山縣有朋
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| 生年月日 | 1838年6月14日 (旧暦天保9年4月22日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | 1922年2月1日(満83歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | 松下村塾 |
| 称号 | 従一位 大勲位菊花章頸飾 功一級金鵄勲章 公爵 |
| 親族 | 山縣伊三郎(養子・甥) 山縣有信(養曾孫・曾姪孫) |
| サイン | ![]() |
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| 内閣 | 第1次山縣内閣 |
| 任期 | 1889年12月24日 - 1891年5月6日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
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| 内閣 | 第2次山縣内閣 |
| 任期 | 1898年11月8日 - 1900年10月19日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
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| 内閣 | 第1次伊藤内閣 黒田内閣 第1次山縣内閣(総理兼任) |
| 任期 | 1885年12月22日 - 1890年5月17日 |
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| 内閣 | 第2次伊藤内閣 |
| 任期 | 1892年8月8日 - 1893年3月11日 |
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| 任期 | 1895年8月 - 1922年2月1日 |
山縣 有朋[1](やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は公爵。
内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。
長州藩領内の蔵元仲間[2]三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。
高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成[3]。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」[4]として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。
自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。各国でも大英帝国のメリット勲章等勲章を多数受章している。
目次 |
生涯[編集]
幕末[編集]
天保9年(1838年)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現在の山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(ありとし)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。このころ友人・杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[5]。
安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助・伊藤俊輔らとともに上京し、尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化を受け9月に帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。松蔭門下となったことは出自の低い山縣が世に出る一助となったと考えられる。山縣が入塾したとされる時期から数か月後に松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は松陰から大きな影響を受けたと終世語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。
文久3年(1863年)、高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し頭角を現す。高杉は身分に囚われずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤や山縣などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により、幕末の長州藩からは伊藤や山縣のように足軽以下の身分の志士が多く出ている[6]。 同年12月、高杉が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管・赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任し、赤根が出奔した後は事実上実権を握った。慶応元年(1866年)に四代目総管に就任し、長州征討で高杉と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。
明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。
明治維新後[編集]
明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌年アメリカ経由で帰国。その後は競争相手を押しのけて、大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。
明治5年(1872年)、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年(1873年)4月に陸軍大輔を辞任。然し山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿で復職した。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、参軍として官軍の事実上の総指揮を執った。錬度や士気で優る薩軍に対し、物量で対抗して鎮圧した。9月に最後の城山の戦いでは、西郷へ自決を勧める書状を送った[7]。
明治16年(1883年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。
明治21年(1888年)12月2日より、ヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。その為、翌 明治22年(1889年)2月11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には臨んでいない。伊藤博文も学び、当時「シュタイン詣で」とさえいわれるほど日本政府の要人らがウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問。ほかルドルフ・フォン・グナイスト、ヨハン・クルメツキ、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問。10月2日に帰国[8]。
明治22年(1889年)、内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)し、日本最初の帝国議会に臨んだ。超然主義をとり軍備拡張を進める。第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保の為に軍事予算の拡大が必要であると説いた。明治23年(1890年)10月30日に教育勅語を発布。明治24年(1891年)に辞任[9]し、元老となる。
日清戦争では、56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとった。「敵国は極めて残忍の性を有す。生摛となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。配下の第5師団が平壌を陥落させるなど戦果はあげていたものの山縣自身は体調を崩し、明治天皇に「病気療養のため」という勅命で戦線から呼び返されている[10]。
明治32年(1899年)、文官任用令を改正[11]。 文官懲戒令、文官分限令を公布。
明治33年(1900年)3月10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。
続いて3月29日には、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和(さらに、国税は過去3年間から2年間に緩和。地租は1年間で変化無し)すると共に、小選挙区制(一部完全連記制の中選挙区制)から大選挙区制(一部小選挙区)に改めた。市制を執行している自治体は、それぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。山縣は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した(超然主義)。
小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。また、政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。同年10月辞任[12]。
陸軍・官僚の大御所[編集]
以後、陸軍・内務省・宮内省・枢密院等にまたがる「山縣系官僚閥」を形成して、陸軍出身では桂太郎や寺内正毅、官僚出身では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。日露戦争で参謀総長として日本を勝利に導いたこと、伊藤博文が暗殺された事も加わり、明治末期から大正初期にかけて山縣の発言力は増大したが同時に反感反発も大きくなった。
山縣は、軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求を批判した。山縣が政党を嫌った理由として、対外硬派が政党に多く存在したことが挙げられる。軍部大臣現役武官制の制定も、政党政治家が無謀な戦争に走ることを避けるためと考えられている。
だが、桂の自立(大正政変を参照)、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第1次世界大戦等、山縣は次第に時代の変化についていけなくなり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。そのような中で政党内閣の時代を迎え、やがて宮中某重大事件を巡る対応の拙さから山縣の政治的な権威は大きく失墜した。
宮中某重大事件と原敬暗殺の後ほどなくして、失意のうちに小田原の別邸で逝去する。83歳没。
山縣の葬儀は国葬となったが、参列したのは陸軍や警察・内務省の関係官僚ら義務的に参加した者が殆どで、一般の参列者はほとんどいなかった。山縣の直前に病没した大隈重信の葬儀は国葬ではなく「国民葬」とされ、その実多数の民衆が集まったのとは好対照であり山縣の国葬は正に「民抜きの国葬」と揶揄された(「国民葬」から「民」を抜くと「国葬」となる)。陽性な大隈が国民に慕われたのと反対に陰湿な印象を与えた山縣の死を悼む者は少なかった。当時新聞記者だった石橋湛山が山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評したほどである。
山縣の死とともに薩長藩閥支配はほぼ終焉となった。元老は軍歴のない松方正義(2年余り後に病没)と西園寺公望のみとなり、政府と軍を調停する機能を大きく失った。
人物[編集]
逸話[編集]
- 明治30年代(1897年 ― 1906年)、社会主義が勃興しつつあり、「社会」という言葉に対してさえも政府が敏感であった頃の話である。第2次山縣内閣の時、ある政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいかんと言った。すると山縣は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。それに対して、それは東京の文科大学で、建部という教授が担当してやっていますと答えると、山縣は「建部がやっているのか。それならいいじゃないか」と言ったので、その結果ようやく社会学というものが潰れてしまう危機を脱することが出来た[13]。
- 山縣は軍政家であり、兵を率いて前線に立ち軍功を上げるということはそれほど多くはなかったが、維新後は「自分は一介の武辺」というのが口癖だった。日清戦争で元首相でありながら第一線に立ったほか、日露戦争でも満洲軍総司令官就任を希望していた(結局大山巌が就任)。日本史上、軍人として前線に立った首相経験者は山縣だけである。
風雅の道と普請道楽[編集]
和歌を詠み、また漢詩、仕舞、書を好んだ。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである[14]。
これらは山縣の好みに従った自然を生かした構成で、近代主義的・自然主義的日本庭園とも言えるもので[15]、伝統的な日本庭園とは一線を画していた。
- 主な邸宅と庭
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- 無鄰菴(初代) 長州
- 椿山荘 東京・小石川目白台の本邸
- 山縣農場 栃木県・矢板
- 小淘庵(おゆるぎあん[19][20]) 大磯別邸
- 明治20年(1887年)頃からの約5,000坪の別邸。のち、山縣はこれを三井家に譲渡して古稀庵を構えた。
- 無鄰菴(第二) 京都別邸
- 明治24年(1891年)。旧角倉邸。鴨川と高瀬川の分岐点、二条大橋のたもとに位置していた。[21]
- 無鄰菴(第三)京都別邸
- 新々亭(さらさらてい) 東京小石川水道町別邸
- 明治40年(1907年)。この庭にも流れと池が配置された。「新々亭」という名は山縣の詠じた「さら/\と木がくれつたひゆく水の流れの末に魚のとぶみゆ」という歌にちなんだものである。500坪。
- 古希庵(こきあん) 小田原別邸[23]。
- 山縣が明治40年(1907年)、古稀の折りに造営し晩年を過ごした邸宅。平屋建の和風木造の母屋、木造二階建の洋館(伊東忠太設計、1909年竣工)、レンガ造平屋建の洋館(ジョサイア・コンドル設計)があった。岩本勝五郎による広大な庭園は相模湾と箱根山を借景としていた[24]。「小田原の大御所」の異名はここに由来する。
- 新椿山荘 東京・麹町
- 大正6年(1917年)
- 山縣三名園
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- 椿山荘庭園 1万8千坪。富士山、筑波山、房総の山々を見渡す広大な庭。
- 無鄰菴庭園 3100平方メートル(約940坪)[25]
- 古希庵庭園 1万坪
評価[編集]
軍内部に与えた影響[編集]
明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大きなものがあった。
これと見込んだ軍人や官僚を要職につけて見捨てることがなく、これが自然と「山県系」ともいえる人脈を形成した[26]。 しかしこれは同時に元長州藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法にも見え、長閥として嫌う者も非常に多かった(ただし官僚については、熊本県出身の清浦奎吾・山形県出身の平田東助・兵庫県出身の田健治郎など藩閥外の人物も多く抜擢している)。また近代日本初の大掛かりな汚職疑惑に絡み、江藤新平をいただく司法省の厳しい追及にあって一旦は辞職もしている(山城屋事件)。
大正元年(1912年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している[27]。 陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職に追い込まれ[28]、第3次桂内閣が発足するに至った[29]。 寺内正毅の死後、その勢力は急速に衰退し、山縣の死をもって長閥勢力の終焉は決定的となった。
周囲の評価[編集]
- 吉田松陰の文章における山縣の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことがわかるが、後に入江杉蔵にあてた文書では「群材」の一人として「小助(山縣)の気」を評価している。[30]
- 自由民権運動の弾圧や、大逆事件を積極的に推し進めたこと、宮中某重大事件での宮中への必要以上の容喙等から山縣の人気は生前から低かった。山縣の権威が失墜した宮中某重大事件は西園寺公望が山縣に相談したことをきっかけに山縣が動き始めたものであったが、世間では藩閥間の対立ばかりが強調されて捉えられて(皇太子妃候補の久邇宮良子女王は旧薩摩藩主島津忠義の孫にあたる)、結果的に山縣一人が「悪者」となった側面もある。しかし、この事件をきっかけに山縣を追い落とそうとした勢力が強かったという事やそれを後押しした世論が大きかった事を考えれば、山縣に反感を抱いていた人がいかに多かったかを示した事件との見方がなされている。
- 昭和天皇は、終戦直後の昭和20年(1945年)9月、皇太子・明仁親王への手紙の中で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第1次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍の名将として大山巌・山本権兵衛とともに山縣をあげている[31]。
- 立憲政友会総裁の原敬(盛岡藩出身)を評価し、対抗しながらも内閣総理大臣としての原を支持しつづけ、また影響力を行使しようとしていた。原が暗殺された折には深く嘆いたともいわれる。一方で原も山縣を高く評価し、山縣の影響力を十分承知して巧みに懐柔していった。だが『原敬日記』では、山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについては嫌悪を表しており、軽蔑の意を込め「あれは足軽だからだ」(実際の山縣は足軽以下の中間出身)と述べている[32]。
- よく長州閥出身で、同じく大勲位となった伊藤博文と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き相談役であった。同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」。なお伊藤博文は山縣とは対照的に邸宅や金銭に対する執着が無く(女好きとしては有名だった)、死去した時に財産らしい財産は残していない。
後年の評価[編集]
山縣は歴史家から大きなマイナスの評価を与えられてきた[33]。 有馬学は明治から現在に至る山縣論を分析して、山縣が個人的なパーソナリティーや政治姿勢及びその実像とは離れたところで、「近代日本の暗部」であり「否定されるべき存在」として「象徴化」「記号化」されて語られてきたとする。また有馬は明治末期から山縣の死の前後まで「否定の対象」として語られていた山縣が、大正11年の死から昭和戦前期にかけて「否定の対象としても忘れ去られ」、第二次大戦後の軍国主義批判のなかで批判的にとらえられ、「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山縣有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けたと指摘する[34]。
しかし近年、イデオロギー的文脈から切り離した山縣の実像に迫る分析がジョージ・アキタ(George Akita)、伊藤隆らにより試みられている。そこからは、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢[35]」をとり続けた政治家という、従来の軍国主義的人物像とは異なる山縣の姿が浮かび上がる[36][37]。
栄典[編集]
- 明治3年(1870年)8月:従五位
- 明治10年(1877年)11月2日:勲一等旭日大綬章
- 明治17年(1884年)
- 明治19年(1886年)10月:従二位
- 明治28年(1895年)
- 5月26日:元勲優遇
- 8月5日:勲一等旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章、侯爵
- 明治31年(1898年)1月20日:元帥
- 明治35年(1903年)6月3日:大勲位菊花大綬章
- 明治40年(1908年)9月21日:大勲位菊花章頸飾、功一級金鵄勲章、公爵
- 大正11年(1922年)2月9日:国葬
系譜[編集]
山縣氏は清和源氏多田氏の流れと言うが明確ではない。家名はその祖が安芸国山県郡今田村に住んだ事からとされる。父は蔵元付中間。母は中間・岡治助の娘。家紋は丸に三つ鱗。
昭和63年(1988年)放送の大河ドラマ「武田信玄」では、有朋を信玄の重臣「山県昌景の子孫」と紹介していたが(オープニングの映像)、直接の系譜関係はないのが定説である。
有朋には跡継ぎが無く、姉の壽子と勝津兼亮の次男・伊三郎を養子として迎える。伊三郎は枢密顧問官・逓信大臣・徳島県知事等を務めた。有朋の姉、雪子は森山久之允に嫁す。伊三郎の子・山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務めた。また、有朋の娘・松子と船越光之丞の三男・有光を伊三郎の養子に迎え、山縣家分家として男爵を授爵された。有光は陸軍大佐・第21飛行団長。有道の子・山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。
(旧姓中村氏) 吉左衛門━吉左衛門尚政=三郎有稔┳有朋=伊三郎━┳有道━┳有信━━有徳━━有成 ┃ ┗松子 ┃ ┃ ┣壽子 ┣清子 ┣美枝子 ┃ ┣伊三郎 ┃ ┃ ┃勝津兼亮 ┣三郎 ┗美智子 ┃ ┃ ┗雪子 ┣吉朗 ┃ ┣壽美子 ┃ ┣五郎 ┃ ┣有光(船越光之丞三男、[[男爵]]) ┃ ┗七郎
脚注[編集]
- ^ 学術誌、研究書、文部科学省検定教科書における歴史人物としての表記は「山県有朋」、『職員録』などの存命中の刊行物における表記は「山縣有朋」、本人の署名も「山縣有朋」である。近年、別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない日露戦争陸戦--児玉源太郎は名参謀ではなかった』(並木書房、2009年)のように「山縣有朋」と表記する一般向けの書籍が散見されるようになっている。
- ^ 足軽以下の身分
- ^ 『明治・大正の宰相 2』180頁
- ^ 藤村道生『山県有朋』1-4頁
- ^ 藤村道生『山県有朋』6頁
- ^ 薩摩藩ではこのような例はなく、西郷、大久保はじめ下級とはいえみな士分であった
- ^ 但し西郷は返事をせず討ち死した。
- ^ 瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』講談社メチエ、2003年,157-180頁
- ^ 第1回帝国議会での予算案審議に際し、立憲自由党議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。
- ^ 藤村道生による、大本営の冬営論に従おうとしなかったために解任されたとの説(藤村道生『山県有朋』p.160-p.170、『日清戦争』1973年など)が従来から信じられてきた。然し、斎藤聖二が山縣が実際に病状を悪化させていたこと、大本営が既に冬季作戦論に転換していたことを実証して山縣の召還は「健康への憂慮」と「戦略上の必要性」にあると指摘(『日清戦争の軍事戦略』2003年)しており、伊藤之雄が藤村の説には疑問を呈している(伊藤『山県有朋―愚直な権力者の生涯』p.268-p.277)ほか原田敬一も「病気の軍司令官による冬季作戦はできない、という大本営の判断が山県解任の理由」とする斎藤の説を支持している(原田『日清戦争』2008年、p.187-p.192)。
- ^ 省庁、特に内務省の高級官僚から憲政党などの政党員を締め出した。この努力も、のちに原敬によって押し戻される結果になる。
- ^ 政敵である伊藤博文が立憲政友会を設立し、総裁に就任したことに伴うもの。辞任に際して後任に伊藤を推薦した。政友会設立直後のため体制が整っておらず混乱した。
- ^ 戸田貞三『学究生活の思い出』168-169頁参照
- ^ 藤村道生『山県有朋』233-235頁。『日本の洋館』102頁
- ^ 進士五十八『日本の庭園』48-51ページ
- ^ 『伊佐野農場図稿』256-259ページ
- ^ 『日本の洋館』102頁
- ^ http://www.general- yamagata-foundation.or.jp/noujyou.htm
- ^ 藤村道生『山県有朋』233ページ。
- ^ 湘南新聞 2006年(平成18年)1月14日(土)《1596号》
- ^ 『山県有朋ー愚直な権力者の生涯』p291
- ^ http://www.city.kyoto.jp/bunshi/bunka/murin_an/about_murin_an.html
- ^ http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Memorial/kokian.html
- ^ http://www.general-yamagata-foundation.or.jp/tkutei.htm
- ^ 『山県有朋ー愚直な権力者の生涯』p291-293
- ^ 佐々木隆「内務省時代の白根専一 「山県系」形成の起点」『山県有朋と近代日本』127-160頁
- ^ 実際に送られた書簡をインターネットで閲覧できる。3-1 2個師団増設問題(国立国会図書館)参照。
- ^ 当時は軍部大臣現役武官制が施行されており、陸軍が新たな陸軍大臣を推薦しない限り、内閣総辞職をするほかなかった。
- ^ ただし、山縣自身は倒閣までは予期していなかった。西園寺内閣の総辞職とその後の桂の大命降下には、山縣により(内大臣兼侍従長として宮中に押し込められ、政権復帰を目指していた桂の策謀によるものが大きい。大正政変を参照。
- ^ 藤村道生『山県有朋』7-10頁
- ^ 高橋紘『象徴天皇』2-3頁
- ^ 平民宰相として有名な原は、分家により、士族から平民になっていたが、生家は盛岡藩の家老家の出身だった。自身が爵位を欲さなかったのは爵位を受けると衆議院議員の被選挙権がなくなることもあったが山縣ら新華族(勲功華族)に対する嫌悪感も大きな要因であった。
- ^ 伊藤隆「近代日本における山県有朋の位置付け-序にかえて-」『山県有朋と近代日本』1-3頁
- ^ 有馬学「山県有朋の語られ方-〈近代日本の政治〉をめぐるメタヒストリー-」『山県有朋と近代日本』311-328頁
- ^ 『山県有朋と近代日本』7頁
- ^ 伊藤隆「近代日本における山県有朋の位置付け-序にかえて-」『山県有朋と近代日本』1-16頁
- ^ 有馬学「山県有朋の語られ方-〈近代日本の政治〉をめぐるメタヒストリー-」『山県有朋と近代日本』311-328頁
関連文献[編集]
- 基本文献
- 坂本箕山、加島虎吉 『元帥公爵 山縣有朋』 至誠堂書店、1922年
- 入江貫一 『山縣公のおもかげ 付・追憶百話』 博文館、1922年、 偕行社、1930年/復刻版 マツノ書店、2009年
- 杉山其日庵(杉山茂丸) 『山縣元帥』 博文館、1925年
- 徳富蘇峰編述 『公爵山縣有朋伝 (上中下)』 山縣有朋公記念事業会、1933年
- 大山梓編 『山県有朋意見書』 <明治百年史叢書>原書房 1966年
- 『山県公遺稿 こしのやまかぜ』 <続日本史籍協会叢書>東京大学出版会、1979年
- 『入江貫一 政変思出草 大正初期 山県有朋談話筆記』
伊藤隆編 <近代日本史料選書2>山川出版社 1981年 - 『大正初期 山県有朋談話筆記 続』 尚友倶楽部編 <尚友ブックレット>芙蓉書房出版 2011年
- 『山縣有朋関係文書 (全3巻)』 山川出版社 2008年
尚友倶楽部、山縣有朋関係文書編纂委員会編
- 評伝・研究
- 御手洗辰雄 『山県有朋』 時事通信社〈三代宰相列伝〉 1958年、新版〈日本宰相列伝2〉 1985年
- 岡義武 『山県有朋 明治日本の象徴』 岩波新書 初版1958年
- 藤村道生 『山県有朋』 吉川弘文館[人物叢書] 1961年、新装版1986年
- 半藤一利 『山県有朋』 PHP研究所 1990年、PHP文庫 1996年、ちくま文庫、2009年
- 川田稔 『原敬と山県有朋 国家構想をめぐる外交と内政』 中公新書 1998年
- 伊藤隆編 『山県有朋と近代日本』 吉川弘文館 2008年
- 伊藤之雄 『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 文春新書、2009年
- 井上寿一 『山県有朋と明治国家』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2010年
- 松元崇 『山縣有朋の挫折 誰がための地方自治改革』 日本経済新聞出版社、2011年
- 参考文献・資料
- 毛利敏彦 『明治六年政変』 中公新書、1979年
- 伊藤隆、ジョージ・アキタ 『山県有朋と「人種戦争論」』
「年報・近代日本研究七 日本外交の危機認識」所収、山川出版社、1985年 - 高橋紘 『象徴天皇』 岩波新書 1987年
- 大野芳 『宮中某重大事件』 講談社 1993年
- 井上清 『日本の歴史20 明治維新』 中央公論社 初版1966年 のち中公文庫(重版多数)
- 田中彰 『明治維新』 講談社学術文庫 2003年
- 「建築・庭園・開拓農場」関連
- 『写真でみる椿山荘の歴史』 椿山荘編 1978年
- 森勝蔵著、石川健校訂 『伊佐野農場図稿』[1](山縣睦子・石川明範 解説) 草思社 2000年 ISBN 4794209150
- 藤森照信、増田彰久写真 『日本の洋館第一巻 明治篇Ⅰ』 講談社 2002年 ISBN 4062614812
- 進士五十八 『日本の庭園 造景の技とこころ』 中公新書 2005年 ISBN 4121018109
- 『元勲・財閥の邸宅―伊藤博文、山県有朋、西園寺公望、三井、岩崎、住友…の邸宅・別邸20』
鈴木博之監修、和田久士写真 JTBパブリッシング 2007年 ISBN 4533066097
関連作品[編集]
- 映画
- テレビドラマ
- 『花神』(1977年、NHK大河ドラマ、演:西田敏行)
- 『獅子の時代』(1980年、NHK大河ドラマ、演:江角英)
- 『二百三高地 愛は死にますか』(1981年、東映・TBS、演:増田順司)
- 『幕末青春グラフィティ 坂本竜馬』(1982年、日本テレビ、演:蟹江敬三)
- 『春の波涛』(1985年、NHK大河ドラマ、演:高橋悦史)
- 『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:石原良純)
- 『坂の上の雲』(2009年 ~ 2011年、NHKスペシャルドラマ、演:江守徹)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 山県有朋 | 近代日本人の肖像
- 山縣有朋記念館
- 山縣 有朋略歴
- 山県 有朋:作家別作品リスト(青空文庫)
- 国立国会図書館 憲政資料室 山県有朋関係文書(MF:個人蔵)
- 国立国会図書館 憲政資料室 山県有朋伝記編纂資料(写本)
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 黑田清隆 大隈重信 |
第3代:1889年12月24日 - 1891年5月6日 第9代:1898年11月8日 - 1900年10月19日 |
次代: 松方正義 伊藤博文 |
| 先代: 大木喬任 黑田清隆 伊藤博文 |
第5代:1893年3月11日 - 1894年12月18日 第9代:1900年12月21日 - 1903年6月14日 第11代:1909年10月26日 - 1922年2月1日 |
次代: 伊藤博文 伊藤博文 清浦奎吾 |
| 先代: 河野敏鎌 |
第4代:1892年8月8日 - 1893年3月11日 |
次代: 伊藤博文 (臨時兼任) |
| 先代: 創設 |
初・第2・3代:1885年12月22日 - 1890年12月24日 |
次代: 西郷従道 |
| 先代: 山田顕義 |
第9代:1883年12月12日 - 1885年12月22日 |
次代: 廃止 |
| 先代: 創設 空席 |
初代:1873年6月8日 - 同7月2日 第2代:1874年6月30日 - 1878年11月8日 |
次代: 空席 西郷従道 |
| 軍職 | ||
| 先代: 大山巌 |
第5代:1904年6月20日 - 1905年12月20日 |
次代: 大山巌 |
| 爵位 | ||
| 先代: 創設 |
山縣公爵家 初代:1908年 - 1922年 |
次代: 山縣伊三郎 |
| 先代: 創設 |
山縣侯爵家 初代:1895年 - 1908年 |
次代: 陞爵 |
| 先代: 創設 |
山縣伯爵家 初代:1884年 - 1895年 |
次代: 陞爵 |
| 第2代 黒田清隆 |
第3代 1889年12月24日 - 1891年5月6日 |
第4代 松方正義 |
||||||
| 第8代 大隈重信 |
第9代 1898年11月8日 - 1900年10月19日 |
第10代 伊藤博文 |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1889 | 1891 | 1892? | 1898 | 1900 | 1902 | 1904 | 1909 | 1912 | 1913 | 1915 | 1916 | 1922 | 1924 | 1934 | 1940 | 1945 |
| 伊藤博文 | ||||||||||||||||
| 黒田清隆 | ||||||||||||||||
| 山縣有朋 | ||||||||||||||||
| 西郷従道 | ||||||||||||||||
| 松方正義 | ||||||||||||||||
| 井上馨 | ||||||||||||||||
| 大山巌 | ||||||||||||||||
| 桂太郎 | ||||||||||||||||
| 西園寺公望 | ||||||||||||||||
| 重臣会議 | ||||||||||||||||
| 帯の始めは受命年(重臣会議は制度創設年および制度消滅年)、終わりは終任年(死去年)。西郷従道は正式な受命を経ていない。 | ||||||||||||||||

