河内国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
河内国
地図 令制国 河内国.svg
-河内国
-畿内
別称 河州(かしゅう)
所属 畿内
相当領域 大阪府東部(当初は南西部も含む)
諸元
国力 大国
14郡79郷
国内主要施設
河内国府 大阪府藤井寺市
河内国分寺 大阪府柏原市河内国分寺跡
河内国分尼寺 (推定)大阪府柏原市
一宮 枚岡神社(大阪府東大阪市
テンプレートを表示

河内国(かわちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。畿内に属する。

沿革[編集]

通法寺の山門
三好長慶像

古代[編集]

7世紀に成立した。『古事記』には川内の表記も見え、7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれている[1]。河内の名が確定したのは、おそらく大宝4年(704年)の国印鋳造時である[2]

河内の名を持つ国造には凡河内国造がある。また古代の大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。

霊亀2年(716年)4月16日に、大鳥郡和泉郡日根郡を割いて和泉監を分立させた。天平12年(740年)8月20日に和泉監を併合するが、天平宝字元年(757年)5月8日に、今度は和泉国として再び分立させた。

称徳朝神護景雲3年(769年)に由義宮八尾市)が建設されるとこれを西京と称し、それに伴って河内国が廃止され、かわって特別行政組織河内職が設置されたが、翌年元に戻された。

羽曳野市壺井は、武家の棟梁となった河内源氏が本拠地とした地で、その祖・源頼信や子の頼義、孫の義家の三代の墓が、河内源氏の菩提寺通法寺跡の近くに残っている。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、彼らの後裔である。

中世[編集]

鎌倉時代末期、南河内の豪族の楠木正成とその一族が、後醍醐天皇に呼応して幕府打倒の兵を挙げ、下赤坂城上赤坂城千早城に立て篭って幕府の大軍を苦しめた。正成は建武政権で国司守護の両方に任命されたが、足利尊氏が反旗を翻して南北朝の内乱が始まると、河内は主戦場となることが多くなり、正成の長男・正行高師直率いる足利幕府の軍勢と四條縄手(四條畷)で戦い戦死した。

室町時代、河内守護三管領の1つ畠山氏が世襲し、畠山基国満慶満家持国と続いた。しかし、持国の跡目を巡って甥の畠山政長と息子の畠山義就が争いを続け、これをきっかけの一つとし、足利将軍家や守護の家督相続問題も絡んで、日本の大半の地域を二分する応仁の乱が勃発した。

応仁の乱が終息しても、両畠山氏の戦いは継続し、河内は戦国時代に突入した。政長は正覚寺大阪市平野区)で管領細川政元と義就の息子義豊らに討たれたが(明応の政変)、子の尚順は紀伊にあって捲土重来をはかり、河内・紀伊の守護として返り咲きに成功する。そして稙長の時に義就系の義英を討滅し、河内は統一されたが、長らく続いた戦乱によって荒廃し、実権は守護代遊佐長教の手にわたり、守護は傀儡化されていく。

細川政元が阿波から迎えた養子・澄元の子晴元の時代、阿波から上洛した三好長慶は遊佐長教の娘を妻に迎えて勢力を蓄えながら晴元に従い、晴元の意に従わない木沢長政を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。しかし、長慶は後には晴元と対立、晴元方の三好政長江口の戦いで殺害して晴元政権を打破すると、将軍を傀儡化して幕府の実権を握り、本拠地を摂津の芥川山城から河内の飯盛山城大阪府四條畷市)に移し、以後畿内において三好氏は強勢を誇った。

三好長慶の没後、三好三人衆松永久秀が抗争し、河内・大和が戦場になったが、織田信長が上洛すると、河内の北半国を長慶の養子・三好義継、南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵する。しかし、まもなく義継・昭高は元亀兵乱に前後して没落し、河内は信長の重臣佐久間信盛の支配に入った。その信盛も後に信長に疎まれ追放される。

近世[編集]

本能寺の変の後、羽柴秀吉清洲会議の結果、河内を領国としておさえる。秀吉が天下人となり、大坂城を築くと、河内の重要拠点であった若江城は廃城となった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康江戸幕府を開くが、河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。大阪夏の陣では、大坂城は外堀を埋められ裸城となり、篭城戦はできないと判断した大坂方は、京都から大坂をめざす徳川方を野戦で迎え撃ち、京坂間にある河内の各所で戦いが行われた。主なものとして、道明寺の戦い後藤基次vs伊達政宗松平忠輝水野勝成真田信繁北川宣勝薄田兼相vs伊達政宗・松平忠輝・水野勝成)、八尾・若江の戦い木村重成vs井伊直孝長宗我部盛親vs藤堂高虎)などがあった。

江戸時代になると、河内は天領および旗本領が点在し、大名としては狭山藩後北条氏丹南藩高木氏のみが存在した。また、淀藩稲葉氏の領地も多く存在した。

国内の施設[編集]

[編集]

河内国内に設けられた天皇の宮殿(宮・京)は、次の通り。

国府[編集]

国府所在地を記した文献は次の通り。

国府は、現在の大阪府藤井寺市国府・惣社にある国府遺跡(位置)と推定されている。ただし、奈良時代の間に一度移動しているとされる(どちらも現在の藤井寺市内)。

国分寺・国分尼寺[編集]

尼寺は同じく柏原市国分東条尼寺にあったと推定されているが、平安時代には荒廃していたと考えられている。

神社[編集]

延喜式内社

延喜式神名帳』には、大社23座13社・小社90座80社の計113座93社が記載されている(河内国の式内社一覧参照)。大社13社のうち、名神大社は以下に示す9座4社である。

総社一宮以下

  • 総社:志貴県主神社 (大阪府藤井寺市惣社、位置
    惣社のある土地にこの神社が移ってきたという説と国府の近くにあったので惣社になったという説がある。
  • 一宮:枚岡神社 (大阪府東大阪市出雲井町)[6]
    ただし、実際に「一宮」と呼ばれるようになるのは近世以後である。

また、二宮には恩智神社(大阪府八尾市恩智中町)が挙げられることがある。ただし、これは河内国第2位の勢力を持っただけで、神社制度としての二宮となった訳ではなく、二宮と呼ばれるようになるのも近世以後である。そのほか、片埜神社(大阪府枚方市)も「河州一ノ宮」を名乗っているが、実際には交野郷一宮であったものが河内一宮と混同されたものとされる。三宮以下はない。

守護所[編集]

承久の乱以前の守護の設置は見られない。最初の守護所は不明であるが、その後、丹南、古市、若江、高屋と移った。

安国寺利生塔[編集]

  • 安国寺 - 大阪府八尾市龍華にあった
  • 利生塔 - 教興寺 (大阪府八尾市教興寺)

城郭[編集]

地域[編集]

河内国の範囲は生駒山地金剛山地の西側に沿った南北に細長い地域で、現在の大阪府東部に当るが、奈良時代の初めまでは海側の和泉国の領域も含んでいた。

西の平野部は、縄文海進によってできた河内湾に淀川大和川から流入する土砂が堆積して広がっていったものである。湾は、古代に上町台地から北方へ伸びる砂州によって塞がれて潟湖河内湖)となり、やがて新開池(しんがいけ、大阪市鶴見区東大阪市大東市)・深野池(ふこのいけ、寝屋川市門真市・大東市・東大阪市・四條畷市)の2つの広大な水域が残った。深野池の中の島(三箇)の領主三箇頼照(サンチョ)はキリスト教を信仰し、領内に大勢の宣教師と信者を保護したため、三箇は畿内のキリシタンの一大拠点となった。

江戸時代、大坂から船で淀川・新開池・深野池と進んで飯盛山のふもとの野崎観音の近くまで遡航し、「野崎参り」をすることが盛んになった。宝永元年(1704年)にに向けて西流する現在の流路に大和川を付け替える工事が行われると、両大池の水量が減少し、鴻池新田などの新田開発が進められた。新開池は姿を消し、深野池もわずかに一部が調整池として残るのみだが、この地域にはかつての水郷の面影が今も見られる。

山城国八幡(京都府八幡市)を基点とする東高野街道は、洞ヶ峠から入って河内国を南北に縦貫し、長野(河内長野市)で西高野街道と合流してからは高野街道となり、紀見峠・橋本(和歌山県橋本市)を経て高野山へ至る。高野山参りが盛んになると京都から高野山への参詣道として賑わうようになった。

[編集]

明治期の改廃

  • 北河内郡1896年明治29年)4月1日に茨田郡、交野郡、讃良郡を統合して設けられた
  • 中河内郡…1896年(明治29年)4月1日に河内郡、高安郡、大県郡、若江郡、渋川郡、志紀郡の一部(三木本村)、丹北郡を統合して設けられた郡
  • 南河内郡…1896年(明治29年)4月1日に志紀郡の一部(三木本村以外)、安宿部郡、古市郡、石川郡、錦部郡、丹南郡、八上郡を統合して設けられた郡

現在の行政区分[編集]

以下は大阪府による地域区分であり、郡の区分とは差異がある。

上記の自治体に含まれない地域は以下の通り。

この他に、1902年(明治35年)4月1日、旧 北河内郡今津村摂津国(旧 東成郡榎本村)に編入され、現 大阪市鶴見区のうちとなっている。

人物[編集]

国司[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府

室町幕府

大名[編集]

戦国時代

織豊期

江戸時代の藩

合戦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17-18頁。
  2. ^ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
  3. ^ 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館より)12コマ参照。
  4. ^ 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館より)52コマ参照。
  5. ^ 『節用集 易林本』(近代デジタルライブラリーより)136コマ。
  6. ^ 『日本中世国家と諸国一宮制』(2009年)索引p. 3。

関連項目[編集]