小野鎮幸
小野 鎮幸(おの しげゆき、天文15年(1546年)? - 慶長14年6月23日(1609年7月24日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。和泉守。父は小野鑑幸。母は大友義鎮の娘と伝わる[1]。立花道雪、宗茂父子に仕え、関ヶ原の戦い後は加藤清正に仕えた。日本七槍・立花四天王の一人に数えられる。
由布惟信に推挙されて立花道雪に仕えた。「剛勇にして智謀あり」と伝わる智勇兼備の武将で、生涯で二十二度の大戦、多数の小戦に参加して六十七ヶ所の傷を受け、大友・立花両家から合計六十八枚の感状を受けた。筑後国柳川城の城主となった立花宗茂からは家中で最高の5千石の禄高を賜り、次席家老を務めた。文禄・慶長の役にも参加し、数々の武功を立てている。
関ヶ原の戦いでは西軍への参加を主張し、大津城を攻略した、その故で関ヶ原の主戦場に参加できず。西軍は関ヶ原に敗れた後、加藤清正や鍋島直茂、黒田孝高(如水)が柳川を攻める形勢となった。10月14日、鍋島勢32,000(『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている)は二手に分かれて佐賀を進発。これに対し、立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3,000(一說2,000、うち小野の直卒する中軍は1,000余騎)である。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河し立花方の海津城を落城させ、続いて19日朝には先鋒の3,000兵は立花成家200兵の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略、翌20日には江上八院[1][2]で立花勢本隊と激突した。
立花勢先鋒の安東時貞、石松政之らは軍法を破って独断で開戦し、次々と鍋島勢十三段の軍陣の中へ突入し、先鋒の第三隊立花統次はその九段までも進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒・鍋島茂忠は本陣の五反田へ撤退したといわれている。しかし、一騎駆で敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東時貞、石松政之はたちまち反撃を受けた。そのために救援出陣の第二陣立花鎮実と鎮実の若い次男立花親雄(善次郎‧17才)や新田鎮実(平右衛門、掃部助)は横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩し、後を断たれて共に戦死した。馬廻衆の安東幸貞、第三陣の若武者十時惟久(新五郎‧16才)、先鋒の安東時貞、石松政之も次々と戦死した。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14、5人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した
立花家が改易されて宗茂の身が加藤清正預かりになると、家臣たちの多くは立花家臣団の勇猛を知る清正に召抱えられ、鎮幸はそのまとめ役として肥後に残った。宗茂はわずかな家臣とともに各地を放浪する旅に出たが、鎮幸は少しずつ金をためてたびたび宗茂に送っている。
慶長14年6月23日、肥後国にて死去。享年62。数年後、宗茂が柳川城主に返り咲くと、鎮幸の子孫は呼び戻され代々大組組頭兼家老を世襲した。
ジョン・レノンの妻、オノ・ヨーコ(小野洋子)は鎮幸の子孫であると言われるが詳細な系図は不詳。
[編集] 脚注
- ^ 計算上 鎮幸誕生時の大友義鎮の年齢は15歳とあり得ない年齢差ではある。