河内国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

令制国一覧 > 畿内 > 河内国

河内国(かわちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、大国に分類され、畿内に含まれた。その領域は現在の大阪府の東部にあたるが、設置当初は南西部(和泉国の領域)も含んでいた。河州ともいう。

区域ごとに北河内、中河内、南河内といい、北河内は現在の枚方市寝屋川市門真市守口市四條畷市大東市交野市一帯と大阪市鶴見区の一部、中河内は現在の東大阪市八尾市柏原市一帯、南河内は堺市の東部(東区美原区の全域と、北区の一部)、松原市羽曳野市藤井寺市富田林市河内長野市大阪狭山市南河内郡一帯と大阪市生野区平野区東住吉区の各一部を指す。

河内国位置図

目次

[編集] 地区区分

[編集] 沿革

7世紀に成立した。霊亀2年(716年)4月16日に、大鳥郡、和泉郡、日根郡を割いて和泉監を分立させた。養老4年(720年)11月に堅下郡と堅上郡を併せて大県郡にした。天平12年(740年)8月20日に和泉監を合併した。天平宝字元年(757年)5月8日に、和泉国を再び分立させた。道鏡政権下では由義宮が建設され西京と称し、それに伴って神護景雲3年(769年)河内国が廃止され、かわって特別行政組織河内職が設置された。道鏡失脚により翌年元に戻された。

[編集] 国府・守護所・一の宮・国分寺

国府は志紀郡にあった。現在の藤井寺市にある国府遺跡と推定されている。ただし、奈良時代の間に一度移動しているらしい(どちらも現在の藤井寺市内)。

ただし、拾芥抄では、国府は大縣(県)郡とある。

易林本の節用集では、丹北郡に府と記載ある。

承久の乱以前の守護の設置は見られない。最初の守護所は不明であるが、その後、丹南、古市、若江、高屋と移った。

国分僧寺天平期に建てられ、現在の柏原市国分東条にあったが、南北朝時代のころに廃れた。国分尼寺は同じく柏原市国分東条尼寺にあったが、平安時代には荒廃していたらしい。

延喜式神名帳には大社23座、小社90座の計113座が記載されている。大社23座のうち、名神大社は以下の9座4社である。

一宮は東大阪市の枚岡神社だが、実際に一の宮と呼ばれるようになるのは近世以後である。他に枚方市片埜神社も「河州一ノ宮」を名乗っているが、実際には交野郷一宮であったものが河内一宮と混同されたものである。二宮は恩智神社と言われる。しかし、これは河内国第2位の勢力を持っただけで、神社制度としての二宮となった訳ではなく、二宮と呼ばれるようになるのも近世以後である。三宮以下はなし。惣社は藤井寺市の志貴県主神社であるが、惣社のある土地にこの神社が移ってきたという説と国府の近くにあったので惣社になったという説がある。

[編集] 歴史

通法寺の山門
三好長慶像
織田信長像

河内の国は古くは物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、古代の大豪族の物部氏の本拠地のひとつであった。

羽曳野市壺井は、武家の棟梁となる源氏河内源氏)の本拠地となり、東国の武士を家臣にした八幡太郎義家や、その父の源頼義、祖父の源頼信の三代の墓が河内源氏の菩提寺だった通法寺跡近くに現在も伝わっている。後に鎌倉幕府を開く源頼朝は、この河内源氏の末裔。

鎌倉時代末期に、南河内の豪族の楠木正成とその一族が、幕府打倒のため蜂起し、下赤坂城上赤坂城に、そして千早城に立て篭もり、鎌倉幕府軍を翻弄する。

建武の親政では、楠木正成が国司守護の両方に任命された。

足利尊氏後醍醐天皇と対立し、南北朝時代が到来すると、河内は主戦場となることが多くなり、楠木正成の長男、楠木正行高師直と四條畷(四條縄手)で戦い戦死した。

室町時代になると、河内の守護三管領のひとつ畠山氏がなり、畠山満家畠山持国と続き、安定した治世を見せたが、持国の跡目をめぐって、養子の畠山政長と実子の畠山義就が争い、河内はその争奪の舞台となり、疲弊した。政長が正覚寺(大阪市平野区加美正覚寺)で細川政元畠山義豊らに討たれたが、その子、畠山尚順は紀州にあって捲土重来をはかり、ついに河内・紀州の守護として返り咲きに成功し、その子、畠山稙長の時についに義就系の畠山義英を討滅し、畠山家を統一した。しかし、その過程、戦場となった河内は焦土と化した。

戦国時代になると、畠山稙長のもとで統一された河内であったが、実権は守護代遊佐長教の手にわたり、守護は傀儡化されていく。また、管領の細川家も内紛が続き、細川高国細川澄元細川澄之らの家督争いにくわえ、その勝者となった細川澄元の子、細川晴元がその守護代で細川氏の内紛で活躍した三好元長を堺に攻めて滅ぼした。そして細川晴元のもとで幕府は維持されるが、三好元長の子、三好長慶が阿波から上洛し、その妻女を河内守護代で実権を握る遊佐長教から迎えるなど勢力を蓄えながら、細川晴元に従い、細川晴元の意に従わない、木沢長政を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。しかし後に対立し、晴元派の大叔父三好政長と三好長慶が河内十七箇所をめぐって榎並城などで戦い、三好長慶が細川晴元の管領政権を打破し、将軍を傀儡化して幕府の実権を握るとともに、本拠地を摂津の芥川山城から河内の飯盛山城大阪府四條畷市)に移した。

しかし、その三好長慶も42歳の若さで没すると、その後をめぐって家臣(三好三人衆松永久秀)が対立し、河内、大和を戦場にした。その争いに終止符を打ったのは、織田信長の上洛であった。

織田信長が上洛すると、河内は北半国を三好義継、南半国を畠山昭高(織田信長の娘婿)が統治するようになる。しかし、義継、昭高は元亀兵乱に前後してまもなく没落し、河内は信長の重臣、佐久間信盛が支配する。その信盛も後に信長に疎まれ追放される。

織田信長が本能寺の変で死ぬと、山崎の戦い明智光秀を討った羽柴秀吉清洲会議の結果、領国としておさえる。

羽柴秀吉が天下人となり、大坂城を築くと、河内の重要拠点であった若江城は廃城となった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下人となり、征夷大将軍となり、幕府を開くが、河内は豊臣秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。徳川家康と豊臣秀頼が対決した大坂の陣が勃発すると、河内も戦場となる。この戦いは冬の陣、夏の陣とあるが、冬の陣は大坂城周辺での戦いであったので、河内は主戦場にはならなかったが、夏の陣では様相が一変し、外堀を埋められ裸城となった大坂城では篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を野戦で迎撃した。そのため、京都と大坂の間にある河内の各所で戦いが行われた。主なものに、道明寺の戦い後藤又兵衛vs伊達政宗松平忠輝水野勝成真田信繁北川宣勝薄田兼相vs伊達政宗・松平忠輝・水野勝成)、八尾・若江の戦い木村重成vs井伊直孝長宗我部盛親vs藤堂高虎)などの戦いが展開された。

江戸時代になると、河内は天領および旗本領が点在し、大名としては、狭山藩北条家丹南藩高木家のみが存在した。また、淀藩稲葉家の領地も多く存在した。

[編集]

[編集] 明治以降の改廃

  • 北河内郡1896年明治29年)4月1日に茨田郡、交野郡、讃良郡を統合して旧河内国北部に設けられた
  • 中河内郡…1896年(明治29年)4月1日に丹北郡、高安郡、大県郡、河内郡、若江郡、渋川郡、志紀郡の一部(三木本村)を統合して旧河内国中部に設けられた郡
  • 南河内郡…1896年(明治29年)4月1日に丹南郡、安宿部郡、古市郡、八上郡、錦部郡、石川郡、志紀郡の一部(三木本村以外)を統合して旧河内国南部に設けられた郡

[編集] 国司

[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府

[編集] 室町幕府

[編集] 関連項目