大坂城

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大坂城
大阪府
大手門(手前)と天守
大手門(手前)と天守
別名 金城、錦城
城郭構造 輪郭式平城または平山城
天守構造 複合式望楼型(豊臣期・1585年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(徳川期・1626年再)
いずれも非現存
独立式望楼型5重8階(1931年SRC造復興)
築城主 豊臣秀吉
築城年 1583年天正11年)
主な改修者 徳川秀忠
主な城主 豊臣氏奥平氏徳川氏
廃城年 1868年明治元年)
遺構 櫓、門、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(櫓・門など)
登録有形文化財(再建天守)
特別史跡
再建造物 天守
位置 北緯34度41分14.56秒
東経135度31分33.04秒

大坂城大阪城(おおさかじょう[1])は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区大阪城の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代および、由来する大阪市の地名である。別称は金城あるいは錦城という。近代以降、「大」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。郵便番号は、〒540-0002。

概要[編集]

天守

通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、1959年昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏江戸幕府によるものであることが分かっている。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。石山合戦終了後、織田信長の命令で丹羽長秀に預けられ、後に四国攻めを準備していた津田信澄が布陣したこともあったが、信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている。

現在は幕末期の櫓や門などが現存し、城跡は国の特別史跡に指定されている。昭和初期に復興された天守は登録有形文化財になっている。

歴史・沿革[編集]

『本丸図』
豊臣期大坂城本丸の縄張りを描いたものとされる。

安土桃山時代[編集]

上町台地のほぼ北端、石山本願寺の跡地に1583年(天正11年)、羽柴秀吉が築城を開始した。

完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観5層で、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれており、それに則した復元案が多くある。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双(さんごくぶそう)と称えた。

築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第伏見城を次々に建造し、大坂城よりもそれらに居城した。1599年慶長4年)秀吉の死後、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から、完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老徳川家康も大坂城西の丸に入って政務を執った。

江戸時代[編集]

『大坂御城御本丸并御殿繪圖』(江戸時代前期)

1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立した後も、豊臣秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年寛永6年)に完成した。

幕末期の大坂城の櫓

幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番と、幕府直轄戦力たる大番2組による大坂在番が警備を担当した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。

江戸末期、慶応3年12月9日1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日1868年1月27日)、旧幕府軍鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、御殿や外堀四、五、七番櫓など城内の建造物のほとんどが焼失した。

近代[編集]

明治20年(内務省発行地図)
再建工事中の天守閣

明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となる。

  • 1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。
  • 1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。紀州御殿は、大阪鎮台の司令部庁舎として利用された。
  • 1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された。
  • 大正時代、城周辺の公園整備計画が持ち上がる[2]
  • 1928年昭和3年)、当時の大阪市長關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇即位記念事業として整備が進められた[3]。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎[4]と天守の建設がすすめられた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成した。
  • 1931年(昭和6年)、復興天守、第4師団司令部庁舎竣工。大阪城公園開園。
  • 1933年(昭和8年)、紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した。
  • 1942年(昭和17年)、防諜のため城内への一般人の立入が禁止される。
  • 大阪大空襲など太平洋戦争中の空襲では、1868年(慶応4年)の火災では被害を免た二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、また青屋門に甚大な被害を受けた。特に終戦前日の8月14日の空襲は、1トン爆弾が多数投下され、近隣の京橋駅も巻き添えとなり、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだった。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大夏の陣」などとも呼ばれた[5]が、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れた。このほか、一心寺に移築された三の丸玉造門も焼失している。

現代[編集]

堀の外側から

終戦後城内の陸軍用地は占領軍に接収された。1947年(昭和22年)に占領軍の失火により紀州御殿を焼失した。

1948年(昭和23年)の接収解除後は建物の修理が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となった。

1950年(昭和25年)のジェーン台風によりまたもや損傷を受けたことから、本格的な補修事業が開始された。あわせて学術調査も行われ、1959年(昭和34年)には地下から豊臣時代の遺構が発見された。本丸内の司令部庁舎の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に大阪市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた東外堀跡の南端部では拳銃の射撃訓練も行われた(大阪府警射撃場跡は玉造口土橋東側に現存)。大阪陸軍造兵廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京開高健の小説の舞台ともなった。

1981年(昭和56年)、保存運動や文化庁の調査指示があったにもかかわらず、それらを無視した大阪市が大阪陸軍造兵廠旧本館を取り壊す。

1983年(昭和58年)、「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪陸軍造兵廠旧本館跡地には大阪城ホールが開館された。弁天島を含む一帯には次々と大企業のビルが建ち並び、「大阪ビジネスパーク」が完成した。

復興天守は現在も健在であり、大阪の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。

1996年(平成8年)、桜門と太鼓櫓跡石垣が修復され、さらに大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋められた東外堀が総事業費25億円をかけ三年がかりで復元される(青屋口南部と玉造口東部は復元されず)。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(54番)に選定された。

2007年(平成19年)、大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり、登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明した。実務上は、建物の所有者は大阪市[6]であり、土地は国からの借用であるということになっている[7]

なお、現在は指定管理者として「財団法人大阪市博物館協会 大阪城天守閣」[8]が管理運営を行い、8階建ての城内を一般公開している。所蔵の「戦国のゲルニカ」と称される黒田屏風は、この博物館の至宝である。

構造[編集]

大坂城の空中写真。1985年。上方が北。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
主要部のステレオ写真はこちら

台地北端を立地とする大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。

大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないといわれている。

豊臣氏大坂城[編集]

初代築城総奉行、黒田孝高が縄張を担当。輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は孝高に築城に際しての指示、大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。丹羽長秀が築城した安土城の石垣をそのまま踏襲しており、現在の大阪城の地下7メートルから当時の石垣が発見されている。

台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城・真田丸が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。

徳川氏大坂城[編集]

徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、天下普請を行い藤堂高虎を総責任者とする。全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また天守など建物も構造を踏襲せずに独自のものに造り替えることになった。こうして大坂城天下普請が始まる。徳川氏の目的は、この天下普請を諸藩に課すことによりその財政を逼迫させ、財政的にその勢力を削ぐことであった。天下普請の結果、大坂城の城郭の大きさは豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守はその高さも総床面積も豊臣氏のそれを越える規模のものが構築された。二重に廻らせた堀割は江戸城をしのぐ規模のものとなった。

天守[編集]

大坂城の天守は現在までに3度造営されているが、いずれも外観や位置などが異なる。以下に詳細を記した。

初代天守(豊臣大坂城)[編集]

豊臣大坂城のものと見られている平面図『本丸図』では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。天守台いっぱいには建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。天守は、複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には、黄金の茶室があったといわれている。最上階は、30人ほど入ると関白の服に触れるほどであったとルイス・フロイスの『日本史』にある[9]

天守の復元案には、一番壮大で華やかな『大坂夏の陣図屏風』(黒田屏風)を元に、『大坂冬の陣図屏風』、『大坂城図屏風』などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も三浦正幸などから出されている。黒田長政によって作成された黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。

元和期天守(徳川大坂城)[編集]

元和期の大坂城天守(願生寺指図を元にしている。)

徳川氏が再建した大坂城の天守は、江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態だった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。

建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、江戸城天守(初代)を細身にしたような外観があり、白漆喰塗籠の壁面だったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺だったという。高さは天守台を含めて58.32メートルあったとみられている。このことから江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。

天守の図面は、内閣文庫所蔵の『大坂御城御天守図』(内閣指図)と、大坂願生寺所蔵の『大坂御天守指図』(願生寺指図)がある。それぞれは相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で願生寺指図の外観は江戸城天守とほぼ同じ破風の配置である。

復興天守[編集]

復興天守(南面)

現在、大坂城(大阪城)を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣(右写真)である。陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画に伴って1928年(昭和3年)に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到したため、およそ半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。(洲本城天守閣(1928年)が先行するが、こちらは模擬天守。)

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造吊り下げ工法を用いて建てた。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)。復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」となっている。

外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に、大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫片岡安、施工は大林組が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっておりその様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。

大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々の議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。

1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。2007年(平成19年)の外壁の塗り替えの際には、5層目の塗装がより豊臣時代に近いデザインに改められた。

豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも短期間に焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後80年を越え、最も長命の天守になった。1997年(平成9年)9月3日、国の登録有形文化財に登録された。

遺構[編集]

大手門(2005年07月)

現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形などの建物遺構が残っており、国の重要文化財に指定されている。また、桜門の高麗門については、明治20年(1887年)に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものであるが、国の重要文化財に指定されている。

また、現存する石垣も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築された。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された花崗岩である。また遠くは福岡県行橋市沓尾からも採石された。石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など多様な目的で刻印が打刻されている。ちなみに高さ5~6mで最大幅14mに達する巨石が数多く使われている。重量は最大130トンと推定され、エジプト・ギザの大ピラミッドの積石が1個約2.5トンであるのと比べ、その巨大さがわかる。ピラミッド内部にある花崗岩でさえ約80トンと言われる。また、イギリス・ストーンヘンジで最大の石は高さ6.6mで45トンである。

徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在の大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビル・道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。村川行弘(現・大阪経済法科大学名誉教授考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。また、2003年(平成15年)には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。また、この発掘調査によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。豊臣時代の石垣を公開する計画があり、そのための募金活動が平成25年から行われている[10]

文化財[編集]

重要文化財[編集]

  • 大手門
  • 塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
  • 多聞櫓(渡櫓、続櫓)
  • 千貫櫓
  • 乾櫓
  • 一番櫓
  • 六番櫓
  • 焔硝蔵
  • 金蔵
  • 金明水井戸屋形
  • 桜門

登録有形文化財[編集]

  • 天守

特別史跡[編集]

  • 大阪城跡(1953年8月31日指定)

作品[編集]

映画[編集]

テレビゲーム[編集]

小説[編集]

テレビ番組[編集]

現地情報[編集]

所在地[編集]

  • 大阪市中央区大阪城

交通アクセス[編集]

姉妹城郭・友好城郭[編集]

姉妹城郭[編集]

  • 長浜城
    • 1983年(昭和58年)4月29日に提携。両城とも豊臣秀吉が築城したことから、姉妹城郭となった。
  • 和歌山城
    • 1985年(昭和60年)11月2日に提携。和歌山城は豊臣秀吉の弟秀長が築城したことから、姉妹城郭となった。また江戸時代になると、大坂城は2代将軍秀忠の直轄となり和歌山城は弟頼宣に与えられた点も、姉妹関係と言える。

友好城郭[編集]

  • 上田城
    • 2006年(平成18年)10月10日、大阪市關淳一市長と上田市母袋創一市長が、大阪城天守閣二階会議室で提携書に調印[1][2]。上田城と大阪城は、結果こそ異なるものの共に徳川の大軍により二度の攻撃を受け、上田城では真田昌幸が、大阪城では真田幸村(昌幸の次子信繁)が城方で大活躍している。このつながりから、友好城郭となった。
  • エッゲンベルク城
    • 2009年(平成21年)10月02日調印オーストリア第2の都市グラーツのエッゲンベルク城(城というより館ではあるが)で豊臣秀吉の大坂城と城下町を描いた、屏風絵が発見されたことがきっかけで友好城郭となった。

その他[編集]

  • 1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会での松下電器(現・パナソニック)と毎日新聞の企画によるタイムカプセルが天守閣前に5,000年後に開封されることを託して埋設されている。
  • ダイハツ工業製のオート三輪前部に取り付けたあったエンブレムは大坂城のイラストを使用していた。
  • 現在、大阪城は本丸、二の丸、三の丸、西の丸の各所が公園化され散策を行うことができるが、例外として天守の東側にある貯水場と二の丸の東部にある帯曲輪が立入禁止となっている。
  • 2013年(平成25年)から大阪城公園の西の丸庭園で、モータースポーツ・フリースタイルモトクロス大会「Red Bull X-Fighters(レッドブル X-ファイターズ)」の会場としても使用されている。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 岡本良一『大坂城』岩波書店1970年
  • 『大坂城』学習研究社1994年
  • 『復元大系日本の城5 近畿』ぎょうせい、1992年
  • 中村博司『天下統一の城 大坂城』新泉社2008年
  • 『芦屋市文化財調査報告第60集 徳川大坂城東六甲採石場IV 岩ヶ平石切丁場跡』芦屋市教育委員会、2005年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]