駆逐艦

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駆逐艦(くちくかん、英語: destroyer)は、もともとの名前を水雷艇駆逐艦torpedo-boat destroyer)と呼び、19世紀末に出現した艦種。すなわち、水雷艇torpedo-boat)を駆逐する艦種であった。第二次世界大戦までは魚雷を主兵装とし、駆逐艦隊は別名水雷戦隊と呼ばれていた。出現当初から第二次大戦のころまでの駆逐艦の位置づけは、巡洋艦より小型だが水雷艇より大型で、航洋性を有しており、非装甲であるが高速で汎用性が高いといったものだった。

20世紀後半から現代においては戦艦や巡洋艦といった駆逐艦より大型の艦が過去のものとなった、あるいはなりつつあり、一方でフリゲートコルベットといったより小型の艦が存在感を増している。駆逐艦自身も大型化し、揚陸艦や航空母艦を除けばむしろ海軍の中で大きな軍艦となりつつある。今日の駆逐艦は外洋での行動力と一定の対艦・対空・対潜能力を兼ね備えた艦種として多くの任務を担っており、今日での海軍の主役のひとつといっても過言ではない。

駆逐艦の歴史[編集]

駆逐艦第一号[編集]

魚雷が実用化され、その魚雷を主兵装とする魚雷艇(水雷艇)が実用化されたのが1870年代。その20年後の日清戦争では日本の水雷艇が、軍港内に潜む清国艦隊を攻撃し戦艦定遠」を擱座させた。水雷艇による魚雷攻撃は戦艦戦隊に対する深刻な脅威と見なされ、大型艦をも撃沈しうる厄介な小型高速艇を捕捉し撃沈破する艦艇が求められた。

1881年、フランス共和国議会下院は装甲戦艦の建造を中断するかわりに70隻の水雷艇の建造予算を認可し、1886年にはさらに100隻の水雷艇と14隻の高速巡洋艦が加わった。イギリス海軍にとって、これは、フランス海軍が、外洋での作戦は高速巡洋艦による通商破壊戦に、そして近海での作戦は敏捷な水雷艇を重視するように切り替えたことを意味するように思われた。これに対応して、イギリス海軍は、まず従来採用してきた大口径の前装砲にかえて、より小口径ではあるが発射速度と追随性に優れた後装式の速射砲の採用を決定した。これは、毎分12発という大発射速度と、当時の魚雷の最大有効射程であった600ヤード (550 m)よりも長い射程により、水雷艇をアウトレンジできる性能を求められており、1881年に要求性能が提示されたのち、1886年には民間からの調達が解禁されたのを受けて、同年にトールステン・ノルデンフェルトによる速射砲の導入が決定され、翌年にはアームストロング社による革新的な速射砲が発表された[1]

兵装におけるこれらの進化と並行して、主機関についても技術革新が進められていた。ヤーロウ社アルフレッド・ヤーロウ英語版は、1877年より、水を管のなかに流しながら過熱するという画期的な蒸気発生装置(水管ボイラー)の開発に着手しており、1887年にはヤーロウ式ボイラーとして実用化された。そして1892年、イギリス海軍第三海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャー提督は、ヤーロウ社に対し、速射砲で武装し、主機関に水管ボイラーを採用した新しい種類の艦の建造契約を受注した。これに応じてヤーロウ社が建造したのがハヴォック級駆逐艦英語版(1894年、240t、27ノット)であった。これは水雷艇の撃攘を主任務としており、当初は水雷艇破壊艦(TBD)と称されていたが、まもなく単に駆逐艦と称されるようになった[1]

この後、十分な航洋性を持たないため近海でしか使用できない水雷艇に替わり、駆逐艦は水雷艇の役目も包含した汎用性の高い戦闘艦として進化を始める。

日露戦争[編集]

日露戦争では、両国とも300tクラスの駆逐艦を所有していた。駆逐艦の任務は水雷艇の撃破からさらに発展し、大日本帝国の駆逐艦はもっぱら魚雷を使ってロシア艦隊を夜襲する部隊として使われた。まずは、海戦劈頭に旅順港に停泊していたロシア海軍への夜襲が行われている(旅順港閉塞作戦)。しかし、この攻撃は失敗に終わっている。

また、日本海海戦の5月27日夜、大日本帝国海軍の水雷戦隊が昼間の戦闘で傷ついたロシア戦艦群を攻撃した。丁字戦法による主力艦同士の打撃もさることながら、この駆逐艦による攻撃が多くの戦艦を葬ったのである。これは秋山真之の考えた七段構えの戦法の一部であり、駆逐艦の攻撃によって敵主力を削ぎ落とし主力艦同士の戦いを有利に運ぶための策だった。この戦法は後に発展してこれに潜水艦も加えた漸減邀撃作戦となった。駆逐艦の重要性は増大し、主力艦に肉薄して攻撃を行うことが恒常的に期待されるようになり、日本はこの戦い以降駆逐艦とその主兵器である魚雷の強化に尽力するようになった。一方、ロシアの駆逐艦(当時は水雷艇などと呼ばれた)の活動は不活発だった。日本海軍は来るべき海戦に備えて初代 神風型駆逐艦を建造したが、日本海海戦には間に合わなかった。

対するロシア帝国は、露土戦争で世界最初の水雷艇(水雷カッター)による奇襲作戦を成功させた国家だった。ロシアはその後も水雷艇を重視しており、その発展に力を入れていた。しかし、日露戦争の時点ではロシア海軍には駆逐艦という類別は存在しなかった。ロシアで駆逐艦に相当する艦種が制定されたのは、1907年10月10日のことだった。

なお、ロシア海軍では他国海軍での駆逐艦に相当する艦艇類別を「艦隊水雷艇」(эскадренный миноносец)と呼んでいる。制定時、従来は「水雷艇」(миноносец)に分類されたミノノーセツ(大型の水雷艇)、ミノノースカ(小型の水雷艇)、イストレビーテリ=ミノノースツェフ(水雷艇駆逐艦、たんにイストレビーテリ即ち駆逐艦とも)の内、ミノノーセツとイストレビーテリの比較的新しい艦級が、そして従来は巡洋艦に分類された水雷巡洋艦の比較的新しい艦級が「艦隊水雷艇」に編入された。ロシア語で駆逐艦は「イストレビーテリ」(истребитель)と呼ぶが、これは海軍の正式な艦艇類別ではなく、1907年10月10日までは水雷艇、それ以降は艦隊水雷艇に含有されていた。

第一次世界大戦[編集]

この頃の駆逐艦は高速を武器に敵艦隊に肉薄して魚雷攻撃を行い、また逆に敵の高速艦の攻撃から味方の主力部隊を守る任務を重視されていた。このため高速と航洋性の要望から速力30ノット、排水量1,000t程度に大型化していた。

第一次世界大戦ではドイツ帝国通商破壊無制限潜水艦作戦)を行いイギリスの通商路を脅かした。イギリスは対潜水艦戦の主力として駆逐艦を大量に建造し使用した。この時、手薄となった地中海にイギリスの要請で派遣された日本海軍の第二特務艦隊も駆逐艦を中心とした編成で、輸送船の護衛を行った。

対潜作戦の初期は機雷処分に用いるような掃海索の先端に爆薬を設置して、任意に起爆するというものだったが、やがて爆雷が発明されるにつれて駆逐艦にも装備されるようになっていく。このころから駆逐艦の主要な任務に対潜作戦が加えられるようになる。

この第一次大戦以降、駆逐艦は艦隊戦のための艦隊型駆逐艦と輸送船の護衛のための護衛駆逐艦の系統に分化するようになった。護衛駆逐艦は海上輸送に重きを置くイギリスで発達していった。このような対潜艦は大量に存在する輸送船にいちいち張りつけなければならなかったため大量に建造する必要があり、必然的に艦隊型駆逐艦に比べて小型のものとなった。

大戦間の建造[編集]

各国は大戦後しばらく第一次大戦型駆逐艦の建造を続けていた。しかし1920年代になると主要国は新しい航洋駆逐艦として1,500t以上で速力も35ノットの艦を建造し始めた。日本の特型駆逐艦(1,850t、38ノット、12.7cm砲6門、61cm魚雷発射管9門)はその代表例である。特型駆逐艦就役以降、各国で大型、重武装の駆逐艦が建造されるようになった。例としてはトライバル級駆逐艦ポーター級駆逐艦があるが、中でもフランス海軍は大型駆逐艦だけで戦隊を組む特異な戦略を選択し、通商破壊艦と共に大洋を駆ける戦力として多く整備した。ロンドン海軍軍縮会議などの発効にともなって駆逐艦の建造数と排水量は他の軍艦同様削減されることになった。

この時期に建造された駆逐艦は条約型駆逐艦と呼ばれる。欧米各国に比べて低い駆逐艦保有率を義務付けられた日本海軍は個々の艦の性能を上げて対抗しようとした。また、600tに満たない艦は条約の制限には関係なかったためにこれ以下の排水量をもつ艦を建造し、水雷艇と称した。これには日本海軍の千鳥型水雷艇イタリア海軍スピカ級水雷艇などがあるが、速度や武装からみて、ほとんど駆逐艦の如きものである。

また、駆逐艦にはソナーが設置されるようになり対潜索敵能力が付与されることとなった。

第二次世界大戦[編集]

第二次世界大戦では駆逐艦は対空・対潜が主任務となった。このため駆逐艦は主砲を対空砲または両用(対空・対艦両用)砲とし、多数の爆雷を搭載し、対空レーダーや対潜音響兵器が必需装備となった。大型対空レーダーを装備した駆逐艦をレーダーピケット艦と呼称し、早期警戒任務に当てていた。

大戦中、アメリカ海軍は、4クラス340隻の艦隊型駆逐艦及び500隻を超える護衛駆逐艦を就役させ、ドイツ海軍Uボートから船団を守り、日本の航空機に対抗した。大量生産に適した設計がなされ、簡素な構造で設計された。日本海軍は、日露戦争のような艦隊決戦を想定した艦艇を建造しており、排水量の割りに砲撃力と雷撃力に優れた艦艇ではあったが、建造に手間がかかった。戦争末期には大量損失を補うために戦時急造型の駆逐艦(松型駆逐艦)を建造した。太平洋戦争では、戦線を拡張しすぎた日本は、アメリカ軍の目を逃れて南方諸島へ物資を送るために高速の駆逐艦を利用した(下記「駆逐艦による輸送」参照)。駆逐艦同士の戦いにおいては帝国海軍が勝利を収めた例も多いが、駆逐艦での戦術的勝利が戦争の趨勢に関わることはなかった。また航空母艦護衛用に対空能力を重視した(秋月型駆逐艦)も建造されたが、最低限の雷撃能力は残された。大戦末期にはレーダーと航空機の発達のために、日本の駆逐艦の中には既存の砲塔を撤去し、機関砲などを増設する動きもあった。

駆逐艦の対潜艦艇としての位置付けはこの戦争以降後退した。ウィンストン・チャーチルは、「かつての駆逐艦は潜水艦を狩る存在であったが、今や(高価なため)潜水艦に狙われる存在となった」と評した。そのイギリス海軍は駆逐艦よりも排水量の少ない対潜艦艇であるコルベットフリゲートを建造するようになった。これらの艦艇は魚雷を搭載せず、また駆逐艦よりも低速であり、その分、建造が容易で安価であった。

第二次世界大戦後から現在[編集]

大戦後しばらくの間は、戦時中に大量建造された駆逐艦が大量に余剰となっており、新しい艦はほとんど作られなかった。その後に建造された駆逐艦は潜水艦・航空機・ミサイルの進歩に対して、充分な対潜・対空能力を有することが求められ、必然的に大型化していった。特にミサイルの発達によって、小型艦艇でも十分な威力の対艦兵器を装備できるようになり、1隻で対空-対潜-対艦の3役をこなすことが可能になった。一方で大口径の艦砲や重装甲といったかつての大型戦闘艦艇に求められた条件も陳腐化してしまい、戦艦や大型・重装甲の巡洋艦は消滅へと向かった。

また魚雷発射管の有無による区分も、フリゲートやコルベットが対潜水艦用の短魚雷を装備するようになるとともに、駆逐艦も対水上艦用の重魚雷発射管を搭載しなくなったため、意味をなさなくなった。それに代わってミサイルの装備の有無で駆逐艦とフリゲートを分ける場合もあったが、次第にフリゲートやコルベットもミサイルを装備するようになった。またフリゲートやコルベットが高速化する一方、駆逐艦の速度は30ノット程度で十分とされ、速度による区分も無くなった。結果として現在の海軍において、駆逐艦・フリゲート・コルベットの区分は曖昧なものとなり、ある国の海軍で駆逐艦と称するものが、他国の海軍のフリゲートより小型、といった事例も見られる。フランス海軍のように全ての水上戦闘艦艇をフリゲートと称したり、海上自衛隊のように全て護衛艦と称する例もある。

アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦

今日では、駆逐艦は大排水量の汎用艦である。イージスシステムを搭載するアメリカ海軍アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の満載排水量は8,422tに達し、過去の日本海軍の古鷹型重巡洋艦並となった。現在計画されているズムウォルト級ミサイル駆逐艦などは更に大型化しており、近代戦艦の原型とされるロイヤル・サブリン級に匹敵する14,797tである。

なお、海上自衛隊の汎用護衛艦であるむらさめ型たかなみ型あきづき型ミサイル護衛艦であるこんごう型あたご型などは英語ではDestroyerと呼ばれ、駆逐艦とみなされている。

また、ソビエト連邦などの大型対潜艦などもその装備や艦の規模から駆逐艦とみなされることがある。なお、ソ連では大型対潜艦とは別に駆逐艦という艦種も定めており、ソ連崩壊前に計画された最後の駆逐艦はソヴレメンヌイ級で、艦隊防空を任務とする西側でいうミサイル駆逐艦だった。

2005年以降多発しているソマリア沖の海賊対策のために、2008年6月の国際連合憲章第7章に基づきアメリカ合衆国、イギリス、ロシア連邦日本などの各国が輸送船護衛や海賊監視のために駆逐艦、フリゲートを派遣、ロケットランチャー自動小銃で武装した海賊の小型艇に反撃して武力鎮圧するなど成果を上げている。

駆逐艦による輸送[編集]

通常、物資の輸送には低速だが大量輸送が可能な輸送船を用いる。ただし、高速輸送が求められる際は、駆逐艦やその改装型による輸送も行なわれている。

太平洋戦争時の日本海軍においては、制空権を持たない戦場(主に南方の島嶼部)へ輸送を行うために駆逐艦を用いた。輸送船を用いて輸送を行うと、輸送量は多いものの、その機動性が悪く、速度も遅いため、輸送途中に敵機に発見・撃沈されてしまうためである。その点、高速な駆逐艦を用いることにより、輸送途中に敵機に発見される可能性は減少した。ただし、駆逐艦は艦体が細長く、大量の物資を運ぶことはできなかった。この輸送法は、ガダルカナル戦ニューギニア戦で多用され、特にガダルカナル戦では、陸軍が撤退するまでかなりの期間続けられた。方法としては、日没後に敵哨戒機索敵圏内に侵入し、あらかじめ示し合わせておいた海岸に接近、駆逐艦から補給物資を詰め込んだドラム缶などを海中に投入する。あとは潮の流れで陸地に打ち寄せられたドラム缶を待機していた陸上部隊が回収するのである。そしてできうる限り、帰り際に敵基地や飛行場を砲撃し、夜間に敵哨戒機索敵圏外に脱出していた。夜中に敵の目を盗んでコソコソ輸送することから、これを日本側は鼠輸送と称した(アメリカ軍はTokyo Expressと呼んだ)。しかし敵に遭遇した際には魚雷を発射するために物資を投棄するなど、任務を果たせないこともあった一方、駆逐艦の損害も大きかった。日本海軍は後に駆逐艦をベースにした一等輸送艦を生み出している。

アメリカ海軍においても高速輸送のメリットを認めており、太平洋戦争以前より、その検討を行なっていた。建造中の新鋭艦や就役済の旧式艦などを改装した高速輸送艦(APD)[2]多数を完成させ、比島攻略戦などに投入している。

脚注[編集]

  1. ^ a b ウィリアム・ハーディー・マクニール 「第8章 軍事・産業間の相互作用の強化 1884~1914年」『戦争の世界史(下)』 中公文庫2014年、91-180頁。ISBN 978-4122058989
  2. ^ 『アメリカ揚陸艦史 世界の艦船 2007年1月号増刊』 海人社 EAN 4910056040171

参考文献[編集]

  • M.J. ホイットレー 『第二次大戦駆逐艦総覧』大日本絵画、2000年

関連項目[編集]