足利直義

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足利 直義
神護寺三像の一つ、伝源頼朝像。
現在は足利直義像とする説が有力である[1]
時代 鎌倉時代末期 -室町時代南北朝時代)前期
生誕 徳治2年(1307年)(古説:徳治元年(1306年))[注釈 1]
死没 正平7年2月26日[注釈 2]1352年3月12日
改名 幼名不詳→高国(初名)→忠義→直義→慧源(号)
別名 下御所、錦小路殿、三条殿、高倉殿、副将軍
神号 大倉宮
戒名 大休寺古山恵源
墓所 神奈川県鎌倉市浄明寺の浄妙寺
官位 従五位下・兵部少輔、左馬頭正五位下、
相模守、従四位下、従四位上・左兵衛督従三位
従二位、贈正二位
幕府 鎌倉幕府室町幕府
主君 足利貞氏足利高氏(尊氏)→後醍醐天皇光明天皇光厳上皇崇光天皇光厳上皇後村上天皇[注釈 3]崇光天皇光厳上皇
氏族 河内源氏義国足利氏
父母 父:足利貞氏、母:上杉清子
兄弟 高義尊氏直義、源淋(田摩御坊)[注釈 4]
正室?:本光院渋川貞頼の娘)
如意丸(如意王)[注釈 5]
養子:直冬
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足利 直義(あしかが ただよし)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将公卿・政治家・歌人。鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏の三男[2]。兄に足利高義足利尊氏がいる。室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟。養子に直冬

元弘の乱で兄の尊氏に従って北条氏から離反し、後醍醐天皇や兄と共に鎌倉幕府を滅ぼした。建武の新政では兄と同様、後醍醐から多大な恩賞を受け、後醍醐皇子の成良親王を奉戴して鎌倉将軍府の事実上の長を務めた。中先代の乱では北条時行に敗退し、鎌倉撤退の混乱の中、後醍醐皇子で前征夷大将軍護良親王を殺害した。建武の乱湊川の戦いでは足利方陸軍の主将を務め、陸軍副将の高師泰と共に建武政権軍の名将楠木正成を討ち取る武功をあげた。

室町幕府草創期においては、「三条殿」と称されて実質的な幕政の最高指導者となり、公卿の地位に登った。卓越した政治的手腕によって幕政の礎を築き、北朝光厳上皇との関係強化にも努め、厚い信頼を得た。是円らによる幕府基本法『建武式目』も直義の意向が大きく反映されているとされる。政策は保守的で、鎌倉幕府の古法を多く模倣した。その後、革新派の執事高師直との間で、政策や養子の直冬の処遇を巡る対立関係が発生、観応の擾乱という武力闘争に発展し、最終的に薩埵峠の戦いで実兄の尊氏に敗れた。鎌倉に蟄居の後、政敵の師直が暗殺された丁度一年後という日付に急死を遂げた。

冷静沈着・実直な人間であったとされ[注釈 6]、室町幕府の成立は名政治家である直義の手腕に大きな部分を負っている。禅宗を篤く敬って庇護し、 臨済宗高僧の夢窓疎石(夢窓国師)との対話は『夢中問答集』として出版された。また後醍醐帝鎮魂のため、尊氏・夢窓・光厳と共に天龍寺を創建した。兄に次ぐ優れた武家歌人でもあり、『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に26首が入集した。

生涯[編集]

誕生[編集]

次兄の高氏(尊氏)と同じく父・足利貞氏の側室である上杉清子が産んだ子で、母は北条氏ではない。

生年は古くは『公卿補任貞和5年(1349年)条等から徳治元年(1306年)とするのが通説だった[4]。しかし、『三宝院賢俊僧正日記』の暦応5年(1342年)2月条に「三条殿 卅六 丑未」とあり、これにしたがえば逆算して徳治2年(1307年)となり、通説とは1年異なる[5]。賢俊という尊氏・直義兄弟に近い人物による証言であり、さらに「門葉記130」(『大正新脩大蔵経 図像12』)という傍証もある[5]。2010年代時点で新説の徳治2年(1307年)説を採用する研究者には、森茂暁[5]清水克行[6]亀田俊和[4]等がおり、森・亀田は新説が有力であると述べている[4][5]

倒幕から幕府創設まで[編集]

足利氏の慣例に従い、二人の兄同様に初めは、得宗鎌倉幕府執権)・北条高時より賜った偏と祖先にあたる源義国の一字により高国(たかくに)と名乗るが、桓武平氏を称した北条氏(本来であれば家格が劣る)が実権を握る幕府に叛旗を翻した後は、河内源氏の通字である「義」を用いた忠義(ただよし)、直義(ただよし)に改名する。正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、兄の高氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加する。

建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉将軍府将軍成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築く。建武2年(1335年)、中先代の乱が起こり、高時の遺児時行信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢(現東京都町田市本町田)の合戦にて反乱軍を迎撃するが敗れる。反乱軍が鎌倉へ迫ると、幽閉されていた護良親王を配下の淵辺義博に命じて混乱の中で殺害させ、足利氏の拠点となっていた三河国矢作(愛知県岡崎市)へと逃れた[7][8][9]。もっとも、成良親王は無事に京都に送り返されており、護良親王殺害も建武政権の立場に立った行動であった[10]

同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還する。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映したとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏は赦免を求めて隠棲する。直義らは駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区)で義貞を迎撃するが敗北する(手越河原の戦い)。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃する。足利軍は入京したものの、建武3年(延元元年/1336年)に陸奥国から上洛した北畠顕家楠木正成、新田義貞との京都市街戦に敗れる。再入京を目指すも、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走する(豊島河原の戦い)。道中の備後国鞆の浦にて光厳上皇院宣を得て、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを撃破するなど、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦い兵庫県神戸市)で新田・楠木軍を破って再び入京する。

二頭政治から観応の擾乱へ[編集]

持明院統光明天皇が即位し光厳上皇が院政を開始。足利尊氏明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへの諮問のもと『建武式目』を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。暦応元年(1338年)に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。

暦応4年(1341年3月24日には、出雲隠岐両国守護の有力武将塩冶高貞を謀反人と責め、桃井直常山名時氏を主将とする追討軍を派兵して数日のうちに自害に追い込んだ(『師守記』暦応4年3月25日条および29日条)[11][12][13]鈴木登美恵亀田俊和らの主張によれば、高貞謀反が事実の可能性は十分にあり、皇族早田宮出身という説もある妻を介して、義弟(義兄?)に当たる南朝公卿で九州方面軍を指揮する源宗治らと内通していたのではないかという[12][13]

しかし、貞和4年(1348年)頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、貞和5年(1349年)に師直とその兄弟の師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、三条坊門殿の邸宅を鎌倉から上洛してきた足利義詮に譲って恵源(えげん)と号した。

観応元年(1350年)、尊氏・師直らが直義の養子直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。しかし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている[14]

一方、京都の北朝は直義追討令を出すに至る。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、観応2年(1351年)に播磨国光明寺城光明寺合戦)や摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で尊氏方を破る(打出浜の戦い)。尊氏方の高師直師泰兄弟とその一族は2月26日、直義派の上杉能憲に殺害された。

師直兄弟を闇討ちで排除した後は、尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰したが、尊氏・義詮父子との仲は良くならず、ついに尊氏父子は出陣と称して京都から出ていきそれぞれ近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めた。それを見た直義は8月1日に京都を脱して北陸信濃を経、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。これに対して尊氏父子は南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令を出してもらう。

しかし、駿河国薩埵山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで尊氏に連破され、正平7年(1352年1月5日、鎌倉にて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、同年2月26日に急死した。『太平記』巻第三十では「俄に黄疸と云ふ病に犯され、はかなく成らせ給ひけりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給ひけるとぞささやきける」と、毒殺の噂が流れたことを記述している。研究者の中には毒殺説を支持するものも多いが、峰岸純夫亀田俊和は自然死であると見ている[15]。 直義が没した日は奇しくも、自身の宿敵であった高師直師泰兄弟の一周忌に当たり、早世した実子・如意丸(如意王)の一周忌の翌日でもあった。享年47。

観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた[16]。ただし、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。

なお、尊氏はその死の直前の延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。その後、年月日は不詳であるが更に正二位を追贈された[17]康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号が贈られ、「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡宮(現・御所八幡宮社)を創建して祀った他、直義が失脚後に滞在していた綾小路邸にも祀った。さらに天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられている[18]

人物[編集]

性格[編集]

尊氏が激しい感情の起伏がある人物とされるのに対し、直義は冷静沈着であったとされる。また『太平記』などでは汚いやり口を嫌う兄の尊氏に代わって自ら手を汚す役割を務めたとされており、同書では親王の殺害や天皇との折衝における背反行為などは尊氏ではなく、直義が果たしたものとされている。

尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話は有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を嫌った、と言われている(『太平記』)。

直義は足利一門の渋川貞頼の娘を正室とした他に側室を迎えなかった。二人の間には長く子が生まれず、尊氏の庶子直冬を養子にしたが、夫婦ともに40歳を過ぎてから思いがけず男子(如意丸(如意王))が誕生した。このことが直義に野心を芽生えさせたと『太平記』は描いている。

政治家として[編集]

降伏した後醍醐から光明に三種の神器が引き渡され、武家政権(室町幕府)が開始するにあたり、その基本方針を示す建武式目が制定されたが、その内容は直義の意思を反映したものだと言われる。

1338年、尊氏が征夷大将軍に就くと、直義は左兵衛督に任ぜられ、「征夷将軍と武衛将軍、兄弟両将軍」と称せられた(「武衛将軍」は兵衛督の唐名)。副将軍とも言われる。

数々の武功を立てた土岐頼遠が光厳上皇に狼藉を働いて捕らえられた際、頼遠の軍才や数々の武功を惜しんで助命を嘆願する声が上がり続けても、朝廷の権威を重んじる直義は断固として耳を貸さずに頼遠を斬首した。光厳上皇の権威を軽視ないし否定することは、上皇から征夷大将軍を与えられた尊氏と、そして室町幕府の権威をも否定することになりかねず、情に流されない冷徹な判断によるものであった。もっとも一方では頼遠の武功に免じて、土岐家そのものは取り潰さず彼の甥に継がせて存続させているなど、現実的な折衝を試みている。

観応の擾乱において将軍尊氏と対立した後も、一貫して幕府と北朝の正統性を擁護し続けた。直義と南朝との和議交渉を記録した「吉野御事書案」(『群書類従』所収)において、直義勝利の暁には幕府は北朝の解体と大政奉還をすべきであると要求する南朝側に対して、実際に天下の秩序を守っているのは幕府を筆頭とした武士である、それに北朝にこそ三種の神器があるので北朝が正統であるから、南朝こそ要求に従って無条件で京都に帰還すべきであると直義は論じ、和議後も両者の相互不信は続いた。その後、尊氏が南朝と和議を交渉した際に、直近の課題である直義討伐を優先して南朝側の要求を全面的に受け入れて「降伏」し、南朝は京都に進出して北朝を廃し、尊氏に直義討伐を命じた。直義は幕府の正統性を守ろうとして却って幕府の首長(将軍)である尊氏との外交戦争に敗れることになり、諸国の武士からはもちろん大高重成のような側近からも離反される結果を招いた。

尊氏との関係[編集]

観応の擾乱で天下を巻き込んで争った尊氏と直義だが、2歳違いの同母兄弟ということもあって元来仲はすこぶる良かった。幕府滅亡後の鎌倉を預かっていた直義が中先代の乱で敗走したときには、尊氏は後醍醐天皇勅許を得ぬまま軍勢を催して東国に下り、直義を救援した。

直義は、乱の平定後帰京しようとする尊氏を説き鎌倉に留まらせた。これを警戒する反尊氏派の運動によって追討令が出ると、尊氏は後醍醐の恩を思い出家して恭順の意を示そうとするが、直義らは尊氏の罪を一切許さないとする偽の綸旨まで示して翻意させようとした。さらに軍勢を率いて西上した直義らが敗北すると、これを救うべく尊氏もついに官軍に立ち向かうことになった。このように建武政権に対抗し、積極的に武家政権の再興を推し進めたのは直義以下の武士たちで、弟想いの尊氏は板挟みの末に後醍醐に反旗を翻す決断に至ったといえる。

京都を手中に収めた足利方の推す光明天皇が践祚してわずか2日後、尊氏が石清水八幡宮に奉納した願文には「尊氏に道心給ばせ給候て、後生助けさせおはしまし候べく候。猶々、とく遁世したく候。道心給ばせ給候べく候。今生の果報に代へて、後生助けさせ候べく候」とある。持明院統の天皇・上皇を擁して逆賊の名を一応逃れたとはいえ、後醍醐を逐ったことは尊氏を沈鬱にし、出家遁世の志を起こさせた。これに続けて「今生の果報をば、直義に給ばせ給ひて、直義安穏に守らせ給候べく候」と、弟想いの心情が現れるとともに、新たな政治の現実は直義が担っていくものという意識も滲ませている。

教養[編集]

兄の足利尊氏には及ばないとはいえ、武家歌人としては兄に次ぐ和歌の力量を持っていた[19]。特に、兄が隠居していた康永貞和年間(1342年 - 1350年)のころは、直義が武家歌壇を統率する存在だった[19]。『風雅和歌集』以下の勅撰和歌集に、26首が入集している[20]

和歌における直義の主要業績は、武家歌人として史上初めて政治を詠んだ歌が勅撰和歌集に収録されたことである[21]鎌倉時代までは武人の政治詠歌は勅撰集にとられない慣例だったが、光厳上皇親撰による『風雅和歌集』で慣例を破って直義の政治詠歌が入集した[21]。この背景には、光厳上皇個人から直義への大きな信頼があったことや[22]北朝が幕府への依存を強めていく当時の政治状況があったことなどがあると指摘されている[21]

宗教政策においては、禅宗を手厚く庇護した[23]。政治上は禅僧の夢窓疎石との関わりが深く、天龍寺造営のために貿易船である天龍寺船を派遣した。また、夢窓との対話は『夢中問答集』として刊行されている[23]。ただし、信仰的にも夢窓に深く崇敬した後醍醐天皇や兄の尊氏とは違い、直義個人としてはそこまで夢窓を高く評価していなかったようである[23]。夢窓疎石に始まる夢窓派は旧仏教とも親和性の高い折衷主義的な禅風をとっていたが、直義は純粋禅である無学祖元に始まる仏光派に帰依しており、その点で不満を抱いていたという[23]

『太平記』の祖形となった史書の誤りを訂正させた話なども伝えられる。

官歴[編集]

足利直義(勝川春亭画)

※日付=旧暦

偏諱を与えた人物[編集]

直義時代
前述の通り直義が副将軍(征夷副将軍)であったことから、二頭政治・観応の擾乱期で直義派であった人物を中心に偏諱を賜っている者がいた。「直」の字は直義の読みに合わせて「ただ」と読むが、一部で「なお」と読まれる説もある(直義派から離れた際に読みを改めたとも考えられる)。
直義派
その他
上記のほか、擾乱期の動向・去就が不明な者や尊氏派についた者のなかにも諱に「直」の字がついた者が散見されるが、同時代の人物であることから可能性は高く、擾乱期に直義派でなくても尊氏と直義がまだ対立関係にない段階で直義から1字を受けたと考えれば決して矛盾ではない。特に「ただ」と読む(説がある)者に関しては可能性が極めて高い。

主な登場作品[編集]

小説
  • 安部龍太郎「兄の横顔」(文藝春秋『室町花伝』/文春文庫『バサラ将軍』収録、1995年)
テレビドラマ
  • 太平記』(1991年 NHK大河ドラマ) 演:高橋守→高嶋政伸
    • 同作では毒殺説を採用しているが、足利家を一つにまとめるため、あえて兄・尊氏からの毒を飲んだという独自の解釈を用いた。
漫画

画像集[編集]

関連文献[編集]

  • 亀田俊和 「足利直義下文の基礎的研究」(鎌倉遺文研究会編集 『鎌倉遺文研究』第34号、吉川弘文館、2014年10月20日、pp.57-76、ISBN 978-4-642-09279-1
  • 櫻井彦; 樋口州男; 錦昭江 編『足利尊氏のすべて』新人物往来社、2008年9月。ISBN 978-4-404-03532-5 
  • 森茂暁 「足利直義発給文書の研究 ─いわゆる「二頭政治」の構造」─」(福岡大学人文論叢編集委員会編集 『福岡大学人文論叢』第45巻第4号(通巻第179号)、福岡大学研究推進会、2014年3月20日)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 生年は古くは徳治元年(1306年)とするのが定説だったが、考証の発展により2010年代時点でおおむね改められている。本文参照。
  2. ^ a b 直義の死没日の元号について、南北朝時代はほとんどの期間、元号が南朝と北朝で分かれていたが、直義は正平の一統により正平に統一された時期に薨去している。直義の没後すぐに再び南北朝に分かれたが、復活した北朝元号としては観応3年及び文和元年に当たる。
  3. ^ 観応の擾乱中に一時的に南朝に降ったことがある。
  4. ^ 兄高義の子とする説もある。
  5. ^ 直義が甥の直冬を養子に迎えた後、1347年に誕生した直義の実子。しかし1351年、観応の擾乱の最中に早世した。
  6. ^ ただし、日本史研究者の亀田俊和は、直義の冷静さは室町幕府成立後に指導者として後天的に身に着けた立ち振る舞いであり、本来は明朗快活な人間であったのではないか、と主張している[3]

出典[編集]

  1. ^ NHK「BS歴史館 疾走!足利尊氏 南北朝の扉を開く!?」45⁻46分(呉座勇一等出演)
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 30頁。
  3. ^ 亀田 2016, pp. 76–79.
  4. ^ a b c 亀田 2016, p. 1.
  5. ^ a b c d 森 2017, §1.1.5 弟足利直義.
  6. ^ 清水 2013, p. 22.
  7. ^ 「市のあゆみ」岡崎市
  8. ^ 「1-3 岡崎市の沿革」岡崎市
  9. ^ 「沿革」岡崎市
  10. ^ 阪田雄一 著「中先代の乱と鎌倉将軍府」、佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会』岩田書院〈中世東国論:5〉、2012年。ISBN 978-4-87294-740-3 
  11. ^ 『大日本史料』6編6冊694–696頁.
  12. ^ a b 鈴木, 登美恵太平記「塩冶判官讒死之事」をめぐって」『中世文学』第26巻、中世文学会、1981年、29–35頁、doi:10.24604/chusei.26_29  pp. 32–34.
  13. ^ a b 亀田俊和『高師直 室町新秩序の創造者』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 406〉、2015年。ISBN 978-4642058063 室町幕府初代執事高師直>北畠顕家との死闘>塩冶高貞の討伐
  14. ^ 森 2007, pp. 116–117.
  15. ^ 呉座 2018, p. 127.
  16. ^ 瀬野 2005, p. 93.
  17. ^ a b 『綱光公記』文安5年(1448年)9月29日条
  18. ^ 森 2015, p. 17.
  19. ^ a b 亀田 2016, p. 106.
  20. ^ 亀田 2016, p. 107.
  21. ^ a b c 亀田 2016, p. 108.
  22. ^ 深津睦夫 『光厳天皇:をさまらぬ世のための身ぞうれはしき』2014年 ミネルヴァ書房
  23. ^ a b c d 亀田 2016, pp. 111–113.
  24. ^ 足利高氏(足利尊氏)の家臣団と軍団。外様守護大名(その2 西国編) - 天下侍魂‐将を語る‐武家家臣団研究。

参考文献[編集]

評伝
主要文献

関連項目[編集]