信濃国

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-東山道

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は信州(しんしゅう)。領域は現在の長野県にあたる[1]。『延喜式』での格は上国中国[2]。『万葉集』での枕詞は「みすずかる (水薦苅)」。

目次

[編集] 「信濃」の名称と表記

元は「シナヌ」であったとされ、後に「科野」の字が当てられた。『古事記』中巻には「神八井耳命者科野国造等之祖也」と記され、大国主命の子健御名方命が諏訪に入国する際にも、「科野国之洲羽海」に至ると記される。『日本書紀』には、欽明天皇14年(553年)に百済が朝廷に遣じた使者として上部徳率科野次酒[3]、上部奈率科野新羅[4]の名があり、正史における「科野」の初見は6世紀の半ばである。

「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。風神シナトヘノミコト)説もある[5]

「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年740年)の木簡となる。

[編集] 初期の沿革

7世紀令制国発足により、科野国造の領域の佐久伊那高井埴科小県水内筑摩更級諏訪安曇の十を以って成立し、現在の長野県のうち木曽地方を欠く大部分を領域にした。当初は科野国の表記であったが、大宝4年(704年)の諸国印鋳造時には信濃国に改められた。

養老5年(721年6月26日に南部を諏方国として分置した。天平3年(731年3月7日に合併して元に復した(この頃には信濃国)。

平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期はわかっていない。また戦国時代には、南信州を支配下に治めた武田信玄によって三河国加茂郡から現・根羽村の地域を編入し伊那郡の一部とした。

信濃国は配所に定められ、中流の範囲とされた[6]

[編集] 歴史

[編集] 原始

長野県域でも旧石器時代の遺跡がいくつか発掘されている。その中の野尻湖遺跡(立ヶ鼻遺跡)から人類が活躍していたことを示す槍状木器・骨器・剥片石器などの遺物が発見されている。この遺跡はナウマンゾウオオツノシカなどの大型哺乳動物を解体したキルサイトと推定されている。時期は約2万5千年前~3万年前のものである。その他この時代の遺跡としては仲町(信濃町)・日向林B(信濃町)・石子原(飯田市)遺跡が発見されている。

2000年代の前半に竹佐中原(たけさなかはら)遺跡(飯田市)が発掘・調査されている。この遺跡の石器集中地点4カ所から石器を含む800余点の旧石器時代の遺物が出土した。この石器包含層の自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定、光ルミネッセンス年代測定など)が行われ「3万年古く5万年より新しい」という結果が出た。今までは、日本列島に人々が居住し始めたのは後期旧石器時代の約3万年前以降であると考えられていたが、この遺跡の発掘調査で中期旧石器時代の終わり頃(3万年前から5万年前)には本県に人々が生活を始めていたことが証明された。[7]

2万年前以降では剥片石器を特徴とする石器群が県内各地から発見されるようになる。後期旧石器時代が終わる頃には日本で最初の細石刃が矢出川遺跡(南牧村)で見つかっている。[8]

有史以前、県内には縄文時代遺跡が多数分布し、この時代の中心地のひとつであった。とくに小県郡長和町和田峠は日本における黒曜石の代表的な産地であった。

続く弥生文化は、まず東海地方から長野県南西部へと伝わり、その後日本海側の北陸地方から北部へと伝わったと考えられている。この2ルートでの波及が原因かは不明であるが、中野市柳沢遺跡からは、東日本では唯一となる一緒に埋納された銅鐸銅戈が出土している(銅鐸と銅戈が一緒に出土したのは日本全国でも数例しかなく、また大阪湾型と九州型の銅戈が混在していることも極めて稀なケース)。

古墳時代前方後方墳は、弘法山古墳松本市)や姫塚古墳長野市)、瀧の峯古墳群佐久市)など県内各所で発見されており、時期については概ね古墳時代前期(4世紀始めから中葉)のほぼ同時期とされている。その後前方後円墳が県内各所に築造され、特に長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、森将軍塚古墳川柳将軍塚古墳倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中している。古墳時代後期には高井郡を中心に高句麗式の積石墳が多数分布する。

神代の時代、出雲の国譲りに反対していた大国主の長男建御中主尊が大和方の武甕槌神相撲をとって敗れ、助命されて科野国諏訪郡に住まわされたと伝わる。その地には諏訪神社が建立され、信濃国一之宮の格式を誇り武芸の神として尊崇を集めた。

弥生時代から古墳時代にかけての科野は、更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、県内最大の前方後円墳で「科野の大王」の墳墓と目されている森将軍塚古墳を筆頭とした埴科古墳群が残されている現在の千曲市(旧更埴市)から川柳将軍塚古墳のある長野市南部(旧更級郡)にかけての一帯が中心(科野国造)であったとされる[9]

[編集] 古代

645年大化改新科野国[10]が設置され、704年(慶雲元)の国印制定により、「科野」から「信濃」へ国名表記が改められた。

新政権は大化から白雉年間(645~654)にかけて、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「評」(コオリ)と呼ばれる行政区画を全国に設置した。本県域では、伊奈評・諏訪評・束間評・安曇評・水内評・高井評・小懸(県)評・佐久評などが成立していたと考えられている[11]。647年(大化3)に渟足柵がつくられ、648年(大化4)に磐舟柵がつくらえて科野から柵戸(さくこ、公民身分)が派遣された。また、660年(斉明天皇6)12月には、科野国が、の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを朝廷に報告した[12]とあり、それに先立つ627年(推古天皇35)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、上野国で散り失せるとあることから[13]、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。

その後の飛鳥時代には、本多善光の開基による善光寺長谷寺などが建立され、特に善光寺は諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。

672年(天武元)の壬申の乱には、科野の兵が大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍したと謂われる。685年(天武14)には「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせている。691年(持統5)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。702年(大宝2)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり[14]、713年(和同6)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、木曽路が開通している[15]。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 踏ましなむ はけ我が背」(万葉集 巻14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。721年(養老5)から731年(天平3)まで信濃国から諏方国(すわのくに)が分置されたこともある。

奈良時代には官営による16の勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。768年には朝廷から褒美を得た全国9人の内に信濃国は水内郡刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡建部大垣伊那郡他田部舎人千世売と4人までもを占めた。

奈良時代末期から平安時代初期にかけては、信濃国内の高句麗人の改姓が続々と進んだ。789年(延暦8年)に筑摩郡人の外少初位下後部牛養が田河造を[16]、797年(延暦16)には外從八位下前部綱麻呂が安坂姓を下賜され[17]、これに続くように799年(延暦18)には、信濃国人の外從六位下卦婁眞老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弖麻呂、前部秋足、小縣郡人无位上部豊人、下部文代、高麗家繼、高麗繼楯、前部貞麻呂、上部色布知等が、自分たちの先祖が飛鳥時代に帰化していることと757年(天平勝宝9)4月4日の勅令[18]を根拠として、自らの高句麗人の姓を日本人の姓に改めたいと朝廷に請願した結果、卦婁眞老等は須須岐姓、後部黒足等は豊岡姓、前部黒麻呂は村上姓、前部秋足等は篠井姓、上部豊人等は玉川姓、下部文代等は清岡姓。高麗家繼等は御井姓。前部貞麻呂は朝治姓。上部色布知は玉井姓をそれぞれ下賜された[19]。また、同時代の中期には桓武平氏平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど、信濃は平安時代中期における平氏内紛の舞台ともなった。888年千曲川仁和大水と言われる大洪水を起こした。

院政時代には院分国として白河法皇鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。

平安時代末期に入ると、河内源氏源義賢の遺児木曾義仲後白河法皇の第三皇子以仁王による平家追討の令旨に呼応し、挙兵するなど信濃の兵が信越地方から京都にかけて活躍をしたが、後に河内源氏の嫡流源頼朝と対立し、その弟範頼義経らに討たれた。

[編集] 中世

鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿興福寺東大寺などの手に移るが、在庁官人や国人関東御家人化が進んで在京の遙任国司や知行国主の影響力は薄れ、「国司その用あてざる国」と揶揄された。戦国時代まで存在した守護には比企氏執権北条氏小笠原氏斯波氏武田氏らがいた。(初代は比企能員、末代は武田勝頼

またこの時代の仏教の信者で多いのが臨済宗曹洞宗などの禅宗一向宗浄土宗(禅林寺派)などである。

鎌倉時代末期、後醍醐天皇鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏新田義貞らの有力御家人が寝返った。得宗北条高時を討って、幕府を滅ぼすと北条氏の御内人であった諏訪頼重らが高時の遺児北条時行を奉じて鎌倉を奪還するなど(中先代の乱)、信濃においては朝廷方と北条方による抗争が繰り広げられた。後醍醐天皇が建武の新政により公家中心の政治に武士の不満が高まった。足利尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏仁科氏香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられた。南朝方は後醍醐天皇の皇子である征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて南朝方の一大拠点を築こうとしたが、桔梗ヶ原の戦いで小笠原氏が勝利すると諏訪氏や仁科氏などが北朝側に組して、信濃南朝勢力の衰微は決定的となる。南朝の衰退後は、同じ北朝方でも足利幕府を後ろ盾とする守護小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が南朝方であった諸族を巻き込んで争うなど(大塔合戦)、南北朝の二極対立とは別に、守護対在地豪族の争いから複雑な対立関係が続き、足利幕府と鎌倉公方鎌倉公方関東管領との対立がその動きに拍車をかける形となり、信濃においては強力な支配権を持つ守護大名は登場することはなかった。将軍足利義教の時代に信濃守護を務めた小笠原政康は親義教派の武将として永享の乱などで活躍するも、政康の没後、小笠原氏は分裂し再び衰える。

室町末期まで在地豪族の諸勢力が拮抗を続ける。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏、木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であるが、他にも小笠原一族で信濃守護代を務めた大井氏越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏関東管領上杉氏を後ろ盾とした海野氏、北部の名族井上氏などの旧来の名族の流れを汲む一族も健在であった。

戦国時代には隣国甲斐国との関係が深くなり、諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏・村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、以降は晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は小笠原氏や村上氏を追い、木曾氏を傘下に下すなど、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍義輝あ甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。

信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼が引き続き支配したが、織田信長との抗争に敗れ滅亡。その後は織田家の版図に加えられ、毛利長秀森長可らに与えられた。しかし本能寺の変後、織田家の勢力は瓦解し、徳川氏北条氏・上杉氏の勢力が進出。北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により撤退し、徳川と上杉の対立は徳川家康豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従し関東に移封されると、信濃は豊臣氏方の武将の支配下に収まった。

関ヶ原の戦いの直前、徳川秀忠の軍勢は、かつて徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原において西軍方についた真田昌幸信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(上田合戦)。関ヶ原の戦いにおける第2の舞台である。真田昌幸は関ヶ原以後、高野山に流された。その後、東軍の真田信幸松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の役で武名を挙げることになる。

[編集] 近世

江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松本藩上田藩飯山藩小諸藩岩村田藩龍岡藩田野口藩)、高島藩高遠藩飯田藩須坂藩松代藩)。

また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領であり、伊那郡内には美濃国高須藩及び陸奥国白河藩、高井郡内には越後国椎谷藩、佐久郡内には三河国奥殿藩の飛び地があった。

その他善光寺戸隠神社諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島の4つの代官所交代寄合旗本伊豆木陣屋小笠原氏等)の知行所などが置かれた。

この時代には多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸狂言に多く詠まれている。

幕末になると、外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多かったが、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868年)4月下旬、越後から進出した衝鋒隊飯山城下を占領すると、信濃各藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。

※江戸時代の各藩については「藩の一覧」を参照。 また ※明治以降は「長野県」を参照。

[編集] 国内の施設

[編集] 国府

歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている[20]。現在の松本市にあたる。

ただし諸説として、国分寺[21]及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)などから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが[22]、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。

また、一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。

平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。

鎌倉初期には善光寺近傍に「御庁」(長野市後町)が建てられ、国司の目代が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。

[編集] 国分寺・国分尼寺

1963年昭和38年)からの発掘調査により国分僧寺・国分尼寺跡が上田市国分の地で確認されている。

[編集] 神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には大社7座5社・小社41座41社の計48座46社が記載されている。大社5社は以下に示すもので、全て名神大社である。
総社一宮以下

[編集] 守護所

守護の交代によって位置は移り変わり、水内郡善光寺後庁、小県郡塩田、埴科郡船山、水内郡平芝、筑摩郡井川などに置かれた。

[編集] 地域

[編集]

[編集] 人物

[編集] 国司

[編集] 飛鳥・奈良時代

信濃守


信濃介


[編集] 平安時代

信濃守


信濃介


[編集] 鎌倉時代

信濃守


信濃介


[編集] 室町時代

信濃守


信濃介


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[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府


[編集] 室町幕府

[編集] 武家官位としての信濃守

[編集] 勅旨牧

  • 塩原牧(青木村)
  • 望月牧(佐久市)
  • 長倉牧(軽井沢町)
  • 塩野牧(御代田町)
  • 埴原牧(松本市)
  • 猪鹿牧(安曇野市)
  • 大野牧(波田町)
  • 岡屋牧(岡谷市)
  • 山鹿牧(茅野市)
  • 萩倉牧(下諏訪町)
  • 平井手牧(辰野町)
  • 宮処牧(辰野町)


  • 埴原牧に牧監庁を併設。

[編集] 参考文献

  • 信濃史学会『信濃』
  • 長野県下の各市町村誌

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 神坂村・旧山口村岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある
  2. ^ 『延喜式』巻廿二 民部上
  3. ^ 『日本書紀』巻十九欽明天皇十四年(五五三)正月乙亥十二
  4. ^ 『日本書紀』巻十九欽明天皇十四年(五五三)八月丁西七
  5. ^ 古川貞雄「風土と人間」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 2ページ
  6. ^ 『延喜式』卷第廿九 刑部省 延長五年(九二七)十二月廿六日
  7. ^ 竹佐中原遺跡「5万~3万年前」 後期旧石器時代より古く 信濃毎日新聞 2010年5月20日
  8. ^ 福島正樹「信濃史のはじまり」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 10-12ページ
  9. ^ 福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 43ページ
  10. ^ 7世紀末の藤原宮跡から出土した木簡に「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるのが最古で確実な史料である。
  11. ^ 福島正樹「信濃国のなり立ち」 古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文『長野県の歴史』山川出版社 2003年 42ページ
  12. ^ 『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)十二月庚寅廿四
  13. ^ 『日本書紀』巻二二推古天皇三五年(六二七)五月
  14. ^ 『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)十二月壬寅十
  15. ^ 『続日本紀』巻六和銅六年(七一三)七月戊辰七
  16. ^ 『続日本紀』巻四十延暦八年(七八九)五月庚午廿九
  17. ^ 『日本後紀』巻五延暦十六年(七九七)三月癸夘十七
  18. ^ 『続日本紀』巻廿天平宝字元年(七五七)四月辛巳戊寅朔四
  19. ^ 『日本後紀』巻八延暦十八年(七九九)十二月甲戌五
  20. ^ 10世紀に編纂された『和名抄』(流布本)巻五の信濃国の項に「国府在筑摩郡」の注記があることから、平安時代中期には筑摩郡に国府があったことが知られる
  21. ^ 1963年昭和38年)からの発掘調査によって国分僧寺・国分尼寺跡が上田市国分の地で確認され、国府と国分寺は一般的傾向として通常近接したところに立地するという点から小県郡に国府を推定する説。
  22. ^ 参考:長野県史刊行会編『長野県史』通史編 第1巻原始・古代 1989年、山川出版『長野県の歴史』ISBN 4634322005、『松本市史』第2巻 歴史編Ⅰ「原始・古代・中世」、『上田市誌』 歴史編2「上田の弥生・古墳時代」・歴史編3「東山道と信濃国分寺」など多数。
  23. ^ 文献上に現れる初代信濃国司。
  24. ^ 橘奈良麻呂の乱で処罰され任国配流。
  25. ^ 国衙が倒壊し圧死。
  26. ^ 今昔物語集』の受領のエピソードで知られる。
  27. ^ 藤原家長の子か。
  28. ^ 平氏追討の勲功。
  29. ^ 木曾義仲の養父。
  30. ^ 藤原隆房の子か。
  31. ^ 堀河中納言藤原光継の直前の前任者であるとの記録があり、左近少将入道と同一人物とする説あり。
  32. ^ 1333年10月に就任した清原真人某と同一人物か。


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