藤原京

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藤原京条坊(拡大してご覧ください)
内裏跡

藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市に所在する日本史上最初で最大の都城である。また、日本史上最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。また、宮の主要建築物は礎石建築で、はじめて瓦を葺いたと考えられている。 この都城は、周礼が説く思想を表していたとされている。

概要[編集]

690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(慶雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。このことは藤原宮の発掘調査からも明らかになっている。藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には、一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地では、まず全域に格子上の街路を建設し、そののちに、宮城の位置と範囲を決定して、その分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。

日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。

遷都日時については、一説に持統天皇は旧暦12月6日ユリウス暦12月27日)の昼前に飛鳥浄御原宮を発ち遷行された、とされる。710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間、日本の首都であった。扶桑略記によれば、711年(和銅4)に宮が焼けたとされている。

名称[編集]

藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、が「藤原宮」と呼びわけられている。

規模・京域[編集]

藤原宮跡の西

藤原京は当初、大和三山の内側にあると想像されていた。東西1.1km、南北3.2kmとみられていたが、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定された。規模は、5.3km(10里)四方で少なくとも25平方キロメートルあり、平安京(23平方キロメートル)や平城京(24平方キロメートル)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)を内に含む規模である。これを「大藤原京」と呼んでいる。

都の中心やや北寄りに内裏・官衙のある藤原宮を配置し、藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があった。ただし、この朱雀大路は後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の大きなものではなく幅24メートル強(側溝中心間)の後の朱雀大路と比べて非常に狭い幅のものであった。 京極を除いて縦横九本ずつの大路が通っていた。

京域内には、朱雀大路を境にして東側が左京、西側が右京で、それぞれ南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方にが存在したことが明らかになっている。 問題点の一つは、南東が高く北西が低い地形は、汚物を含む東南部からの排水が宮の周辺を流れることであり、また、都を囲む城壁や正門が存在しなかった。

大宰府平城京平安京等が北に政庁を配した北朝形式の都であるのに対し、藤原京だけが古い周礼によって建設されたのは、当時武則天(則天武后)が(武周690年~705年)を復活させるなどしており、漢土の復古調の影響が考えられる。

藤原宮[編集]

藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さので囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ4、50cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿などの建物は中国風に瓦葺で造られた(日本の宮殿建築では初めて)。

2010年7月に、天皇の即位儀礼が行われる『大嘗宮』の可能性がある建物跡などが発見されたと、奈良文化財研究所が発表した。根拠としては、柱の跡が42本見つかり、これらが建物跡や塀跡、門跡であると確認され、これが「平城宮の大嘗宮跡と類似した構造」であるとされた。ところが、藤原宮があった時代には、実際には柱穴が1基しかなかったなど、矛盾点が多数見つかり、同研究所は11月18日に、調査結果を撤回する事態になった[1]

藤原宮焼亡説[編集]

扶桑略記」に、藤原京と大官大寺711年(和銅4年)に焼失したという記事がある。これが事実だとすると、遷都の翌年に焼けたことになる。しかし、藤原京跡での発掘で、火災の痕跡は発見されていない。一方、大官大寺は金堂回廊で焼け落ちた痕跡が見つかりました。遺物から8世紀ごろのものとみられる。

木簡[編集]

木簡約1200点が出土している。大宝律令の内容などが復元出来そうな史料であるという。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており、重要史料であるという。

特に、「郡評論争」に決着をつけた木簡が有名である。「郡評論争」とは、大化の改新の詔の記述の中に、政治改革の方針の中に、地方を「」、「」、「」を単位として組織する制度の施行が含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して、疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見された木簡である。1967年に藤原宮跡から発見された木簡には、「己亥年十月上挟国阿波評松里」とあり、「己亥年」は699年、「上挟国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「評」であったことを明らかにした。一方、701年を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、大宝律令の施行後、その規定に従って、「評」が「郡」に変更されたということが立証された。

呪符木簡[編集]

災いの原因となる邪気や悪鬼を防いだり、駆逐するための呪文符号を書いた木札を呪符木簡というが、7世紀に出現する。7世紀の例は全国で8例あるが、そのうち6例は藤原宮跡から出土している。

門号[編集]

藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。それぞれの号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。ただ、まだ実際に発掘調査が行われたのは朱雀門など一部にすぎず、早い調査が待たれる。

現状[編集]

発掘調査現場

奈良県橿原市高殿町藤原宮大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。

1968年(昭和43年)9月13日歴史的風土特別保存地区[2]に指定されている。公共施設である橿原市斎場と橿原市昆虫館等の建設のために道路が作られて、香具山(歴史的風土特別保存地区)と分断されることになる。2005年大和三山は国の名勝に指定された。

2007年1月、日本政府は世界遺産登録の前提となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を登録した。

白鳳文化[編集]

この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇貴族中心の文化でもあった。大官大寺(大安寺、高市大寺)や薬師寺などが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。

俗説[編集]

日本古代史以外の「世界史」では都城の出現が国家確立であり、大宰府が日本列島最初の条坊制都城であり、九州王朝(倭国)を日本最初の王朝とする主張も存在する。九州王朝説参照。

参考文献[編集]

脚注[編集]

交通アクセス[編集]

周辺[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
飛鳥宮 (飛鳥浄御原宮)
日本の首都
694年 - 710年
次代:
平城京

座標: 北緯34度30分7秒 東経135度48分26秒 / 北緯34.50194度 東経135.80722度 / 34.50194; 135.80722