日露戦争

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日露戦争
RUSSOJAPANESEWARIMAGE.jpg
戦争:明治三十七八年戦役
年月日:1904年2月8日 - 1905年9月5日
場所満州南部、朝鮮半島沿岸、樺太
結果:日本軍の勝利、休戦・講和(ポーツマス条約
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
Flag of the Principality of Montenegro.svg モンテネグロ公国(ただし宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず)
指揮官
日本の旗 明治天皇 ロシアの旗 ニコライ2世
戦力
約300,000人 約500,000人
損害
戦没88,429人,うち戦死戦傷死は55,655人[1]
病死27,192人
負傷者153,584人[2]
捕虜1,800人[3]
戦死25,331人
戦傷死6,127人
病死11,170人
負傷146,032人
[4]
捕虜79,000人[5]
日露戦争

日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese Warロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー1904年明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国ロシア帝国[6]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

目次

戦争目的と動機[編集]

戦場となった地域の俯瞰図

日本の旗 大日本帝国

三国干渉および義和団の乱後満洲を勢力圏としていたロシア帝国による朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障[7]を目的とした戦争。[要検証 ]

ロシアの旗 ロシア帝国

遼東半島の旅順、大連租借権等の確保と満洲および朝鮮における自国権益の維持・拡大を目的とした戦争。[要検証 ]

関与国・勢力[編集]

日本側 ロシア側
戦争参加国・勢力

日本の旗 大日本帝国

ロシアの旗 ロシア帝国
Flag of Montenegro (1905-1918 & 1941-1944).svg モンテネグロ公国(ただし宣戦布告はしたが、戦闘には参加せず)

支持勢力

Flag of Korea 1882.svg 大韓帝国
一進会をはじめとする親日派知識人と親日派両班) 

Flag of Korea 1882.svg 大韓帝国
高宗をはじめとする支配者階級と親露派・独立派知識人)

同盟国・支援国

イギリスの旗 イギリス帝国日英同盟
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

フランスの旗 フランス露仏同盟
ドイツの旗 ドイツ帝国
China Qing Dynasty Flag 1889.svg大清帝国露清密約により参戦しようとしたが日英同盟のために阻止された)

観戦武官[編集]

沙河会戦後に撮られた、黒木為楨と観戦武官の集合写真

日露双方に多数の観戦武官が派遣され日本にはイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ケ国から70人以上の武官が派遣されていた。日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。観戦武官が持ち帰った日露戦争の戦訓は、第一次世界大戦の各国で生かされることになる。

戦争の性格[編集]

日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦(World War Zero)であったとしている[8]

背景[編集]

朝鮮半島をめぐる日露対立[編集]

大韓帝国冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシア高宗を通じ売り払われた鍾城鏡源鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年にロシア軍艦対馬占領事件があった為)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。

当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。1904年2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

日英同盟[編集]

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。朝鮮を属国としていたとの日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順大連1898年租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を押し進めていった。

1900年にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。日本政府内では小村寿太郎桂太郎山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。

1903年4月21日京都にあった山縣の別荘・無鄰庵で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること[9]」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず[10]」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。

桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。

日本が二国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務づける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。

直前交渉[編集]

開戦時の戦力比較 (露・日 歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の十月詔書首相相当になるポスト)に左遷された。ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

各国の思惑[編集]

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行った。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側であったが具体的な支援は行っていない。

なお、イギリスとフランスは開戦直後の1904年4月8日英仏協商を結んでいる。

外貨調達[編集]

[11]戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5千万円であった。日清戦争の経験で戦費の1/3が海外に流失したので、今回は1億5千万円の外貨調達が必要であった。この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。

開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。とくにフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。

是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街として残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した[12]。この引き受けについてはロンドン金融街としてもニューヨークの参加は渡りに舟の観があった。第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。

結果当初の調達金利を上回る6%での調達(割引発行なので実質金利は7年償還で約7%)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0%(償還7年で実質約7.4%)を底として、1905年3月の第3回では4.5%での借り換え調達(3億円、割引発行なので償還20年で実質5.0%、担保は煙草専売益)に成功した。第3回からはドイツ系の銀行団も参加し募集は大盛況、第5回からはフランス系の銀行団も参加したが(英・仏ロスチャイルドもこの回でともに参加)このときにはすでに日露戦争は終結していた。

結局日本は1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。この内最初の4回、8200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。

国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる[13][14]

経過[編集]

日露戦争の経過
朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)
日本軍とロシア軍の白兵戦を描いたイラスト(1904年)

開戦時の両軍の基本戦略[編集]

日本側 
海軍が第一艦隊第二艦隊をもって旅順にいるロシア太平洋艦隊を殲滅ないし封鎖し、第三艦隊をもって対馬海峡を抑え制海権を確保する。その後陸軍が第一軍をもって朝鮮半島へ上陸、在朝鮮のロシア軍を駆逐し、第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。さらにこれらに第三軍第四軍を加えた四個軍をもって、満洲平野にてロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍によるロシア太平洋艦隊の殲滅はヨーロッパより回航が予想されるバルチック艦隊の到着までに行う。軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争である。
ロシア側 
日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。迎撃戦で日本軍の前進を許した場合は、日本軍を引き付けながら順次ハルビンまで後退し、補給線の延びきった日本軍を殲滅するという戦略に変わる。太平洋艦隊は無理に決戦をせず、ヨーロッパ方面からの増援を待つ。ただしロシア側ではこの時期の開戦を想定しておらず、旅順へ回航中だった戦艦オスリャービャが間に合わなかったなど、準備は万全と言えるものではなかった。

開戦[編集]

日本海海戦時の三笠艦橋における東郷平八郎
満州で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真
開戦時の艦隊[15]
開戦時の日本海軍の主な戦闘艦艇
  • 連合艦隊
    • 第一艦隊
      • 第一戦隊(戦艦6隻:三笠朝日初瀬敷島富士八島
      • 第三戦隊(防護巡洋艦4隻:千歳高砂笠置吉野
      • 第一駆逐隊(駆逐艦4隻:白雲、朝潮、霞、
      • 第二駆逐隊(駆逐艦4隻:、朧、電、曙)
      • 第三駆逐隊(駆逐艦3隻:薄雲、東雲、漣)
      • 第一艇隊(水雷艇4艇:第69号艇、第67号艇、第68号艇、第70号艇)
      • 第十四艇隊(水雷艇4艇:千鳥、、真鶴、鵲)
    • 第二艦隊
      • 第二戦隊(装甲巡洋艦6隻:出雲磐手浅間常盤八雲吾妻
      • 第四戦隊(防護巡洋艦4隻:浪速高千穂新高明石
      • 第四駆逐隊(駆逐艦4隻:速鳥、春雨、村雨、朝霧)
      • 第五駆逐隊(駆逐艦4隻:陽炎、叢雲、夕霧、不知火)
      • 第九艇隊(水雷艇4艇:蒼鷹、鴿、雁、燕)
      • 第二十艇隊(水雷艇3艇:第62号艇、第63号艇、第64号艇、第65号艇)
    • 第三艦隊
      • 第五戦隊(4隻:鎮遠松島橋立厳島
      • 第六戦隊(防護巡洋艦4隻:秋津洲和泉須磨千代田
      • 第七戦隊(略)
      • 第一艇隊(水雷艇4艇:第43号艇、第42号艇、第40号艇、第41号艇)
      • 第十一艇隊(水雷艇4艇:第73号艇、第72号艇、第74号艇、第75号艇)
      • 第十六艇隊(水雷艇4艇:白鷹、第71号艇、第39号艇、第66号艇)


開戦時の極東ロシア海軍の主な戦闘艦艇
仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)
鴨緑江に架けた仮設橋を渡る第一軍部隊
遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦奇襲攻撃旅順口攻撃)に始まった。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた[16]。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。

ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパブロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった[17]

黄海海戦・遼陽会戦[編集]

黒木為楨大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。以降の陸軍の組織は以下の通り。

旅順艦隊攻撃はうまくいかなかったため、日本海軍は陸軍に旅順要塞攻略を要請、これを受け乃木希典大将率いる第三軍が旅順攻略に当たることになった。8月7日には海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。

10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。

旅順攻略[編集]

旅順水師営で降伏したステッセル将軍(中央右)
旅順要塞への28サンチ砲の砲撃

第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。10月26日からの第二回総攻撃も戦果は有ったものの失敗と判断された。しかしながら8月~10月まで黄海海戦を挟んで続いた港内への砲撃で旅順艦隊の壊滅には成功していた。11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが激戦のすえ、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。その後も第三軍は攻略を続行し、翌1905年1月1日にはロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将を降伏させた。旅順艦隊は艦艇をすぐさま使用できないように全て自沈させた。

沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導のもと、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。

奉天会戦[編集]

渡河を実施する奉天のロシア軍

日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。

日本海海戦[編集]

バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、連合艦隊は喪失艦が水雷艇3隻という連合艦隊の一方的な圧勝に終わった。世界のマスコミの予想に反する結果は列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果、日本側の制海権が確定し、ロシア側も和平に向けて動き出した。

樺太攻略[編集]

日本軍は和平交渉の進むなか7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる[18]

講和へ[編集]

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、戦争継続が困難な情勢となっていた。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていた。両国は8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円[要出典]を投入した。戦費のほとんどは戦時国債によって調達された。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達した。なお、脚気惨害については、「陸軍での脚気惨害」、「海軍の状況」を参照のこと。

年表[編集]

事柄 日本 ロシア その他
1904年
2月 6日 : 日本が、ロシアに対して最後通牒を発令。 23日 : 大韓帝国日韓議定書を結ぶ   12日 : 清国が局外中立を宣言する
8日 : 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸。
8日 : 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲
9日 : 仁川沖海戦
10日 : 相互宣戦布告
24日 : 第一次旅順口閉塞作戦
3月 27日 : 第二次旅順口閉塞作戦      
4月   1日 : 非常特別税法、煙草専売法を公布する   8日 : 英仏協商が締結される
5月 1日 : 鴨緑江会戦      
8日 : 日本軍、遼東半島に上陸開始
6月   15日 : 常陸丸事件
20日 : 満州軍総司令部を設置する
   
7月     28日 : ヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣、暗殺される  
8月 10日 : 黄海海戦 22日 : 大韓帝国と第一次日韓協約を結ぶ    
14日 : 蔚山沖海戦
19日 : 第一回旅順総攻撃
30日 : 遼陽会戦
9月      
10月 9日 : 沙河会戦      
15日 : バルチック艦隊出航
11月 26日 : 第二回旅順総攻撃      
12月 5日 : 日本軍、旅順口203高地を占領      
31日 : 第三回旅順総攻撃
1905年
1月 2日 : 旅順開城 1日 : 非常特別税法改正法、塩専売法相続税法を公布する
28日 : 竹島を命名し島根県の管轄とする閣議決定
22日 : 血の日曜日事件が起きる
各地でストライキが起きる
 
25日 : 黒溝台会戦
2月        
3月 1日 : 奉天会戦 8日 : 鉱業法を公布する   31日 : 第一次モロッコ事件
4月        
5月 27日 : 日本海海戦      
6月 9日 : セオドア・ルーズベルト、正式に日露両国へ講和勧告   各地で反乱・暴動起きる(ロシア第一革命の始まり)
14日 : 戦艦ポチョムキンの反乱が起きる
7日 : ノルウェースウェーデンからの分離独立を宣言する
12日 : ロシア、講和勧告を正式に受諾
7月 7日 : 日本軍、樺太へ上陸(樺太作戦開始) 29日 : 桂・タフト協定を締結する 23日 : ニコライ2世、ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世ビヨルケ密約を結ぶ  
31日 : 日本軍、樺太を占領
8月 9日 : ポーツマスで日露講和会議がはじまる 12日 : 日英同盟を改訂する   20日 : 孫文中国同盟会を結成(於東京
9月 1日 : 日露両国、休戦議定書に調印(休戦) 5日 : 日比谷焼打事件    
5日 : 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)調印
10月 14日 : 日露両国、日露講和条約(ポーツマス条約)批准(終戦)   ゼネラル・ストライキが起きる
17日 : ニコライ2世、十月詔書に署名する
 

影響[編集]

日本[編集]

小林清親の版画。敗北によりボロボロとなったロシア軍の悪夢を見て、飛び起きるニコライ二世

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本はロシアの脅威から逃れ安全保障を達成した。さらに朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに中東鉄道の一部である南満洲鉄道の獲得など満洲における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。

こうして、日本は最大の目標は達成した。しかし講和条約の内容は、賠償金を取れないなど国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こった。結果戒厳令が敷かれるにまでに至り、戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。これはいかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くは戦争をしている国力の実情を知らされず、目先の勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動から来ているものである。

この戦争において日本軍および政府は、旅順要塞司令官のステッセルが降伏した際に帯剣を許すなど、武士道精神に則り敗者を非常に紳士的に扱ったほか、戦争捕虜を非常に人道的に扱い日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。日本軍は国内各地に捕虜収容所を設置したが、愛媛県の松山にあった施設が著名であったため、ロシア兵側では降伏することを「マツヤマ、マツヤマ」と勘違いしたというエピソードもある[19]。終戦後、日本国内のロシア兵捕虜はロシア本国へ送還されたが、熊本県の県物産館事務所に収容されていたロシア軍士官は帰国決定の日に全員自殺している[20]

建設中の永久防塁(明治38年頃)

また、元老でありながら参謀総長として戦争を指揮した山縣有朋の発言力が高まり、陸軍は「大陸帝国」論[21]とロシアによる「復讐戦」の可能性を唱えて、1907年には山縣の主導によって平時25師団体制を確保するとした「帝国国防方針」案が纏められる。だが、戦後の財政難から師団増設は順調にはいかず、18師団を20師団にすることの是非を巡って有名な2個師団増設問題が発生することになった。

日露戦争において旅順要塞での戦闘に苦しめられた陸軍は、戦後、ロマン・コンドラチェンコによって築かれていた旅順要塞の堡塁を模倣し、永久防塁と呼ばれた演習用構造物を陸軍習志野錬兵場内に構築、演習などを行い要塞戦の戦術について研究したというエピソードが残されており、当時の陸軍に与えた影響の大きさを物語っている。

なお、賠償金が取れなかったことから、大日本帝国はジェイコブ・シフクーン・ローブに対して金利を払い続けることとなった。「日露戦争で最も儲けた」シフは、ロシア帝国ポグロム反ユダヤ主義)への報復が融資の動機といわれ、のちにレーニントロツキーにも資金援助をした。

ロシア[編集]

不凍港を求め、伝統的な南下政策がこの戦争の動機の一つであったロシア帝国は、この敗北を期に極東への南下政策をもとにした侵略を断念した。南下の矛先は再びバルカンに向かい、ロシアは汎スラヴ主義を全面に唱えることになる。このことが汎ゲルマン主義を唱えるドイツや、同じくバルカンへの侵略を企むオーストリアとの対立を招き、第一次世界大戦の引き金となった。

また、日露戦争の敗戦による民衆の生活苦から、血の日曜日事件戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命が誘発され、ロシア革命とその結果の王政打倒、社会主義政権(ソビエト連邦)成立の原因となる。

西欧[編集]

イギリスは日露戦争の勝利により日本への評価を改めており1905年8月12日に日英同盟を攻守同盟に強化する(第二回日英同盟協約)。 日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約英露協商を締結した。既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうしてイギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大してゆく。

アメリカ[編集]

ポーツマスにおける日露両政府代表団

アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでおり、日露講和後は満州でロシアから譲渡された中東鉄道支線を日米合弁で経営する予備協定を桂内閣と成立させていた(桂・ハリマン協定、1905年10月12日)。これはアメリカの鉄道王ハリマンを参画させるというもので、ハリマンの資金面での協力者がクーン・ローブすなわちジェイコブ・シフであった。この協定は小村外相の反対によりすぐさま破棄された。日本へ外債や講和で協力したアメリカはその後も「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。

大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され1906年ノーベル平和賞を受賞したが、彼の対日感情はポーツマス講和への協力以降、急速に悪化してゆく。

日比谷焼打事件の際、日本の群衆の怒りが講和を斡旋したアメリカにも向けられて東京の米国公使館などが襲撃の対象となったことで、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論の高まりと共に、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が沸き起こる一因となる。

これら日米関係の急速な悪化により、第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、日米戦争に巻き込まれることを畏れ始めた[22]

清朝[編集]

日露戦争の戦場であった満洲清朝の主権下にあった。満洲族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、中東鉄道やハルピンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。

終戦後は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで増加している[23]。さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、1932年には満州国を建国した。第二次世界大戦で日本が敗れて満州国が滅亡すると、代わって侵攻してきたソ連が進駐に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華人民共和国が満洲を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。

現代中国の高校歴史教科書では日露戦争について、ロシアあるいは日本の近代化過程の一部として触れられているものの、詳しく言及はしない(清朝の領土で起きた点を中心に記述するのが多い)。

大韓帝国[編集]

開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していたが、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。

戦争後、朝鮮半島では日本の影響が絶大となり、のちに大韓帝国は様々な権利を日本に委譲することとなり、さらには日本の保護国となる。1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に併合され、滅亡した。

モンテネグロ公国[編集]

モンテネグロはロシア側に立ち、1905年日本に宣戦布告し、ロシア軍とともに戦うため義勇兵を満州に派遣していた[24]。しかし実際には戦闘に参加しなかったことから、その宣戦布告は無視され、講和会議には招かれなかった。そのため国際法上は、モンテネグロ公国と日本は戦争を継続しているという奇妙な状態になった。なおこの戦争状態は第二次世界大戦において、1945年に日本が連合国に降伏し、その中にモンテネグロ公国の後継国家であるユーゴスラビア社会主義連邦共和国が含まれていることから解消している。

しかしながらその後、再度モンテネグロが独立する際に、再び問題となった。2006年平成18年)2月14日鈴木宗男議員が、「一九〇四年にモンテネグロ王国が日本に対して宣戦を布告したという事実はあるか。ポーツマス講和会議にモンテネグロ王国の代表は招かれたか。日本とモンテネグロ王国の戦争状態はどのような手続きをとって終了したか。」との内容の質問主意書を提出[25]。これに対し日本政府は、「政府としては、千九百四年にモンテネグロ国が我が国に対して宣戦を布告したことを示す根拠があるとは承知していない。モンテネグロ国の全権委員は、御指摘のポーツマスにおいて行われた講和会議に参加していない。」との答弁書を出している[26]

国会では上記のように答弁したものの、2006年6月には、日本はモンテネグロに外務大臣と首相の特使を派遣し、モンテネグロの独立承認と戦争の終了を宣言する文書を届けた。[27] これにより、101年に渡る両国の戦争状態が終わった。(参考:技術上の問題で戦争状態が延びてしまった戦争のリスト英語版)

なお、このようなことはヴェルサイユ条約に招かれなかったアンドラ公国に起きている。国際法上は、アンドラ公国は第一次世界大戦を唯一継続している状態になった。

モンテネグロの歴史#連邦再編から再独立へも参照されたい。

なお、日英同盟の規定により、当時の日本が二ヶ国以上と戦争状態になった場合、イギリスにも参戦義務が生じることとなる。仮に日本がモンテネグロの宣戦布告を無視しなかった場合、かなり厄介な問題を引き起こすこととなった[28]。ちなみにモンテネグロは、第一次世界大戦時において、ジュネーヴ条約ハーグ陸戦条約に加盟しないままに参戦したため、規定によって第一次世界大戦の参戦国全てに両条約が適用されないという大問題を引き起こしている。

その他各国[編集]

当時、欧米列強の支配下にあり、第二次世界大戦後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、アジアやアフリカの植民地になっていた地域の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記される[29]など、欧米列強による植民地時代における感慨の記録が数多く見受けられる[30]

また、第一次エチオピア戦争で、エチオピア帝国がイタリア王国に勝利した先例があるが、これは英仏の全面的な軍事的支援によるものであった。そのため、日露戦争における日本の勝利は、有色人種国家独自の軍隊による、白色人種国家に対する近代初の勝利と言える。また、絶対君主制ツァーリズム)を続ける国に対する立憲君主国の勝利という側面もあった。いずれにしても日露戦争における日本の勝利が及ぼした世界的影響は計り知れない程の歴史的大事件であり、日本に来ていたドイツ帝国の医者エルヴィン・フォン・ベルツは、自分の日記の中で日露戦争の結果について「私がこの日記を書いている間にも、世界歴史の中の重要な1ページが決定されている」と書いた。

実際に日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文辛亥革命オスマン帝国における青年トルコ革命カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウ東遊運動英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えている。

発行物[編集]

特殊切手として(1906年4月29日)、1銭5厘、3銭の切手が発行された。

日露戦争を題材とした作品[編集]

小説[編集]

[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

漫画[編集]

ゲーム[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 靖国神社資料、靖国神社戦争別合祀者数による。日本長期統計総覧によれば死没84,435人(帝国書院[1])、(戦死戦病死は「日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失」[2]によれば55,655人
  2. ^ 日本長期統計総覧による帝国書院[3]
  3. ^ 時事ドットコム:日露戦争のロシア将兵捕虜(2012/11/26-14:36)
  4. ^ Samuel Dumas, Losses of Life Caused By War (1923)
  5. ^ 時事ドットコム:日露戦争のロシア将兵捕虜(2012/11/26-14:36)
  6. ^ ロシアと同盟を結んでいたモンテネグロ(当時はモンテネグロ公国)も日本に対し宣戦を布告したという説もある。いずれにせよ実際の戦闘には参加せず。
  7. ^ NHK高校日本史・日清戦争 〜中国観の変化〜
  8. ^ 横手慎二『日露戦争史――20世紀最初の大国間戦争』(中央公論新社[中公新書], 2005年)、John W. Steinberg・Bruce W. Menning・David Schimmelpenninck van der Oye・David Wolf・横手慎二共著“The Russo-Japanese War in Global Perspective (History of Warfare)”BRILL; illustrated edition edition (February 28, 2007)
  9. ^ 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』541ページ(原本の漢字表記は旧字)
  10. ^ 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳 下』539-540ページ(原本の漢字表記は旧字)
  11. ^ この項目、「マーチャント・バンク」山本利久(新潟産業大学経済学部紀要 弟29号)[4]より起筆した。
  12. ^ 「財務省今昔物語7」寺井順一(財務総合政策研究所主任調査官)[5][6]
  13. ^ 帝国書院・資料統計・歴史統計・戦争別戦費[7]
  14. ^ 日露戦争ではしばしば高橋による外債工面が注目されるが、金本位制においては正金は交換の媒体にすぎず、海外からの物資調達は日本からの交易品輸出により支弁され正金はその融通のための仮の穴埋め(ヴェール)にすぎない。高橋の外貨調達がなければ決済資金不足により海外との交易が途絶する可能性があったためロンドン金融街とシフらによる与信供与の重要さは特筆されるものであるが、彼らが日本人の為に費用を負担してくれたのかと言えばそうではなく、日本人を信用して資金を用立ててくれたという事である。最終的な戦費は(外債用の支払い利息を含め)すべて日本政府(すなわち日本人)が負担した。ポーツマス条約戦争賠償金が期待できないことが明らかになるとロンドンにおける日本国外債の評価は一時混乱した。
  15. ^ 戸高一成『海戦からみた日露戦争』2010年 角川書店(角川oneテーマ21新書)
  16. ^ 日本軍による戦闘行為は国交断絶後に開始されており当時は国際法上合法とされた。
  17. ^ 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』「江田島移転のころ」(原書房)、アジア歴史資料センター「????三隻の被補者員数取調の件」(Ref:C04014276700 )
  18. ^ 北海道新聞「サハリンの日本兵慰霊碑再建を 苫小牧の梅木さん訴え」2008年10月14日
  19. ^ 捕虜も参照。
  20. ^ この内、東部シベリア狙撃第13連隊に所属していた「イグナティアン・ドレヴイチャセウイチ」の墓が熊本市のフランシスコ修道院の近くに現存する(熊本市教育委員会『島崎 -歴史と文化財-』1988年)。
  21. ^ 従来は、島国である日本本土の防衛を重視して海軍の充実が主唱されてきたが、アジア大陸最東部の満洲・韓国を支配圏に置いた以上は、日本も大陸国家としての備え(即ち強力な陸軍)が必要であるとする主張のこと。
  22. ^ 「日露戦争と日本外交」伊藤之雄[8]PDF-P.63
  23. ^ 曹樹基著『中国人口史 第5巻』復旦大学出版社、2001年5月、704ページより。やや時間のとっているスパンが長いが、同時期の人口の急激な増加がうかがえる。
  24. ^ Montenegrina, digitalna biblioteka crnogorske kulture (Montegreina, digital library of Montenegrin culture), Istorija: Đuro Batrićević, citing Batrićević, Đuro. (1996). Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Montegegrans in the Russo-Japanese War); retrieved 2011-05-12; compare Dr Anto Gvozdenović: general u tri vojske. Crnogorci u rusko-japanskom ratu (Dr. Anto Gvozdenovic: General in Three Armies; Montegegrans in the Russo-Japanese War)
  25. ^ “一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書”. http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a164069.htm 2011年3月19日閲覧。 
  26. ^ “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書”. http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164069.htm 2011年3月19日閲覧。 
  27. ^ "Montenegro, Japan to declare truce," United Press International (US). June 16, 2006; "Montenegro, Japan End 100 Years' War," History News Network (US). citing World Peace Herald, June 16, 2006; retrieved 2011-05-11
  28. ^ 日英同盟の主旨の一つは、日本とロシアが戦争に突入した際に、フランスなどロシアの友好国が参戦するのを牽制することである。イギリスが簡単に参戦してしまっては、逆にロシアの友好国が参戦する呼び水になってしまう。
  29. ^ ネルー『父が子に語る世界史』
  30. ^ たとえばカナダサスカチュワン州のウクライナ系移民は自分達の町にミカドと名付けている。

参考文献[編集]

歴史書[編集]

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー(著)、妹尾作太男・三谷庸雄(共訳)『日露戦争全史』、時事通信社、1978年、ISBN 4788778254
  • 軍事史学会編 『日露戦争(一)-国際的文脈』、錦正社、2004年、ISBN 4764603187
  • 軍事史学会編 『日露戦争(二)-戦いの諸相と遺産』、錦正社、2005年、ISBN 4764603195

従軍記・回想録[編集]

近年刊行の関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]