滝川一益
| 滝川一益 | |
|---|---|
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
| 生誕 | 大永5年(1525年) |
| 死没 | 天正14年9月9日(1586年10月21日) |
| 改名 | 久助(幼名)、一益 |
| 別名 | 彦右衛門(通称)、入庵、不干(号) |
| 戒名 | 道栄 |
| 墓所 | 信楽寺(島根県松江市) 霊泉寺(福井県) |
| 官位 | 従五位下左近尉、左近将監、伊予守 |
| 主君 | 六角定頼→織田信長→秀信→豊臣秀吉 |
| 氏族 | 滝川氏 |
| 父母 | 父:滝川資清 |
| 兄弟 | 高安範勝、一益 |
| 妻 | 不明 |
| 子 | 一忠、一時、辰政、知ト斎、滝川忠征(養子)、娘(滝川雄利室)、娘(雲林院祐光室、娘(秋山直国室、養娘(津田秀政室) |
滝川 一益(たきがわ いちます / かずます)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長の家臣。
目次 |
[編集] 出自
父は滝川一勝もしくは滝川資清と言われているが、この2人は同一人物説もあり、近江国甲賀郡の国人と言われているが、どのような人物であったかという点については今日まで定説を見ない。また、兄として高安範勝が挙げられることもあるが、一族(父の従兄弟)とする系譜もある。また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もある。
甲賀出身という説の他に、志摩国の国人・九鬼嘉隆が織田信長に仕官する際に一益が紹介したこと、婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることなどから、伊勢あるいは志摩出身とされる場合もある。また、忍者であったという説もあったが、これも明確な根拠があるものではない。
なお、諱は一般には「かずます」と読まれるが、『寛永諸家系図伝』および『寛政重修諸家譜』に「いちます」とあり、「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいる。(分家では「かず」と読んでいる)このため、「かずます」ではなく「いちます」が正しいとする説がある。しかし、当時としては音読みさせることは珍しく、読みについても今日まで定説を見ない。また、通称として「彦右衛門」とされることもあるが、これは同姓の別人である[1]。
[編集] 生涯
[編集] 織田家仕官と伊勢攻略
大永5年(1525年)、滝川一勝もしくは滝川資清の子として生まれたが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする立場からは近江国の六角氏に仕えていたとされることもある。信長に仕えた時期は不明であるが、「幼年より鉄砲に長ず。河州にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」(寛永諸家譜滝川)とあり、この鉄砲の腕前により仕官したという説が有力である。『信長公記』によると弘治2年(1556年)7月18日に信長が踊りを興行した際、餓鬼の役を務めた者として「滝川左近衆」という記述があり、この時期には既に信長の家臣であったようである。
永禄3年(1560年)、一益は「北伊勢の桑名は美濃国との境であり、患となる可能性がある為、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えようと思う」と信長に進言、まずは尾張国荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築、やがて友貞を放逐し、蟹江城主となる。
永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担う(清洲同盟)。
永禄10年(1567年)、永禄11年(1568年)の2度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍しており、源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟で木造家の当主・木造具政を調略、具教が大河内城を明け渡した際には城の受け取りを任され、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられた。
[編集] 長島一向一揆と石山本願寺合戦
元亀元年(1570年)9月の本願寺の反信長蜂起に伴って、長島一向一揆も一斉に蜂起し、11月には信長の弟・織田信興が小木江城で討ちとられ、一益も桑名城に篭っている。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、家康の支援、更に遊軍として各地を転戦することとなる。元亀3年(1572年)には、佐久間信盛らと共に三方ヶ原の戦いにおいて篭城を支援。
天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いに参戦。天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護、この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。
天正3年(1575年)、長篠の戦いに参陣。また同年には加賀一向一揆を攻略。天正4年(1576年)の天王寺合戦、同5年(1577年)の紀州征伐に参陣。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。
天正7年(1579年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略し、有岡城の守備を崩壊させた。この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することとなる。
天正8年(1580年)、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられる[2]。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めている。
天正9年(1580年)には伊賀攻めに参陣し、甲賀口より攻め込んでいる。
[編集] 武田討伐と関東鎮定
天正10年(1582年)になり、信長が武田征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃国へ攻め込ませた。この際に一益は信忠の軍監として攻略戦の主力となっている。この武田征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。また、甲斐国で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。
戦後処理として、一益は上野一国と信濃2郡を与えられ、同時に東国取次を命じられている。しかしながら一益は領地よりも、茶器(安土名物とも呼ばれた「珠光小茄子」)を所望したが叶わなかったことを悔しがったという逸話がある。信長は、名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し[3]、引き続き一益を関東統治の取次役にした。一益の役名は史料により「関東守護」「関東ノ主」「関東御警護」「関東管領」などと伝わるが、このうち関東管領については、信長が足利義昭を追放していることと矛盾する(室町幕府の支配を認める事になる)ため、事実ではないだろう[4]。
以後、一益は上野箕輪城、次に厩橋城に入り、ここで関東の鎮定にあたることになる。一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵することを申し渡した為、近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕した(家臣・与力の項参照)。この時、天徳寺宝衍と倉賀野秀景は側近とされ、関東の北条氏政、佐竹義重・里見義頼だけでなく、奥州の伊達輝宗・蘆名盛隆とも連絡をとっており、氏政に下野祇園城を元城主・小山秀綱に返還させるなど、強大な権限を持っていた様子がうかがえる。但し、千葉邦胤、武田豊信は出仕を拒否し、足利義氏 (古河公方)とその家臣・簗田晴助には一益からの連絡自体が行われていない。
同年5月、一益は諸領主を厩橋城に集め能興行を開催、嫡男、次男を伴い自ら玉蔓を舞っている。この能興行は6月11日にも長昌寺で予定されていた。[5]
[編集] 本能寺の変と神流川の戦い
天正10年6月、信長が本能寺の変によって横死すると、信長の死に乗じた鉢形城主・北条氏邦(氏政の弟)、小田原城の北条氏直(氏政の嫡男)ら総勢5万6千の北条軍が上野に侵攻してきた。
軍記ものの史料によると、一益は本能寺の変の事情を上野国衆に正直に打ち明けた、滝川勢だけで北条軍と戦う決意であると述べ、などと伝わる[6]。またこれを北条高広の様に、上野諸将の真意を図る謀略と疑っていた者もいたと伝わる[7]。しかし一益は6月12日付けの書状[8]で、信長の安否を聞いてきた小泉城の富岡六郎四郎に対し、「京都の情勢は別状ない」と虚報を流しているため、実際の行動は全く逆で、信長の死を隠そうとしていたと考えられる。しかし北条氏政は信長の死を知り、一益に対しては親身な書状を送りつつ、上野獲得のために軍兵を集めた。なお、富岡六郎四郎に対する書状は6月11日付けの北条氏政書状[9]に対する回答という説もある[10]。
こういった状況を見て配下の藤田信吉が反乱を起こした。信吉は5千の兵を率い、滝川益重と兵4千が守る沼田城を攻め、水曲輪の一つを占拠した。6月13日、益重から報告を受けた一益が2万の兵とともに駆けつけると、信吉は上杉景勝を頼り、越後へと逃亡した[11]。
続いて北条軍が迫っている事を聞いた一益は、そのまま2万弱の兵を率いて金窪城を攻略、金窪原で北条勢を迎え撃った(神流川の戦い)。6月16日の1次合戦では北条氏邦に勝利を収め、北条勢を武蔵国境まで追いやった。しかし6月19日の2次合戦では、関東衆に戦意がなく、一益本隊の上方衆2800ばかりで戦ったところ、北条軍の伏兵に襲われて大敗を喫した[12]。これを見た関東衆は次々と戦場を離脱し、一益はなんとか箕輪城に逃げ帰った。
この敗北により一益は上野国を保持できなくなり、自身の本拠である伊勢長島に退去することに決めた。この時、一益は上野国衆を箕輪城に招き集め、別れの酒宴を開いたという[13]。一益は用心のため上野国衆の人質を伴って進み、碓氷峠で人質の一部を、21日に信濃・小諸城につくと全員を解放した[14]。上野国衆は一益を津田秀政の守る松井田城まで送ったという。
こうして信濃に入った一益は、安全に信濃を通過するために人質を得ようとして、徳川家臣となっていた佐久郡の有力国衆・依田信蕃に使者を送った。信蕃はこれを了承し、佐久郡・小県郡の国衆の人質と、息子・依田康国を同行させたが、木曽郡の木曾義昌が一益の通行を拒否してきた[15]。この人質の中には真田昌幸の母も加わっていたという[16]。
一益は義昌に「通してくれれば佐久郡・小県郡の人質を進上しよう」ともちかけ、義昌はこれを了承した。一益は義昌の居城・福島城 (信濃国)で人質を引き渡し、ようやく織田の領国である美濃に入ることができた[17]。一益は清洲にて三法師(織田秀信)に拝礼後、伊勢に帰ったという[18]。なお、この途上にあった6月27日には清洲会議が開かれており、一益は出席していない。
[編集] 賤ヶ岳の戦い
清洲会議後、信長の嫡孫・三法師が織田氏の後継者となったが、これに信長の三男・織田信孝は不満を持っていた。この為、三法師を擁立した羽柴秀吉と、信孝を後援する柴田勝家の対立に発展したが、一益は勝家に与して秀吉と戦端を開いた。しかし、天正11年(1583年)に起きた賤ヶ岳の戦いにおいて勝家が敗死し、ついで信孝も秀吉により自害させられたことにより、味方を失った一益は秀吉に長島城を攻撃され、約1か月間の籠城戦の末に降伏した。一益は所領を全て没収され、京都妙心寺で剃髪、丹羽長秀を頼り越前国にて隠居した[19]。
[編集] 小牧・長久手の戦い
天正12年(1584年)、今度は信長の次男・織田信雄が徳川家康と共に反秀吉の兵を挙げた。一益の婿である滝川雄利は信雄の家老を務めていたが、一益は秀吉に隠居から呼び戻され、秀吉方となった。この戦いで一益は、信雄方の九鬼嘉隆と尾張前田家を調略、先に没収された蟹江城及び下市場城、前田城を同年6月、海からの上陸作戦により占拠する功績を挙げるも、家康と信雄の軍に蟹江城を包囲され、降伏を余儀なくされている(蟹江城合戦)。7月12日、以前からの約定により秀吉から次男の一時に1万2千石を与えられ、自身にも3千石を与えられたが、嫡男の一忠は責任を負わされ追放、羽柴秀長に身柄を預けられた。
同年11月、滝川雄利は一益を通じて秀吉に接近し、信雄との和平を纏めている。
[編集] 晩年
一益は秀吉の東国外交にも関与しており、天正12年6月、秀吉から佐竹義重(沼尻の合戦に参戦中)への返書の添状、天正13年(1585年)11月、梶原政景への書状にて、秀吉による小田原攻めを予告している。
天正14年(1586年)9月9日死去。享年は62と云われる。
[編集] 子孫
子には長男の一忠、次男で嫡子となった一時がいる他、辰政・知ト斎・一治、婿養子に滝川雄利がいる。他に、一族には滝川益氏・滝川益重がおり、益氏または益重の子とされる前田利益も親族となるが、いずれも続柄は不明である。
家督は次男の一時が継ぎ、豊臣氏の家臣となったが、後に請われて徳川家康にも2千石で仕えている。一時は慶長8年(1603年)に早世し、嫡男・一乗は幼年であった為、1万2千石は没収され2千石の旗本とされた上で、米子藩主中村氏に仕えていた長男一忠の子・滝川一積が呼び戻され名代となった。その後、家督は一乗に返却され、滝川本家として存続している。
一積は大坂の役で戦功を立てており、別家を立て1千石の旗本となったが、徳川氏と敵対した真田信繁の娘達を保護したことから改易となっている(後に一積の子で一益の曾孫にあたる滝川一明が旗本として滝川氏を再興した)。3男・辰政は備前岡山藩池田氏に、4男・知ト斎は因幡鳥取藩池田氏に預けられ、それぞれの子孫は岡山と鳥取の池田氏に仕えた。初代岡山藩主・池田光政の娘・六姫の夫・滝川一宗は辰政の孫で、後に医療に携わり医家として存続した瀧川家は知ト斎の子孫である。
また、婿の雄利は片野藩主となっているが、雄利の子・正利の代に減封され、旗本となっている。この系譜からは幕末に大目付になり、鳥羽伏見の戦いの先鋒を務めた滝川具挙、伝習隊に入隊し戊辰戦争を通して活躍した滝川具綏が出ている。他に家老・木全忠澄の子で一益が滝川姓を与えたとも、養子にしたとも言われる滝川忠征の子孫が尾張藩で6,000石を食む大身となっている。
滝川玄蕃一治は加賀藩前田氏に召し抱えられ、加賀藩3代藩主・前田利常の次男・利次が富山藩の開藩を許された際に子の滝川一茂が家臣として随行した。以来、富山藩において幕末の10代一信まで歴代家老職を勤めた。滝川家菩提寺は富山市梅沢町海秀山大法寺。大法寺は富山藩前田家の菩提寺でもある。
[編集] 人物・逸話
- 若年の頃泉州堺に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだとされ、百発百中の腕前を披露することにより信長に召抱えられたという話があり、朝倉家における明智光秀と共通点がある。
- 孫の滝川一積が仕えた中村氏の中村一氏は、甲賀二十一家の1つ、瀧(多喜)一政の子で、初め滝孫平治と称しており、一益の同族と考えられる。
- 伊勢水軍を率いる水軍の将でもあり、九鬼嘉隆と長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多くの海戦を共にしている。第二次木津川口の戦いでは白い安宅船で参戦しているが、これが鉄甲船か試作を兼ねた白木船かは定かではない。
- 関東時代に縁を得た真田家とは非常に親しくなった様で、廃嫡された一忠は真田家に身を寄せ、孫の一積は未亡人であった真田昌幸の娘を娶った。なお、一積は真田信繁の娘達にも良縁を持ち込んでいる。
- 秀吉が催した大徳寺における信長の法要に出かけた時、「滝川殿の席はありませぬ」と門前払いされた。
- 「進むも退くも滝川」(攻めるも退却も上手な)と呼ばれ、織田四天王の1人として数えられている。
- 晩年は不遇だったとされているが、上野厩橋にて鶴の周りで自由気ままに飛ぶ雀を羨ましがったという逸話も残っており、前述の通り領土より茶器を所望したという逸話もある。晩年には秀吉を茶会に招いたという。
- 晩年の領地があった福井県では、最晩年に失明し、出家したとの伝承がある。「晩年は不遇だった」という伝承や、最晩年での逸話がほとんど残らないなどの話を補強する説ではある。
- 失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄った。ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社を中心とする、平泉寺傘下の在地勢力)が襲撃し、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられている。遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られた。一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっているが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点まで前波吉継の話と酷似しており、混同も推測される。
- 信長より拝領して佩刀していたと伝わる刀が現代に伝えられている(古備前高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)(重文)。鎌倉時代に作刀された質実剛健な刀身に、桃山時代に流行した「桃山拵(ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装を組み合わせたもので、往時の武将の装いを現代に伝える貴重な逸品である。現在は静嘉堂文庫美術館に所蔵されている。
[編集] 家臣・与力
- 織田直参
- 滝川家臣
- 信濃衆(出仕者)
- 上野衆(出仕者-武田家旧臣)
- 上野衆(出仕者-旧上杉景虎方)
- 上野衆(出仕者-旧北条方)
- 下野衆(出仕者)
- 武蔵衆(出仕者)
- その他(出仕者)
[編集] 脚注
- ^ 『信長公記』巻二「七、大河内国司退城の事」の陣立において、滝川左近と滝川彦右衛門は別人として記載されている。
- ^ 『信長公記』巻十三「播州三木城落居の事」
- ^ 信長公記、関八州古戦録など
- ^ 「天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史」
- ^ 石川忠総留書
- ^ 北条5代記、関八州古戦録、武徳編年集成、上州治乱記、赤羽記、甫庵信長記
- ^ 「石川忠総留書」
- ^ 大日本史料 11編より
- ^ 東京都高橋一雄家文書
- ^ 新町町誌 通史編
- ^ 「管窺武鑑」
- ^ 「石川忠総留書」
- ^ 「北条五代記」
- ^ 「北条五代記」
- ^ 「寛政譜」
- ^ 平山優「天正壬午の乱」より、信濃資料15巻261p
- ^ 「木曾考」
- ^ 上州治乱記
- ^ 京都妙心寺での出家は蟹江城合戦の後との説もあるが、天正11年には、朝山の絵を秀吉に進上したおりに「滝川入道」と記され「入庵」と号しており(宋及記)、合戦前に既に剃髪している
[編集] 参考文献
- 『群馬県史』
- 『高崎市史』
- 『新町町誌』
- 『神流川合戦記」-郷土史蹟 史記による関東最大の戦』(千木良英一、新町商工会、1982年)
- 『戦国武将と神流川合戦』(千木良英一、新町商工会、1989年)
- 『戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一』(齋藤慎一、 中央公論新社、2005年、ISBN 4121018095)
[編集] 関連作品
- 小説
- 忍の人・滝川一益(徳永真一郎)
- 滝川一益-信長四天王の雄、波乱の生涯-(徳永真一郎)
