魚雷

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魚雷発射管へ装填される魚雷
アメリカ海軍MK-46魚雷の発射
ザイドリッツ (巡洋戦艦)に53センチ魚雷が命中してできた穿孔

魚雷(ぎょらい)は、魚形水雷の略称であり、弾頭にエンジンと高速スクリューを組み合わせ、水中を航行し、目標とした艦船などを爆発によって破壊することを目的とした兵器である。魚雷は艦船の喫水下の部分を破壊するため多大の浸水を与え行動力を奪う。魚雷を用いて攻撃することを雷撃、魚雷攻撃を浴びることを被雷と呼ぶ。

主に、潜水艦水雷艇駆逐艦巡洋艦雷撃機などに搭載されて運用された。現代において、「水上艦や航空機が用いる対水上艦兵器」としては対艦ミサイルに取って代わられたが、より先進的な誘導能力を付与された上で「潜水艦が用いる対水上艦兼対潜水艦兵器」(長魚雷)や「水上艦や航空機が用いる対潜水艦兵器」(短魚雷)として広く配備・運用されている。

現在では対艦ミサイルに対しては早期警戒機の運用とイージスシステムに代表される高度な対空防御システムによって、自艦に対して敵側から複数が発射された後でも対処することは十分可能となっている。 これに対し隠密裏に潜航する潜水艦から発射された魚雷に対しては現在ではデコイや対魚雷魚雷などが研究されているが、現実的には魚雷が発射される前に相手方を叩くか、操艦による回避に頼らざるを得ないと考えられている。とりわけ急激な進路変更や増減速が不可能な大型空母にとって海底に潜む潜水艦から発射される不意の魚雷攻撃は最大の脅威である。

運用[編集]

開発当初の魚雷は信頼性が低かったが、航走距離の延伸、命中率を向上させるために多くの技術改良がなされる一方で、その防御方法も編み出された。初期の魚雷は単純なジャイロ誘導であり、直進することしかできなかった。当時は低い命中率を補うため同時に複数の魚雷を扇状に発射し、いずれか1本でも命中することを期待する戦術を採っていた(通常、商船など低速な目標に対しては1-2本だが、軍艦などの高速な目標に対しては4-6本発射していた)。

魚雷の発射には幾つかの方法がある。潜水艦においては魚雷発射管を用い、管に装填した魚雷を高圧空気または水圧で押し出す。潜水艦の運動性能が低かった時代(~1950年頃まで)には、艦首と艦尾に発射管を装備しているのが一般的であった。潜水艦の速度が向上した現在では、対戦する艦船に近距離追尾される状況が減ったので、艦首だけに装備することがほとんどである。 水上艦においては、喫水線下(第一次世界大戦頃までの戦艦)または甲板(第二次世界大戦頃までの巡洋艦駆逐艦)、艦首付近(潜水艦)に設置された魚雷発射管を用いることが一般的であった。魚雷艇(PTボート、Sボート)などでは、甲板上から側方や後方へ落射させるものもあった。航空機からの発射では、第二次世界大戦時は飛行する航空機(雷撃機)から投下する方法が主であった。 第二次世界大戦時においては、艦艇への攻撃力として高く期待されていたため、各国において威力向上・誘導方法の向上が検討されており、現在のミサイルに近い高価・高度な兵器として扱われた。

反面、魚雷は防御上の弱点にもなりうる、魚雷兵装は甲板上に数百キロから数トンにもなる爆薬が無防備に置かれている状態であり、特に装甲防御を持たない駆逐艦では機銃や砲弾破片程度でも魚雷の弾頭が爆発する危険があり、第二次世界大戦では搭載魚雷の爆発による轟沈艦が多数出ている。巡洋艦の中には魚雷が弱点となることを嫌って搭載しない艦も多かった。

現代では水上艦からの射出法として、甲板上の魚雷発射管から水中に向けて射出する方法に加え、魚雷にロケットエンジンを装着したアスロックなどの対潜ミサイルをミサイル発射装置で発射する方法や、ヘリコプター対潜哨戒機で魚雷を投下する方法が採られている。これは対潜前投兵器の発展と見ることもでき、艦船から自由自在な位置に誘導魚雷を投下する手法の一つである。対潜ミサイルや航空機から投下された魚雷はパラシュートを装着した状態で空中を落下し、軟着水する。

今日の魚雷は、主に対潜水艦戦を想定して製作されており、ソナーで敵艦の発する音を追尾したり(パッシブ)、自ら発した音波の反射で目標を追跡するもの(アクティブ)が主流である。また、魚雷後部から誘導用ワイヤー、あるいは光ファイバーを延ばして通信を確保し、艦船からの誘導も行える有線誘導型の魚雷もある。この場合、対艦ミサイルと同じように魚雷を命中以前に自爆させたり、デコイに惑わされないように軌道を修正することも可能となる。

歴史[編集]

現在 torpedo (魚雷) と呼ばれる自航式の魚雷が発明されるまで、torpedoという単語は、一般に見つけにくくなるような能力を持つどんな種類の爆発する兵器にも使えるものであり、現代で言うところのブービー・トラップや地雷機雷も意味するものだった。

史上初の自航式魚雷のプロトタイプは、Giovanni Luppis (クロアチア語: Ivan Lupis) と Robert Whitehead によって設けられた委員会によって製作された。Luppis はオーストリア・ハンガリー帝国の港町 Fiume (現在のクロアチアリエカ) 出身のオーストリア海軍士官であり、Whiteheadはイギリス人技術者で町工場の経営者だった。1864年、Luppis は Whitehead に、陸からロープを引っ張ることによって駆動する浮遊兵器、salascoste (沿岸防御機の意) の計画を披露し、これを完成させるための契約を行った。

Whitehead は実質的にその兵器を改善することができなかったが、それは時限式のモーター、接続されたロープ、海面上を攻撃する方法によって、遅くて取り回しのきかない兵器になっているためだった。しかし彼は契約後にその問題について検討を続け、やがて圧縮空気により水中を自ら進むよう設計された管状の装置、Minenschiff (機雷船の意) を開発した。これが初の自航式魚雷であり、1866年12月21日に開かれたオーストリア帝国海軍の委員会で公式に発表された。

初期には適切な深度を保つことが非常に難しかったが、Whiteheadはこれを克服する秘法を1868年に導入した。それは Pendulum-and-hydrostat_control という、振り子と水平舵により魚雷が適切な深度になるように調整する制御方法だった。

オーストリア政府がその発明に投資することを決定した後、Whitehead は Fiume に 最初の魚雷工場を設けた。1870年には、最大約1,000ヤード (910 m)、6ノット (11 km/h) になるまで改善し、1881年までに国外10カ国に輸出された。魚雷は圧縮空気を動力源とし、ニトロセルロースを爆薬として充填していた。Whitehead はより効率的な兵器を開発し続け、1876年に18ノット (33km/h)、1886年には24ノット (44km/h) となり、1890年には30ノット (56km/h) のデモンストレーションを行うまでになった。

魚雷は、大砲と比べ小型な発射機で運用できる上、たくさんの火薬を搭載して目標にぶつけることができるので、モーターボートのような船でも大型戦艦を撃沈する能力をもっていた。そのため魚雷が実用化された1870年代には魚雷を搭載した小型艇として水雷艇が開発された。水雷艇は大型艦に肉薄し、魚雷による攻撃を行った。水雷艇を駆逐し大型艦を守るために駆逐艦が開発されたが、魚雷が主兵装の一つだったため、駆逐艦が水雷艇の役割も果たすようになった。日本では、水雷艇が、より大型化し外洋航行能力を獲得した駆逐艦と、沿岸海域での運用に特化し小型化・高速化を追求した魚雷艇に分化したと捉えられている。さらに潜水艦による水中からの魚雷攻撃や航空機から投下される魚雷(航空魚雷)も第一次世界大戦中から実戦使用が開始され、第二次世界大戦中には対艦攻撃手段として広く用いられるようになった。

第二次大戦中の魚雷は、日本軍の酸素魚雷のように二重反転スクリューで推進されるものが多い。回転軸が同じで前後に重なった二つのスクリューが逆方向に回転してトルクを打ち消すことにより、本体の回転による推進力の低下を防いで効率よく前進する方式である。

魚雷は砲弾や後に登場する対艦ミサイルに比べて推進速度が遅く、無誘導魚雷を遠距離から発射すると命中確率が著しく下がるため、可能な限り近距離から発射する必要があった。しかし、第二次世界大戦中に登場したレーダーにより艦船や航空機を遠距離から発見することが容易になり、艦艇の防空火力と対水上砲撃精度が向上した。

これらの進歩は隠れる遮蔽物がない外洋において雷撃機や水雷艇、駆逐艦の魚雷の実用発射距離内への接近を困難なものとし、雷撃機と水雷艇の消滅および駆逐艦における対水上艦攻撃用の重魚雷発射管の撤去につながった。さらに魚雷より高速・長射程の対艦ミサイルの実用化により、沿岸地域での運用を前提とする魚雷艇もミサイル艇に取って代わられ、水上艦艇の対艦攻撃手段としてはほとんど用いられなくなった。現在では魚雷を主兵装とするのは潜水艦のみであり、水上艦や航空機に搭載される魚雷は対潜水艦用の誘導魚雷が主流を占めている。

魚雷の主目標は水上の艦船であり、潜水艦同士が水中でドッグファイトを演じ、魚雷を打ち合う戦いは現実には未だ嘗て行われたことはない。

日本海軍と魚雷[編集]

遊就館に展示されている回天一型
大和ミュージアムに展示されている九五式魚雷

日清戦争での水雷艇による威海衛夜襲の戦果と、日露戦争日本海海戦夜戦における水雷艇と駆逐艦の活躍により、日本海軍は魚雷の有用性に注目して高性能な魚雷の開発に力を注いだ。

1933年(昭和8年)に日本海軍は酸素魚雷を開発・実用化し、第二次世界大戦において使用していた。レーダーが一般化するまで日本海軍は夜戦を得意としており、水雷戦隊によって敵に大きな損害を与え続けた。アメリカ海軍重巡洋艦が魚雷発射管を廃止していたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は多数の魚雷発射管を装備していたことにも、日本海軍の雷撃戦重視がうかがえる。大戦中に日本軍が使用した酸素魚雷は、米軍の魚雷に比べて炸薬量、射程の点で優位にあった。また航跡がほとんど発生しないので、夜間はもちろん昼間であっても視認が困難であったという。戦後に「long lance(長槍)」と呼ばれた。

高速の航空機からでも投下できる本格的な航空魚雷を世界に先駆けて実現したのは、日本海軍の九一式魚雷だった。この魚雷は2点の特徴をもっていた。

  • 1936年から、木製空中姿勢安定板の「框板」を尾部に装着した(九一式航空魚雷改1)。
  • 1941年から、ローリングを安定制御する角加速度制御安定器を備えた(九一式航空魚雷改2)。この安定器は航空魚雷にとって最大のブレークスルーだった。

これらによって、九一式魚雷は高度 20m、速度 333km/h でも、海底の浅い港湾で魚雷を発射できるようになっただけでなく、波立つ海でも魚雷が発射できるようになった。1941年12月8日の真珠湾攻撃で、第一波の九七式艦上攻撃機40機は、15発以上の九一式魚雷を命中させたと報告している。歴史的に、航空魚雷は巡航ミサイルの前身といえる[1][2]

日本海軍の攻撃機では、飛行場など敵の基地の攻撃には大型爆弾を、敵艦隊の攻撃には主に魚雷を利用していた。ミッドウェー海戦では、南雲艦隊空母が攻撃機に敵基地攻撃用の爆弾を搭載していた途中で敵艦隊を発見し、魚雷に積み替えているところを敵機に襲われて格納庫内の爆弾と魚雷が誘爆した。これによって日本海軍は空母4隻を失い、戦局が逆転するきっかけとなった。なお、この時に命中したのは爆弾だけであり、魚雷は1発も命中していない。

戦争末期には、大型魚雷に操縦席を設け、人間が搭乗して誘導し、敵艦船に体当たり自爆する人間魚雷回天」という特攻兵器も開発された。イタリアでも人間が搭乗する魚雷が作られたが、こちらは弾頭を目標とする艦の底に設置した後に搭乗者が脱出するという運用法であり、人間魚雷の名前はついていても体当たりはしない。

米軍の大戦初期の魚雷は性能が悪く、命中しても爆発しないことがたびたびあった。海軍に徴用された捕鯨母船第三図南丸は、1943年7月24日に米潜水艦から大量の魚雷を受けたがほとんどが不発であり、船体に魚雷が突き刺さったままトラック島に曳航されてきた。その魚雷が突き刺さった様がかんざしを髪に差した花魁(おいらん)のようだったことから「花魁船」と言われた。しかし、大戦末期になるとアメリカ軍は不発魚雷の欠点を克服したうえ、TNT火薬の1.6倍の破壊力をもつHBX爆薬による魚雷を用いるようになり、日本の船舶に大きな被害を与えた。

日本で、試験的に装甲の少ない艦底で爆発するように、凧揚げのように浮きを引っ張り、浮きが敵艦の側面に接触した時に艦底の下で起爆する構造の魚雷も考案された。機関として電気モーターしか使用できず、速度が30ノットに制限され、射程も短かったので、実戦では試験的に使用されただけであったが、戦果はあげている。

魚雷の種類と直径[編集]

フランス海軍のArgonauteの魚雷発射管

現代の魚雷は目的により大きく2種類に分類される。一つは主として対艦攻撃用の大型・長射程の魚雷であり、長魚雷(重魚雷)と呼ばれる。もう一つは対潜水艦攻撃用の小型・短射程の魚雷であり、短魚雷(軽魚雷)と呼ばれる。対艦ミサイルの発達により長魚雷は数を減らしており、潜水艦搭載用の一部を除き水上艦用のものはすでに用いられていない。短魚雷が現代の魚雷の主流であり、水上艦・航空機などに搭載される。短魚雷は誘導兵器であり、誘導魚雷を指して短魚雷と呼ぶ場合もある。

魚雷の直径は、内部容積の大きさに直結し射程や炸薬重量に影響があるので、砲の口径同様に重要である。魚雷の直径は砲ほどではないが魚雷のクラス分けにも用いられる。全長、重量、その他の要素は相互に影響される。航空機発射型魚雷の場合重量が重要であり、装着点や発射速度に影響がある。近年の魚雷設計において補助魚雷は盛んに開発されていて、通常は集合型パッケージが使用される。飛行機と発射装置のバージョンによって異なるものになる。形状は標準化と扱いやすさと運搬に主眼が置かれ、兵器体系の効率化が図られる。運搬の効率化が実行されると運用上有利になる。

いくつかの一般的な魚雷の直径は以下のとおりである。:

  • 324 mm(12.75インチ )は最も一般的な短魚雷である。
  • 406 mm(16 インチ)はソビエトの初期のASW魚雷に使用された。エコー級と初期のデルタ級潜水艦に搭載された。21インチ魚雷発射管に付加された。
  • 450 mm(17.7 インチ)は旧日本海軍において標準だった。第2次世界大戦中のイタリア海軍でも使用された。雷撃機で使用された。ときどき、18インチと換装された。
  • 483 mm(19 インチ)は最初にアメリカ海軍の誘導魚雷であるMark 24 FIDO 魚雷(en:Mark 24 Mine)で採用された。
  • 533 mm(21 インチ)は第2次世界大戦における重魚雷の標準的なサイズであった。以下のものが含まれる:
    • 第2次世界大戦時の魚雷
    • 旧日本海軍の潜水艦
    • ドイツ海軍の魚雷(G7a / G7e
    • NATOの魚雷
    • いくつかのソ連とロシアの魚雷、ASW型も含む。
  • 550 mm(22インチ)は、フランス海軍で使用される規格である。
  • 610 mm(24 インチ)九三式魚雷(酸素魚雷)は旧日本海軍の駆逐艦と巡洋艦で使用され、回天の原型にもなった。
  • 650 mm(およそ25.6インチ)はロシア海軍最大の魚雷の直径である。タイプ65魚雷が代表的な形式である。533mm型が650mm発射管に増設される。

他に直径の大きな魚雷としては660 mm(26インチ)、762 mm(30 インチ)と916 mm(約 36インチ)があり、複数の原子力潜水艦に搭載される。これらの魚雷発射管は大口径なので、スタンダード21型重魚雷だけでなく巡航ミサイルの発射にも対応できる。

制御[編集]

1944年2月17日トラック諸島で魚雷攻撃を受ける日本軍の輸送船

初期の魚雷は制御装置をもたなかったので潮流や波の影響を受けやすく、目的の方向に真っ直ぐ進むことすらままならなかった。航走距離が短かったこともあるが、命中させるためにはできる限り目標に接近して発射することが要求された。

第一次世界大戦の頃になると、深度、速度、進路の調整を可能にする装置が開発された。これにより命中精度が向上するとともに、標的に対して放射線状に複数の魚雷を発射することや、航行する遠距離の艦船も攻撃目標とすることなどが可能になった。

深度調整装置
常に一定の深度を保たせる(深度が浅過ぎれば波の影響を受け、深すぎると敵艦の下を通り抜けてしまう)ための装置。また、標的により大きな被害を与えるため、敵艦種によって航走深度を変更するのに使用した。
速度調整装置
速度が常に一定になるように調整する装置。何秒で何メートル進むか正確に設定できるようになり、航行する標的に対し、魚雷の未来位置を予測して発射することが可能になった。
自動操舵装置
ジャイロスコープと連動しており、発射前に方位を設定しておくと、魚雷が外乱によって進行方向がずれてもジャイロスコープの示す方位と操舵装置に設定した進路とのずれを感知し、設定した進路に戻るよう自動的に舵を制御することで直進ができるようになった。

弾頭[編集]

魚雷の弾頭には各国で魚雷用に開発された爆薬が搭載されていた。魚雷や爆雷は、水中爆発で発生するバブルパルスによって目標を破壊する。このため、空気中で使用する爆薬とは成分が異なるものが使用されている。信管についても、触発信管のほか、遅延信管、対水上艦向けについては磁気信管(直撃によらず艦船の直下で起爆し、竜骨・船底を破壊する)を使用しているものもある。磁気信管は「艦底起爆魚雷」として、太平洋戦争中の日本海軍でも開発され、一部の潜水艦で実戦に使用された。[3]

イギリス
トーペックス
アメリカ
HBX爆薬
PBXN-103
PBXN-111
日本
九七式爆薬
ドイツ
SW18:  TNT 50%, HMD 24%, アルミ粉 15%
SW36S: TNT 67%, HMD 8%, アルミ粉 25%
SW39:  TNT 45%, HMD 5%, 硝酸アンモニウム 30%, アルミ粉 20%
SW39a: TNT 50%, HMD 10%, 硝酸アンモニウム 5%, アルミ粉 35%

推進機構[編集]

初期の魚雷は内燃機関により気泡(雷跡)が発生するため、敵側から発見され回避される事も多かった。そのため雷跡を残さない様々な推進方式が考案された。

冷走魚雷[編集]

推進に内燃機関をもたない方式の魚雷。草創期の方式である。

圧縮空気[編集]

草創期に成功を収めた推進方式のひとつに圧縮空気(compressed air)を用いたものが挙げられる。圧縮空気は2.55Mpaに保持され、その空気をピストンエンジンに送って1機のスクリューを毎分100回転させた。約180mを平均速度6.5ノット(時速12km)で推進するものであった。1906年に Whitehead が製作した魚雷は1000mを推進し、平均速度は35ノット(時速64km)に達する。高圧の空気が膨張すると周りの熱を奪い機関が凍結する問題が生じたが、海水を使って暖めることで解決し性能向上につながった。

蒸気[編集]

アルコール(最初はエチルアルコール、後にメチルアルコール)と圧縮空気から蒸気を発生させて推進力とする方式。圧縮空気だけの場合と比較してスピードは増したが、航跡がはっきりしてしまうという欠点があった。[4]アルコール以外に、過酸化水素の分解によって発生する蒸気を用いるヴァルター機関を搭載する魚雷も開発されている。

熱走魚雷[編集]

内燃機関による推進を行う方式の魚雷。1904年頃から開発が始まった。

ウェットヒーター[編集]

燃焼で発生する熱を水で冷却していたが、冷却の過程で発生した水蒸気をエンジンに送り込んで推進に活用する方法が見出された。蒸気を利用する魚雷はウェットヒーターと呼ばれ、蒸気を利用しない形式はドライヒーターと呼ばれる。ウェットヒーター式魚雷は、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて使用された。

圧縮酸素[編集]

燃料をエンジンで燃焼させて推進する魚雷の航続距離は、燃料のほかに酸化剤の搭載量にも大きく影響される。旧来の圧縮空気を用いた形式では燃焼に不要な窒素などが多く含まれているため(酸素は21%程度)、純粋な酸素だけを圧縮し、より多くの酸化剤として搭載することが検討された。水に溶けにくい窒素が燃焼の後に排出されないので航跡が見えにくくなるという利点も得られるが、燃焼のコントロールが難しく爆発事故が相次いだために各国では実用化に手を焼いていた。

1933年に日本が、最初は空気で燃焼を開始し、徐々に酸素に切り替えるという手法を用いることで開発に成功し、世界に先駆けて実用化した。この時開発された九三式魚雷(戦後、アメリカ合衆国の歴史家モリソンによって“long lance(長槍)”とあだ名された)は最大で40kmにもおよぶ航続距離を誇った。

電気式魚雷[編集]

第二次世界大戦時にドイツが最初の電池式魚雷G7eを開発した。従来型の加熱魚雷G7aよりも射程が短く速度も遅いが、航跡がなく安価であるという利点があった。ただし、充電可能な鉛蓄電池は衝撃に弱く、使用前に頻繁に整備を要し、さらには最高の性能を発揮させるには、あらかじめ適度に温度を上げておく必要があった。使い捨ての電池を使用した実験モデル(G7ep)も開発されている。

Mk24 タイガーフィッシュやDM2のような現在の電気推進式の魚雷は、整備の必要がなく、数年以上にわたって保管しても性能が低下しない酸化銀電池を使用している。ほかに、電池の電解質に溶融塩を使用したものがある。

現代の推進方法[編集]

電気、ガスタービン(イギリスのスピアフィッシュ魚雷)、モノプロペラントなどさまざまなものがある。アメリカ合衆国の最新型魚雷の一つである Mk.50 バラクーダは、六フッ化硫黄リチウムの化学反応で発生するガスによる閉サイクル・蒸気機関を用いている。

近年の魚雷には、推進器にポンプジェットを採用したものも出てきており、その速力は60ノットを超える場合もある。 ロシアのシクヴァルやドイツのバラクーダは、スーパーキャビテーションによって200ノット(時速370km)以上の速度が出せる。一方、スーパーキャビテーションを用いないマーク46魚雷の速度は28ノット(時速52km)である。

要目例[編集]

アメリカ Mk48/ADCAP魚雷

  • 全長:5.79m
  • 直径:533mm
  • 有線誘導10nm、追跡射程20nm、索敵射程30nm
  • 重量:1,662.75kg
  • 弾頭:292.5kg高性能爆薬
  • 最大速力:50kt以上
  • 推進器:ポンプジェット
  • 採用:1988年

各国海軍の魚雷一覧[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ Hughes, Thomas Parke. American genesis: a century of invention and technological enthusiasm, 1870–1970, p. 127. University of Chicago Press, 2004. ISBN 0226359271
  2. ^ Stoff, Joshua (2001). Historic Aircraft and Spacecraft in the Cradle of Aviation Museum. Courier Dover Publications. p. 16. ISBN 0486420418. http://books.google.ca/books?id=DANK-SZZh7YC&pg=PA16&lpg=PA16&dq=modern+aerial+torpedo&source=bl&ots=NJ4S4lYbJZ&sig=3mar-lBQUmNu8y8dJfDmFJ8OXGc&hl=en&ei=ORTGStrOJ4LY8Aa7tehC&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6#v=onepage&q=modern%20aerial%20torpedo&f=false 2010年2月22日閲覧。. 
  3. ^ 板倉 光馬 「あゝ伊号潜水艦―海に生きた強者の青春記録」光人社 ISBN 9784769820055
  4. ^ Blair, p.30-1.
  • Blair, Clay. Silent Victory. Philadelphia: Lippincott, 1975.
  • Milford, Frederick J. "U.S. Navy Torpedoes: Part One--Torpedoes through the Thirties". The Submarine Review, April 1996. {quarterly publication of the Naval Submarine League, P.O. Box 1146, Annandale, VA, 22003)
  • _______. "U.S. Navy Torpedoes: Part Two--The Great Torpedo Scandal, 1941-43". The Submarine Review, October 1996.
  • _______. "U.S. Navy Torpedoes: Part Three--WW II development of conventional torpedoes 1940-1946". The Submarine Review, January 1997.
  • The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition, online.
  • O'Kane, Richard H. (1987). "Seventh Patrol", Wahoo: The Patrols of America's Most Famous World War II Submarine. Novato, California: Presidio Press.
  • Perry, Milton F. "Infernal Machines: The story of Confederate submarine and mine warfare." Louisiana State University Press, 1985.
  • Crowley, R.O. "Confederate Torpedo Service" in The Century / Volume 56, Issue 2, The Century Company, New York, June 1898.

外部リンク[編集]