長篠の戦い

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長篠の戦い
Battle of Nagashino.jpg
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
戦争戦国時代 (日本)
年月日天正3年5月21日(当時のユリウス暦1575年6月29日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)
場所三河国長篠城・設楽原(設楽ヶ原)
結果:織田・徳川連合軍の圧勝
交戦勢力
織田・徳川連合軍Oda emblem.svgJapanese crest Tokugawa Aoi (old design).svg 武田軍Japanese Crest Takeda Hisi.svg
指揮官
織田信長Oda emblem.svg
徳川家康Japanese crest Tokugawa Aoi (old design).svg
武田勝頼Japanese Crest Takeda Hisi.svg
戦力
38,000(諸説あり)[1] 15,000(諸説あり)[2]
損害
6,000(諸説あり) 10,000~12,000(諸説あり)[3]
織田信長の戦い

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(ユリウス暦1575年6月29日[4])、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い。敗北した武田軍は甚大な被害を受けた。

決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。

通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は成すすべも無く殲滅させられたとされるが、そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、経過・勝因については様々な論点において異論が存在する。


開戦に至る経緯[編集]

甲斐国信濃国を領する武田氏永禄年間に駿河今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を迎合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦[5])したため、織田氏と武田氏は手切となった。

しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵。一方の信長は、朝倉氏浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。

武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年8月には、徳川方から武田方に転属していた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族郎党を連れて徳川方へ再属。すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。

武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始[6]奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍を率いて三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至る(長篠の戦い)。

『信長公記』等による合戦の経緯[編集]

長篠城攻城戦[編集]

武田の大軍に対して500の寡兵に過ぎなかった長篠城では200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、激しい反撃で武田軍に善戦した。しかし兵糧蔵の焼失により、数日以内に落城必至という状況に追い詰められた。そこで貞昌の家臣・鳥居強右衛門を密かに派遣し、約65km離れた岡崎城の家康へ援軍を要請させた。一方、予め家康からの援軍要請を受けていた信長は、5月13日には3万の軍勢を率いて岐阜を出発しており、15日には岡崎城に到着して、家康と共に長篠城へ援軍を送るための準備を進めていた。

信長と家康からすぐに援軍を送るとの確約を得た鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えるべく、急いで元来た道を引き返したが、城の目前で武田軍に見付かって捕らえられてしまった。鳥居は武田方から「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と偽りの情報を城に伝えれば助命するとの取引を持ちかけられ、表向きはこれを承諾した。しかし、城の近くまで連れて来られた鳥居は、城に向かって「あと二、三日で援軍が来る。それまで頑張れ」と大声で叫んだため、怒った武田方は鳥居をにして殺した。一方、鳥居の決死の行動によって「援軍来る」の情報を得ることができた長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに奮い立ち、援軍が到着するまで見事に城を守り通すことができた、という逸話が残っている(鳥居強右衛門の項目を参照)。

信長軍団の到着[編集]

現地に再現された馬防柵

信長軍3万と家康軍8000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、3万の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ[7]、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁[要出典]に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城[8]だった[9]。つまり信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。

一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たち、特に武田四名臣といわれる山県昌景馬場信春内藤昌豊らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われるが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3000ほどを置き、残り1万2000を設楽原に向けた。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う。「信長公記」にある武田軍の動きは、「長篠城へ武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(1.2キロメートルは11町2018・18m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向きに布陣した」というものである[10]

武田のこの動きを見た信長は、「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と思い、味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた[11]

相手の油断を誘ったという面もあるが、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田の騎馬隊を誘い込む狙いであった。

鳶ヶ巣山攻防戦[編集]

5月20日夜、信長は家康の重鎮・酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2000ほどを選び出して酒井に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加え、約4000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた[12]。別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦で、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ヶ伏所砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。

この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方は、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝守友五味貞成和田業繁名和宗安飯尾助友など名のある武将が討死。武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って退却するものの、酒井奇襲隊の猛追を受けたために、長篠城の西岸・有海村においても高坂昌澄が討ち取られている。このように酒井隊の一方的な展開となったが、先行深入りしすぎた徳川方の深溝松平伊忠だけは、退却する小山田昌行に反撃されて討死している。

なお、そもそもこの作戦は20日夜の合同軍議中での酒井忠次による発案であったが、信長に一蹴された。ところが、軍議を終えてすぐに信長は酒井を密かに呼びつけ、作戦の決行を命じた。武田軍の諜報を案じて、軍議ではあえて採用しなかったのが理由であるという逸話が『常山紀談』に載せられている[13]

設楽原決戦[編集]

設楽原の空中写真(1983年撮影)
画像最右の集落の字名は「信玄」、その左の水田を流れる小規模河川が連吾川、更に左手尾根を超えた画像中央の水田を流れるのが大宮川である。このように設楽原とは言っても丘陵の連なる起伏に富んだ地形である。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、織田・徳川軍から追撃された武田軍は1万2000名の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。

織田・徳川軍には主だった戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤原盛胤真田信綱真田昌輝土屋昌続土屋直規安中景繁望月信永米倉重継という顔ぶれで、被害は甚大であった[14]

勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃の高遠城に後退。上杉謙信と和睦し、上杉の抑え部隊1万を率いる海津城代春日虎綱(高坂昌信)と合流し帰国したという[15]

長篠合戦の政治的影響[編集]

長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河を完全に掌握し、遠江の重要拠点である諏訪原城二俣城高天神城を攻略していく。

武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し[16]、領国の動揺を招いた。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。

天正6年(1578年)には越後において上杉謙信の死後、共にその養子であった上杉景勝上杉景虎[17]との間で家督を巡る御館の乱が起こり、勝頼は北条氏の要請で出兵するが、武田方と接触していた景勝と同盟を結び(甲越同盟)、両者の調停を図る。勝頼の撤兵後に景勝が乱を制したことで、北条氏との関係は手切となった。

勝頼は関東諸族との同盟により北条氏を牽制し、武田家に人質としていた織田信房を織田家に返還して信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻が行われ、武田氏は滅亡した。

長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室としている。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで栄えることとなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。

参戦武将[編集]

織田・徳川連合軍[編集]

設楽原決戦の本隊
織田軍
織田信長織田信忠河尻秀隆柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉佐久間信盛滝川一益佐々成政前田利家水野信元野々村正成
徳川軍
徳川家康松平信康石川数正本多忠勝榊原康政鳥居元忠大久保忠世大久保忠佐大久保忠教高木清秀成瀬正一日下部定好
鳶ヶ巣山攻撃隊
織田軍
金森長近
徳川軍
酒井忠次松平康忠松平伊忠松平家忠松平清宗本多広孝奥平貞能菅沼定盈西郷家員近藤秀用設楽貞通(樋田にて待機)
長篠城籠城軍
奥平信昌松平景忠

武田軍[編集]

設楽原決戦の本隊
武田勝頼武田信廉小山田信茂武田信豊穴山信君望月信永馬場信春山県昌景内藤昌豊原昌胤真田信綱真田昌輝跡部勝資土屋昌次土屋直規横田康景小幡信貞甘利信康
長篠城監視部隊
鳶ヶ巣山、その他の砦守備隊(長篠城の南対岸)
河窪信実三枝守友名和宗安飯尾助人五味高重
有海村駐留部隊(長篠城の西対岸)
小山田昌行高坂昌澄山本勘蔵

長篠の戦いをめぐる論点と詳細[編集]

両軍の開戦理由[編集]

甲陽軍鑑[18]では跡部勝資長坂光堅ら武田勝頼の側近が主戦論を主張し、宿老家臣の「撤退すべき」という意見を無視し決戦に臨んだという。『甲陽軍鑑』は勝頼期に跡部勝資ら新興の出頭人と古参宿老との対立が武田家の滅亡を招いたとする構図を記しており、文書上において跡部勝資は信玄後期・勝頼期の側近として重用されていることは確認され、武田家中における新興側近層と古参宿老層の関係が長篠合戦について記される逸話の背景になっている可能性が考えられている[19]

武家事紀』には、かねてから佐久間信盛が偽って勝頼に内通し、裏切りを約束していたために、勝頼が進軍して大敗したとある[20]。『常山紀談』では、信長の謀略で、信盛が長坂光堅に内通して裏切りを約束し、光堅から一戦を勧められた勝頼が、馬場信春らの意見を用いず進軍を決断したという話が載せられている[21]

今回と状況が似ている前年の第一次高天神城の戦いでの圧勝で自信過剰となって勝てると判断したという説や、鳶ヶ巣山に酒井忠次の別働隊3000が迂回した事を武田軍は察知しており、第四次川中島の戦いの逆説的な再来を狙ったという説などもある。

当時の情勢を見た場合、信玄後期時代の時点で織田家は尾張・美濃・南近江・北伊勢・山城他近畿圏にまで勢力を伸ばし、単独で対抗しえる勢力は皆無であった。そこで信玄は近畿圏において浅井長政・朝倉義景及び石山本願寺(一向衆)等の各勢力により織田家の兵力を拘束し、東方へ向ける兵力を限定させた上で三河・尾張若しくは美濃で織田と決戦するという戦略を立てていた(第二次信長包囲網)。後を継いだ勝頼もその基本戦略を踏襲していたが、有力な勢力だった浅井・朝倉や長島一向衆が勝頼の代には既に滅ぼされており、武田家と本願寺を残すばかりとなっていた。また、織田家の勢力の伸張は急速であり、日に日に国力差が開いていく現状を鑑みれば、どのみち早い段階で織田家と主力決戦を行い決定打を与える必要があった。

逆に信長の立場から見た場合、武田と直接戦わずとも時間が経つほど戦略的に優位に立つことになり、この時点で戦う必要は必ずしも無かった。信長自身が出陣したことで徳川に対する義理(後詰)も果たしている。そもそも長篠の戦いの主目的は、長篠から武田を撤退させることである。そのため、合戦をしても負けさえしなければ良く、武田方が攻めてくる前提で陣城を築き、鉄砲を大量に配置したことは目的にかなっていた。

徳川家としては、今後の遠江攻略を視野に入れると、今回是非とも合戦を発生させて、強力な織田の援軍のいる時に武田を叩いておきたいという考えがあった(特に鳶ヶ巣山砦攻撃の発案は徳川方である)。事実、この戦いによって徳川家の目論見は成功し、長年、武田家と小競り合いを続けてきた三河を完全に掌握し、以後、歴史的惨敗で急速に弱体化した武田家を相手に攻勢に打って出ることに成功している。

一方高澤等は、織田・徳川方はすでに2月の段階で佐久間信盛を派遣して合戦地周辺の情報を収集させ情報を共有していたことから、長篠の戦いは姉川の戦いのように、あらかじめ武田方に対して合戦日時と合戦地を申し合わせしていた可能性があるという考えを示しており、当合戦は最初から信長によって計画されて発生したものとしている[22]

両軍の兵力数と損害数[編集]

通説では織田・徳川連合軍3万8000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊3000)、武田軍1万5000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3000)となっているが諸説ある。

高柳光寿の『長篠之戦』では、織田1万2000-1万3000、徳川4000-5000とし、武田8000-1万でその内、設楽原へ布陣した兵数が6000-7000という数字を唱えている。連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5-3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。また武田軍の損害を1万-1万2000、連合軍6000とするよりも、武田軍の損害1000、連合軍の損害600という数字の方がより現実的である(後述)。

武田氏の動員兵力は信玄後期の家臣団編成を記した「武田法性院信玄公御代惣人数之事」『甲陽軍鑑』の騎数9121から想定した最小で3万6000最大で5万2000の動員が可能であったと考えられている[23]。実際の軍事行動に際しては対外勢力への備えとして一部の兵力は領国内に残留させていたと考えられており、元亀3年(1572年)の西上作戦では3万の兵力を動員したと言われるように、通説通りと見てもこの戦いにおいては最大動員兵力ではない。この理由として、対上杉に戦力を割かれたため(この時は対上杉に1万の抑え部隊が配置されていたと言われる)、国人の経済状況の悪化による軍役拒否、長篠城攻城及び徳川単独との決戦のため(1万5000と見ても可能性がある)等の理由がよく言われる。特に最後に関しては、織田との合戦を考慮していなかったという意味になるが、信長が出陣した時点で既に退却か長篠城強襲かを決定する必要があるため(信長の岐阜出陣は5月13日、三河牛久保から設楽原へ向かったのが5月17日)その可能性は低いことになる。

戦死者の通説(特に武田軍の1万2000)にも不明な点が多い。

火縄銃の殺傷射程距離は60m有効射程距離は90m程度といわれており、約8時間といわれる戦闘とその後の追撃戦の間に、両軍合わせて2万人近い死者が出たとするのは信じがたい話である。特に武田軍を見た場合、兵力数が通説の1万5000であったとしてもその損害は異常な率になり(一般に部隊の半数が負傷でも壊滅的打撃である)、また通常は同程度の負傷者がいるはずであり、結果として敗残兵の再編成でしばらくは兵を動かすことは難しくなる。しかし、勝頼はこの数ヵ月後には兵を動かしていることから、やはり1万2000という死者数は信憑性が低い。同時代に成立した『多聞院日記』には、伝聞記事ではあるものの、この戦いについて「甲斐国衆千余人討死」と書かれている。そのため、武田軍の犠牲者は1000人程度だったのではないかという説がある(ただし「国衆」を国人級の武士だと解すると、全戦死者はより増える可能性はある)。また、『兼見卿記』には「数千騎討死」とある。

織田軍の鉄砲数と三段撃ち[編集]

長篠の戦いの特筆すべき点として織田家は当時としては異例の鉄砲3000丁を用意し、新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。

通説である鉄砲3000丁というのは甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされ、資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。これは甫庵本の3000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれており、筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。

太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺」(1000丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1500丁)、3000丁とは書かれていない。しかし、この「千挺計」は、佐々成政前田利家野々村正成福富秀勝塙直政の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる。

当時の織田家が鉄砲をどのくらい集めることができたかを考えた場合、これより6年後の天正9年(1581年)に定められた明智光秀家中の軍法によれば、一千石取りで軍役32人、そのうち鉄砲5挺を用意すべき旨定めている。長篠合戦に参戦した織田軍の兵力を通説に従って3万、また先述のように参戦しない武将にも鉄砲隊を供出させた史実を考えれば、数千挺ほどは十分用意出来た可能性がある。

以上の内容を考慮して織田家が使用した鉄砲数が通説よりも少ない1000丁だったとみても、当時のことを考えれば十分に特筆すべき数ではある。また、武田軍全軍が通説通り1万数千人と仮定した場合、勝頼本隊を別にして、戦死した馬場隊・内藤隊・山県隊・真田兄弟隊・土屋隊や、撤退した穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊と分けて行くと、部隊ごとに差はあるにしても一部隊の人数は2千人に達しない。この部隊単位で考えれば、織田軍の鉄砲が1000丁であったとしても、相対的に相当な数である(また、これとは別に徳川家の鉄砲も考慮に入れる必要がある)。

次に「鉄砲三段撃ち」であるが、これは映画『影武者』のラストシーンにも登場した有名な戦法である。しかし、実在は疑問視されている。『信長公記』では鉄砲奉行5人に指揮を取らせたとだけ書いてあり、具体的な戦法、つまり三段撃ちを行ったという記述はなく、最初の記述は江戸期に出版された通俗小説に見られる。それを、明治期の陸軍が教科書に史実として記載したことから、一気に「三段撃ち」説が広まったものとされる(これは「大日本戦史」として1942年に出版されている)。

ただ、先述のように信長がこの合戦に大量の鉄砲を持ち込んだことは疑いようがない。『信長公記』には、「武田騎馬隊が押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった」という鉄砲の打撃力を示す、恐ろしい描写がある。より具体的には「長篠の戦いの緒戦で、武田軍は家老山県昌景を一番手として織田陣営を攻め立てたに対し、織田軍の足軽は身を隠したままひたすら鉄砲を撃ち、誰一人前に出ることはなかった。山県隊はさんざん鉄砲に撃たれてほうほうの体で退却し、次に二番手、三番手と次々と新手を繰り出すが、それもまた過半数が鉄砲の餌食になった(要約)」とされる。ただし、#両軍の兵力数と損害数に記述されるように、本当にそれだけの損害を与えられたのかは別に疑問が残る。とはいえ、死なずとも負傷兵となれば、これを引かせる必要があり、負傷した人間と後送させるには、少なくとも1名、つまり計2人以上を前線から遠ざけることになる(この考え方は現代でも行われている)。具体的な運用法は不明だが鉄砲隊をある程度集中した部隊として機能させていれば、1度の射撃で部隊単位の戦力を大きく消耗させる事は不可能ではなく、結果的に三段撃ちが無くても、武田軍を消耗させる事は難しくないといえる。

武田軍が大敗した理由[編集]

武田軍が大敗した理由としては、通説では武田の騎馬隊は柵の前に攻撃力を発揮できず、また、鉄砲の時間差を見越して断続的に攻撃を仕掛けたが、織田軍の時間ロスを減らした三段撃ちによって被害を拡大させ、著しく戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされる。しかし、#織田軍の鉄砲数と三段撃ちに記述されるように三段撃ちは実在が疑わしく、また、武田軍は朝から昼過ぎまで数時間にわたって鉄砲の射程内に留まり、ひたすら掃射を受けていたこともおかしい(火縄銃の有効射程は50-100メートル)。『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあることから、いずれにしても通説は非常に疑わしい。

鉄砲による損害に関しては「三段撃ちこそ無かったものの、1000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないか」とする説がある(井沢元彦ほか)。過去に織田軍も雑賀鉄砲隊との戦いで、雑賀軍が狙撃主を秘匿するために行った囮の空砲の速射で大混乱に陥ったことがあり、当時の軍隊には鉄砲の一斉射撃や速射に高い威嚇効果があった可能性が高い。逆に武田軍はそれまで雑賀や根来のような鉄砲隊を主力とした軍隊と戦った経験はなく、過去に手痛い敗戦を被った織田軍よりも轟音対策が遅れていた面は否定できない。また、当時として異例の野戦築城は、それ自体が重要な史実であると同時に、当然武田軍にとって初めての経験であり、従来通りの野戦と騎馬隊突撃の戦術を用いたのが大敗の一番の理由とする説もある。

他に大敗の理由としては武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だったが、これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、有名なところではカンナエの戦い(陣形図など当該記事が詳しい)がある。これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術であるが、両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえ、左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していたのにもかかわらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君武田信豊)の早期退却による中央部の戦線崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)であり、中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多く、戦死した近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然であり、実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。

間接的ではあるが、鳶ヶ巣山への攻撃により退路を脅かされたため、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫されたことも大敗の重要な要因と考えられる。また、和暦の5月という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられている(特に信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだったので、晴れたのは珍しいことであった)(長篠日記・設楽史)。このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる。

武田騎馬軍団の存在[編集]

長篠の戦いにおける「武田の騎馬隊」に代表される戦国期の騎馬軍制の実態についての実在については近年軍事史的観点から注目され、様々な異論がある。

武田氏の本国である甲斐国では日本列島にウマと馬事文化が伝来した古墳時代から馬骨馬歯馬具の出土事例があり、古代には甲斐の黒駒伝承に象徴される名馬の産地で、御牧が経営され朝廷に貢馬を行っており、武田領国となった信濃国も馬産地として知られる。

馬骨は南アルプス市の百々遺跡や甲府市の武田氏館跡、朝気遺跡などで平安時代から中世の出土事例があり、いずれも体高の低い前近代の日本在来馬であることが確認される。戦国期においては馬骨や馬具・馬産遺物の出土事例が少なく実態は不明であるが、実質的には騎馬武者に率いられたその従者(武家奉公人)及び徴集された農兵による歩兵部隊であったと考えられている(これは当時の一般的な軍制である)。軍制上の最小単位は寄子であり、即ち寄子(騎馬武者)+郎党(武家奉公人)が基本的に最小運用単位となる。つまり、軍制上から単独兵科としての騎馬隊の編成は難しく、騎兵のみで部隊を構成したという事実は一部(塩尻峠の戦いなど)を除いて知られていない。

また、『甲陽軍鑑』にある各部将に付属される騎馬武者数を見ても主力と呼べるほどではなく、元亀2年の河窪信実に宛てた軍役定書でも騎馬3、鉄砲5、持鑓5、長刀5、長柄10、弓2、旗3となっている。つまり、騎馬率は1割を下回る。上杉氏の軍役帳、北条氏家臣の軍役をみても大体似たような割合であり、むしろ若干北条氏の騎馬率が高いくらいである。(騎馬隊#日本の騎馬隊も参照)

ただし、河窪信実の知行高は397貫程(石高換算で794石)であり、この数字は当時の武田家の100万石余のうちの1300-1500分の1に当たるひとつのサンプルでしかない。そのため武田家中の武将の賦課内容全てが上記の割合と同じと見るのは不自然であり、むしろ武将ごとの賦課内容に偏りがあったと見るのが自然である。もし長篠の戦いにおける武田軍1万5000に河窪信実の賦課内容をそのまま当てはめた場合、武田軍の鉄砲の数が2100を超える数に上ってしまう。仮に織田軍の鉄砲数が前述の1000丁だった場合、武田軍の方が鉄砲数で織田軍を大きく上回っていたことになり、長篠の戦いにおける大前提が根本から覆ってしまう。一方で、『甲陽軍鑑』の『品第十七 武田法性院信玄公御代総人数事』の部分では武田家の騎馬兵力は約9千騎強と記述しており、この数は武田家の最大動員数3万の内の3割程度に上る。『甲陽軍鑑』は余り信用できないとする意見もあるが、仮に9千騎強が誇張だとして実際の数が3分の1から半分程度だとしても3万の内の1割から1割5分の割合に上る。以上の観点から武田軍の騎馬率が1割を下回るという見方が必ずしも正しいとはいえない。

馬の質にも注意が必要である。当時の日本にはまだアラブ種サラブレッドが存在せず、日本在来馬しかいなかった。日本在来馬は体高[24]125cm~135cm・体重350kg~400kgとサラブレッドより一回り小柄なポニーで、サラブレッドなどの近代軽種馬に比べて骨や蹄が堅く、後ろ脚が発達していて体格の割に力が強いのが特徴で、荒地や傾斜地の歩行を苦にせずに骨折などの事故もあまり起こさないため険しい山道での運用に適していたとされる。走行速度は通常の騎馬騎乗で時速40km[25]だが、武装した人間が騎乗した状態では平均の時速が15~30km前後[26]となり、おおよそ歩兵の2倍程度の速さであった。[27]火縄銃の有効射程距離は100メートル前後で発射間隔が早くても30秒程度であることを考えた場合、時速15km[28]の速さがあれば約24秒で100メートルの距離を詰めることが可能なので日本在来馬の速度は十分実用に耐えうるレベルに達している。また、本来武士はこの在来馬を用いて戦場を駆け巡っており、代々騎射の武芸が武士の真骨頂であった。

色々な説があるものの、この戦いでは馬防柵を構築していたことや、直前の5月18日付けで徳川家康より家臣宛に「柵等よく念を入れて構築するように。(武田方は)馬一筋に突入してくるぞ」という趣旨の命令書を発していること、信長公記に「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまく、この時も馬を使ってかかってきた」と書かれていることなどから、連合軍が武田の騎馬隊を注意深く警戒していたのは事実である。

絵画における長篠合戦[編集]

近世期には屏風絵において軍記類の記述に基づき著名な戦国合戦の様子を描いた戦国合戦図屏風が製作され、長篠合戦図屏風は12の作例が知られる[29]

現存する作例のうち原本を考えられているものが尾張徳川家の附家老で犬山藩主の成瀬氏に伝来した「長篠合戦図屏風」(犬山城白帝文庫所蔵、公式サイトに解説あり)で、成瀬本は六曲一双の本間屏風で「長久手合戦図屏風」と対になる。長篠合戦図は右隻となる。紙本着色、寸法は縦165.2センチメートル、横350.8センチメートル。

画面構成は右端の一扇目には大野川・寒狭川に画された長篠城と城将である奥平貞昌の姿が描かれ、右下には鳶ノ巣山砦が描かれている。ニ扇目には武田勝頼の本陣が描かれ、上部には馬場信春の最期が描かれている。第三、四扇目には設楽原における決戦の様子が描かれ、馬防柵に守られた徳川勢の鉄砲隊と突撃する山県昌景の騎馬隊が描かれている。第五、六扇目には織田・徳川勢の本陣が描かれ、信長や家康のほか羽柴秀吉や滝川一益ら諸将の姿が描かれているが、特に徳川勢の布陣が大きく描かれ成瀬氏の始祖である成瀬正一のほか徳川家の譜代家臣の諸将が描かれている。

描かれている諸将の配置や場面の構成から成瀬本には元和8年(1623年)には刊本が刊行されている小瀬甫庵『信長記』や同じく元和年間に成立している『甲陽軍鑑』の影響下に描かれている点が指摘されている。成瀬家の言い伝えでは江戸初期の作というが、樹木や人物表情の描写から17世紀の後半延宝頃と考えられる。

大阪城天守閣徳川美術館公式サイトに解説)も「長篠合戦図屏風」を所蔵しているが、これらは成瀬家本を写したもので、自然描写から大阪城天守閣本は成瀬家本からさほど下らない時期、徳川美術館本は江戸時代後期に描かれたと推測される。なお、名古屋市美術館本(文化庁オンラインに解説)は、絵画様式から見て成瀬本より古いと見られ、17世紀前半元和から寛永前期頃の狩野派絵師で、同時代の中では世代が古い絵師の作と考えられる[30]

関連項目[編集]

小説[編集]

  • 伊東潤 『天地雷動』(2014年4月 角川書店)

脚注[編集]

  1. ^ 織田3万+徳川2千以上(信長公記)、7万2千(徳川実紀)、10万余(三河物語)
  2. ^ 1万5千(信長公記)、2万余(徳川実紀・三河物語)
  3. ^ 討死約1万+川で溺死した者と逃げて山中で餓死した者限り無し(信長公記)、数千騎(兼見卿記)、千余(多聞院日記)、1万3千(徳川実紀)
  4. ^ 【換暦】暦変換ツール
  5. ^ なお従来の西上作戦とは、元亀2年における三河・遠江への大規模な侵攻とされていたが、近年では文書の再検討により三河・遠江侵攻に関する文書の年代比定は“元亀2年(1571年)から天正3年(1575年)”に修正され、一連の経緯は長篠の戦いに関するものである可能性が考えられている(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』岩波新書、2007、柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007、柴「長篠合戦の政治背景」『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』武田氏研究会編、2010、柴「長篠合戦再考-その政治的背景と展開-」 『織豊期研究』12号、2010)。
  6. ^ 勝頼期の外交については丸島和洋「武田勝頼の外交政策」『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007
  7. ^ (信長公記8巻『三州長篠御合戦の事』より)志多羅の郷は、一段地形くぼき所に候。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。
  8. ^ 海外における野戦築城の中で同様に鉄砲を用いた例として、これ以前としては1503年の第一次イタリア戦役や、1522年の第二次イタリア戦役が挙げられる。
  9. ^ 海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることもある。 名和弓雄『長篠・設楽原合戦の真実 甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか』(雄山閣出版、初版、1998)253頁
  10. ^ ちなみに信長公記では「勝頼が川を越えずに鳶の巣山に布陣していたら、織田方はどうしようもなかった」とも書いている。
  11. ^ 信長公記8巻より。
  12. ^ 信長公記
  13. ^ 『常山紀談』巻之四「酒井忠次鴟巣城を乗り取られし事」”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
  14. ^ 高野山過去帳類においては市川昌房、三枝昌貞、真田信綱・昌輝、津金美濃守、祢津月直、馬場玄蕃、山県源左衛門尉、山県昌景、山県昌次などの戦死者が確認される。
  15. ^ 文書上では同年6月2日には甲府への帰陣が確認される(『戦国遺文』武田氏編 - 2495号・3704号)。高坂昌信はこの時勝頼に敗軍の将を感じさせないために立派な武具に着換えさせたという。
  16. ^ 近年は高野山成慶院所蔵の『甲斐国過去帳』や『武田家過去帳』などが紹介され、合戦のあった天正3年に多くの将士が死去していることが確認されている。
  17. ^ 上杉景虎は相模国主北条氏政の弟。武田氏と北条氏の甲相同盟は永禄11年(1568年)の武田氏の今川領国侵攻に際して破綻し、北条氏は上杉氏と越相同盟を結び武田氏に対抗し、景虎はその際に養子として上杉家に出されていた。その後、甲相同盟が回復し北条氏と上杉氏の関係は悪化していたが、景虎は上杉家に留まり続けていた。
  18. ^ 甲陽軍鑑は江戸時代の元和年間に原本が成立した軍学書で、信玄・勝頼期の事績が記されている。内容は年紀の誤りや文書上から否定される、あるいは確認されない事実を数多く含むため慎重視されているが、信玄・勝頼期の歴史的背景を反映している可能性も指摘されている。
  19. ^ 丸島和洋「武田氏の領域支配と取次-奉書式朱印状の奉者をめぐって-」平山優・丸島編『戦国大名武田氏の権力と支配』岩田書院、2008年
  20. ^ 『武家事紀』巻第十三”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
  21. ^ 『常山紀談』巻之四「佐久間信盛偽りて勝頼に降る事」”. 近代デジタルライブラリー. 2013年10月30日閲覧。
  22. ^ 高澤等『新・信長公記』ブイツーショリューション、2011年
  23. ^ 平山優「武田信玄の家臣団編成」『新編武田信玄のすべて』
  24. ^ 地面から肩までの高さ
  25. ^ ポニーの速度記述部分を参照
  26. ^ 「時代考証 おもしろ事典 TV時代劇を100倍楽しく観る方法」著者・山田順子
  27. ^ サラブレッドの走行速度は、競馬騎乗(武装していない軽量の人間が騎乗した状態)で最高60~70kmほどである。
  28. ^ 秒速に換算して約4.2メートル/秒
  29. ^ 和歌山県立博物館編集・発行 『戦国合戦図屏風の世界』(1997年10月、p.153)に12点の所在一覧表がある。
  30. ^ 本項目は、桑田忠親他編集 『戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』を参照、中央公論社、1980年、普及版1988年 ISBN 978-4-12-402721-1

外部リンク[編集]