フィリピンの戦い (1944-1945年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
フィリピンの戦い
Douglas MacArthur lands Leyte1.jpg
“アイシャルリターン”の発言通りフィリピンに戻ってきたマッカーサー元帥(1944年10月20日)
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日1944年10月 - 1945年8月
場所フィリピン
結果:連合国の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フィリピンの旗 フィリピン・コモンウェルス
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニュージーランドの旗 ニュージーランド
イギリスの旗 イギリス
メキシコの旗 メキシコ合衆国
フィリピンの旗 ユサッフェ
フィリピンの旗 フクバラハップ
大日本帝国の旗 大日本帝国
フィリピンの旗 フィリピン第二共和国
指揮官
アメリカ合衆国の旗 ダグラス・マッカーサー
アメリカ合衆国の旗 オスカー・グリスウォールド
フィリピンの旗 セルヒオ・オスメニャ
十六条旭日旗の旗山下奉文
戦力
300,000 400,000
損害
戦死・戦病死 13,973
戦傷 48,541
戦死・戦病死 336,352
戦傷 12,573
フィリピンの戦い

1944年から1945年のフィリピンの戦い(ふぃりぴんのたたかい)は、第二次世界大戦後期において、フィリピン奪回を目指す連合国軍と、防衛する日本軍との間で行われた戦闘である。日本軍は「捷一号作戦」と呼ばれる計画に基づいて防衛を試みたが、アメリカ軍を中心とする連合軍が勝利を収めた。

背景[編集]

日本[編集]

1944年6月のマリアナ沖海戦は日本の敗北に終わり、7月9日にはサイパン島を失陥してマリアナ諸島の喪失も確実なものとなった。この敗北は日本の政治情勢にも影響し、東條英機内閣が倒れて、7月22日に小磯内閣が誕生した。しかし、陸軍軍人とは言え予備役に引いていた小磯國昭に陸軍を抑える力はなく、この政変は陸軍、特に参謀本部の発言力を強める結果となったとされる[1]

その陸軍参謀本部は7月15日、今後の戦争指導方針として次の4案を示した。

  1. 短期決戦案
    • 本年後期に国力戦力の全縦深を展開して対米決戦を指導し、明年以降の施策は全然考慮しない。
  2. 決戦重点二本立案
    • 本年後期に国力戦力の徹底的重点(七〜八割)を構成して主敵米の進攻に対し決戦的努力を傾倒し、一部(二〜三割)をもって長期戦的努力を強化する。
  3. 併行二本立案
    • 本年後期従来程度の決戦的努力を行なうと共に、併せて長期戦的努力を行なう。
  4. 長期戦重点二本立案
    • 戦局の前途短期決戦の見込みなきをもって決戦的努力を従とし、長期戦的努力を主とする。

日本の「戦力は既に破断界に達している」[1]と認識していた参謀本部は第2案を推薦、梅津美治郎参謀総長もこの案を推し25日陸軍大臣杉山元と協議してこれを採用した。児島襄は初期著作『太平洋戦争』で、「もし第二案の決戦で敵に大打撃を与えれば、同じ和を求めるにしても、ずるずると敗戦するよりも立場は有利になるだろう」と評した。これがいわゆる「一撃講和」の基本的な考えである。

この間、大本営は、7月18日から3日間にわたり陸海軍合同研究を行って新たな防衛計画「捷号作戦」を立案し、7月24日に裁可された。作戦は地域別に捷一号から捷四号と名付けられ、このうちフィリピン方面の防衛作戦が捷一号作戦とされた。日本にとって、フィリピンを奪還されることは、本土と南方資源地帯の連絡が遮断されることであり、戦争全体の敗北に繋がるものであった。

陸軍は24日、作戦準備を各軍に命じた。ルソン島、レイテ島ほかの地区を防衛するために第14方面軍が1944年8月4日に創設された。方面軍司令官となった山下大将がルソン島ニルソン飛行場へ降り立ったのは、1944年10月6日であった。第14方面軍は、ルソン島に4個師団、レイテ島に1個師団、ミンダナオ島に2個師団、ミンドロ島サマール島セブ島ボホール島に各1個大隊、その他に計3個大隊を配置した。このほか、ボルネオ島には9月に第37軍(2個旅団)が置かれた。

その後、大本営政府連絡会議から名称を改めた最高戦争指導会議の最初の会議が8月19日開かれた。このとき「世界情勢判断」と「今後採るべき戦争指導の大綱」が決定され、前者でドイツが敗北必至であると認め、後者では「欧州情勢の推移如何に関わらず、帝国は決戦的努力を傾倒して敵を破摧(はさい)、政略施策と相俟って飽く迄も戦争完遂に邁進せざるべからず」と結論し太平洋方面での決戦方針を追認、同時に大陸において対ソ連への独ソ和平工作、対重慶(中国国民党)への和平工作を行なうこととした(以上、日本の背景は主に児島襄『太平洋戦争 下』「フィリピンに決戦を求めて」に拠る、中公新書、後同文庫)。

アメリカ[編集]

下記のように、アメリカのフィリピン奪回のスケジュールは対日反攻が相当進展してからも紆余曲折を辿った。その理由は陸海軍、統合参謀本部などの主要指揮官の間の意見の違い、ヨーロッパ戦線との兵力配分、秋の大統領選挙への影響、対日戦終結後の蒋介石政権支援のための大陸への兵力展開といった要素が考慮されたからであった。

1943年11月のカイロ会談で、中部太平洋進攻とニューギニアからフィリピン方面への進攻の両者を進める方針が決まり、おおまかな手順も定まった。2つの進路のうち、優先度は中部太平洋の方が上であった。

1944年6月の段階でも、統合参謀本部はフィリピンを素通りしたい意向を示していた。海軍作戦部長アーネスト・キングは、3月12日に決定されたハルマヘラ島(9月15日に上陸予定)、ミンダナオ島(11月15日に上陸予定)への進攻を中止して、代わりに台湾へ進攻することを提案していた。この方針は、同じく3月12日に決定されていた中国本土上陸計画にも合致していた。

統合参謀本部は戦争終結を早めるべく6月13日、マッカーサーとニミッツの両者に対して、次の3つの案での対日進攻の再検討を命じた。

  1. 台湾攻略までの既定計画の促進。
  2. 途中の目標を素通りして一気に台湾を攻略する
  3. 既定計画を中止し、日本本土攻略を含む新計画を策定

しかし、両者ともこれらの計画は急進的に過ぎると考えた。

このとき、陸軍参謀総長のマーシャルは6月24日、マッカーサーに沖縄への進攻を提案した。その意図は、マッカーサーの面子を潰さずに中国本土に上陸し、かつ米本土に残されているヨーロッパ用の予備兵力をキングの台湾進攻案に使わせないことにあった。

マッカーサーはマーシャルの提案に反対した。マッカーサーは、7月8日、統合参謀本部が3月12日に決定した案を更に前倒し、1945年5月にルソン島へ進攻する「レノ5号(Reno-V )」計画を提出した。マッカーサーは、フィリピンへ侵攻する軍事的利点として現地の抗日武装勢力の助力が期待でき、島嶼への海上進攻と比較し地上拠点も複数確保できる事を挙げ、政治的にはフィリピンが元アメリカの植民地であることを指摘していた。マッカーサーは自身の前職がフィリピン軍元帥であったことから、フィリピン奪回に大きな努力を払っていた。なお、マッカーサーは父親の代よりこのフィリピンの利権を多く握っており、マッカーサー王国などと揶揄される状態であった。そのため、6月18日マーシャル参謀総長に宛てた書簡に対しマーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる返事を送っている(児島襄『太平洋戦争 下』フィリピンに決戦を求めて)。

一方ニミッツはこの時期、1945年2月に台湾南部に進攻する「グラナイト2号(Granite-2 )」計画を持っていた。また7月4日、予定通りに進攻が進まなくても既定の作戦計画を遂行することと、マッカーサーの主張する機動部隊と陸上基地とを連携させた作戦が適切である旨の2点を回答した。この理由としては

  1. サイパンでの抵抗が予想より大
  2. 連合艦隊の脅威
  3. 日本陸軍の大陸での進撃による中国本土沿岸での作戦活動の困難
  4. 1月に既にキングに対して8月までの戦力の用意はあるが以降は補強が必要である旨を伝えたが
    • マッカーサーの戦力を指揮下に置くことは期待できない
    • オーバーロードの進展からして戦力が必要な時期までに太平洋に移動することは期待できない

といったことを挙げていた。海軍はレノ5号には対日戦早期終結に役立たないと批判した(『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、なお、マッカーサー、ニミッツの提出した両計画の意図、両者の見解などはそれぞれの回顧録に詳しい)。

こうした対立のため統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をした。

  1. ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻
  2. ドイツ打倒も日本海軍撃滅も出来ていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻
  3. ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回

一方、ルーズベルトはそれまでマッカーサーが共和党の大統領候補になる事を警戒し余り手柄を立てさせないようにしてきたが、7月初旬の民主党大会で自身が大統領候補に指名され、マッカーサーにも出馬の意思がないことを知った。その後ルーズベルトは選挙遊説のためオアフ島ホノルルに行き、7月26日夜にマッカーサーと会談した。マッカーサーは持論を述べ立てたがルーズベルトは「フィリピンを迂回しない」ことは支持したものの、海軍が主張する台湾進攻との関係は後回しとされ、9月のケベック会談でチャーチルと協議した結果により決めるとした。ハワイ会談に対し統合参謀本部は不満で、キング作戦部長は即時台湾攻略を主張した。一方海軍側でもハルゼーはフィリピン攻略の意義を認める進言をした。

8月に入りテニアングアムが相次いで陥落、マリアナ諸島を完全に占領したアメリカ軍は、ペリリュー島ヤップタラウド諸島などが次の目標として見えてきた。

8月16日、マーシャルはスケジュールを短縮できるとしたマッカーサーに計画の再提出を命じ、マッカーサーは作戦名称をマスケーティアと改名し9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとした計画を提出し、リンガエンへの上陸時点で「レノ」5号に比較し40日短縮されていた。この一部を統合参謀本部は採用し、海軍、キングも条件つきで承認、9月9日、統合参謀本部はミンダナオ島の攻略予定を11月15日、レイテ島の攻略予定日は12月20日と指令した。しかし、その後ルソンと台湾のどちらに進攻するかは未定であった

なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディ上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能な事が明らかとなった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにする事は出来なくなった(以上、アメリカ側については上記文献のほか主に『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三に拠る)。

8月31日、第38機動部隊第4群は硫黄島を空襲した。第3艦隊ハルゼー大将)が直接指揮する残り3群は続いて9月初頭よりフィリピンを空襲(下記「ダバオ事件」の項参照)、アメリカ軍はそれと併行しながら9月15日、モロタイ島、ペリリュー島へ上陸した(ペリリューの戦い)。17日にはアンガウルに上陸した(アンガウルの戦い)。9月23日にはウルシー環礁を占領しており、後に後方の補給拠点として使用された。第38任務部隊はペリリュー、モロタイ上陸作戦を支援した後、小笠原諸島やヤップを空襲した。
9月12~13日にハルゼー大将が指揮する第3艦隊は中部フィリピンを空襲したが、このときの日本軍の反撃が微弱だったためハルゼー大将は中部フィリピンを「もろい防御と貧弱な施設だけの抜け殻」と判断し中部フィリピンへの進攻を早めるよう提案した。この提案は統合参謀本部に採用され、予定されていた上陸作戦(タラウド、ミンダナオ、ヤップの3島の攻略)を中止して10月20日にレイテ島に進攻することが決定した[2][3]

フィリピン対日武装勢力[編集]

フィリピンの対日武装勢力は二つに大別できる組織からなり、ともに大きな団体となっていた。ひとつは、かつてマッカーサー大将の指揮下で活動していた米比軍の将兵ら(通称をアメリカ極東陸軍頭字語USAFFEからユサッフェ・ゲリラという)で、原隊よりは比較的自由な活動をしていた。他方は、フクバラハプと呼ばれるフィリピン国内の農民革命運動や労働運動者たちであった。この2組織は必ずしも協力関係にあったわけではなく、あるときフクバラハプ側がユサッフェに対して同盟を組もうと迫ったが、逆にユサッフェはこれを拒絶してフクバラハプに攻撃を仕掛けたりもしていた。ユサッフェは、米比軍の正式区分だった全10管区を引き継ぐ形で軍管区司令部を設置し、総兵力約22000名によるゲリラ戦を展開した。レイテ・比島作戦が進行するにつれアメリカ軍が武器を供給したこともあり、その数は一気に27万にまで膨れ上がり、諸戦において有力な戦力となった。日本軍が数々の努力をしていたにもかかわらずほぼ無力で撤退していくことになったのは、このユサッフェらの影響も大きい。

一方、フィリピン市民は必ずしもすべてが対日武装勢力に与したというわけではなく、日本が1943年10月14日に独立政府(ホセ・ラウレル政権)を設立するなどフィリピン宣撫工作により親日派の市民たちも存在した。彼等はマカピリと呼ばれる武装組織を作り、抗日ゲリラを討伐したり、中には日本軍とともに敵陣に突入していく部隊もあった。なお、これらの親日派武装勢力の約5600名は戦後に特赦され、軍事裁判に問われないものとされた。

経過[編集]

連合軍の準備作戦[編集]

アメリカ軍はフィリピン進攻に先立ち、フィリピンの近くに航空基地を確保するためパラオ諸島(ペリリュー島とアンガウル島)とモロタイ島を攻略した。
また、アメリカ軍はフィリピン上陸部隊が近隣の日本軍基地の航空機により攻撃されるのを防止するため、10月20日のレイテ島上陸の前に空海軍の総力をあげて周辺の日本軍基地(マーシャル諸島、カロリン諸島の中のまだ日本軍が残っている島々、中国沿岸、台湾、沖縄、蘭印(現インドネシア)、フィリピンの島々)の空爆を行った[4]。この中でもアメリカ海軍空母部隊が10月10日に行った沖縄空襲と10月12日からの台湾空襲は大規模なものであった。

モロタイ島の戦い[編集]

1944年9月15日、連合軍は、フィリピン進攻の拠点確保のため東部インドネシアのモロタイ島に上陸した。連合軍はすぐに島の重要部を制圧すると、飛行場を建設した。日本軍は、周辺の島から空襲をかけたり、切り込み隊を逆上陸させるなどして妨害を試みた。

沖縄空襲[編集]

台湾空襲[編集]

レイテ島上陸直前の1944年10月12日から3日間、アメリカ軍は台湾にある日本の航空基地を空爆した。これにより台湾沖航空戦が起きたが、日本側は約700機とパイロット多数を失ったのに対し、アメリカ軍機動部隊の損害は僅かであった。しかし大本営海軍部は、「空母撃沈11隻、撃破8隻、・・・・」と大戦果を発表した[5]。この誇大戦果を信じた陸軍はアメリカ軍の戦力を過小評価することになり、この誤った状況判断がアメリカ軍がレイテ島に上陸した後の作戦計画に大きな影響を与えることになった[6]

レイテ沖海戦[編集]

レイテ沖海戦における日米両軍の行動図

1944年10月17日、米軍のレンジャー部隊がレイテ島東約60kmのスルアン島に上陸した。さらにレイテ島への20日の上陸を目標として700隻の艦船を投入した。対する日本軍大本営は、レイテ島への上陸作戦であると判断して、10月18日に捷一号作戦を下命し、シンガポール南方のリンガ泊地からボルネオ西部方面へ栗田健男中将率いる第1遊撃部隊を派遣した。栗田艦隊がブルネイで給油中に、レイテ島の第16師団が米軍上陸船団の接近を報告した。

レイテ沖海戦の参加兵力は、日本軍が小沢艦隊(正規空母1隻、軽空母3隻、戦艦2隻、巡洋艦2隻等の計17隻及び航空機116機)、栗田艦隊(戦艦5隻、巡洋艦12隻等の計32隻)、西村艦隊(戦艦2隻、巡洋艦1隻等の計7隻)、志摩艦隊(巡洋艦3隻等の計7隻)である。他方、米軍がハルゼー艦隊(正規空母8隻、軽空母6隻、戦艦6隻、巡洋艦15隻等の計95隻)、キンケイド艦隊(護衛空母16隻、戦艦6隻、巡洋艦8隻等の計72隻)及び航空機1280機であり、米軍側が日本軍の兵力を大きく上回っていた。

日本海軍の計画は大きく4つの作戦からなっていた。第一に、基地航空部隊が米空母群を攻撃して空襲による損害を抑える。第二に、小沢艦隊が囮となって米機動部隊を北に誘導する。第三に、南から西村艦隊(第1遊撃部隊第3部隊)と志摩艦隊(第2遊撃部隊)が侵入して米艦隊を引き付ける。最後に、主力部隊となる栗田艦隊(第1遊撃部隊第1部隊)が、戦艦「大和」「武蔵」を中心に北からレイテ湾に突入して、米軍上陸部隊と機動部隊を撃滅するというものだった。

10月23日からの戦闘[編集]

シブヤン海において米軍の空襲より回避行動をとる戦艦「大和」
米航空機と戦闘中の戦艦「武蔵」

10月20日、栗田艦隊は不充分な通信環境のなか米上陸部隊が上陸を開始したことを知り、北方へ急行した。途中、23日にパラワン島沖において米潜水艦2隻による攻撃を受け、重巡洋艦2隻が沈没し1隻が大破した。旗艦「愛宕」が撃沈されたために、栗田中将以下の司令部も一時は海へ投げ出された(戦艦「大和」に救助される)。続いて24日に米第38任務部隊所属の延べ264機による空襲で戦艦「武蔵」が沈没し、重巡洋艦1隻も大破した(シブヤン海海戦)。損傷艦の護衛に駆逐艦を残したこともあり、栗田艦隊は戦艦4隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦7隻にまで減少していた。

10月18日頃から日本陸海軍の基地航空隊がルソン島などに集まってきており、22日には航空機計約450機となっていた。同じころ北方にいた小沢艦隊の航空機も含めると計約566機であった。レイテ上陸直前の20日にはこれらの海軍の司令長官として大西瀧治郎中将が着任した。これらの航空部隊による総攻撃は10月24日から26日の間に行われ、陸軍は主に米輸送船団を、海軍は航空母艦を中心とした艦艇群を攻撃した。25日からは海軍が、初の神風特別攻撃隊を投入した。

一方、西村艦隊と志摩艦隊はミンダナオ島付近の海域に向かって進んでいた。途中数回にわたる米軍航空部隊と魚雷艇による攻撃を受けながらも前進を続け、先行する西村艦隊は25日未明にスリガオ海峡に進入した。しかし、ここで待ち受けていたキンケイド艦隊に迎撃され、西村艦隊は駆逐艦1隻を残して全滅した(スリガオ海峡海戦)。続いて到着した志摩艦隊はわずかに交戦したのみで撤退した。米艦隊の損害は駆逐艦1隻大破程度だった。

囮任務の小沢艦隊は10月25日午前8時すぎから米軍第38任務部隊第3群の空襲を受け、午後3時半までに空母全艦を失った。残存艦は米機動部隊との水上戦を試みたが、孤立した一部の艦が交戦したにとどまり、午後11時45分に本土へ撤退を開始した(エンガノ岬沖海戦)。囮として何とかハルゼー艦隊を引きつけることには成功したが、これが海戦の結果に大きな影響を与えることはなかった。

栗田艦隊の攻撃と反転[編集]

サマール沖海戦における行動図

シブヤン海海戦後、一度西に向かい米軍に撤退中と思わせた栗田艦隊は再び東に向かい、10月25日午前0時35分にサンベルナルジノ海峡を無事通過してフィリピン東側の海域(フィリピン海)に進出した。米軍側のハルゼー艦隊とキンケイド艦隊が、互いにサンベルナルジノ海峡の封鎖を他方の分担と思っていたためであった。午前6時45分、栗田艦隊とキンケイド艦隊の護衛空母部隊の1群が遭遇戦となった。不意をつかれた護衛空母群は、艦載機のほか駆逐艦の雷撃で反撃を試みながら退避した。2時間余りの戦闘で栗田艦隊は護衛空母1隻と駆逐艦3隻を撃沈し、護衛空母3隻と駆逐艦1隻を大破させたが、栗田艦隊も巡洋艦3隻を失い、2隻が大破した(サマール沖海戦)。その後もしばらく栗田艦隊は東進したが、攻撃目標の船団は既に上陸を終えた可能性や、協同すべき西村艦隊・志摩艦隊が戦線離脱しておりキンケイド艦隊による集中攻撃を受ける危険性、さらに将兵の疲労が限界に達していることなどを考慮した末に撤退を決意した。一方のキンケイド艦隊は数時間前に西村艦隊と戦闘を行ったばかりのため砲弾の残数が十分でなく、栗田艦隊の迎撃に自信を持てない状況にあり、この撤退は日米両軍にとって予想外の出来事だったため「謎の反転」と呼ばれるようになった。

大本営の戦果発表[編集]

10月27日、大本営海軍部はレイテ沖海戦の戦果を、「空母撃沈8隻、撃破7隻、航空機撃墜 約500機、・・・・」と発表した。この誇大戦果は先の台湾沖航空戦の誇大戦果と合わせてますます日本軍の状況判断を誤らせることになった[7]

レイテ島の戦い[編集]

10月20日、連合軍はレイテ島に上陸した。これまでの日本側のフィリピン防衛計画はルソン島での決戦であったが、大本営海軍部が発表した台湾沖航空戦とレイテ沖海戦の誇大戦果を信じたため、方針はレイテ島での決戦に変更された[8]。このときは「敵は明治節(11月3日)までに降伏するだろう」といった希望に満ちたものであった[9]。レイテ島決戦の決定により多数の部隊をレイテ島に輸送することになったが(多号作戦)、この輸送は兵員や物資を航空機により攻撃されやすい海上に長時間曝露することになり多くの戦力を戦う前に喪失した。

レイテ島の戦いの行動図

アメリカ軍の上陸[編集]

上陸直後の米軍の猛烈な艦砲射撃で炎上する日本軍陣地
レイテ島に上陸中の米軍

日本側は、第35軍(司令官:鈴木宗作中将)がレイテ島を含む東部フィリピン防衛を担当しており、うちレイテ島には第16師団のみを配置していた。

1944年10月20日、連合軍はレイテ島攻略に着手した。第6軍所属の約20万2500名からなる陸上部隊が投入された。航空支援には陸上機約3200機に加え、艦載機約1200機も参加した。海上からも艦隊が火力支援をしていた。

アメリカ軍第24軍団(第7師団・第96師団)と第10軍団(第1騎兵師団・第24師団)は、レイテ島東岸のタクロバンから上陸を開始した。猛烈な艦砲射撃で、沿岸の日本軍陣地は壊滅した。連合軍は急進して第16師団の連隊長2人を戦死させ、26日までに6個の飛行場を確保した。第16師団は山地へと退却した。この戦闘の間、日本軍の通信状態は悪く、しばしば連絡が途絶えたため、大本営やマニラの方面軍ではレイテ島の戦況の把握が困難であった。第16師団の残存部隊は増援部隊と合流しながら翌年2月頃まで戦い続けたが、11月20日時点で約3800名、翌年3月には約800名まで消耗していた。

日本軍の反撃[編集]

レイテ作戦中の米軍の歩兵

対する日本の大本営陸軍部は台湾沖航空戦の過大な戦果判定を信じていたため、レイテ島に増援を送り決戦を図った。第1師団のみは、航空援護もあって11月9日までに無事に上陸することができたものの、そのほかの第26師団や第68旅団などはいずれも空襲を受け、物資の過半は海へ沈んだ。そのため、ガダルカナル島の戦いと同じく物資の著しく欠乏した戦闘となった。第1師団と第26師団などが到着後の11月20日頃の日本軍兵力は、人員約43000名、馬約650頭、軍用車両約190台だった。

第1師団は、1944年11月1日にレイテ島西岸のオルモックへ上陸し、3日にカボカン方面で米第24師団と遭遇して戦闘になった。アメリカ軍は、途中11月24日に第32師団へ交替して攻撃を続け、12月5日から総攻撃を行った。第1師団は第102師団の一部とともに悪戦苦闘し、12月21日に西方への撤退を開始した。

日本軍は、第26師団と第16師団残存部隊に加え、薫空挺隊と高千穂空挺隊を連合軍飛行場へ突入させて反撃を試みた。だが、第26師団がブラウエンまであと10kmまで迫った時点で、西海岸のイピルにアメリカ軍が上陸したため、攻撃を中止した。

オルモック陥落[編集]

日本軍が揚陸地点としていたオルモックの制圧を狙った連合軍は、オルモック南方のイピルにアメリカ軍第77師団を上陸させた。連合軍は12月11日にオルモックを占領した。

日本軍は第26師団を反転させるなどして迎撃したが、補給が完全に途絶えて12月末にはもはや戦闘継続不能となった。第14方面軍はレイテ決戦中止を決め、第35軍にカンギポット(歓喜峰)付近の山岳地帯を拠点としての永久抗戦を命じた。1月末までにカンギポット付近に残存部隊が集まり、その一部はセブ島への転進を行った。

レイテ航空戦[編集]

レイテ島の戦いは熾烈な航空戦でもあった。日本は2000機近くの航空機を投入し、そのほとんどを失った。これは当時の日本の保有機の半数近くであった。このため、その後のフィリピンの戦いでは航空機による支援はほとんど望めない状況となった[10]

ミンドロ島の戦い[編集]

レイテ島に続いてルソン島の奪還を目指す連合軍は、レイテ戦末期の12月15日、ルソン島上陸に先立ちミンドロ島へ侵攻した。その目的はルソン島南部に対する航空支援基地を確保することにあった。日本側の第14方面軍はミンドロ島の防衛は当初から断念しており、警戒任務の2個中隊しか配備していなかった。日本海軍による砲撃(礼号作戦)などの反撃は行われたものの、すぐに連合軍は島を制圧することに成功した。

ルソン島の戦い[編集]

比島攻略の作戦図

リンガエン湾上陸とマニラ侵攻[編集]

1945年1月9日、連合軍は、3日間以上の激しい事前砲爆撃に続いて、ルソン島リンガエン湾に上陸を開始した(リンガエン湾上陸英語版1月6日 - 1月9日)。まずアメリカ軍の第6軍(司令官:クルーガー中将。7個師団・2個砲兵群基幹)が上陸し、うち2個師団がマニラ奪還を目指して南下をはじめ、2個師団が北部の制圧へと向かった。

対する日本側の第14方面軍(司令官:山下奉文大将)は、部隊を3つの集団に分けて持久戦を図る戦略であった。山下大将自身が率いる尚武集団(5個歩兵師団、1個戦車師団、2個独立混成旅団基幹の15万2千名)をバギオを中心とした北部に、横山静雄中将の振武集団(2個師団基幹の10万5千名)をマニラを含む南部に、塚田理喜智中将の建武集団(各種集成部隊3万名)をクラーク飛行場群のあるマニラ北東地区に配置した。

リンガエン湾には、尚武集団の第23師団戦車第2師団、独立混成第58旅団が迎撃態勢についていた。北部制圧に向かったアメリカ軍2個師団と激しい戦闘となり、2月上旬までアメリカ軍の進撃を遅らせた。この間に、北部には大量の軍需物資が搬入された。

リンガエン湾に進入する戦艦ペンシルベニア以下の米第7艦隊

他方、南部へ向かったアメリカ軍2個師団は、建武集団を撃破して200kmの前進に成功し、1月下旬にはマニラ郊外へ到達した。建武集団は陸海軍の航空部隊を集成して地上戦に転用した部隊で戦力は乏しく、残存部隊は山中の複郭陣地へ後退し、次第に組織としての統制を失っていった。連合軍は、バターン半島とマニラ南方へもアメリカ第8軍を上陸させ、多方面からマニラ市への攻撃を開始した。当初、日本側第14方面軍はマニラ市について無防備都市宣言する計画であったが、海軍や第4航空軍、大本営の反対により実現しなかった。マニラにはマニラ海軍防衛隊(司令官:岩淵三次少将)の陸戦隊などが立て篭もり、約1ヶ月間の激しい市街戦となった。3月3日にマニラは陥落したが、それまでに連合軍の激しい砲爆撃によって市街地は廃墟と化した。市民の犠牲者は約10万人と言われ、日本軍による虐殺行為があったともいわれる。(詳細はマニラの戦い (1945年)及びマニラ大虐殺を参照

リンガエン湾上陸以来の戦闘により、アメリカ軍は死傷2万5千名の損害を受けた。日本軍の損害はマニラ市街戦のみで戦死1万6千名に及んだ。

バターン半島には永吉支隊(第10師団の1個連隊基幹)とコレヒドール支隊(1個大隊基幹)が展開していたのに対し、激しい砲爆撃の後にそれぞれ1月30日と2月17日にアメリカ軍が上陸して攻撃を加えた。コレヒドール島には空挺部隊も降下した。日本軍は夜襲により抵抗したが、コレヒドール要塞は3月に陥落し、生存者300人だけが永吉支隊に合流した。9月上旬に投降した時の日本軍残存兵力は僅かに約280名だった。

振武集団の戦闘[編集]

振武集団は、マニラ防衛隊支援のため、2月8日より6個大隊で第一次総攻撃を行うなど、マニラ郊外において連合軍と激戦を繰り広げていた。2月23日、米第6師団、第43師団などは猛砲撃を行ったあと、戦車を中心にして包囲攻撃を開始した。対する日本軍は、3月中旬に第二次総攻撃を実施して第6師団長に重傷を負わせるなどしたが、結局3月下旬頃になると撤退を余儀なくされた。振武集団は3つに分断されてしまい、6月には第二線陣地も失って、さらに分散しての持久戦へと入った。その後、9月から11月にかけて終戦を知り降伏するまで、連合軍やゲリラとの戦闘を行った。振武集団の生存者は、当初の約10万5000名のうち終戦以後に収容された者13000名と、比島作戦終了までの捕虜1600名であった。

尚武集団の戦闘[編集]

バレテ峠を匍匐前進する米軍歩兵

バギオに方面軍司令部を置いたルソン島北部の尚武集団に対し、連合軍はアメリカ第6軍の第1軍団を中心に攻撃を進め、1月下旬には沿岸の日本軍第23師団などに大打撃を与えていた。2月下旬に、連合軍は山岳地帯の日本軍陣地に対して攻撃を開始し、バギオを巡って日本軍の第23師団・独混第58旅団と交戦した。また、東部の穀倉地帯カガヤン渓谷への進入路を巡って、バレテ峠・サラクサク峠で第10師団・第105師団・戦車第2師団などと一進一退の激戦となった。

バギオ地区では日本軍が4月までアメリカ軍の北進を阻止していたが、西海岸からナギリアン経由で迂回侵攻され、4月下旬にバギオは陥落した。その直前に方面軍司令部はカガヤン渓谷へ脱出し、ホセ・ラウレル大統領らも日本本土へ避難した。

バレテ峠でも日本軍は力戦し、陣地を侵食されながらも5月まではカガヤン渓谷への連合軍進入を防いでいた。しかし、物資や食糧が減少していくとともに戦力も低下し、6月1日についに日本軍は退却した。日本軍は、バギオから後退してきた第23師団らと合流して第二線陣地へ向かった。

その後、6月にはルソン島北端のアパリにもアメリカ軍が空挺降下し、尚武集団は包囲攻撃を受ける状況となった。残存兵は陣地に篭って最後の抵抗をしたが、日本軍各師団の兵力は約20%ほどにまで減少していた。食糧なども不足し、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって終戦を迎える。

他地域の戦闘[編集]

ボルネオ地区タラカン島で作戦中のオーストラリア軍戦車

比島作戦ではレイテ島やルソン島以外の島でも激しい戦闘が行われた。マッカーサー大将の強い希望を受けて連合軍はフィリピン全島を攻略する方針を決め、中南部フィリピン攻略の「ヴィクター作戦(Operation VICTOR)」を開始した。ルソン戦中の2月にベルデ島ルバング島パラワン島へ上陸し、3月にはミンダナオ島プルアス島セブ島、4月にホロ島ボホール島ほかにも上陸した。これらの戦闘に連合軍側は、アメリカ軍5個師団などを投入し、大規模かつ徹底的な攻撃を行った。ボルネオ島にも5月にオーストラリア軍2個師団が侵攻した。対する日本軍はレイテ島とルソン島に戦力を集めており、連合軍侵攻時点で防衛担当の第35軍及び第37軍指揮下に残っていたのは戦闘力のない兵站部隊や飛行場部隊などが多かった。戦闘部隊は額面上は4個師団と3個旅団あったが、いずれもレイテ戦で消耗した部隊や第二線級の治安部隊であった。それでもトンネルなどを活用した陣地を構築しており、各部隊は非戦闘部隊も一丸となってしばしば果敢な抵抗を試みた。

ミンダナオ島の戦い[編集]

残る地域のうちミンダナオ島に日本軍は最大の兵力を残していた。第30師団(レイテ戦で半減)と第100師団を主力として、他に独立混成第54旅団、第2飛行師団地上要員などが配備されていた。これに対して連合軍は、米第24師団、第31師団、第40師団を上陸させ、現地にいた米比軍ゲリラ部隊(ユサッフェ)約33000名と共同作戦を行った。まず連合軍は西部のサンボアンガへ3月10日に上陸して、独混第54旅団を撃破した。つづいて4月に南岸へ上陸してダバオ攻略を目指したのに対し、日本軍は主力の第100師団がダバオ西方で約2ヶ月間防戦を続け、6月にアポ山へと後退して自活態勢に移った。第30師団は北部区域において戦闘していたが、6月頃に東部へ撤退した。

ビサヤ諸島の戦い[編集]

ビサヤ諸島(ヴィサヤ諸島)にはレイテ島以外にも日本軍の航空基地が多く存在したが、すでに機能停止状態だった。守備兵力は第102師団(レイテ戦で2個大隊と砲兵隊喪失)が、セブ島やパナイ島、ネグロス島、パラワン島に分散配置されていた。パラワン島が最初に占領され、以後、各島への侵攻が続いた。防衛の中心のセブ島には3月26日に米軍のアメリカル師団が上陸した。後方部隊中心の約14500名からなる日本軍は上陸直後に激しく抵抗し、その後も第14方面軍司令部の指導により玉砕は避けて持久戦に移行した。ネグロス島などにもアメリカ軍が上陸した。

スールー諸島の戦い[編集]

スールー諸島のホロ島では、4月9日のアメリカ軍第41師団上陸に対し、日本軍の独立混成第55旅団(レイテ戦で1個大隊喪失)が迎え撃った。独混第55旅団は約半数を失って山中に撤退したが、そこでもゲリラによる攻撃を受けて終戦までにほぼ全滅した。

ボルネオの戦い[編集]

ボルネオ地区にはイギリス軍及びオーストラリア軍第2軍(第7・第9師団)が侵攻し、日本側の独立混成第56・第71旅団と交戦した。5月1日のタラカン島上陸を皮切りに、7月1日には第二次世界大戦最後の大規模上陸作戦[11]であるバリクパパン上陸などが行われ、各地で終戦まで激戦が続いた。

終戦[編集]

フィリピン方面の日本軍で最初に終戦を知ったのは、8月15日に情報を得た第14方面軍司令部である。司令部は1人でも多くの将兵を日本本土へ帰還させることが最後の任務と考え、18日に終戦の詔書の文面をコピーして各部隊に渡すことを始め、24日に慰霊祭を行い、31日に下山して、その後は転々と連合軍の軍事施設を回った後、バギオの基地へと移動した。そして9月3日、山下奉文大将はマッカーサー元帥と共に降伏文書調印式に参加して降伏文書に署名した。ここに比島攻略作戦を含む一連の捷一号作戦が幕を閉じたのである。

結果[編集]

レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅した事で、日本軍は完全に補給を断たれ、レイテ島10万、ルソン島25万に取り残された形となり、1945年6月までの戦闘で主力部隊が壊滅した以降はジャングルを彷徨いながら散発的な戦闘を続けるだけとなった。多くが餓死し、マラリアなどの伝染病や戦傷の悪化により死んでいった。フィリピン進攻以降のフィリピンの戦いでの日本軍の戦死者(戦病死者を含む)は日本軍がアジア・太平洋戦争で戦った全戦線において最も多く、その過半はフィリピン防衛戦での餓死と推定され、極度の飢餓から軍の統制は崩壊し、各々食糧を求めて彷徨ううちに時に畑の芋を巡って争い、一部に人肉食に至るなどしたという。

以下は、日米両軍の人的損害である。

日本陸軍の死傷者数(単位:人)
戦場 戦死・戦病死 戦傷 合計 脚注
レイテ島 80,557 828 81,385 [12]
ルソン島 205,535 9,050 214,585 [13]
フィリピン中央部・南部 50,260 2,695 52,955 [14]
合計 336,352 12,573 348,925 -
アメリカ陸軍の死傷者数(単位:人)
戦場 戦死・戦病死 戦傷 合計 脚注
レイテ島 3,593 11,991 15,584 [15]
ルソン島 8,310 29,560 37,870 [14]
フィリピン中央部・南部 2,070 6,990 9,060 [14]
合計 13,973 48,541 62,514 -

連合軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、航空機による通商破壊を本格化して日本の南方航路を封鎖した。日本は、戦艦まで輸送任務に転用して北号作戦南号作戦を行い資源輸送に努めたが、1945年3月を最後に南方航路は閉鎖に至った。日本はインドネシアの油田地帯などを依然として確保していたが、シーレーンの遮断により燃料供給を断たれ、艦隊の行動はおろか航空機を飛ばすことすら難しくなった。この頃になるとサイパン基地から発進したB-29による本土空襲が本格化し、工場地帯も都市も次々焼き払われ、国民の生存すら困難に陥った。大本営は戦争の勝敗よりも、いかにして講和に繋ぐかを詮索しはじめた。45年初頭には米軍はいよいよ本土への侵攻を開始した。(日本本土の戦い沖縄戦

フィリピンの戦い(1944-1945年)を題材とした作品[編集]

体験記[編集]

  • 大岡昇平俘虜記』、1949年
  • 山本七平『ある異常体験者の偏見』、1974年
  • 同、『私の中の日本軍』、1975年
  • 同、『一下級将校の見た帝国陸軍』、1984年
  • 堀栄三『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇』
  • 藤原則之『在留日本人の比島戦-フィリピン人との心の交流と戦乱』、光人社 2007年 - 1944年9月に現地召集された日本人の手記。

小説[編集]

映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 児島。
  2. ^ ニミッツ p. 290
  3. ^ HALSEY p. 446
  4. ^ ニミッツ p. 294
  5. ^ 戦史叢書 41 P.286
  6. ^ 戦史叢書 41 P.236, P.251, P.266
  7. ^ 戦史叢書 41 P.312
  8. ^ 戦史叢書 41 P.303
  9. ^ 戦史叢書 41 P.316, P.326
  10. ^ 戦史叢書 41 P.553
  11. ^ ただし約8000人を上陸させた占守島の戦いが8月18日に行われている。
  12. ^ Cannon, Leyte: Return to the Philippines, pp. 351-352
  13. ^ Smith, Triumph in the Philippines, p. 694
  14. ^ a b c Smith, Triumph in the Philippines, pp. 692-693
  15. ^ Cannon, Leyte: Return to the Philippines, pp. 368-369

参考文献[編集]

  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで』、朝雲新聞社、1970年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 41 捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦』、朝雲新聞社、1970年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 48 比島捷号陸軍航空作戦』、朝雲新聞社、1971年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦』、朝雲新聞社、1972年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書 60 捷号陸軍作戦(2)ルソン決戦』、朝雲新聞社、1972年
  • 狩野信行『検証 大東亜戦争史 上巻』芙蓉書房、2005年、370-378頁。ISBN 4-8295-0359-9
    • 『検証 大東亜戦争史 下巻』芙蓉書房、2005年、9-36頁。ISBN 4-8295-0360-2
  • 歴史記者クラブ昭和班『太平洋戦争新聞』 廣済堂出版、2005年、120頁。ISBN 4-331-51114-6
  • 児島襄『太平洋戦争 下巻 フィリピンに決戦を求めて』 中公新書、1966年
  • 福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』中央公論社、1979年
  • 『戦史資料第18号 比島への接近』(全3巻) (陸上自衛隊幹部学校、1955年)
原題〔The Approach to the Philippines〕(アメリカ陸軍公刊戦史)
  • 『戦史資料第21号 レーテ(比島への帰還)』(全2巻) (陸上自衛隊幹部学校、1955年)
原題〔Leyte: The Return to the Philippines〕(アメリカ陸軍公刊戦史)

関連項目[編集]