黒田孝高

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黒田孝高 / 黒田如水
Yoshitaka Kuroda.jpg
如水居士画像(崇福寺蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文15年11月29日1546年12月22日
グレゴリオ暦1547年1月1日
死没 慶長9年3月20日1604年4月19日
グレゴリオ暦1604年5月17日
改名 万吉(幼名)、小寺孝高、黒田孝高、
如水軒(号)、如水円清(法名)
別名 祐隆、孝隆(別名)、
官兵衛、勘兵衛(通称)、
黒田の瘡頭、黒勘(渾名)
戒名 龍光院殿如水圓清大居士
霊名 ドン・シメオン
墓所 福岡市博多区千代の崇福寺
京都市北区大徳寺塔頭龍光院
官位 従五位下勘解由次官
主君 小寺政職織田信長豊臣秀吉
氏族 小寺氏黒田氏(自称宇多源氏
父母 父:黒田職隆
母:明石宗和の娘(小寺政職の養女)
兄弟 孝高利高利則直之
女子(浦上清宗の妻)、女子(浦上誠宗の妻)
正室:櫛橋伊定の娘・ / 幸円

長政熊之助

養子:一成加藤重徳の次男)

黒田 孝高(くろだ よしたか) / 黒田 如水(くろだ じょすい)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名。孝高はで、通称の官兵衛(かんべえ)や出家後の如水の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

目次

生涯 [編集]

出身 [編集]

黒田氏は、『寛永諸家系図伝』などによれば、賤ヶ岳山麓の近江国伊香郡黒田村の出身とされるが、定かではない[1]。孝高の祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、守護赤松晴政、後に御着城(現在の姫路市東部)を中心に播州平野に勢力を持っていた西播最大の大名小寺政職に仕えた。政職は黒田氏を高く評価し、重隆を重臣として姫路城代に任じた。重隆の子、黒田職隆には自らの養女を嫁がせ、小寺(こでら)の名字を名乗らせた。

播州時代 [編集]

天文15年11月29日(1546年12月22日)、黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路に生まれる[2]永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる[2]。永禄5年(1562年)、小寺政職の近習となる。この年に父と共に土豪を征伐し、初陣を飾る[2]。永禄7年(1564年)、室津浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。

永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。永禄12年(1569年)、赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正別所安治宇喜多直家らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んでくるが、奇襲攻撃を仕掛けるなど、300の兵で2度にわたり戦い、三木通秋の援軍などもあって撃退に成功する(青山・土器山の戦い)。政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。

天正元年(1573年)小寺氏など播磨の大名たちは、浅井長政を討ち将軍義昭を追放し畿内で勢力を拡大する織田信長と、山陰山陽に勢力を張る毛利輝元の、2つの大勢力に再び挟まれることになった(浦上宗景は信長、宇喜多直家は輝元と相手を入れ替えて結んでいる。)。天正3年(1575年)、信長の才能を高く評価していた孝高は、主君・小寺政職に長篠の戦い武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を勧め、7月、羽柴秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見。さらに年明けには政職にも、赤松広秀(政秀の嫡子)、別所長治らと揃って京で謁見させる[3]。一方で9月には、宗景が毛利氏と結んだ直家に敗れ小寺氏の元に落ち延びてくる。

天正5年(1577年)、亡命した将軍・足利義昭を迎えた毛利氏は、5月に小早川隆景の水軍の将、浦宗勝を毛利と同盟する三木通秋の所領である英賀に上陸させ5,000の兵で播磨に攻め込ませるが、孝高は500の兵で毛利・三木軍を退ける(英賀合戦[4]。この戦いの後、長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として信長の元へ送る。

10月、信長は信貴山城の戦い松永久秀を討伐した後に、秀吉を播磨に進駐させた。孝高は一族を父の隠居城である飾東郡の妻鹿・国府山城(功山・甲山(98m))に移らせ、居城であった姫路城を秀吉に提供し、自らは二の丸に住まい、参謀として活躍するようになる。直ちに秀吉の弟の羽柴秀長に従い、生野銀山を管轄する太田垣景近竹田城但馬国)攻め(11月4日落城)に、蜂須賀正勝らと共に加わる。次いで秀吉本隊の上月城の戦いにも竹中重治らと共に加わり、佐用城(福原城)攻め(12月1日落城)では先陣を務めている。

織田家臣時代 [編集]

ところが天正6年(1578年)3月、東播磨の大勢力である三木城主・別所長治が、殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し[5]三木合戦)、これに毛利氏が呼応する。4月、海から宇喜多直家軍7,000と雑賀衆の兵が、別府(べふ)の阿閉城に攻め込んできた際には孝高が救援し1,000の兵で防ぎ退ける。しかし、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い、山中幸盛らを残して上月城を放棄し、書写山まで撤退した。

双方の調略も激しさを増し、9月に孝高や小西行長らは直家を調略することに成功する[2]。しかし、今度は織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城籠城した(有岡城の戦い)。さらにこの時、主君の小寺政職も呼応しようとしたために、孝高は村重を翻意させるため交渉に有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に幽閉される。1年後、有岡城は落城し、孝高は家臣の栗山利安によって救出された。

天正8年(1580年)1月、秀吉は2年間の難攻の末にようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とし、姫路城を孝高に還そうとするが、孝高は「姫路城は播州統治の適地である」と進言し、姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城[6]に移った。

村重の謀反の際、主君の小寺政職も同調して信長から離反したため、信長の嫡男・織田信忠によって討伐された。名字に黒田を用いたのはこれ以降と考えられている[7](3年後の賤ヶ岳の戦いを当時に記録した『天正記-柴田退治記』などに、小寺孝隆での記載があることから、それ以降とも考えられる)。10月、孝高は信長から播磨国宍粟郡山崎篠の丸城と1万石を与えられ、織田家臣として秀吉の与力となる[8]

天正9年(1581年)、秀吉は因幡国鳥取城兵糧攻めで落城させた。策略により若狭国などの商人が周辺の米を買い占めた上で完全に包囲して兵糧の補給を絶ったため、鳥取城内は飢餓で凄惨極まりない状況に追い込まれ(鳥取の渇え殺し(かつえごろし))、3ヶ月で降伏を余儀なくされたが、城中の備蓄米が少ないことを見抜き、この作戦を秀吉に献策したのは孝高だったと言われる。

また天正10年(1582年)、毛利氏の部将・清水宗治が守る備中高松城攻略に際し、秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止められなかった。これに対し、孝高は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し成功させたと言われる[2][9]

豊臣家臣時代 [編集]

高松城攻めの最中、京都で明智光秀による本能寺の変が起こり、信長が横死した。変を知った孝高は秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように献策し、中国大返しを成功させたと言われる[2]山崎の戦いでは天王山を抑え、その裾野から射撃を仕掛ける中川清秀を追い落とそうとする明智軍と激しい戦闘を繰り広げた。

天正11年(1583年)、大坂城縄張りに当たる。秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が壊滅し、続いてその攻撃を受けることとなったが、奮戦し守り抜いた[2][10]

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの当初においては、賤ヶ岳の戦い以前より毛利氏に対し、宇喜多氏との国境線の交渉に当っていたが確定し、実質的に秀吉配下に加える。留守居役を務めていた黒田長政らは岸和田の戦い根来盛重鈴木重意長宗我部元親[11]らの兵を破った[12]

天正13年(1585年)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家の軍勢の軍監として加わり、諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退、降伏した。

天正14年(1586年)、従五位下・勘解由次官に叙任された。10月、大友宗麟の要請による九州征伐では、毛利氏などを含む軍勢の軍監として九州に上陸。宇留津城香春岳城などを陥落させる。翌年3月に豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めて南下し、島津義久の軍勢と戦い、戦勝に貢献している(根白坂の戦い)。

豊前国主 [編集]

九州平定後の6月、本拠地の馬ヶ岳城をはじめとする豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、およそ12万石(太閤検地後17万石)[13])を与えられた(その直後に中津城の築城を開始)。しかし、7月に佐々成政肥後国の仕置きに失敗し、隈部親永らによる肥後国人一揆が起きたため、孝高も鎮圧のための援軍として差し向けられるが、その隙をついて豊前でも城井鎮房野中鎮兼国人勢力が肥後国人に呼応する。長政らが鎮圧に一旦は失敗するが、その後、孝高はこれを鎮圧し和議・婚姻を結ぶ。しかし秀吉は国人衆を許さず、翌年4月には城井氏らを謀殺することとなった。

天正11年から13年頃に、孝高は高山右近蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教の洗礼を受けていた[14]。しかし、天正15年(1587年)7月に秀吉がバテレン追放令を出し、右近らがこれに反抗して改易される中、孝高は率先して令に従った。秀吉の側近である孝高の行ないは、篤く遇していた宣教師やキリスト教を信仰する諸大名に大きな衝撃を与えたことが、ルイス・フロイスの書簡から窺える。

天正17年(1589年)、家督を嫡男・長政に譲って隠居の身となり、「如水軒」と号した(※これ以降は如水と記述する)。

家督を譲った後も、如水は秀吉の側近として仕えた。天正18年(1590年)の小田原征伐では小田原城に入って北条氏政氏直父子を説得し、無血開城させる功績を立てた。この時、北条氏直から名刀「日光一文字」などの家宝を与えられている。

文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵の文禄の役では、総大将・宇喜多秀家の軍監として参加したが、小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れず病を理由に帰国。文禄2年(1593年)には日本軍が明軍の参戦と補給の行き詰まりにより和平を模索する間、再び朝鮮に渡り和式城郭の縄張りや、 第二次晋州城攻防戦において後藤基次らが用いた亀甲車の設計などに携わっているが、石田三成などとの間に確執が生じて東莱城より再帰国。秀吉の怒りを買ったために、「如水円清」と号して出家している。

慶長2年(1597年)、慶長の役では総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。第一次蔚山城の戦いにおいて、加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際、救援に駆けつけ1,500の兵で退ける。両城にて日本軍は大勝を収め、また今回の戦いを踏まえて戦線縮小を図った。しかし、これらを福原長堯などの軍目付たち(三成などにも親しい[15])が酷評して秀吉に報告し、秀秋、長政、蜂須賀家政など、多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった(一方、軍目付たちは豊後国内に加増となった。)。

関ヶ原の戦い [編集]

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去した。如水は同年12月に上洛し伏見屋敷に居住したという。この頃、如水が吉川広家宛てに「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と書いた書状が残されている。これは、如水が遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱が起きるであろうことを予想していたことを窺わせる。

慶長5年(1600年)、徳川家康らが会津上杉景勝討伐のため東へ向かうと、7月17日8月25日)石田三成らが家康の非を鳴らして挙兵し(西軍)、関ヶ原の戦いが起こった。黒田氏は当主・長政が家康の養女を正室として迎えていたことから秀吉の死去前後から家康に与し、長政は豊臣恩顧の大名を多く家康方に引き込み後藤基次ら黒田軍の主力を率いて家康に同行、関ヶ原本戦で武功を挙げた。

中津に帰国していた如水も、家康方(東軍)として行動した[16]。 石田三成の挙兵の知らせを用意させていた早舟から受け取った如水は、中津城の金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、九州、中国、四国からも聞き及んで集まった9,000人ほどの速成軍を作り上げた。9月9日10月15日)、再興を目指して西軍に与した大友義統が毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地(本拠地は丹後国宮津)である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之有吉立行は如水に援軍を要請、同日、如水はこれに応じ、1万人と公称した兵力を率いて出陣した[17]。 道中の諸城を攻略した後、9月13日10月19日)、石垣原(現在の別府市)で大友義統軍と衝突した(石垣原の戦い)。母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れる等苦戦するも井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。

9月19日10月25日)、富来城の攻略中に哨戒船が、東上中の城主である垣見一直からの密書を運んでいた飛脚船を捕え、西軍敗報に接する。その後、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、西軍に属した太田一吉臼杵城佐賀関の戦い)、毛利勝信小倉城などの諸城[18]を落としていった[19]国東半島沖の豊後水道付近では水軍が、関ヶ原より引き上げてきた島津義弘の軍船と戦い(義弘が同行していた立花宗茂と別れた後のことである)、焼き沈めている。10月14日、如水は兵5000を柳川へ派兵し、自身は西軍に参加した小早川秀包の居城である久留米城攻めへ向かう。鍋島直茂鍋島勝茂が32,000の兵を率いて久留米城攻めに参戦する。10月16日、柳川の支城である梅津城を落とす。その後、宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦する。交渉の上、立花宗茂は降伏し如水軍に加わる。そして11月に入り如水は立花宗茂鍋島直茂加藤清正を加えた4万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが11月12日に肥後の水俣まで進軍したとき、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き解散した。

晩年 [編集]

関ヶ原の合戦の後、長政が先に勲功として家康から筑前国名島(福岡)37万石(再検地後の申請は52万3,000石)への加増移封となった。翌年、如水にも、これとは別に上方での加増が提示されるが辞退し、その後は中央の政治に関与することなく隠居生活を送った。晩年は再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えている。

慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。59歳。

[編集]

隠居後の号である如水とは、文字通り水の如くの清らかさや柔軟さ、或いは「孫子」の一文を引用したとされ、人生訓として用いたといわれる。水徹を号に用いた竹中重治にちなむとする見方もある。

また、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書ジョズエ(Josué)も引用しているとされる。宣教師から城攻めの才能がある人物として伝わっていた。なお、当時の他の武将の名付け例に小西行長などに仕えた内藤如安などがいる。

また孝高は「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名でもあったが、人を害したり、また神社仏閣を聖絶する事を好まなかったといわれる。

孝高が用いた印章には、「SIMEON IOSUI」と読めるものと、「QVAN」(または「QVÃN」)と読めるものとがあり、いずれも当時用いられていたポルトガル語式ローマ字表記による「じょすい」、「くゎん(官)」と考えられる。なお当時、大文字のJとUを欠き、Iがiとjの、Vがuとvの大文字として兼ね用いられていた。

人物 [編集]

  • 築城の名手として知られ、居住した中津城や福岡城の他、前野長康浅野長政らと共に、姫路城大坂城讃岐高松城名護屋城(肥前国)、広島城など、秀吉政権下での主要な築城に関わり、縄張りや助言を行った[20]
  • 倹約家で知られ、不要になった物は家臣に売り下げるなど、蓄財に励んだ。関ヶ原の戦い時にあれだけの速成軍を集めることができたのは、そのためである(一説によれば黒田長政の動員した軍が6000とされ、それを上回る数であった)。一方で兵を集めた時は金を惜しまず、支度金を二度受け取ろうとする者に対しても何も言わずに笑いながら与えた。
  • 徳川秀忠は孝高を「今世の張良なるべし」と評した[21]
  • 歴史小説等では不遇の天才武将として描かれることが多い。関ヶ原の合戦では家康が勝利するが長期戦になるだろうと予見し、家康が三成を破って兵が疲労しているところを一気に攻めて家康を倒し、自分が天下をとろうとするも息子の長政の活躍[22]によって阻まれた、とする作品が多い。しかし、実際には主君を裏切ったことは一度もない[23]
  • 遺訓として「人に媚びず、富貴を望まず」がある。
  • 当時は当たり前にあった主君のために家臣が追腹を切る事を禁止した。
  • 辞世の句「おもひおく、言の葉なくて、つひにゆく、みちはまよわじ、なるにまかせて」

人間関係 [編集]

竹中重治との関係 [編集]

荒木村重謀反の時、信長は翻意するよう説得に向かった孝高が帰ってこないのは、主家の政職と共に村重方に寝返ったからだと判断[24]し、小寺家の人質として預けられていた松寿丸(黒田長政)を殺害するように命じた。しかし竹中重治(半兵衛)は密かに松寿丸を匿った。重治は孝高が救出される前に、平井山の付城で陣没したが、黒田父子を案じる手紙を残している。重治への感謝の気持を忘れないために、黒田家は家紋に竹中家の家紋を用いた(この家紋とは黒餅の事を指す。黒餅とは石高の加増を願う家紋である)。重治の子の竹中重門の元服の際には孝高が烏帽子親を務めた。

秀吉との関係 [編集]

秀吉は孝高の才知を高く評価すると同時に、己の座をも脅かしかねないものとして恐れたという。

「おまえは弟の小一郎(豊臣秀長)と同じように心安く思っている」と書いた、天正5年7月付、孝高宛の自筆書状が残されている[4]

本能寺の変で織田信長が死去した際、孝高は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と言った。これにより秀吉は落ち着きを取り戻したが、以後孝高の智謀を恐れるようになったという[25]

秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねると、家臣達は徳川家康や前田利家の名前を挙げたが、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言った。側近は「官兵衛殿は10万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したところ、秀吉は「お前達は奴の本当の力量を分かっていない。奴に100万石を与えたら途端に天下を奪ってしまう」と言った。これを伝え聞いた官兵衛は、「我家の禍なり」と直ちに剃髪し如水と号したという。同書には続けて「秀吉、常に世に怖しきものは徳川と黒田なり。然れども、徳川は温和なる人なり。黒田の瘡天窓は何にとも心を許し難きものなりと言はれしとぞ」と記されている[25]

秀吉が多くの功績を立てた孝高に対して、大坂から遠く離れた豊前の中津でわずか12万5,000石(検地後に17万石)しか与えなかった(加藤清正福島正則ら他の子飼い大名と比べると小封と言える)のも、それを示していると言われる。孝高と並んで「両兵衛」と称された竹中半兵衛に関しても、同様にわずかな知行しか与えられていない。

文禄5年(1596年)の慶長伏見地震の際、倒壊した伏見城に駆けつけたが、秀吉は同じ蟄居中の加藤清正の場合には賞賛して警護を許したのに対し、如水に対しては「俺が死ななくて残念であったであろう」と厳しい言葉をかけたと言われている。

その他 [編集]

京都の聚楽第邸内の猪熊の屋敷は千利休と隣り合い、茶道を学んでいる。

関白豊臣秀次には、将棋の相手をさせられていたという。秀次事件では、秀吉の播磨国入り以来、陣営を共にしてきた従弟の明石則実が、前野長康らと連座となった。

小早川隆景とは仲が良かったらしく、隆景は如水に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と指摘した。豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋は、豊臣秀頼誕生後の当初は毛利本家の養子にと計画されていたが、隆景の申し出と如水の執り成しにより、小早川家の養子となった。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという。隆景の末弟で養子の小早川秀包を、黒田長政大友義統らと同時期にキリスト教の洗礼へと導いており、関ヶ原の戦いで西軍についた秀包の久留米城に1,000の兵を率いて駆けつけて降伏開城させ、妻子を保護した。

徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生すると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。

逸話 [編集]

  • 孝高は頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。
  • 長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったと言うが、最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。
  • 旧主の小寺政職の嫡男の小寺氏職を庇護したため、小寺氏は存続する事となった。
  • 関ヶ原の合戦の後、「家康は『我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ』と3度手を取り感謝した」という長政の報告に対し、「何故空いた手で刺さなかった」と叱責した。野心家ぶりを表す話だが後世の創作ともされ、最も古い出典は『黒田如水傳』である。
  • 関ヶ原で西軍側についた宇喜多氏の武将で、同じキリシタンであり母方の親戚でもある明石全登を、弟・直之の元で庇護したとされる。
  • 晩年は家臣に対して冷たく振舞ったが、これは当主の長政に家臣団の忠誠を向けさせるためであった。また、死に臨んでは優秀な家臣を長政に遺すために、殉死を禁じたという[25]
  • 身の回りの物を家臣に払い下げていた。この事についてある家臣が「何故、我等家来に売り渡しますか。どうせなら下賜されれば宜しいでしょう」と言った所、「くれてやりたいが、くれてやれる物は限りがあり、貰えなかった者は不平感が募るであろう。だから払い下げるのだ。こうすれば銭の無い者や銭を失いたくない者は買わぬであろう。こうして多少なりとも不公平にならずにしようと思うのだ」と言ったという。
  • 家臣に対しては、諄々に教え諭す様にして極力叱る事の無い様にしていたが、どうしてもという時は猛烈に叱りつけた。但し、叱った後に簡単な仕事を言いつけたりして後腐れの無い様に心がける事も忘れなかったという。
  • 隠居してからは、隠居屋敷に身分の低い者の子供達を入れて存分に遊ばせた。時には子供達が泥足で廊下を走ったり相撲を取ったりで襖や障子を破いたりしたが、決して怒ったり叱ったりしなかったという。小説家の海音寺潮五郎はこの事を指して、信長・秀吉・家康の三英傑より人物的には勝っていると評した。

遺品 [編集]

如水が使用したと伝わる遺品が各地に残っている。

  • 愛用した「銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)」は、如水が死の間際に家臣である栗山利安にこれを贈っている[26]。この兜は後に起こった黒田騒動にて利安の子である栗山利章盛岡へ流された後、盛岡藩主へ献上された[26][27]。現在この兜は同地にある盛岡市中央公民館に保存されている[26]。なお、この兜は別名「如水の赤合子」とも呼ばれ、永禄10年(1566年)、志方城の城主櫛橋伊定から贈られた兜が加工されている[28]
  • 如水所有ののうち数点も現在、福岡市博物館に保管されている。
    • 刀 金象嵌銘「長谷部国重 本阿(花押)黒田筑前守」(名物圧切(へしきり)長谷部)(国宝)[29][26]
      天正3年(1575年)7月、美濃国岐阜城にて織田信長と謁見した際に信長より贈られた。大磨上無銘で、本阿弥光徳が山城国刀工長谷部国重の作と極め、茎(なかご)に金象嵌銘を施す。金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が付属する。
    • 刀 備前長船祐定(安宅切)[30][31][26]
      天正9年(1581年)11月、四国攻めの際に淡路国にて安宅河内守(安宅清康かあるいは安宅貴康)を攻めた折に安宅河内守を討ち取った時に使用したとされている。外装の金霰鮫青漆打刀拵(きんあられさめ あおうるし うちがたなこしらえ)が重要文化財に指定されており、金具類の作風から埋忠明寿の監修による製作と考えられている。中身は末備前の長船祐定の数打ち物で、茎に「あたき切」と金象嵌がある。
    • 太刀 無銘一文字(名物日光一文字)(国宝)[32][33]
      天正18年(1590年)の小田原征伐の際に、降伏を勧めるために小田原城へ派遣された折に北条家当主の北条氏直より贈られた。葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)が付属する。
  • また、小田原征伐の降伏交渉の際に北条氏直から歴史書の『吾妻鏡』と法螺貝の北条白貝も如水に贈られ[33]、『吾妻鏡』は国立公文書館[34]、北条白貝は福岡市美術館に保存されている[35][36]

遺跡・伝承 [編集]

  • 安楽寺天満宮太宰府天満宮中興の祖といわれ、境内には茶の湯で使用した「如水の井戸」が残っている。
  • 墓所は、福岡市博多区崇福寺と、京都市北区大徳寺塔頭龍光院にある。
  • 中津市の合元寺には、旧領回復を目指して一揆を起こした城井鎮房が、中津城内に謀略結婚により呼び寄せられた際、40人の城井家臣が滞在していた。寺の門前の白壁は黒田兵が彼らを討った際に血痕が付着し、それが幾度塗り替えられても浮き出るので、ついに赤色に塗られるようになり、地元では通称「赤壁寺」と呼ばれる由来になったという伝承がある。庫裏(くり)の大黒柱には現在も刃痕が残っている。戦死した城井家臣は合葬され、境内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提が弔われた。ただし合元寺は中国式の廟を模して作られ、当初より壁は赤かったという説もあり、城井家臣誅殺の悲劇性が赤壁と結びついて伝説を生んだともいわれる。

その他 [編集]

  • 筑前国福岡の地名は元は福崎であり、如水が祖父・黒田高政の代から関わりが深く、洪水で壊滅した備前国福岡 (瀬戸内市)の地名にちなみ変更された。
  • 後世、賤ヶ岳の七本槍武田二十四将などに倣い、如水の家臣から24人の精鋭が選出され、黒田二十四騎と呼ばれた。そして、この24人の中でも更に優れた後藤基次や母里友信など8人が、黒田八虎とされた。
  • 播磨国多可郡黒田庄(現・西脇市)近辺に存在していた黒田氏が、19世紀の黒田藩士の山口武乕の調査により発見された系図、『黒田家略系図(荘厳寺本)』によると、足利尊氏の有力守護大名である赤松円心の、その弟・円光の子を1351年より氏祖として代々黒田城主を務め、赤井忠家(赤井直正の祖父)に落城させられる最後の当主のその弟を孝高とする、とされる[37]。黒田庄がゆかりの地である可能性は、『播磨鑑』の記述や初期の家臣団の出身地などから否定出来ないものの、赤松氏の『赤松諸家大系図』を始めとする他の眷属や姻族の系図などに拠る裏付けも無く、調査時期などの後世に創作された系図である可能性も否定出来ていない[38]
  • 中国大返しにおける、成功プロセスの精度の高さなどを理由として、本能寺の変を、豊臣秀吉の参謀であった孝高が演出した可能性もあるという説を、元NHKアナウンサー松平定知などが提唱している[39]

参考文献 [編集]

関連作品 [編集]

小説
漫画
音楽
テレビドラマ
黒田孝高が主人公のテレビドラマ
黒田孝高が登場するテレビドラマ
ゲーム
歌謡曲
  • 名槍日本号 黒田の武士 (三波春夫
  • 二流の人 海援隊(作詞:武田鉄矢 作曲:中牟田俊男)

脚注・出典 [編集]

  1. ^ 現在の滋賀県長浜市木之本町黒田で、近江源氏佐々木氏京極氏)の傍系であると、偽書とされることが多い『江源武鑑』、及びこれを参考とした貞享4年(1687年)に福岡藩貝原益軒が編纂した『黒田家譜』などにも同様に記載されるが不明瞭で、『寛政重修諸家譜』などには省かれる。(参考:福岡市博物館 - 黒田家のご先祖探し
  2. ^ a b c d e f g 貝原益軒『黒田家譜』
  3. ^ 信長公記
  4. ^ a b 『黒田家文書』
  5. ^ 孝高の妻光姫の実家である櫛橋氏なども離反し、東播磨で織田方に残ったのは孝高の従兄弟にあたる明石則実、当初より織田派であった別所重宗赤松広秀など僅か。
  6. ^ 父の職隆が家督を譲り隠居していた城。別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。
  7. ^ 秀吉より姫路城普請を命じられる文書に黒官兵と記される。
  8. ^ 別所氏に呼応した播磨国宍粟郡広瀬の長水城宇野祐清は天正8年(1580年)5月に滅ぼされた。
  9. ^ 『吉田大略記』によると孝高の家臣吉田長利の提案である。
  10. ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)
  11. ^ 香宗我部親泰の与力の菅達長
  12. ^ 黒田孝高黒田長政蜂須賀正勝前野長康生駒親正明石則実ら在番衆は、中入りの時期には、本営の備えとして召喚されている。『浅野家文書』
  13. ^ 自己申告である差出検地を認められている。
  14. ^ フロイス日本史』によると、室津の小西行長に影響され、明石城高山右近蒲生氏郷らに勧められ、天正13年に入信し、三木城の前野長康(間も無く出石城へ移り、中川秀政が入城)と共に、播磨における布教の入り口となっていたとされる。
  15. ^ 福原長堯熊谷直盛垣見一直らは石田三成の妹婿などで親密。
  16. ^ 家康方に対し、前以って味方として中津留守居を務める密約を結んでいる。
  17. ^ それまで三成の誘いに対し、西軍に組する条件として九州7ヶ国の恩賞を求め準備期間を稼いでいた。
  18. ^ 熊谷直盛安岐城毛利高政角牟礼城日隈城、毛利勝信の小倉城、毛利信友香春岳城など。
  19. ^ 太田一吉は、「攻め手に如水がいれば降伏せよ」と指示を与えており、それまでの徹底抗戦を止め、開城した。
  20. ^ 加藤清正は、自身の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちないなどと賞賛している。
  21. ^ 三河後風土記
  22. ^ 長政は西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目を務めており、それらの功により戦後、家康から一番の功労者として筑前名島(福岡)に37万石(再検地後52万3千石)を与えられた。
  23. ^ 小寺政職は「裏切った」のではなく「裏切られた」のであり、関ヶ原の合戦の際の徳川家康に関しても2人は(事実上)同じ豊臣家の家臣であって主従ではなく建前上は同じ東軍であったから、敵対すらしていない。
  24. ^ 毛利側にも、御着、志方、山﨑、野間などと共に、姫路も寝返ったと伝わっている。『毛利家文書』
  25. ^ a b c 岡谷繁実 『名将言行録』 前編下冊 巻之二十九
  26. ^ a b c d e P5 稀代の軍師 黒田如水と一族
  27. ^ 黒田長政と二十四騎-福岡市博物館のウェブサイトより-2008年9月21日確認
  28. ^ P142 稀代の軍師 黒田如水と一族
  29. ^ 国宝刀 名物「へし切長谷部」-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  30. ^ 第一次四国征伐ー2008年9月21日確認
  31. ^ 刀と能面-福岡市博物館ウェブサイトより-2008年9月21日確認
  32. ^ 国宝太刀 名物「日光一文字」-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  33. ^ a b P4 稀代の軍師 黒田如水と一族
  34. ^ P65 稀代の軍師 黒田如水と一族
  35. ^ 黒田家 その歴史と名宝展-福岡市博物館のウェブサイト-2008年9月21日確認
  36. ^ P25 稀代の軍師 黒田如水と一族
  37. ^ ※外部リンク「播磨黒田氏 黒田官兵衛」参照。
  38. ^ 歴史読本2013年5月号『徹底検証! 黒田官兵衛』
  39. ^ SAPIO2011年1月6日号

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]