聚楽第
聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、山城国京都の内野(平安京の大内裏跡、現在の京都府京都市上京区にあたる)に安土桃山時代の末期、豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。当時は豊臣氏のことを聚楽第殿(聚楽亭殿)とも称した。竣工して8年後に取り壊されたので、分からないことも多い。
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[編集] 構造
聚楽第は、「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪を持ち、堀を巡らせた平城であった。建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や2004年に発見された「洛中洛外図」(江戸初期)などの絵図に描かれているので、天守の存在が推定されているが[1]、一方で天守はなかったのではないかという指摘もある。
聚楽第の周辺地域には、秀吉麾下(きか)の大名屋敷を配置し、その範囲は、北は元誓願寺通、南は丸太町通、東は堀川通、西は浄福寺通で囲まれた地域であったと推測されている。大名屋敷のほかに、側近である千利休の屋敷(黒門通から猪熊通の元誓願寺下ル付近一帯と推測)もあった。 聚楽第の本丸は、現在の一条通(北堀)、大宮通(東堀)、下長者町通の少し北(南堀)、裏門通(西堀)にあった堀に四周を囲まれていたとされる。
[編集] 歴史
聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成した。
九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子、当時23歳)豊臣秀次に譲ったあとは、聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ聚楽第に2度も行幸が行われたのは日本史上稀有なことである。しかし、秀吉は1595年(文禄4年)7月に秀次を和歌山県の高野山(こうやさん)に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却(取り壊すこと)した。
聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたらしいが、なお、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の唐門、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関など、聚楽第から移築されたという伝承がある建造物も少なくないが、いずれも伝承の域を出ず、いまのところ研究者の間で聚楽第の遺構と確認された建造物はない。 廃却後、聚楽第に住んでいた住民は伏見の聚楽第町に集団で移り住み、現在も京都市伏見区の聚楽町として町名を残している。
[編集] 名称
聚楽第は聚楽亭(じゅらくてい)ともいわれる。堀をめぐらしているので、聚楽城(じゅらくじょう)ともいわれるが、戦闘を目的とした城(城郭)ではない。
聚楽第は、建造中は「内野御構」(うちの おかまい/うちの の おんかまえ)と呼ばれていたことが知られており、その初見は『多聞院日記』天正14年2月27日の条にある「去廿一日ヨリ內野御構普請」。「聚楽」の名が使われ始めるのは九州征伐から帰還した後のことである。
「聚楽」という名の由来については、秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた『天正記』のひとつ『聚楽第行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とある。これ以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、史家のあいだではこれが秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっている。
[編集] 現状
聚楽第は現在では地形にわずかに痕跡をとどめる程度で、明確な遺構は残っていない。上記のように移築されたとの伝承がある建造物も少なくないが、いまのところ聚楽第の遺構と確認された建造物はない。「梅雨(つゆ)の井」が松屋町通下長者町上ル東入ル東堀町内にあるが聚楽第遺構との確証はない。
また智恵光院通出水通下ルの京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(分銅町)に加藤清正寄贈という庭石も残るがこれも確証はない。ただし、地名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院町」「東堀町」などなお当時の名残を色濃く残している。また「如水町」「小寺町」「浮田町」「飛弾殿町」「田村備前町」「福島町」「中書町」「直家町」など秀吉麾下(きか)の武将の名を冠した地名も多く見られる。
現在、中立売通大宮西北角(本丸東堀があったとされる地点【写真:右】)と中立売通裏門南西角(本丸西堀があったとされる地点)の2箇所に『聚楽第址』の石碑があり、昔ここに聚楽第があったことを示している。
聚楽第があったとされる地域一帯は民家が密集していて発掘調査ができない。しかし西陣公共職業安定所(ハローワーク)建て替え工事が行われていた1992年(平成4年)に、工事現場の地中から金箔の付着した瓦約600点が出土した。そこは聚楽第本丸東堀があったとされる地点であり、太閤(豊臣秀吉)ゆかりのデザイン瓦だったため、聚楽第の屋敷に使用されたものと考えられ、2002年(平成14年)6月26日国の重要文化財に指定された。
[編集] 史料
- 文献
- 『聚楽行幸記』 - 『天正記』の1つで、全1巻。1588年(天正16年)成立で、同年4月14日-18日の後陽成天皇行幸を記す。
- 『駒井日記』 - 駒井重勝著 全17巻、1593年 - 1595年成立写本6巻が現存する。著者は豊臣秀次の右筆(ゆうひつ、書記係)。豊臣政権下の情勢などを日記として記録している。
- 『日本史』 - ルイス・フロイス著 - 著者はキリスト教(イエズス会という一会派)を布教するため1563年(永禄6年)日本に来たポルトガル人。『日本史』には聚楽第についての記述がある。「中公文庫」に完訳版がある。
- 絵画
聚楽第を描いた絵画は現在、以下の8点が確認されている。(うち最初の5点◎は屏風絵)
- 「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵◎
- 「聚楽第図屏風」 六曲一隻 紙本金地著色 桃山時代(17世紀) 三井記念美術館所蔵◎ 狩野永徳筆と伝わるが画風からそうとは考えられず、永徳周辺の絵師か、嫡男の狩野光信作とされる。
- 「御所参内・聚楽第行幸図屏風]」 六曲一双 紙本金地著色 桃山時代(17世紀) 個人蔵◎、上越市立総合博物館寄託 松や水墨画の画力の高さに比べ人物描写がやや稚拙なので、長谷川派作の可能性が指摘されている[2]。
- 「洛中洛外図屏風」 六曲一双 紙本金地著色 江戸時代前期(17世紀前半) 尼崎市教育委員会所蔵◎
- 「聚楽第行幸図屏風」 二曲一双 紙本金地著色 安土桃山~江戸時代初期 堺市博物館所蔵◎
- 『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 紙本墨画表具付 東京藝術大学資料館所蔵
- 「豊公築所聚楽城之図 名倉希言「豊公築所聚楽城之図」 豊國神社所蔵
- 『諸国古城之図』「山城 聚楽」広島市立中央図書館所蔵
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 桜井成広『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』(日本城郭資料館出版会、1971年)
- 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」『史学論集』26号、1996年(『日本近世武家政権論』、2000年)
- 中西宏次『聚楽第 梅雨の井物語』(阿吽社、1999年) ISBN 4900590622
- 京都市歴史資料館 編『聚楽第と京都』(2000年)
- 日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』(文理閣、2001年) ISBN 4892593915
- 狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』(青幻社、2010年) ISBN 978-4-86152-269-7