上野国

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-上野国
-東山道

上野国(こうずけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は上州(じょうしゅう)または上毛(じょうもう)。領域は現在の群馬県にあたる。『延喜式[1]での格は大国遠国。『記紀』・『六国史』での格は811年弘仁2年)までは上国、以後は大国。

天長3年(826年)より常陸国上総国とともに親王国司を務める親王任国となり、国府の実質的長官は上野介であった[2]

目次

[編集] 概要

領域は現在の群馬県とほぼ同じだが、群馬県桐生市のうち桐生川以東は含まれない。かつては群馬県は上野国と完全に同一の範囲であったが、昭和34年(1959年)に栃木県(旧下野国足利郡菱村が、昭和43年(1968年)に安蘇郡田沼町の入飛駒地区がいずれも桐生市へ越境合併。また、昭和35年(1960年)に山田郡矢場川村の一部が栃木県足利市に編入され、旧下野国との境界が変更されている。そのため、群馬県の方が上野国より僅かに広くなっている。

[編集] 「上野」の名称と表記

古代毛野国けのくに)のうちの、上毛野国造かみつけのくにのみやつこ)の領域が、令制国の 上毛野国として成立した。その後、和銅6年(713年)の諸国郡郷名著好字令(好字二字令)により、下野国にあわせ上野国との表記になった。そのため、上野国の表記であるにもかかわらず「かみのくに」ではなく「かみつけのくに、こうずけのくに」(上つ毛の国)と読む。

[編集] 沿革

当初、碓井以下13郡であったが、和銅4年(711年)に14郡[3]。この14群に102郷が属した。

もと上国であったが、弘仁2年(811年2月15日に大国に変更になり、天長3年(826年)旧暦9月6日、上野国と常陸国上総国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従五位上から従六位下)より高く、親王太守は正四位下とされた。親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、吉良義央が名乗ったように、国司の実質的長官は次官(すけ)の上野介であった。良馬の産地として勅旨牧がおかれた。

全国に10余りしか現存しない奈良時代以前の石碑のうち、3つが多胡郡にある。藤原宮木簡には、上毛野国と表記。 国衙のあった国府群馬郡にあった。現在の前橋市元総社町付近と推定されているが、その遺跡の所在を確認するには至っていない。その周辺には国分寺跡・国分尼寺跡・総社神社がある。

江戸時代には、沼田藩前橋藩安中藩高崎藩伊勢崎藩七日市藩吉井藩小幡藩、および館林藩が置かれた。この他、明治維新まで実質的に命運を保つことができなかった藩として総社藩那波藩板鼻藩矢田藩上野豊岡藩大胡藩白井藩青柳藩上里見藩および篠塚藩がある。

[編集] 国分寺・国分尼寺

国分寺国分尼寺の法燈を伝承する寺院は現存しない。高崎市東国分町あたりと思われる。

[編集] 神社

延喜式神名帳』には、大社3座3社・小社9座9社の計12座12社が記載されている。大社3社は以下に示すもので、全て名神大社である。

総社一宮以下は次の通り。

  • 総社 総社神社 - 前橋市元総社町。
社名 鎮座地
(複数記載のものは論社)
一宮 貫前神社 富岡市一ノ宮
二宮 赤城神社 前橋市三夜沢町
前橋市富士見町赤城山
前橋市二之宮町
三宮 伊香保神社 渋川市伊香保町伊香保
四宮 甲波宿禰神社 渋川市川島
五宮 大国神社 伊勢崎市境下渕名
若伊香保神社 渋川市有馬宮前
六宮 榛名神社 高崎市榛名山町
七宮 小祝神社 高崎市石原町
八宮 火雷神社 玉村町下之宮
九宮 倭文神社 伊勢崎市東上之町
十宮 美和神社 桐生市宮本町
十一宮 賀茂神社 桐生市広沢町
十二宮 宇芸神社 富岡市神成

[編集] 安国寺利生塔

安国寺は高崎市通町の浄土宗慈光山常昭院安国寺(本尊:阿弥陀如来)が伝承し、利生塔は未詳である。

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[編集] 近代以降の沿革

[編集] 国司

国司は天皇より叙任され、国内の政治事すべてを司った。

[編集] 上野守

※日付=旧暦 ※在任期間中、「 」内は、史書で在任が確認できる最後の年月日を指す。

[編集] 上野太守

[編集] 上野介

[編集] 上野掾

[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府

[編集] 室町幕府

[編集] 人口

  • 1721年(享保6年) - 56万9550人
  • 1750年(寛延3年) - 57万6075人
  • 1756年(宝暦6年) - 57万9987人
  • 1786年(天明6年) - 52万2869人
  • 1792年(寛政4年) - 51万3915人
  • 1798年(寛政10年)- 51万4172人
  • 1804年(文化元年)- 49万7034人
  • 1822年(文政5年) - 45万6950人
  • 1828年(文政11年)- 46万4226人
  • 1834年(天保5年) - 45万1830人
  • 1840年(天保11年)- 42万6073人
  • 1846年(弘化3年) - 42万8092人
  • 1872年(明治5年) - 50万7235人

出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 延喜式は、延喜5年(905年)に編纂が始められ延長5年(927年)に一応完成した。
  2. ^ 親王任国の制度は天長3年(826年)に始まっており、延喜式の編纂が始められた延喜5年(905年)には既に親王任国であった。
  3. ^ 碓氷[うすい]・片岡[かたおか]・甘楽[かんら]・多胡[たこ]・緑野[みとの]・那波[なは]・群馬[くるま]・吾妻[あがつま]・利根[とね]・勢多[せた]・佐位[さい]・新田[にった]・山田[やまた]・邑楽[おうら]、『和名抄』による)となった。このうち多胡群は和銅4年(711年)に片岡・緑野・甘楽の3郡から300戸を割いて新しく設置された
  4. ^ 「旧高旧領取調帳」では既に岩鼻陣屋の管轄となっている。

[編集] 関連項目

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