伯耆国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
伯耆国
地図 令制国 伯耆国.svg
-伯耆国
-山陰道
別称 伯州(はくしゅう)
所属 山陰道
相当領域 鳥取県中部・西部
諸元
国力 上国
距離 中国
6郡48郷
国内主要施設
伯耆国府 鳥取県倉吉市伯耆国庁跡
伯耆国分寺 鳥取県倉吉市(伯耆国分寺跡)
伯耆国分尼寺 (推定)鳥取県倉吉市
一宮 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町
テンプレートを表示

伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。

概要[編集]

同じ鳥取県に含まれる因幡国よりも島根県に含まれる出雲国と、古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多いため、雲伯という地域区分がある。

また、中国地方最高峰の大山を境にして、東伯(県中部)と西伯(県西部)に分かれ、方言や文化などに違いが見られる。

「伯耆」の名称と表記[編集]

藤原宮跡から出土した戊戌年(文武天皇2年・698年)6月の年月が記された木簡に、「波伯吉国」とある。7世紀代の古い表記を多く残す『古事記』では、これと別の伯伎国という表記が見える。平安時代編纂だがやはり古い表記を残す『先代旧事本紀』には、波伯国造が見える[1]

領域[編集]

明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。

沿革[編集]

古墳時代以前には古代出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓が築かれており、『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。弥生時代より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。登場する最古の文献は、『古事記』であり伊邪那美神の埋葬地「出雲と伯耆の堺の比婆の山」であり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くに比定される。古墳時代以降、律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。前述したとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人大原安綱を輩出した。

国内の施設[編集]

国府[編集]

国府は久米郡にあった。遺跡は現在の倉吉市国府(こう)で見つかっている[2]

国分寺[編集]

伯耆国分寺跡
国衙跡の東へ約300メートルほど離れたところにあり、尼寺跡は、僧寺と尼寺[3]は離れて建立するように定められているが、北へ約50メートルと近接している。

神社[編集]

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す小社6座6社が記載されている。大社はない。
総社一宮以下

地域[編集]

[編集]

  • 河村郡:東伯東端に位置し、因幡・美作と境を接する。
  • 久米郡:東伯中央部で伯耆国の国府・国分寺・国分尼寺がおかれていた。美作と境を接する。
  • 八橋郡:東伯西端に位置。
  • 汗入郡:西伯北東部。
  • 会見郡:西伯北西部で、出雲と境を接する。
  • 日野郡:西伯西南部で、備中・備後・美作と境を接する。

荘園[編集]

江戸時代の藩[編集]

人物[編集]

国司[編集]

伯耆守[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

室町幕府[編集]

国人[編集]

河村郡
久米郡
八橋郡
汗入郡
会見郡
日野郡

戦国大名[編集]

織豊大名[編集]

武家官位としての伯耆守[編集]

伯耆国の合戦[編集]

国おこし[編集]

2012年3月より、地元NPO・行政が連携して「謎の伯耆。(謎のほうきサイト)」(伯耆の国ブランディングサイト)を開設し、再び伯耆の国として売り出して当該地域の認知を促進するキャンペーンを行っている。

脚注[編集]

  1. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・22頁。
  2. ^ 国衙跡は、倉吉平野のほぼ中央で、標高40メートルほどの丘陵上に位置する。発掘調査は1973年昭和48年)秋に国庁裏で柱穴が見つかったのが契機で、1978年(昭和53年)まで実施された。国衙跡は幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって東西273メートル、南北149メートルの長方形に区画され、その東辺に東西51メートル、南北149メートルの張り出し部が設定されていた。区画のほぼ中央部に儀礼を行う国衙政庁(国庁)が設けられ、周辺に曹司(そうし)建物郡が配置されていた。発掘された遺構は、掘立柱建物・礎石・門・塀・道路・築地条遺溝・溝・土壙など多数で、8世紀中頃から10世紀の間に四時期の変遷が確認されている。 一期は8世紀中頃から末期まで。東西84メートル、南北95メートルに掘立柱塀によって区画され、南門・前殿・正殿・後殿と並び、正殿の東西に細長い脇殿とその南側に楼閣風建物を配置している。建物は全て掘立柱建物で、正殿を中心にコの字形に配置している。 二期は9世紀初頭頃。南門・前殿・正殿・後殿を同じ位置で建て替え、東西両脇殿の北側に楼閣風総柱建物を新たに設けている。 三期は9世紀中頃。国庁の外周に幅2メートル、深さ1メートルほどの溝を掘り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北108メートルに区画している。そして、南門以外の建物を礎石建物にかえ、前殿を取り払い、正殿までを石敷にし広くしている。 真田廣幸「律令制下の因幡・伯耆」 内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門『鳥取県の歴史』山川出版社 2003年 50-55ページ
  3. ^ 法華寺畑遺跡は国庁跡の北東400メートルに位置する。1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)にかけて発掘調査が行われた。区画の広さは約150メートル四方、四周は幅約1.5メートル・深さ約1メートルの溝で囲まれ、各辺の中央に張り出し、門を設けている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]