竹田城
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竹田城 (兵庫県) |
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竹田城
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| 通称 | 天空の城、虎臥城 |
| 城郭構造 | 連郭式山城 |
| 天守構造 | なし |
| 築城主 | 山名持豊(宗全) |
| 築城年 | 1431年(永享3年) |
| 主な改修者 | 羽柴小一郎長秀(秀長) |
| 主な城主 | 太田垣氏(山名系) |
| 廃城年 | 1600年(慶長5年) |
| 遺構 | 石垣、堀、井戸 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 位置 | 北緯35度18分1.89秒 東経134度49分44.09秒 |
竹田城(たけだじょう)は、兵庫県朝来市和田山町竹田にあった中世山城。
目次 |
[編集] 概要
縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 室町時代・安土桃山時代
但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設された。 築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441~43年)と伝えられる。当初は土塁造りの城郭であったが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。修復には13年の年月を要し、賦役のため農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったり、村中が夜逃げするところもあったと伝えられる。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。
山名氏のもとでは山名四天王の太田垣氏が配された。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に撃退した。しかし、羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により落城。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえた。
その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となるが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となる。
最後の城主である赤松広秀(斎村政広)は関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。
[編集] 現代
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
[編集] 歴代城主
- 太田垣光景(1443年(嘉吉3年)~1465年(寛正6年))
- 太田垣景近(1465年(寛正6年)~1479年(文明11年))
- 太田垣宗朝(1479年(文明11年)~1521年(大永元年))
- 太田垣宗寿(1521年(大永元年)~1538年(天文7年))
- 太田垣朝延(1538年(天文7年)~1570年(元亀元年))
- 太田垣輝延(1570年(元亀元年)~1577年(天正5年)?)
- 城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年)~1580年(天正8年))
- 桑山重晴(1580年(天正8年)~1585年(天正13年))
- 赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年)~1600年(慶長5年))
[編集] 現地情報
[編集] 交通アクセス
- 鉄道
- 道路

