松川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

松川の戦い(まつかわのたたかい)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期あたりに起こったとされる合戦。

具体的な発生時期については諸説あり、主に『改正三河後風土記』(第42巻:上杉・伊達合戦の事)、『常山紀談』(巻之16:伊達上杉陸奥国松川合戦の事 附永井善左衛門 岡左内が事)、『東国太平記』(巻第15:松川合戦政宗福島ノ城ヲ攻ムル事)、『会津陣物語』(第4巻:松川合戦に政宗、福島城を攻める事、井せて須田大炊介、政宗と逢隈川合戦(陣幕を切り取る)事)、『武辺咄聞書』によれば、慶長6年(1601年)4月26日に、現在の福島県福島市の中心部で伊達政宗上杉景勝麾下の本庄繁長須田長義が戦った合戦だとされる。

概略[編集]

松川合戦の時期は、『常山紀談』には慶長6年4月、『改正三河後風土記』『東国太平記』『会津陣物語』『武辺咄聞書』には、慶長6年4月26日と明確に記載されている。しかし、伊達家には慶長5年(1600年)10月6日付中嶋左衛門宛伊達政宗書状、10月14日、10月19日付今井宗薫宛政宗書状、その戦功を賞する返書として10月24日付伊達政宗宛徳川家康書状が残されており、慶長5年10月6日に何らかの戦闘行為が行われたのは間違いないであろう。

この合戦(「松川合戦」「宮代表合戦」)に関しては、伊達家と上杉家は双方で戦果を強調しており、また時期を巡っても研究者の間でも、慶長5年10月説、慶長6年4月説、混合説がある。このため、頼山陽の『日本外史』を含めて幕末期まで流布した慶長6年4月26日の「松川合戦」の内容と経緯と、『伊達治家記録』や伊達家文書が記録する慶長5年10月6日の「宮代表合戦」の内容を併記する。

『改正三河後風土記』等に記載された“松川合戦”の概要と経緯[編集]

“松川合戦”の概要は、江戸幕府の奥儒者である成島司直により、幕末期の天保4年(1833年)に『三河後風土記』を改撰した『改正三河後風土記』の第42巻に、「上杉伊達合戦の事として詳細が記述されている(出典として、夏目記、安民記、武隠叢話、藩譜)。この合戦の時期は誤り多く、「慶長5年7月27日、28日(原書)、7月21日説(家忠日記)は共に誤りであり、夏目記・安民記に従い、慶長6年の事とす。武隠叢話に載せたる上杉の家士北川次郎兵衛の記も夏目記に同じ。藩譜の注文に北川ガ記詳らかにしてよりどころあり」と記述されている。

慶長6年4月26日、伊達政宗は、上杉領に侵攻するも、上杉勢の必死の抵抗の前に敗走する。

“松川合戦”前夜[編集]

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、翌年3月の前田利家の死去、石田三成の失脚を経て、徳川家康の権力がますます増大した。慶長4年(1599年)8月、上杉景勝は所領の会津若松城へ帰城した。景勝は前年初めに秀吉の命により越後国春日山城から会津領120万石へ国替えになったばかりであり、領内統治をほとんど施していない状況であった。景勝は早速、領内の道路の開削・整備や支城の普請等など領内の整備をおこなった。

また、居城を新たに新築して会津若松城から遷すことを考え、若松城から北西3kmのあたりに築城を開始した(神指城)。しかし、隣国越後の堀秀治は、このような上杉領内の動きを逐一徳川家康へ報告した。その内容は上杉氏が隣国の堀秀治最上義光の領内を攻めることを目的に道路や支城の整備・居城の築城をおこなっているという旨のものであった。また、景勝家臣・藤田信吉江戸城へ出奔し、徳川秀忠に上杉方の内情を話した。家康は景勝に上洛して弁明するよう求めた。しかし景勝はその申し出を拒絶したため、家康は景勝を謀反人とみなして諸大名に上杉氏征討を命じた。

慶長5年(1600年)6月6日、大坂城西出丸において軍議が招集され、家康・秀忠が白河口、佐竹義宣が仙道口、伊達政宗が白石口、前田利長・堀秀治が越後口と布陣が決定した。家康は6月18日に伏見城を出発し、江戸城を経て7月下旬に下野国小山へ着陣。一方、白石口を担当することになった伊達政宗は急ぎ京都を発ち、相馬領を経由して帰国し、7月12日に名取郡北目城へ入り、ここを上杉攻めの拠点とした。しかし、上方で石田三成が家康打倒の挙兵をしたことを知った家康は、白河口を次男の結城秀康に任せ、自らは江戸城に引き返した。これを知った景勝は家康追撃をおこなわずに会津若松城へ引き上げた。

そして、上杉氏との同盟を破棄して家康方に付くことを鮮明にした最上義光の山形城を家臣・直江兼続に攻め入らせた。直江軍は怒濤の如く山形城に向かって進撃し、ついには山形城の支城である長谷堂城を取り囲むにいたった(長谷堂城の戦い)。一方政宗は刈田郡に進撃し、白石城を落とした。このような状況の中、9月15日の関ヶ原の戦いにおいて徳川方(東軍)が勝利した旨の報告が各陣営に届く。直江兼続は長谷堂城の囲いを解き、自領へ撤退したのである。

“松川合戦”の経過[編集]

関ヶ原の戦い以降の伊達政宗の侵略[編集]

関ヶ原の戦い後、伊達政宗は徳川家康からみだりに軍勢を動かすべからずとの命を受け、心ならずも岩手山城へ引き返したが、上杉領への侵略やみがたく、家康の下知をまたずに慶長5年10月6日、本庄繁長が立て籠もる福島城へ押し寄せた。これを察知した福島城兵の永井善左衛門が伏兵を討ち取ったため、政宗は白石まで引き返した。政宗は翌7日長井郡湯原へ出ようとしたが、上杉方の甘粕清長が付近を警戒しており、さらに上杉景勝が2万ばかりの大軍で境目まで出陣するという報を知り引き返した。景勝もまた会津へと引き返した。

翌慶長6年になっても政宗の侵略は続いた。慶長6年2月7日、政宗は伊達郡へ侵攻したが、本庄繁長、宮代砦守将八内図書の厳しい抵抗により撃退された。

慶長6年3月24日政宗は再び出馬し、25日に白石城、28日には福島城に襲来した。福島城が容易に落ちないと見た政宗は、梁川城へ矛先を転じようとしたが、梁川城の須田大炊は29日伏兵をもって迎撃、政宗勢は四方を取り囲まれて大敗し、散々に敗走していった。

慶長6年4月26日の松川での激戦[編集]

上杉との合戦で度々敗軍したこと、福島・梁川城を攻めとれなかったことを無念に思った伊達政宗は、慶長6年4月16日再び白石城から出撃した。伊達軍は21日本陣を小山に移し、25日瀬上を経て26日の暁に松川に達した。松川では福島城の杉原・甘粕・本庄出羽守・栗生美濃守がこれを迎え撃った。両軍入り乱れ、伊達政宗と岡定俊(左内)が川中で太刀打ちを行うほどの大激戦になったが、上杉方はしだいに追い崩されて敗走、散々になり福島城へ逃げて行った。この時青木新五兵衛は鎗にて伊達政宗の内兜を突き立て、前立物にあてた

本庄繁長は、ひそかに伊達勢の後ろを襲撃しようと兵をまわしていた。福島城の城兵が危ういとみた梁川城守須田大炊は、阿武隈川を渡り、遮二無二政宗本陣を目がけて切り掛かった。政宗勢は散々切り立てられ、軍伍散乱して敗走をはじめた。この乱戦の中で齋野道二が真っ先かけて政宗に切り掛かり、政宗の猩々緋の陣羽織を切り裂いたため、政宗は跡を見ずに逃げ去っていった。この時に伊達家の宝物九曜の紋の幕、紺地黄糸法華廿八品の幕を、須田の組西村仙右衛門曾田宇平次が奪い取った(脚注:世に竹の雀の紋幕をとりしというはこの事なり)。

更に本庄繁長が福島城の西門から打ち出て、伊達政宗の陣屋に火をかけ小荷駄を燃やしたため、政宗はもはや戦場にとどまることができず、大崎へと逃げ帰っていった。(出典『改正三河後風土記』)

松川合戦の時期と逸話[編集]

改正三河後風土記
  • 「政宗度々敗軍し無念に思い、早く軍を止むべきよし、しばしば台命を蒙りながら、福島・梁川両城を責めとらずしては置くべからずと、(慶長六年)四月十六日又白石を出勢す。此時伊達上野介成実斥候をよくす。廿一日政宗本陣を小山にうつす。…政宗兼て土民に金銀多くあたえ、上杉方の油断を聞出し、廿五日夜半に小山を内立瀬上をへて、廿六日松川に着
東国太平記、会津陣物語
  • 「政宗は度々の合戦に打負け、無念たぐひはなかりけり。去年七月江戸より中澤主税を御使にて、景勝と取合う事深く御制止ありけるに、其御意を用ひず、あまつさえ数度の後れを取りたるければ、何とぞして一戦に勝って御前の申し分仕りたしとぞ願はれける、是により慶長六年四月十七日、…二萬五千を引率し、白石の城に着かれけり。…政宗は廿一日に白石の城を立ち、松川に陣を取たりける、…政宗二萬余にて、四月廿五日の夜半に小山を立ち、瀬の上を通り、廿六日の未明に松川さして押し寄す」
武辺咄聞書
  • 「世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也
常山紀談
  • 慶長六年四月伊達政宗奥州景勝の地を斬取らんと百姓を間者にしておこたりを伺えり。…政宗は国見峠を踰信夫郡より瀬の上の川を渉り。五千の兵にて梁川の城を押え松川をさして押寄せる。…岡野(左内)猩々皮の羽織着て鹿毛なる馬に乗り。支え戦ひけるを政宗かけ寄せ。二刀切る岡野ふり顧て政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切付。かえす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ岡野すかさず右の膝口に切付たり。政宗の馬飛退てければ岡野政宗の物具以の外見苦しかりし故。大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが後に政宗なりと聞きて。今一太刀にて討取るべきにと大に悔やみけるとなり」
  • (※松川での川中での岡左内と政宗の太刀打ちの逸話は、「改正後三河風土記」「東国太平記」「会津陣物語」(杉原彦左衛門、物語覚条々)の全てに記載され、いずれも慶長六年四月廿六日で一致している。)

慶長5年10月6日の伊達家の福島侵攻(宮代表合戦)[編集]

一方、この上杉家との合戦(伊達家では「松川合戦」との呼称は用いない)の出兵の時期と戦いの経緯について、伊達家では、慶長6年(1601年)4月26日ではなく、慶長5年(1600年)10月6日だとする記録を残している。また、徳川家康書状によれば、福島表へ侵攻した伊達家への返書は慶長5年(1600年)10月24日付けでなされている。以下は伊達家の福島侵攻の概要である。

伊達政宗は東軍勝利の知らせを聞くと、10月5日、好機到来とばかりに約2万の兵を率いて北目城から伊達郡信夫郡へ出陣した。5日の申の刻に白石城に入った政宗は、大隈川西方に布陣していた片倉景綱、高野親兼らに、明朝桑折筋へ進軍することを指令した。同日最上表に加勢してた茂庭綱元等が伊達軍に合流した。

6日未明、片倉景綱から政宗の元に、梁川城の横田大學という者が密かに内通を申し出たとする書状が届いた。景綱は梁川城を6日内に攻略すべしと進言したが、政宗は既に先手が桑折表へ打ち出しているので、梁川城攻めは翌7日とする旨の返書を与えた。

「やな川(梁川)の事ニついて文こし候、二番かいたち候て、たヽいまこれへとヽき候、はやさきて(先手)はうちいて候へく候、かうり(桑折)すちをやな川(梁川)へ下申候ハヽ、そなへともちかい申へく候間、まつゝ今日ハかうりすち(桑折筋)へニ候、今日中ニなおよく筈をしめあはせ候て、明日七日のはたらきニやな川へうちよせ候へく候間、知行なとハのそみしたひ(望次第)ニとらせへく候、とてもゝ本丸もあなたのものともさきたち(先手)とり候やうニ申あわせへく候、此由高臺(高野親兼)へも相ことはるへく候、謹言、十月六日うしのこく、片倉備中  政宗 御書判)」
  (十月六日 片倉景綱宛政宗書状)


6日伊達政宗は伊達郡国見山に本陣を置いた。一方の上杉軍は福島城の本庄繁長、梁川城の須田長義を中心に約6千の兵のみであった。伊達軍は圧倒的な兵をもって信達盆地(福島盆地)へ攻め入った。

伊達軍は本庄軍を正面から数で圧倒し、深霧の中を不意に衝いて桑折町に押し寄せた先手の茂庭綱元、二番手の屋代景頼等の伊達本隊は上杉兵を瀬上(せのうえ)町へ追い込み、長倉に布陣していた上杉勢も潰走させた。

茂庭・屋代軍は宮代(福島市宮代)で上杉勢物頭の桑折図書ら多数を討ち取った。松川付近では、岡定俊、齋道二(註1)等と屋代景頼、茂庭綱元の部隊が激突したが、安田勘助北川伝右衛門など、上杉方の名のある武者が軒並み討ち死にした。上杉の敗兵は羽黒山と福島城へ四散した。伊達勢は庭坂、大森周辺へも進出し、米沢と福島間を完全に封鎖した。また福島から会津へ内通の書を持参した上杉方の使い、その外二三人を討殺した。

伊達政宗最上陣覚書
 慶長五年庚子十月六日宮代表御合戦
一番 茂庭石見(綱元)
   同主水(良綱)
二番 片倉備中(景綱)
三番 屋代勘解由(景頼)
備中二番ニ候へ共、為御意、脇道参候ニ付、宮代御合戦ニ逢不申、福島虎口へ懸著、鐵炮掛申候砌、物頭二名討死
一 景勝衆三百余討捕申候、内名志れ申候者、安田勘介、桑折図書、布施二郎右衛門、北川傳右衛門、武田彌之介、右之衆組頭之由申候(此衆蒲生氏郷譜代之由及承候)」
(宮代にて景勝物頭衆政宗手へ討捕候覚 伊達政宗最上陣覚書 『伊達家文書之二』第七〇八号、第七一三号)
一 眞山主計、鹿又図書、眞山惣右衛門覚書

   慶長五年十月六日御社(宮代)合戦之次第        …

 一 桑折ノ町ニ急うつへき由申来候事、
 一 長倉通ニ而六角地蔵堂ノ立候所へ白帷着し、白布ニて頭をつヽみ行人ひしやくを持て走向ふ、何方よりの行人そととへは、御山の行人也、今日之御働キ承、懸入候由候也、敵ハ此程瀬上ニ居候而稲をからせ候、御働き承候而はせ出向ふと申候也、
 一 …松川を越、川の向の坂をふまひに小はたを立なしをして、こゑ上てくつはみをおし合処、黒澤豊前川下を太刀をぬきて、あなたの川きしニ付て、馬を入物付被仕候へぬれハ、一同ニうちむかい候へも、豊前馬入を見るより我先とのりいるヽによって、敵引退ヲ追討つにうつ也、坂の上にて澤田内藏組付中島宮内左右衛門馬のさはらをきられ頸をとり馬拍居也、佐々木藏首とる也。
 一 道東あふくまこしのはまえへ落行敵のかれ行也、一下ニて六藏しつ、
 一 道西お山の方へ落行き敵ハ大かたうたれ候、あらい屋敷をひとめ也、」
  (眞山主計、鹿又図書、眞山惣右衛門覚書 『伊達政宗記録事蹟考記』(「政宗君治家記録引証記」))
「…敵勢瀬上の町を溝川端へ備出候処、石見勘解由切崩候。敵復川向に備を直し待懸候。勘解由手黒澤豊前先を懸敗北仕候て。福島町へ進入候。備中此処にかけ付け鉄砲を放懸首十三取申候勘解由石見打取候。首百余、政宗公御覧被成候。」(『成実記』)
「今日其表、村押之様體、一段可然候、殊会津江之状使其他二三人討捕、験越候、満足ニ候、今日此表ニ而者三百餘人、此内馬上百騎計討捕、福嶋之虎口江追入、無残所手際ニ而、國見江打返陣取候、明日モシ福嶋筋ヨリノオサエニ、可然人衆七手モ八手モ保原筋ヘ可遣候間、其衆可申合候、恐々謹言、返々、自之人衆不遣前ニ、聊爾之扱無用候、尚一平可申遣候、以上、十月六日、中島左衛門殿 政宗 御書判)」
  (十月六日中島左衛門宗勝宛政宗書状 『伊達家文書之二』第七一七号)
今日討捕ル首數三百餘、其中武頭五人アリ、所謂桑折図書、安田勘介、北川傳右衛門、布施二郎右衛門、武田彌之介ナリ。其外馬上百騎許アリ。味方ニハ備中家士國分外記撃死ス 此外ニ馬上ノ士討死セシ者不傳、勘解由兵衛圓居委細ノ記録アリトイエトモ、討死ノ者見エス、士ニハ討死ナシト見エタリ」」『伊達治家記録』)
  • 註1:「齋道二、岡左内モ、松川ニ於テ小返ス。永井・青木ハ黒母衣ヲ掛ケ、十文字ノ鑓ヲ持タリ。道二ハ金ノ簾ノ指物ヲ指テ、殿後ス。勘解由兵衛家士荘子隼人ト太刀打シテ、引退ク。此時隼人、熊毛ノ羽織ヲ着セリ。道二見テ、公(政宗)ノ朝鮮御陣ニ、熊ノ御羽織ヲ着玉フ由ヲ聞及ヒ、政宗ト太刀打シタルトテ、荒言(偽リ言)スト云ヘリ。岡左内モ、公(政宗)ト太刀打シタルト云ウ説アリ。偽リナリ」『伊達治家記録』)

伊達政宗は福島城の目と鼻の先である羽黒山(信夫山)の麓黒沼神社に本陣を置き、首級実検を行った(首級三百余、武頭五人、他馬上百騎討ち取り))(註2)。福島城城主・本庄繁長は、野戦の不利を悟り、宮代で敗れた軍勢を撤収し、籠城策をとったが、一時は伊達軍の中に全軍で突入し、切り死にを遂げようと覚悟する状況に迄追い込まれた(御本陣ヘ突懸リ討死スベシト議定シ 註3)。

  • 註2:「敵兵悉ク福嶋ヘ逃入ノ後、公、羽黒山ノ麓、黒沼神社ノ邊ニ御本陣ヲ備エラレ、首級ヲ実検シ玉フ。濱尾漸齋御側ニ同候シ、披露ス」『伊達治家記録』)
  • 註3:「今日本荘出羽、公押付ケ攻入玉フヘシ、御本陣へ突懸リ討死スヘシト議定シ、内冑ニ伽羅ヲ焼留メ、且ツ手廻リノ人数ニモ高名ノ心懸ヲ止テ、只鎗ノ柄ヲ短く切詰メ、眞丸ニ成テ突懸ルへシト下知シ、御人数ノ攻入ヲ待ツ處ニ、諸手ヨリツルヘ鉄砲ヲ懸ルヲ聞テ、扨ハ御人数ヲ引揚ラルト見エタリ、城中ヨリ打出ハ、附入ニ城ヲ乗取リ玉フヘキ手術ナルヘシ、必ス働キ出ル事ナカレト総人数ニ不知スト云フ」(『伊達治家記録』敵軍始末ノ義雑賀小平太壽悦説ニ據テ記ス)』


一方福島城の防備は堅く、伊達軍にも死傷者が続出した。片倉景綱の部隊は福島の町曲輪まで押し詰めて多数の上杉兵を討ち取ったが、上杉側の反撃も厳しく、片倉家臣の物頭国分外記らが討死にした。(註4)。

  • 註4「:「片倉備中ハ、…福島表ヘ押行ノ處ニ、敵兵既ニ勘解由衛ニ追崩サレ、福島町マテ引入タリ。故ニ備中ハ福島町曲輪マテ押詰メ、攻破リ、敵數多討捕ル。備中武頭国分外記、町内ニテ戦死ス。備中家士須田彌平衛門、同助總兄弟一處ニ相働キ、助總終ニ討死ス。兄彌平衛門、其死骸ヲ引揚ク。佐藤次郎右衛門、同大學兄弟共ニ敵ヲ討捕ル」『伊達治家記録』)

砂金実常は数十騎を率いて羽黒山南麗に布陣し、福島町へ銃撃を加え、迎撃してきた上杉勢を福島城の中へ追い込んだ。砂金実常が銃撃の手を緩めると、上杉勢は福島城の西門から出て反撃してきたが、砂金の部隊に斬り立てられ、再び福島城の中へ逃げ入った。

この時、伊達政宗は羽黒山麗に本陣を構えていたが、片倉景綱を呼び、福島城中の様子を問うた。景綱は、既に町曲輪まで攻め込み、福島城を陥落させることは間近であるが、味方の手負いも多く、一端引き揚げるのが上策であると返答した。政宗は景綱の言を入れて福島城への攻撃を中止し、福島城へ釣瓶討ちに銃撃を加えた後、国見山へ帰陣した(註5)。

  • 註5:「公、御本陣羽黒山ノ麗へ、片倉備中(景綱)ヲ召寄セラレ、城中ノ様子ニ依テ、御人数ヲ引揚ラレヘキ哉ト仰セラル。既ニ町曲輪マテ乗崩ス間、強テ攻入ラハ、城ヲ落ト事、頃刻ナルヘシ、然レトモ、御人数多費ユヘシ。先ツ引揚ラレ、然ルヘシト言ス。因テ諸手ニ命セラレ、一同ニツヘ鐵砲ヲ放テ、総御人数ヲ引揚ケラル。」(『伊達治家記録』)

伊達軍が国見山へ移動中、上杉方梁川城の須田長義旗下・車斯忠等が、馬上百騎・小手六十三騎等を含む足軽百人ばかりを引き連れて梁川城から大隅川を渡り、藤田と桑折の間で伊達勢後尾の小荷駄隊を急襲した。彼らは小荷駄奉行宮崎内蔵助や足軽・人足等多数を討取り、兵糧を奪って梁川城へ引き上げた(この際に須田の部隊は伊達家の「竹に雀」の定紋の帷幕を奪い、永く上杉家の誇りとしたと云うがこれは軍記の創作で、そもそも「竹に雀」は上杉家の紋である 註6・7)。

  • 註6:「慶長六年伊達政宗出軍於奥州福島表時、長義出兵、襲政宗後陣、遂奪小荷駄陣具竹雀紋幕及看経幕以黄糸縫法華経廿八品、武誉尤抜等倫」(『梁川城代須田系譜』)
  • 註7:「或説ニ、此時、公ノ御陣幕ヲ奪取ラルト云フ。又亘理右近殿定宗荷物ノ内ニ、竹ニ雀ノ紋付タル幕アリシヲ奪取ラルトモ云ヘリ。両説不決」(『伊達治家記録』)


伊達政宗は、福島表から国見山へ帰陣した際、摺上河原に諸将を召集し、屋代景頼に対してその武功を讃え酒杯を与えた。政宗は桑折東下篭で梁川表を遠望した後、国見山へ着陣した。

6日夜、伊達の国見山本陣に、上杉景勝家臣藤田能登家士斉藤兵部が、伊達・信夫の百姓等4千人を伴い内通してきた他、直江山城守鉄砲頭極楽寺内匠が伊達成実に協力を申し出てきた。 福島城への再攻撃が検討されたが、上杉軍による仙道・梁川筋からの挟撃の懸念を石川昭光が言上し、また梁川城への謀略工作が不調に終わったため、政宗は再征を断念した。翌7日伊達軍は国見山に津田景康の部隊を残して陣払いし、北目城へ帰城した。

9日、政宗は、桑折宗長大条宗直等に以下の書状を与えた。

今度之動、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ條條、 能候ト存候 十月九日 政宗」(慶長五年十月九日 桑折宗長、白石宗直大条宗直宛政宗書状」

10月14日、政宗は今井宗薫に戦いの結果を報告すると共に、同19日徳川家康に対して11ヶ条の申し出を託した。この中で、政宗は徳川家の軍勢を会津へ駐屯させることを提言し、又山岡志摩を通して申入れていた宮城郡国分千代への新しい居城(仙台城)の築造許可の催促等を求めた。

 一 去六日より福島へ動仕、得大利申候、様躰先達具ニ條々申入候、最上へ人衆遣、又動、其外ニ人悉草臥申候へ共、内府様無御下向以前、何とそ仕度候
 十月十四日 宗薫老 政宗」(慶長五年十月十四日 今井宗薫宛政宗書状 『伊達家文書之二』第七一五号」


「今井宗薫へ被遣候御覚書
   内覚
一 虎菊丸(忠宗)禄之事
一 兵五郎(秀宗)事
一 大坂伏見屋敷之事 口上
一 佐スチ以来共御鹽味之事
一 岩城之事 口上
一 八月廿八日相馬ヨリ手切可仕由必定ニ付而、直江人數催、フク嶋江参候事 口上
一 會津ニ御手前之衆置申度事
一 南部之事
一 上方ニテ廿萬石カ十五萬石ホトノカンニン分申請度事 口上
一 ここ元居城之事
一 貴老江千貫之知行可進候、乍去右之儀共調候ハゝ、如御望二千貫之所可進候事、口上 條條、
以上 十月十九日 宗薫老 政宗」(慶長五年十月十九日 今井宗薫宛政宗書状」

慶長5年10月24日、徳川家康は政宗に対して、この福島表における戦功を賞した。また10月15日の書状と24日の書状の中で、翌春上杉景勝を征伐する方針を伝えた。

「書状令被見候、仍此表之儀、國割申付、各國々へ指下候、可御心安候、會津之儀者、来春令出馬、可致成敗候、其内御無聊爾様、御分別専一候、雖然最上表有加勢、無異儀様被仰付尤候、委細山岡志摩守口上ニ申候條、令省略候、恐々謹言 十月十五日 大崎少将殿 家康」(十月十五日 政宗宛徳川家康書状 『伊達家文書之二』第七一六号)
「四日之御状到来、令被見候、仍最上相詰候敵、去朔日敗北之處、悉被討果之由候、又同八日之御状参着、至福島表、被及行刻、敵出入数候処、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄被押詰之由、無比類仕合共候、於其表数度被竭粉骨、被入精之段、難申謝候、来春者早速、景勝成敗可申付候、其内御行無聊爾様肝要候、此表之儀、仕置等彌丈夫申付候、可御心安候、猶宗薫、村越茂介 可申候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将殿 家康」(慶長五年十月二十四日 政宗宛徳川家康書状 『伊達家文書之二』第七一八号)
「度々尊書拝見、忝候、仍四日之御状、同八日御注進状、両通具披露申候、無比類御手柄、被入精之段祝着之旨、以直書被申候、猶以従我等式、懇可申入之旨候、来春者早速、景勝成敗可被申付候、其中御行無聊爾之様、御分別御尤之由候、此表手置彌丈夫ニ、被申付候、今国分 と被申付候、具従宗薫可被申候條、早々得御意候、恐々謹言 十月廿四日 大崎少将様 貴報 井伊兵部少輔直政」(慶長五年十月二十四日 政宗宛井伊直政書状 『伊達家文書之二』第七一九号)

関ヶ原直後、家康は伊達政宗とともに翌慶長6年早々に上杉家を武力征伐する予定でいた。政宗は、慶長5年11月に届いた家康からの書状を請け、慶長6年2月17日に「家臣等軍役ノ人数改メ」を命じて内々に出陣の準備をしていたが、上杉家が本多正信や結城秀康等を通じて降伏を願い出たため、結果的に会津征伐は中止された。この間、伊達家と上杉家は大規模な軍事衝突こそ起こらなかったものの、国境付近での小競り合いと緊張関係は依然続いた。

慶長6年3月20日、上杉家の様子を探っていた政宗は伊達政景宛への書状で、家康との講和に傾いた上杉家が戦意を失い、籠城の用意のみで仙道口へ兵を出す状況にはない旨を知らせた。

「懇ニ示給祝着候、人衆之義唯今者土民無隙時分ニて候間、可為不調由存候、やりをもふり候者ハ兎可参間心安存候、会津ノ唱モ能々承候、籠城之用意迄ニ而、中々仙道口ナトヘ人衆可被出武體無之由申候、縦景勝被打出候共、さよう之時ハ又當手ノ備日之内ニも其構可仕候條不苦候、兎角一調義仕候而無方ニ上方御人衆遣延候者、一切打入手前之普請構計を第一可仕候、恐々謹言 暮春廿日 伊上川 御返事 政宗(花押)」(『留守文書』)


4月21日、政宗は今井宗薫に書状を託し、今後の豊臣秀頼の処遇について徳川家康に建言をした。

5月8日、政宗は、景勝領の置賜郡長井荘板屋へ侵入した石川義宗が、悉く焼打を行ったことを伏見の家康に注進した。

戦後[編集]

慶長6年7月、景勝と兼続は京都伏見に上洛し、8月に家康に謁見した。会津領は没収され、置賜郡(長井郡)と伊達郡、信夫郡の30万石に減封された。一方、政宗は和賀忠親の南部一揆への煽動関与の件により、念願だった先祖伝来の地の奪還は叶わず、戦後の論功行賞でも自力で占領した刈田郡2万石のみの加増に終わった。

古戦場の現在[編集]

松川と福島城

合戦の当時の松川は信夫山南麓を流れていたが、現在は北麓を流れている。当時の松川の跡は現在は祓川と呼ばれる小さな川の辺りが水路だったと言われている。また、政宗が陣を敷いた信夫山の黒沼神社のあたりは現在は信夫山公園として整備され、花見の名所となっている。戦いの激戦地は現在の福島市街地の中心部であり、面影は全くない。一方、本庄繁長の居城・福島城は福島県庁となっている。

梁川城

梁川城は、江戸時代になって廃城となり、その後梁川藩の陣屋として使われた。明治維新後は学校敷地として使われ、現在、城跡は梁川小学校、梁川幼稚園、梁川中学校、梁川高等学校として使用され、近隣にも土塁や掘の遺構がある。何度か発掘調査が行われ、梁川小学校校庭の片隅に中世庭園も復元され、梁川城跡は県指定史跡となっている。鎌倉時代から室町時代の伊達氏歴代の居城として有名であるが、現在の遺構はむしろ伊達政宗移封後の、蒲生氏時代または上杉氏時代に、対伊達氏政策で防備を強化して改築されたものであると考えられている。

大枝城
大枝城趾。阿武隈川の南岸(梁川城側)から大枝城趾の小山を望む。写真の左側手前が阿武隈川に面した急斜面。右側奥が上り口であり、空堀などの遺構がある。

大枝城(大條城、おおえだじょう)は、梁川中心市街(梁川城下)から国道349号線を1.5kmほど北上して阿武隈川を越えると、左手に見える。当時、梁川城に対峙して伊達軍が布陣した。梁川城も小高い平山城であり、梁川城と大枝城からは、阿武隈川を挟んで相互に相手方がよく見える。現在の大枝城はほとんどが桃畑になっており、私有地である。しかし、大枝城の案内看板もあり、山頂までの散歩道と、頂上に少し開けた広場がある。途中には土塁・空堀跡がはっきりと残されている。 なお、大枝城は、伊達氏の伊達郡領有時代には大枝氏(大條氏)の支配城であった。

国見

伊達軍が布陣した国見の厚樫山(あつかしやま)の山麓は「阿津賀志山防塁」の名称で国の史跡に指定されているが、源頼朝奥州藤原氏征伐の史跡としてであり、伊達政宗の福島侵攻の本陣が置かれたことはそれほど知られていない。厚樫山の山頂には、現在展望台があり、国見という地名のとおり、福島盆地、特に伊達郡の梁川、保原方面を一望することができる。

関連書籍[編集]

  • 風野真知雄『奇策 北の関ケ原・福島城松川の合戦』(祥伝社文庫、2003年)ISBN-13: 978-4396331184