長門国

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長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、山陽道に位置する。現在の山口県の西半分に当たる。俗に長州(ちょうしゅう)と呼ばれる事も多い。延喜式での格は中国、遠国。


目次

[編集] 沿革

長門は、古くは穴門(あなと)と呼ばれ、穴戸と書くこともあった。穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。穴門国造の領域と、阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。

[編集] 歴史

[編集] 古代

海を隔てて朝鮮半島と向かい合う位置に在るので、古代には北九州に準じて外交・防衛上重視された。

665年天智天皇3年)には、筑紫国大野城基肄城と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた。675年天武天皇4年)には、畿内陸奥国と長門国を除いて、国司大山位以下を任じることが定められた。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫大宰を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に周防総領が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる。

奈良時代の長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった。また貨幣の原料としても重宝され一時長門国司が廃止されて鋳銭使が設置され長門の行政・貨幣鋳造を司った。

[編集] 中世・近世

源氏平氏が権力争いを展開した時代の末期、1185年には壇ノ浦の戦いの舞台ともなった。

室町時代には、周防国山口を本拠地とする大内氏の地盤であった。この大内氏は、九州のうち筑前国までを勢力圏としていた。

江戸時代の長門国は、に藩庁を置く長州藩の所領であった。

[編集] 国府・一宮など

国府豊浦郡にあった。現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

長府(長門国府)と呼ばれる前は、穴門の豊浦宮(古事記、日本書紀に記載)と呼ばれていた。

延喜式神名帳には以下の大社3座1社・小社2座2社の計5座3社が記載されている。

一宮は住吉坐荒御魂神社、二宮は忌宮神社、三宮は乳母屋神社(下関市大字吉見下)である。総社は惣社宮で、現在は忌宮神社境外摂社・守宮司神社(下関市長府惣社町)の境内にある。

[編集] 守護一覧

[編集] 鎌倉幕府

[編集] 室町幕府

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[編集] 関連項目