聚楽第

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『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)

聚楽第(じゅらくてい, じゅらくだい)は、安土桃山時代山城国京都内野平安京大内裏跡、現在の京都府京都市上京区)に豊臣秀吉が建てた政庁兼邸宅である。なお当時の文献には単に「聚楽」、あるいはまれに「聚楽(御)城」と現れる。竣工して8年後に取り壊されたため構造などについては不明な点が多い。

歴史[編集]

聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1586年天正14年)2月に着工され、翌1587年天正15年)9月に完成した。

九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節徳川家康の謁見もここで行われた。

1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子、当時23歳)豊臣秀次に譲ったあとは、聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ聚楽第に2度も行幸が行われたのは日本史上稀有なことである。また文禄3年ごろには北の丸が秀次により増築された。しかし、秀吉は1595年(文禄4年)7月に秀次を高野山に追放して切腹させ、秀次の居城であった聚楽第も翌8月以降、徹底的に破却した。なお、後に御所に参内するための利便上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。

聚楽第の建造物の多くは伏見城内へ移築されたとされる。なお、西本願寺の飛雲閣、妙覚寺の大門、妙心寺播桃院玄関、山口県萩市常念寺の山門など聚楽第から移築されたという伝承がある建造物も少なくないが、いずれも伝承の域を出ず、今のところ研究者の間で聚楽第の遺構と認められている建造物は唯一2003年の修理の際に飾り金物から「天正」の銘が発見された大徳寺の唐門だけである。 廃却後、聚楽第縁辺にあった聚楽町に住んでいた住民は町ごと伏見城下に移転させられたといわれ、現在も京都市伏見区には聚楽町の地名が残っている。同区内にはこのほか聚楽第ゆかりの「(東・西)朱雀町」「(上・下)神泉苑町」の地名が残る。

構造[編集]

聚楽第は、「第」(= 邸)とあるが、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪を持ち、を巡らせた平城であった。建物には金箔瓦が用いられ、白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や2004年に発見された「洛中洛外図」(江戸初期)などの絵図に描かれており、さらに国立国会図書館などが所蔵する「聚楽古城図」では本丸北西隅に「天守」の書き入れがあるので、天守の存在が推定されているが[1]、一方で天守はなかったのではないかという指摘[要出典]もある。内郭部の規模は、秀次の家臣駒井重勝の『駒井日記』に詳しく記されている。それによると本丸の石垣上の壁の延長は計486間、三つの曲輪も含めた四周に巡らされた柵の延長は計1031間であった。

近年内郭部堀跡を記した『京都図屏風(地図屏風)』(寛永初期成立)が発見されて内郭のおおよその位置が明らかになってきた。この図に従うと本丸は、北堀が一条通南方、東堀が大宮通、南堀は上長者町通、西堀は裏門通付近にあったものと推定され、それに加えて北之丸北堀は横神明通、南二之丸南堀は出水通北方、西之丸西堀は浄福寺通付近にあったものと推定される。『聚楽行幸記』や「聚楽古城図」などによれば外郭もあったとされ、これら記述から高垣(「石のついがき」(『聚楽行幸記』))が「山のごとく(同書)」四周を巡っていたものと推定される。この築垣は残存地名などから、北側は元誓願寺通付近、東側は黒門通付近、南側は下立売通と出水通との中間に築かれていたと考えられ、西側については東築垣の位置から類推して土屋町通付近にあったものと推定される。これが聚楽第の城域ということになる。なお「外郭は堀であった」との主張もある(下記「現状」参照)。「聚楽古城図」によれば、外郭内には築垣を守るように、豊臣秀長、三好秀次(後の豊臣秀次)などの秀吉親族や、前田利家、蒲生氏郷など秀吉配下にあって特に信頼されていた大名の屋敷が建ち並んでいた。千利休(古城図では「宗益」)も外郭内の北御門近く、現在の元誓願寺通南側、大宮通と黒門通の間辺りに屋敷を与えられていた(現在の伝承地「晴明神社付近」とは相違する)。

聚楽第外郭外側には、縦横に街路を造り、秀吉麾下(きか)の大名屋敷を配置した(『日本史』・「聚楽古城図」)。その範囲は、北は元誓願寺通、南は丸太町通、東は堀川、西は千本通で囲まれた地域であったと推測されている。のちに街区は堀川の東にも広げられ聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされたと考えられている。


名称[編集]

『後陽成天皇聚楽第行幸図』堺市博物館収蔵)

聚楽第は、「聚楽亭」「聚楽館」などとも呼ばれるが、これらは江戸時代になってからの呼び名で、秀吉当時の文献[2]には単に「聚楽」と記す。また寛永初期の「京都図屏風」にも「聚楽」とある[3]。当時の古文書[4]には聚楽城と記したものも見られるが、戦闘を目的とした城(城郭)ではない。

聚楽第は、建造中は「内野御構」(うちの おかまい、-の おんかまえ)と呼ばれていたことが知られており、その初見は『多聞院日記』天正14年2月27日の条にある「去廿一日ヨリ內野御構普請」。「聚楽」の名の初出は天正15年正月27日で、この日前田玄以から文書によって通達されている[5]

「聚楽」という名の由来については、秀吉が御伽衆大村由己に書かせた『天正記』のひとつ『聚楽行幸記』に「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とある。またフロイスの『日本史』には「彼(秀吉)はこの城を聚楽と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」(松田毅・川崎桃太訳)とある。これら以外に「聚楽」の出典が見いだせないことから、史家のあいだではこれが秀吉の造語によるものだとする見方が一般的となっている[6]

現状[編集]

『聚楽第址』の石碑 この石碑は、1992年(平成4年)の発掘調査で本丸東堀跡の遺構が見つかり大量の金箔瓦が出土した西陣公共職業安定所の北に建っている

聚楽第は現在では地形にわずかに痕跡をとどめる程度で、明確な遺構は残っていない。現在、中立売通大宮西北角(本丸東堀があったとされる地点【写真:右】)と中立売通裏門南西角(本丸西堀があったとされる地点)の2箇所に『聚楽第址』の石碑があり、聚楽第の在った位置をおおよそ知ることができる。

聚楽第の遺跡として「梅雨(つゆ)の井」(松屋町通下長者町上ル東入ル東堀町内)が挙げられるが、本地点は本丸東堀上に当たるので、聚楽第の遺構とするのは無理がある。

なお松林寺墓地にある広範囲の窪地やその北側にあった「天秤堀」が聚楽第の外堀跡であるとの説が天保年間に名倉希言により唱えられ、この説に依拠して「外濠」の存在を主張する京都府・京都市の埋蔵文化財調査関係者もおり、それぞれが所属する府や市の機関が関係する講演会や出版物で「外濠」説を広めているが、他の史料との整合性に欠け、試掘調査の結果でも石垣・堀に伴うはずの堆積物層・金箔瓦などは一切発見されていない。その復元図に描かれる「外濠」は聚楽第南西方向に限られ、幅員、方向ともにまちまちで、外郭の全容を推測することが難しい。このため城郭史家からはこの「外濠」説への支持はない。また桃山期から江戸初期にかけての文献・資料・絵画いずれにも外堀のことは見えず、むしろそれらの資料は、外郭は「ついがき(築地塀)」であったことを示している。松林寺境内で行われた調査もごく小規模な試掘だから、周辺でよく検出される聚楽土の採掘跡との区別は明瞭でない。文献・資料面からは到底「外郭=ついがき」説に対抗できないから、松林寺墓地の窪地を「外濠」跡と主張するためには、本格的発掘調査を行い、石垣基部や一定量の金箔瓦など決定的証拠を発見する必要がある。

京都市出水老人デイサービスセンターの北向かい(智恵光院通出水通下ル分銅町)に加藤清正寄贈という庭石も残るがこれも確証はない。

ただし、地名には、「須浜町」「須浜池町」「天秤丸町」「山里町」「北之御門町」「高台院(旧みだい)町」「東堀町」などなお当時の名残を色濃く残している。「黒門通」は聚楽第の東門(「くろがねの門」)にちなむとされ、また「藤五郎町」「如水町」「小寺町」「浮田町」「中村町」「飛弾殿町」「福島町」「中書町」「直家(旧なおゑ)町」など秀吉麾下(きか)の武将の名を冠した地名も多く見られる。なお南小大門町はもと「黒門町」、新白水丸町付近にはかつて「本丸町」があった。また「北之御門町」には明治まで聚楽北門の敷石などが残っていたとも伝える(『京都市町名変遷史』)。なお、聚楽第跡の現況街区は、正方位に対し時計回りに3度程度傾く傾向があるため、聚楽第の縄張りも正方位に対し傾きを持っていたのではないかとの指摘がある(桜井成広、加藤繁生)。

堀川 (京都府)の中立売橋(堀川第一橋ともいう)上流左岸に断続的に残る石垣は、比較的大きな自然石を野面積みしたもので、石を刳(く)った樋も見られるなど手法が古様なため、この石垣は聚楽第築城の際に整備された可能性がある。事実なら聚楽第の在りし日の姿を偲ぶ現存唯一の地上遺構となる。

聚楽第があったとされる地域一帯は民家が密集していて発掘調査ができない。しかし1992年(平成4年)に、大宮中立売下ル和水町(わすいちょう)の西陣公共職業安定所(ハローワーク)の建て替え工事現場の地下から聚楽第本丸東堀跡が発見され、その中から桃山期の金箔瓦約600点が出土した。いずれも本丸側から投棄されたように層状に堆積していたので、聚楽第本丸の建築群に葺かれていた瓦と考えられ、2002年(平成14年)6月26日、国の重要文化財に指定された。

その後、1997年(平成9年)には京都市埋文調査センターの発掘調査により、一条通北側の松屋町西入ル鏡石町のマンション建築工事現場北端で東西に延びる底石列が二列検出された。この石列は京都図屏風などから聚楽第北之丸北堀南側の石垣のものと考えられる。

また2012年(平成24年)秋には京都府埋文研究センターの発掘調査により、智恵光通上長者町下ル東側の京都府警西陣待機宿舎敷地の南端で東西に延びる本丸南堀北側の石垣の基部が検出された(東西約32m)。現在は埋め戻され、地中に眠っている。

史料[編集]

文献
  • 『聚楽行幸記』 - 大村由己筆。豊臣秀吉の活躍を記録する『天正記』全6編の1つ(『群書類従』所収)。1588年(天正16年)成立。同年4月14日-18日の後陽成天皇行幸を記す。行幸直後に記されたもので、執筆に当たっては山科言経(やましな ときつね)に何度も相談をしている(『言経卿記』)。この行幸記は小瀬甫庵の『太閤記』にも引用されているが、この引用されたもののほうが群書類従本よりもオリジナルに近いと考えられる。
  • 『駒井日記』 - 駒井重勝著 全17巻、1593年 - 1595年成立。 写本6巻のみ現存。著者は豊臣秀次の右筆(ゆうひつ、書記係)。豊臣政権下の情勢などを日記として記録している。聚楽第内郭部の大きさが詳細に記されている。
  • 日本史』 - ルイス・フロイス著 - 著者はキリスト教(イエズス会という一会派)を布教するため1563年(永禄6年)日本に来たポルトガル人。『日本史』には聚楽第についての記述がある。「中公文庫」に完訳版がある。
  • 『輝元公上洛日記』- 天正16年に毛利輝元が大坂城や聚楽第を訪れた際の記録。二木謙一『秀吉の接待』(学習研究社 2008)に紹介されている。
  • 『兼見卿記』- 吉田神社の神官 吉田兼見の日記。
  • 言経卿記』- 当時の中流公家 山科言経(やましな ときつね)の日記。
絵画

聚楽第を描いた絵画は現在、以下の7点が確認されている(うち◎印は屏風絵)。言うまでもなく絵画という性格上、資料として扱う際には注意を要する。また、名倉希言の「豊公築所聚楽城之図」は桃山期の聚楽第図(現存しない)を参考にして名倉自身の調査結果を書き加えたものだから、史料として扱うには問題が多く名倉の「論考」の一部と考えるべきである。

  • ◎ 「聚楽第図屏風」 六曲一隻(但し、一番左の一曲は失われ、現在は無地) 紙本金地著色 桃山時代(17世紀) 三井記念美術館所蔵。 狩野永徳筆と伝わっているものの、画風から永徳周辺の絵師か、嫡男の狩野光信作とされる。しかし聚楽第を描いたものとしては最も古いと考えられ下記の「探幽縮図」とともに資料的価値は高い。
  • ◎ 「聚楽第図」大阪城天守閣所蔵
  • ◎ 「御所参内・聚楽第行幸図屏風]」 六曲一双 紙本金地著色 桃山時代(17世紀) 個人蔵。上越市立総合博物館寄託 松や水墨画の画力の高さに比べ人物描写がやや稚拙なので、長谷川派作の可能性が指摘されている[7]
  • ◎ 「洛中洛外図屏風」 六曲一双 紙本金地著色 江戸時代前期(17世紀前半) 尼崎市教育委員会所蔵
  • ◎ 「聚楽第行幸図屏風」 二曲一双 紙本金地著色 安土桃山~江戸時代初期 堺市博物館所蔵
  • ◎ 「洛中洛外図」南蛮文化館蔵。 廃城後の聚楽の姿を描く。石垣と堀に囲われた本丸跡では農夫が畑を耕し、北の丸跡では能興行が行われている様子を描く。
  • 『探幽縮図』「聚楽第図屏風」模写 紙本墨画表具付 東京藝術大学資料館所蔵 。画像は狩野博幸著『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』で見られる。
  • 豊公築所聚楽城之図」 名倉希言 豊國神社所蔵

このほか、秀次一族の供養塔(「悪逆塚」)がある瑞泉寺(京都市)には「瑞泉寺縁起」があり聚楽第の姿も描かれているが、描法から江戸後期の作と考えられており資料的価値は少ない。

図面資料

以下の6葉(△印)の聚楽古城図はいずれも原図を同じくするものと考えられ、中でも国立国会図書館蔵のものが一番オリジナルに近いと考えられる。ただし前田育徳会蔵のものは非公開。図には堀、門、天守、櫓などの位置及び城の内外に並ぶ大名屋敷の位置と街路が書きこまれるほか、築垣と思われる太線も記入されている。大名屋敷の多くには二つの門が記入され、フロイス「日本史」の「大名屋敷には通常使う門と秀吉の御成りのための門が設けられた」という記述に一致する。これらの図は江戸時代に盛んに筆写されたようでこれら以外にも多くの聚楽古城図が存在するようである。また7番目の『京都図屏風』は一名『地図屏風』とも呼ばれ、寛永2年(二条城拡張工事)から4年(後水尾院御所着工)ごろまでに描かれたと考えられるほぼ6500分の1(100間=6500寸を1寸に縮尺)の正確な京都の地図を張り付けた屏風で、聚楽第の堀の形状と位置を記す唯一の史料である。この屏風の出現によって聚楽第研究は飛躍的に進展した。8番目の『京聚楽大広間平面図』は幕府の大工方を担った岸上家に伝わったもので、その平面が当時の記録とよく一致するから、聚楽第のものと信じられている。大広間は中門を持つ典型的な書院造を示している。この他、表千家には聚楽城内にあった利休屋敷の部分的な平面図が遺されている。

  • 1.△『諸国古城之図』「山城 聚楽」広島市立中央図書館所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)
  • 2.△『日本古城絵図』「聚楽古城之図」国立国会図書館所蔵(同館デジタル資料で閲覧可)
  • 3.△『太閤御縄張聚楽城之図』個人蔵 安土城考古博物館寄託
  • 4.△『聚楽古城之図』臼杵市教育委員会所蔵
  • 5.△尊経閣文庫『聚楽城古図』前田育徳会所蔵
  • 6.△『太閤御縄張聚楽之図』京都大学文学部所蔵
  • 7.『京都図屏風』個人蔵。『慶長・昭和京都地図集成』所収 柏書房 1994
  • 8.『京聚楽大広間平面図』岸上家伝書

脚注[編集]

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  1. ^ 学習研究社編 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  2. ^ 『聚楽行幸記』(原題は「聚楽第行幸記」ではない)、『駒井日記』、フロイス『日本史』など。
  3. ^ 読みに関しては「じゅらくてい」 「じゅらくだい」の両説がある。
  4. ^ 『築山上半町神田家文書』
  5. ^ 『時慶記』同日条に「従法印有折紙、内野関白殿新殿号聚楽、然は折紙に曰、聚楽首尾次第に行幸可被申候」(法印=前田玄以=より折紙あり、内野関白新殿を聚楽と号す。しからば折紙に曰く、聚楽首尾次第に行幸を申せらるべく候と)とある。
  6. ^ 平安京の「聚楽坊」の跡に建てたからという説があるが、平安京条坊に聚楽坊という坊があったことは確認できない。
  7. ^ この意見には異論もある。絵の随所に写し崩れに起因するような、硬直化・機械化した描写と形態の破錠、粗雑な賦彩、奥行き感の欠如、などが認められる一方、『聚楽行幸記』で語られるモティーフが描き込まれ、この行幸を具現化・視覚化ようとする豊臣政権の意志が感じられることから、本作は豊臣政権中枢で豊臣の画用を担った絵師により制作された原本を模写した転写本とする研究者もいる(松島仁 『徳川将軍権力と狩野派絵画 ─徳川王権樹立と王朝絵画の創生』 ブリュッケ、2011年、288-290頁脚注より)

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 桜井成広『豊臣秀吉の居城 聚楽第/伏見城編』(日本城郭資料館出版会、1971年)
  • 二木謙一『秀吉の接待』(学習研究社2008)
  • 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」『史学論集』26号、1996年(『日本近世武家政権論』、2000年)
  • 中西宏次『聚楽第 梅雨の井物語』(阿吽社、1999年) ISBN 4900590622
  • 京都市歴史資料館 編『聚楽第と京都』(2000年)。京都市埋蔵文化財研究所調査員(当時)馬瀬智光作製の「聚楽第復元図」を掲載する。
  • 日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都 聚楽第・御土居と伏見城』(文理閣、2001年) ISBN 4892593915。京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員(当時)森島康雄作製の「聚楽第跡考定図」を所収する。
  • 狩野博幸『秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風』(青幻社、2010年) ISBN 978-4-86152-269-7
  • 松本利治『京都市町名変遷史』(紀伊国屋書店1989)- 町名の変遷を記すとともにその名の由来を考察している。松本独特の説もありすべてに信頼を置くことはできないが、貴重な伝聞も紹介されており、聚楽第研究の基礎資料として無視できない。
  • 加藤繁生「聚楽第の石垣」『史迹と美術』(史迹美術同攷会)837・840・843号所収、2013-4年。「聚楽第外郭=外濠」説に厳しい批判を加えたうえで、残存地名、京都図屏風、聚楽古城図、絵画、発掘結果などを手掛かりに『聚楽第内外郭推定図』を提示している。
  • 『聚美vol.11 特集 豊臣の風景と洛中洛外図』(聚美社、2014年) ISBN 978-4-88546-278-8

外部サイト[編集]

座標: 北緯35度01分30秒 東経135度44分45秒 / 北緯35.024937度 東経135.745964度 / 35.024937; 135.745964 (聚楽第址石碑(西濠跡))