マクシミリアン・フォン・バーデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| マックス・フォン・バーデン Max von Baden |
|
|
ドイツ帝国
第8代帝国宰相 |
|
| 任期: | 1918年9月30日 – 1918年11月9日 |
|---|---|
|
|
|
| 出生: | 1867年7月10日 バーデン=バーデン |
| 死去: | 1929年11月6日(満62歳没) ザーレム(バーデン=ヴュルテンベルク州) |
| 政党: | 無所属 |
プリンツ・マクシミリアン・アレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・バーデン (Prinz Maximilian Alexander Friedrich Wilhelm von Baden, 1867年7月10日 - 1929年11月6日)は、バーデン大公家家長。
目次 |
[編集] 人物・来歴
プロイセン将軍であったバーデン大公子ヴィルヘルム[1]と、ロイヒテンベルク公女マリア・マクシミリアノヴナ[2]の長男として、バーデン=バーデンで生まれた。最後のバーデン大公フリードリヒ2世の従弟にあたる。
第一次世界大戦前から自由主義者で知られ、1918年10月にドイツ帝国宰相に任命され連合国との休戦交渉を担ったがドイツ政府はすでに軍部にお掌握されておりマックスの行動の余地は狭かった。マクシミリアンは、ヴィルヘルム2世が帝位を保持することはできないと悟っており、ホーエンツォレルン家を救うために退位を促した。彼は事態はもはや一刻ではなく分や秒を争うとウィルヘルムに迫ったという[3]。パウル・フォン・ヒンデンブルクやヴィルヘルム・グレーナーらも同調したが、ウィルヘルムは退位を拒絶した。
やがて彼は帝位は退位し、プロシア王位は保持するという苦肉の案に飛びついたが、マクシミリアンはヴィルヘルム2世の同意なしに皇帝(およびプロシア王)の退位を発表した.しかし時すでに遅く、1918年11月9日、ドイツ共和国成立の宣言がされた。マックスはフリードリヒ・エーベルトに後を託し自身も辞職したマクシミリアンは退役して余生を過ごし、1928年にフリードリヒ2世よりバーデン大公家家長を引き継いだが、翌年に死去。
[編集] 家族
ハノーファー王太子エルンスト・アウグストの長女マリア・ルイーゼ・フォン・ハノーファーと結婚。2子をもうけた。
- マリー・アレクサンドリーネ(1902年 - 1944年) - ヘッセン=カッセル公子ヴォルフガング(ヘッセン=カッセル家家長フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセンの4男)と結婚。第二次世界大戦中、連合国によるフランクフルト空爆の犠牲となり死去。
- ベルトルト(1906年 - 1963年) - ギリシャ・デンマーク王女テオドラ(アンドレオス王子の次女、エディンバラ公フィリップの姉)と結婚。
[編集] 出典・脚注
- ^ バーデン大公レオポルトと妃ゾフィー・ヴィルヘルミーネの4男
- ^ ロシア皇帝ニコライ1世及びウジェーヌ・ド・ボアルネの孫娘
- ^ 世界の歴史・第一次世界大戦(中央公論社 1966)による。なおこの書ではマックスを「バーデン大公」としているが彼が大公位を告ぐのは10年後のことであるから正確な記述ではない。
[編集] 関連項目
|
|
|
|
|
|
|
|