マキンの戦い

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マキンの戦い
Battle of Makin.jpg
上陸する第165歩兵連隊
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1943年11月20日 - 11月23日
場所ブタリタリ(マキン環礁)
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
市河海軍中尉 リッチモンド・K・ターナー少将
戦力
軍人353
軍属340(うち朝鮮出身200)
6,470
損害
戦死589
捕虜104(うち朝鮮出身軍属101)
戦死66
戦傷185
ギルバート・マーシャル諸島

マキンの戦いとは、第二次世界大戦中の1943年11月20日から1943年11月23日にかけて、ギルバート諸島ブタリタリ環礁で行われた日本軍守備隊とアメリカ軍との戦闘。アメリカ軍はガルヴァニック作戦Operation Galvanic)の一環として攻略した。

当時、ブタリタリはマキン環礁と呼ばれることが多かったために一般にマキンの戦いとして知られるが、現在のマキン島(当時はリトルマキン島と通称)とは異なる、現在のマキン島の隣島で起きた戦闘である。以下、本項ではブタリタリのことをマキンと呼ぶ。

背景[編集]

連合軍の戦略[編集]

アリューシャン方面の戦いの終了、ソロモン方面での戦いの好転により、アメリカ海軍は1943年終わりには中部太平洋への侵攻が可能となった。そのため、米国統合戦略委員会は1943年の初めから中部太平洋を西(日本の方角)に向かって進撃することを計画していたのだが、南太平洋最高司令官であるダグラス・マッカーサーニューギニアからフィリピンに至るカートホイール作戦の実施を主張し、この計画に反対したため、アメリカ陸軍とアメリカ海軍で意見が分かれた。

米国統合参謀本部はカートホイール作戦のみでは日本軍に側面から脅かされると判断し、カートホイール作戦の実施と共に中部太平洋への侵攻を決定する。この決定により統合参謀本部は1943年7月20日チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官に対し、11月15日頃にギルバート諸島ナウル島を攻略し、翌1944年1月頃にマーシャル諸島を攻略するように下令した。

1943年8月21日から8月24日の間にはカナダケベックアメリカ合衆国イギリスカナダフランスの四箇国が会談し、この会談により中部太平洋への侵攻作戦の具体案が決定した。それは占領した島を拠点として次の島を攻略し、日本本土へ迫るというものであった。 ギルバート諸島への攻撃はこの計画の最初のステップであった。

日本軍の防備[編集]

一方、日本軍は太平洋戦争開戦直後にマキンを無血占領して以来、守備隊は約70名しか置いていなかった。

この守備態勢を見直すきっかけとなったのは、1942年8月17日に、221名のアメリカ海兵隊が2隻の潜水艦でマキンに上陸したマキン奇襲事件だった。当時のマキンには海軍陸戦隊64名など73名(ほかに民間人2名)の日本軍がいたが、戦闘で壊滅した。日本軍の救援部隊が到着する前にアメリカ軍は引き揚げてしまった。

この失態は日本軍にギルバート諸島の戦略的な重要性を気づかせることとなり、日本軍は島の防備強化を開始した。それにより、横須賀第6特別陸戦隊などが派遣されて、1943年2月15日には第3特別根拠地隊(横須賀第6特別陸戦隊改編)がギルバート方面に設置され、地上施設や航空施設の増強が行われた。日本軍の主力はタラワに配置され、マキンには市河中尉の指揮する分遣隊と水上機基地が置かれた。

両軍の兵力[編集]

  • 日本軍(すべて海軍部隊) - 総兵力693名
    • 第3特別根拠地隊分遣隊 243名
      • 分遣隊長兼分隊長:藤野斉助 特務中尉
        • 付:井崎直 予備少尉
        • 付:平間光 軍医中尉
    • 第952航空隊基地員 60名
      • 飛行隊長:佐々木栄 少佐
      • 軍医:森下幹夫 大尉
    • 第802航空隊基地員 50名
    • 第111設営隊 340名(主に軍属。うち朝鮮出身者200名)

アメリカ軍支援艦隊についてはガルヴァニック作戦#戦闘序列を参照。

戦闘経過[編集]

事前攻撃[編集]

1943年11月10日レイモンド・スプルーアンス中将指揮の侵攻部隊はハワイ真珠湾を出撃した。マキンに空襲が始められたのは11月19日で、初日は基地航空隊のB-24が1機来襲しただけであったが、翌11月20日午前3時15分に艦載機約40機が来襲した。

その後も午前7時25分に第2波94機、午前8時40分第3波30機、午後12時第4波58機、午後12時28分第5波40機、午後4時35分第6波17機と米軍は艦載機による空襲を繰り返した。この日の空襲で日本軍守備隊に100名程の死傷者が出たため、午後5時頃に島中央部の桟橋付近の陣地と島西部のキング波止場、オンチョン波止場の陣地を放棄した。

11月21日[編集]

翌21日午前2時45分に艦砲射撃を開始した米軍は、午前5時30分に第1大隊と第3大隊を西部海岸に上陸させた。上陸当初、日本軍の抵抗をまったく受けなかった米軍はそのまま南部海岸に進撃したのだが、午前7時、島南端のウキアゴン岬に近づいた時に日本軍による砲撃に遭い、この攻撃に驚いた第1大隊と第3大隊は上陸地点まで後退した。

午前7時40分、米軍は第2大隊をオンチョン波止場付近に上陸させた。これにより米軍は島の日本軍勢力を分断しようと試みたが、日本軍守備隊による激しい抵抗にあったため、海岸から一歩も前進することができなくなった。これ以降、上陸米軍は日本軍守備隊の少数での奇襲攻撃に悩まされることになる。

しかし、この日の戦いで西海岸から上陸した部隊は西部陣地付近まで進出し、艦砲射撃と空襲によりウキアゴンの砲台は破壊された。ウキアゴンの守備兵は、数名が米軍の包囲網の脱出に成功した他は全員玉砕した。

夜になり、日本軍の陸戦隊の一個分隊は敵を牽制すべく陣地を脱出した。牽制隊は北と南から陣地に迫っていた米軍部隊に対して中間から双方に射撃を加え、そのまま撤退した。このため米軍部隊は第1大隊・第3大隊と第2大隊で同士討ちを演じることとなった。この隙に日本軍守備隊は西部陣地を脱出し、米軍上陸地点の中央部を迂回して東部陣地に集結した。

11月22日以降[編集]

翌22日、日本軍との接近戦を好まなかった米軍は、日本軍の東部陣地に対して一日中、空襲と修復したウキアゴン砲台からの砲撃を加えた。この攻撃は夕方まで続けられ、日本軍守備隊で戦闘可能な者は30名程となった。

翌23日午前4時、残存守備隊30名は米軍陣地に対して最期の黎明攻撃をかけることとなった。日本軍守備隊は米軍陣地の50m手前まで接近するも、そこで発見され攻撃を受け、1名を除いて全員玉砕した。

この攻撃を最後にマキンの戦いは終結した。なお、翌24日と25日に、日本軍はマキン島の地上部隊を狙って戦闘機隊を攻撃に送ったが、アメリカ軍機動部隊が発進させた戦闘機に阻止されて、いずれも敗退した(ギルバート諸島沖航空戦参照)。

アメリカ軍の護衛空母「リスカム・ベイ」はこの作戦中、11月24日に日本の潜水艦「伊175」(田畑直艦長)の魚雷攻撃により失われ、マキン島の陸上戦の死傷者を大きく上回る損害を出した。

両軍の損害[編集]

  • 日本軍(朝鮮出身軍属を除く)
    • 戦死者 492名
    • 生存者 1名
  • 朝鮮出身軍属
    • 戦死者 99名
    • 生存者 101名
  • 米軍
    • 戦死者 66名
    • 戦傷者 218名
    • このほか護衛空母「リスカム・ベイ」の沈没と戦艦「ミシシッピー」の砲塔爆発事故による海軍の戦死者 約700名

ニミッツの陸軍批判[編集]

『ニミッツの太平洋海戦史』ではアメリカ側の圧倒的に優勢な兵力にもかかわらす、1日で終わる予定のマキン島攻略に4日も要したことについて、マキン島の陸上戦を担った陸軍を次のように批判している[1]

攻略作戦が予定どおり進捗しなかった原因は、拙劣な指揮と、長期にわたりハワイの警備任務につき、初めて実戦に参加した第27師団の誤った教育によるものであった。齢をとった将校たちは、第一次世界大戦の大陸型の戦闘様式で、師団を非現実的に訓練した。この戦闘方法というのは、部隊は味方の弾幕下にゆうゆうと組織的に前進し、敵の戦闘力が味方の砲撃によって粉砕されるまでは前進しない、というものである。こうした戦法は迅速な勝利こそ支援に任ずる艦隊を自由にするものであるという島嶼作戦には適しなかった。
・・・・(中略)・・・・。
経験に乏しく、訓練の不適当な点から見れば、上陸した連隊の各部隊が、数名の敵狙撃兵、または一、二挺の機銃のために数時間にわたりその前進をはばまれ、あるいは動くもの、音を立てるものには何にでも神経過敏になって射撃し、夜間にその陣地を放棄したことは、あえて驚くに足らない。

※ 陸軍第27師団はサイパン攻略にも参加したが、このときもその戦いぶりが問題になり、師団長が更迭されている[2]


脚注[編集]

  1. ^ ニミッツ、ポッター P.220
  2. ^ ニミッツ、ポッター P.283

参考文献[編集]

関連項目[編集]