百済
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| 百済 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 백제 |
| 漢字: | 百濟 |
| 発音: | ペクチェ |
| 日本語読み: | くだら、ひゃくさい |
| ローマ字: | Baekje |
- 百済
- 百濟
-
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←
346年(前18年) - 660年
→ 
375年百済が一時的に占有した領域-
公用語 古代朝鮮語 首都 慰礼城
(前18–475)
熊津
(476–538)
泗沘
(538–660)
百済(くだら / ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余=徐族[1]による国家(346年[2] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。
目次 |
呼称 [編集]
日本語における呼称「くだら」の由来は不明であるが、古くは「くたら」と清んで発音していたらしく、上古の用例は不詳であるが、『図書寮本類聚名義抄』(1081年)にある用例・久太良の訓は清音である。
歴史 [編集]
百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。
建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説まで様々な説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であろうとされているが詳細は不明である。
民族 [編集]
朝鮮の歴史 |
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| 櫛目文土器時代 無文土器時代 |
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| 古朝鮮 | 辰国 | 檀君朝鮮 箕子朝鮮 衛氏朝鮮 |
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| 原三国 | 三韓 | 濊 | 沃 沮 |
漢四郡 | 高句麗 | ||||||
| 三国 | 伽倻 | 百済 | 高句麗 | ||||||||
| 新羅 | |||||||||||
| 唐熊津、安東 | |||||||||||
| 南北国 | 統一 新羅 |
安東 | 渤海 | ||||||||
| 後三国 | 新羅 | 後百済 | 後高句麗 | 渤海 | |||||||
| 高麗 | 双城 | 東寧府 | 耽羅 | ||||||||
| 李氏朝鮮 | |||||||||||
| 大韓帝国 | |||||||||||
| 日本統治時代 | |||||||||||
| 連合軍軍政期 | |||||||||||
| 大韓民国 | 朝鮮民主主義人民共和国 | ||||||||||
| Portal:朝鮮 | |||||||||||
民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余=徐族の国家であったと言う説、またツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と被支配層(土民中心)の韓族であったとの2説がある[1]。
百済の支配層は扶余族=徐族であったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余=徐とつながりがあり、26代聖王が538年に泗沘に遷都した後に国号を「南扶余」と自称していたこともあるからである。
『隋書』百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」という事から、雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。
言語 [編集]
今言語服章略与高麗同
とあり、言語や服装などが高句麗とおおよそ同じであるとしている。なお新羅の言語は閉音節で発音が子音で終わるのに対して、高句麗と百済また倭では開音節で、母音で終わっていたとされる[3]。
『魏書』も『梁書』の記述を踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余=徐氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している。
魏延興二年 其王餘慶始遣其冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯 長史餘禮 龍驤將軍帶方太守司馬張茂等上表自通 云 臣與高麗 源出夫餘 先世之時 篤崇舊款 其祖釗 輕廢鄰好 陵踐臣境 臣祖須 整旅電邁 梟斬釗首 自爾以來 莫敢南顧
— 『北史』列伝第82(百済伝)
読み下し:魏の延興二年(472年)、その王、餘慶は初めて、そこの冠軍將軍駙馬都尉の弗斯侯、長史の餘禮、龍驤將軍帯方太守の司馬張茂らを遣わして上表し自ら通じた、言うには「臣は高句麗の源流である扶余より出る、先世の時代、旧款を尊ぶことに篤く。高句麗の祖の釗は、近隣の友好を廃して軽んじ、臣の国境を侵し、陵墓を踏み荒らす。臣の祖の須は、軍旅を整え電撃し、釗の首を斬って晒した。爾来、敢えて南を顧みる(南下を試みる)ことなし)
と、「臣と高句麗は源は夫余=徐より出る」すなわち百済と高句麗は同族であると考えられていた。
李基文は、この呼称の違いは王族をはじめとする支配層と民衆を中心とする被支配層とで言語が異なる二重言語国家であったことを示すものであり、この二重言語状態は高句麗と同じ夫余系言語を話す人々が韓系の言語を話す馬韓の住民を征服したことによって生じたと推定した。この推定に基づけば、『周書』以前の史書が百済の言語を高句麗とほぼ同じと記したのは、支配層の言語である夫余系百済語の方に注目したためであるということになる。
建国神話 [編集]
百済の建国神話は『三国史記』百済本紀などの朝鮮史料に様々な話が伝えられているが、いずれも高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている[4]。
- 前漢の鴻嘉3年(前18年)、高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚が百済を建国した。温祚の母は卒本扶余の王女であり、北扶余出身の礼氏の子である孺留(高句麗の第2代瑠璃明王)が太子となったため、温祚は南方に逃れ「十済」を起こした。この時、兄である沸流も一緒に南下して海浜に国を起こしたが、のちに自分の国が弟の国より繁栄していないことを恥じて自決した。結局その国も温祚の下に帰属し、百姓を受け容れたので国号は「百済」になったという。また初め百家で海を渡ってきた(百家済家)ので「百済」とした[5]、ともいう。
起源 [編集]
- 『宋書』の記録では以下のように記される。
百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣
— 『宋書』卷97・列傳第57(百済国条)
- 『梁書』の記録では以下のように記される。『南史』もほぼ同文である。
其國(百済)本與句驪在遼東之東 晋世 句麗既略有遼東 百濟亦拠有遼西 晋平二郡地矣 自置百濟郡
— 『梁書』卷54・列傳第48(百済条)
- 『周書』の記録では以下のように記される。
百濟者、其先蓋馬韓之屬國、夫餘之別種。有仇台者、始國於帶方
— 『周書』卷・列傳第(百済条)
有仇台者、篤於仁信、始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之、漸以昌盛、為東夷強國。初以百家濟海、因號百濟
— 『魏書』卷・列傳第(百済条)
- 高句麗同祖説
- 始祖仇台説
- 遼西経略説
- 『宋書』『梁書』によると、百済建国の当初の頃(建国の直前か直後?)、高句麗が遼東半島を征服した後、百済も遼西地方に進出して百済郡を設置したという。とくに『梁書』は「晋(265年 - 420年)の時」としている。(詳細は百済遼西経略説を参照)
歴史 [編集]
前期、漢城時期( - 475年) [編集]
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。 その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたとされるソウルの風納土城、夢村土城がその遺跡と考えられている。
高句麗と百済の戦争 [編集]
漢城時代の百済は拡大を続ける北方の巨人・高句麗との死闘を繰り返した。 369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策は山尾幸久の分析を踏まえたうえで、百済王が原七支刀を複製して刀を倭王に贈ったとして、この外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[10]。
近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともある。
しかし、その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。
高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。
中期、熊津時代(475年 - 538年) [編集]
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
南朝・倭国との外交関係 [編集]
東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。
新羅の台頭と遷都 [編集]
しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる[誰?]。
後期、泗沘時代(538年 - 660年) [編集]
新羅との対立 [編集]
聖王によって泗沘に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。
倭国・高句麗との同盟 [編集]
聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求め、高句麗と争っていた唐は日本からの遣唐使を黄海に面した領土を獲得した新羅経由で帰国させるようになるなど新羅の要請に応え、朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(羅唐同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
百済滅亡 [編集]
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した[11]。
百済復興運動 [編集]
唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉宮に遷った。
白村江の戦い [編集]
「白村江の戦い」を参照
帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。
唐による半島支配計画 [編集]
唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子であった扶余隆を熊津都督に任じた。
翌年の665年8月には就利山において扶余隆と新羅の文武王が劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた[12]。
後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは亡国である百済の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに高句麗最後の王宝蔵王の遼東都督任命と対比することが可能である。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国家ではなく羈縻国家として再建し、更に唐の軍事力を背景に残された新羅(鶏林大都督府・楽浪郡王)をも強引に羈縻体制に組み入れて、将来的には「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れていた可能性も指摘されている[13]。
新羅と唐の対立 [編集]
唐の支配に反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争(羅唐戦争)に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。
西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安さえ危険な状態になった唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄し、百済の故地は新羅の支配下に入った。
新羅は百済故地に残留した百済の支配層を新羅の貴族階層へ取りこんでいくことで新羅支配の実効性を確保していった。ただし、前述のように扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、唐は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた[14]。
倭国との関係 [編集]
倭国との外交関係は百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。 その反面、日本書紀には「百済は是多反覆しき国なり。道路の間すらも尚詐く[15]」と記されており、対新羅、任那をめぐっての戦略外交であったことが伺える。
朝貢関係 [編集]
また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。[16]という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。
広開土王碑でも倭について、「百殘■■新羅を破り以って臣民と為す[17]」という碑文について、「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解もある。
帰化人 [編集]
建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場する。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。
豊璋=徐豊璋の弟・善光=徐善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った
『日本書紀』には、『百済記』『百済新撰』などの遺失した百済の歴史書からの引用がある。百済からの文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとされる石上神宮に伝わる七支刀がある。また倭国から伝わった勾玉や刀剣等の装飾品が再度倭国に返還された。
また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。
兵庫県神戸市には扶余系=徐系(中国系現在の満州人に最も近い)の墓にちなんで唐柩の地名がある。
王 [編集]
歴代の王については
「朝鮮の君主一覧#百済」も参照
『周書』百済伝によれば、王を表す固有の呼称として「於羅瑕(支配層=扶余=徐系百済語における呼称)」と「鞬吉支(被支配層=韓系百済語における呼称)」の二種があり、王妃は「於陸」と呼ばれていたという。「鞬吉支」については『日本書紀』古訓に見える「百済王」の「王」の和訓のコニキシ/コキシに相当すると考えられる。なお、百済王家の子孫で日本の朝廷に仕えた者に与えられた氏姓である「百済王」も「くだらのこにきし」と呼ばれていた。
扶余族=徐族の東明伝説に因んで、百済の王族は姓を扶余=徐(ブヨ)と名乗った。だが、5世紀後半からは中国風に一字姓の余=徐(ヨ)も名乗るようになっており、扶余姓と余姓と徐姓を併用するようになっている。この併用の習慣は百済の滅亡まで続く事となる。
官制 [編集]
『三国史記』によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官名が見られる。これは高句麗における最高官位と同名であるが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。
佐平制 [編集]
百済では第8代の古尓王の27年(260年)のこととして、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15段階の官とあわせて16等からなる官制が整備されたとしているが、実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位:384年 - 385年)の頃と考えられている。第18代の腆支王の4年(407年)には六佐平の上に上佐平の官位を置いている。上佐平は軍事統帥権と国内行政権を総括するもので「宰相」に相当し、また伝説時代の「左輔・右輔」にも相当する。『日本書紀』には大佐平、上佐平、中佐平、下佐平も見え、上・中・下の佐平を総称して「三佐平」といった。大佐平は全権を委ねられた王世子で摂政のようなものらしい。
『周書』百済伝には、佐平(左平)は五人とし、各官職の帯の色(七品は紫帯、八品は皂帯、九品は赤帯、十品は青帯、十一品・十二品は黄帯、十三品以下は白帯)とし、三品以下は定員がなかったと伝えている。
- 官位
- 佐平(さへい) - 一品官。その担当する職務によって、6種類に規定される。
- 内臣佐平(ないしんさへい) - 宣納(王命の伝達)の担当
- 内頭佐平(ないとうさへい) - 庫蔵(財政)の担当
- 内法佐平(ないほうさへい) - 礼儀(儀式)の担当
- 衛士佐平(えいしさへい) - 宿衛兵(王の禁軍、近衛兵)の担当
- 朝廷佐平(ちょうていさへい) - 刑獄(司法)の担当
- 兵官佐平(へいかんさへい) - 外兵馬(対外軍事)の担当
- 達率(たつそつ) - 二品官
- 恩率(おんそつ) - 三品官
- 徳率(とくそつ) - 四品官
- 扞率(かんそつ) - 五品官
- 奈率(なそつ) - 六品官
- 将徳(しょうとく) - 七品官
- 施徳(しとく) - 八品官
- 固徳(ことく) - 九品官
- 季徳(きとく) - 十品官
- 対徳(たいとく) - 十一品官
- 文督(ぶんとく) - 十二品官
- 武督(ぶとく) - 十三品官
- 佐軍(さぐん) - 十四品官
- 振武(しんぶ) - 十五品官
- 克虞(こくぐ) - 十六品官
- 官庁
- 内官 - 前内部、穀内部、内ケイ部(ケイは「𢈴」=まだれ〈广〉に京)、外ケイ部、馬部、刀部、功徳部、薬部、木部、法部、後宮部
- 外官 - 司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舎部、綢部、日官部、市部
文化 [編集]
墳墓 [編集]
漢城時代の墳墓は、旧以前からある土壙墓・石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に良く見られ高句麗とのつながりが確認できる。熊津時代には支配者層の墓は、積石塚に代わって石室墳や塼築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室墓の典型のものである。泗沘時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。
王都とは離れた全羅南道では、百済の勢力が及んだ5世紀末から6世紀初頭のことであり、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっている。これらは馬韓の勢力の名残と推定され、日本で見られる前方後円墳型の封土墳も多く見られ、倭の影響も確認できる。
仏教 [編集]
仏教の受容については、高句麗に遅れること10年、枕流王の元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、翌年には漢山に寺を創建したことを伝えているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかってはいない。ただし、475年(文周王元)に遷都した熊川(現公州)寺院址では12寺、538年(聖王16)年に遷都した泗沘(現扶余)では26寺、そして全羅北道の益山郡では巨大な弥勒寺石塔が発掘されている。[18]
百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他に熊津時代の寺としては、公州市には水源寺址、西穴寺址、南寺址などが残っている。聖王は泗沘に遷都した後に、梁から『涅槃経』などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗沘時代の仏教が盛んであった様子が『隋書』百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。
年表
- 384年(百済枕流王1)、中国南朝の東晋より摩羅難陀が百済に仏教を伝える。
- 385年(百済枕流王2)、王都漢山に仏寺を創建して僧侶10人を度す。
- 526年(百済聖王4)、百済僧謙益がインドより天竺僧と帰国する。『五分律』を翻訳する。
- 541年(聖王19)、百済が梁に毛詩博士、経義、工匠や画師を求める。
漢字など [編集]
4世紀後半の近肖古王の時代に博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に『論語』や千字文をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国からの文物の受容に熱心であったことが窺える。
百済遼西経略説 [編集]
百済が中国の遼西地方に進出したという、いわゆる「百済遼西経略説」は、『宋書』、『梁書』などの南朝系史書から始まったものである。それによれば、『晋(265年 - 420年)の時に高句麗が遼東を占領した後(404年以降)[19]に、『宋書』によれば百済もまた遼西地方を征服して晋平郡を設置した(『梁書』では、晋平郡遼西郡の二郡を併合して百済郡[20]を置いた)』という。
実際に遼西地方を支配していた北朝系史書には関連記録が全く見られず[21]、韓国・北朝鮮以外の学界では主要な学説とは認められていない。
韓国の学界においても一般的には百済の遼西進出については否定的な見方が大勢であるが[22]、近年もなお百済の遼西進出を事実とする説は提起されている[23]、韓国の国史編纂委員会で編纂する『国史』教科書では、1990年までは百済が遼西を攻撃したと敍述していた。1990年以降は進出という表現を使って曖昧に表現している。
一方、韓国の在野史学系では、百済の遼西経略を認める方向である。中でも大陸史観を唱える人々は、百済の位置を朝鮮半島西南部ではなく黄河と長江の間に比定して、百済の遼西経略が事実だと主張する。
遼西征服の開始時期 [編集]
百済遼西経略説においては、その時期についても争点となっている。『梁書』によれば、遼西経略時期は晋の時代で、高句麗が遼東を占領した以後とされるが、高句麗と前燕が遼東の争奪戦を繰り広げたのは好太王(在位:391年 - 413年)の頃であり、わけても遼東が最終的に高句麗の手に落ちたのは404年[24]のこととみられている。ところが、この時期の百済は高句麗との戦争に敗北して58個の城を奪われるなど遼西に進出する余力はなかったと考えられるため、それ以前に高句麗が385年[25]に一時的に遼東を占有した時に百済の遼西進出があったと見る学者もいる[23]。これに対し金庠基・金哲埈・日本の井上秀雄らは百済の近肖古王が371年に高句麗を破った時、余勢を駆ってさらに北方に進出して一時的に遼西を支配[26]したと推測している。また申采浩は近仇首王の時、鄭寅普は責稽王・汾西王の時と見る。また遼西計略説の出典である中国の史書は共通して百済伝の冒頭においてその建国・起源・発祥とのかかわりで述べており、解釈によっては夫余王の尉仇台が百済の創設者とも読めることから、遼西を経略したのは百済ではなく夫余であり、遼西経略も帯方における百済建国もともに、公孫氏との同盟下で同時期になされた夫余の対外発展の一環とみる説がある[27]。以上のべたこれらすべての諸説はみな遼西経略時期を404年以前に想定している。ただしこれら以外にも実に多様な数多くの説が存在する。
遼西領有の終焉時期 [編集]
また澤田洋太郎は『南斉書』にある490年の北魏による百済侵攻が、騎兵によるものであり陸続きの地に攻め込んだように書かれていることから、この時の百済とは遼西の百済だったと推定し、帯方百済(いわゆる百済)と遼西百済は長らく並行して存在したと考えた[28]。また『梁書』に「天監元年、進太號征東將軍。尋為高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地」とあることから、後者(遼西百済)は天監元年(502年)に滅ぼされたと考えた[29]。この澤田説が正しい場合、『宋書』『梁書』のいう「高句麗が遼東半島を征服した後(404年以後)」とは遼西に進出した時期ではなく遼西を失った時期ということになる。
帰属の問題 [編集]
帰属に関する歴史論争の詳細は「東北工程」も参照のこと
中国は、歴史上中国の一部であると主張している。
満州族のルーツである女真族と扶余族のルーツは同じツングース民族であることから、民族的に同系である満州族を国民として多数抱える中国の立場として、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の公式研究書で百済に対して「(高句麗と)同様に古代中国の辺境にいた少数民族である夫余人の一部が興した政権」と記述している[30]。また、中国の歴史学者の李大龍は「百済は扶余族が建てた国なので、百済は中国民族が建てた国だ」と主張している[31]。中国の教科書の記述では、高等教育出版社『世界古代史』に「古朝鮮・高句麗・扶余は韓国の歴史ではなく、韓国史の始まりは統一新羅から」との主旨で記述している。中国の100余りの大学で使用されている福建人民出版社『中国古代史』には「扶余・高句麗・沃沮・穢貊は中国・漢代の東北地区の少数民族だ」と記述している[32]。
脚注 [編集]
- ^ a b
- ^ なお、韓国の国定教科書では建国神話にもとづいた前18年説を採用している。
- ^ 犬飼隆「古代の言葉から探る文字の道」『古代日本 文字の来た道』大修館書店,2005年,PP.74-77
- ^ 史実においても百済の起源を夫余に求める説が根強いが、この神話は扶余を起源とした歴史を反映していると考えられている。
- ^ 実際には百済という名は「馬韓の伯済国」に基づくと考えられるので、この神話は「百」という文字に付会した説話にすぎず、史実性はない。
- ^ 「遼東の東千里」三国志において高句麗の位置を説明した言葉と同じであり、百済の「高句麗起源説」とも解釈できる。
- ^ 『後漢書』は夫余王尉仇台とする。尉仇台と仇台は同一人物説、父子説、別人説などがある。夫余王の尉仇台とは無関係とする説では、伝統的に『三国史記』を中心にみる立場からは「仇台とは初代温祚王の父優台のことか」と疑われてきたが、固有名詞ではなく高句麗の官位「優台」(于台)のこととする説もある。李丙燾は「仇台も古尓も同音の当て字で仇台は第8代古尓王のこと」とする。内藤湖南は温祚王の父の「優台」という名は尉仇台が訛ったもので、『三国史記』の第6代仇首王の仇首の「首」字は「道」の略字で「仇道」と「仇台」は同音の当て字としている。ただし夫余王の尉仇台は、後漢の太守として183年に遼東に割拠した群雄公孫度(? - 205年。帯方郡を設置した公孫康の父)の娘(一説に妹)を娶り、両国は婚姻関係を結び、これによって夫余は東夷の強国となったと『後漢書』等に見える。これらの事実からすると『三国史記』の百済王で実際のところ夫余王尉仇台とほぼ同時代同世代となる人物は(同一人物か別人かはさておき)第5代肖古王である。
- ^ 帯方郡か帯方県かどちらをさすかは判然としない。原文「帯方故地」。実際には「のちの帯方にあたる地」であり、帯方故地というのは誤解。
- ^ 馬韓の伯済国か? ちなみにとみなしている。詳細は該当項目参照。「帯方故地」という原文を尊重すれば314年以後の建国となり、尉仇台と仇台は世代の異なる別人となるが、帯方郡が健在だった3世紀にすでに「伯済国」があったことが魏志に明らかであり、もし「伯済国」が百済の前身だったとするならば、帯方郡滅亡後に建国したということは考えにくい。
- ^ 浜田耕策「4世紀の日韓関係」第1回日韓歴史共同研究2005年。財団法人日韓文化交流基金、第1回日韓歴史共同研究報告書で閲覧可能(2012年1月閲覧)。釈文については第1章第2節を参照。付録としてpp.58-63.に〈日本における「七支刀」研究文献目録〉を掲載。また 九州大学 21世紀COEプログラム(人文科学)「東アジアと日本:交流と変容」HP#第3回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断ゼミ・研究会(2005/03/29)#浜田耕策「七支刀銘文の語るもの」
- ^ 「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。」
- ^ 『旧唐書』百済伝・『三国史記』新羅本紀
- ^ 筧敏生「百済王姓の成立と日本古代帝国」『古代王権と律令国家』校倉書房、2002年、P16-27
- ^ 『旧唐書』百済伝
- ^ 「百済是多反覆之国。道路之間尚詐之」
- ^ 新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
- ^ 「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」
- ^ 「南海経由仏教伝来と伽耶国の仏教関係記事」『民衆救済と仏教の歴史』(中屋宗寿、郁朋社)
- ^ 「晋の時」というのは『梁書』だが、より信頼性の高い『宋書』では時期を明確にしておらず、ただ文脈上漠然と建国当初のことと読み取れるだけである。
- ^ この「百済郡」という地名から「百済」という国名が起こったとも受け取れる。
- ^ 井上秀雄は五胡の乱以後の混乱で史料が十分に伝わっていない可能性や、百済が征服支配したのではなく遼西地方との同盟程度の関係の可能性をあげている。
- ^ 유원재, 〈"백제 략유(略有)요서" 기사의 분석〉, 《백제사의 이해》, 학연문화사, 1991 (ユウォンジェ、「"百済略有遼西" 記事の分析」、『百済史の理解』、ハギョン文化社、1991)
- ^ a b 강종훈, 〈4세기 백제의 遼西 지역 진출과 그 배경〉, 《한국고대사연구》30, 한국고대사학회, 2003 (カンジョンフン、「4世紀百済の遼西地域進出とその背景」、『韓国古代史研究』30、韓国古代史学会、2003)
- ^ 404年は百済では阿莘王の時代に相当する。
- ^ 百済では枕流王の時代に相当する。
- ^ 井上は領有や支配とは限らず遼西方面の小勢力との同盟という程度もありうる、とかなり控えめな想定もしている。
- ^ この説の場合、公孫氏の滅亡とともに遼西経略は消滅し、百済も馬韓の一国に一時的に転落したということになる。
- ^ 『魏書』その他に記録なく、『南斉書』独自の不自然な記事として、通説ではこの記録自体に信憑性がないとされる。
- ^ 通説では「天監元年、進太號征東將軍」で切って読み、続く「高句驪所破、衰弱者累年、遷居南韓地」は475年に高句麗に攻められた百済が熊津に南遷した史実のことであり、書かれた位置が前後しているだけだとされる。
- ^ 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院『朝鮮日報』2007年6月4日
- ^ ああ、高句麗東亜日報 2007年8月18日
- ^ 【歴史】中国の大学教材も「高句麗・扶余は中国史の一部」『朝鮮日報』2006年8月9日
関連項目 [編集]
- 後百済
- 羅済同盟
- 麗済同盟
- 百済史年表
- 百済考古遺跡
- 古代朝鮮半島関連の中国文献
- 百済駅・百済貨物ターミナル駅(大阪市にあるJR貨物の貨物駅で、後者が現名称。付近に百済からの渡来人が生活していたと言われていた名残の旧地名に由来している。また、百済貨物駅が開業する以前、現在のJR西日本関西本線東部市場前駅に相当する旅客駅として存在していた百済駅があった)
- 百済バス停(大阪市営バスの9号系統、13号系統、30号系統が経由している。百済駅と同じく付近の旧地名に由来している。)
参考文献 [編集]
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社〈新版世界各国史2〉、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
外部リンク [編集]