関ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い
戦争関ヶ原の役
年月日慶長5年9月15日1600年10月21日
場所美濃国関ヶ原
結果:東軍の勝利
交戦勢力
東軍 西軍
指揮官
徳川家康
徳川秀忠
毛利輝元
石田三成
宇喜多秀家
戦力
104,000(諸説あり) 82,000(諸説あり)
損害
不明 不明
徳川家康の戦い
藤波畷三河一向一揆姉川一言坂二俣城三方ヶ原野田城高天神城天正壬午の乱小牧・長久手長篠関ヶ原大坂

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代慶長5年9月15日グレゴリオ暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に、日本全国で戦闘が行われた。徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。

以下、日付はすべて旧暦で示してある。

目次

[編集] 概要

関ヶ原古戦場

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は死に際して、子の豊臣秀頼を後継とし、その補佐後見を前田利家徳川家康等いわゆる五大老や、浅野長政石田三成等いわゆる五奉行などの有力大名・武将に託した。秀吉亡き後の豊臣政権ではやがて、徳川家康を中心とする一派と、石田三成を中心とする一派との間で、主導権争いが激しくなった。慶長5年(1600年)に行われた関ヶ原の戦いは、両派の勝敗を画した戦闘である。

この関ヶ原の戦いは、日本全国のほとんどの大名が二派のいずれかにくみしたことや、この戦闘で勝利した家康が、豊臣政権の主導権を完全に掌握し、引き続いて徳川政権(徳川幕府)を打ち立て、その徳川氏徳川将軍家)による世襲を確立する、基礎となったと考えられてきたことなどから、天下分け目の戦いと呼ばれる。

関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である[1][2]。東軍西軍とも、その多くは豊臣恩顧の武将であり、戦いの性格が豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとったことから、豊臣家は表向き静観の立場を取った。

[編集] 決戦までの経緯

[編集] 豊臣家中の対立

天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役でも前線で戦った「武断派」と呼ばれるグループと、行政・経済兵站(へいたん)・宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」(吏僚派)の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった[3]

  1. 豊臣政権の中央集権的な全国統治政策
    1. 外様大名の領国への豊臣奉行による太閤検地の実施。
    2. 外様大名領への太閤蔵入地の設定。
    3. 大名の有力家臣への知行宛行(伊集院忠棟鍋島直茂など)と内政干渉。
  2. 秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執・連座を免れた大名と家康との接近。

秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。だが、天正19年(1591年)の秀長の死、文禄・慶長の役の遂行方針や賞罰をめぐる対立により、両派の溝は深刻なものとなっていた。

秀吉は晩年には五大老五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(1598年)8月に伏見城で死去する。ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強める。これに対して、同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。

翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の七将[4]により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる[5]

[編集] 家康の専横と加賀征伐

利家の死と三成の隠退によって、家康に正面切って対抗できる、豊臣恩顧の武将は政権中枢に存在しなくなった。さらに他の大老である毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝も、自身の領地へ帰国したことにより、豊臣政権はほぼ家康の独断で切り回される事態になった。1599年9月7日、家康は重陽節句で秀頼への挨拶を口実に、伏見城を二男・結城秀康に預け大坂城に入城した。伏見城に居ることは秀吉の遺命であったが、家康はこれに背いたことになる。そして同日、利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が家康を暗殺するという、陰謀があったと発表する。

これは利長を首謀者として五奉行筆頭の浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものである。一説には五奉行の増田長盛と長束正家が讒訴(ざんそ)したとも、家康自らが故意に流布したものともいわれるが、情報の出所は不明である。しかし家康はこの「暗殺計画」を最大限に利用。警護の名目で譜代の家臣と兵を引き連れて大坂城に入城し、そのまま居座った。10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は本拠である甲斐府中に隠居を命じられ、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。家康は潔白の証明として人質を要求、利長の母で利家正室であった芳春院が、人質として江戸に派遣することで落着した。現在の学説ではこの暗殺計画は家康のでっち上げとする説が有力であるが、この一件で家康は徳川氏に次いで豊臣家中で声望のあった前田氏を、兵を用いずに自らの統制下に置いた。

さらに家康は高台院退去後の大坂城西の丸を本拠として居座り、ここから矢継ぎ早に独断で大名への加増や転封を実施した。これは来るべき時を迎えるにあたって、一人でも多く味方を増やすための多数派工作であった。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴越前府中5万石、森忠政信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌美濃苗木へ転封とした。本来五大老・五奉行の合意が無ければ行使できない事項である大名の加増・転封を独断で実施するという横暴に出たのである。また一時中断していた婚姻政策を再開し、家康の専横はますます増大していった。

[編集] 会津上杉征伐

詳細は「会津征伐」を参照

前田氏を統制下に置いた家康は、次なる標的を陸奥会津若松城主である上杉景勝へと定めた。景勝は1597年にそれまでの本拠であった越後から陸奥会津へ加増転封となり、帰国を機に領内の整備に取り掛かっていた。具体的には会津神指城の新築を始め、領内における支城群の整備・修築、道路の整備、前田利益(慶次郎)・上泉泰綱らの新規の召抱えなどである。見方によっては単なる新領地への仕置きであるが、家康はこれを「謀反の準備」と見なした。さらに戸沢政盛堀秀治が「景勝に不穏な動きあり」と家康に通報。そして上杉氏重臣であった藤田信吉が、上杉氏を出奔して家康に景勝に逆心ありと訴え出たことにより、景勝討伐に本腰を入れることになる。

まず家康は、加賀征伐でも使用した手である、弁明の使者を送るよう景勝に命じた。しかし上杉氏の重臣であった直江兼続はこれに猛然と反発、挑戦的な態度で家康を痛烈に非難した。この時に家康に宛てられた返書がいわゆる「直江状」であるが、原本がなく、言葉遣いがおかしいことなどから、現在では後世の偽書であるという考えが多数である[6]。いずれにしても、上杉方からの返書を受け取った家康は、直ちに会津征伐の軍を発することを全国の諸大名に命じた。この家康の動きを制すべく増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行、堀尾吉晴・生駒親正中村一氏[7]三中老が出陣を思い留まるよう諫言したが、家康はこれを完全無視。一気呵成に会津への出陣を目指した。

家康は上杉領内を五箇所から攻撃することを定め、6月2日に東北・関東・北陸の諸大名に出陣を命じた。北の米沢口に最上義光南部利直・戸沢政盛ら、北東の信夫口に伊達政宗、西の越後津川口に前田利長・堀秀治・溝口秀勝村上義明ら、南東の仙道口に佐竹義宣を当て、家康は西国諸大名と共に南の白河口より一斉に攻め込む体制を採った。6月15日家康は秀頼より金2万両と兵糧2万石が下賜されて、秀頼の命を奉じる形で翌16日に大坂城を出陣、一旦伏見城に入った。この時の家康の様子を侍医である板坂卜斎は『慶長年中卜斎記』において次のように記している。

千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌能く四囲を御ながめ、座敷に立たせられ、御一人にこにことお笑ひ御座なされ候。

家康の悲願である天下取りが現実のものになりつつある状況に、満足している節が伺える。この後鳥居元忠松平家忠松平近正らに伏見城守備を命じ、さらに山科まで見送りに訪れた島津義弘にも伏見城守備を依頼して江戸へと下る。一方佐和山城に隠居していた三成は、家康が江戸に下るとの報を受け、家康留守中を狙って挙兵し、西国大名を糾合して家康を討ち果たす決意を固め、動き始める。だが家康は天下奪取を果たすため反対派を一掃するべく、わざと会津征伐を起こしたとも言われており、三成は敢えて家康の罠にはまったとも見られる。

また上杉景勝も、常陸56万石の大大名・佐竹義宣と秘密同盟を結んでおり、白河口より攻め込んでくる家康を、挟撃する計画があった。他にも、会津領内の浪人などを雇ったり、会津神指城の築城や、急速な各城の補強工事など、攻めよせる家康軍への迎撃体制を整えていった。

いずれにしても、家康の会津征伐によって戦局は風雲急を告げ始めた。

[編集] 関ヶ原の戦い前の石高

主な東西の大名(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名)

武将 石高(万石) 武将 石高(万石)
東軍 徳川家康 255.0 西軍 毛利輝元 120.5
前田利長 83.0 上杉景勝 120.0
伊達政宗 58.0 島津義久 73.0
加藤清正 24.5 宇喜多秀家 57.4
福島正則 20.0 佐竹義宣 56.0
細川忠興 18.0 石田三成 19.4
浅野幸長 16.0 小西行長 20.0
池田輝政 15.2 増田長盛 20.0
黒田長政 18.0 小川祐忠 7.0
加藤嘉明 10.0 大谷吉継 5.0
田中吉政 10.0 脇坂安治 3.3
藤堂高虎 8.0 安国寺恵瓊 6.0
最上義光 24.0 小早川秀秋 35.7
山内一豊 6.9 織田秀信 13.5
蜂須賀至鎮 17.7 長宗我部盛親 22.0
本多忠勝 10.0 朽木元綱 1.0
寺沢広高 8.0 赤座直保 2.0
生駒一正 15.0 吉川広家 14.2
井伊直政 12.0 長束正家 5.0
松平忠吉 10.0 毛利秀元 20.0
筒井定次 20.0 戸田勝成 1.0
京極高知 10.0 真田昌幸 1.0
  • 本多忠勝・井伊直政・松平忠吉の所領は徳川家康の、毛利秀元・吉川広家の所領は毛利輝元の領地に含まれる。

[編集] 去就

関ヶ原決戦前における日本全国の大名・武将の去就を記す。西軍から東軍に寝返った大名については裏切り参照。

[編集] 東軍

東軍の総大将 德川家康

[編集] 東海道隊本隊(家康隊)

東海道・近畿以西の豊臣恩顧大名と軍監(目付)として井伊直政・本多忠勝を先発隊としている。後日出撃した家康本隊は大名級がほぼ秀忠隊に配属されており、38,000の軍勢の構成は旗本が多く占めている[8]。井伊直政は3,600程度の軍勢を連れていたが出陣前に病に倒れ、本多忠勝が臨時にこれと代わった為に忠勝隊は小姓・足軽ら500程度の軍勢であった(本多家の本隊は忠政とともに秀忠隊に配属。また、病の癒えた直政も後を追っている)。


[編集] 東海道隊別働隊(大垣城包囲・周辺城砦攻略)


[編集] 東海道守備隊


[編集] 中山道隊(秀忠隊)

徳川家大名クラスの多く(これは秀忠隊が当初は上杉、後に中山道制圧を任務としていたからと思われる[9])と信濃の大名がこの隊に属している。


[編集] 対上杉・佐竹守備隊


[編集] 江戸城留守居


[編集] 伏見城守備隊


[編集] 在国

[編集] その他

[編集] 西軍

西軍の中心人物 石田三成

[編集] 本隊


[編集] 大津城攻撃部隊


[編集] 田辺城攻撃部隊


[編集] 美濃・尾張守備隊

[編集] 伊勢守備隊


[編集] 北国口守備隊


[編集] 佐和山城守備隊


[編集] 大坂城留守居・守備隊


[編集] 在国

[編集] その他

  • 生駒親正(病気を装い本戦には不参加)
  • 蜂須賀家政(家臣を大坂に派遣し自身は剃髪して高野山に上る)
  • 織田信雄(西軍に属した説と中立説がある)

[編集] 内応

本戦において西軍から東軍に寝返った大名について記載する。

[編集] 積極的内応軍=積極的に戦に参加した西軍の部隊

など

[編集] 消極的内応軍=それ以外の内応部隊

[編集] 中立

[編集] 本戦までの動き

[編集] 三成挙兵

伏見城

7月1日、宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行い、これに高台院は側近の東殿局(大谷吉継の生母)を代参させている。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ[10]。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を行い、毛利輝元への西軍総大将就任要請などを決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、 長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。また島津義弘は家康との約束に従い伏見城に入城しようとしたが、鳥居元忠に断られ止む無く西軍に身を投じている。こうして大坂城には主に中国・四国・九州の諸大名が集結し、およそ10万の兵力となった。しかし内部は必ずしも一枚岩ではなく、吉川広家や鍋島直茂のように早くも東軍への内応を画策する武将もいた。

7月17日毛利輝元が大坂城西の丸に入城して、西軍の総大将に就任。ここに至って三成は挙兵宣言を発し、まず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動した。しかし、加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害[11]するなど失敗に終わった。翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、輝元の名で開城要求を勧告した。城将の一人木下勝俊は要請に応じ伏見城を退去したが、元忠は拒絶。明くる7月19日から伏見城の戦いが行われる。伏見城は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍により攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した。この間の7月21日、増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による13か条からなる家康弾劾状『内府ちがひの条々』が諸大名に発せられている。ただし、これが東軍側に伝わるのは小山評定の後であった。

伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎が籠る、丹後国田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。大谷吉継は北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である、織田秀信が城主として拠っていたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功する。

[編集] 小山評定

この頃家康は会津征伐のために江戸城に居たが、7月19日に一通の書状が家康に届けられた。差出人は西軍首脳の一人である増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容であった。その後も長盛からの書状は届けられており、この時点で長盛は東軍に内通をしている。シナリオ通りに進んでいることを知った家康であるが、そのまま7月21日には江戸城を立ち、7月24日下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされた。

家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる「小山評定」である。家康にとって最大の問題は、東海道・東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していた。そのため、家康の命を受けた黒田長政は福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得した。

評定では、山岡道阿弥板部岡江雪斎から情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられた。すると正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明。黒田・徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約した。その一方で信濃上田城主である真田昌幸と、美濃苗木城主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転する。

つづいて山内一豊が自らの居城掛川城の提供を申し出、東海道筋の諸大名がこれにならった。この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴[12]の子)と事前に協議したもの[13]で、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明。秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。

以上のように評定が展開した背景として、東海道筋の大名が秀次事件以降に家康との接近を強めたためとする指摘がある[14]

諸将が提供した居城には松平康重松平家乗内藤信成保科正光北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当たった。

三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降続々と陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣。また伊勢方面に所領を持つ富田信高古田重勝氏家行広福島正頼九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻った。家康は徳川秀忠に榊原康政大久保忠隣本多正信ら約3万8,000の軍勢を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、8月24日には出陣した。一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男で武勇に優れていた結城秀康を総大将に、里見義康蒲生秀行那須資景らを宇都宮城に留め、監視させた。家康は江戸城に戻るが、そこから一歩も動かなくなった。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧が発生したためである[15]

[編集] 前哨戦

三成は真田昌幸への書状の中で、尾張と三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であり、そのため早急に美濃・伊勢を平定して尾張になだれ込む必要があった。伊勢路を進む宇喜多秀家ら西軍の軍勢約3万は、筒井定次の居城・伊賀上野城を開城させ、その後富田信高が籠る安濃津城、古田重勝の松坂城などを攻略し8月までには陥落させる。その後さらに北上を進め尾張攻略を目指し、桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟を西軍に加担させるが、東軍先発部隊が清洲城に集結するとの報を得て、福島正頼・山岡景友の拠る長島城攻撃を諦め、三成の居る大垣城へと向かった。この時点で三成の尾張・三河で東軍を迎撃する戦略は破綻。木曽川で迎撃する方針へと修正した。さらに背後を挟撃する予定の上杉景勝は、軍勢を東北方面へ向け、佐竹軍は佐竹義宣が父・佐竹義重らの西軍加担への猛反対により、重臣筆頭の佐竹義久を秀忠軍に派遣するなど、曖昧な態度に終わり、次第に三成の戦略構想は齟齬を来たし始めた。なお、鍋島勝茂は父・直茂の命により美濃・伊勢国境付近に留まり、大垣城に向かう宇喜多・毛利軍などから離脱。以降西軍の軍事行動には加わらず傍観した。

小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は背後(上杉景勝・佐竹義宣)の危険から江戸に留まり、藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて[16]内応を約束させる。江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及び、家康の書状による情報処理は、その後の戦いの雌雄を決定付けることになる。一方、三成が西軍諸大名に宛てた書状は、家康のそれよりも少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で疑問にされている。

家康が書状作戦を展開している頃、正則ら東軍先鋒は清洲城に集結したが、その後一向に家康からの音沙汰がなく、正則は、自分たちを捨石にするのかと激怒。家康の娘婿である池田輝政がこれに反発して、口論したと伝えられている。しかし家康の使者・村越直吉が来着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられるや、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へとなだれ込んだ。8月22日に竹ヶ鼻城を陥落させ、その後河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信が城主の岐阜城を落とした(岐阜城の戦い)。城主である秀信は、正則や輝政の助命嘆願もあって弟の織田秀則と共に高野山へ追放され、彼の地で病没。織田氏本宗家は断絶した。同時期美濃国内では東濃遠山友政小里光明妻木頼忠など山崎の戦い賤ヶ岳の戦いで秀吉に敵対し領地を失い、家康に保護されていた明智光秀旧臣や元領主が、旧領復活を狙い苗木城岩村城明智城などを陥落させ、西濃でも市橋長勝徳永寿昌らが福束城や高須城など、西軍方の拠点を陥落させていった。さらに犬山城守備の任に就いていた関一政加藤貞泰竹中重門井伊直政の誘いで東軍に降り、郡上八幡城稲葉貞通も降伏するなど東軍優勢となりつつあった。

[編集] 関ヶ原への転進

岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと西上した。一方秀忠は中山道を進んだが、途中真田昌幸の籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わなかった[17]。家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に赤坂の岡山に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して東軍の中村忠一有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれを散々に打ち破った。これを杭瀬川の戦いという。

三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していたが、いずれも淀殿に拒否され果たせなかった。輝元には出馬の意思があったといわれるが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされている。また、西軍の北陸道平定軍に従軍していた京極高次が突如として戦線を離脱、居城の大津城に籠城して東軍への加担を鮮明にした。このため三成は毛利元康を大将に、小早川秀包や立花宗茂ら1万5,000の軍勢を割いて、大津城攻撃へと向かわせた(大津城の戦い)。さらに9月14日には西軍の首脳であったはずの前田玄以が大坂城を退去し、閑居するという事態も発生した。この玄以も、一説には東軍に内応していたという。こうして西軍は当初の戦略が次第に狂っていったが、14日夜に家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進する。西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かった。

この14日には松尾山に小早川秀秋が陣を構えていた。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していた。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていた。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で秀吉に左遷されており、それを家康に助けてもらった経緯がある。従って秀秋は三成を恨んでおり当初から東軍への参戦を考えていたが、伏見攻めの一件により、成り行きで西軍についたという経緯がある。1万5,000の大軍を擁する秀秋を繋ぎとめるため、家康・三成は秀秋に、破格の恩賞を与える約束を行っていた。家康は上方二ヶ国を与えると提示し、西軍は秀頼が15歳になるまでの間秀秋を関白に就け、さらに播磨一国を加増すると提示したのである。

秀秋を巡る水面下での謀略が入り乱れるなか、両軍は中山道、北国街道伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結し、決戦の火蓋が切って落とされようとしていた。

[編集] 本戦

関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)拡大

9月15日、東西両軍は関ヶ原の地に集結した。旧大日本帝国陸軍の参謀本部が編纂した『日本戦史・関原役』によれば、東軍7万5,000、西軍10万、合わせて17万を超える兵力が狭い関ヶ原の盆地に集結したことになる。

下表は関ヶ原本戦に参陣した武将を、その動員兵力の多い順に示したものである。出典は『日本戦史・関原役』に拠る。

武将 兵力 武将 兵力
東軍 徳川家康 30,000 西軍 宇喜多秀家 17,000
浅野幸長 6,500 小早川秀秋 15,000
福島正則 6,000 毛利秀元 15,000
黒田長政 5,400 長宗我部盛親 6,600
細川忠興 5,000 石田三成 6,000
池田輝政 4,500 大谷吉継 4,100
井伊直政 3,600 小西行長 4,000
松平忠吉 3,000 吉川広家 3,000
加藤嘉明 3,000 大谷吉治 2,500
田中吉政 3,000 小川祐忠 2,500
京極高知 3,000 織田信高 2,000
筒井定次 2,800 安国寺恵瓊 1,800
藤堂高虎 2,500 島津義弘 1,500
寺沢広高 2,400 長束正家 1,500
山内一豊 2,000 木下頼継 1,000
生駒一正 1,800 脇坂安治 1,000
古田重勝 1,200 赤座直保 600
金森長近 1,100 朽木元綱 600
有馬豊氏 900 糟屋武則 360
本多忠勝 500 河尻秀長 不明
織田長益 450 田丸直昌 不明
蜂須賀至鎮 不明 毛利勝信 不明

[編集] 布陣

西軍方は三成の拠る「笹尾山」、宇喜多秀家の拠る「天満山」、小早川秀秋の拠る「松尾山」、そして毛利秀元が布陣する「南宮山」のラインで東軍を囲む鶴翼の陣を敷く。明治の世に軍事顧問として来日したドイツクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。

関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込め、隣の軍の様子も侭ならない。そんな中、家康から先鋒の約束を取り付けた福島正則は、じっと開戦の火蓋を切る機会を伺っていた。

[編集] 開戦

濃霧の中で両軍は2時間ほど対峙し続けていた。やがて、霧も薄くなってきた頃、福島隊の横を井伊直政松平忠吉の小隊が通り抜けようとしていた。家康から先鋒を任されたはずの福島正則の家臣可児才蔵が呼び止めて詰問するが、「物見」と称して福島隊の前方へ張り出した。直政の小隊は、西軍の主力である宇喜多隊に向けて発砲、ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。

対する宇喜多隊も直ちに応射、関ヶ原はたちまちのうちに激戦の様を呈した。福島正則隊6,000や井伊直政、松平忠吉らの隊は、 宇喜多秀家隊1万7,000に攻撃するも、あっという間に撃破される。しかし、福島隊らの不利を見た加藤嘉明隊らが、宇喜多隊の側面を猛攻。これに乗じて福島隊らも宇喜多隊に猛反撃を仕掛けるなど、宇喜多隊周辺は関ヶ原での最大の激戦地であった。黒田長政隊5,400、細川忠興隊5,000は一斉に三成の部隊めがけて襲い掛かる。三成隊も配下の島左近蒲生郷舎らが奮戦、大筒を用いて襲い掛かる敵を撃退してゆく。大谷吉継隊4,100と配下の戸田重政平塚為広計1,600は、藤堂高虎隊2,500・京極高知隊3,000と死闘とくりひろげる。小西行長隊6,000は、田中吉政隊3,000・筒井定次隊2,800と交戦。激戦をこの地で体験した太田牛一は次のように記している。

笹尾山陣地跡
敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う―

三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。さらに島津隊に応援要請の使いをだす。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の3万3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に運んでいた。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定的となるはずであった。しかし、島津は使者が下馬しなかったため、無礼という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、内応済みの吉川広家に道を阻まれ、参戦できずにいた(宰相殿の空弁当)。

[編集] 小早川秀秋の裏切り

正午過ぎ、家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。ただし、松尾山が標高300メートルに達する山であり、戦闘のさなかに火縄銃の音が聞こえるのか、また、大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げていた松尾山山麓に近付くのは容易ではないといった点から疑問も呈されている[18]。なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命令を拒否・離反した。

小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた、大谷隊右翼を攻撃する。吉継はかねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測しており、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山麓まで押し戻す。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、[19]小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。

大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、激戦が続いてる関ヶ原中央に進軍を始めた。ここに、関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。

[編集] 西軍敗走

小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃をかける。そのころ、宇喜多秀家隊は、東軍各部隊から集中攻撃を受け続けていたものの、撃退し続けていった。しかし、小早川隊らが側面から攻め込み、東軍の後詰めの部隊からも波状攻撃を受ける。それでもなお宇喜多隊は激戦を繰り広げたが、とうとう宇喜多隊の各戦線が完全に崩壊し壊滅。宇喜多秀家は寝返った小早川秀秋を討とうと決心し、小早川軍に突撃して戦死しようとするが、家臣の明石全登らに説得され、やむを得ず伊吹山中に敗走する[20]。小西隊も敗れ、敗走。南宮山に布陣していた毛利らも西軍の敗北と知ると、戦わずに伊勢街道方面へ逃亡し始めた。石田隊は宇喜多・小西が敗走したあと、東軍部隊から総攻撃を受ける。圧倒的に不利であったにも関わらず、石田隊は持ち堪えていたが、とうとう壊滅した。

こうしたなか、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲される。ここにおいて、いわゆる島津勢の「敵中突破退却戦」が開始される。島津義弘隊1,500(実際は陣防衛戦で300人程度まで激減していた)が一斉に鉄砲を放ち、家康本陣側を通り抜け撤退を開始。この「前進撤退」には福島隊ですら腰が引いたとされる。また、追撃した部隊のうち井伊直政と松平忠吉は狙撃され負傷し[21]、本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。島津隊は島津豊久長寿院盛淳(阿多盛淳)、肝付兼護ら多数の犠牲を出しながらも80前後の手勢となりながらも撤退に成功した。盛淳は、義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹したと言われている。

[編集] 地方への波及

美濃関ヶ原での戦いと連動して、その前後、全国各地で東軍支持の大名と西軍支持の大名とが交戦した。

[編集] 東北

上杉征伐のきっかけは、堀秀治の讒訴というのが定説であるが、近年秀治が西軍側につこうとしたことを示す書状などが発見されている。家康は三成挙兵により反転する際、結城秀康を主力に、上杉領に面した最上義光や、その近隣の秀治や伊達政宗に対して景勝監視の命を下した。上杉領を自領が分断する形になっていた最上義光は、上杉勢との衝突は避けられなかった。義光は奥羽諸将と連合し上杉勢と戦おうとしたが、関ヶ原開戦の報を受けると諸将は自国安定のため引き上げていった。数の上で不利を悟った義光は、嫡子を人質とすることを条件に上杉勢に和睦を申し入れたが、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため成立しなかった。9月9日米沢城方面から直江兼続率いる上杉勢が最上領に押し入った。さらに小野寺義道も最上領に侵入した。

伊達政宗は東軍につき徳川家康が勝利した暁には、政宗の旧領7郡を加増し百万石の領地を与えるという、家康から「百万石のお墨付き」(仙台市博物館蔵)を受け取っていた。伊達勢は上杉領の白石城を攻撃し占領するも、これを返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。

最上義光は急な侵攻に慌て、急ぎ伊達政宗に援軍を要請。伊達家内では「上杉勢と最上勢を戦わせて疲弊した後に攻めれば、上杉勢を容易く退けることが出来、山形は労せずして我が物になる」という片倉景綱の進言も出たが、最上潰滅は上杉景勝の脅威をまともに受けることにつながるので(一説には山形城に居る母の身を政宗が案じたとも)留守政景を総大将名代として9月17日に援軍を出撃させた。しかし伊達勢は出撃せず、最上領内で様子を見るにとどまった。 兼続は最上勢の鮭延秀綱らの勇戦に苦戦し、志村光安が守備する寡兵の長谷堂城を攻略しきれなかったことで戦局は膠着状態となったが、9月29日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し、流れは一気に最上勢に傾いた。

兼続はすぐさま撤退を命令し、自身で殿軍を努め撤退を開始した。義光はただちに追撃を命令し、自ら先頭に立ち猛攻を仕掛けた。この追撃戦は大混戦となり、義光は兜に銃弾を受けるなどしたが、最上義康らの軍勢が追いつき難を逃れた。兼続勢は10月4日米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ、下対馬など降伏する者が相次いだ(慶長出羽合戦)。

[編集] 北陸

前田利長は上杉攻めを支援すべく、7月26日に金沢を出発。8月に入り山口宗永が篭る大聖寺城を包囲、3日で落城させると青木一矩北ノ庄城を囲んだ。しかし、「大谷吉継の大軍が後詰でやってくる」という虚報(吉継自身が流したと言われている)に引っかかり、急いで金沢に引き返そうとした。

利長は途中軍勢を二手に分け、丹羽長重が篭る小松城に別働隊を送り込んだ。8月9日、別働隊に長重の篭城軍が襲い掛かり、別働隊を蹴散らした長重はさらに利長の本隊も襲い、大損害を与えた。こう着状態になったあと長重は和睦、小松城を明け渡した。辛くも金沢に戻った利長は大急ぎで軍を建て直し、9月12日に再度金沢を出発したが、結局関ヶ原には到着できなかった。この時、大聖寺城攻撃には参加していた弟の前田利政は、居城である七尾城に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった。利政はかねてより西軍への参加を主張していたものとみられ、結果的に領地没収の憂き目にあった。

[編集] 畿内

[編集] 大津城

詳細は「大津城」、「京極高次」、「大津城の戦い」をそれぞれ参照

[編集] 田辺城

詳細は「田辺城の戦い」を参照

[編集] 四国

伊予でも東軍についた加藤嘉明松前城に対し、毛利軍が戦闘をしかけた。平安時代から続く名族で旧伊予守護家・河野氏当主であった河野通軌河野通直の養子。実父は毛利氏重臣・宍戸元秀)を始め平岡直房曽根高房ら河野氏遺臣、村上武吉村上元吉父子ら伊予に縁のある毛利家臣が三津浜に上陸し、陣を敷いた。松前城に対し開城を要求したが、加藤家の留守居役佃十成らに夜襲を受け、村上元吉、曽根高房らが討ち死にし(三津刈屋口の戦い)、その後も毛利方が不利のまま関ヶ原での西軍敗北を受けて毛利軍は撤退、関ヶ原の戦いに乗じた河野氏再興はならなかった。

[編集] 九州

九州では黒田如水、加藤清正、鍋島直茂らが本国に留まっていたが、清正と直茂は当初中立を保ち、積極的に動いたのは東軍に与した如水であった。如水は中津城に蓄えてあった金品や兵糧を惜しげもなく放出し、それに釣られて集まってきた浪人を中心に3500余りの俄か作りの軍勢を作った。

一方、西軍側には東西対決の様相を見せるや毛利輝元の支援を受け豊後奪還を図った大友義統大友宗麟の嫡子)がいた。嫡男である大友義乗は家康に従い東軍に従軍していたが義統は輝元の誘いに乗って西軍に付いた。重臣であった吉弘統幸はこれに反対するが、義統はこれを無視し、9月9日義統は追放以来久しぶりに豊後の地を踏み、大友旧臣に集結を呼びかけた。これに対し田原紹忍宗像鎮続など旧臣が義統の下に集まり、およそ3,000の兵力で石垣原(別府市)で如水勢を待ち構えた。9月13日、両軍がついに激突(石垣原の戦い)。義統軍は攻勢に出るが、統幸・鎮続ら大友軍の主力武将が討ち死するなどで大友の敗勢が明らかとなり、9月15日、義統は出家して母里太兵衛の陣に出頭し如水勢に降伏した。如水はさらに進撃を続け、西軍に属する福原長堯・熊谷直盛などの領土にも攻め込み、10月4日までに豊後を平定した。

如水勢に加勢するために熊本を出陣した清正は、如水勢勝利の報を聞いて反転し、小西行長の領土に攻め入った。有馬晴信松浦鎮信ら肥前国内で中立を保っていた諸大名もこれに加勢し、小西行景の籠る宇土城を攻略した。

日向では病気のため東軍に参加出来なかった伊東祐兵の嫡男・伊東祐慶が島津領内に攻め込み、さらに秋月種長高橋元種の領地にも攻め入るなど活発な行動を見せた。だが種長や元種らは大垣城で東軍に寝返ったため、結果的には同士討ちとなってしまった。

[編集] その他

[編集] 関東

常陸の大大名であった佐竹義宣は三成と親交が深く、上杉景勝と連携して会津征伐に向かう徳川軍を挟撃するという密約を結んでいたといわれる。だが父・佐竹義重や弟で芦名氏を継いだ芦名盛重、重臣筆頭である佐竹義久が「東軍に与すべし」と主張し義宣の西軍加担に強硬に反対した。隠居していたとはいえ一代で佐竹氏を北関東・仙道筋の一大勢力に成長させた義重の発言は当主である義宣も無視できず、自身の三成との親交の板ばさみとなり曖昧な態度に終始した。すなわち配下の武将を中山道進軍中の秀忠隊に派遣し、従軍させたのである。配下の多賀谷重経や、小勢力の山川朝信相馬義胤岩城貞隆は景勝に通じていたが、これには結城氏一族で結城秀康の家督相続によって浪人となった結城朝勝の動きが背後にあった。

[編集] 伊勢

関ヶ原に進出途上だった毛利勢らが、道中にあった安濃津城など伊勢の諸城を攻め立てた。安濃津城の富田信高は降伏・出家、松坂城古田重勝は和睦で時間稼ぎしつつ持ちこたえた。桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟は当初中立を宣言していたが西軍の圧力に押されて西軍に加担した。その後西軍は福島正頼(正則の弟)が籠もる長島城を攻略しようとしたが、東軍が清洲城に集結したとの報に接し美濃方面へ転進している。

[編集] 合戦後の動き

東軍諸大名への論功、および西軍諸大名への処罰やその後の動向については関ヶ原の戦いの戦後処理を参照。

[編集] 大垣・佐和山落城

関ヶ原での本戦が東軍の大勝利で終わったその日、家康は首実検の後、大谷吉継の陣があった山中村へ陣を移し、休養を取った。明くる9月16日には裏切り組である小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座吉家、小川祐忠に三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じ、これに近江方面の地理に明るい田中吉政のほか軍監として井伊直政が加わり、1万5,000の大軍を以って近江鳥居本へ進軍。家康は平田山に陣を構えて攻撃を命じた。佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家ら2,800の兵が守備していたが、5倍もの兵力差に加えて御家安泰のために軍功を挙げねばならない秀秋らの攻撃は激しく、9月17日に始まった戦闘は翌18日早朝に田中吉政隊が天守閣に攻め入り落城。正澄ら三成の一族は自刃して滅んだ。重家や赤松則英は捕らえられ、則英は後に切腹を命じられたが、重家は助命され京都妙心寺へ出家させられた。

一方、関ヶ原本戦直前まで、西軍の前線司令部であった大垣城には、福原長堯を始め垣見一直熊谷直盛木村由信・豊統父子などが守備の任に就いていた。これに対し東軍は松平康長堀尾忠氏中村忠一水野勝成津軽為信らが包囲し対陣していた。関ヶ原本戦が西軍の敗北に終わると、城内には動揺が広まったが、逸早く行動に出たのは三の丸を守備していた肥後人吉城主・相良頼房であった。会津征伐に従軍中、三成に東下を阻止された頼房は、長堯の指揮下に入り、同じ九州の大名である秋月種長・高橋元種と共に三の丸を守備していた。西軍敗北の報を受け、頼房は重臣である犬童頼兄の助言もあり、妹婿の種長及びその弟である元種と相談の上、かねてより音信を取っていた井伊直政を通じ、家康への内応を密かに連絡した。連絡を受けた直政は家康に報告、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じるが、長堯ら本丸・二の丸に陣取る大名の戦意は高かった。このため頼房・種長・元種の三将は、9月17日頃軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見・熊谷・木村父子を暗殺し二の丸を制圧した。これを知った長堯は本丸で頼房らを迎撃し奮闘したが、包囲軍に属していた西尾光教の説得によって、9月23日城を明け渡して伊勢朝熊山へ蟄居した。家康は長堯を許さず切腹を命じ、長堯は9月28日同地で自刃した。内応した三将は領地を安堵されている。

伊勢方面では、西軍の敗報に接し多くの将が退却している。9月16日には伊勢亀山城が開城し城主であった岡本宗憲が自刃。嫡男・重義も近江水口に送られその地で自刃した。桑名城も同日開城、当初東軍に加担するつもりが、西軍の圧力で止む無く西軍へ加担した氏家行広・行継兄弟は、山岡道阿弥に城を明け渡し、後改易された。長島城を包囲していた原長頼は逃走したが捕縛。美濃駒野城に籠城していた池田秀氏や、伊賀上野城を占拠していた新庄直頼・新庄直定は、城を放棄して退却している。鍋島勝茂は父・鍋島直茂の命で伊勢・美濃国境付近で傍観していたが、西軍敗走の報に接するや直ちに大坂へ退却、その後、伏見城に赴き家康に謝罪している。志摩鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦した九鬼嘉隆は伊勢答志島へ逃走した。守隆は父の助命を家康に懇願、当初家康は拒否したが、加増の内示を受けていた伊勢南部五郡を返上して父の助命嘆願を行った守隆に免じ、助命を許した。しかし助命の報が届く直前に嘉隆は自刃する。嘉隆と共に行動した堀内氏善は、紀伊新宮城に籠城したが、城を捨てて逃走している。

[編集] 論功行賞と三成の処刑

家康は西軍の首謀者で、敗戦後逃亡し行方不明となっている三成や宇喜多秀家、安国寺恵瓊、長束正家らの捕縛を厳命。一方で大坂城無血開城を行うべく、福島正則と黒田長政に西軍総大将である毛利輝元との、開城交渉を命じている。家康は9月20日京極高次の居城である大津城に入城し、しばらく留まった。この間北陸方面の東軍総大将であった前田利長が、西軍に属した丹羽長重と青木一矩の嫡男・青木俊矩を連れて合流している。家康は両名の懇願を排し、改易処分とした。また家康が大津城に入城した同日に、中山道軍総大将であった徳川秀忠が合流している。真田昌幸に上田城で翻弄され本戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は激怒、しばらく目通りを許さなかったが榊原康政の必死の諫言により9月23日対面が叶っている。

一方逃亡していた西軍諸将であるが、まず9月19日に小西行長が竹中重門の兵に捕らえられ、草津に滞在中であった家康本陣に護送された。続いて三成が9月21日、近江伊香郡高時村古橋において旧友である田中吉政の兵に逮捕された。逮捕された場所は三成の領内であり、同地の農民が処罰を覚悟の上で匿っていた。しかし三成は発覚したことを知ると自ら吉政の兵に身分を明かし、捕縛されている。捕縛後9月22日に大津へ送られ、東軍諸将とここで再会した。この時のエピソードとして福島正則は三成に罵詈雑言を浴びせ、黒田長政や浅野幸長は逆に三成に労りの声を掛けている。また小早川秀秋は三成に裏切りを激しく詰られたと伝えられている。9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌の兵によって捕らえられ、大津に護送された。この三名は9月26日に家康が大津城から淀城に移動する際大坂へ護送された。五奉行の一人で関ヶ原本戦に参じていた長束正家は居城である水口城へ戻っていたが、これを知った家康は池田輝政長吉兄弟と稲葉貞通に水口城攻撃を命じ、9月30日に開城させている。また細川忠興は家康の命を受け、父・細川幽斎の籠る田辺城を攻撃した総大将・小野木重勝が拠る丹波福知山城攻撃に向かった。途中丹波亀山城において父と再会、田辺城の戦いに加わりながら戦意を見せなかった谷衛友別所吉治川勝秀氏藤掛永勝らを従え9月23日より攻撃を開始した。重勝は徹底抗戦の構えを見せたが、井伊直政と山岡景友の説得により開城。城下の寺へ謹慎する。

家康は淀城を経て9月27日に大坂城に入城。豊臣秀頼や淀殿と会見した後、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の6名に命じて、家康に味方した諸大名の論功行賞の調査を開始、10月15日以降順次発表された。宇都宮城に拠って上杉景勝・佐竹義宣を牽制した結城秀康の67万石を筆頭に、豊臣恩顧の諸大名は、軒並み高禄での加増となった。しかしいずれも西国を中心に遠国へ転封となり、京都・大坂および東海道は、家康の子供達や徳川譜代大名で占められた。また蔵入地が廃止され、それぞれの大名領に編入されたことで、豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津河内和泉65万石余りに事実上減封となった。一方家康は自身の領地を開戦前の255万石から400万石へと増加させ、京都・長崎を始めとする大都市や佐渡金山石見銀山生野銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地に含まれた。これにより徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力が逆転する。ただし今までは、この一連の論功行賞で、豊臣家が一大名の地位に陥落したとする学説が一般的であったが、豊臣家がなお特別の地位を保持して、徳川の支配下には編入されていなかったとする認識[22]が現在では主流となっている。また、莫大な秀吉の遺産である、所蔵金はそのままであり、以後家康は大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすまでその対策に苦心する。9月30日、慶長出羽合戦を繰り広げていた上杉景勝の下に、ようやく西軍敗戦の報が伝えられ、長谷堂城にいた直江兼続は撤退を開始する。

10月1日、大坂・堺を引き回された三成・行長・恵瓊の三名及び伊勢で捕らえられた原長頼[23]は京都六条河原において斬首された。首は三条大橋に晒されている。10月3日には長束正家と弟の直吉が自刃し、やはり三条大橋に首を晒された。福知山城を開城した小野木重勝は、直政や景友の助言によって、一旦は出家ということで助命が決まりかけたが、細川忠興が強硬に切腹を主張し、重勝は10月18日に丹波福知山浄土寺で自刃した。一説には父の面前で自刃させたとも伝えられている。この他赤松則英、垣屋恒総石川頼明斎村政広などがこの10月に自刃を命じられている。家康の弾劾状に署名した残りの五奉行、増田長盛と前田玄以については、両名とも東軍に内通していたが、長盛は死一等を減じられ武蔵岩槻に配流。玄以は所領の丹波亀山を安堵されるという、両極端な処分が下された。一方、西軍副将を務めた宇喜多秀家は、家康から捕縛を厳命されていたが、厳しい探索網を潜り抜け薩摩へ逃亡を果たしている。

[編集] 毛利氏の処分

吉川広家や毛利秀元ら毛利一族、福原広俊ら毛利家臣団の反対を押し切り、三成と彼の意を受けた安国寺恵瓊の要請によって、西軍の総大将に就任した毛利輝元であるが、家康の命を受けた福島正則と黒田長政との交渉に応じて、9月24日に大坂城西の丸を退去した。秀元や立花宗茂は大坂城に籠城して徹底抗戦を主張したが、交渉において家康から領地安堵をほのめかされていた輝元はこれに応じず、家康の要請に従い退去した。輝元は吉川広家が東軍に内応し、家康から領地安堵の意向を伝えられていることも知らされており、それを信用しての行動であった。

しかし家康は「本領安堵」の約束を反故にする。家康は輝元の西軍総大将就任は、本人の関知していない所であると、広家より伝えられていたが、その後輝元が積極的に西軍総大将として活動していたことが、判明したためである。具体的には、諸大名への西軍参加を呼びかけた書状の発送、伊予において河野通軌ら、河野氏遺臣に毛利家臣である村上元吉を付けて、東軍・加藤嘉明の居城である伊予松前城攻撃に従軍させたこと、大友義統を誘い軍勢を付けて、豊後を錯乱したことなどが挙げられる[24]。また家康は輝元と義兄弟の契りを1599年(慶長4年)に交わしていたが、それを反故にされた怒りもあった。このため家康は10月2日、黒田長政を通じ広家に対し「毛利氏は改易し、領地は全て没収する」と通告、関ヶ原本戦における南宮山での、毛利軍参戦阻止の功を認め、広家には周防長門を加増すると同時に伝えた。

毛利氏安泰のための内応が、水泡に帰した広家は驚愕、家康に対し必死に毛利氏存続を嘆願、自身に加増予定の周防・長門を輝元に与えるよう訴えた。広家の毛利本家への忠節に心を動かされた家康は、広家の嘆願を受け入れ、先の毛利氏改易決定を撤回し周防・長門36万石余りへの減封とする決定を10月10日に下した。さらに本拠地を毛利氏が申請した周防山口ではなく、日本海側の寒村であったにするよう命じた。本領安堵されると思っていた輝元は失意の余り出家、家督を嫡男である毛利秀就に譲り隠居する。この家康の決定に対し毛利氏は恨みを募らせ、幕末へと続いた。また吉川氏に対し毛利本家は、諸侯待遇の推挙を幕府に行わない仕打ちを行った[25]が、広家の功績を知る幕府は、吉川氏を諸侯並みの待遇とし、当主は代替わりに将軍への拝謁が許されるという特権を与えて、広家の功に報いた。

[編集] 島津氏の処分

関ヶ原本戦において、敵中突破を敢行した島津義弘は、立花宗茂と共に逃走し、鹿児島へたどり着いた。義弘は桜島で自ら謹慎したが、当主である兄・島津義久ら島津氏首脳は家康の攻撃を予測して、領内の防衛体制を強化し、臨戦態勢を採った。一方家康は先に大垣城開城において中心的な役割を果たした相良頼房・秋月種長・高橋元種に、島津征伐の準備をするよう命じており、当初家康は、島津氏を武力で討伐する方針を固めていた。

九州では関ヶ原の戦いが終了しているこの時期でも、戦闘が繰り広げられていた。10月6日には黒田如水が豊前小倉城を攻撃して毛利勝信を降伏させている。また、加藤清正は松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前と共に小西行長の居城である肥後宇土城を攻撃していたが、西軍敗戦の報が届いたことで10月12日に城将・小西行景が自刃し開城した。肥前佐賀の鍋島直茂と勝茂の父子は、伏見で家康に西軍加担を謝罪した際に、本領安堵の条件として筑後平定を命じられ、直茂父子は帰国後直ちに筑後平定に掛かった。まず小早川秀包久留米城を開城させ、続いて立花宗茂の籠る柳河城10月19日より包囲した。鍋島軍と立花軍の間で激戦が繰り広げられたが、包囲軍に加わった如水・清正の説得によって宗茂は11月18日に開城、降伏する。

宗茂降伏後、家康は直ちに島津義久討伐を九州の全大名に命じた。最終的に家康に従った、九州の全大名が出陣し肥後水俣に進軍。これに対し島津軍は兵を総動員し軍を北上させ、薩摩・肥後国境に兵を進めた。同世代の戦国末期だけでも、耳川の戦い沖田畷の戦い戸次川の戦い泗川の戦いにおいて、凄まじい強さを誇る島津軍の武名は、日本中、さらには明・朝鮮にまで轟いていた。さらに指揮は、島津家総帥である島津義久がとっていた。滅多なことがない限りは出陣せず、徳川家康からも、「大将の鑑である」とまで言われた、名将・島津義久が出陣したことにより、島津軍の将兵は士気が極めて高かった。対する九州連合軍は、黒田如水、立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正といった、戦国の世を生き抜いた、当代屈指の名将が揃っており、大兵力が集まっていたため、九州の緊張は最高潮に達し、一大決戦になると予想されたが、11月22日に義弘が、家康に謝罪の使者を送ったため、島津征伐は中止となった。以降家康と島津氏の間で交渉が行われた。島津義弘は関ヶ原の退却戦において傷を負わせた井伊直政に仲介を依頼したところ、直政はこの仲介要請を快諾し、以降徳川方の窓口として、島津義久、島津忠恒と戦後交渉をした。家康は義弘上洛の上で謝罪することを再三迫ったが、義久・忠恒は本領安堵の確約がない限りは上洛には応じられないとしてこれを拒否し、交渉は長期化した。島津側は家康に対し、そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと主張した。

その後二年にわたり交渉は続けられたが、最終的に家康が折れる形で直筆の起請文を書き、1602年(慶長7年)3月に薩摩・大隅日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定された。決定後義久の名代として、忠恒が12月に上洛し謝罪と本領安堵の御礼を家康に伝え、島津氏も徳川氏の統制下に入った。島津義久の硬軟織り交ぜた超一流の外交術により、島津家は本領安堵を得ることができた。薩摩という、大坂から離れている地理的な利点は大きかったが、早い段階で家康に全面的な降伏をした毛利氏、上杉氏が大幅な厳封された事と比較すると、対照的な結果となった。薩摩に匿われていた宇喜多秀家は家康に引き渡されたが、前田利長と共に忠恒が助命嘆願を行ったことで死一等は免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。

[編集] 上杉氏・佐竹氏の処分

10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪したことにより、西軍に加担した大大名で処分が未決となっているのは、関ヶ原の導火線となった上杉征伐の張本人である上杉景勝と、態度を曖昧のままにしていた佐竹義宣の二人となった。

景勝は最上義光・伊達政宗の連合軍と出羽長谷堂城を中心に激戦を繰り広げたが、9月30日に西軍敗走の一報が伝えられると直ちに撤退した。勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始、伊達政宗も10月6日より桑折への侵攻を開始している。景勝は防戦する一方で家中に今後の対応を協議した。この中で直江兼続や甘糟景継、竹俣利綱らは徳川との徹底抗戦を主張するが、本庄繁長千坂景親らは和睦を主張している。最終的に10月23日に和睦の方針が決定され、主君の意を汲んだ兼続は主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けた。交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、以後正信を始め東軍の対上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼した。彼らの取り成しにより、当初領地没収を予定していた家康も、次第に態度を軟化させていった。

年が明けた1601年(慶長6年)7月1日、千坂・本庄両名の報告などから和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後、8月8日結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪した。上杉氏への処分は一ヶ月ほど経った8月16日に言い渡され、陸奥会津120万石から75パーセント減の出羽米沢30万石へ減封となった。景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動したがこの処分に不服であった酒田城将・志田義秀は、接収に来た最上軍と一戦を交えたものの降伏している。

一方佐竹義宣は、三成との親交から西軍への加担を決め、景勝と密約を結び、上杉領内に入った徳川軍を挟撃する方針を採っていた。このため上杉征伐では動かず、配下大名である岩城貞隆、相馬義胤、多賀谷重経もこれに同調した。しかし佐竹家中では父である佐竹義重、弟の蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張した。特に父・義重は、東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ、兵300と共に派遣するという、曖昧な態度を取った。しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置。秀忠も義久ら派遣部隊に対して、丁重に謝絶している。

西軍敗北後父・義重は直ちに、家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は居城である水戸城を動かず、そのまま二年が経過した。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは佐竹義宣のみとなり、おまけに謝罪すら行ってなかったが、それでも義宣は動かなかった。しかし、義重の助言により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。しかし家康は義宣の観望について『寛政重修諸家譜』の中で「上杉景勝より憎むべき行為だ」として厳しく非難。死一等は許されたが常陸一国56万石は没収され出羽久保田に20万石格での減転封となった。また与力大名である岩城・相馬・蘆名・多賀谷の各大名も改易となった。義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動したが、転封に反対して車斯忠らが一揆を起こしている。佐竹氏の石高が確定するのは、二代藩主・佐竹義隆の代になってからである。

[編集] その後

佐竹氏の減転封が決定されたことで関ヶ原における一連の論功行賞と西軍諸大名への処罰は終了した。1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くが、この年西軍に加担して改易されていた立花宗茂、丹羽長重、滝川雄利の三名が大名に復帰している。その後相馬義胤など数名が大名に復帰するなど大名家は少しずつ復帰していった。西軍に加担した大名の中には大名として明治維新まで存続したものも多く、島津や毛利、佐竹など倒幕に大活躍した大名などもいる。

しかし大体の西軍加担大名は領地を没収され浪人となった。その多くは幕府旗本や諸の藩士として家を全うする者もいたが、長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(真田昌幸二男)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)など一部は大坂の役で豊臣方に加担し、10数年後、再度徳川氏に戦いを挑むことになる。

[編集] 関ヶ原の戦いに関する論点

大垣城に篭っていた西軍首脳の石田三成他の関ヶ原転進については、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、大坂へ向かう」という流言を流した家康に三成がまんまと釣り出されたという説が一般に流布しているが、これには疑問な点も多い。

一つは、もし家康がこの様な流言を流したのであれば、部隊が最も脆弱になる行軍中を襲撃するはずであり、家康がこの様な有利な体制からの攻撃をしかけなかったのは不自然であるという事。また、三成は関ヶ原の合戦前に豊臣秀頼の出陣を再三大坂に求めており、これは一枚岩とは言えない西軍の士気を引き締める為であったと思われるが、家康が大坂へ向かうのなら三成にとっては好都合であり、大坂城付近での後詰決戦を行えば良いはずであるという点である。

これに対して、付近の河川の氾濫により度々水害に見舞われていた大垣城を家康が水攻めにし、その為に西軍の首脳と、既に関ヶ原付近に布陣していた毛利、小早川等との連絡が断たれる事を恐れた為ではないかという説(橋場日月、『歴史群像』2000年)がある。この説は、関ヶ原、松尾山に施されていた築城工事が新城と言えるほど大規模なものであった事を前提として、三成の戦略を以下のように推定する。

  1. 関ヶ原西方の松尾山-笹尾山ラインに野戦築城を施し東軍の進撃を阻止する。
  2. 松尾山の城砦には西軍主力となる毛利輝元以下3万を配置する。
  3. 東軍が大坂へ向かう為に大垣城を無視して関ヶ原に進撃すれば、大垣城の石田三成・宇喜多秀家、南宮山の毛利らが東軍を追撃し1のラインで東西から挟撃する。
  4. 東軍が大垣城を攻めれば、1のラインに布陣する大谷吉継、毛利輝元らが大垣城を攻めている東軍を西から攻撃し、大垣城の城方と挟撃する。

つまり、この戦略によればどちらに転んでも西軍は東軍を挟撃する事が出来る事になる。

しかし、関ヶ原西方の松尾山-笹尾山ラインの要である松尾山城砦に去就が明らかとは言えない小早川秀秋が、西軍の城番を半ば追い出す形で居座ってしまった事、また、大垣城が水攻めに脆弱であり、水攻めが行われれば後詰決戦で城方が討って出る事が出来なくなってしまうことなどから、この戦略は破綻した。そのため、三成らは関ヶ原へ潜行したのではないかと推測するのが、この橋場説の要旨である。

[編集] 関ヶ原の戦いに関する創作

[編集] 参考文献

  • 参謀本部『大日本戦史 関原役』
  • 藤井治左衛『門関ヶ原合戦』(関ヶ原観光協会)
  • 藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』(新人物往来社・1979年)
  • 笠谷和比古『関ヶ原合戦』(講談社・1994年)
  • 笠谷和比古『関ヶ原合戦と近世の国制』‎(思文閣出版・2000年)
  • 白水正『図説 関ヶ原の合戦』(岐阜新聞社・2000年)
  • 二木謙一『関ヶ原合戦』(中公新書)
  • 宮川尚古『関原軍記大成1~4』(国史研究会)

[編集] 関連文献

  • 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』(洋泉社、2007年) ISBN9784862481467
  • 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』(宮帯出版社、2009年) ISBN978-4863660540
  • 小和田哲男 『関ヶ原から大坂の陣へ』(新人物往来社、1999年) ISBN440402844x

[編集] 脚注

  1. ^ この二派を、東軍・西軍と呼んだのは後世のことである。
  2. ^ 西軍の総大将は毛利輝元であり、副将は宇喜多秀家である。しかし、西軍は石田三成を中心とする派閥を元に構成されたため、三成が実質的に主導した。
  3. ^ 笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』
  4. ^ 『義演准后日記』ではこの他に藤堂高虎・蜂須賀家政・脇坂安治の3名も参加したとある
  5. ^ この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは俗説。
  6. ^ 二木謙一『関ヶ原合戦』(中公新書)他
  7. ^ しかしこの三人はいずれも、本人または嫡男が会津征伐に出陣している。
  8. ^ この38,000は家康が江戸を出陣したときの数であり、東海道隊別働隊・東海道守備隊の家康家臣の数も含む。実際に本線に参加した家康本隊は松平忠吉を除けば、20,000前後とされる。
  9. ^ 徳川家の大名は多くが領国の北側に配されている。但し、井伊の様に軍監として東海道先発隊に加わったり、大久保忠隣の様に秀忠の補佐として中山道隊に加わったりと若干の入れ替えはある。
  10. ^ このことから、秀家が先に決起し、三成はあとから挙兵を決意したという見解がある。
  11. ^ ガラシャはキリシタンであったため自害はできず、家臣に胸を突かせて死亡した。
  12. ^ 両名とも秀次に仕えていたが秀次事件では連座を免れている。
  13. ^ 新井白石編『藩翰譜』によると、一豊が盗んだとされる。
  14. ^ 笠谷和比古は秀次事件の影響を(『近世武家社会の政治構造』『関ヶ原合戦』など)、田端泰子は秀頼へのスムーズな継承を実現するため秀吉による家康への対応策が友好的なものへ変化したこと(『山内一豊と千代』など)を挙げる。
  15. ^ 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』。
  16. ^ このことから、笠谷和比古は関ヶ原の戦いの要因のひとつが北政所(及び北政所派の武将)と淀殿・秀頼(及び淀殿派の武将)の確執にあると推定したが、支持は少ない。
  17. ^ 秀忠は上田城で足止めを食らい関ヶ原の戦いには間に合わず、関ヶ原合戦後に家康への拝謁が3日許されない罰を受けた。また秀忠遅参の責任を問われた牧野康成は、禁固刑となった。秀忠軍が家康から受けた本来の任務は中山道の制圧であり、上田城攻城は秀忠の独断ではなく家康の直近の命令に沿ったものである。家康の西進の知らせと関ヶ原への合流という新たな命令は利根川の増水により使者が遅れ、秀忠の手に渡ったのは9月9日であり15日に関ヶ原に布陣するのはすでに不可能であった。
  18. ^ 『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年05月
  19. ^ これらの部隊も元は小早川の裏切りに備えたものであった。
  20. ^ 軍の大将級が自ら討って出ることは通常ありえず、軍法上厳しく禁じられていた。例として文禄・慶長の役で小早川秀秋が大将にもかかわらず陣頭で戦い、秀吉に厳しく叱責されている。
  21. ^ 直政はこの戦傷が元で二年後死亡している。42歳の若さであった。
  22. ^ 朝尾直弘「幕藩制と天皇」、高木昭作「『法度』の支配」など
  23. ^ 旧暦10月18日に自刃したとする説もある。
  24. ^ 詳細な研究について、光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争 毛利輝元の行動と思惑」(吉川弘文館日本歴史』2007年4月号 No.704 p1~p19)を参照。
  25. ^ ただし、これについては吉川氏は関ヶ原以前より毛利氏庶家の筆頭の地位に過ぎず、万一の際の毛利宗家継承権を有していた長府毛利家徳山毛利家とは同列には出来ないとする見解もある(脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会 編『近世日本の政治と外交』(雄山閣、1993年) ISBN 4-639-01195-4)。

[編集] 関連項目