宮沢賢治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 |
| 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
宮沢賢治(宮澤賢治)(みやざわ けんじ、1896年8月27日 (戸籍上は1896年8月1日)- 1933年9月21日)は、日本の詩人・童話作家・農業指導家・教育者。 郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の地名、理想郷を「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov)(イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。 その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家とされるようになった。
目次 |
[編集] 年譜
- 明治29年(1896年)8月27日 、岩手県稗貫郡里川口村(のちに花巻川口町から花巻町を経て、現・花巻市)に質・古着商の宮澤政次郎(1874年 - 1957年)とイチ(1877年 - 1963年)の長男として生まれ、戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされた。
- 明治36年(1903年)、花巻川口尋常高等小学校に入学。エクストル・マロの『家なき子』などの童話を好み、石や昆虫を採集し、綴り方に長じていた。鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」と呼ばれる。父と有志が始めた「我信念」と題する仏教講話に参加。
- 明治42年(1909年)、旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。鉱物採集に熱中。「HELP」のあだ名がつく。岩手山をはじめ、山登りにも熱中する。哲学書を愛読。在学中に短歌の創作を始める(学校の先輩である石川啄木の影響が推測されている)。家庭の方針で進学の見込みがほぼなかったためか、教師への反抗的態度をみせ、大正2年(1913年)、寄宿舎の新舎監排訴の動きにより退寮となり、盛岡の寺院に下宿する。
- 大正3年(1914年)、盛岡中学卒業。肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院(現・岩手医科大学付属病院)に入院。このとき、看護婦に恋心を抱くが片思いに終わる。また看病していた父も病に倒れて父子共々入院することになった。退院後自宅で店番などするが、その生気の無い様子を憂慮した両親が上級学校への進学を許可する。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、体が震えるほどの感銘を受ける。
- 大正4年(1915年)、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学。関豊太郎教授の指導の下で地質調査研究をする。大正6年(1917年)、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行と同人誌『アザリア』を創刊。短歌・小文などを発表する。
- 大正7年(1918年)、3月、得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し卒業。4月、研究生となる。徴兵検査の結果、第ニ乙種で兵役免除となる。この間、『アザリア』同人の保阪嘉内が同誌に掲載した文章が原因で退学となり、以後数年間に渡って保阪との親交を深める。家族の証言等からこの年から童話の創作が始まったと推定される。
- 大正8年(1919年)、前年末に日本女子大学校生の妹トシが病気となり母とともに東京で看病する。この滞京中に友人宅で萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会い感銘を受ける。また、東京での人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。トシ回復とともに岩手に戻る。
- 大正9年(1920年)、研究生を卒業。関教授からの助教授推薦の話を辞退。10月国柱会に入信。自宅で店番をしながら、信仰や職業をめぐって父と口論する日々が続く。保阪嘉内には国柱会の入信を手紙で強く勧めたが、宗教では貧しい農民を救済できない とする保阪に、信仰の「観念性」を徹底的に論破され決裂(7月18日)。
- 大正10年(1921年)、1月23日家族に無断で上京し鶯谷の国柱会館を訪問。本郷菊坂町に下宿する。学生向けの謄写版制作の職に就きながら、盛んに童話の創作をおこなう。また、国柱会の街頭布教にも参加。夏にトシ発病のため岩手に帰る。11月、稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)教師となる。翌年11月にトシ病死。
- 大正12年(1923年)、8月、教え子の就職斡旋の名目で樺太を訪問。その真の目的は妹トシの魂との交感を求める旅行であった。この旅行をモチーフとした多くの詩を作る。
- 大正13年(1924年)、4月、心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。辻潤が同詩集を賞賛。農学校生徒と演劇を上演、一般公開。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行。
- 大正14年(1924年)、7月から草野心平と書簡を通じた親交を開始。草野編集の文芸誌『銅鑼』に詩を発表。
- 大正15年(1926年)、3月末で農学校を退職。羅須地人協会を設立し、農民芸術を説いた。12月に上京し、タイピングやエスペラント、オルガンやセロを習う。このとき、フィンランド公使ラムステットの講演に参加し、ラムステットと会話を交わした。またヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者であった。以降、農業指導に奔走。
- 昭和2年(1927年)、2月、羅須地人協会の活動に関して警察の聴取を受けたことから協会の活動を停止。花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成する。
- 昭和3年(1928年)、6月、農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。この旅行を題材にした詩群『三原三部』『東京』を制作。夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となる。この間、療養生活を綴った詩群『疾中』などを創作。
- 昭和6年(1931年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動もおこなった。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
- 昭和8年(1933年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯、独身であった。死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
[編集] 作品と評価
生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品も少ないながら存在する(『やまなし』『グスコーブドリの伝記』など)。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪わたり』で得た5円だけであったといわれる。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から、主に草野心平の尽力により多数の作品が刊行された。また、何度も全集が刊行された。(主な作品は次項参照)
広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神である。 また、作者の芸術の根底には幼い頃から親しんだ仏教の強い影響もある。その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられるが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信するが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いであったので、父親との対立を深めることとなった。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われる。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えた。
なお、特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である。それは作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。
賢治の作品にはコスモポリタン的な雰囲気があり、軍国的要素やナショナリズム的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について、当時のファシズム的風潮との関連も議論されている。また、当時流行した社会主義思想(親友・保阪嘉内など)やユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場(有島武郎)」、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土(農本主義者・加藤完治や、国柱会の石原莞爾)」など)の社会思潮の影響を考えるべきであるという見解も見られる。晩年には遺作『銀河鉄道の夜』に見られるようにキリスト教の救済信仰を取り挙げ、全人類への宗教的寛容に達していたことがうかがえる。 戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムや平和主義的側面が注目され、特に近年はエコロジー思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。
賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくなかった。この点から賢治は「最終的な完成」がない特異な創作概念を持っていたという見方があり、自身が書き残した『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述がある。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度もの修正の跡が残されて全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくなかった。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973~77年)が刊行され、作品内容の整理が図られた。
[編集] 異性関係
上記の通り賢治は生涯独身であり、童貞であったとする見方も強い。しかし、性に対して無知であったわけではなく、ヘンリー・ハヴェロック・エリスの著書などによって当時の性に関する科学的知識を持っていた。農学校教師の時代に、収集した浮世絵春画を生徒や同僚に見せたというエピソードもそうした一面の反映である。知人の結婚を助力したことも伝えられており、「禁欲」と「独身」は様々な理由(患っていた肺結核を含む[1])から賢治が積極的に選び取った生き方であった。こうした賢治の性に関する考え方については押野武志『童貞としての宮沢賢治』(ちくま新書、2003年)に詳しい。
盛岡中学校卒業後に岩手病院で恋心を抱いた看護婦を始め、賢治と関わりのあった女性が少ないながらも存在する。農学校退職後の「羅須地人協会」時代に賢治に敬意を抱いて接した高瀬露は、彼女の没後の1970年代にその名前も含めて公になり、1996年に製作された伝記映画にも登場した[2]。1928年6月に伊豆大島で農業指導をした伊藤七雄の妹である伊藤チヱは、密かに見合いの相手と目されていたともいわれている(同年春に兄妹で花巻を訪れて賢治とは面識があった)。だが、いずれのケースも「男女交際」には至らずに終わっている。
[編集] エピソード
- 賢治は熱心な音楽好きであり、暇を見つけてはレコードを買っていた。あまりにも賢治がレコードを買っていくため、賢治が行きつけのレコード店のレコード売り上げが異常に上がり、結果イギリスに本社を置くポリドール・レコードから表彰された。
- 浅草オペラのファン(ペラゴロ)で、上京した際には、しばしば観劇した。当時の浅草オペラの役者だった田谷力三らの名前を織り込んだ詩「函館港春夜光景」も残している。
- 教師時代、賢治はよく『ブッシュに行くぞ』と言って、生徒を花巻市内のそば屋『やぶ屋』へと連れ出していた(『薮(やぶ)』の英訳が『ブッシュ』)。そこでは必ず天ぷらそばと三ツ矢サイダーを注文していた。なお『やぶ屋』は現存しており、同店のホームページに賢治の逸話が掲載されている。[2]なお、このエピソードでも分かる通り、一般にベジタリアンであったとされる賢治ではあるが、それは必ずしも生涯一貫したものではなかった。
[編集] 主な作品リスト
[編集] 童話
※は生前発表作品
- 『銀河鉄道の夜』
- 『風の又三郎』
- 『ポラーノの広場』
- 『グスコーブドリの伝記』※
賢治が自作の童話の題名を列記したメモが多数残っている(自選の作品集を構想していたとも言われている)が、そのうちの数点で、上記の4作品が「少年小説」あるいは「長篇」として一括りにされている。
- 童話集『注文の多い料理店』※所収
- 『よだかの星』
- 『カイロ団長』
- 『ツェねずみ』
- 『雁の童子』
- 『雪わたり』※
- 『やまなし』※
- 『氷河鼠の毛皮』※
- 『シグナルとシグナレス』※
- 『オツベルと象』※
- 『ざしき童子のはなし』※
- 『猫の事務所』※
- 『ビジテリアン大祭』
- 『土神ときつね』
- 『楢ノ木大学士の野宿』
- 『マリヴロンと少女』
- 『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』
- 『虔十公園林』
- 『なめとこ山の熊』
- 『北守将軍と三人兄弟の医者』※
- 『セロ弾きのゴーシュ』
[編集] 詩
題名が〔〕で括られているものは、原稿の最終形が無題のため、冒頭の1行を題名の代わりにしているものである。また、題名の前の漢数字は、賢治が原稿に記載していた作品番号である。
- 『心象スケッチ 春と修羅』所収
- 『序』
- 『屈折率』
- 『春と修羅』
- 『真空溶媒』
- 『小岩井農場』
- 『岩手山』
- 『高原』
- 『原体剣舞連』
- 『永訣の朝』
- 『無声慟哭』
- 『青森挽歌』
- 「春と修羅 第二集」所収
- 『一六 五輪峠』
- 『一九 晴天恣意』
- 『一六六 薤露青』
- 『三一三 産業組合青年会』
- 『三一四 〔夜の湿気と風がさびしくいりまじり〕』(生前発表形題名『業の花びら』)
- 『三八四 告別』
- 「春と修羅 第二集補遺」所収
- 『葱嶺先生の散歩』
- 「春と修羅 第三集」所収
- 『七〇九 春』
- 『一〇〇八 〔土も掘るだろう〕』
- 『一〇八二 〔あすこの田はねえ〕』
- 『一〇二〇 野の師父』
- 『一〇二一 和風は河谷いっぱいに吹く』
- 『一〇八八 〔もうはたらくな〕』
- 「口語詩稿」所収
- 『第三芸術』
- 『火祭』
- 『牧歌』
- 『地主』
- 『夜』
- 「疾中」所収
- 『病床』
- 『眼にて云う』
- 『〔丁 丁 丁 丁 丁 〕』
- 『〔風がおもてで呼んでいる〕』
- 『〔疾いま革まり来て〕』
- 『〔手は熱く足はなゆれど〕』
- 『夜』
- 「補遺詩篇I」所収
- 『〔雨ニモマケズ〕』
- 「文語詩稿 五十篇」所収
- 『〔いたつきてゆめみなやみし〕』
- 『〔水と濃きなだれの風や〕』
- 「文語詩稿 一百篇」所収
- 「文語詩未定稿」所収
- 『星めぐりの歌』(後に東北新幹線・新花巻駅到着時の車内チャイム、通称「ふるさとチャイム」に採用された。)
- 『精神歌』
- 『ポラーノの広場のうた』
- 『双子の星』
[編集] その他
- 『手紙 四』
- 『農民芸術概論綱要』
- 『竜と詩人』
- 『私は五聯隊の古参の軍曹』
- 第一次世界大戦時にイギリス軍で歌われた「ティペラリーの唄」の替え歌。劇「飢餓陣営」をテーマにしている。
[編集] 映像作品
※作品を映像化したものについては、該当作品の項目を参照。
- 『宮澤賢治-その愛-』 - 映画(1996年)監督:神山征二郎 脚本:新藤兼人 宮澤賢治:三上博史
- 『わが心の銀河鉄道~宮沢賢治物語』 - 映画(1996年) 監督:大森一樹 宮澤賢治:緒形直人
- 『イーハトーブ幻想~KENjIの春』 - テレビアニメ(1996年) 監督:河森正治
[編集] 出典・脚注
- ^ 吉田司『宮澤賢治殺人事件』(太田出版、1997年)第5章参照。当時の結核患者は厳しい差別対象であり、患者とその家族は病名を固く伏せ、他者へ感染しないように気を遣って生活しており、それが結婚の話を固持する原因になったという。また、高等農林の研究生時代に医師から「今の生活を続けるとあと15年ほどしか生きられない」と診断された(実際の没年もそうなった)こともあり、賢治自身が長生できないと認識していた可能性も指摘されている。
- ^ 賢治と親交のあった森荘已池らが高瀬のエピソードを記しており、映画の描写もそれらに基づくが、その内容に信憑性の点で問題のあることが研究者の上田哲(元国会議員の上田哲とは別人)によって指摘されている。これについてはこちらの外部リンクも参照。[1]
[編集] 関連項目
- 日本文学
- 幻想文学
- 童話
- 児童文学
- イーハトーブ
- 法華経
- 国柱会
- ヴェジタリアン
- 岩手県出身の人物一覧
- 斎藤宗次郎…賢治と親交のあったクリスチャン。『雨ニモ負ケズ』モデル説がある。
- 森荘已池
- 東北砕石工場
- 種山ヶ原
- エスペラント
- 桜地人館
- 天沢退二郎
[編集] 外部リンク
- 宮沢賢治記念館
- 宮沢賢治学会イーハトーブセンター
- 森羅情報サービス - 賢治の大半の作品のテキストを掲載している。
- 宮沢 賢治:作家別作品リスト(青空文庫)
- 宮沢賢治推奨サイト
- 聖人・宮沢賢治



