黒田孝高

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黒田 孝高
(黒田如水/黒田官兵衛)
Yoshitaka Kuroda.jpg
如水居士画像(崇福寺蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年11月29日1546年12月22日
グレゴリオ暦1547年1月1日
死没 慶長9年3月20日1604年4月19日
改名 万吉(幼名)→小寺祐隆→小寺孝隆→黒田孝高[注釈 1]如水軒(号)、 如水円清(法名)
別名 官兵衛(通称)、 小官、黒官(略称)、 黒田の瘡頭(渾名)
戒名 龍光院殿如水円清大居士
霊名 シメオン
墓所 福岡市博多区千代の崇福寺
京都市北区大徳寺塔頭龍光院
和歌山県高野山奥の院
官位 従五位下勘解由次官、贈従三位
主君 小寺政職織田信長豊臣秀吉
氏族 小寺氏黒田氏(自称宇多源氏
父母 父:黒田職隆
母:明石正風の娘(小寺政職の養女)
兄弟

孝高利高香山妙春(三木清閑室)、 虎(妙円・尾上武則室[注釈 2] 利則直之

心誉春勢(一柳直末室)、浦上清宗[注釈 3]
正室:櫛橋伊定の娘・光(幸円)
長政熊之助
養子:一成加藤重徳の次男)、松寿丸一柳直末の息子、長政の幼名と同じだが別人)

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名。戦国の三英傑に重用され福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。嫡子は福岡藩初代藩主黒田長政

(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(読み同じ)、のち孝高といった[注釈 1]が、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)[注釈 4]、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された[1]

孝高に関する話は、ルイス・フロイスなどの宣教師、菩提寺の崇福寺住職景轍玄蘇といった直接面識のあった人物の記述の他、『川角太閤記』(川角三郎右衛門著、江戸時代初期)、『名将言行録』(岡谷繁実著、1869年)、『黒田如水伝』(金子堅太郎著、1916年)などによる、伝聞を記述された物も多く知られる。備中高松城水攻めと中国大返しは孝高の献策などといった話は、黒田家の命において寛文11年(1671年)に編纂を開始された『黒田家譜』(貝原益軒著、1688年[注釈 5]以降の逸話である。

また慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。今日の野心家・如水のイメージはここからきていると思われる。

生涯[編集]

出身[編集]

黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない[注釈 6]。孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り[注釈 7]龍野城赤松政秀[注釈 8]、後に守護赤松晴政重臣で御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた戦国大名小寺則職政職父子に仕えた。小寺氏は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として天文14年(1545年姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺(こでら)の名字を名乗らせた。

播州時代[編集]

天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる[2]。永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる[2]。永禄4年(1561年)、小寺政職の近習となる。そして永禄5年(1562年)、父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る[2]。また、この年から「小寺官兵衛」を名乗っている。永禄7年(1564年)、室津浦上清宗が、婚礼当日に敵対する赤松政秀[注釈 9]に攻められ、父・政宗とともに討たれる事件があったが、清宗の妻を孝高の姉妹と見る向きもある[注釈 3][注釈 10][要出典]。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

永禄11年(1568年)9月、放浪中の足利義昭織田信長美濃で会見して上洛を要請[注釈 11]し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となる。翌12年(1569年)8月、義昭と誼を結んだ赤松政秀[3]が、池田勝正別所安治宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、孝高は奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い[注釈 12]。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。この後、三人衆が一旦は勢力を立て直し、信長包囲網が引かれ、義昭と信長の関係も疎遠になり始める。

元亀4年(1573年)、包囲網は甲斐国武田信玄の病などにより弱体化し、信長が勢力を盛り返す。4月、東播磨の三木城主・別所長治(安治の子)が攻めこんでくる(印南野の戦い)。7月、内紛により三好氏の篠原長房が討死。9月、信長が浅井長政を討ち、義昭を追放。12月、浦上宗景が信長と和睦。翌2年、義昭は山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の領内の鞆の浦へ逃れる。

天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦い武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。信長から「圧切長谷部」(国宝福岡市博物館蔵)という刀を授かる。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる[4]。一方で9月には、宗景が宇喜多直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。翌4年1月、丹波の波多野秀治が、赤井直正攻めの明智光秀を攻撃(黒井城の戦い)して信長より離反。

天正4年(1576年)5月、小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する播磨の三木通秋の所領である英賀に上陸させるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退ける(英賀合戦[5]。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。

10月、信長は信貴山城の戦い松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である市川を挟んで姫路城の南西に位置する飾東郡の妻鹿・国府山城(功山・甲山(98m)[注釈 13]に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。月末には秀吉は、弟の羽柴秀長生野銀山を管轄する太田垣景近竹田城但馬国)攻めに向かわせる(11月4日落城)。次いで秀吉本隊の赤松政範の上月城攻めに従い、佐用城(福原城)攻め(11月26日落城)へは竹中重治らと共に加わり先陣を務めている(上月城の戦い)。上月城は、以前に浦上宗景と共に毛利氏と戦っていた尼子勝久山中幸盛ら尼子遺臣団が城代を任される。

織田家臣時代[編集]

ところが天正6年(1578年)3月、別所長治(波多野秀治の娘婿)が殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し[注釈 14]三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、尼子遺臣団を残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した[注釈 15]

双方の調略も激しさを増し、9月に孝高は直家を調略することに成功する[2][注釈 16]。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城籠城した(有岡城の戦い)。さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、10月、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉される。1年後、天正7年(1579年)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、孝高は栗山利安に救出された。その後、姓を小寺から黒田に戻している。

天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく別所長治の三木城を陥とした。孝高の主君の政職も、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて鞆の浦へ逃がれ、戦国大名としての小寺氏は滅んだ。織田家臣として秀吉の与力となり、名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている(3年後の賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる。)[注釈 17]。秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言する。7月、秀吉より姫路城普請を命じられる[5]。9月、孝高は揖東郡福井庄(網干周辺)に1万石を与えられる。

天正9年(1581年)6月、前年に降伏した山名豊国を追放して3月に吉川経家を城主に迎え入れていた因幡国鳥取城へ、秀吉は6月に再び出兵(第二次鳥取城攻め)し、これに孝高も加わる。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされた。

鳥取城攻めの同時期、天正8~10年の間に、毛利氏と結んだとされる淡路島由良城主、安宅清康攻め、志知城から信長側に付いた阿波国の三好氏の支援などに、小西行長らとともに関わっている[5]

また天正10年(1582年)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる[2][注釈 18]

豊臣家臣時代[編集]

高松城攻めの最中の6月2日、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたという逸話がある。[2][注釈 19]山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた[注釈 20]。9月頃より、毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線確定の交渉に、蜂須賀正勝とともに入る[注釈 21]

天正11年(1583年)、大坂城縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた[2][6]

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、大坂城で留守居役を務めている。黒田長政らは岸和田の戦い根来盛重鈴木重意長宗我部元親[注釈 22]らの兵を破った[注釈 23]。7月、播磨国宍粟郡山崎篠の丸城を与えられ5万石の大名となっている[注釈 24]

天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。この頃に、孝高は高山右近蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信している。[注釈 25]

天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州豊前に上陸[7]宇留津城香春岳城など[注釈 26]を陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。戦後は石田三成と共に博多の復興(太閤町割り)を監督している[注釈 27]

豊前国主[編集]

九州平定後の天正15年(1587年)7月3日、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石以上)[注釈 28]を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも野中鎮兼国人勢力が肥後国人に呼応、また、伊予国への転封を拒否し3万石を改易されていた城井鎮房が挙兵して以前の居城であった城井谷城を占拠するなども加わり、大規模な反乱となる[注釈 29]。長政が一旦は鎮圧に失敗する(岩丸山の戦い)などしたため、黒田父子は持久戦をとり[注釈 30]、兵站を断ち徐々に鎮圧する[注釈 31]。翌16年1月頃、中津城が完成。4月、嫡男と娘を人質に出して降伏するも城井谷城からの退去に応じなかった鎮房を、秀吉の指示もあり[5]、長政が中津城で謀殺、郎党を攻め滅ぼす[2][注釈 32][注釈 33]

天正17年(1589年)5月、家督を突然嫡男の長政に譲り、孝高は秀吉の側近として引き続き軍師として仕える。豊前中津城は殆ど長政に任せ、京都の猪熊、伏見屋敷、大阪の天満屋敷を拠点とする。

天正18年(1590年)の小田原の陣では北条氏政氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城させる功績を立てた。秀吉は孝高の息子、長政に宛てた朱印状で小田原での功績を称えている。[2][注釈 34]

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず、病を理由に帰国。文禄2年(1593年)3月15日、日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡ったが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より5月21日再帰国したが、秀吉の怒りを買って追い返されている[8][注釈 35] 6月、第二次晋州城攻防戦においての後藤基次らが用いた亀甲車の設計や、和式城郭の縄張りなどに携わっているが、「如水軒円清」と号して出家している[注釈 36]

慶長2年(1597年)、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たちが[注釈 37]酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった[9]。一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。

関ヶ原の戦い[編集]

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。この頃、如水が上方の情勢を知らせてきた吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。

明くる慶長4年(1599年)1月、生前の秀吉が『大坂城中壁書』にて制限した大名間の婚姻と私的な交流に徳川家康福島正則らが抵触すると、それを詰問した前田利家を筆頭とした、他の石田三成ら大老・奉行衆と緊張が高まる。この時に蜂須賀家政藤堂高虎らと共に、家康方に参じる。3月、利家が病死すると、利家方であった加藤清正細川忠興らを引き込んで、長政ら七将が三成襲撃事件を起こす。家康の仲裁により、三成は領国の佐和山城に退去し、長政や家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。

慶長5年(1600年)6月2日、徳川家康会津上杉景勝討伐を諸大名に命じる。6月6日、長政は家康の養女(保科正直娘・栄姫)と再婚し、6月16日に家康と共に出陣。7月17日8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み、後藤基次ら黒田軍の主力を率いて、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に帰国していた如水も、家康方に対し、前以って味方として中津城留守居を務める密約を結び、行動した。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した。それまでは三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め、東へ向かう九州の西軍の部隊を素通りさせ、準備期間を稼いでいたという。

道中の諸城を攻略した後、9月13日10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した(石垣原の戦い)。

9月19日10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉臼杵城佐賀関の戦い)などの諸城(熊谷直盛安岐城毛利高政角牟礼城日隈城毛利勝信小倉城毛利信友香春岳城など)を落としていった。 国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5,000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂鍋島勝茂が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川の支城である海津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は立花宗茂鍋島直茂加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

晩年と葬儀[編集]

関ヶ原の合戦の後、徳川家康は先に嫡子、長政に勲功として筑前名島(福岡)52万3,000石への加増移封をした後、井伊直政など徳川譜代の家臣や藤堂高虎の勧めもあり家康は、如水にも勲功恩賞、上方や東国での領地加増を提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は福岡城に残る御鷹屋敷や、中興の祖と言われ再建に努めた太宰府天満宮内に草庵などを構えている。 また、上方と筑前を行き来し、亡くなる半年前には所縁の摂津有馬温泉に、療養滞在している。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)の辰の刻、京都伏見藩邸(現在の京都市伏見区深草大亀谷敦賀町近辺)にて死去した。59歳。辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。死の間際、如水は自分の「神の小羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置いた。そして次のように遺言した。自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと、息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること、イエズス会に2000タエス(約320石に相当)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多[10]に教会を建てるための建築資金に充てること、である[11]。また、家臣の殉死を禁止している。

4月のある夜、午後10半頃、博多の教会の宣教師たちは如水の遺骸を、博多の町の郊外にあって、キリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそった。如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が十字架を掲げ、直之の息子と、徳永宗也の甥が松明を持ち、ペロ・ラモン神父とマトス神父は祭服を、修道士たちは白衣を着ていた。墓穴は人が200も入るほどの大きなもので、その中に着いたのち宣教師たちは儀式を行い、それから如水を埋葬した。同じ夜、長政は宣教師のもとを訪れ、葬儀の労に謝し、翌日には米500石を贈った。その15日か20日後、長政は仏式の葬儀もおこなっている[12]

如水の死から2年後、如水の追悼記念聖堂が完成し、慶長11年3月21日(1606年4月28日)からその翌日にかけて宣教師たちは荘厳な式典を行った。それは聖堂の献堂式に始まり、2日目には如水の追悼ミサが執り行われ、これには長政や重臣たちも参列した。ミサの後長政は、宣教師たちを福岡城に招いて宴を設け、照福院は教会のための特別な寄付をしたという[13]

後に息子の長政は京都の臨済宗大徳寺に、父如水を弔う為に塔頭、龍光院を建立。法要が行われた。同院は当初大徳寺最大の塔頭で如水の霊廟の他、大阪天満の如水屋敷にあった書院、茶室等を移築。これが今日まで残る天下の三大茶室国宝の密庵である。

また、如水の晩年の伝承に基づいた墓碑が各地に残存し、近年盛んに研究されている。滋賀県長浜市木之本地区、兵庫県但馬地方、香美町村岡地区など。

[編集]

孝高の隠居後の号である如水の由来について、ルイス・フロイスは次のように記している。[14]

官兵衛は剃髪し、予の権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、 それらすべては今や水泡が消え去るように去って行ったと言いながら、ジョスイ、すなわち水の如し、と自ら名乗った。

また、孝高は「シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあり、如水についてもモーセの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書ヨシュアのポルトガル語読みであるジョズエJosué)から取ったとも言われる[要出典]。孝高は宣教師からジョズエについて城攻めの才能がある人物として伝わっていた。なおキリスト教に関連した号を持つ武将として、小西行長などに仕えた内藤如安などがいる。

孝高が用いた印章には、「SIMEON IOSUI/IOSUI SIMEON」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)とも読めるものがあり[15]いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「シメオン じょすい/じょすい シメオン」、「くゎん(ひゃうゑ/びゃうゑ)[16]」と考えられる[注釈 38]。なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた[17]

人物[編集]

  • 築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、前野長康浅野長政らと共に、姫路城大坂城讃岐高松城名護屋城(肥前国)、広島城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、総奉行として縄張りや助言を行った。加藤清正は、自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちないなどと賞賛している。
  • 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば黒田長政の動員した兵が5,400とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
  • 徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した[18]
  • 歴史小説等では、不遇の天才武将として描かれることが多い。徳川家康と石田三成の合戦では、家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、その間に九州を制覇し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下を取ろうとした。しかし息子の長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、その結果、関ヶ原の合戦は極めて短期間で終わってしまい、皮肉にも息子の活躍により野望を阻まれた、とする作品が多々存在する(後述も参照)。しかし、史実として確認できる業績からは、下克上や天下取りの野心を示した事は一度もない。小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のである、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は(事実上)同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく、なおかつ同じ東軍であったから、敵対すらしていない。
  • 遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
  • 当時は当たり前にあった主君のために家臣が追腹を切る事を禁止した。
  • 筆頭家老・栗山利安母里友信は如水の命により若い頃に義兄弟の誓紙を交わした。如水が死ぬ間際、二人を呼び「これはあの時の誓紙。本来なら今はもう返すべきだと思うが、最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから冥土まで持って行こうと思ってる。自分が死んだら、お守りとして棺の中に入れておいてくれ。」と笑いながらそれを大切そうに懐に中に入れたという(古郷物語)。
  • 辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」
  • 福岡県福岡市博多区に所在する崇福寺に伝来する肖像は慶長9年(1604年)の作で、播磨出身の井上之房(九郎右衛門)の求めに応じて作成され、「如水」の号を授けた大徳寺の春屋宗園による賛が記されている。如水像は他にも何点かあるが、どれも脇息にもたれかかり、片膝を立てくつろいだ姿で描かれている。これはしばしば足が不自由だからとする説明があるが、こうした図像は柿本人麻呂像を始めとする歌人の肖像によく見られる形式であり、歌人としての一面もあった如水の像もこれに倣っていると考えられる[19]

人間関係[編集]

秀吉との関係[編集]

逸話として秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に恐れていたと後の時代に書かれることがある。

だが、「おまえは弟の小一郎(豊臣秀長)と同じように心安く思っている」と書かれた天正5年7月付の孝高宛の秀吉自筆の書状など、資料として仲違いを示すようなものがあるわけではない。[5]

前述の孝高は後世にしばしば秀吉の「軍師」と呼ばれる。戦国期には合戦に際して方角や日時を占う「軍配者」が存在し、「軍師」とも呼ばれた。孝高は軍配者ではないが、軍師には主君の側近くにあって政治・外交・軍事的な指南を行うものという意味もある。孝高は後者の意味で秀吉の軍師とも評されるが、秀吉の有力側近は豊臣秀長と千利休であり、孝高は軍事的な司令官ではあったが豊臣政権を動かす発言力は有していなかったとする指摘もある[20]

しかし、ルイス・フロイス著の日本史には、 「カトリックを受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。彼は、優れた才能の持主であり、それがために万人の尊敬を集めていた。」 として、黒田孝高の名をあげており、参謀や顧問、側近として幕僚にいたことは間違いない。

印度総督名代アレハンドロが秀吉との会見を望み、孝高が仲介の労をとったことがあったが、そのとき秀吉は機嫌を悪くしてこう言ったという。「汝は彼ら(ぱあでれ達)を愛護し、きりしたんたるが故に予が与えんと決定した大部分が与えられないのを知らぬのか。下(九州地方)の戦闘に大将として働いた時、二ヶ国を与えようと約束したが、その時ぱあでれ及びいるまんに対する不快から、その後、豊前国の大部分と王の名称しか与えなかった事を。」[21]

竹中重治との関係[編集]

関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

孝高(官兵衛)は、同じく秀吉の「軍師」とされる竹中重治(半兵衛)と並んで「両兵衛(ニ兵衛)」と呼ばれることがある。

荒木村重謀反(有岡城の戦い)の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の小寺政職と共に村重方に寝返ったからだと判断し[注釈 39]、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(のちの黒田長政)を殺害するように命じたが、機転を利かせた竹中重治(半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用い[注釈 40]、また重治の子の竹中重門元服の際には孝高が烏帽子親を務めた。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いの際には、黒田長政と竹中重門が隣り合わせで陣を張ったことが陣跡に残されており、「両兵衛」の絆は息子同士にも受け継がれている[22]

毛利家との関係 [編集]

  • 毛利輝元率いる毛利家とは秀吉の名代としてたびたび交渉にあたっており、フロイスの日本史にも「関白は彼を通じて山口の国主(毛利)と交渉している」と書かれてある。また毛利家上洛の折は官兵衛がすべて取り仕切っている記述が残されている。
  • 小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋は、豊臣秀頼誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、小早川家の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。隆景の末弟で養子の小早川秀包を、黒田長政大友義統らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の久留米城に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。
  • 吉川広家とは小早川隆景死後とくに親密となり、関が原のおり孝高・長政親子は広家を通じて毛利・小早川の調略を成功させている。二人がやりとりした手紙も多く残されており、孝高が広家に送った如水釜と呼ばれる茶器も現存している。

その他の人間関係[編集]

  • 幽閉した村重(道糞)とは共に秀吉の家臣になった後も交流があった書簡の写しが残っている[23]
  • 茶道にも造詣深く京都の聚楽第邸内の猪熊の屋敷(現在の京都市如水町・小寺町)は一条の千利休邸と隣り合い、茶道を学んでいる。自ら『御茶堂之記』という記録を残し、自分流の茶道の心得を記している。他にも茶人や造園家として有名な小堀遠州らとも交流があり、大坂天満の自邸の茶室など、遠州が設計に関わっているとされる。
  • 風流人で和歌連歌などをたしなんでおり、京都の公家、五摂家当主や堂上家の人々とも多く親交を持っている。近衛信尹とは特に親しく複数の交換書状(書簡)が太宰府天満宮などに所蔵されている。
  • 京都大徳寺の名僧春屋宗園は如水と大変仲が良く、書状などが複数残っており、一番如水像に近いとされる福岡市美術館蔵の肖像画には、同氏の讃が漢文で丁寧に書かれている。晩年は、息子長政の建立した塔頭龍光院にて隠棲している。

逸話[編集]

  • 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる[2]。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。小寺高友宛の秀吉からの手紙によれば、孝高は城うち(本丸)にいたとされる。
  • 有岡城内の孝高を、家臣の栗山利安母里友信井上之房などが、商人の銀屋(しろがねや)の付き人を装って安否を確認していたとされる。村田吉次の伯母、黒田一成の父(加藤重徳)などに、世話をされていたとされる。
  • 旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
  • 九州征伐後の豊前国5郡半などの褒賞を、儒学者貝原益軒の『黒田家譜』などは、孝高の勲功に対して少なすぎると評し、これを石田三成の讒言などによるものとしている。湯浅常山の『常山紀談』などは、豊臣秀吉が孝高の才能を恐れたからだとしている。ルイス・フロイスの手紙は、孝高がキリシタンであったため迫害を受けたとしている。
  • 次男の熊之助が海難で亡くなった(後述)後、まだ長政に男子がいなかったため、山中城の戦いで戦死した妹婿の一柳直末の遺児で、孝高の甥・養子の松寿丸を跡継ぎに指名した。しかし、この松寿丸は13歳で亡くなっている。
  • 関ヶ原の戦いの折、石田三成方で本戦に加わっていた太田一吉や小早川秀包の九州での居城は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えられており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。
  • 関ヶ原の戦いの後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度右手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「その時、お前の左手は何をしていた(何故空いた手で刺さなかった)?」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが(前述も参照)、後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。
  • ただし慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べた事実があり、状況によっては最後に大博打を打とうとした可能性を示す文献が遺っているのは確かである。
  • 関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
  • 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという[24]
  • 身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
  • 家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。
  • 隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の海音寺潮五郎はこの事を指して、信長・秀吉・家康の三英傑より人物的には勝っていると評した。
  • あくまでも1800年代に書かれた名将言行録からではあるが、本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と述べ、以後孝高の智謀を恐れるようになったという逸話がある。同書には、秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の本当の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したとしている。また、「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」とも書いている[24]
  • 文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。
  • 鳥取城の兵糧攻めや備中高松の水攻めは孝高の献策であると後に逸話として語られることがある。だが、従軍していたことは明らかである[25]が、献策を示すような資料があるわけではない。

遺品[編集]

如水が使用したと伝わる遺品が各地に残っている。

  • 愛用した「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っている[26]。この兜は後に起こった黒田騒動にて利安の子である栗山利章盛岡へ流された後、盛岡藩南部家へ献上された[26][27]。現在この兜は同地にあるもりおか歴史文化館に保存されている[26]。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄10年(1566年)、志方城の城主櫛橋伊定から贈られた兜が加工されている[28]。後に福岡藩3代藩主の黒田光之が如水を偲んで、同形式の甲冑をつくらせた。こちらは福岡市博物館に保管されている。
  • 如水所有ののうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。
    • 刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)[29][26]
      天正3年(1575年)7月、美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が山城国刀工長谷部国重の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。
    • 刀 備前長船祐定(安宅切)[30][31][26]
      天正9年(1581年)11月、四国攻めの際に淡路国にて安宅河内守(安宅清康かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から埋忠明寿の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。
    • 太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)[32][33]
      天正18年(1590年)の小田原征伐の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の北条氏直より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。
  • また、小田原征伐の降伏交渉の際に北条氏直から平経正ゆかりとされる伝説の琵琶の名器『青山』、歴史書の『吾妻鏡』と法螺貝の『北条白貝』も如水に贈られ[33]、『吾妻鏡』は国立公文書館[34]、『北条白貝』、琵琶名器『青山』は福岡市美術館に保存されている[35][36]
  • 黒田孝高所用の太刀拵(鞘)が現存している。明治35年1902年に、黒田侯爵家から明治天皇に献上された名宝刀『菊一文字』が収められていたと考えられている。[37]。天正10年(1582年)10月、足利義昭より、羽柴秀吉に帰京許可の執り成しを依頼され、その返礼として贈られたとされる[38]

遺跡・伝承[編集]

  • 大友宗麟の戦火により消失した、宇佐神宮・弥勒寺の再建にあたっている。
  • 安楽寺天満宮太宰府天満宮中興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
  • 墓所は、福岡市博多区崇福寺と、京都市北区大徳寺塔頭龍光院にある。
  • 中津市の合元寺には、旧領回復を目指して一揆を起こした城井鎮房が、中津城内に謀略結婚により呼び寄せられた際、40人の城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて伝説を生んだともいわれる。

子孫[編集]

孝高の子は、正室櫛橋光との間に生まれた黒田長政(長男、1568年(永禄11年)生誕)と黒田熊之助(次男、1582年天正10年)生誕)のみであった。長政の誕生後、しばらく子が生まれなかったが、側室を持つことはなかった。よって、有岡城の戦いに際し、長政(幼名:松寿丸)が竹中重治に匿われることなく処刑されていれば、ここで跡取りを失くしていたことになるが、重治に助けられたことによりそれは回避された。

それよりまもなくして、二番目の子となる黒田熊之助(くまのすけ)が誕生した。熊之助も順調に成長したが、慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に参加していた父・孝高や兄・長政を見舞うために、母里吉太夫(母里友信の嫡男)・黒田吉松(黒田一成の弟)・木山紹琢を従え朝鮮半島を目指していた途中で暴風に遭って船が沈没し亡くなった(享年16)。

よって、長政の子孫のみが孝高の子孫ということになる(詳しくは黒田長政#子孫を参照のこと)。

その他[編集]

関連作品[編集]

小説[編集]

  • 長谷川伸「黒田如水軒」(1930年12月、『講談倶楽部』)
  • 武者小路実篤「黒田如水」(1935年5月、『キング』)
  • 菊池寛「黒田如水」(1936年1月、黎明社刊『日本武将譚』収録)
  • 鷲尾雨工『黒田如水』(1940年9月、アカツキ)
  • 吉川英治『黒田如水』(1943年11月、朝日新聞社)
  • 坂口安吾二流の人』(1947年1月、九州書房)
  • 松本清張「軍師の境遇」(1956年4月 - 1957年3月、『高校コース』)
  • 池波正太郎「智謀の人」(1968年11月、芸文社刊『武士の紋章』収録)
  • 司馬遼太郎播磨灘物語』(1975年6月 - 8月、講談社)
  • 海音寺潮五郎「城井谷崩れ」(1984年8月、六興出版刊『三河武士』収録)
  • 童門冬二『小説 黒田如水』(1994年6月、富士見書房)
  • 高橋和島『新史黒田官兵衛』(1997年6月、PHP研究所)
  • 赤瀬川隼「官兵衛受難」(1998年7月、新人物往来社刊『天紙風筆』収録)
  • 岳宏一郎『乱世が好き』(1997年10月、毎日新聞社 ※講談社文庫収録時に『軍師官兵衛』、光文社文庫収録時に『群雲、賤ヶ岳へ』と改題)
  • 安部龍太郎『風の如く 水の如く』(1999年3月、集英社)
  • 西村京太郎「天下を狙う」(2003年1月、角川書店刊『天下を狙う』収録)
  • 葉室麟『風渡る』(2008年6月、講談社)
  • 同『風の王国 官兵衛異聞』(2009年9月、講談社)
  • 火坂雅志『軍師の門』(2008年11月、角川学芸出版)
  • 上田秀人『日輪にあらず 軍師黒田官兵衛』(2012年9月、徳間書店 ※徳間文庫刊の『月の武将 黒田官兵衛』『鏡の武将 黒田官兵衛』を改稿)
  • 高橋直樹『軍師黒田官兵衛』(2013年11月、潮出版社)
  • 新井恵美子『官兵衛の夢』(2013年)

漫画[編集]

音楽[編集]

テレビドラマ[編集]

黒田孝高が主人公のテレビドラマ[編集]

黒田孝高が登場するテレビドラマ[編集]

主役ルート・ステージの設けられたゲーム[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ a b 祐隆」(「祐」の字は赤松義祐より受けたものか)の名は、永禄10年(1567年)12月23日の「小寺祐隆下地売券」に見られ、同13年(1570年)3月12日の「小寺孝隆借銭請取状」では「孝隆」とあることからこの間に改名しているものとみられる。「小寺孝隆」の名は、天正11年(1583年賤ヶ岳の戦いを記録した『天正記-柴田退治記』など)の段階までに確認され、これ以降に黒田に改姓および曽祖父・黒田高政以前の通字である「高」の字を取って「黒田孝高」と名乗ったと思われる。
  2. ^ 先夫尾上氏の死後、孝高より毛利家臣との縁談を紹介されたが、断り地元の麻生氏と再婚した。
  3. ^ a b 『備前軍記』によると孝高の娘とされているが、年齢的に合わず、孝高ではなく父の政職の子ではないかという説がある。なお黒田氏の系図類ではその名は一切見られず、養女と見る向きもある。
  4. ^ 今日では一般的に「黒田官兵衛」といったら黒田孝高のことを指すが、他にものちに黒田家の当主となる黒田継高黒田斉清黒田斉溥(長溥)などが「黒田官兵衛」を通称としている。
  5. ^ 渡邊大門『誰も書かなかった 黒田官兵衛の謎』では、参考になる点は多々ある一方で、孝高については顕彰する傾向が非常に強いとしている。
  6. ^ 現在の滋賀県長浜市木之本町黒田で、近江源氏佐々木氏京極氏)の傍系であると、偽書とされることが多い『江源武鑑』、及びこれを参考とした貞享4年(1687年)に福岡藩貝原益軒が編纂した『黒田家譜』などにも同様に記載されるが不明瞭で、『寛政重修諸家譜』などには省かれる。(参考:福岡市博物館 - 黒田家のご先祖探し
  7. ^ 浦上村宗から逃れたとされる。
  8. ^ 置塩城守護赤松晴政に属したとも言われる。
  9. ^ 永禄元年(1558年)、浦上政宗らの後見を得た嫡子の赤松義祐に追放された赤松晴政を、娘婿の赤松政秀が受け入れ、晴政の復権に関わった。
  10. ^ 室津の八朔のひな祭りの由来は、この討たれた志織姫を悼んでのものとしている
  11. ^ 小寺則職(政職の父)にも要請が届いている。
  12. ^ 同時期の永禄12年(1569年)5月より、大友宗麟と交戦(多々良浜の戦い)していた毛利元就が、背後を突かれる形で、3年前に滅ぼしていた尼子氏の残党の立原久綱山中幸盛らに、出雲内で尼子勝久を擁立・再起され、更にそれを但馬国山名祐豊備前国の浦上宗景に後援された。元就が幕府に救援を求める。信長の配下である木下秀吉(豊臣秀吉)が8月1日に山名攻めに差し向けられ、播磨を経由してわずか10日間で18城を落として鎮圧した(但馬攻め)。これは、青山・土器山の戦いと並行して行われている。
  13. ^ 別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。
  14. ^ 孝高の妻・の実家である櫛橋氏なども離反し、東播磨で織田方に残ったのは孝高の従兄弟にあたる明石則実、当初より織田派であった別所重宗赤松広秀など僅か。
  15. ^ 8月、別所氏に呼応した書写山西向かいの、峰相山鶏足寺 (姫路市)を攻めている
  16. ^ 宇喜多直家は、小西行長を使者として羽柴秀吉に帰属を申し入れている。
  17. ^ 天正8年(1580年)7月に、秀吉が姫路城普請を命じた文書に黒官兵と記されているのが、黒田姓の初見。一方で1588年のフロイスの手紙には、「Condera Cambioyedono」とある。
  18. ^ 『吉田大略記』によると孝高の家臣吉田長利(八代道慶と乳母の子で黒田二十四騎の1人)から孝高へ提案されている。
  19. ^ 大返しの前に小早川隆景より人質と共に20本の旗を借り受け、宇喜多秀家の旗10本と共に掲げた。中国の大勢力が加勢していると見せて、味方を増やし、敵を弱気にさせる策略とされる。『黒田家譜』
  20. ^ 高名していた配下の秦桐若丸を、この戦いの負傷が元に失っている。
  21. ^ 毛利側の外交官は主に安国寺恵瓊。前年に宇喜多直家は病没し、宇喜多秀家が当主となり、養父となった秀吉に後見されている。
  22. ^ 香宗我部親泰の与力の菅達長
  23. ^ 黒田孝高黒田長政蜂須賀正勝前野長康生駒親正明石則実ら在番衆は、中入りの時期には、本営の備えとして召喚されている。『浅野家文書』
  24. ^ 天正8年(1580年)5月、別所氏に呼応して滅ぼされた播磨国宍粟郡広瀬の長水城宇野祐清の後に神子田正治が入っていたが、戦闘中の無断離脱を問われて失脚した。
  25. ^ フロイス日本史』によると、天正11年頃から室津の小西行長に影響され、明石城高山右近蒲生氏郷らに勧められ、天正13年に洗礼を受けし、三木城の前野長康(間も無く出石城へ移り、中川秀政が入城)と共に、播磨における布教の入り口となっていたとされる。
  26. ^ >他に、障子岳城、原田信種の高祖城など。小倉城小早川隆景が単独で落城させている。
  27. ^ 家臣の久野重勝が担当し、博多商人の神屋宗湛島井宗室が参画している。
  28. ^ 蔵入地は2万石程。自己申告である差出検地を認められている。
  29. ^ 豊前国でも上毛郡の如法寺久信などによる小規模な一揆は起きていた。『金苗文書』
  30. ^ その間、妹婿の尾上武則などが戦死している。
  31. ^ 天正15年(1587年)12月、下毛郡の犬丸城の攻略に対し、秀吉より長政が感状を受けている。
  32. ^ 城井鎮房の嫡男・城井朝房と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事で降伏を認め、和議を結んだが、孝高が朝房を伴い肥後国に出陣していた際、中津城を訪れた鎮房を、長政が酒宴の席で謀殺した。その報告を受けて、孝高は朝房を殺害した。(吉永正春『戦国九州の女たち』西日本新聞社、1997年)。朝房の妻子は宝珠山村で匿われている。
  33. ^ 『川角太閤記』では、まだ妻がいなかった長政に鎮房の17歳の息女と縁組をし、孝高が出陣中に留守居役として鎮房を誘い出して討ち果たした。孝高は「息女たちは親類のいる周防国へ送れ」と指示していたが、長政は手ぬるいとして息女と乳母を火炙りの刑、侍女たちを磔の刑にしたとする。ただし、既に長政には蜂須賀正勝の息女・糸姫を正室としている。
  34. ^ 小田原の陣の頃に、徳川家康との親交があったとされ、家康次男の結城秀康結城氏への養子入りに関わっている。
  35. ^ 小西行長石田三成増田長盛大谷吉継の三奉行は、明勅使を伴って、先んじて5月15日に名護屋城に戻っている。
  36. ^ 死罪を覚悟して黒田長政らに遺書を残している。
  37. ^ 三成などにも親しい福原長堯熊谷直盛垣見一直らは、三成の妹婿などで親密。
  38. ^ ローマ字で表記された以下の人名は全て黒田孝高を指す。Simon Condera (Simon 小寺), Simeon Condera (Simeon 小寺), Kodera Cambyoye (小寺官兵衛), Kodera Kambyoye (小寺官兵衛), Quadera Quanbioi (小寺官兵衛), Kuroda Kambroye (黒田官兵衛、なお KambroyeはKambyoyeの誤読と考えられる), Cuwanbioye (官兵衛), Cambioiendono (官兵衛殿、なお母音のつぎにdなどが続くと、その母音を発音するときに息を鼻に送る〈池上岑夫訳『日本語小文典 上』岩波書店、1993年、73頁〉。donoの前のnはこの鼻母音を表したものと考えられる。), Quambioi-dono (官兵衛殿), and Condera-quansioye (小寺官兵衛、なお18世紀以前、sは時にſと書かれており、quansioyeはquanfioyeの誤読と考えられる。「兵衛」の読みはfioyeとbioyeの二通りがあった〈池上岑夫訳『日本語小文典 下』岩波書店、1993年、198頁〉)
  39. ^ 毛利側にも、御着、志方、山﨑、野間などと共に、姫路も寝返ったと伝わっている(『毛利家文書』)。
  40. ^ この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である。

出典[編集]

  1. ^ 福本日南『黒田如水』、菊池寛『黒田如水』。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 貝原益軒『黒田家譜』
  3. ^ 娘・さこの方を足利義昭の侍女としている。『大阪城天守閣所蔵文書』
  4. ^ 信長公記
  5. ^ a b c d e 『黒田家文書』
  6. ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
  7. ^ 長野鎮辰の馬ヶ岳城他、時枝鎮継時枝城などを収容。
  8. ^ 『益田孝氏所蔵文書』
  9. ^ 『看羊録』
  10. ^ 当時、「博多」という地名は「福岡と博多を合わせた双子都市」を指した。『キリシタン研究』第19輯、1979年、pp.116, 131, 137, 153, 168。
  11. ^ 「マトス回想録」(「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、p.23)
  12. ^ 「マトス回想録」(「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、pp.23-24)
  13. ^ 「博多のキリシタン」『キリシタン研究』第19輯、1979年、p.27)
  14. ^ 完訳フロイス日本史5 第44章
  15. ^ 西日本文化協会 福岡県地域史研究所編『福岡県史』近世史料編 福岡藩初期(下)(西日本文化協会、1983年)pp.487,489。
  16. ^ 「くゎんひゃうゑ(くわんひやうゑ)」は「官兵衛」当時の正式なカナ表記。実際の発音としては「かんびょーえ」などが知られる(クリセル神父校閲・吉田小五郎訳『日本切支丹宗門史(上)』岩波書店、1938年、p.39など)。
  17. ^ 土居忠生ほか訳『邦訳 日葡辞書』(岩波書店、1980年)巻末「ローマ字綴り・音注対照表」(p.863の次の頁)、また、池上岑夫訳『ロドリゲス 日本語小文典(上)』(岩波書店、1993年)p.266。
  18. ^ 三河後風土記
  19. ^ 黒田長政と二十四騎展実行委員会編集・発行 『黒田長政生誕四四〇年記念展 黒田長政と二十四騎 黒田武士の世界』 福岡市美術館、2008年9月、p.93。
  20. ^ 諏訪(2013)
  21. ^ 新井トシ訳『グスマン東方伝道史』下巻、養徳社、1945年、536-537頁。原文:..., te quite grande parte de darte lo que auia determinado do darte (dixo esto) porque siendo su capi tan en las guerras del Ximo, le auia prometido de darle dos Reynos, y con el disgusto que enton ces tomo contra los Padres, y corra la Christiandad, no quiso darle despues sino la mayor parte te del Reyno de Buygen, con el titulo de aquel reyno.
  22. ^ NHK大河ドラマ軍師官兵衛』第21話「官兵衛紀行」より。
  23. ^ 官兵衛、幽閉への遺恨なし? 荒木村重への書状確認
  24. ^ a b 岡谷繁実 『名将言行録』 前編下冊 巻之二十九
  25. ^ 『鳥取城合戦始末記』
  26. ^ a b c d e P5 稀代の軍師 黒田如水と一族
  27. ^ 黒田長政と二十四騎-福岡市博物館のウェブサイトより-2008年9月21日確認
  28. ^ P142 稀代の軍師 黒田如水と一族
  29. ^ 国宝刀 名物「へし切長谷部」-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  30. ^ 第一次四国征伐ー2008年9月21日確認
  31. ^ 刀と能面-福岡市博物館ウェブサイトより-2008年9月21日確認
  32. ^ 国宝太刀 名物「日光一文字」-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  33. ^ a b P4 稀代の軍師 黒田如水と一族
  34. ^ P65 稀代の軍師 黒田如水と一族
  35. ^ 黒田家 その歴史と名宝展-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  36. ^ P25 稀代の軍師 黒田如水と一族
  37. ^ 開運!なんでも鑑定団2010年8月3日放送分
  38. ^ 金子堅太郎『黒田如水傳』
  39. ^ 『如水公夢想連歌』の一節、慶長7年(1602年)1月16日付で「松むめ(梅)や 末なか(長)かれと みとり(緑)たつ 山よりつゝく(続く) さとはふく岡(福岡)」と詠んだ記載が現在の初見(2013年7月10日西日本新聞)。
  40. ^ 『「如水発行 勝浦浜「塩」皆済状」』。
  41. ^ ※外部リンク「播磨黒田氏 黒田官兵衛」参照。
  42. ^ 歴史読本2013年5月号『徹底検証! 黒田官兵衛』
  43. ^ SAPIO2011年1月6日号

参考文献[編集]

関連項目[編集]

黒田氏[編集]

家臣団[編集]

外部リンク[編集]