滝川一益

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滝川 一益
Takigawa Kazumasu.png
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永5年(1525年
死没 天正14年9月9日1586年10月21日
改名 久助(幼名)、一益
別名 彦右衛門(通称)、入庵、不干(号)
戒名 道栄
墓所 妙心寺玉鳳院(京都府
信楽寺島根県松江市
霊泉寺福井県
官位 従五位下左近尉、左近将監、伊予守
主君 六角定頼織田信長秀信豊臣秀吉
氏族 滝川氏
父母 父:滝川資清、母:不詳
兄弟 高安範勝一益
不明
一忠一時辰政、知ト斎、娘(滝川雄利室)、娘(雲林院祐光室)、娘(秋山直国室)
養子:忠征津田秀政

滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田氏の家臣。織田四天王の一人。

出自[編集]

父は近江甲賀郡の国人・滝川一勝もしくは滝川資清といわれているが、この2人は同一人物説もあり、どのような人物であったかは定説を見ない。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある。更に中村一氏甲賀二十一家の一つ・滝氏の出身ともいわれ一益の同族とする説もある。

甲賀出身という説の他に、志摩の国人・九鬼嘉隆織田信長に仕官する際に一益が紹介したこと、婿の滝川雄利伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。また、忍者であったという説もあったが、これも明確な根拠があるものではない。また、黒、赤、金を好み、重要な戦では必ずこの3色の甲冑並びに、羽織を着用していたとの記録がある。

なお、は一般には「かずます」と読まれるが、『寛永諸家系図伝』および『寛政重修諸家譜』に「いちます」とあり、「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる(分家では「かず」と読んでいる)。このため「いちます」が正しいとする説があるが、当時としては訓読みさせることは珍しく、読みについても今日まで定説を見ない。なお、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である[1]

生涯[編集]

織田家仕官と伊勢攻略[編集]

大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清の子として生まれたが、尾張織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする立場からは近江の六角氏に仕えていたとされることもある。江戸時代水戸藩佐々宗淳から織田長清に送られた書状によれば[2]、滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せたという。信長に仕えた時期は不明であるが『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際、「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があり、この時期には既に信長の家臣であったようである[3]。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり[4]、鉄砲の腕前により仕官したという説もある。

永禄3年(1560年)、一益は「北伊勢の桑名は美濃との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得、北畠氏関氏に対し備えようと思う」と信長に進言、まずは尾張荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築、やがて友貞を放逐し、蟹江城主となる。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。

永禄10年(1567年)、永禄11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟・木造具政を調略、具教が大河内城を明け渡した際には城の受け取りを任され、戦後は安濃津渋見木造の三城を守備することを命じられた。

長島一向一揆と石山合戦[編集]

元亀元年(1570年)9月の石山本願寺の反信長蜂起に伴う石山合戦の開始で長島一向一揆も一斉に蜂起し、11月には信長の弟・織田信興小木江城で討ちとられ、一益も桑名城に篭っている。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。

天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いに参戦。天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護、この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。

天正3年(1575年)、長篠の戦いに参陣、鉄砲隊の総指揮を執る。また同年には越前一向一揆を攻略。天正4年(1576年)の天王寺合戦、同5年(1577年)の紀州征伐に参陣。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。天正7年(1579年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略し、有岡城の守備を崩壊させた。この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することとなる。

天正8年(1580年)、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる[5]。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。天正9年(1581年)には伊賀攻めに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。

武田討伐と関東鎮定[編集]

天正10年(1582年)になり、信長が甲州征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃へ攻め込ませた。この際に一益は2月12日に出陣し[6]、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて、攻略戦の主力となっている。この甲州征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。また、甲斐で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。

戦後処理として、3月23日に一益は上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられ、同時に東国取次を命じられている[7]。しかしながら一益は領地よりも、茶器(安土名物とも呼ばれた「珠光小茄子」)を所望したが叶わなかったことを悔しがったという逸話がある[7]。信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し[8]、引き続き一益を関東統治の取次役にした。一益の役名は史料により「関東守護」「関東ノ主」「関東御警護」などと伝わる。[9]。3月29日には、河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡、森長可が信濃4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曽義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵されている。

以後、一益は上野箕輪城、次に厩橋城に入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。また上毛沼田城には滝川益重が入り、西毛松井田城には、津田秀政が入った。一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(家臣・与力の項参照)。この時、天徳寺宝衍倉賀野秀景は側近とされ、父子関東の北条氏政、佐竹義重里見義頼だけでなく、奥州伊達輝宗蘆名盛隆とも連絡をとっており、氏政に下野祇園城を元城主・小山秀綱に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。また北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた太田資正梶原政景父子は、信長の直参となることを望み、申し入れて許されており、一益のもとに伺候している[10]。但し、千葉邦胤武田豊信は出仕を拒否し、足利義氏とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていない。一益も室町幕府の役職である関東公方への対応に苦慮したものと考えられる[11]

同年5月上旬、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催、嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。[12]

更に同月23日、滝川一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて三国峠を越えようとしたが、上杉景勝方の清水城主長尾伊賀守と樺沢城主栗林政頼に破れたと伝わる[13]

本能寺の変[編集]

6月2日、信長が本能寺の変によって横死すると、信長の死を知った北条氏政は、6月11日付の書状において、深谷の狩野一庵から本能寺の情報を得た事を滝川一益に伝え、引き続き協調関係を継続する旨を伝えている[14]。しかし実際には6月12日に領国に動員をかけており、北条氏の上野侵攻は確定していた[15]

一益が信長の死を知ったのは事変から5日後の6月7日であった[16]。6月10日、一益は重臣の反対を押し切って、上州の諸将を集め信長父子兇変(きょうへん)を告げ、「我等は上方にはせ帰り織田信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。それがしは北条勢と決戦を交え、利不利にかかわらず上方に向かうつもりだ。」と述べたと伝わる(上毛古戦記)[17]

一方、一益は6月12日付けの書状で[18]、信長の安否を聞いてきた小泉城(東毛)の富岡秀高(六郎四郎)に対し、「京都の情勢は、それ(信長死去)以後なんとも聞いてはおりません、別に変わったことはありません」[19]と書状を送っている。一益が集め真実を告げたのは、上州諸将の内、北条高広などの主要な武将のみであったとも考えられる[14]。また、箕輪城を明け渡した内藤昌月は謀叛を疑われ、、箕輪に身を寄せていた保科正俊保科正直等と共に一門命運も尽きたと覚悟していたところ、本能寺の変の知らせと合力の使いが一益よりもたらされ、驚くとともに安堵した様子が伝わっている[20]

6月11日、一益は長昌寺(厩橋)で能を興行しているが、総構を大竹にて二重につくるほどの厳重ぶりであり、上州衆を討ち果たす計略ではないかとの噂が北条高広の家臣らの間で流れるほどであったという[12][14]

本能寺の変の報に際し、沼須城主(北毛)の藤田信吉が一益に対し反乱を起こした。信吉は5千の兵を率いて滝川益重と兵4千が守る沼田城を攻め、水曲輪の一つを占拠した。13日、益重から報告を受けた一益が2万の兵(新田の滝川豊前、小幡、安中、和田、倉賀野、由良、館林の長尾、箕輪の内藤)とともに駆けつけると、信吉は上杉景勝を頼り、泣く泣く越後へ落ち延びた[21]

旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こり18日に北信の森長可が海津城を捨て美濃へ去り[22]、同様に南信濃の毛利長秀も伊奈を放棄し、甲斐の河尻秀隆は同18日に武田遺臣により殺害された。

神流川の戦いと伊勢帰還[編集]

6月16日、信長の死に乗じ、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)、鉢形城主・北条氏邦(氏政の弟)、北条氏政、北条氏照、北条氏規ら総勢5万6千の北条軍が上州倉賀野に侵攻してきた[23]神流川の戦い)。

一益は、厩橋城に滝川忠征、松井田城に津田秀政と稲田九蔵の兵1500騎を置き、1万8千の兵を率いて和田に陣を構え北条勢を迎え撃った。

18日、初戦は滝川勢が、北条氏邦の配下であった斎藤光透とその弟・斎藤基盛が守る金窪城(武蔵児玉郡)と川井城を攻め、陥落させた[24]。更に金窪原で行われた合戦では、信玄・勝頼の旧臣を主体とした上州衆と滝川勢が、北条氏邦の鉢形衆5千と戦い、石山大学、保坂大炊介を討ち取ったが、上州衆も佐伯伊賀守が討ち取られた[25]。しかし最終的には北条方が敗れて追撃を受け北条氏直の身辺の者多数と鉢形衆3百人が討ち取られた[23]

19日の合戦[23]では、先ず北条氏直が2万の兵を率い、滝川一益は手勢2800を率いて戦い、更に当初の手筈通りに後陣の上州衆を投入しようとしたが北条高広をはじめとする諸将の出足が鈍く進み来なかった[12]。一益は決死の覚悟で北条氏直を討ち取ろうとしたが、終には北条氏規、北条氏直に囲まれ敗走した。この時、篠岡、津田、太田、栗田など5百騎が踏み止まって討死し[25]、上州衆では木部貞朝[14]、倉賀野秀景の子(五郎太、六弥太)等が討死した。

一益は、倉賀野城を経て厩橋に戻り、城下の長昌寺において戦死者の供養を行った[26][27]20日一益は人質であった北条高広の次男を返し[12]、そして同夜、上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いたという[28]。一益は太刀、長刀、金銀、秘蔵の懸物等を上州勢に与え、その夜、箕輪城を旅立った。

一益は松枝城の1500騎を加え2千強の兵とし、碓氷峠を越え、21日道家正栄の守る小諸城に入った。この時、佐久・小県の人質を伴っており、この中には依田康国真田昌幸の老母が加わっていたという[29]。一益は自身の本拠である伊勢長島に退去するつもりであったが、木曽郡木曾義昌が一益の通行を拒否してきた[30]。一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した[22]

一益は、27日に小諸城を依田信蕃に引き渡して旅立ち、28日に義昌の居城・福島城で人質を引き渡し[31]、ようやく織田の領国である美濃に入ることができた。一益は清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後[25]7月1日伊勢に帰ったという[31]。なお、この途上にあった27日には清洲会議が開かれ、一益は出席できず、織田家における一益の地位は急落した。(一方、佐久・小県郡の人質は、9月17日に木曽義昌から徳川家康に引き渡されている[22]。)

賤ヶ岳の戦いと出家[編集]

清洲会議後、信長の嫡孫・三法師が織田氏の後継者となったが、これに信長の3男・織田信孝は不満を持っていた為、三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展した。天正11年(1583年)正月元旦、一益は勝家に与して秀吉との戦端を開いた。一益は北伊勢の諸城を攻略、攻め寄せた秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の南進後も織田信雄蒲生氏郷の兵2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も自害し孤立してしまう。残った一益は更に長島城で籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏。これにより一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、朝山日乗の絵を秀吉に進上し、丹羽長秀を頼り越前にて蟄居した[32]。その後、伊勢の所領は信長の次男・織田信雄のものとなった。

小牧・長久手の戦いと晩年[編集]

天正12年(1584年)、今度は織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた(小牧・長久手の戦い)。一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、滝川一益は秀吉に隠居から呼び戻され、今回は秀吉方となった。この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と尾張前田家を調略、同年6月16日に先に没収された蟹江城から信雄方の佐久間信辰を追放し、下市場城前田城を、海からの上陸作戦により占拠する。当時、蟹江城は海に面しており、信雄の長島城と徳川家康の清洲城の中間に位置する重要拠点であった。一益は、家康と信雄の主力に蟹江城を包囲され半月以上粘ったが力尽きて7月3日に開城したが、退去中に攻撃されて船で伊勢に逃れた(蟹江城合戦)。

羽柴秀吉は、伊勢に羽柴秀長丹羽長重堀秀政ら6万2千の兵を集めて尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった[33]

7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男の一忠は敗戦の責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。

一益は天徳寺宝衍、山上道及等と共に秀吉の東国外交を担っており、天正12年6月、秀吉から佐竹義重(沼尻の合戦に参戦中)への返書の添状、天正13年(1585年)11月、梶原政景への書状にて、秀吉による小田原征伐を予告している[11]。彼らの活動は、その後の北条氏にとって不利に働いたと考えられる[11]

天正14年(1586年)9月9日に死去。享年は62と云われる。

子孫[編集]

子には長男の一忠、次男で嫡子となった一時がいる他、辰政・知ト斎、婿養子に滝川雄利がいる。他に、一族には滝川益氏滝川益重がおり、益氏または益重の子とされる前田利益も親族となるが、いずれも続柄は不明である。

家督は次男の一時が継ぎ、豊臣氏の家臣となったが、後に請われて徳川家康にも2千石で仕えている。一時は慶長8年(1603年)に早世し、嫡男・一乗は幼年であった為、1万2千石は没収され2千石の旗本とされた上で、米子藩中村氏に仕えていた長男一忠の子・滝川一積が呼び戻され名代となった。その後、家督は一乗に返却され、滝川本家として存続している。

一積は関ヶ原の戦いの後、真田昌幸の於菊を正妻に迎えており、大坂の役で戦功を挙げ、別家を立て1千石の旗本となった。しかし真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせたことにより改易となった(後に一積の子で一益の曾孫にあたる滝川一明が旗本として滝川氏を再興した)。

3男・辰政は備前岡山藩池田氏に、4男・知ト斎は因幡鳥取藩池田氏に預けられ、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えた。初代岡山藩主・池田光政の娘・六姫の夫・滝川一宗は辰政の孫で、後に医療に携わり医家として存続した瀧川家は知ト斎の子孫である。

また、婿の雄利は片野藩主となっているが、雄利の子・正利の代に減封され、旗本となっている。この系譜からは幕末に大目付になり、鳥羽・伏見の戦いの先鋒を務めた滝川具挙伝習隊に入隊し戊辰戦争を通して活躍した滝川具綏が出ている。弟に滝川具和(規矩次郎、海軍少将)他に家老・木全忠澄の子で一益が滝川姓を与えたとも、養子にしたとも言われる滝川忠征の子孫が尾張藩で6,000石を食む大身となっている。

人物・逸話[編集]

織田家仕官前の逸話

若年の頃河州に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ[34]、百発百中の腕前を披露することにより信長に召抱えられたという話があり、朝倉家における明智光秀と共通点がある。

織田家臣時代の逸話

伊勢水軍を率いる水軍の将でもあり、九鬼嘉隆と長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多くの海戦を共にしている。第二次木津川口の戦いでは白い安宅船で参戦しているが[35]、これが鉄甲船か試作を兼ねた白木船かは定かではない。

「先駆けは滝川、殿(しんがり)も滝川」と称され[36]、織田四天王の1人として数えられた。信長から厚く信任された重臣の一人で、東国支配の重要性から一益が上野国主に選ばれたが、信長は既に58歳になる一益を草深い遠国に送る事を気の毒に思い、秘蔵の馬を一益に贈り、この馬で入国せよと気遣いを示したという[7]

関東管領となって上野国主になると、一益は山の中に屋敷を造り、暇な時はここで休憩した[37]。ある時、目の前に広がる野に鶴が数多く降りて、餌をついばんでいた[37]。すると鶴は外敵から仲間を守るために必ずあたりを警戒する番鳥がいた[37]。番鳥は周囲に物音がしなくても目をきょろきょろさせていた[37]。一方で山屋敷の植木の枝、軒端のあたりには雀が多く来て人をも怖がらず、餌を探して飛び歩き、仲間と戯れていた[37]。それを見た一益は家臣に「あれを見よ」と言い「鶴の用心するのと、雀が無邪気なのは人間に比較すると大名と家臣の違いである」と語った[37]。そして「鶴に等しい大名は、幸運にもその地位を得て、国郡の多くを知行して、数万人を我が物にしているが、言葉にも注意して、粗末な事は言わない。物を食べる時も、毒見をする膳番目付など役人がいて、みだりに食べる事ができぬ。夜は不寝番がいて、外には夜回り時周りの役人がいる。我ひとりが寝た後まで用心し、家中の大小上下、領内の万民も、我一人が目当なれば、片時も身を楽々と持つ事ができない。大名たる我はあの鶴の身持ちと変わらぬ。我らが昼夜の心遣いを察せよ。汝ら家臣は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しめ」と述べた(『名将言行録』)。つまり一益は「鶴は美しいが敵から狙われやすく、落ち着ける時が無い。だが雀は無邪気でいられる。家臣達は鶴を羨ましがらずに雀である事を楽しめ」と言ったのである[16]。大名になれば片時も安穏としていられない、そんな気苦労を一益は吐露したのであった[16]

素朴な性格の持ち主で、関東管領の一益の下に関東の諸将が挨拶に訪れた際、衣服を洗濯中で素っ裸だから乾くまで待ってほしいと伝えたという(『常山紀談』)。一益の居城は伊勢長島で安土にも屋敷があったが、信長から諏訪で関東管領拝命と領国拝領を賜るとそのまま上野に赴任しており、戦塵に塗れたままだったためであった[7]

信長より拝領して佩刀していたと伝わる刀が現代に伝えられている(古備前高綱太刀附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)(重文)。鎌倉時代に作刀された質実剛健な刀身に、桃山時代に流行した「桃山拵(ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装を組み合わせたもので、往時の武将の装いを現代に伝える貴重な逸品である。現在は静嘉堂文庫美術館に所蔵されている。

晩年の逸話

本能寺の変を知り、重臣は信長の死を知って驚き、極秘にするように訴えたが、一益は「隠してもすぐにわかること。また隠して弔い合戦のために厩橋を離れれば、東国の威を恐れて逃亡したとして直ちに追ってくるだろう」と述べたという[16]。晩年には秀吉を茶会に招いたという。

失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄った。ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社を中心とする、平泉寺傘下の在地勢力)が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られた。一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっているが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点まで前波吉継の話と酷似しており、混同も推測される。

家臣・与力[編集]

織田直参


滝川家臣


信濃衆(出仕者)


上野衆(出仕者-武田家旧臣)


上野衆(出仕者-旧上杉景虎方)


上野衆(出仕者-旧北条方)


下野衆(出仕者)


武蔵衆(出仕者)


参考文献[編集]

書籍
  • 『神流川合戦記」-郷土史蹟 史記による関東最大の戦』(千木良英一、新町商工会、1982年)
  • 『戦国武将と神流川合戦』(千木良英一、新町商工会、1989年)
  • 『群馬県史 通史編3』(群馬県史編さん委員会、群馬県、1989年)
  • 『新編高崎市史通史編2(中世)』(高崎市市史編さん委員会、高崎市、2000年)
  • 『新町町誌』(新町町誌編纂委員会、新町教育委員会、1989年)
  • 『戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(齋藤慎一、 中央公論新社、2005年、ISBN 4121018095
  • 『天正壬午の乱』(平山優、学習研究社、2011年)
  • 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所2006年
史料

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『信長公記』巻二「七、大河内国司退城の事」の陣立において、滝川左近と滝川彦右衛門は別人として記載されている。
  2. ^ 金子拓「『信長記』と信長・秀吉の時代」
  3. ^ この記事は年次不明だが、1555~1558年前後と推測されている(金子拓「『信長記』と信長・秀吉の時代」)。
  4. ^ 『寛永諸家系図伝』第十二、続群書類従完成会、1988年、219頁。
  5. ^ 『信長公記』巻十三「播州三木城落居の事」
  6. ^ 楠戸義昭『戦国武将名言録』P286
  7. ^ a b c d 楠戸義昭『戦国武将名言録』P287
  8. ^ 『信長公記』『関八州古戦録』など。
  9. ^ 関東管領については、信長が足利義昭を追放していることと矛盾する(室町幕府の支配を認める事になる)ため、事実とは考えにくい。平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』
  10. ^ 奥野高広『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館、2007年
  11. ^ a b c 斎藤慎一『戦国時代の終焉』中央公論新社、2005年
  12. ^ a b c d 『石川忠総留書転記』
  13. ^ 『越佐史料巻 6』 P.209-211(原文献『北国太平記』)
  14. ^ a b c d 『新編高崎市史 通史編2中世』p.290-291
  15. ^ 『戦国遺文後北条氏編』文書2348号
  16. ^ a b c d 楠戸義昭『戦国武将名言録』P45
  17. ^ その他、『北条五代記』『関八州古戦録』『武徳編年集成』『上州治乱記』『甫庵信長記』
  18. ^ 『富岡家文書』富岡六郎四朗宛返報「、京都之儀、其以後何共不承候、無別条之由候、」
  19. ^ (訳)『群馬県史 通史編3 』p.674-675
  20. ^ 『赤羽記』(保科記)
  21. ^ 『管窺武鑑』
  22. ^ a b c 平山優『天正壬午の乱』
  23. ^ a b c 『松平義行氏所蔵文書』六月二十二日付某書状
  24. ^ 『戦国武将と神流川合戦』千木良英一
  25. ^ a b c 『上州治乱記』
  26. ^ 『依田記』『上野古戦録』『新町町誌 通史編』p.133
  27. ^ 『滝川一益事書』
  28. ^ 『依田記』『北条五代記』
  29. ^ 信濃資料15巻261p
  30. ^ 『寛政重修諸家譜』
  31. ^ a b 『木曾考』
  32. ^ 妙心寺での出家は蟹江城合戦の後との説もあるが、朝山日乗の絵を秀吉に進上したおりに「滝川入道」と記され「入庵」と号しており(『宋及記』)、蟹江城合戦前に既に剃髪している。
  33. ^ 武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬(2008年)(原文献『浅野家文書』)
  34. ^ 『寛永諸家系図伝』
  35. ^ 『信長公記』
  36. ^ 『太閤記』小瀬甫庵
  37. ^ a b c d e f 楠戸義昭『戦国武将名言録』P44

関連作品[編集]

小説
  • 忍の人・滝川一益(徳永真一郎
  • 滝川一益-信長四天王の雄、波乱の生涯-(徳永真一郎)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]