連合国 (第二次世界大戦)

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ヤルタ会談における英米ソ首脳(チャーチルルーズヴェルトスターリン)の三巨頭

第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、Allies、United Nations)とは、枢軸国ドイツイタリア日本など)と敵対した国家連合。一般的に連合国共同宣言に署名した国などが該当する。

概要[編集]

第二次世界大戦における連合国は、1939年9月1日、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻にはじまる欧州戦線でドイツの陣営と戦った国々と、1941年12月6日の日本による真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争において日本の陣営と戦った国々がある。このうちイギリス・アメリカを含む大部分の諸国は参戦の時点から終戦までの期間に日独両陣営と戦闘したが、ソビエト連邦とその衛星国が太平洋戦争に参戦したのは1945年8月のことである。

また、ドイツやその他の枢軸国から攻撃を受けるなどし、領域を喪失した政府が亡命政府となり、戦争に参加している。戦後これらの亡命政府の多くは帰国したが、ソ連の影響力が強い地域の亡命政府は復帰することができない例や、戦後まもなく亡命政府の継承政権が打倒されることもあった。一方でユーゴスラビアのパルチザンなど交戦当時は国家を代表する存在ではなかったが、国家を代表する存在として連合国の政府として承認される事例もあった。

連合国は戦後処理問題などで比較的緊密な連絡を取った。現在の国際連合 (United Nations) は、戦争中の連合国協議によって生まれた国際機関であり、連合国諸国が原加盟国となっている。特に中心となったアメリカイギリスソビエト連邦フランス中華民国は、国際連合憲章によって安全保障理事会における「常任理事国」の地位が与えられ、拒否権などの特権を有するなど、国際社会において強い影響を持つこととなった。

用語[編集]

本来英語では第一次世界大戦の連合国と同じく「Allies」と呼んだが、1941年12月、フランクリン・ルーズベルトが「United Nation」と呼び、1942年1月1日の連合国共同宣言以来この呼び名が広まった。中国語では「同盟国」が「Allied Powers」、第二次世界大戦前の諸国連合 (United Nations) の名称としても用いられる。又、「国際連合 (United Nations)」には「联合国」(日本で用いられている漢字に直すと「連合国」「聯合国」)が主に用いられている。

歴史[編集]

前史[編集]

1939年5月15日、ポーランドのタデウシュ・カスプジツキ将軍(中央)とフランスのモーリス・ガムラン将軍(右)。

第一次世界大戦後、イギリス・フランスを代表とする戦勝国は新たな安全保障体制を構築しようと国家間での連携を強めていった。大規模な国家連携の試みである国際連盟が設立されたのもこの一環であった。またドイツを警戒するフランスはドイツの周辺国との連携を強め、チェコスロバキアルーマニア王国ユーゴスラビア王国小協商への接近や、1921年にはポーランドとの同盟en)を結んだ。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの連携が強められる事となった。一方でアメリカ合衆国モンロー主義が台頭し、孤立主義の風潮が高まったため国際連盟にも加入しなかった。

1933年、ドイツでナチ党が権力を掌握して再軍備を始め、国際連盟の脱退などロカルノ体制を破壊する動きを見せた。1935年、フランスはドイツを警戒してソ連と仏ソ相互援助条約を締結したが、ドイツはこれを口実としてラインラントに進駐し、ロカルノ体制は事実上崩壊した。しかしその他の周辺国はこれに宥和政策で答えた。イギリスは英独海軍協定を締結してドイツ再軍備を容認し、ポーランドもドイツ・ポーランド不可侵条約を締結して対チェコスロバキア政策などで共同歩調をとった。

開戦前夜[編集]

1939年3月にドイツがミュンヘン協定を反故にしてチェコスロバキアを併合すると、ポーランド回廊ダンツィヒ自由都市といった係争地を抱えるポーランドとドイツの対立は明らかになった。またイギリスは従来からの宥和政策から転じ、3月31日にはポーランドに対する軍事的脅威が迫った際には参戦すると声明し、8月15日にはイギリス・ポーランド軍事条約en)が結ばれた。また、フランスも5月15日に新たな協定を結んで関係を強化した。

一方で英仏とソ連との間では協調も模索された。チェコ併合直後にソ連は欧州集団安全保障体制を提案したが、イギリスに拒否された。4月15日、英仏はソ連に対してルーマニア・ギリシャへの片務的安全保障体制を提案した。ソ連外相マクシム・リトヴィノフはこれを拒否し、4月17日には代案として英仏ソ三国同盟を提案した。しかしこの交渉中の5月1日にリトヴィノフは事実上更迭され、人民委員会議議長(首相)ヴャチェスラフ・モロトフが後任の外相となった。これはソ連の外交体制変更を告げるものであり[1]スターリンはドイツとの秘密交渉を開始した。英仏とソ連の交渉は対ソ不信の強いポーランドの拒否もあって成立せず、一方でドイツとソ連は8月24日に独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはポーランドを独ソで分割する秘密協定も付属していた。

1939年[編集]

9月1日、ドイツがポーランド侵攻を開始した。イギリスはフランスと共同して参戦する予定であったが、ドイツと直接国境を接するフランスの対応は慎重であった。交渉がまとまった9月3日11時30分にイギリスはドイツに宣戦し、フランスも同日午後5時に宣戦を行い、両国の自治領・植民地も追随した。しかし英仏の動きは活発ではなく、イギリスがイギリス海外派遣軍(BEF)をフランス国内に派遣したが実際の交戦はせず、独仏国境地帯でのにらみ合いが続いた。この様子はまやかし戦争と呼ばれている。ポーランドは独ソ両国に占領され、9月17日に政府が国外に亡命し、一部の兵士はフランス軍やイギリス軍に入って戦争を継続した(ポーランド亡命政府)。またイギリスはチェコスロバキア亡命政府en)を承認し、亡命チェコ・スロバキア人も戦闘に参加するようになる。

ソ連が11月にフィンランドに宣戦すると(冬戦争)、連合諸国の間で反ソ感情が高まった。フランス首相エドゥアール・ダラディエはソ連との断交を提案したが、イギリスは拒否した。

1940年[編集]

2月17日にはドイツ海軍のタンカーアルトマルクが、ノルウェー領海でイギリス海軍に拿捕され、捕虜を奪還されるという事件が起きた(アルトマルク号事件)。この事件を容認したノルウェーは親連合国的であるとドイツは判断し、侵攻の準備を本格化した。

一方でフランス軍はなおもフィンランド救援をあきらめず、陸軍総司令官モーリス・ガムランなどはバクー油田を含むカフカース地方への攻撃を考慮していたが、イギリスを説得することは出来なかった。またフィンランド国内への援軍派兵も軍を通過させるスウェーデンの拒否に遭い、実現しなかった。3月13日、フィンランドがソ連と休戦協定を結ぶことを余儀なくされると、フランス国内ではフィンランドを救援できなかったダラディエ首相への批判と、即時対ソ宣戦を求める動きが起きた。3月20日、ダラディエ内閣は総辞職し、ポール・レノー内閣が発足した。レノーは政治基盤を左派に頼ったため、ミュンヘン会談でダラディエと決裂したように対独戦争に強硬だった[2]

4月9日、ドイツはヴェーザー演習作戦を発動し、ノルウェーとデンマークに侵攻を開始した。デンマークは即日降伏し、ノルウェーもドイツの激しい攻撃を受けた(ノルウェーの戦い)。国王ホーコン7世とその政府は英仏に協力を要請したが、オスロをはじめとする全土の大半はドイツの手に落ち、ヴィドクン・クヴィスリングの親独政権が樹立された。北大西洋がドイツの管制下に置かれることを恐れたイギリス軍は、5月7日にデンマークの同君連合国家であったアイスランドに侵攻し、占領下に置いた。

5月10日、ドイツは黄色作戦を発動し、ベルギーオランダルクセンブルクへの侵攻を開始した。ルクセンブルク政府は即日、オランダ政府は5月12日に亡命し、軍は降伏した(オランダにおける戦い (1940年))。フランスやベルギーでもドイツ軍は猛威を振るい、5月27日にはベルギー国王レオポルド3世と軍がドイツに降伏し、政府はロンドンに亡命した。イギリス海外派遣軍とフランス軍の一部はダンケルクで包囲され、殲滅の危機にあったが、ダイナモ作戦によって救出され、イギリス本土に渡ることが出来た(ダンケルクの戦い)。また6月8日にはノルウェー最後の拠点ナルヴィクが陥落し、ノルウェー政府も亡命に追い込まれた。

フランス軍は各地で撃破され、6月16日にはパリが占領された。フランス政府内では降伏の機運が高まり、抗戦を主張するレノー首相は辞職に追い込まれた。後継首相のフィリップ・ペタン元帥は降伏を指示し、6月18日にフランスは降伏した。休戦協定によってフランス北部は占領下に置かれ、フランス政府は南部を統治するヴィシー政権となって戦争から離脱した。しかしシャルル・ド・ゴールを始めとする一部のフランス将兵は国外に脱出し、交戦団体自由フランスとして戦争を継続した。また7月2日にはフランス海軍の艦艇を接収しようとしたイギリス軍とヴィシー政府海軍との間で交戦が発生し、フランス人の間で反英感情が高まった(メルセルケビール海戦)。

ヒトラーはイギリス本土攻略作戦(アシカ作戦)において航空機爆撃を重視し、さかんに空襲作戦を行った。この間の空における戦いはバトル・オブ・ブリテンと呼ばれ、ドイツ側に多大な損害を与えた。イギリスを屈服させられないヒトラーの視線は東に移り、ソ連攻略を計画し始めた。この間、ソ連は6月30日からラトビアリトアニアエストニアを占領したが、これは独ソ不可侵条約の秘密条項によるドイツの承認を受けたものだった(バルト諸国占領)。

10月28日、イタリアがギリシャに宣戦し、侵攻を開始した。しかしイギリスの援助を受けたギリシャ軍は優勢であり、イタリア領のアルバニアに逆侵攻するほどであった(ギリシャの戦い)。

アメリカの連合支援[編集]

アメリカの世論では孤立主義がなおも根強く、ヨーロッパ戦線への関与を求める声は少数であった。しかし大統領フランクリン・ルーズベルトは1937年10月5日の隔離演説で日独伊の三国を「侵略国」として暗に非難し、「平和愛好国」を守らねばならないと演説したように[3]、日独伊の行動を容認する考えは全く持っていなかった。このためアメリカ政府は連合国への支援を開始した。

ポーランド侵攻時には中立を守ると宣言した一方、1939年5月と11月には中立法を改正し、交戦地域を通過して武器を輸出できるようになった。1940年9月2日にはイギリスに旧式駆逐艦50隻を送るかわりに、一部英領基地の使用権を得る協定を締結した(en:Destroyers for Bases Agreement)。12月18日にはルーズベルト大統領が炉辺談話でアメリカは「民主主義の兵器廠」(en:Arsenal of Democracy)であると宣言した。1941年3月11日にはこれに基づいてレンドリース法が成立し、アメリカは連合国への武器貸与を開始した。同年5月27日には無条件非常事態を宣言し、6月にはドイツ・イタリアとの外交関係を断絶した。独ソ戦の発生以降はレンドリースの対象がソ連にも拡大され、莫大な軍需物資が貸与された。また、4月にはデンマーク大使ヘンリク・カウフマンen:Henrik Kauffmann)と協定を結び、グリーンランドにアメリカ軍が進駐した。7月にはアメリカ=アイスランド防衛協定を結び、イギリスが占領したアイスランドにも進駐した。

8月にはイギリス首相ウィンストン・チャーチルとルーズベルトが会談し、大西洋憲章が締結された。これはドイツの侵略に反対するとともに戦後の世界構想を提示したもので、将来の国際連合設立の基礎となるものであった。ルーズベルトはアメリカ・イギリス・ソ連・中華民国の4カ国、すなわち「四人の警察官」で戦後世界の平和を保つべきと主張した。チャーチルは中国の参加には消極的であったが、結局は受け入れた[4]

1941年[編集]

3月27日、ユーゴスラビアで政変が起き、親独派の政権が倒れた。ドイツはユーゴスラビア侵攻を決め、4月6日に侵攻を開始した。4月17日にユーゴスラビア全土が占領され、4月23日にはギリシャも降伏した。両国政府は亡命政府となって連合国に参加し、ユーゴスラビア王国亡命政府は海外からチェトニックを支援して抵抗運動を開始した。6月1日にはクレタ島を失陥し、イギリスは地中海の戦いで不利な状態となった。また4月3日にはイラク王国で親独派のラシード・アリー・アル=ガイラーニーが政権を握り、親英派の摂政アブドゥル=イラーフを追放したため、イギリスは5月にイラク全土を占領して摂政イラーフを復帰させ、1947年10月26日まで駐留を続けた。

6月22日にはドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が開始された。ソ連と連合国は提携し、8月25日には補給線を確保するためイランに侵攻、占領下に置いた(イラン進駐 (1941年))。またポーランド亡命政府もソ連と協定を結び(en)、ソ連軍に捕虜となっていたポーランド軍将兵を再編成することとなった。しかし到着した将兵は捕虜総数にはるかに及ばず、ポーランド側はソ連に不信感を持った。

9月13日、イタリア軍はイギリスの保護領エジプト王国を攻撃し、北アフリカ戦線が形成された。11月28日にはイタリアの統治下にあったイタリア領東アフリカが連合軍によって占領され、エチオピアでは皇帝ハイレ・セラシエ1世の統治が再開された。

12月8日、日本がマレー作戦及び真珠湾攻撃を開始し、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。また第二次上海事変以来日本と交戦状態にあった(日中戦争)中華民国も日本相手に宣戦するとともにドイツ・イタリアにも宣戦し、連合国側に加わった。ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦し、戦域はほぼ全世界に及ぶ事となった。12月26日からはワシントンD.Cアルカディア会談などの会議が開催され、連合国側で参戦していた26カ国による宣言が準備された。

1942年[編集]

「連合国は自由のため戦う」と記されたポスター。

1942年1月1日には連合国共同宣言が発表され、単独不講和などが取り決められた。2月にはアメリカとイギリスで作戦を協議する合同参謀本部en:Combined Chiefs of Staff)が設立され、指揮統合のための準備が行われた。東南アジアでは日本軍の攻勢が続き、2月15日には英領シンガポールが陥落、3月9日にはオランダ領東インド、6月9日にはフィリピン全土が占領された(フィリピンの戦い (1941-1942年))。海戦でもジャワ沖海戦など連敗が続いたが、6月25日のミッドウェー海戦日本海軍の主力空母を4隻撃沈するなど大勝し、以降次第に制海権を奪っていく事になる。

独ソ戦ではドイツ軍の進撃も鈍り、スターリングラードを攻略しようとしていた第6軍は完全に包囲された(スターリングラードの戦い)。また北アフリカではエルヴィン・ロンメル率いるドイツ軍に押され続けていた連合軍は10月24日のエル・アラメインの戦いで勝利し、11月8日にはトーチ作戦でフランス領アルジェリアに上陸、ヴィシーフランス軍の指揮官フランソワ・ダルラン将軍を寝返らせるなど、ようやく攻勢に転じ始めていた。

1943年[編集]

1月14日からはルーズベルト大統領とチャーチル首相の間でカサブランカ会談が開かれ、南イタリアへの上陸作戦を行うとともに、枢軸国に対して無条件降伏を求める方針が決定された。

2月2日にスターリングラードの第6軍は降伏し、ソ連軍の反攻が始まった。その最中の4月13日、ドイツ軍がスモレンスク近郊で大量のポーランド軍将兵の死体を発見し、ソ連軍によって虐殺されたと発表した。ポーランド亡命政府は真相解明を要求したが、ソ連はドイツのプロパガンダであると主張し、亡命政府と断交した(カティンの森事件)。

7月10日に連合軍はハスキー作戦を発動し、シチリア島に上陸した。イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らは連合軍との講和に動き、7月24日にはベニート・ムッソリーニ首相を解任、逮捕した。イタリア王国政府は9月8日に休戦を発表したが、ドイツはムッソリーニを救出した上でイタリア社会共和国(サロ政権)を建設し、イタリア北部で抵抗を続けた。

11月22日にはルーズベルト・チャーチル・蒋介石の三者会談によるカイロ宣言が発表され、日本の戦後処理などの方針が定められた。続いて11月28日からはルーズベルト・チャーチル・スターリンなどによるテヘラン会談が行われ、翌年春にフランスへの上陸作戦を行い「第二戦線」を築くこと、ポーランド国境の画定、ユーゴスラビアのパルチザン支援などが取り決められた。

1944年[編集]

6月6日にはドワイト・D・アイゼンハワー連合国遠征軍総司令部en:Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force)総司令官の指揮によるノルマンディー上陸作戦が実行され、アメリカ・イギリス・自由フランス軍などがフランスに上陸し、 第二戦線である西部戦線を形成した。8月25日にはパリを解放し、自由フランスによるフランス共和国臨時政府が成立した。9月にはマーケット・ガーデン作戦が失敗したものの、ドイツ本土のアーヘンを占領するなど着実に戦果を拡大していた。しかし12月16日からドイツ軍の大規模な反攻作戦が開始され、バストーニュが包囲されるなど押し込まれた。連合軍は12月23日から反撃を開始し、翌年1月末には攻撃を頓挫させた(バルジの戦い)。

イタリアでは6月5日にローマを攻略し、8月11日にはフィレンツェまで至った。10月にはギリシャに上陸したが、王国政府の復帰は進まなかった(ギリシャ内戦)。

一方東部戦線のソ連軍は6月22日からのバグラチオン作戦による大反攻を開始し、ドイツ占領下にあったソ連領を回復するとともにポーランド領の大半を占領した。7月21日には臨時政府ポーランド国民解放委員会(ルブリン政権)を樹立した。8月1日にワルシャワで大規模な武力放棄が発生したが、ドイツ軍に鎮圧された(ワルシャワ蜂起)。この蜂起は亡命政府の影響下に置かれた国内軍の主導によるものであり、亡命政府と断交していたソ連はこの蜂起を見殺しにしたとされる。またフィンランド・ルーマニア王国ブルガリア王国を枢軸国から脱落させ、ドイツに宣戦させた。12月にはハンガリーのほぼ全土を占領し、ハンガリー臨時国民政府を樹立させた。

太平洋では6月19日マリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊を破り、サイパン島マリアナ諸島を占領した。9月15日からはフィリピンへの上陸を開始し(フィリピンの戦い (1944-1945年))、10月23日から25日にかけてのレイテ沖海戦で日本海軍を事実上壊滅させた。

政治面では7月にブレトン・ウッズ協定が結ばれ、国際通貨基金国際復興開発銀行の設立が決定された。8月21日からはダンバートン・オークス会議において国際連合設立に関する討議が行われた。イギリスは米ソの影響力を牽制する目的で「4人の警察官」にフランスを加えるよう主張し、5大国が安全保障理事会常任理事国となる戦後の体制作りが定まった。9月16日に行われた第2回ケベック会談の席上ではドイツを南北に分割し農業国化するモーゲンソー・プランが提案されたが、この案は外部に漏れ、ドイツ国内で反連合国のプロパガンダとして用いられた。10月9日にはモスクワで東欧における英ソの勢力関係を協議する会議が行われたが、合意は行われなかった(en)。

1945年[編集]

ルーズベルト大統領とチャーチル首相は1月30日からのマルタ会談で米英の意見を調整した後、クリミア半島ヤルタに向かった。2月4日からスターリンも加わったヤルタ会談が行われ、ヤルタ体制と呼ばれる戦後世界の構想が固められた。この中でポーランドの国境変更、ドイツ・日本の領土変更、ソ連の対日参戦などが決められた。ポーランドの領土は東から西に大きく変更されることとなり、大西洋憲章で謳われた領土変更に関する人民の意思の尊重が、ヤルタで裏切られたと見るものもいた(en:Western betrayal)。

3月には米英軍がライン川を渡ったが、この頃から米英軍の間で戦略目標をめぐる争いが起こった。イギリスはベルリンを目指すべきと主張したが、アメリカ側はベルリン南方のドレスデン攻略優先を主張した。この考えにはドイツ政府がすでにベルリンから疎開しているという考えがあり、アルプス地域に要塞を築こうとしているという懸念があった[5]。4月1日にはドイツの工業地帯ルール地方の包囲に成功し、4月21日に降伏させた。

ソ連軍は2月にハンガリー全土を占領し、ドイツの石油供給を絶った。ドイツ軍の春の目覚め作戦による反攻も跳ね返し、東プロイセンオーストリアに進撃した。4月16日からはベルリン作戦を発動し、首都ベルリン攻略を開始した(ベルリンの戦い)。4月25日にはアメリカ軍とソ連軍の兵士がエルベ川付近で遭遇し、東西戦線がついに接触した(エルベの誓い)。

ヒトラーが4月29日に自殺したことで、ベルリンは翌4月30日に降伏した。後継者となったカール・デーニッツは政府を組織したが(フレンスブルク政府)、彼に出来ることはもはや兵士をできるだけ米英軍に降伏させることだけであった。5月2日にはイタリアのドイツ軍が降伏し、ドイツ国防軍自体も5月7日に米英軍、8日にソ連軍に降伏した(欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦) en:End of World War II in Europe)、ドイツ降伏の流れ (en:German Instrument of Surrender))。プラハの戦いは5月11日まで続いたが、欧州戦線における戦闘はおおむね終了した。

対日戦では3月にフィリピン全土が連合軍の支配下となり、2月から3月には硫黄島の戦いが行われた。硫黄島に空港を敷設することで連合軍は日本全土の制空権を掌握し、大規模な空襲を行えるようになった。3月26日からは沖縄戦を開始し、6月20日には占領した。7月17日にはポツダム会談が開かれた。4月12日にルーズベルトは死去し、チャーチルは会議中に選挙で敗北したため首相を辞任した。会議ではドイツの占領統治などを定めたポツダム協定と、日本への降伏を迫るポツダム宣言が制定された。さらに8月6日に広島、8月9日に長崎への原爆投下を行い、8月8日にはソ連が対日参戦した。このため日本は降伏を決断し、8月14日にポツダム宣言受諾を通知した上で、15日に発表した。9月2日、戦艦ミズーリ上で降伏文書署名が行われ、対日戦は正式に終了した(日本の降伏)。

戦後[編集]

終戦後、連合軍はドイツ・オーストリア・朝鮮半島は分割して軍政下に置き(連合軍軍政期 (ドイツ)連合軍軍政期 (オーストリア)連合軍軍政期 (朝鮮史))、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府を通じた間接統治による占領下に置いた(連合国軍占領下の日本)。また連合軍主導による軍事裁判で日独の戦犯を裁いた(ニュルンベルク裁判極東国際軍事裁判)。ドイツと日本を除く枢軸国とは1947年2月10日のパリ条約によって講和が行われた。

また東欧の旧枢軸国はソ連軍の占領下に置かれ、ソ連主導の政府が作られていった。ポーランドやチェコスロバキアの亡命政府は復帰しようとしたものの、やがてソ連主導による新政府が設立され、ポーランド亡命政府は冷戦終了までロンドンに滞在することとなった。またユーゴスラビアやアルバニアではパルチザンの主導する社会主義政府が成立し、亡命していた王国政府の復帰はかなわなかった。

こうして戦争中から発生しつつあったソ連と米英のズレはついに対立となり、冷戦が勃発した。このためドイツと朝鮮半島における占領地域はそのまま東西の勢力圏となり、分断国家の領域となった。1948年には朝鮮半島ではソ連占領地域の朝鮮民主主義人民共和国とアメリカ占領地域の大韓民国が成立し、1950年6月25日の朝鮮戦争の遠因となった。

日本における占領は1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約締結、そして1952年4月28日の条約発効によって終結した。その後日本は条約に参加しなかった連合国との平和条約を締結したが、ソ連および承継国ロシアとの平和条約はいまだに調印されていない。

ドイツにおいては1945年7月6日に設置された連合国管理理事会en:Allied Control Council)が統一統治を行う予定であったが、冷戦による対立のため実行されなかった。1949年にソ連占領地域ドイツ民主共和国(東ドイツ)と、米英仏占領地域のドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、1955年には占領行政が終了した。しかし西ベルリンはなお米英仏の連合国軍統治下にあり、東ドイツにはソ連軍が駐屯していた(ドイツ駐留ソ連軍)。この状態は1990年まで続き、ドイツ再統一前のドイツ最終規定条約でようやく連合国とドイツの講和が成立した。最終的にソ連軍の後継であるロシア軍が撤退したのは1994年8月31日のことである。

国際連合と連合国[編集]

1945年4月25日から6月26日に行われたサンフランシスコ会議で定められた国連憲章により、10月24日に国際連合が成立した。国際連合の英語名称であるUnited Nationsは、1942年1月1日の連合国共同宣言から使用された連合国の名称であり、提案者であるルーズベルトの業績をたたえる意味で組織名として使用されている[6]。国連の原加盟国は51ヶ国であるが、これはサンフランシスコ会議に参加した国[7]および連合国共同宣言に署名した連合国51ヶ国[8]であり、事実上連合国が母体となったものであった。安全保障理事会の常任理事国はダンバートン・オークス会議によって定まった米ソ英仏中の五ヶ国が選ばれ、拒否権を持つなど戦後世界で大きな影響力を持つこととなった。五大国のうちソビエト連邦はロシア連邦、中華民国は中華人民共和国によってその地位が継承されている。

参戦順の連合国一覧[編集]

1939年[編集]

ポーランド侵攻

1940年[編集]

北欧侵攻
フランス・ベネルクス侵攻
ギリシャ・イタリア戦争

1941年[編集]

ユーゴスラビア侵攻
ソ連侵攻
日本軍の攻撃開始

1942年[編集]

1943年[編集]

1944年[編集]

1945年[編集]

枢軸国側に宣戦・戦闘行為を行ったが、連合国とは認められていない国[編集]

共同参戦国[編集]

国家承認が得られていない国[編集]

連合国寄りの中立国[編集]

出典[編集]

  1. ^ 児島、第二巻、280-282p
  2. ^ Imlay, Talbot C. "Paul Reynaud and France's Response to Nazi Germany, 1938–1940," French Historical Studies 26.3 (2003)
  3. ^ 村瀬、440p
  4. ^ 北岡伸一「戦後日本外交における国連」』「外交フォーラム」4月号よりの転載、外務省
  5. ^ 児島、第9巻、363-412p
  6. ^ 「国連の成立と目的|国連広報センター」
  7. ^ 参加国は50ヶ国。連合国共同宣言に署名していない国ではデンマーク、アルゼンチンが参加し、ソ連構成国のウクライナベラルーシも代表を送った。ポーランド代表は亡命政府とルブリン政府の対立により代表を送れなかった。
  8. ^ 国連憲章第3条に規定。
  9. ^ 李在鈴「中日戦争期(1937~1945) 中国言論に見られる韓国観」 21p

参考文献[編集]

関連項目[編集]