イタリア王国

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  1. 神聖ローマ帝国の諸領域のうち北イタリア部分の呼称。
  2. フランス第一帝政期に、ナポレオン・ボナパルトを王として北イタリアに建国された衛星国。:イタリア王国 (1805年-1814年) を参照。
  3. イタリア統一運動(リソルジメント)の結果、1861年に成立し、現在のイタリア共和国のほぼ全土を領域とした王国。:ここで記述する。

イタリア王国
Regno d'Italia



1861年 - 1946年
国旗 国章
国旗 国章
国歌 : 君王陛下行進曲
イタリア王国の位置
公用語 イタリア語
首都 トリノ
(1864年まで)
フィレンツェ
(1864年-1871年)
ローマ
(1871年以降)
国王
1849年 - 1878年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(初代)
1946年5月9日 - 1946年6月2日 ウンベルト2世(最後)
イタリア首相
1852年 - 1861年 カミッロ・カヴール
(初代)
1922年 - 1943年 ベニート・ムッソリーニ
1945年 - 1946年 アルチデ・デ・ガスペリ
(最後)
面積
310,196km²
人口
1861年 11,998,000人
1936年 42,399,000人
変遷
建国宣言 1861年3月17日
共和制へ移行 1946年6月14日

イタリア王国1861年-1946年)は、現在のイタリア共和国の前身となるサヴォイア家王国。1946年に共和制へ移行するまで続いた。

目次

[編集] 歴史

[編集] 建国から第一次世界大戦まで

1861年サルデーニャ王国によるイタリア統一(リソルジメント)により成立し、サルデーニャ王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が初代国王となった。

王国統一後、軍隊が解体され、多くのものが職を失ったことに加え、統一国家に理想を描いていたものや罪の減免を約束されて戦争に参加した者の希望が容れられなかったので国内は安定しなかった。彼らはクロッコに代表される匪賊となって王国に反旗を翻した。匪賊は1861年のクロッコによるメルフィ侵攻から本格化するが、地主からの略奪を主とする活動は民衆から歓呼の声を持って迎えられた。1862年ガリバルディによるアスプロモンテの変を機とした戒厳令や、それに続く1863年ピカ法の制定により匪賊に対する圧力が高まる。苦しさから民衆を襲うようになった匪賊は次第に支持を失っていき、1864年に内通者が出て情報を漏らしたことから、一気に収束へ向かっていく。

1865年トリノからフィレンツェに遷都。翌年の普墺戦争(第3回イタリア独立戦争)ではプロイセン側として参戦した。オーストリア領土のうちトレンティーノトリエステを残してヴェネト(ヴェネツィア)を併合する。1870年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退するとこれを占領し、翌年ローマへ遷都する。また同年、教皇保障法を制定し、その地位を保障しようとするが教皇側が拒否、国政への不参加を呼びかけるなど、イタリア王国とローマ教皇の対立構図が形成された。なお、この対立はムッソリーニ政権時にラテラノ条約1929年)が結ばれるまで続いた。

その後他の欧米列強同様植民地獲得を模索し、帝国主義政策を展開した。1893年には、アフリカ大陸で唯一の独立国であったエチオピアに侵攻したが、アドワの戦いで歴史的大敗北を喫し撤退した(第一次エチオピア戦争)。敗戦後も植民地の獲得を諦めていなかったイタリアは、1911年リビアに侵攻し、1912年に併合、念願の植民地を獲得した(伊土戦争)。

第一次世界大戦が始まった時には、領土問題でオーストリアと対立していたために三国同盟1882年)を結んでいたにも拘らず仏伊協商1902年)を理由に中立宣言を出す。1915年ロンドン秘密条約を結び、「未回収のイタリア」及びイストリアダルマチアの割譲を条件に連合国側として参戦した。イタリア軍は主にイタリア戦線オーストリア・ハンガリー帝国軍と対峙したが、西部戦線と同じく泥沼の塹壕戦に陥り、目立った戦果は挙げられなかった。1918年、西部戦線でのドイツの崩壊に伴い、戦勝国の地位を手にした。

[編集] ファシズムの台頭

第一次世界大戦の戦勝国となったイタリアは五大国の一員とされ、国際連盟常任理事国になるなど、国際社会での地位を高めた。しかし、イギリス、フランス、アメリカと共に主導したパリ講和会議では領土拡大要求の多くを退けられた。イタリア国民の間では「傷つけられた勝利」「講和会議の敗戦国」といった感情が高まった。「未回収のイタリア」と称されていたトリエステ南チロルとイストリアの併合は果たしたものの、戦後の民族自決の機運の高まりによってダルマチアを断念せざるを得なくなり、政府の弱腰に対する不満が広がっていった。領有を果たせなかったフィウーメを占領するという実力行使に出たのが愛国派詩人のダンヌンツィオだったが、国際社会はイタリアのフィウメ占領を認めず、フィウメは自由市とされた。

第一次世界大戦はイタリア経済に重すぎる負担となっていた。戦後訪れたインフレは貧民層の不満を引き起こし、北部のトリノミラノといった工業都市で労働者の工場占拠などが起こった。南部でも農村労働者、小作人などの暴動があいついだ。こうした動きは、有産階級の危機感を強めさせた。

こうした不穏な情勢下で、ムッソリーニはファシスト党の前身、戦士のファッショを組織した。その主張は、社会政策の充実を掲げつつナショナリズムを擁護し、既存政党を批判するものであった。しかし、ミラノで選挙に出馬するものの完敗し、ムッソリーニが一時逮捕されるなど、その活動は当初行き詰まりを見せていた。

都市部、農村部の双方で、資本家、地主と労働者、小作人の間の対立構図が続いた。貧民よりの姿勢をとる社会党政府に不満を抱いた地主層は、ファシスト勢力と結託して農村部の社会党、労働組合の拠点などをあいついで襲撃した。これを「懲罰遠征」とも称する。当初は、農村部の各地でラスと呼ばれる地域ごとの指導者が権力を握っていたが、ムッソリーニは徐々に地方勢力を束ねて中央集権化を推進した。こうした議会活動に拠らない直接行動を通じて「戦士のファッショ」は保守層の支持をつかみ、21年までには党員を10万人程度まで拡大させ、同年に全国ファシスト党として改組した。

1922年、ムッソリーニは直接的な実力行使による政権掌握を図りローマ進軍を起こした。ファクタ首相は戒厳令を発して対処しようとしたが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じたため、ムッソリーニ内閣が成立した。1924年には武力でフィウーメの併合を果たし、1926年にはアルバニアを保護国化した。 同年、議会でファシスト党以外の全党を解散させることで一党独裁制を築き、1928年にはファシスト党の最高議決機関であったファシズム大評議会を正式な国家の最高機関と定めた。ここに一党独裁制は完成した。

[編集] 世界恐慌と第二次世界大戦

1935年にはエチオピア戦争を起こし、翌年には併合、エチオピア皇帝に即位するが、国際社会の反発にあい、1937年国際連盟を脱退した。国際的に孤立したイタリアは、同じく国際社会で孤立していたドイツ日本に接近し、日独防共協定に参加する。1939年ムッソリーニは、アルバニアに侵攻。アルバニア王ゾグー1世から王冠を奪い、ヴィットーリオ・エマヌエーレに戴冠させる。(イタリアのアルバニア併合第二次世界大戦には日独伊三国同盟1940年)を結んだことによって枢軸国側として参戦する。参戦後はギリシャエジプトに侵攻するも、いずれも連合軍の反撃にあい敗走を重ね、ムッソリーニの威信は大きく低下した。1943年の連合国によるシチリア上陸作戦(ハスキー作戦)を機にもともと一枚岩でなかったファシスト党が瓦解し、ムッソリーニが失脚、後継政権は連合国に無条件降伏した。その後、ドイツに助け出されたムッソリーニが北中部に傀儡政権のイタリア社会共和国を建国すると、南部イタリアがこれに宣戦し、内戦状態となった。

1946年、国王ウンベルト2世が国民投票により廃位され、共和制を採択しイタリア共和国となり今に至る。

[編集] イタリア王国歴代国王

[編集] 関連項目