはスパルタクス団創設者の一人であるオイゲン・レヴィーネEugen Levine)率いる共産主義者が革命を起こし、政権を奪取された(バイエルン・レーテ共和国)。モスクワのボリシェビキ政権はバイエルンの共産主義政権を革命の拠点になりうるとして高く評価した(この間16日に当時のヒトラーがレーテ代表代理に選ばれており、フライコールに捕えられてから連隊の告発委員会に参加し[1]カール・マイヤーによって反ボリシェヴィキ講習のあとドイツ労働者党におくりこまれる)。5月1日にミュンヘンがドイツ政府軍の攻撃を受けたことで、バイエルン革命は終焉した(レヴィーネは捕らえられ、7月5日に処刑されている)。

革命以後はバイエルンで右翼勢力が支持されるようになり、ミュンヘンでのナチス結成につながっていく[11]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 林健太郎 『両大戦間の世界』 講談社〈講談社学術文庫〉、1976年
  • クラウス・コルドン『ベルリン1919』理論社 2006年
  • 牧野雅彦 『ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和』 中央公論新社、2009年ISBN 978-4121019806
  • 山田義顕「ドイツ革命期の海軍兵士最高評議会」、『大阪府立大学紀要, 人文・社会科学』第40巻、大阪府立大学、1992年、 1-16頁、 NAID 40000306842

関連項目[編集]

外部リンク[編集]