百済
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| 百済 | |
|---|---|
三国時代の地図、5世紀終わり頃 |
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| 各種表記 | |
| ハングル: | 백제 |
| 漢字: | 百濟 |
| 平仮名: (日本語読み仮名) |
くだら、ひゃくさい |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
ペクチェ |
| ラテン文字転写: | Baekje |
百済(くだら/ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(346年[1] - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代という。新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。なお、日本語における呼称「くだら」の由来は不明であるが、古くは「くたら」と清んで発音していたらしい。[2]
目次 |
[編集] 歴史
百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する(『晋書』「慕容載記」)。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。『三国史記』では紀元前18年の建国とするが、民族教育のため用いられた韓国・北朝鮮以外では史実として採用されていない。 通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であろうとされているが詳細は不明である。
[編集] 民族と言語
百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。同書は百済の言語はほぼ高句麗と同じと記し、『魏書』もそれを踏襲したが、『周書』は、百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している。民族は高句麗の遺民集團が支配階級を形成し夫余系統でありその後の歴史の過程で、日本(倭)人との婚姻も繰り返された。臣と高句麗は源は夫余より出る」との文より百済と高句麗は同属であると考えられていた。
[編集] 建国神話
- 中国の史料の伝える伝説
- 『後漢書』『宋書』『梁書』『南史』『隋書』などが採録した百済建国伝説をまとめると、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったというが、これは玄菟郡の設置から廃止までの経緯により先住民が高句麗と夫餘の二系統にわかれたことをいうのであろう。さて、その夫餘には、尉仇台という夫餘の王がいた。後漢の太守として183年に遼東に割拠した群雄公孫度(?~205年。帯方郡を設置した公孫康の父)は、娘(一説に妹)をこの夫餘王尉仇台に嫁がせ両国は婚姻関係を結んだ。これによって夫餘は東夷の強国となったと書かれている(『隋書』百済伝)。この尉仇台(仇台ともいう)が、かつての帯方郡だった地(原文「帯方故地」。実際には「のちの帯方郡にあたる地」であり、帯方故地というのは誤解)に国を建てた(馬韓の伯済国か? ちなみに尉仇台と仇台は同一人物説、別人説、祖父と孫説などがあるが『後漢書』は同一人物とみなしている。詳細は該当項目参照。「帯方故地」という原文を尊重すれば314年以後の建国となり、尉仇台と仇台は世代の異なる別人となるが、帯方郡が健在だった3世紀にすでに「伯済国」があったことが魏志に明らかであり、もし「伯済国」が百済の前身だったとするならば、帯方郡滅亡後に建国したということは考えにくい)
- また晋時(317〜420年)に高句麗が遼東を占領した頃(404年)に、百済もまた遼西・晋平の2郡を平定した(あるいは百済郡を置いた、またはその郡治は「晋平郡晋平県」ともいう)という。
[編集] 前期、漢城時期( - 475年)
百済の起源は謎に包まれており、中国の同時代史料で実在が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の巨人・高句麗との死闘を繰り返した。近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は広開土王碑文に記されている。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。
[編集] 中期、熊津時代(475年 - 538年)
王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。
ただ過去の百済の記録を多く採用している『日本書紀』の雄略紀によれば、高句麗に漢城を攻め落とされた時に百済は一度滅び(475年)、その後(477年)に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って国を再興させたとある。
[編集] 後期、泗沘時代(538年 - 660年)
聖王によって泗沘に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。東アジアの歴史は「高句麗-百済-倭国」と「唐-新羅」のブロックが対立する構図へと傾斜していく。
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。
[編集] 百済復興運動
唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉宮に遷った。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。唐は平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、これに反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安さえ危険な状態になった唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄し、百済の故地は新羅の支配下に入った。
[編集] 倭国との関係
倭国との外交関係は、高句麗・新羅に比べて友好的であった。百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために和通したと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。また中国の『隋書』にも、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。(新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來)という記述があり朝貢関係があったことをうかがわせる。さらに、広開土王碑でも倭について、百済■■新羅を破り以って臣民と為す(「倭ロ<耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民」)という部分があり百済が辛卯年(391年)に倭によって支配を受けていたことも明らかとなっており主従関係が存在しており、倭の重臣と百済との間で家臣上下に関わる席順の取り合いのエピソードも残されている。 また王族については。百済の王族は倭によってその婚姻が決められており中国ーツングース系と倭人との混血が繰り返された。基本的に百済王の后が倭人の中から選ばれ、その王子が王位に付くまでの間、倭が王子を人質として扱った。
『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。有名な文化財には、軍事的援助の礼として倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。
百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。また兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。
[編集] 王
『周書』百済伝によれば、王を表す固有の呼称として「於羅瑕(支配層=扶余系百済語における呼称)」と「鞬吉支(被支配層=韓系百済語における呼称)」の二種があり、王妃は「於陸」と呼ばれていたという。「鞬吉支」については『日本書紀』古訓に見える「百済王」の「王」の和訓のコニキシ/コキシに相当すると考えられる。なお、百済王家の子孫で日本の朝廷に仕えた者に与えられた氏姓である「百済王」も「くだらのこにきし」と呼ばれていた。
扶余族の東明伝説に因んで、百済の王族は姓を扶余(ブヨ)と名乗った。だが、5世紀後半からは中国風に一字姓の余(ヨ)も名乗るようになっており、扶余姓と余姓を併用するようになっている。この併用の習慣は百済の滅亡まで続く事となる。
歴代の王については
「朝鮮国王の一覧#百済」も参照
[編集] 官制
『三国史記』によれば、始祖温祚王の時代から左輔・右輔の官名が見られる。これは高句麗における最高官位と同名であるが、高句麗では新大王のときから国相が最高官位となった。百済では第8代の古尓王の27年(260年)のこととして、一品官の六佐平(各種事務の担当長官)とそれに続く15段階の官とあわせて16等からなる官制が整備されたとしているが、実際に佐平制の雛形が整ったのは第15代枕流王(在位:384年 - 385年)の頃と考えられている。第18代の腆支王の4年(407年)には佐平の上に上佐平の官位を置いている。
『周書』百済伝には、佐平(左平)は五人とし、各官職の帯の色(七品は紫帯、八品は皂帯、九品は赤帯、十品は青帯、十一品・十二品は黄帯、十三品以下は白帯)とし、三品以下は定員がなかったと伝えている。
- 官位
- 佐平(さへい) - 一品官。その担当する職務によって、6種類に規定される。
- 内臣佐平(ないしんさへい) - 宣納(王命の伝達)の担当
- 内頭佐平(ないとうさへい) - 庫蔵(財政)の担当
- 内法佐平(ないほうさへい) - 礼儀(儀式)の担当
- 衛士佐平(えいしさへい) - 宿衛兵(王の禁軍、近衛兵)の担当
- 朝廷佐平(ちょうていさへい) - 刑獄(司法)の担当
- 兵官佐平(へいかんさへい) - 外兵馬(対外軍事)の担当
- 達率(たつそつ) - 二品官
- 恩率(おんそつ) - 三品官
- 徳率(とくそつ) - 四品官
- 扞率(かんそつ) - 五品官
- 奈率(なそつ) - 六品官
- 将徳(しょうとく) - 七品官
- 施徳(しとく) - 八品官
- 固徳(ことく) - 九品官
- 季徳(きとく) - 十品官
- 対徳(たいとく) - 十一品官
- 文督(ぶんとく) - 十二品官
- 武督(ぶとく) - 十三品官
- 佐軍(さぐん) - 十四品官
- 振武(しんぶ) - 十五品官
- 克虞(こくぐ) - 十六品官
- 官庁
- 内官 - 前内部、穀内部、内ケイ部(ケイはまだれ[广]に京)、外ケイ部、馬部、刀部、功徳部、薬部、木部、法部、後宮部
- 外官 - 司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、外舎部、綢部、日官部、市部
[編集] 文化
漢城時代の墳墓は、旧以前からある土壙墓・石槨墳に対して支配者層の積石塚が見られる。積石塚は高句麗に良く見られ高句麗とのつながりが確認できる。熊津時代には支配者層の墓は、積石塚に代わって石室墳や塼築墳が採用されるようになった。1971年に発見された武寧王陵は横穴式石室墓の典型のものである。泗沘時代には長方形の石室墓が広く流行し、山の中腹に墳墓が設けられるようになった。
王都とは離れた全羅南道では、百済の勢力が及んだ5世紀末から6世紀初頭のことであり、それ以前には甕棺墓を基本とする文化圏が広がっている。これらは馬韓の勢力の名残と推定され、日本で見られる前方後円墳型の封土墳も多く見られ、倭の影響も確認できる。
仏教の受容については、高句麗に遅れること10年、枕流王の元年(384年)に東晋から胡僧の摩羅難陀を迎えたこと、翌年には漢山に寺を創建したことを伝えているが、4世紀末の仏教遺跡は見つかってはいない。百済の寺名がはっきりと現れるのは熊津時代の大通寺であり、聖王の時代の建立と考えられている。他に熊津時代の寺としては、公州市には水源寺址、西穴寺址、南寺址などが残っている。聖王は泗沘に遷都した後に、梁から『涅槃経』などの経典、工匠・絵師などを下賜され、積極的に仏寺の造営をすすめた。王興寺・定林寺・軍守里廃寺などの寺址が扶余郡で発見されており、泗沘時代の仏教が盛んであった様子が『隋書』百済伝に「有僧尼多寺塔」と記されていることを裏付けている。
4世紀後半の近肖古王の時代に博士高興(こうこう)を得て初めて漢字に触れ、その後には王仁が倭に『論語』や千字文をもたらしたと伝えられるように、百済では早くから漢文・古典に習熟していたとみられている。聖王の時代に梁から下賜されたものには、仏教経典とならんで毛詩博士が記されているように、中国からの文物の受容に熱心であったことが伺える。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献と外部リンク
- 『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
- 『三国史記』第3巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫454〉、1986 ISBN 4-582-80454-3
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